・「苦しむ世界に、神の愛と慈しみを証ししよう」菊地・東京大司教の復活節第二主日(神の慈しみの主日)に

4月19日・復活節第二主日に(菊地・東京大司教「司教の日記」より)

 復活節第二主日は、教皇ヨハネパウロ二世によって、「神の慈しみの主日」と定められています。説教の中でも触れましたが、ポーランドの聖女、聖ファウスティナへのメッセージに基づいて、聖女の列聖式が行われた2000年の大聖年に定められました。

 1931年2月22日に、聖女に表されたビジョンに基づいて描かれた「主イエスの慈しみ」の絵は有名です。東京カテドラルではオリジナルの模写が、地下聖堂祭壇横に安置されておりますし、聖ファウスティナの聖遺物が大聖堂右側に、聖ヨハネパウロ二世の聖遺物と共に、安置されています。

 聖ファウスティナの日記にはこう記されています。

 「夕方、修室にいた時、白い衣服を着ていらっしゃる主イエスを見ました。片方の手は祝福を与えるしぐさで上げられ、もう片方の手は胸のあたりの衣に触れていました。胸のあたりでわずかに開いている衣服の下から、ふたつの大きな光が出ていましたが、一つは赤く、もう一つは青白い光でした。沈黙のうちに主を見つめていました。しばらくして、イエスはわたしに言われました。「あなたが今見ている通りに絵を描きなさい。その下に『イエス、わたしはあなたに信頼します』という言葉を書きなさい。わたしのこの絵が、まずあなたたちの聖堂で、そして世界の至る所で崇められることを望む。」(『聖ファウスティナの日記―私の霊魂における神のいつくしみ―』聖母の騎士社、より)

 以下、本日の10時からの配信ミサの説教の原稿です。

復活節第二主日 東京カテドラル聖マリア大聖堂(配信ミサ) 2020年4月19日

 「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」と福音には記されていました。

 そして今、同じように、私たち現代に生きる弟子たちも、感染症拡大の直中で恐れを抱いて、閉じこもっています。

 その日、弟子たちは頼るべきで師であるイエスを失った喪失感と、自分たちもまた、同じように命を奪われるのではないかという恐れにとらわれていました。

 そして今、同じように、私たちは、感染症の拡大の中で、それが命を奪ってしまう可能性が少なくない事実を目の当たりにして、恐れています。

 恐れおののく弟子たちにそうされたように、今日また私たちは、主ご自身が私たちと共におられて「あなた方に平和があるように」と語りかけてくださることを信じています。

  それは例えば、命の危機に直面する人たちを一人でも救うために、日本で、そして世界中で、日夜懸命に働いておられる医療関係者の方々の存在を通じて、命の与え主である主は「あなた方に平和があるように」と語りかけておられるように感じています。困難な事態の中で、希望と平和をもたらす医療関係者の働きに感謝すると共に、その健康のために祈ります。

 教皇ヨハネパウロ二世は、2000年に行われた聖ファウスティナの列聖式の説教で、復活された主が弟子たちに現れたこの出来事を取り上げ、「人類は、復活のキリストがお与えになる聖霊に、触れてもらい、包んでいただかなければなりません。心の傷を癒やし、私たちを神から引き離し、私たち自身を分断する壁を打ち壊し、御父の愛の喜びと兄弟的一致の喜びを取り戻してくださる方は、聖霊です」と述べています。

 復活節第二主日は、教皇ヨハネパウロ二世によって、「神の慈しみの主日」と定められました。「人類は、信頼を持って私の慈しみへ向かわない限り、平和を得ないであろう」という聖ファウスティナが受けた主イエスの慈しみのメッセージに基づいて、神の慈しみに身を委ね、それを分かち合うことの大切さを、改めて黙想する日であります。

 2005年4月2日に帰天された教皇は、その翌日の神の慈しみの主日のために、メッセージを用意されていました。そこにはこう記されていました。

 「人類は、時には悪と利己主義と恐れの力に負けて、それに支配されているかのように見えます。この人類に対して、復活した主は、ご自身の愛を賜物として与えてくださいます。それは、赦し、和解させ、また希望するために魂を開いてくれる愛です。」

 1980年に発表された回勅「慈しみ深い神」で、教皇はこう指摘されています。

 「愛が自らを表す様態とか領域とが、聖書の言葉では「哀れみ・慈しみ」と呼ばれています」(慈しみ深い神3)

 その上で、「この愛を信じるとは、慈しみを信じることです。慈しみは愛になくてはならない広がりの中にあって、いわば愛の別名です」(慈しみ深い神7)と言われます。

 すなわち、「悪と利己主義と恐れの力に負けて」いる人類に、「赦し、和解させ、また希望するために」心に力を与えてくれるのは、神の愛であり、その愛が目に見える形で具体化された言葉と行いが、神の慈しみである、と指摘されています。

 同時に教皇は、「哀れみ深い人々は幸いである、その人たちは哀れみを受ける」という山上の垂訓の言葉を引用しながら、「人間は神の慈しみを受け取り経験するだけでなく、他の人に向かって、『慈しみをもつ』ように命じられている」と、神の慈しみは一方通行ではなくて、相互に作用するものだとも語ります。(慈しみ深い神14)

 信仰における同じ確信を持って、教皇フランシスコは「福音の喜び」にこう記していました。

 「教会は無償の哀れみの場でなければなりません。」(114)

 誰一人排除されてもいい人はいない。誰ひとり忘れ去られてもいい人はいない。それは、神がすべての命を愛しておられ、その慈しみの心で包んでくださっているからだ。

 そこで2015年12月に、教皇フランシスコは「慈しみの特別聖年」を始められました。

 慈しみの特別聖年公布の大勅書「イエス・キリスト、父の慈しみのみ顔」には、こう記されています。

 「教会には、神の慈しみを告げ知らせる使命があります。慈しみは福音の脈打つ心臓であって、教会がすべての人の心と知性に届けなければならないものです。・・・したがって教会のあるところでは、御父の慈しみを現さなければなりません」(12)

 命の危機に直面して、恐れに打ち震えている現代社会に、常に共にいてくださる主イエスは、その直中で、『あなた方に平安があるように』と改めて告げようとされています。

 多くの方々の具体的な愛の行動を通じて、平和と希望を告げ知らせようとしています。

 世界で進む連帯への動きを通じて、和解を告げ知らせようとされています。

 恐れている人類は、「復活のキリストがお与えになる聖霊に、触れてもらい、包んで」いただくことによって、「心の傷を癒やし、私たちを神から引き離し、私たち自身を分断する壁を打ち壊し、御父の愛の喜びと兄弟的一致の喜びを取り戻」すことができるようになる。

 復活された主イエスの弟子として、神の慈しみを受けた私たちには、その受けた愛を、さらに他の人たちへと分かち合っていく務めが与えられています。「教会には、神の慈しみを告げ知らせる使命が」あるからです。

 不安に打ち震える社会の中で教会が希望の光となるためには、キリストの体である教会共同体を形作っている私たち一人ひとりが、慈しみに満ちあふれた存在となる努力をしなければなりません。

 使徒言行録には、初代教会の理想的な姿が描かれていました。信仰共同体は、「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」と記されています。

 復活された主イエスの新しい命に生かされた共同体は、互いに「学び合い、支え合い、分かち合い、祈り合う」ことに熱心でありました。「心を一つにし」「喜びと真心を持って」いた共同体は、神の愛と慈しみに満たされたものとなりました。神の愛と慈しみを証しするものとなりました。神の愛と慈しみを、分かち合うものとなりました。

 だからこそ、「民全体から好意を寄せられた」と使徒言行録は記します。社会の中で、希望の光となったのです。

 今、困難に直面する世界の直中にあって、私たち自身がまず、神の愛と慈しみに身を委ね、それを証ししなければなりません。分かち合うものとならなければなりません。

 主ご自身が、この時代の直中で、「平安があるように」と告げることができるように、弟子である私たちは、「心を一つにし」「喜びと真心を持って」信仰共同体を育み、希望の光となりましょう。

(原文のまま、ただし、表記は当用漢字表に基づくものに統一させていただきました。「カトリック・あい」)

 

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2020年4月19日