カトリック教会も、「感染しない、感染させない」を基本に、一日も早くこの事態が終息するように、責任ある行動をとりたいと思います。 現在、東京教区(東京都、千葉県)のカトリック教会において「公開」のミサが中止されています。期限は定めておらず、「当面の間」としています。少なくとも緊急事態が宣言されている間はこのままの状態を維持し、それ以降もしばらくは状況を見極める必要があると思います。明日、4月27日(月)に、そのような内容で、教区の皆さん宛の私からのメッセージを、教区ホームページ上の文書とビデオで公表する予定です。
(「公開」のミサとは、不特定多数の方が自由に参加できるミサのことです。司祭は自らの務めとしてミサを捧げていますが、現時点でそれらはすべて「非公開」です。信徒の方が参加することはできません。また東京教区にある教会では、人数にかかわらずすべての会合や行事を中止にしています。)
*以下、本日のミサの説教の原稿です。復活節第三主日 東京カテドラル聖マリア大聖堂(配信ミサ) 2020年4月26日
4月7日に緊急事態が宣言されて、間もなく三週間となります。諸外国と比較すれば、それほど強い規制ではありませんが、それでも日常の生活の営みの様々な側面で自粛が要請され、普段とは異なる生活が展開されています。
もし安全な逃れ場があるのだとしたら、この混乱する現実に背を向けて、そこへと逃げ出してしまいたくなりますが、目に見えずに忍び寄るウイルスはどこにいるの分からず、感染しないだけでなく、感染させないためにも、私たちはこの場に踏みとどまらなくてはなりません。
混乱のさなかにあっても、命を守るために日夜懸命に働いている医療関係者に感謝しながら、その健康のために祈ります。また病気の苦しみの内にある人に、神の癒やしの手が差し伸べられるように、心から祈ります。一日も早くこの事態が終息し、希望に満ちた社会が取り戻されるよう、祈ります。
今般の事態によって、健康の側面から不安を抱える方々や、経済活動の自粛が続く中で経済的側面から困難に直面しておられる方々もおられ、世界各地でいのちの危機が発生しています。教会のカリタスジャパンでも、国際カリタスとの連携の中で、国内外で命を守るための活動を支援する目的で、募金を開始しました。
さて、先に読まれたルカ福音書では、その日(注:イエスが亡くなって三日目、週の初めの日)の夕方、師であるイエスが十字架上で殺され、弟子たちが大きく動揺する中で、そのうちの二人が、現実に背を向け、安心を求めて、エルサレムを出、エマオへと向かっている場面を語っています。
この二人について、2018年に「若者、信仰、そして召命の識別」をテーマに開催された世界代表司教会議(シノドス)の最終文書は、「起きている出来事の意味を理解できないまま、エルサレムと共同体を離れて行こうとしている二人の弟子」と形容します。(4)
二人の弟子は、自らの生命が危険に直面している、という恐怖と、頼りにしていた指導者が突然奪い去られたことによる混乱の中で、考えることといえば、いきおい自分の安全安心のことばかりになってしまう。だから、落ち着いて、それまでを振り返り、いったい、それまでイエスによって何が教えられていたのか、証しされてきたのか、そして今起こっていることの意味は何なのか、見つめ直す心の余裕がありません。
世界代表司教会議の最終文書は、次のように続けます。
「二人の弟子とともに、イエスは歩いておられます。彼らと一緒にいようとして、彼らとともにその道を歩んでおられます。イエスは、彼らが何を体験しているのか気付けるよう手を貸そうと、出来事についての彼らの見解を尋ね、辛抱強く耳を傾けておられます」
この会議を受けて発表された使徒的勧告「キリストは生きている」で教皇フランシスコは、「イエスに対する信仰とは、イエスと出会って真の友情を深めることだ」として、こう指摘されます。
「イエスとの友情は揺るぎないものです。黙っておられるように見えたとしても、この方は決して私たちを放ってはおかれません。私たちが必要とするときにはご自分と出会えるようにしてくださり、どこへ行こうともそばにいてくださいます」(154項)
世の終わりまで私たちと共にいてくださると弟子たちに約束された主は、今日もまた、私たちと歩みを共にしてくださいます。混乱の中で、どこかへ逃げていくこともできずに立ちすくんでいる私たちと、一緒にいてくださいます。
エマオへと向かう二人の弟子と歩みを共にし、その話に辛抱強く耳を傾けたように、主は今日も、混乱の中にある私たちと共にいて、辛抱強く私たちの叫びに耳を傾け、いったい今の現実から何を学ぶことができるのか、私たちが気づくように手助けしようとされています。
私たちを友情の固い絆のうちに結び合わされた主は「黙っておられるように見えたとしても」、必ずや共にいてくださるー私たちはそう信じています。
共にいてくださる主は、混乱と不安の中にある私たちに、「落ち着いて信仰の目を持って現実を見つめ直すように」と呼びかけておられると、私は思います。
この数か月、私たちは「人生に不可欠だ」とこれまで信じていたことを、制約されたり失ってしまいました。そんなことは不可能と思われた、イベントの延期や中止、また多くの業種での休業や自宅での仕事も、命を守るために実現しています。教会も例外ではなく、インターネットの配信を通じて祈りを捧げたりすることが、普通の風景となりつつあります。
失ったり制約されたことで、すべてが不必要だったと結論づけることはできませんが、いまは、これまでの社会のあり方を見つめ直し、評価する「時」でもある、と感じています。
インターネットでミサを配信することで、即座に、「もう教会の建物はいらない、教会はバーチャルで充分だ」と結論づける誘惑もありますが、私は、教会共同体の意味を、改めて、落ち着いて、見つめ直す機会が与えられている、と思っています。
ただ単に、日曜日にミサに出ればそれで終わり、の教会ではなくて、日常生活の直中で、人間の命の営みに直接関わる教会のあり方を、改めて模索する機会を与えられていると思います。信仰は生きています。
教皇フランシスコは「キリストは生きている」の中で、聖オスカル・ロメロ大司教の、いかにも聖人らしい次の言葉を引用しています。
「キリスト教は、信じるべき真理、守るべき法規、禁止事項のひとそろい、ではありません。そうなったら不快です。キリスト教とは、私のことをあれほどまでに愛してくださり、私に愛を求めておられる、あの方のことです。キリスト教とは、キリストのことなのです」(156項)
使徒言行録の中でペトロは、ダビデの言葉の引用として、力強くこう宣言しています。
「主が私の右におられるので、私は決して動揺しない」
不安の中にたたずんでいる私たちと、常に共にいてくださる主イエス。いつも傍らにおられる主は、私たち一人ひとりに、この混乱の中で、どのように生きることを求めておられるのか、心静かに、祈りの中で主の声に耳を傾けたいと思います。
先ほどの世界代表司教会議の最終文書の続きには、こう記されています。
「耳を傾けてもらうことで、彼らの心は熱くなり、頭がさえ、パンの分割によって、その目は開かれます。彼らはすぐさま踵を返して、共同体に戻り、復活した主との出会いの体験を分かち合うことを、自らの手で選び取るのです」
不安を抱え混乱する中で希望につながる道を探しあぐねている今の社会には、「ののしり合う対話」ではなく、「耳を傾け合う対話」が必要です。共に道を歩んでいく辛抱強さが必要です。同じ神から命を与えられた兄弟姉妹としての、友情の絆と連帯が必要です。
教会共同体は、その中にあって、神との一致だけでなく、全人類の親密な一致の「しるしであり道具である」という自覚を、新たにしたいと思います。
とりわけ、感謝の祭儀において、聖体のうちに現存される主との一致を求める時、私たちは、主イエスとの友情の絆に結ばれて、全人類の一致と連帯の実現を目指して、社会の直中にある希望のしるしとなりたい。そう思います。