・「キリストが求める生き方を自らの生き方に」菊地大司教の”王であるキリストの主日”説教

2020年11月21日 (土) 週刊大司教第三回:王であるキリスト

 年間最後の主日となりました。王であるキリストの主日です。

 この数日、東京都では新型コロナ感染症の検査陽性者が500名を超えることが続いており、週明けにはさらに増加することも懸念されています。また重症となられた方も30名を超えることが続いております。統計を見ますと、やはり高齢の方に重篤化する方が多いようです。東京大司教区にあっては、主日のミサに与る義務は引き続き免除されておりますので、健康に不安のある方はご自宅でお祈りください。

 私のメッセージを提供しております「週刊大司教」はミサではありませんが、その主日の福音を朗読し、説教を聞いていただき、主の祈りを一緒に唱えます。ミサに参加することが出来ない場合には、このビデオをご利用いただいて、霊的聖体拝領の一助としていただくことも出来ます。

 映像の停止などを自由に出来る方は、例えば、冒頭の集会祈願後に映像を一時停止し、第一朗読と第二朗読をご自分で聖書と典礼などから朗読され、その後映像を再開して福音朗読を聞き、私のメッセージ後の主の祈りが終わったら、再び映像を一時停止して、例えば下記のような祈りを唱えて、霊的聖体拝領とすることも出来ます。しばらくの沈黙の後に、あらためて映像を再開し、祝福とするような方法でご活用いただければと思います。

『聖なる父よ、あなたが私の心に住まわせられた聖なるみ名のゆえに、また、御子イエスによって示された知識と信仰と不滅のゆえに、あなたに感謝します。とこしえにあなたに栄光がありますように。

全能の神よ、あなたはみ名のためにすべてをつくり、また人々があなたに感謝するため、御子によって霊的な食べ物と永遠のいのちを与えられました。力あるあなたに何にもまして感謝します。

とこしえにあなたに栄光がありますように。アーメン」(カルメル会『祈りの友』より)

 または、次の聖アルフォンソ・リゴリの祈り。ほかにもたくさんの祈りがあります。

私のイエスよ、
最も祝福された秘跡のうちに、あなたがおられることを信じています。
私はあなたを何よりも愛し、私の魂にお迎えしたいと望んでいます。
今は秘跡によってあなたを受けることができませんから、せめて霊的に私の心に来て下さい。
私はすでにあなたが私の心におられるようにあなたを抱きしめ、私のすべてをあなたと結びつけます。
私があなたから離れることを、お許しにならないでください。アーメン。

 また聖体拝領などについて、2月27日に記した「司教の日記」(こちらのリンクです)もご一読ください。

・・・・・・・・・・・・・・・ 以下、本日配信の週刊大司教第三回のメッセージ原稿です。

 王であるキリスト(メッセージビデオ)2020年11月22日

 典礼の暦がまた新たな一年を始めようとしています。王であるキリストの主日は、典礼の暦では年間の最後の主日です。2020年は、時間が本当にあっという間に過ぎ去っていきました。一年前、私たちは教皇フランシスコが日本に滞在されているただ中で、王であるキリストの主日を祝いました。

 あの時、教皇訪日という高揚した気持ちの中にあった私たちは、これから何か新しいことが始まるのではないかという、漠然としてはいたものの、前向きの興奮に捕らえられていたように思います。それが年が明けるとすぐにコロナ禍が世界を襲いました。今度は、命が危機にさらされるのではないかという、やはり漠然としてはいたものの、後ろ向きな興奮の中で、この一年を過ごしてきました。残念ながら、その後ろ向きの状態から抜け出す道筋は不確かです。

 この一年、特に病床にあった方々のために改めて祈ります。また献身的に命を守るために取り組まれている医療関係者の皆様に、改めて感謝申し上げます。

 感染症のもたらす困難と命の危機に直面して、私たちは再び、人間の知恵と知識、そして科学や技術の力は、世界の中では本当に小さく弱いものであることを思い知らされています。世界を支配するのはその創造主である全能の神であることを、改めて心で感じ取っています。私たちは、創造主である神に命をいただき、生かされている者です。ですから、この世で賜物である命を生きる上で、世界を支配する王であるキリストが私たちに求める生き方に、改めて目を向け、それを自らの生き方としたいと思います。

 教皇フランシスコは先週の日曜日を、貧しい人のための世界祈願日と定め、シラ書七章三十二節からとった「貧しい人に援助の手を差し伸べよ」と言う言葉をテーマにしたメッセージを発表されています。その中で教皇はこう指摘されています。

 「弱い立場に置かれている人を支え、傷ついた人をいやし、苦しみを和らげ、尊厳を奪われた人にそれを取り戻す、そうした寛大さは、人間らしく充実した人生に欠かせない条件です。貧しい人とその多種多様なニーズに目を向けるという選択は、時間の有無や個人の損得、あるいは血の通わない司牧や形だけの社会的事業には左右されません。自分をいつ も優先する自己陶酔的な傾きによって、神の恵みの力を抑えつけることはできないのです」

 教皇フランシスコは、教会は慈しみを提供する最前線の野戦病院であれ、と繰り返し述べられ、貧しい人、弱い立場に置かれた人たちへの心配りが教会にとっての重要な使命であると常日頃から指摘されています。

 まさしく福音にあるとおり、「私の兄弟であるこの最も小さな者の1人にしたのは、私にしてくれたことなのである」と言う主イエスの言葉を、常に心に刻み、それに忠実に生きようとする姿勢であります。

 教皇は、「自分を優先する自己陶酔的な傾き」が、神の慈しみが豊かに働こうとするのを妨げるのだと指摘されています。その上で教皇は、「祈りに費やす時間は、困窮する隣人をなおざりにする言い訳には決してなりえません。正しくはその逆です。貧しい人への奉仕が伴って初めて、私たちに主の恵みが注がれ、祈りが聞き入れられるのです」とまで言われます。

 私たちはこの世界において、神の豊かな憐れみが力強く働こうとする時に、その道具として憐れみと慈しみを具体化する者とならなければなりません。私たちの世界を支配するのは、悪の力ではなく、慈しみそのものである神の御言葉、主イエス・キリストです。

2020年11月21日

・貧しい人のための世界祈願日(15日)・そして聖書週間(15日~22日)

15日は貧しい人のための世界祈願日(菊地大司教の日記)2020.11.14

 11月15日の年間第33主日は、教皇様によって、「貧しい人のための世界祈願日」と定められています。今年で第4回目となります。今晩公開する週刊大司教では触れていませんが、次週、王であるキリストの主日の週刊大司教において、教皇様のメッセージに触れることにしています。 今年の祈願日にあたり、教皇様はメッセージを発表されています。タイトルは、「貧しい人に援助の手を差し伸べよ」というシラ書7章32節の言葉です。メッセージ全文はこちらのリンクからお読みいただけます。その冒頭の部分を引用します。

「古来の知恵はこの言葉を、生活の中で従うべき聖なる規範として示しました。この言葉は、今日、その重い内容すべてをもってこだまし、本質を見つめ、無関心という障壁を越えられるよう、私たちをも助けてくれます。貧困はつねにさまざまな顔をもっており、個々の状態に目を向けなければなりません。その顔一つひとつを通して私たちは、兄弟姉妹の中の最も小さい者の中にご自分がおられることを明らかにされたかた(マタイ福音書25章40節参照)、主イエスと出会うことができます。」

 教皇様は、「貧しい人に援助の手を差し伸べよ」という聖書のことばを何度も繰り返しながら、現在の世界の現実を指摘しながら、悔い改めを呼びかけておられます。そこにはこういう一節もあります。

「『貧しい人に手を差し伸べよ』。この言葉は、ポケットに手を入れたまま、貧困に心を揺さぶられることのない人の姿をかえって際立たせます。彼ら自身も往々にして、貧困を生じさせることに加担しています。そうした人々は、無関心と冷笑主義を日々の糧としています」

 そして教皇様は、このメッセージを、聖母への祈りで締めくくります。メッセージの終わりに、こう記されています。

「誰よりも貧しい人の母でおられる神の母が、貧しい人と日々出会いながら歩むこの旅に寄り添ってくださいますように。おとめマリアは、社会の片隅に追いやられた人の困難と苦しみをよくご存じです。ご自身も馬小屋で御子を産んだからです。そして、ヘロデ王による迫害から、夫のヨセフと幼子イエスとともに他国に逃れることになりました。聖家族は数年の間、難民として暮らしたのです。貧しい人の母であるマリアへの祈りにより、マリアの愛する子らと、キリストの名において、その子らに仕える人とが一つに結ばれますように。そして、差し伸べられる手が、分かち合いと、取り戻された兄弟愛による抱擁へと姿を変えますように。」

 貧しい人のための世界祈願日は、いつくしみの特別聖年(2015年12月8日~2016年11月20日)の閉年にあたり公布された使徒的書簡「あわれみある方と、あわれな女」において定められました。使徒的書簡はこちらのリンクからご覧いただけます。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

15日から一週間は聖書週間・・聖書は共同訳、聖書協会共同訳、フランシスコ会訳など自由に使って親しんで

 さて11月15日から一週間は、聖書週間と定められています。カトリック中央協議会のホームページには、次のように解説されています。

「聖書週間は、1976年5月の定例司教総会で、全国的に聖書に親しみ、聖書をより正しく理解するための運動として「聖書週間」設定案が当時の宣教司牧委員会から提出され、同年11月の臨時司教総会において1977年11月の第3日曜日からの1週間を「聖書週間」とすることが決定されました。さらに、聖書委員会の発足と同時に委員による活発な啓蒙活動によって、日本のカトリック教会の中でも聖書への関心が高まってきました。その後、カトリック司教協議会による諸委員会の機構改革にともない、聖書委員会は1998年2月に解消されましたが、聖書週間は常任司教委員会によって引き継がれ、リーフレット「聖書に親しむ」とポスターの制作も継続されることとなり、今日に至っています。」

 今年の聖書週間のテーマは、特にラウダート・シ特別年であることから、「あなたはたたえられますように」とされています。中央協のリンクはこちらです。 第二バチカン公会議の啓示憲章は、次のように記しています。

「福音が教会の中に絶え間なく完全にかつ生き生きと保たれるように、使徒たちは後継者として司教たちを残し、彼らに「自分たちの教導職を伝えた」のである。それゆえ、この聖伝と旧新約両聖書とは、地上を旅する教会が、顔と顔を合わせてありのままの神を見るときまで、すべてを与えてくださる神を見るための鏡のようなものなのである。(7)」

 さらに次のように記して、聖書がカトリック教会における信仰にどれほど重要な意味を持っているかを指摘しています。

「教会は、主の御からだそのものと同じように聖書を常にあがめ敬ってきた。なぜなら、教会は何よりもまず聖なる典礼において、たえずキリストのからだと同時に神のことばの食卓からいのちのパンを受け取り、信者たちに差し出してきたからである。教会は聖書を聖伝と共につねに自らの信仰の最高の基準としてきたのであり、またそうしている。なぜなら、神の霊感を受け一度限り永久に文字に記された聖書は、神ご自身のことばを変わらないものとして伝え、また預言者たちと使徒たちのことばのうちに聖霊の声を響かせているからである。(21)」

 その上で、「教会のすべての宣教は、キリスト教そのものと同じように、聖書によって養われ導かれなければならない」と指摘します。

 私たちの主イエスは、人となられた神の言葉であります。それが「変わらないものとして伝え」られている聖書に改めて親しむ機会、それがこの聖書週間です。カトリック教会独自の翻訳としてはフランシスコ会訳がありますし、また先日、1972年から翻訳事業に携わってきた大阪教区の和田幹生神父様が、日本聖書協会から第31回聖書事業功労賞を受賞したことからも分かるように、長年にわたってカトリック教会は超教派の翻訳事業に関わってきました。現在は私自身が務めていますが、日本聖書協会の理事には司教が一名加わることを慣例としています。

 ご自身で、また研究会や祈りの集会などでは、フランシスコ会訳や聖書協会の翻訳(新共同訳や聖書協会共同訳など)を、自由に使ってくださって構いません。カトリック教会の典礼にどれを使うかは、翻訳用語の問題や、教会の祈りにも使われる詩編の翻訳など、乗り越えるべき課題がいくつもまりますが、徐々に前進するでしょう。現在は、ミサの典礼などでは、これまでの長年の経緯もあり、新共同訳を、一部許可を得て言葉を換えながら使用していることは、聖書と典礼などから明らかかと思います。

 以下、今年の聖書週間にあたり、日本聖書協会がお願いしている献金の呼びかけに書かせていただいた私の文章です。

「神の言葉は、信じる者すべてにとって救いのための神の力」です(啓示憲章17)。聖書に記された神からの語りかけが、私たちを生かす信仰の力の源となります。
30年以上前にアフリカのガーナの教会で働いていた頃、私が担当していた地域の部族の言葉による聖書は存在していませんでした。ミサの度ごとに、カテキスタが公用語である英語の聖書を手に、その場で『翻訳』をしていました。残念ながらそのすべての朗読が、ふさわしい翻訳であったとは言えず、伝わるはずの神の思いが充分に伝わらなかったこともしばしばでした。
聖書の翻訳は重要な使命です。そして数多ある言語への翻訳作業とその聖書の普及には、充分な資金が不可欠です。また異なる言語だけではなく、視覚に障害を持たれている方々にも、聖書に記された神のことばを信仰の力としていただきたい。その作業のためにも充分な資金が不可欠です。
聖書週間にあたり、ご自身がまず神のことばから信仰の力をいただくと同時に、未だ聖書を手にすることのできない多くの方々に思いを馳せ、祈りと献金をお願いいたします」

2020年11月15日

・菊地大司教、年間第33主日の説教「神、隣人、大地との関わりの中で命の賜物を生かす」

週刊大司教第二回:年間第33主日「コロナ・もう一度、気を引き締めて」

 年間第33主日の福音に基づいた、週刊大司教の2回目をアップロードしました。Youtubeのカトリック東京大司教区のチャンネルからご覧いただくか、東京大司教区のホームページからご覧ください。(一応この記事の下にも貼っておきます)

 東京都が毎日午後3時に発表する新型コロナ感染症の検査陽性者数は、このところ高い数字を示しています。本日14日には、検査陽性の方が352人、また本日現在の重症者は41名と発表されました。昨日13日は、検査陽性の方が374人、昨日現在の重症者が39人、さらに一昨日12日は検査陽性者が393人で、一昨日現在の重症者は39人です。数字に一喜一憂しないと心掛けているものの、感染が拡大傾向にあるのは間違いありません。

 東京教区では6月末頃から教会活動を再開させ、ミサの公開も限定条件を付けながら進めてきました。今現在は、クリスマスから年末年始へ向けてどのような対応をするかが話題となっています。確かに、当初に比べれば感染対策になれてきた面もあり、手指の消毒、マスクの着用、充分な距離、聖歌を一緒に歌わないことなどなど、対策は定着しています。

 同時に、現在の状況を見るに、安心して「普通」の方向へ大きく舵を切ることが出来るような状況では決してありません、先日もお話ししましたが、慣れてしまって危機意識を失うことは避けたいと思います。なんとなく安全だと思い込んでしまいますが、これから寒くなる時期、専門家の警告もありますから、今一度気を引き締めておきたいと思います。

 なお、主任司祭には8月1日付ですでに指示をしてありますが、教区内の小教区でクラスターが発生した場合には、一旦、教区のすべての活動を停止にして、全体の感染対策を見直しを行うことになります。従って、この先でも、現在のステージ3の対応を厳しくしたり、それ以前の公開ミサの中止などを含むステージ4に戻る可能性も充分にあることを、常に心にとめていただけると幸いです。(なお東京大司教区は、カトリック医師会東京支部に所属する信徒のドクターから助言を頂いています)

 また、東京教区から原案を提出して、カトリック医師会などのご意見をいただいて修正した、11月1日付の司教協議会策定の全国的な対応マニュアルは、中央協議会のホームページに掲載されています。

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以下、本日公開した週刊大司教の、メッセージ原稿です。

年間第33主日Aメッセージビデオ 2020年11月15日】

 私たちは、この世界を創造主である神からお預かりしています。

 教皇フランシスコの回勅「ラウダート・シ」には、次のように記されています。

  「私したちが神にかたどって創造され大地への支配権を与えられたことが他の被造物への専横な抑圧的支配を正当化するとの見解は、断固退けられなければなりません」(67)

 教皇は、私たちが思い上がりの中で神に取って代わったかのように、この世界を自由気ままに酷使している現実を、あたかも当然の権利であるかのように振る舞っていることを批判したうえで、人間は世界を「耕し守る」よう定められているとして、次のように続けます。

 「耕すは培うこと、鋤くこと、働きかけることを、守るは世話し、保護し、見守り、保存することを意味します」

 すなわち、与えられた賜物である命を生きている私たちは、その命が生きる場として世界を与えられているものの、それは勝手気ままに支配して良いと言うことではなく、責任を持った保護者として耕し守り保存する務めがあることを、繰り返し指摘されています。

 そのうえで、教皇は、「神との関わり、隣人との関わり、大地との関わりによって、人間の生が成り立っている」と指摘し、「私たちがずうずうしくも神に取って代わり、造られた者としての限界を認めることを拒むことで、創造主と人類と全被造界の間の調和が乱されました(66)」と指摘されます。

 与えられた賜物は、自分自身が好き勝手に使って良いわけではなく、単に増やしたからそれでよし、とされるわけでもなく、実は、「神との関わり、隣人との関わり、大地との関わり」という、この世界における人間の生を成り立たせている関係の中で責任ある行動をとることによって、初めて管理者としての務めを果たしたことになるというのです。

 ですから福音において、五タラントン預かった者は、外へ出て行って商売をする、すなわち人間関係の中でそのたまものを活用することによって、良い管理者であることを褒められるのです。逆に、一タラントン預かった者は、それを地の中に隠しておくこと、すなわち誰との関係をも拒否することで、管理者としての務めを果たしていない、と非難されるのです。

 今年の被造物を大切にする世界祈願日のメッセージに、教皇フランシスコは次のように記されていました。

 「神は、大地とその住人が休息し、力を取り戻せるようにと、その英知をもって、安息日を設けてくださいました。しかし今日、私たちのライフスタイルは、地球に限界以上の無理をさせています。発展への飽くなき要求と、生産と消費の果てしない繰り返しが環境を疲弊させています」

 その上で教皇は、「進行中のパンデミックは、何らかの形で、より簡素で持続可能なライフスタイルを取り戻すよう、私たちを促しています。この危機は、ある意味、新しい生き方を広げる機会を与えてくれました。地球を休ませると、どれだけ回復するかが分かりました。・・・余剰で破壊的な活動や意図に終止符を打ち、創造的な価値観、絆を生み出すために、この決定的な機会を有効に生かさなければなりません」

 私たちは、まず命という最大の賜物を与えられました。そしてその命を生きるためにこの世界を与えられ、管理するようにと託されました。私たちは、「神との関わり、隣人との関わり、大地との関わり」の中で、この預けられた賜物を充分に生かし、責任ある行動をとることで、いつの日か、「忠実な良い僕だ」と主から言っていただくように、努めたいと思います。

 

 

2020年11月15日

・「私たちは常に目覚めているか」-菊地大司教の年間第32主日の言葉

年間第32主日Aメッセージビデオ 2020年11月8日

 感染症が拡大し始めた初期の頃、毎日報道される感染者数に、恐れをなしたり安心してみたりと、一喜一憂を繰り返していました。少しでも感染者数が前日を上回っていたり、亡くなられた方があったという報道に接する度に、自らの命の危機を肌で感じて対策に奔走したものです。

 いわゆる第一波がある程度落ち着いた後、東京では再び毎日の検査での陽性者数が200人を超えることが続き、メディアでも、またその報道に接する私たちも、数字の発表を固唾をのんで待っているような状態でした。

 現在でも、東京では毎日午後3時になると、検査で陽性となった方々の人数が公表され、同時に亡くなられた方や重症の方の人数も公表されています。残念ながら、まだまだ感染が治まったとは言い難い数字が日々報道されていますが、何か当初のような興奮は冷めやり、まるで当たり前の数字であるかのように、報道でもそれを受け取るわたしたちでも、聞き流してしまうことが増えたように感じています。

 災害への備えについてもそうですが、やはり私たちは、時間が経過するにつれて当初の強烈な印象を忘れてしまったり、または毎日継続する数字に慣れっこになってしまうものです。

 本当は、何もない普段の時にこそ、緊急時を想定して備えておかなければ、いざという時には何も役に立たないことを私たちは経験上よく知っています。にもかかわらず、私たちの危機感は、実際の危機に直面しないことにはエンジンが始動しないのです。

 新型コロナ感染症にしても、すでに専門家からは、この冬に備えなくてはならない、という指摘があり、私たちも毎年冬のインフルエンザ流行の体験から、危険が迫っていることに体験的に気がつきながら、現時点での何か一段落したような雰囲気の中で制限を解除することにばかり気をとられ、次への備えがおろそかになりつつあるようにも感じます。

 今日のマタイ福音は、将来を見越してしっかりと準備をしていた五人のおとめと、今現在のことにしか関心がなく、将来への備えを怠っていた五人のおとめが登場します。

 イエスは、この話の締めくくりに、「だから目を覚ましていないさい。あなた方は、その日、そのときを知らないのだから」と述べておられます。

 私たちは、常に目覚めているでしょうか。何もない普段にこそ、心を備えておかなければ、肝心のいざという時には、何も役に立たない。私たちのその常日頃からの備えは、何のためのどのような備えでしょうか。私自身が救われるためだけの自己研鑽の備えでしょうか。何を備えるべきなのでしょうか。

 教皇フランシスコは、使徒的勧告「喜びに喜べ」に次のように記しておられました。

 「最も困窮した人が味わう困難な状況において、教会はそれを理解し、慰め、平等に全体の中に参加できるよう特別に配慮すべきであり、石のような規則を押しつけてはなりません」

 さらに「福音の持つ癒しの力と光を差し出すよりも、福音を無理に吹き込もう、とする人は、それを他者に投げつけるための石打ちの刑に変えてしまう」とまで言われます(49)

 私たちの備えとは、福音を証しして語り、また行動することであります。その証しは、「福音の持つ癒しの力と光を差し出す」ことにあり、他者を石打ちの刑に処するために正しさを押しつけ、断罪しようとする行動ではありません。

 目覚めている私たちは、常に目を他者の必要に向け、神の愛と慈しみそのものである主イエスの福音を証しするため、言葉と行いを持って、心を常に備えておくようにいたしましょう。

2020年11月9日

・「諸聖人は、言葉と行いで信仰を証しした教会の模範」菊地大司教の諸聖人の主日ミサ

2020年10月31日 (土) 諸聖人の祭日@東京カテドラル

Chuukei20oct

*主日の大司教ミサ配信終了・支えてくださった方々に感謝!

 11月1日は諸聖人の祭日で、今年は日曜日となりましたから、主日にお祝いすることになりました。

 公開ミサを一時中止にした2月27日以降の主日、すなわち3月1日から、インターネットを通じて、大司教司式ミサを配信してまいりました。6月半ば、キリストの聖体の主日の次の日曜、6月21日から限定的ながらも公開ミサが再開されたこともあり、それまでの日曜午前10時の配信から、土曜日午後6時の配信へと変更して続けてきました。

 毎回、生中継した映像を、そのままYoutubeに残していますから、別途編集することの出来ない映像をその場で作成しなくてはなりません。関口教会の田村さんをはじめボランティアスタッフが、本当に努力してくれました。またできる限り、美しい典礼をと言うことで、聖歌隊としてイエスのカリタス会の志願者とシスター方が、交代で毎回参加してくださいました。毎回、さまざまな歌をご自分たちで選択し、週日にはよく練習してきてくださり、事前の準備も大変だったことだと思います。感謝します。

 幸いカテドラル内は他の小教区聖堂にはないほどの大きな空間がありますし、内陣から会衆席までの距離も空間も大きなものがあります。それでも互いに充分な距離を開けて飛沫感染を防ぐこと、ミサの最中でも必要に応じて手指の消毒を繰り返すことなど、いろいろ注意をしてきましたし、公開ミサが再開となってからは、関口教会の定めた方法で参加人数を絞り、また座席は一列ずつ移動させて前後左右2メートルを確保、歌唱は聖歌隊のみ、また聖体拝領直前には全員の手指をあらためて消毒するなど、感染対策をとってまいりました。

 小教区でのミサも徐々に再開されてきたこともあり、週末のさまざまな教会行事も再開しスケジュール調整が必要となってきたこともあり、カテドラルからの大司教司式ミサの配信は、本日をもって一時中止とします。今後は大きな儀式や祭日には中継をいたしますし、状況に応じては、あらためて再開することになるかも知れません。ミサの配信に協力してくださった多くの方に、心から感謝します。今後の配信の際には、東京教区ホームページでお知らせいたします。

 なお、今回の事態の中で、ミサの配信を始めた小教区も少なくありません。そういった小教区で、情報を公開しているところに関しては、東京教区ホームページで情報を提供していますので、ご覧ください。

 以下、諸聖人の祭日ミサ、10月31日土曜日午後6時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で捧げたミサの説教原稿です。

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【諸聖人の祭日(公開配信ミサ)東京カテドラル聖マリア大聖堂 2020年10月31日】

教会は、11月1日を諸聖人の祭日、そして11月2日を死者の日と定め、さらに11月全体を「死者の月」としています。11月1日には、すべての殉教者と証聖者を記念し、11月2日には私たちに先立って御父のもとへと旅立ったすべての人を思い起こし、祈りをささげます。

イエスをキリストと信じる私たちは、「イエスを信じ、その御体を食べ、御血を飲む人々を世の終わりに復活させてくださる」のだと確信し、永遠のいのちに生きる大きな希望を持ちながら、この人生を歩んでいます。

同時に、「私をお遣わしになった方の御心とは、私に与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである」と言われたイエスの言葉に信頼し、慈しみ深い神が、その限りない愛をもって、すべての人を永遠の命のうちに生きるよう招かれていることも信じています。

親しい人とのこの世での別れは悲しいことではありますが、教会は同時に、永遠の命への希望を高く掲げることを止めることはありません。葬儀ミサで唱えられる叙唱にも、「信じる者にとって、死は滅びではなく、新たないのちへの門であり、地上の生活を終わった後も、天に永遠のすみかが備えられています」と私たちの信仰における希望が記されています。

「カトリック教会のカテキズム」には、「」私たちは生者と死者を問わず万人と連帯関係にあり、その連帯関係は聖徒の交わりを土台としているのです」と記されています。地上の旅路を歩む民と天上の栄光にあずかる人たちとには連帯関係があり、共に教会を作り上げています。それを第二バチカン公会議の教会憲章は、「目に見える集団と霊的共同体、地上の教会と天上の善に飾られた教会は、二つのものとして考えられるべきではなく、人間的要素と神的要素を併せ持つ複雑な一つの実在を形成している」と記しています。

私たちは、信仰における先達と共に、キリストの唯一の体において一致して、連帯関係のうちに教会共同体を作り上げています。教会共同体はこの世における目に見える組織だけのことではなく、信仰の先達との霊的な絆のうちに、普遍的に存在している実体であります。

その中でも、諸聖人は、その生き方をもって、すなわちその言葉と行いを持って、信仰を力強く証しした存在として、この世を歩む教会にとっての模範であります。

教皇ベネディクト16世は回勅「希望による救い」において、「人間は単なる経済条件の生産物では」ないからこそ、「有利な経済条件を作り出すことによって、外部から人間を救うことはできない(21)」と指摘します。その上で教皇は、「人とともに、人のために苦しむこと。真理と正義のために苦しむこと。愛ゆえに、真の意味で愛する人となるために苦しむこと。これこそが人間であることの根本的な構成要素です。このことを放棄するなら、人は自分自身を滅ぼす(39)」と述べています。

今日私たちが記念するすべての聖人や殉教者たちは、その人生における言葉と行いを通じて、また他者との関わりを通じて、この世の命を生き抜いた姿を通じて、まさしく「人間であることの根本的な構成要素」を明確に証しした存在であります。

その人生において聖人や殉教者は、人とともに、人のために苦しみ抜きました。真理と正義のために苦しみ抜きました。愛ゆえに、真の意味で愛する人となるために、苦しみ抜きました。

苦しみ抜き、生き抜いたとき、その真摯な生きる姿が、多くの人から尊敬を持って評価される生き方となりました。使徒言行録に記された初代教会の姿を思い起こします。

「信じた者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売っては、必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に集まり、家ではパンを裂き、喜びと真心をもって食事を共にし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加えてくださったのである」(使徒言行録2章44節~47節)

聖徒の交わりである教会は、現代社会にあって何を証ししているのでしょうか。一致でしょうか、分裂でしょうか。愛でしょうか、憎しみでしょうか。慈しみでしょうか、排除でしょうか。赦しでしょうか、裁きでしょうか。賛美でしょうか、ののしりでしょうか。

Shinjo2010a

山形県の北の外れに新庄という町があります。この郊外に今年で献堂10年を迎える小さな教会共同体が存在しています。所属している信徒の9割は、近隣の農家でお嫁さんとなったフィリピン出身の信徒の方々です。

10年前、献堂式の時に、リーダーのフィリピン出身の女性信徒が、教会誕生までの道程を話してくれました。20年以上前の来日当初、教会が近くにはなかったため、毎日曜日にご主人に頼んで遠くの町の教会まで送ってもらっていました。それが続いていたあるとき、親戚の方から、「あなたは教会がないと生きていけないのか」と問い詰められたと言います。自分の信仰について真剣に考え抜いた結論は、「もちろん教会がなければ生きてはいけない」でありました。

その日から、出会うすべての同郷の友人たちに声をかけ、日曜日に誰かの家に集まり、司祭を招いてミサを立ててもらい、共同体を育てていきました。

私が彼女たちと出会ったのは新潟の司教となった直後の2005年です。大きな農家の居間でミサを捧げた後に、彼女たちから、自分たちの教会がほしいと懇願されました。近隣に定住した信徒がどれほどいるのか数えてもらったら、フィリピン出身の信徒が90名を超えていました。一緒に歩んでいた日本人信徒は3名です。

Shinjo1701

新しい教会を作るなど、財力もないこの小さな教区では無理だと思いましたが、その5年後には、献堂式にまでこぎ着けました。彼女たちの熱心さに感銘した多くの人が、教区内外から支援を申し出て、廃園になった幼稚園の建物を手に入れて改築したのです。

「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」

すべてをなげうって、ただ神のことだけを求め生きる人たちを、イエスは幸いだと呼ばれました。「教会がなければ生きていけない」と言う一途さが、周囲の人を巻き込んで、教会共同体を生み出し、教会の献堂まで実現してしまいました。

私たちは、信仰に生きていると言いながら、何に全身全霊をささげているでしょうか。
私たちは、共同体において一致していると言いながら、何を証ししているのでしょうか。
私たちは、聖体の秘跡に養われていながら、何を告げ知らせているのでしょうか。

聖人たちに倣って生きること、すなわち聖性への招きは、すべての人に向けられた召命であります。もちろん自力でそれを達成できるものではなく、神からの恵みが不可欠ですが、同時に招きに応えようとする決意も必要です。聖人たちの生涯に目を向ければ、聖性への招きへの答えは、日々の小さな行動の積み重ねであることが分かります。その積み重ねを支えるのは、主に対する一途な思いであります。

私たちの信仰の先達である諸聖人、殉教者の模範に倣い、私たちも苦しみを耐え忍びながら、勇気を持ってイエスの福音を証しできるよう、聖霊の導きを祈りましょう。

 (追伸)

 なお教会の伝統は、11月2日「死者の日」または11月1日から8日までの間に全免償を得、それを煉獄の魂に譲ることが出来ると定めてきました。今年はコロナ禍にありますので、教皇庁内赦院は特別の定めを行いました。詳しくはこのリンクのバチカンニュースをご覧ください。その核心部分は以下の通りです。(また免償についての簡単な解説は、例えばこのリンク先を参照ください)

 a.  11月1日から11月8日までの各日において、故人のために、たとえ精神の上だけでも、墓地を訪問し、祈る者に与えられる全免償を、11月中の他の日々に代替できる。これらの日々は、個々の信者が自由に選ぶことができ、それぞれの日が離れていても可能である。 b. 「死者の日」を機会に、聖堂を敬虔に訪問し、「主の祈り」と「信仰宣言(クレド)」を唱えることで与えられる11月2日の全免償は、「死者の日」の前後の日曜日、あるいは「諸聖人の日」に代替できるものであるが、信者が個々に選べる11月中の別のある1日に代替することもできる。(文中の聖書の引用は「新約聖書/聖書協会共同訳」に、また表記は当用漢字表記にさせていただきました=「カトリック・あい」)

2020年11月1日

・「教会が、命を守る場、希望の光を輝かせる存在となるように」菊地大司教の年間30主日説教

2020年10月24日 (土) 年間第30主日@東京カテドラル

*ミサの動画配信は31日夕配信の「諸聖人の祝日ミサ」で終了。次の配信は「主の降誕深夜ミサ」に

 10月最後の主日となりました。年間第30主日です。次の日曜は11月1日で、今年は諸聖人の祭日が次の日曜に祝われます。そのため、前晩である10月31日土曜日18時の配信ミサも、諸聖人の祭日となります。

 なお、東京カテドラルからの大司教司式配信ミサは、次の土曜日、この10月31日の配信を持って一旦区切りを付けさせていただきますが、現在ではイグナチオ教会をはじめ多くの小教区で配信ミサが行われるようになりましたので、是非そちらをご利用ください。東京カテドラルからの大司教司式ミサの次の配信予定は、主の降誕深夜ミサの予定です。カテドラルからの配信予定については、随時、東京教区ホームページでお知らせいたします。

 先週10月17日土曜日午後には、受刑者・出所者の社会復帰支援などを行うNPO法人マザーハウス(代表:五十嵐弘志さん)の主催で、受刑者と共に捧げるミサがイグナチオ教会で行われ、教誨師などで関わる司祭たちと一緒に、司式をさせていただきました。これも配信ミサで行われました。詳しくは、マザーハウスのホームページなどをご覧ください。当日のビデオもホームページからご覧いただけます。

 また10月18日の午後には、碑文谷教会で26名の方の堅信式も行われました。当

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けの堅信式となりました。また宣教協力体の各教会から主任司祭と役員の方に集まっていただき、ミサ後に短い時間でしたが、現状についてのお話を聞かせていただくことも出来ました。

 当初は世田谷南宣教協力体(上野毛、田園調布、碑文谷)の合同堅信式の予定でしたが、現在の状況から、碑文谷の方だ

 先般、典礼秘跡省から送付された指示に従い、堅信を授ける際には直接指で聖香油を塗るのではなく、一人ひとり脱脂綿で塗油をいたしました。堅信を受けられた皆さん、おめでとうございます。

以下、本日10月24日土曜日18時から行われた年間第30主日ミサの、説教原稿です。

【年間第30主日A(公開配信ミサ)東京カテドラル聖マリア大聖堂 2020年10月25日】

教会には命の福音を告げ知らせる使命があります。神の言葉が一人の人として誕生した受肉の神秘こそが、すべての命の尊厳を明確に示し、すべての命に比類なき価値があることを明確にしています。

 「命を守るための行動」などという呼びかけが繰り返される中で、今年、私たちは命が危機に直面する事態を実際に体験し、命の価値、そして命の意味をあらためて考えさせられています。

 災害や疾病など、人間の力の及ばない命の危機が存在する反面、世界には人間が生み出した様々な事由から、危機に直面させられている多くの命があります。

 教皇フランシスコは先日の一般謁見で、「社会内の不正義、不公平に与えられる機会、貧しい人を社会の周縁に追いやること、貧しい人への保護の欠如」を、「より大きなウイルス」とまで指摘されていました(8月19日一般謁見)

 また2018年の一般謁見では、「戦争、人間を搾取する組織、被造物を投機の対象とすること、使い捨て文化、さらには人間存在を都合良く支配するあらゆる構造によって、命は攻撃されています。そうして考えられないほど大勢の人が、人間にふさわしいとは言えない状況で生きています。これは命への侮蔑であり、ある意味での殺人です」とまで述べておられます(2018年10月10日)。

 感染症への対策を強める中で、明らかに拡大している貧富の格差。社会の不安が増大する中で頻発する、異質な存在への排除の傾向。統制を強める国家による圧政の結果としての、民族や思想に対する迫害。排除の力が強まる中で、顧みられることなく孤立する命。

 一年前の訪日で、教皇フランシスコは日本の現状を次のように話されていました。

 「ここ日本は、経済的には高度に発展した社会ですが、今朝の青年との集いで、社会的に孤立している人が少なくないこと、命の意味が分からず、自分の存在の意味を見いだせず、社会の隅にいる人が、決して少なくないことに気づかされました。家庭、学校、共同体は、一人ひとりが誰かを支え、助ける場であるべきなのに、利益と効率を追い求める過剰な競争によって、ますます損なわれています。(東京ドームミサの説教)」

 今や、その始まりから終わりまで、すべての段階で命は危機に直面しています。

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 マタイによる福音は、「隣人を自分のように愛しなさい」と教えるイエスの言葉を書き記しています。

 第一の最も大切な掟は、当然ですが、心と精神と思い、すなわち感情も命も知性も、人間の存在のすべてを尽くして、命の与え主である神を愛せよと教えます。

 そして第二の掟として、「隣人を自分のように愛せよ」と教え、その二つを持ってすべての掟の土台となるのだとイエスは教えます。

 教皇ヨハネパウロ二世は「命の福音」で、「『殺してはならない』というおきては、自分の隣人を愛するという積極的な命令の中に含まれ、いっそう完全な形で表現される(41)」と記し、隣人愛の教えは、そもそも「殺してはならない」という、神の十戒の第五の掟に基づいているのだ、と指摘されます。

 しばしば繰り返してきましたが、今回の感染症に直面する中で、教会が選択した公の活動の停止という行動は、後ろ向きな逃げるための選択ではなく、命を守るための積極的な選択でした。それは「カトリック教会のカテキズム」にも記されているとおり、まさしく「殺してはならない」という掟が、他者をいのちの危機にさらすことも禁じているからであり、それはすなわち、「隣人を自分のように愛せよ」という掟を守るためでもあります。

 私たちは改めて、この危機的な社会の状況の中で、命を守ることの大切さを強調したいと思います。

 教皇ヨハネパウロ二世は「命の福音」の中で、命を守ることに対する厳格な教会の姿勢を明確にすると同時に、それは人を裁くためではないことも、はっきりと言明されています。

 例えば「命の福音」には、次のように記されています。

 「『殺してはならない』という掟は、断固とした否定の形式をとります。これは決して越えることのできない極限を示します。しかし、この掟は暗黙のうちに、命に対して絶対的な敬意を払うべき積極的な態度を助長します。命を守り育てる方向へ、また、与え、受け、奉仕する愛の道に沿って前進する方向へと導くのです(54)」

 すなわち、私たちは命の危機を生み出している様々な社会の現実に目を向け、その社会の現実を、「命を守り育てる方向へ、また、与え、受け、奉仕する愛の道に沿って前進する方向へと導く」務めがあります。命を危機にさらしている事態そのものを指摘することも重要ですが、同時にそういった危機的状況を生み出している社会のあり方そのものを変えていこうとすることも大切です。

 命の危機を生み出す社会の状況を、教皇ヨハネパウロ二世は「構造的罪」と呼び、それを打破するために世界的な連帯の力が必要であると指摘されています。

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 出エジプト記は、「寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである」と記していました。

 イエスの言葉と行われた業は、弱い立場に置かれている命、すなわち危機に直面している命に対して、私たちが積極的に関わらなければならないことを、明確に示しています。私たちはこの世界にあって、時として、まるで自分たちがこの世の支配者であるかのように振る舞います。その時、弱い立場にある人への配慮の心は消え失せてしまいます。

 しかし、私たち自身、この世界を自ら生み出したわけではなく、そもそも命すら自分で生み出したものではない。すべては神から与えられ生かされている立場であることを考えるとき、命の危機に直面する人へ思いを馳せるのは当然の務めであります。

 パウロはテサロニケの教会に対して、その生活が周囲に対する模範となっているとの賛辞の言葉を贈ります。そして「主の言葉があなた方のところから出て、マケドニア州やアカイア州に響き渡ったばかりでなく、神に対するあなた方の信仰が至るところで伝えられて」いると記しています。

 私たちの教会は現代社会にあってどうでしょうか。

 教会が、命を守る場として、この不安が支配する時代に希望の光を輝かせる存在となるよう、また命の福音を自信を持って告げ知らせる存在となるよう、聖霊の導きに身を委ねながら、確実に歩みを進めたいと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(表記は、従来通り、原則として、一般の新聞などで使われている当用漢字表記にさせていただきました。これは、文章として読みやすくするだけでなく、「命」のような漢字には、歴史的にそれ自体に重要な意味が込められているからです。「命」という漢字は「命令」の「令」に「口」という字を添えたもの。「令」は、儀礼の際に用いる帽子をかぶり、ひざまずいて神のお告げを聴いている人を示した象形文字です。「口」は、神への祈りの言葉、祝詞を入れる器を意味します。つまり「命」とは、祈りを捧げる人に、神から与えられたもの、という意味をもっています。従来から、日本の教会などには、ひらがなを多用する傾向がありますが、ひらがなは、もともと、日本において借字として使われてきた漢字を、極度に草体化して作られたものであり、仮にひらがなを多用することが日本文化であるような発想があれば、僭越ながら誤りと思います=「カトリック・あい」)

2020年10月24日

・「神の問い掛けに自信をもって答えよう”ここに私がおります”と」菊地大司教の「世界宣教の日」ミサ説教

2020年10月17日 (土) 年間第29主日:世界宣教の日@東京カテドラル

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 年間第29主日です。10月の終わりから二つ目の日曜日は、世界宣教の日と定められています。説教の中で詳しく触れました。

福音を宣教することは教会の大切な使命です。「カトリック教会のカテキズム」には、こう記されています。

 「洗礼が救いに必要なことは、主ご自身が断言しておられます。キリストは弟子たちに、すべての民に福音を告げ、洗礼を授けるようにお命じになりました。福音が伝えられてこの秘跡を願うことの出来る人々の救いのためには、洗礼が必要です」

 同時にカテキズムは、「神は救いを洗礼の秘跡に結びつけられましたが、神ご自身は秘跡に拘束されることはありません」とも記され、望みの洗礼や、洗礼を受けずに亡くなった幼児の救いについて、神ご自身の御手の中にある慈しみによる救いの可能性にも触れ、詳しく解説されています。是非一度、カテキズムの1257番以降をご覧ください。

 私たちは、すべての人が洗礼の恵みにあずかるように目指して、福音を広く伝えていく努力を続けていかなければなりません。ですから教会にとって福音宣教は、欠かすことのできない務めであります。

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 さて昨日、10月16日、ベタニア修道女会の初誓願式と終生誓願式が行われました。例年であれば、修道会の本部がある徳田教会で行われますが、今年は新型コロナの感染症対策のため、広いスペースで、ということで、東京カテドラルで行われました。

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 初誓願を宣立されたシスターフランシスカ齋藤美紀さん、終生誓願を宣立されたシスターテレサ川鍋真澄さん、おめでとうございます。それぞれ派遣される現場で、福音をその言葉と行いで証しされますように、活躍を期待しています。

 ベタニア修道女会は、東京教区立の修道会です。当時東京を含む日本の再宣教を福音宣教省から委託されていたパリ外国宣教会のフロジャック神父様が始めた社会福祉の事業がうみだした姉妹たちの会が発展し、1937年に教皇庁布教聖省(現在の福音宣教省)の許可のもと東京のシャンボン大司教によって認可されたものです。詳しくは、ベタニア修道女会のホームページをご覧ください。

 教会は、例えば教区などの単位に分けられ、それぞれが司教などの教区長によって司牧されています。一見、さまざまな修道会や宣教会が、それぞれの事情で勝手に活動しているように見えますが、教会法の定めに従って教区長の認可がなければ、その地域で活動することはおろか修道院を作ることもできません。

 ですから、ある意味、すべての修道会や宣教会は、教区長の招きによって教区内に存在しています。多くの修道会や宣教会は、教区長が海外から招いたものですが、中にはベタニア修道女会のように国内で創立された修道会も少なくありません。いくつご存じでしょう。東京教区にも、複数のそういった、日本国内で誕生した修道会が働いておられます。

 以下、本日10月17日午後6時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂でささげた、年間第29主日公開配信ミサの説教原稿です。

【年間第29主日A(公開配信ミサ)東京カテドラル聖マリア大聖堂 2020年10月18日・世界宣教の日】

 教会は10月の終わりから二番目にあたるこの主日を、毎年、「世界宣教の日」と定めています。教会の最も大切な使命である福音宣教への理解を深め、その活動のために祈る日であり、また世界中の教会が、福音宣教にあって互いに助け合うための献金の日でもあります。

 バチカンには福音宣教省という役所があり、日本のようにキリスト教国ではない地域の教会を管轄しています。その福音宣教省には教皇庁宣教事業と名付けられたセクションがあり、この世界宣教の日に集められた世界中の献金を集約し、宣教地における教会の活動を資金的に援助する事業を行っています。各国にはこの部門の担当者が司教団の推薦で聖座から任命されており、日本の教会では、立川教会の門間直輝神父様が、日本の代表として教皇庁宣教事業の活動をとりまとめておられます。昨年は日本の教会からの献金が、福音宣教省の指示に従い、インドの教会活動の援助などに使われた、と聞いています。

 さて、教会にとって福音宣教は最も大切な使命の一つであります。改めて引用するまでもなく、例えば、マルコ福音書の終わりには「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」という、復活されたイエスによる弟子たちへの宣教命令が記されています。

 第二バチカン公会議の教会憲章は、その冒頭で「諸民族の光はキリストであり、そのため聖霊において参集したこの聖なる教会会議は、すべての被造物に福音を告げ、教会の面に輝くキリストの光をもって、すべての人を照らそうと切に望む(1)」と、教会に与えられた福音宣教の使命を再確認しています。

 本日の第二朗読、テサロニケの教会への手紙で、パウロは「私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と強い確信とによったからです」と記しています。同じパウロは、コリントの信徒への手紙に、次のように記していました。

 「キリストが私を遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架が空しくならないように、言葉の知恵を用いずに告げ知らせるためだからです(1コリント1章17節)」

 もちろん私たちは、何かを信じようとする時、論理的に構築された事実を理解し、十分に納得した上で、その次の決断を下します。十分に納得するために、さまざまな知識を積み重ねていきます。もちろん、そういった知識の積み重ねの重要さを否定することはできませんが、しかし、パウロは、そういった知識の積み重ねを「言葉の知恵」と言い表します。

 テサロニケの教会への手紙では、「ただ言葉だけによらず」と記し、コリントの教会への手紙では「言葉の知恵を用いずに」と書いています。福音は積み重ねられた知識によってだけではなく、ほかの方法でこそ、告げられなくてはならない、と指摘しています。

 それは、私たちの伝えようとしている福音が、イエスそのものであり、イエスは私たち人間の知恵と理解を遙かに超える存在であるからです。すなわち人知の積み重ね、言葉の知恵を遙かに凌駕する存在だからであります。

 そのことをイエスご自身は、福音の中で「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と表現します。

 すなわち、この世の価値観によって構築された世界と、神の価値観によって構築される世界は、全く異なる存在であって、神の価値観に基づく言動は、この世の価値観ではその意義を測ることができないからにほかなりません。その二つを無理に一緒にしようとするとき、神の価値観に基づく言動は、妥協のうちに失われてしまいます。

 それでは言葉の知恵によらないイエスの存在そのものは、どこで知ることができるのか。

 パウロは、コリントの教会への手紙でそれを「キリストの十字架」である、と言い切ります。同じことをパウロは、テサロニケの教会への手紙では「力と、聖霊と、強い確信」と言い表します。

 キリストの十字架は、神ご自身が、自ら創造された人間の命を愛するがあまり、自らその罪科を背負い、究極の理不尽さの中で、自らをご自身への贖罪のいけにえとされた事実、すなわち神の愛の目に見える行いそのものであります。

 ですからパウロは、テサロニケの教会の人々が「信仰によって働き、愛のために労苦し、また、私たちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していること」を神に感謝します。キリストの愛を、目に見える形で生き抜いている教会の姿への感謝です。

 私たちはキリストの十字架という、最も強烈な神の愛の証しを目の当たりにして、神の愛の価値観に虜にされ、その神の愛の価値観に基づいて生き、語り、行動することを通じて、福音を証ししていくのであります。

 教皇フランシスコは、本日の世界宣教の日にあたって、「ここに私がおります。私を遣わしてください」(イザヤ書6章8節)と言うタイトルでメッセージを発表されています。

 教皇は特に、感染症の非常事態に直面している私たちは「福音の中の弟子たちのように、思いもよらない激しい突風に不意を突かれたのです」と記しています。

 その上で教皇は、そういった体験を通じて私たちは「自分たちが同じ舟に乗っていることに気づきました… 皆でともに舟を漕ぐよう求められていて、だれもが互いに慰め合わなければならないのだと」と、共通の理解を持ち始めている、と指摘します。世界的な規模での連帯の必要性に、私たちは気がつかさせられています。

 こうした状況のなかにあるからこそ、教会は福音宣教の必要に目覚め、さらに取り組まなくてはならない、と教皇は指摘し、次のようにメッセージで述べています。

 「宣教への呼びかけと、神と隣人への愛のために自分の殻から出るようにとの招きは、分かち合い、奉仕し、執り成す機会として示されます。神から各自に託された使命は、おびえて閉じこもる者から、自分を差し出すことによって自分を取り戻し、新たにされる者へと私たちを変えるのです」

 教会共同体は、未知の感染症の状況の中でどのような道を歩むべきなのか迷っています。すべての命を守るために、これまで慎重な道を選択してきました。こうした状況にあっても、いやこうした状況だからこそ、私たちには、それぞれの生きる場での福音宣教者となることが求められています。不安が渦巻く困難な状況の中にあっても、誰一人忘れられてはいないのだ、神から心をかけられない命はありえないのだ、愛されていない命はないのだと、声を大にしてこの社会のただ中で叫びたい思いであります。

 世界宣教の日に当たり、改めて、「誰を使わすべきか」と問いかける神の声に気がつきましょう。そして自信を持って「ここに私がおります」と答えましょう。日々の生活の中で、自分が生きる姿勢、人と関わる姿勢、配慮の心、そして語り記す言葉をもって、愛と慈しみそのものであるイエスの福音を証してまいりましょう。

(表記は当用漢字表記に統一、また、聖書の引用部分は「聖書協会・共同訳」にさせていただきました「カトリック・あい」)

 

2020年10月17日

・「10月・ロザリオは信仰の危機に立ち向かう武器」菊地大司教・第28主日説教

2020年10月10日 (土) 年間第28主日@東京カテドラル

 東京は台風が近づいていることもあり、雨風の強い、寒い週末となりました。

 先日、相次いでいくつかの人事を公示しましたが、その中で、東京教区司祭の伊藤幸史師が、新潟教区へ移籍すると言う人事を発表しました。もともと東京教区と新潟教区は、同じ東京教会管区の仲間と言うこともあり、その中でも新潟教区が信徒数から言って一番小規模であることから、これまでも東京教区から司祭が出向の形で派遣されてきました。

 私が新潟の司教をしている間にも、東京教区の江部神父様が派遣され、新潟教会の主任司祭を務めてくださっておりました。伊藤幸史神父様は、やはり私がまだ新潟司教であった2013年に新潟教区へ派遣され、これまで糸魚川や新津などの教会で活躍されてきました。ご本人からはすでに数年前に教区移籍の打診がありましたが、このたび新潟に新しい司教が誕生したことから、早速両教区の司教同士で話し合い、移籍となりました。これからは伊藤幸史神父様は新潟教区司祭となります。新しく任命された成井司教様を助けて、新潟教区で活躍されることをお祈りします。

 なお司祭は、教区とか属人区とか修道会や宣教会などと言った教会法上の独立した法人組織に所属していない限り、司祭としての職務を果たすことは出来ませんし、恒常的に使徒職を果たすためには、働こうとしている当該教区の司教から、司祭としての権能を文書で委任されていなければなりません。

 さて、3月1日以来、コロナ禍で教会活動を制限せざるを得ない状況の中、主日ミサを日曜日または土曜日に、東京カテドラルから大司教司式ミサとしてネット配信してきました。お手伝いいただいている関口教会青年をはじめとするボランティアの皆さん、毎回聖歌隊を努めてくださっているイエスのカリタス会の志願者とシスター方には、本当に感謝しています。

 徐々に教会活動が再開してきており、諸行事も復活しつつありますし、またネット配信を始めている教会も増えています。そこで、カテドラルからの大司教ミサ配信は10月31日(土)をもって、いったん中断させていただきます。今後は状況を見極めて判断しますが、クリスマスなどの大きな行事や教区行事は配信をいたしますので、その際には、教区ホームページでお知らせいたします。なお、11月以降は、土曜日に大司教メッセージビデオを配信できるように、現在検討中です。

 以下、土曜晩の配信ミサ説教の原稿です。

【年間第28主日A(公開配信ミサ)東京カテドラル聖マリア大聖堂 2020年10月11日】

 「諸民族の心と精神の和解によって最後には真の平和が世界に輝くよう、幸いなるおとめマリアの助けを願うために、十月にロザリオを唱えることを強く勧めます」

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 教皇パウロ六世が1969年に発表された使徒的勧告「レクレンス・メンシス・オクトーベル」は、このように始まっています。

 改めて言うまでもなく、10月はロザリオの月であります。10月7日にはロザリオの聖母の祝日があり、また教会は伝統的に10月にロザリオを祈ることを勧めてきたこともあり、教皇レオ十三世によって10月が「ロザリオの月」と定められました。

 ロザリオの起源には諸説ありますが、十二世紀後半の聖人である聖ドミニコが、当時の異端と闘うときに、聖母からの啓示を受けて始まったと伝えられています。10月7日のロザリオの聖母の記念日も、1571年のレパントの海戦でのオスマン・トルコ軍に対する勝利が、ロザリオの祈りによってもたらされたとされていることに因んで定められています。そういったことだけを耳にすれば、ロザリオは戦いのための武器のようにも聞こえてしまいます。もちろん、ある意味、ロザリオは信仰における戦いのための道具とも言えるのかも知れませんから、歴史的背景が変わった現代社会にあっても、信仰を守り深めるために重要な存在であると思います。

 とりわけ今年のように、感染症拡大の事態にあって、目に見える形で教会に集まることが出来なかったり、聖体祭儀に共にあずかることが適わないという非常事態においては、まさしく信仰自体が危機にさらされていると言っても過言ではありません。そういう信仰の危機にあるからこそ、祈りによる連帯と一致は重要ですし、その意味でロザリオは信仰の危機に立ち向かう武器であるとも言えるでしょう。

 これまで長いこと私たちは、日曜に教会に集まることが、教会の一致の表現である、と思っていました。だからこそ、さまざまな事情で教会に来られない人たちや、洗礼後に教会を離れていった人たちに、日曜日に教会に戻っておいでなさい、と呼びかけてきました。なぜなら、集まっている教会にこそ、共同体の一致があると思っていたからです。

 しかし今回の緊急事態は、その集まることを不可能にすることで、「それでは教会共同体の一致とはどこにあるのだ」と、私たちに問いを投げかけてきました。まさしく、教会の一致はどこにあるのでしょう。共同体はどこにあるのでしょう。

 私たちの信仰は、もちろん個々人の信仰、すなわち一人ひとりに固有のイエスとの出会いの体験による信仰が基礎となっていますが、だからと言って、教会の信仰とは「個々人の信仰の単なる寄せ集め」ではありません。私たちはそれぞれが信仰を深めつつ、共同体において一致することで、共に神の民を形成し、共に信仰の旅路を歩んでまいります。私たちは、神の民です。

 ですから、「普遍教会の一員であり、教区共同体の一員であり、小教区共同体の一員である」という意識は、私たちの信仰にとって欠かせない共通認識です。 共同体における一致の意識は、もちろん物理的に一緒になることも含まれていますが、それだけに留まるものではありません。そこには霊的な意味での一致が不可欠です。不可欠と言うよりも、霊的な意味での一致がなければ、神の民は存在できません。

 相対的な価値判断が蔓延する現代社会にあって、「あれもこれもどれでもよい」という単なる数だけの集まりでは、霊的な一致は成り立ちません。身勝手な自己主張は、分裂しか生み出しません。私たちは、唯一の神に結ばれることで、霊的に一致して神の民となり、そして初めて、教会共同体は成立します。

 霊的一致をもたらしてくれるのは、私たちの祈りにおける絆であります。その意味で、聖母マリアを通じて祈るロザリオの祈りには、重要な意味があります。 教皇パウロ六世は、使徒的勧告「マリアーリス・クルトゥス」で、「(マリアが)信仰と愛徳との両面において、さらにまた、キリストとの完全な一致を保ったという点において、教会の卓越した模範であると仰がれている」(16)と指摘されます。

 その上で教皇は、「アヴェ・マリアの祈りを繰り返して唱え続けてゆくことによって、ロザリオは私たちに今一度福音における基本的に神秘である御言葉の受肉を提示してくれる・・・福音の祈りである」(44)と述べておられます。

 ロザリオの祈りを唱えることで、私たちを結び合わせているキリストの体における神秘的一致へと導かれ、どこにいても、いつであっても、一人でも、複数でも、ロザリオを唱えることで、私たちは聖母マリアがそうであったように、キリストの体において一致することが出来ます。 教皇ヨハネパウロ二世は「教会に命を与える聖体」において、「信者は洗礼によってキリストのからだと一つにされますが、この一致は、聖体のいけにえに与ることによって常に更新され、強められます」と記しておられます。(22)

 その上で教皇は、聖体の秘跡における一致によってキリスト者は、「すべての人のあがないのために、キリストによってもたらされた救いのしるしと道具、世の光、地の塩となる」と指摘します。

 したがって、私たちは、御聖体の秘跡に与ることによってキリストの体と一致した共同体となります。その共同体の一致は、祈りによってつなぎ合わされる霊的な一致によって、さらに強められ、私たちはどこにいてもキリストの体の一部として互いに支え合っていることを自覚しながら、世の光、地の塩として福音をあかししながら生きてまいります。

 パウロは、良い時にあっても困難な時にあっても、「いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっている」と記していました。どのような状況にあっても動じないパウロを支えていたのは、霊的にキリストの体に一致しているとの確信であり、それを支えている信仰共同体における兄弟姉妹との霊的一致の確信であったと思います。パウロの「秘訣」は、共同体の祈りの力であります。

 マタイ福音に記されている婚宴を催して人々を招待する王のように、主は霊的な力に豊かに満ちた祈りを用意して私たちを招いてくださいます。残念ながら、往々にして私たちは、婚宴の宴のように素晴らしく用意されている教会の祈りの伝統に目を向けず、畑に出かけたり商売に出かけた招待客のように、自分の現実社会での都合を優先させて、そこから逃れようとしています。

 私たちが祈りを通じて霊的に一致するように、またその一致を通じて共同体として社会のなかにあって、世の光、地の塩となるように、力ある豊かな祈りは、私たちのために用意されています。豊かな祈りの宝を、見失わないようにしましょう。

 聖母マリアを通じて人となられた神のみ言葉である主イエスへと導かれ、キリストの体に一致し、互いに支え合い、福音をあかししていくことが出来るように、招いてくださる主に背を向けないようにいたしましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2020年10月10日

・「命の福音を証しする宣教者は、皆さん一人ひとり」菊地大司教27主日説教

2020年10月 3日 (土) 年間第27主日@東京カテドラル

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 10月はロザリオの月です。

 10月7日にはロザリオの聖母の祝日があり、伝統的に10月にロザリオを祈ることが勧められてきたこともあり、教皇レオ十三世によって10月が「ロザリオの月」と定められました。

 ロザリオの起源には諸説ありますが、十二世紀後半の聖人である聖ドミニコが、当時の異端と闘うときに、聖母からの啓示を受けて始まったと言われています。10月7日のロザリオの聖母の記念日も、1571年のレパントの海戦でのオスマン・トルコ軍に対する勝利が、ロザリオの祈りによってもたらされたとされていることにちなむものですので、そういったことだけを耳にすれば、ロザリオは戦いのための武器のようにも聞こえてしまいます。

 もちろん、ある意味、ロザリオは信仰における戦いのために道具とも言えるのかも知れませんから、歴史的背景が変わった現代社会にあっても、信仰を守るために重要な存在であると思います。とりわけ、現在のように、家に留まって個人的に祈る機会がふえていますから、ロザリオの祈りを持って、霊的共同体の絆を深めることは意味があることだと思います。

 先日、ご案内の通り、ミサにおける年齢制限を解除しました。まだまだ慎重な行動が必要だと思いますので、健康に不安がある方はご自宅でお祈りくださって構いませんが、状況を見ながら、少しずつ、なるべく多くの方にミサに参加していただけるように、条件を見直していきたいと思います。

 それでも、原則としている三つの密を避けることや、マスクの着用を含めた咳エチケット、手指の消毒に関しては、大原則としてお忘れにならないようにお願いします。またミサにあずかる際には、それぞれの小教区独自の方法で、参加者の記録を残すようにしています。これは、クラスターなどが発生したと見なされた場合、その場にいた方々への連絡などをする必要性があるためです。ご協力をお願いいたします。

 本日10月3日午後、東京教区には新しい司祭が誕生しました。夕方6時から行われた主日ミサの説教でも、そのことに触れています。以下、その主日ミサの説教原稿です。

【年間第27主日A(公開配信ミサ)東京カテドラル聖マリア大聖堂 2020年10月3日】

 先ほど、10月3日の午後、この大聖堂で新しい司祭と助祭が誕生しました。東京教区は、喜びのうちに、ホルヘ・ラミレス神父と古市助祭を迎えます。

 教会において司祭になるとことは、就職とは全く違います。司祭への道は神からの呼びかけに応える道であり、その呼びかけに対して、「ここに私がおります。私を遣わしてください」(イザヤ書6章8節)と応えたことに基づいて歩み続ける人生の旅路です。

 さらにその召命は個人の問題ではありません。「召命を育てる義務は、キリスト教共同体全体にある」と、第二バチカン公会議の司祭の養成に関する教令は指摘しています。司祭は、自分たちと関係のない所で養成され、自動的に誕生して、小教区に与えられるような存在ではなく、教会共同体が自ら生み出し育てていく存在です。そのために、同教令は「共同体は、特にキリスト教的生活を十全に生きることによって、その義務を果たさなければならない」と指摘しています。

 ですから、今回新司祭が誕生したことも、それに続く助祭が誕生したことも、どこかで勝手に起こっている無関係な事柄なのではなく、教区共同体にとって、また小教区共同体にとって、自らの責任において関わっている大切な務めの結果であります。

 もちろん教区には一粒会という存在があり、祈りと献金を通じて、神学生の養成を支えてきました。皆さまの寛大なご支援に、心から感謝いたします。同時に教区の全員が、一粒会の会員であり、神学生養成に責任を持って関わっていることも思い起こしていただければと思います。

 さて、司祭への道は、冒頭で申し上げたように、会社への就職活動とは全く異なりますから、まさしく十人十色、一人ひとりに独自の物語が存在します。そして多くの場合、召命の道程は、人間が考え計画した通りには進まないことが多いのです。

 もちろん神学校での養成にはカリキュラムがあり、それに従って単位を取得して行かなければならないのですが、しかしそれは、いわゆる「資格取得」のための勉強でもありません。神学校は、「司祭になるための資格取得の学校」ではありません。

 自分が司祭になりたいと決意し、神学校の所定の単位を取ったからといって、それが即座に司祭となることとは結びつかないのです。司祭は資格ではなく、生きる道であります。それも自ら切り開く道ではなく、神が用意した計画を見いだしながら、神の呼びかけに生きる道であります。

 一人ひとりに司祭の召命の旅路についての話を聞く度に、今日の福音に記された詩編からの引用の言葉が思い浮かびます。

 「家を建てる者の捨てた石が隅の親石となった。これは主の業、私たちの目には驚くべきこと」(118章22節)

 ホルヘ神父も古市助祭も、いわゆる「一直線」に問題なく進んで、司祭や助祭になったわけではありません。東京教区の皆さんには、そういえば、数年前まで、この二人の名前は聞いたこともなかったと、いぶかしく思われた方も少なくないだろうと思います。二人とも非常にユニークな人生を歩み、紆余曲折を経て、最終的に東京教区の聖職者として、本日叙階を受けました。

 まさしく、「これは主の業、私たちの目には驚くべきこと」であります。

 先ほど私は、「最終的に東京教区の聖職者として」と申し上げました。でも、「叙階を受けること」が目的地ではありません。叙階式が目指すゴールではありません。司祭にとって、そこからが大切です。

 第一の朗読で、イザヤは「ぶどうを植えたものの、よい実を得ることが出来なかったこと」への神の憤りを記しています。

 「ぶどう畑に対してすべきことで、私がしなかったことがまだあるか。私は良いぶどうが実るのを待ち望んだのに、どうして酸っぱいぶどうが実ったのか」

 さまざまな紆余曲折を経て二人をここまで呼ばれ導かれた神は、まさしくぶどうを植えた神です。よい実がなることを待っておられる神です。神はなすべきことでなさらなかったことは、何一つありません。残されているのは、「植えられたものが、これからどのような実りを生み出すか」であります。したがって、ゴールはまだまだ先、と言わなければなりません。

 ですから、どうか司祭のためにお祈りください。1人でも多くの司祭が誕生するようにと。召命のために祈るのと同じように、司祭のこれからの生涯のためにお祈りください。神学校の卒業は完成品の誕生ではなく、これからさらに育てていく原型の誕生です。育てるのは、教会共同体の聖なる努めであります。必要な助けを与えてくださり、土台を用意してくださった神に、自信を持って良いぶどうを実りとして差し出すことができるように、司祭のためにお祈りをお願いいたします。

 さて、「召命なんて自分とは関係がない」と思われている方も、おられるのかも知れません。そんなことは全くありません。キリストの弟子となったすべての人には、それぞれ固有の召命があります。私たちはすべからく、ぶどうとして神から植えられ、多くの世話を神から受けています。私たちにも、よい実りを生み出す務めがあります。信徒の召命であります。

 第二バチカン公会議の教会憲章には、こう記されています。

 「信徒に固有の召命は、現世的なことがらに従事し、それらを神に従って秩序づけながら神の国を探し求めることである。自分自身の務めを果たしながら、福音の精神に導かれて、世の聖化のために、あたかもパン種のように内部から働きかけるためである」(31項)

 新型コロナウイルス感染症の事態が続く中で、多くの人が当たり前のように「命を守るための行動」などと、口にするようになりました。今の時点でも世界各地で、命を守るために尽力される医療関係者は多くおられ、その働きに心から感謝します。また病床にあって病気と闘っている多くの方に、神の慈しみの手が差し伸べられるように祈ります。

 今回の事態で、「命を守る」は、キリスト者の専売特許ではなくなりました。政治のリーダーですら、そう口にします。でも、少しだけ、そこには違いがあるようにも感じています。

 覚えておいでしょうか。昨年の教皇訪日のテーマは、何だったでしょう。「すべての命を守るため」であります。

 私たちキリスト者は、私の健康を守るために命を守ろうと言っているのではなく、私以外のすべての命を守るために行動しようと言っています。それは私たちが、すべての命が、神から与えられた賜物であり、等しく人間の尊厳があるからだと信じているからです。

 この私たちの賜物である命への思いを、この事態のただ中で広く伝えていくことは、重要です。社会のただ中にあって、その言葉と行いで、命の福音を証しする宣教者が必要です。そしてそれは、皆さん一人ひとりであります。「あたかもパン種のように」福音をあかしする皆さんの存在です。植えられたぶどうの木として、命を与えられた神に感謝しながら、自らの召命に忠実に生き、福音をパン種のように社会全体に及ぼしながら、神に喜ばれる良い実をつける者となりましょう。

 

(表記は当用漢字表記に、聖書の日本語訳は「聖書協会共同訳」を使用させていただきました。書き言葉で、大司教のメッセージをより良く理解していただくためです。ご了承ください=「カトリック・あい」)

2020年10月3日

・「互いに思いやりの心をもって助け合おう」菊地大司教・26主日の説教

2020年9月26日 (土)年間第26主日(世界難民移住移動者の日)@東京カテドラル

 9月最後の主日は、世界難民移住移動者の日と定められています。この日にあたって教皇様もメッセージを発表されています。(教皇メッセージは、こちらのリンクから、中央協議会のサイトでご覧ください)

 残念なお知らせですが、東京教区司祭、フランシスコ・ザベリオ岸忠雄神父様が、9月24日(木)午後2時5分、老衰のために、入居先のベタニアホームにて帰天されました。享年87歳でした。 ベテラン司祭をまたひとり失いました。岸神父様の永遠の安息のためにお祈りください。

 岸神父様の通夜は9月27日(日)午後6時から、葬儀ミサは9月28日(月)午前11時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われます。聖マリア大聖堂は現在、感染症対策のため入場制限をしておりますので、葬儀ミサ前にお別れの祈りをささげる時間を設けます。

 9月28日月曜日、午前9時半から10時半まで、岸神父様のご遺体を大聖堂に安置いたしますので、お別れの祈りの時としていただければと思います。

 以下、本日土曜日の夕方6時からささげた、年間第26主日ミサの説教原稿です。

年間第26主日A(公開配信ミサ)東京カテドラル聖マリア大聖堂

 「最高の福音宣教者であり、ご自身が福音そのものであるイエスは、もっとも小さい人と特別に同じ者となりました。(教皇フランシスコの使徒的勧告「福音の喜び」209)」

 「福音の喜び」にこのように記された教皇フランシスコは、2013年の教皇就任直後に、地中海に浮かぶイタリア領の島ランペドゥーザに赴かれ、アフリカから逃れてきた難民の人たちと出会い、彼らのために、また海の上で生命を落とした多くの人たちのために、祈りをささげられました。さらには、助けを求めている人たちの悲しみや苦しみに気がつくことのなかった怠りの罪を認め、ゆるしを願われました。それ以来、助けを必要としている人、社会の主流から忘れ去られている人、法的に困難な状況の中でいのちをつないでる人たちへの心配りを最優先とする姿勢は、教皇フランシスコの言葉と行いを通じて明確に現されてきました。

 教皇は「福音の喜び」に、「そこにおられるキリストに気づくよう、わたしたちは招かれているのです。すなわち、家のない人、依存症の人、難民、先住民族、孤独のうちに見捨てられてしまう高齢者などのことです」と記され、神のいつくしみそのものである主イエスに倣い、教会が、そしてわたしたちがいつくしみの無償で無尽蔵な提供者となるように、呼びかけられます。

 教会は、9月最後の主日を、「世界難民移住移動者の日」と定め、「各小教区とカトリック施設が、国籍を超えた神の国を求めて、真の信仰共同体を築き、全世界の人々と『共に生きる』決意を新たにする日」(中央協HP)としています。

 教皇は今年のテーマを、「イエス・キリストのように、逃れざるをえない国内避難民を受け入れ、守り、促し、彼らと共生する」と定められました。

 特に新型コロナウイルス感染症が蔓延する中で、政治経済の状況が不安定ないわゆる途上国にあっては、経済が悪化し医療資源も逼迫する中で、貧富の格差がさらに拡大していると伝えられます。とりわけ政情が不安定である地域にあっては、これまでも課題であった国内避難民が、公的な保護を受けられないことにより、いのちの危機に直面している状況が伝えられています。

 教皇は今年の祈願日のメッセージにおいて、世界が感染症対策にばかり目を奪われている陰で、「大勢の人々を苦しめている他の多くの人道的緊急事態が過小評価され、人命救済のため緊急で欠くことのできない国際的な取り組みや援助が、国の政策課題の最下位に押しやられていることは確か」だと指摘します。

 その上で教皇は、「今は忘れる時ではありません。自分たちが直面しているこの危機を理由に、大勢の人を苦しめている他の緊急事態を忘れることがあってはなりません」と呼びかけておられます。

 また教皇は、そういった困難に直面する人たちの現実を知り、歩みをともにする姿勢こそは、いのちの危機に直面する今だからこそ、普遍的に必要な生きる姿勢であることを思い起こすように呼びかけます。すなわち、社会にあって弱い立場に置かれている人たちへの特別な配慮が、ひいては社会全体を、神のいつくしみに導かれた生きる姿勢を優先する場に変えていくのだと、教皇は主張されています。

 神からのたまものであるいのちをいただいて、共に支え合いながら生きているわたしたちは、性格としての優しさの故に助け合うのではなく、与えられたいのちには神に由来する尊厳があるからこそ、互いに手を差し伸べ合い、いつくしみを目に見える形にして生きていきます。それは例えば、第二バチカン公会議の現代世界憲章に、こう記されています。

 「すべての人は理性的な霊魂を恵まれ、神の像として造られ、同じ本性と同じ根源をもち、さらにキリストによってあがなわれ、神から同じ召命と目的を与えられている。したがって、すべての人が基本的に平等であることは、よりいっそう認められなければならない(現代世界憲章29)」

 現在の日本では、国内避難民という存在は、遠い海外の事としか考えられません。しかし、カトリック難民移住移動者委員会のこの祈願日にあたってのメッセージには、「現代の日本にも多くの「国内避難民」が存在しています。すでに日本で生活しながら、さまざまな理由で家を失い避難している人びとです。非正規滞在となり、長期間入管施設に収容されている人、仮放免されても家が無い人、野宿を強いられている人、「ネットカフェ難民」と呼ばれる人」と記されています。

 また難民の方々だけではなくて、いまわたしたちと一緒にこの国でいのちを生きている多くの人が、さまざまな背景を抱えながら、いのちの危機に直面しています。世界各国と同様に日本に住む多くの人がいま、何らかの影響を受け、また孤独のうちに孤立して、いのちの危機に直面しています。東京教区でもCTICカトリック東京国際センターが中心となって、できる限りの援助活動をしていますが、それを一部の特別な活動としておく訳にはいきません。教会であるわたしたち全体が、それぞれできる限りの努力を重ね、社会全体が神のいつくしみを具体的に生きる場となるように変わるための原動力の一つになりたいと思います。

 教皇は祈願日のメッセージの終わりに、今般のパンデミックにあって、連帯のうちに協力するように呼びかけ、こう記しています。

 「『今は、エゴイズムの時ではありません。・・・』わたしたちの共通の家を守り、神の原初の計画にいっそう近づけるためには、だれをも排除しないかたちで、国際協力、世界的な連帯、地域レベルでの取り組みを確実なものとするよう努めなければなりません」

 パウロはフィリピの教会への手紙に、「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れたものと考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」と記していました。

 新型コロナウイルス感染症という状況の中で生きているわたしたちは、今年、助け合うために連帯する必要性を感じさせられ、実践させられています。自分だけを守ろうとする心ではなく、「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れたものと考え」、互いにいのちを守る努力をいたしましょう。

 もちろん思いやりの心を持っての助け合いは、わたしたちキリスト者の専売特許ではありません。しかしながら、福音にあるように、わたしたちは主イエスとの個人的な出会いを通じて、すでにこの事態が起こる遙かに以前から、いつくしみの主に倣い、互いを慮る道へと招かれていました。すでにその招きに従うと、福音に登場する兄弟のように、「お父さん、承知しました」と応えてしまっています。ですから、わたしたちには、その約束を実践することに大きな責任があります。

教会共同体を、社会のただ中にあって、神のいつくしみを提供する場とするように、まず自分自身から、神のいつくしみに生きる人生の歩みをはじめてまいりましょう。

2020年9月26日

・「神はすべての命を同じように愛され、守ろうとされる、私たちも…」菊地大司教の年間第25主日ミサ説教

2020年9月19日 (土) 年間第二十五主日@東京カテドラル

年間第二十五主日となりました。

 本日から、ミサに参加される方の年齢制限を解除いたしました。これまでは75歳以上の方には自宅からお祈りくださるようにお願いしていましたが、現在の対策を忠実に行う限り当面は大丈夫であろうと判断しました。もっとも不安のある方や健康に課題のある方にあっては、これまで通り自宅でお祈りすることを勧めます。また主日のミサ参加義務を、今後も当分の間、免除しております。

 ただ慎重な対応はまだまだ必要ですし、これから冬に向かってどのように状況が変化するか分かりませんので、状況に応じて判断をしていくように心掛けます。皆様のご理解と協力を、お願いいたします。

 9月20日からの一週間は、叙階の秘跡に関わる週間です。まず20日が私自身の司教叙階16年目の記念日であり、なおかつ22日は新潟教区において私の後任となる成井司教の司教叙階式があります。さらに26日の土曜日には、イエズス会の村山師の司祭叙階式も控えています。さらに昨年2月に秋津教会で助祭叙階式を行った御受難修道会の稲葉師の司祭叙階式も、関西で26日に行われるとうかがっています。それぞれ叙階を受けられる皆さんのために、お祈りください。その後、10月3日は、東京教区のホルヘ師の司祭叙階と古市師の助祭叙階も控えております。

 以下、本日午後6時からの主日ミサ(公開配信ミサ)の説教の原稿です。

【年間第25主日A(公開配信ミサ)東京カテドラル聖マリア大聖堂 2020年9月19日】

 

「パンデミックは、特に不平等という社会問題を浮かび上がらせ、それを大きくしました」ー8月26日にバチカンで行われた一般謁見での、教皇フランシスコの言葉です。「パンデミックは、特に不平等という社会問題を浮かび上がらせ、それを大きくしました」

教皇の言葉を待つまでもなく、今回の新型コロナウイルスによる感染症は、世界各地で、病気そのものとしても命への脅威となっていますが、同時に経済の側面からも、命への脅威となっています。

未知の病気に直面して感染症対策をとるにあたり、社会全体が立ち止まらざるを得なかった中で、勢い経済活動は停滞し、特に不安定な雇用状況にある人たちや、援助を必要とする人たちに、命への脅威が襲いかかりました。

教皇は一般謁見で、こう続けておられます。

「ある人々は家から仕事ができる一方で、他の多くの人にはそれができません。ある子どもたちは、困難にも関わらず、学校教育を受け続けることができますが、他の非常に多くの子どもたちにとっては、その教育はいきなり中断されました。一部の力のある国々は、この危機のために貨幣を発行できますが、他の国々にとって、それは未来を抵当に入れることを意味します」

途上国などの開発や発展を見守る国連開発計画は、2015年から2030年までの15年間で、持続可能な発展のためのさまざまな目標を掲げ、とりわけ過酷な環境の中でいのちをつないでいる世界の多くの人たちの生活改善に取り組んでいます。

その国連開発計画は、ホームページ上で、今回の事態に直面する中で、「世界の教育、健康、生活水準を総合した尺度である人間開発指数が、今年、測定を開始した1990年以来、初めて減少する可能性があると予測」していると記しています。

2000年からの15年の指針であったミレニアム開発目標と、2015年以降の15年の指針である持続可能な開発目標(SDGs)を実現し、すべての人がそれぞれの人間としての幸福を実感できる世界を目指そうとしていた国際社会は、ゆっくりではあるものの、確実に前進を続けていました。それが、1990年以来はじめて、前進を止め後退する危機に直面しているというのです。

国連開発計画は、「新型コロナウイルスには国境は関係なく、もっとも弱い立場にある人々がもっとも大きな打撃を受け続ける」と警告を発しています。

8月19日の一般謁見で、教皇フランシスコは、今回の感染症への対策には、まず治療法を見つけることと、さらに「社会の不正義、機会の不平等、疎外、もっとも貧しい人の保護」への取り組みという二つの癒しの対応が必要だ、と指摘し、こう言われました。

「この二つの癒しの対応において、福音書は、不可欠な一つの選択を示しています。それは、貧しい人々への優先的配慮という選択です」

もちろん教会は、これまで長年にわたって、さまざまなレベルでの援助活動や社会福祉に関わる事業を行ってきました。信徒の皆さんにも、教会内外で、積極的に社会貢献の活動をしておられる方が少なくありません。特に近年は、災害などが起こったときに、ボランティアとして現場に駆けつける人も増えてきていますし、そういったボランティア活動自体が、当たり前のこととして社会的に認知されるようになりました。

ただ今回のコロナ禍の事態による影響は、社会のさまざまな方面に及んでおり、日本においても、社会的に、経済的に、また法的に、弱い立場に置かれた多くの人たちを直撃しているという事例を耳にいたします。

本日の福音は、ぶどう園の主人と労働者の話でありますが、実に理解が難しい話でもあり、さまざまな側面から、それを解説することが出来る話でもあります。

そこには、命をつなぐために雇ってほしいと願う労働者が描かれ、また一日に5回も広場に出かけていって、そのたびに労働者を雇用するぶどう園の主人が描かれています。

客観的に見るならば、主人が5回も広場に出かけていくことによって多くの労働者が雇われたのですから、喜ぶべき出来事であります。しかしながら、世の常識から言えば、賃金は労働への対価ですから、長く働く方がより多く報いを受けて当然となりますので、なんとも釈然としない話でもあります。ただ単に、この主人のように優しくありなさい、と諭す話でもないように思います。

私はこのたとえ話は、人間の価値はどこにあるのかを教えている話であると思います。すなわち、どれほど働けるか、どれほど稼いでいるか、どれほど役に立つかと言った価値基準ではないところに、神は人間の価値を見い出していることを示す話であります。

確かに私たちが生きているいまの社会では、どれほど社会に貢献するかが、その人の命の価値であるかのように理解されるきらいがあります。

それは障害と共に生きている方々に生きている価値はないと断言していのちを奪った事件のような極端な事例に限らず、例えば、感染症が収束しない中で、感染した人を攻撃するような価値判断にも現されています。病気になって周囲への脅威だからという判断ではなく、社会に対する脅威となった命には価値がない、という判断を、如実に表している行動です。今回の事態に伴って発生する個人への攻撃や差別的言動の根源には、単なる優しさや思いやりの欠如ではなく、社会を支配する人間の命への価値観が反映されているように、私は思います。

「主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる」と記すイザヤ書は、自らが創造されたいのちを決して見捨てようとはしない、神の憐れみ深さを教えています。

「なぜ何もしないで一日中ここに立っているのか」というぶどう園の主人の言葉は、雇われることのなかった労働者が、一日中必死になって働く場所を求めている姿を、「一日中ここに立って」という言い回しから想起させてくれます。必死になって命をつなごうと努力する人間の命を、無条件に豊かに憐れみで包もうとする父である神の姿勢が、労働の時間に関係なく、同じように報いを与えるぶどう園の主人の姿に投影されています。命を創造し与えられた神は、その命が存在するというその事実だけを持って、すべての命を同じように愛され、守ろうとされています。そこから離れていくのは神の側ではなく、私たちであります。

命の危機を肌で感じたこの時だからこそ、私たちは、改めて、神の視点から見た人間の命の価値を思い起こしたいと思います。私たちに命を与えられた神が、条件なしにすべての命を愛おしく思うように、私たちも、困難に直面する多くの命に思いを馳せ、手を差し伸べ、支え合って生きたいと思います。共にいてくださる主に導かれ、すべての命を守るための行動をとり続けたいと思います。

(表記は当用漢字表記にさせていただいています=「カトリック・あい」)

2020年9月19日

・「コロナ禍の中、心を落ち着け、大切にすべきことを思い起こそう」菊地大司教の年間第24主日説教

年間第24主日@東京カテドラル 菊地東京大司教

年間第24主日となりました。

 東京教区では、現在の検査陽性者などの状況から、感染対策のステージは変更しないものの、いくつかの制限を変更することを検討しており、最終調整中です。9月14日月曜日の午後に、公表いたしますのでお待ちください。ただし、まだ慎重な対応は不可欠だと思いますので、大きな緩和は難しいと思われます。

 以下、本日土曜日の夕方6時から関口教会の主日ミサ(公開配信)で行った、ミサ説教の原稿です。

【年間第24主日A(公開配信ミサ)東京カテドラル聖マリア大聖堂 2020年9月12日)

 「あわれみ豊かな神をイエス・キリストは父として現してくださいました」ー教皇ヨハネパウロ二世の回勅「いつくしみ深い神」は、この言葉で始まります。

 その上で教皇は、社会をさらに人間的にすることが教会の任務であるとして、こう指摘しますー「社会がもっと人間的になれるのは、多くの要素を持った人間関係、社会関係の中に、正義だけでなく、福音の救世的メッセージを構成しているいつくしみ深い神を持ち込むときです。(14)」

 本日の第一朗読であるシラ書も、マタイ福音も、赦しと和解について記しています。

 自分と他者との関わりの中で、どうしても起こってしまう対立。互いを理解することが出来ないときに裁きが起こり、裁きは怒りを生み、対立を導き出してしまいます。シラ書は、人間関係における無理解によって発生する怒りや対立は、自分と神との関係にも深く影響するのだと指摘します。他者に対して裁きと怒りの思いを抱いたままで、今度は自分自身が神との関係の中で赦しをいただくことは出来ない。

 当然、私たちは、神の目においては足りない存在であり、神が望まれる道をしばしば外れ、繰り返し罪を犯してしまいます。そのたびごとに神に許しを請うのですが、神はまず、自分と他者との関係を正しくせよ、と求めます。赦しと和解を実現しなければ、どうして神に赦しを求めることができるだろうかと、シラ書は指摘します。

 マタイは、借金の帳消しに関わる王と家来とその仲間の話を持ち出し、イエスの言葉として「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」と記しています。もちろん490回赦せばよい、という話ではなく、七の七十倍という言葉で、「赦しの限りない深さ」を示します。

 なぜ赦し続けなくてはならないのか。それをパウロは、ローマの教会への手紙で「私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです」と記すことで、私たちの人生は、主ご自身が生きられた通りに生きることが目的なのだ、と指摘します。

 そして、私たちが倣おうとしている主イエスは、自らの命を奪う者を十字架上で赦す方であり、まさしくヨハネパウロ二世が言われるように、「哀れみ豊かな神を・・・父として現して」くださる方です。ですから、私たちは、哀れみ・慈しみそのものである神に倣い、徹底的に赦し、和解への道を歩まなくてはならず、それは私たち一人ひとりの性格が優しいからではなくて、主イエスに従うのだ、と人生の中で決めたのだからこそ、そうせざるを得ないのであります。

 私たちはこのところ、どちらへ進んだらよいのか迷い続ける、はっきりとしない状況の中に取り残されているような思いを、抱いています。感染症の事態は終息はせず、今日もまた、懸命に命を守るため努力を続ける医療関係者の方々がおられます。医療関係者の働きに敬意を持って感謝すると共に、迷い続けながらも、やはり命を守るために慎重な行動をとりながら、私たちも共に最善の道を模索し続けていきたいと思います。

 人生には不確定要素がつきものだとはいえ、いわば五里霧中のような状態が続けば続くほど、私たちは不安が増し、心に壁を築き上げ、自分を守ろうとするあまり、人間の身勝手さが社会の中で目につくようになってしまいます。

 「自粛警察」などという言葉も聞かれましたが、他者の言動に不寛容になるのは、自分の世界を守ろうとする心の壁を、強固に築き上げているからではないでしょうか。徹底的に異質なものを排除し、心の安定を得ようとするのは、それだけ心に余裕が失われているからではないかと思います。

 攻撃的な声も、そこここに聞こえてきます。感染症に限らず、例えば暴力的な行為の被害を受けた人に対する攻撃的な言動には、理不尽さを越えて、命に対する暴力性すら感じさせられます。私たちは、心を落ち着けて、何を大切にしなくてはならないのかを、いま一度、心に思い起こしたいと思います。

 東京ドームでのミサの説教で、教皇フランシスコは「キリスト者にとって、個々の人や状況を判断する唯一有効な基準は、神がご自分のすべての子どもたちに示しておられる、慈しみという基準です」と指摘されました。

 またこのカテドラルに集まった青年たちに、「恐れは、常に善の敵です。愛と平和の敵だからです。優れた宗教は、それぞれの人が実践している宗教はどれも、寛容を教え、調和を教え、慈しみを教えます。宗教は、恐怖、分断、対立を教えません。私たちキリスト者は、恐れることはない、と弟子たちに言われるイエスに耳を傾けます。どうしてでしょうか。私たちが神と共におり、神とともに兄弟姉妹を愛するなら、その愛は恐れを吹き飛ばすからです」と呼びかけられました。

 長期にわたる感染症の事態のなかにあって、改めてこの教皇の言葉を思い起こしたいと思います。今、私たちに必要なのは、愛と平和のための行動であり、慈しみという判断基準です。

 もっとも、神の慈しみは、ただただ優しければよい、何でもかんでも、とがめることなく赦せばよい、と言っているわけでもありません。何でも赦されて、何をしても良い、というのであれば、この社会に共同体は存在できません。私たちが、ただばらばらになってしまうだけ、だからです。七の七十倍のたとえは、犯した罪の責任を免除するものではありません。

 教皇ヨハネパウロ二世は、回勅「いつくしみ深い神」に、こう記されています。

 「出し惜しみしないで赦す要求が、正義の客観的諸要求を帳消しにするわけでないことは、言うまでもありません。・・・福音のメッセージのどのあたりを見ても、赦しとか、赦しの源泉である慈しみは、悪とか人をつまずかせることとか、損害をかけ侮辱したりするのを許容する赦し、というような意味ではありません。どんな時でも、悪とか、人をつまずかせたこととかは償い、損害は弁償し、侮辱は埋め合わせをするのが、赦しの条件となっています。(14)」

 他者の言動を裁くのは、常に私たちにとって大きな誘惑の一つです。特に不安と不確実さが社会を支配する時、その原因を求めて他者を裁いてしまう誘惑が増大します。教会共同体の中にさえ、互いを裁く傾向があることは、何年も前から指摘されてきたことでした。私たちは常に、裁きの共同体ではなく、赦しと和解の共同体になりたいと思います。

 教皇フランシスコの指摘ですー「必要なのは、自分の過去を振り返って祈り、自分自身を受け入れ、自分の限界をもって生きることを知り、そして、自分を赦すことです。他者にも同じ姿勢でいられるようにです。(「愛のよろこび」107)

 慈しみそのものである神に倣い、互いに赦しと和解を実現し、神の正義に支配される社会の実現を目指していきましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2020年9月13日

・菊地大司教の第23主日説教「賜物である互いの命を守り、『共通の家』を大切にして共に歩もう」

年間第23主日@東京カテドラル

 9月に入りました。最初の日曜日は被造物を大切にする世界祈願日です。

 また今年から、9月1日から10月4日までは、教皇フランシスコ訪日を記念して、「すべてのいのちを守るための月間」となっています。これについて解説する司教協議会会長の高見大司教の文章の注には、次のように記されています。

 「すでに正教会は、コンスタンティノープル全地総主教ディミトリオス一世のイニシアティブにより、1989年から9月1日を「被造物の保護を祈る日」としていました。その後2007年に開催された第3回ヨーロッパエキュメニカル会議において、その9月1日からアシジの聖フランシスコの記念日である10月4日までを「被造物のための期間」とすることが提唱され、世界教会会議(WCC)がそれを支持し、現在では「被造物の季節(Season of Creation)」としてエキュメニカルな年間行事になっています」(全文はこちら

 すなわち9月は、日本のカトリック教会だけではなく、世界中のキリスト者が、ともに天地の創造主である御父の与えてくださった共通の家のために、思いを馳せ、心を砕き、祈りをささげる「時」です。

 東京教区のホームページには、FABCの人間開発局(OHD)が整えた毎日の祈りの翻訳が掲載されています。すでに触れたように、原文が送付されてきたのが8月末で、9月に間に合わせるため、教区本部広報担当が急遽翻訳してくれました。短いけれど、豊かなテーマの祈りです。ご活用いただければと思います。リンクはこちらです

 さて、新型コロナウイルスの感染は、毎日新規に公表されるPCR検査の陽性者数が、若干低い数字で推移しているようですし、このところ東京の実効再生産数も1を切る日が続いています。まだまだ慎重な対応が必要ですが、現在の教会における感染症対策としての活動制限を、多少緩和することが出来るかどうか、意見を交換中です。とはいえ、即座に制限を撤廃できる要素はあまりありませんから、しばらくは慎重な対応が必要だと判断しています。したがって、9月6日から13日までの一週間も、これまで通りの感染症対策を継続します

 以下、本日の東京カテドラルにおける公開配信ミサの説教原稿です。

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年間第23主日A 東京カテドラル聖マリア大聖堂(公開配信ミサ)2020年9月6日 被造物を大切にする世界祈願日

 「ラウダート・シ、ミ・シニョーレ(私の主よ、あなたは讃えられますように)」というアシジの聖フランシスコの言葉で始まる回勅「ラウダート・シ」を2015年に発表された教皇フランシスコは、翌年から9月1日を「被造物を大切にする世界祈願日」と定められました。日本の教会は、9月1日が平日となることも多いことから、その直後の日曜日を、この特別な祈願日と定めています。今年は9月6日が「被造物を大切にする世界祈願日」であります。

 教皇はこの祈願日について、2016年の最初のメッセージで、「被造物の管理人となる、という自らの召命を再確認し、すばらしい作品の管理を私たちに託してくださったことを神に感謝し、被造物を守るために助けてくださるよう神に願い、私たちが生きているこの世界に対して犯された罪への赦しを乞うのにふさわしい機会」となる日であると述べておられます。

 教皇フランシスコが語られる「被造物への配慮」とは、単に「気候変動に対処しよう」とか、「温暖化を食い止めよう」という環境問題の課題にとどまってはいません。「ラウダート・シ」の副題として示されているように、教皇が最も強調する課題は「共に暮らす家を大切に」することであり、究極的には「この世界で私たちは何のために生きるのか、私たちはなぜここにいるのか、私たちの働きとあらゆる取り組みの目標はいかなるものか、私たちは地球から何を望まれているのか、といった問い」(160)に真摯に向き合うことを求めるものです。

 そのために教皇は、「あらゆるものは密接に関係し合っており、今日の諸問題は、地球規模の危機のあらゆる側面を考慮することの出来る展望を」(137)必要とする、と指摘され、それを「総合的エコロジーの視点」と呼んでおられます。

 そこでは、私たちが暮らす「共通の家」で発生しているすべての課題が教会の、そして全人類の取り組むべき課題であって、全体を総合的に考察することの重要性が強調されています。

 日本の教会は、昨年の教皇訪日を記念し、今年からこの世界祈願日にあわせて、9月1日からアシジの聖フランシスコの祝日である10月4日までを、「すべてのいのちを守るための月間」と定めました。

 日本の司教団は呼びかけのメッセージで、「すべての命を守るためには、ライフスタイルと日々の行動の変革が重要であることは言うまでもありませんが、とくにこの月間に、日本の教会全体で、すべてのいのちを守るという意識と自覚を深め、地域社会の人々、特に若者たちとともに、それを具体的な行動に移す努力をしたいと思います」と、その趣旨を説明しています。

 パウロはローマの教会への手紙で「その他どんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません」と記していました。

 パウロは「隣人への愛こそが、すべての掟の根本にあるのだ」と強調します。

 同じように、「共通の家」への配慮も、単に「住環境を良くしたい」とか、「健康を守りたい」とか、自分の利益を中心にした考えではなく、まさしく自分以外のすべての人に対する愛、隣人への愛に基づく配慮であり、行動です。

 新型コロナウイルス感染症によってもたらされた混乱の中に、私たちは立ちすくんでいます。今回の事態は、私たちに価値観を転換する機会を提供しています。これまで生活のために不可欠だ、変えることはできない、と思われていたことが、実は他にも選択肢があり得ること、変える可能性があることを、今回の事態は教えています。

 もちろん、感染拡大以前の世界に戻ることが一番簡単でしょう。しかし、今回の事態は、命を守るために、私たちは何を大切に生きるのかを問いかけています。隣人への愛を生きるために、どのような道を歩むべきなのかを、問いかけています。共通の家を守るために、何を選び、何を捨て去るのかと、問いかけています。

 しばしば耳にするようになった「新しい生活様式」とは、単に「物理的な行動の変革で感染を防止しよう」という消極的な視点に留まらず、「神からのたまものである命を守るために、いったい、人類が何を優先するべきなのか」を今一度考え直し、隣人愛に基づいて命を生きる新たなスタイルを確立するように求める概念であるように思います。

 しかしながら同時に、「共通の家」への配慮は、単に表面的な行動の改革を求めているものではありません。

 教皇は「ラウダート・シ」に、こう記されています。

 「『内的な意味での荒れ野があまりにも広大であるがゆえに、外的な意味での世の荒れ野が広がっています』。こうした理由で、生態学的危機は、心からの回心への召喚状でもあります」(217)

 その上で、教皇フランシスコは「必要なものは『エコロジカルな回心』であり、それは、イエス・キリストとの出会いがもたらすものを周りの世界との関わりの中で証しさせます。(217)… 永続的な変化をもたらすために必要とされるエコロジカルな回心はまた、共同体の回心でもあるのです」(219)と指摘されています。

 私たちは賜物として与えられている命を、一人で生きてはいません。創世記に記されているように「「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう(創世記2章18節)」と言われて、神は命を与えてくださいました。ですから私たちには、「共通の家」にあって互いに助ける者として存在し、互いへの愛、すなわち隣人愛の実践において、命を守る務めがあります。

 「この世界で私たちは何のために生きるのか」「私たちはなぜここにいるのか」「私たちの働きとあらゆる取り組みの目標はいかなるものか」「私たちは地球から何を望まれているのか」といった問いに答えを見いだそうとすることは、まさしく回心の第一歩であり、私たちはその回心を共同体として共に行わなければなりません。そしてその回心こそが、私たちを信仰における「新しい生活様式」へと導いてくれるでしょう。

 福音にあるように「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる」という、主ご自身の約束に信頼するとき、共同体としての回心の歩みには、常に主ご自身が同伴してくださることを私たちは確信します。

 与えられた賜物である命を大切にし、互いの命を守り、神によって創造された「共通の家」を大切にしながら、福音に基づいた生きる道を模索し続けましょう。

(「私」「命」「赦し」などは、当用漢字表に基づいた表記にさせていただいています。ひらがな表記よりも漢字表記が、言葉本来が持つ意味を良く伝え、筆者の意図も良く伝えられる、との判断からです=「カトリック・あい」)

 

2020年9月5日

・「『何が神の御心なのか』識別する機会が与えられている」菊地大司教の第22日主日の説教

年間第22主日@東京カテドラル

 2020.8.30

 8月もあと数日で終わりに近づき、今月最後の日曜日は年間第22主日となります。

 次週、9月6日の日曜日は、被造物を大切にする世界祈願日と定められています。教皇フランシスコは、2015年に回勅「ラウダート・シ-ともに暮らす家を大切に」を発表され、全世界の人に向けて、「私たちの共通の家」という総合的な視点から、エコロジーの様々な課題に取り組むことを呼びかけられました。その上で教皇は、毎年9月1日を「被造物を大切にする世界祈願日」と定められました。日本ではこの世界祈願日を9月最初の主日と定めています。

 また今年から、昨年の教皇訪日を受けて、9月1日から10月4日までを、「すべてのいのちを守るための月間」とすることも決められています。関連メッセージは教区ホームページに掲載しましたが、この月間のための祈りも用意され、カードが配布されています。なお教区本部広報担当では、アジア司教協議会連盟(FABC)の人間開発局(Office for Human Development)が用意した資料に基づいて、この月間のための毎日の「日毎の祈り」を、順次ホームページに掲載する予定です。

 この数日も東京では、PCR検査の陽性者数が一定程度、継続して報告されています。今回の感染はピークを越えたと言う専門家の指摘もありますが、いましばらくは推移を見守り、慎重に判断したいと思います。従って、8月30日から9月6日までの一週間も、これまで通りの感染対策を持って教会の活動を継続していきます

 以下、8月29日(土)午後6時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われた、関口教会の主日ミサ(公開・配信)の説教原稿です。

【年間第22主日A(公開配信ミサ)東京カテドラル聖マリア大聖堂 2020年8月30日】

 私たちは、人生の道程を歩むとき、常に選択を迫られて生き続けています。人生の歩む方向を大きく変えてしまうような重大な選択もあれば、日々の生活の中で次に何をするべきなのか、といった小さな選択まで、ありとあらゆる選択に直面しながら、私たちは人生を歩み続けています。

 新型コロナの感染症がなかなか終息する気配を見せない中、教会もこの数ヶ月間、様々な選択を迫られ続けてきました。中でも、私たちの信仰生活の中心であり、共同体の絆の見える形でもある主日のミサを、続けるべきか、中止するべきか。その選択は、簡単な決断ではありませんでした。教会はこれからも当分の間、一番大切な聖体祭儀に関して、難しい選択を迫られることになるだろうと想定しています。

 教会にとってご聖体の秘跡は「教会生活の中心に位置づけられます」と指摘されたのは、教皇ヨハネパウロ二世でした(回勅「教会にいのちを与える聖体」3項)。

 単に、「教会に集まって祈りの時を一緒にできない」ということに留まらず、「聖体祭儀にあってご聖体のうちに現存されている主イエスと一致する」という信仰生活の根幹を、教会が自ら放棄することが許されるのだろうか。聖体の秘跡は単なる象徴ではなく、「信者の共同体に救いをもたらすキリストの現存であり、共同体の霊的な糧」であり、「もっとも貴重な宝」であります(同回勅9項)。それを簡単に手放すことなど、できるわけがありません。私自身の霊名でもある聖タルチシオのように、命を賭けて御聖体を守りながら殉教していった信仰の先達も多くおられます。

 教会全体において、こういった緊急事態に遭遇した時にどうするのかを定めた規則はありません。世界中の司教さんたちが、同じことを考え、悩んだことと思いますが、私自身もさまざまな対応を考えながら、いろいろ思いつく度に、今日のマタイ福音の言葉が頭に浮かびました。

 「サタン、引き下がれ、あなたは私の邪魔をする者だ。神のことを思わず、人のことを思っている」(マタイ16章23節)。

 昨年の東京ドームで行われたミサで、教皇フランシスコは説教の最後にこう指摘されました。

 「命の福音を告げるということは、共同体として私たちを駆り立て、私たちに強く求めます。それは、傷を癒し、和解と赦しの道を常に差し出す準備のある、野戦病院となることです」。

 教皇フランシスコは、教会は命の福音を告げるための野戦病院であれ、と言われます。そうであるならば、教会は、困難な状況にあっても、扉を閉ざすことなく祈りの共同体として続けるべきではないのか。ミサを止めようなどと言うのは、恐れをなした人間の弱さに基づく判断ではないのか。そう思い悩みました。今でも悩み続けています。

 同時に教皇フランシスコは、私たちには判断の基準がある、とも言われます。同じ説教の中で、「キリスト者にとって、個々の人や状況を判断する唯一有効な基準は、神がご自分のすべての子どもたちに示しておられる、慈しみという基準です」と指摘されていました。すなわち、私たちは、神の慈しみという視点から判断した場合に、どういう道を選択するべきなのかを考え、よりふさわしい道を識別しなくてはなりません。

 教皇ヨハネパウロ二世は回勅「いつくしみ深い神」の中で、こう記しておられます。

 「イエスは、特に生き方と行動を通して、私たちの住むこの世の中に愛のあること、行動となる愛、人間に声をかけ、人の人間性を作り上げているすべてを抱きしめる愛のあることを明らかにされました。この愛が特に気づかれるのは、苦しみ、不正、貧困に接する時です」。

 その上で、教皇は「愛が自らを表す様態とか領域が、聖書の言葉では「哀れみ」と呼ばれています(3)」と指摘します。

 すなわち教会は今、苦しみに接する時にこそ、イエスの模範に倣って、その生き方と行動を通して、愛があることを証ししなくてはなりませんし、その愛の証しこそは、「哀れみ・慈しみ」と呼ばれる、ということになります。

 神のあふれんばかりの慈しみは、賜物である命への愛として表されていることを考えれば、現在の混乱を極めている危機的状況の中で、神の慈しみという基準からの判断は、命を最優先することに他なりません。

 賜物である命を守ることを最優先にして、教会は、危機に直面する中での一連の選択を行ってきましたし、その対応が大げさに過ぎるという指摘も受けることがありますが、現在の状況の中で命を守ることは、最優先の選択です。

 同時に、それでもなお教会は「野戦病院」であることを止めることも出来ません。私たちは、今のような状況にあっても、「傷を癒し、和解と赦しの道を常に差し出す準備のある野戦病院」であり続けなくてはなりません。それはすなわち、これまで存在しなかった新しい方法で、「野戦病院」となる道を探らなくてはならないことを意味しています。私たちは、知恵を絞りながら、これまでの前例に縛られることなく、神の望まれる道を実現するための道を見いだす努力を続けていかなくてはなりません。

 教皇フランシスコは「教会を老けさせ、過去に執着させ、停滞させ、動かないものにしてしまうものから、解き放たれていられるように、主に願いましょう(35項)」と、使徒的勧告「キリストは生きている」に記しておられます。

 今、この困難な状況に直面する中で、教会は様々な選択を迫られています。同時にそれが、信仰をより良く生きるための振り返りの機会をも、生み出しています。これまで通りにすべてをつつがなく進めよう、という誘惑から解き放たれ、教会が「教会らしく、常に若さにあふれた教会」となるための道を選択する機会を与えられています。

 「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を造り変えていただき、何が神の御心であるのか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」(ローマの信徒への手紙12章2節)とパウロがローマの教会に呼びかけたように、私たちもまた、この状況の中だからこそ、「何が神の御心であるか」をじっくりと、時間をかけながら識別する機会を与えられています。

 神の道を探し求めながら、信仰をよりふさわしく生きる道を選び続けましょう。

(注:漢字表記は「カトリック・あい」で使用している当用漢字表記とし、聖書の引用は「聖書協会 共同訳」に改めさせていただいています。)

2020年8月29日

・「命を育むイエスのメッセージを、1人でも多くの人に」菊地大司教の第21主日の説教

2020年8月23日 年間第21主日@東京カテドラル

 暑い毎日が続いています。残暑お見舞い申し上げます。

 新型コロナウイルス感染症による社会生活への影響はまだ続いており、新規陽性者の報告も続く中、今の段階で「感染はそろそろピークに到達しているのではないか」という専門家の指摘も聞かれるようになりました。

 幸い、教会においてクラスターが発生するような事態はこれまで報告されていませんが、以前にも申し上げたように、それが教会の行う活動制限や感染症対策の効果なのか、はたまた現在の感染症の状況がそういう程度なのかは、簡単に判断出来るものではありません。もっとも、さまざまな体験を積み重ねる中で、解明されたことも専門家からは多く報告されていますが、未知の部分も多々あり、命を守るために、現時点ではやはり慎重な行動をとることが賢明だと思われます。

 従って、8月23日から30日までの一週間も、これまで同様の対応を継続いたします。

 以下、本日土曜日夕方6時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われた、年間第21主日ミサの説教原稿です。

【年間第21主日A 東京カテドラル聖マリア大聖堂(公開配信ミサ)2020年8月23日】

私たちは、情報が満ちあふれている社会に生きています。ほんの十数年前と比較しても、驚くほどのスピードで、驚くほどに大量の情報を、どこにいても自由に手にする手段を、私たちは手に入れました。ただ、それほど大量に情報を手に入れるようになった私たちが、果たして十数年前より賢明な判断をするようになったのかどうかは、分かりません。

なぜならば、情報は受け手である私たち一人ひとりがふさわしく処理しなければ意味がなく、私たち自身の処理能力には、それほど大きな変化があった、とは思われないからです。もしかしたら、あまりに大量の情報を前にして、翻弄されているだけなのかも知れません。

飛び交っている情報の中には、様々な種類があることを私たちは知っています。信頼に足る情報もあれば、全くでたらめな情報もある。善意に満ちた情報もあれば、悪意に満ちた情報すら存在する。

押し寄せる情報の中に取り込まれながら、与えられた命をより良く生きようとする時、私たちは命を豊かに育み、心の糧となる情報を見分けなくてはなりません。

残念ながら実際には、例えば「フェイクニュース」と呼ばれる真実とはほど遠い情報が存在したり、悪意のある情報が、人の心を傷つけ、時には大切な命を奪うほどの負の力となることもあります。

今年5月の第54回「世界広報の日」にあたって、教皇フランシスコはメッセージを発表され、その中で次のように指摘されています。

「私たちはどれだけおしゃべりやうわさ話に躍起になって、どれほど暴力や虚言を振るっているのか、ほとんど自覚していません。・・・裏づけのない情報を寄せ集め、ありきたりな話や一見説得力のありそうな話を繰り返し、ヘイトスピーチで人を傷つけ、人間の物語を紡ぐどころか、人間から尊厳を奪っているのです」

その上で教皇は「道具として用いられる物語や権力のための物語は長くは続きませんが、よい物語は時空を超えます。命を育むものなので、幾世紀を経ても普遍なのです」と指摘され、「主イエスご自身によって紡ぎ出される命を育む物語にこそ、普遍的な価値がある」として、耳を傾けるように呼びかけられます。

さらに教皇は、聖書に記された物語は、イエスを中心にした「神と人間との壮大なラブストーリー」だと指摘して、次のように述べておられます。

「イエスの物語は、神の人間への愛を完成させ、同時に、人間の神へのラブストーリーも完成させます。ですから人間は、種々の物語から成るこの物語の中の重要なエピソードの数々を、世代から世代へと語り伝え、記憶にとどめなければなりません」

情報が荒波のように押し寄せる現代社会に翻弄されながら、命をより良く生きようとする私たちは、時空を越えて命を育む物語を選び取り、それに生き、そして、その物語を自分のものとして、さらに多くの人へと語り継いでいかなくてはなりません。

本日のマタイ福音では、主イエスが弟子たちに「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」と尋ねた話が記されています。

主は「皆は私のことを何と言っているのだ」と、まるで現代を生きる私たち自身が、しばしば気に病んでいるようなことを尋ねられます。

それに対して弟子たちは、現代を生きる私たちがそうするように、「あちらではこう言っていた、こちらではこう言っていた、あの人はこう言っていた」などと、聞いてきた話をイエスに伝えます。聞いてきた話、すなわち「うわさ話」であります。

考えてみれば、私たちは「うわさ話」に取り囲まれています。私たちを包み込んで大量に流れている情報の多くも、極端に言えば「うわさ話」に過ぎません。その内容に誰も責任を負うことなく、出所も確かではなく、それがどういう効果を社会に及ぼすのかも配慮されないまま、そして時には悪意を込めて、一人歩きをするように社会に流されていく「うわさ話」は、なぜなのか私たちの興味をそそります。

大量に流れている情報を処理できずに困惑するとき、単純明快に結論を出してくれる「うわさ話」を、ありがたいと感じる誘惑もあります。しかし「うわさ話」は多くの場合、自分とは異なる存在との差異を強調することで、自らの立場を有利に感じさせ、自尊心をくすぐる誘惑です。無責任な「うわさ話」は、差別を生み出す負の力を秘めています。いや、実際に命を奪ってしまうほどの、暴力的な負の力を秘めています。

だからこそ、主イエスは弟子たちに「それでは、あなた方は私を何者だと言うのか」と迫ります。「うわさ話はもう良い、あなた自身はどう考え、どう判断しているのだ。自分の決断をここで明確にしろ」と、迫力を込めてイエスは弟子たちに迫ります。

すなわち、どこかの誰かが解説してくれる分かりやすいイエスの姿ではなく、自分自身がイエスと対峙して、その物語に直接耳を傾け、具体的に出会う中で見いだした、「私のイエス」について語るように求めているのです。

命を育む真理の物語は、どこかの誰かの知恵から生み出されるのではなく、パウロが「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。誰が、神の定めを極め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」と記したように、人知を遙かに超えた神ご自身が語られる言葉、すなわち「人となられた神の言葉」である主イエスから生み出され、物語られます。

教皇は先ほどのメッセージの終わりにこう記されます。

「そうして私たちは、語り手である主ー決定的な視点をもつ唯一の方ーのまなざしをもって、主要な登場人物たち、つまり今日の物語の中でわたしたちのすぐそばにいる役者である兄弟姉妹に歩み寄ります。そうです。世界という舞台では、誰も端役ではありませんし、どの人の物語も、生じうる変化に開かれているからです」

すなわち、ご自分の真理の物語を語られる主イエスは、今度は私たち自身が自分と主との物語を他の人に向けて物語ることを待っておられます。そしてそのすべてが、「たとえどんな物語であっても、命の与え主である神の前では、一つ一つが大切なのだ」と指摘されています。

「私たちは、『欺きはしない命と愛』という宝と、『誤らせも失望もさせない』メッセージを持っています… それは時代後れのものになったりはしない真理です」と、教皇フランシスコは「福音の喜び」(265)に記されています。

あふれんばかりの情報に翻弄されることなく、心静かにイエスの物語に耳を傾け、イエスと出会い、命を育むメッセージを、1人でも多くの人に伝えていく努力を続けましょう。

  (原文のまま、表記のみ、当用漢字表に基づくなどして、読みやすく修正させていただきました=カトリック・あい)

2020年8月22日