・「”社会的距離”が”心の距離”を深めぬように、祈りと他への思いやりを」菊地・東京大司教の聖木曜日ミサの説教

(2020.4.9 カトリック・あい)

 菊地・東京大司教が9日午後7時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で聖木曜日・主の晩餐のミサをあげられた。新型コロナウイルスの感染拡大の危機の中で、東京大司教区の東京、千葉は政府の緊急事態宣言の対象地域になっており、教会の典礼はすべて非公開とされていることから、インターネットによる動画中継の形で行われた。以下は、ミサ中の菊地大司教の説教。

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聖木曜日・主の晩餐ミサの説教  2020年4月9日

 聖体の秘跡は、神があふれるほどに注がれる人間への愛を、日々、私たちが心と体で感じることができるようにと、制定され、与えられました。

 聖体を通じて現存される主は、常に私たちと共におられることを、目に見える形で示されています。ご自身が語り行われたこと、捧げた祈り、そしてその身を私たちの為に捧げられたという事実を、再び来られる日まで、すべての人に伝え続けるように、と命じられました。

 最後の晩餐での出来事は、弟子達の証しに始まって、今に至るまで連綿と引き継がれ、それを受けた私たちには、さらに将来へと伝えていく義務があります。

 聖体祭儀に与るたびに、「私の記念として、このように行いなさい」と言われた主イエスの言葉が、その切々たる思いと共に私たちの心に響き渡ります。

 今宵、最後の晩餐を記念しながら、主が語り行われたこと、その祈り、そして愛に満ちた生き方を、改めて思い起こしましょう。同時に、自分自身が受け継いだその事実を、次の世代へと引き継いでいく役割があるのだ、という自覚を新たにいたしましょう。

 教会は、「私の記念として、このように行いなさい」と言う主の言葉に従い、主が語り行われたことを宣べ伝え、主が祈られたように神に向かって祈り、主が教えたように愛の奉仕を実践していきます。

 愛する弟子たちとの別れが迫る中で、万感の思いを込めてそう述べられた主イエスは、「私を忘れるな」と、弟子たちに命じたのではないでしょうか。聖体の秘跡が、ミサの中で繰り返しささげられるごとに、そこには「私を忘れるな」という主の思いが、響き渡ります。

 その響き渡る主の声を、むなしい響きに終わらせないためにも、主の思いを受け継いで、次へと繋いでいく共同体が必要です。

 主イエスの言葉を受け継いで、社会の現実の直中にあって、主が語り行われたこと、その祈り、そして愛に満ちた生き方を証ししていく務めは、教会の共同体に与えられた使命です。

 新型コロナウイルス感染症が蔓延する中で、私たちは新しい言葉を使うようになりました。日頃の会話の中で、感染症拡大以前には、あまり口にすることのなかったいくつかの言葉を、当たり前のごとく口にするようになりました。その中の一つが「社会的距離」という言葉です。

 ちょうどこの東京カテドラル聖マリア大聖堂もそうですが、接触感染を避けるために「社会的距離」を確保しようと、聖堂内のベンチが以前と比べてかなり離れて設置されています。

 互いの接触を避けることがまず第一の感染予防策だ、と耳にするようになって、私たちは、臆病になりました。互いに近づくことに、若干の恐れを抱くようになりました。目に見える形で具体的に1メートルから2メートルほどの距離を保って、なるべく他人と接触しないように心掛けることが、だんだんと普通のことになってきました。昨年の今頃、聖堂のベンチをこのように離して設置すると言ったら、誰も賛成してくれなかったことでしょう。でも今はそれが普通になりました。社会的距離を保つことは、感染予防のために必要です。そのことには何も反論はありません。

 しかし、その物理的な距離が、心の距離をも深めてしまうことがないように、祈っています。

 今般の感染症の特徴のためですが、多くの方が感染しても無症状で回復すると言われています。ただ、無症状のまま、感染源となる可能性があります。

 自分が意図しないまま感染源となって、他の方、特に高齢であったり持病のある方のいのちを危機に陥れることのないようにと、いま教会ではミサの公開を中止にしています。インターネットなどの映像を通じて、今夜のミサに与ってくださる方もおられるでしょう。「すべての命を守る」と主張する教会には、いまはその選択肢しか、あり得ないと思います。しかし、その物理的な距離が、心の距離をも深めてしまうことがないように、祈ります。

 さて、最後の晩餐で主からの言葉を受け継いだ教会共同体とは、どんな存在でしょうか。

 第二バチカン公会議の教会憲章は「教会はキリストにおけるいわば秘跡、すなわち神との親密な交わりと全人類一致の証し、道具」だと指摘しています。

 その上で、教会はキリストの体であり、キリストは教会を「目に見える組織としてこの地上に設立」され、「目に見える集団と霊的共同体」が「複雑な一つの実在を形成」しているのだ、と記しています。

 私たちの共同体は、実際に日曜日に建物に集まって来る信徒の集まりだけのことではなく、目に見えない霊的な共同体としても存在しています。キリストに従うことをひとたび決意し、洗礼によって、キリストの体に加わるように、と呼ばれた者は、例えば日曜日に教会に行かないからと言って、キリスト者でなくなるわけではありません。そもそも、キリストの体に属さない、一匹狼の信徒などという存在はあり得ません。

 しかしながら、私たちは弱い存在ですから、目に見える共同体での物理的な交わりを失うとき、心も離れてしまう誘惑にさらされてしまいます。

 教会はいま、まさしくその危機に直面しています。コンピュータのディスプレイの前でミサに与っておられるとき、その心はどこにありますか。

 教皇ヨハネパウロ二世の回勅『教会に命を与える聖体』に、こう記されています。

 『(司祭が祭儀を行うこと)それは司祭の霊的生活のためだけでなく、教会と世界の善のためにもなります。なぜなら「たとえ信者が列席できなくても、感謝の祭儀はキリストの行為であり、教会の行為だからです」』

 したがって、聖体祭儀に与ることは、たとえそれが実際に聖体を拝領することを伴っているか、いま現在の状況のように霊的聖体拝領を伴っているか、どちらの場合であっても、個人的な信心のためではなく、教会の公の行為にあずかっていることを忘れてはなりません。

 最後の晩餐で主イエスが制定された聖体は、弟子の共同体に与えられ、歴史の中で連綿と、共同体を通じて伝え続けられました。聖体は、教会共同体の交わりを生み出す秘跡です。聖体祭儀に与る時、私たちは、教会共同体の交わりの中にあることを意識したいと思います。

 今、残念なことに、具体的な形で日曜日に集まっていないとしても、私たちは、祈りの内に、小教区共同体の交わりの中にあります。小教区共同体を通じて、普遍教会の交わりの中にあります。

 物理的に距離を離して身を守らなくてはならない今だからこそ、私たちは、離れていても、キリストの体である教会共同体に結び合わされており、共に祈ることによって、生かされていることを思い起こしましょう。

 そして私たち一人ひとりには、この共同体が主ご自身から受け継いだように、主が語り行われたことを宣べ伝え、主が祈られたように神に向かって祈り、主が教えたように愛の奉仕を実践する務めがあります。信仰に基づく私たちの言葉と行いは、キリストの体としての言葉と行いです。困難な時期だからこそ、思いやりと配慮の心を持って互いに支え合い、言葉と行いを通じて、「神との親密な交わりと全人類一致のあかし、道具」でありましょう。

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2020年4月9日