・「命を育むイエスのメッセージを、1人でも多くの人に」菊地大司教の第21主日の説教

2020年8月23日 年間第21主日@東京カテドラル

 暑い毎日が続いています。残暑お見舞い申し上げます。

 新型コロナウイルス感染症による社会生活への影響はまだ続いており、新規陽性者の報告も続く中、今の段階で「感染はそろそろピークに到達しているのではないか」という専門家の指摘も聞かれるようになりました。

 幸い、教会においてクラスターが発生するような事態はこれまで報告されていませんが、以前にも申し上げたように、それが教会の行う活動制限や感染症対策の効果なのか、はたまた現在の感染症の状況がそういう程度なのかは、簡単に判断出来るものではありません。もっとも、さまざまな体験を積み重ねる中で、解明されたことも専門家からは多く報告されていますが、未知の部分も多々あり、命を守るために、現時点ではやはり慎重な行動をとることが賢明だと思われます。

 従って、8月23日から30日までの一週間も、これまで同様の対応を継続いたします。

 以下、本日土曜日夕方6時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われた、年間第21主日ミサの説教原稿です。

【年間第21主日A 東京カテドラル聖マリア大聖堂(公開配信ミサ)2020年8月23日】

私たちは、情報が満ちあふれている社会に生きています。ほんの十数年前と比較しても、驚くほどのスピードで、驚くほどに大量の情報を、どこにいても自由に手にする手段を、私たちは手に入れました。ただ、それほど大量に情報を手に入れるようになった私たちが、果たして十数年前より賢明な判断をするようになったのかどうかは、分かりません。

なぜならば、情報は受け手である私たち一人ひとりがふさわしく処理しなければ意味がなく、私たち自身の処理能力には、それほど大きな変化があった、とは思われないからです。もしかしたら、あまりに大量の情報を前にして、翻弄されているだけなのかも知れません。

飛び交っている情報の中には、様々な種類があることを私たちは知っています。信頼に足る情報もあれば、全くでたらめな情報もある。善意に満ちた情報もあれば、悪意に満ちた情報すら存在する。

押し寄せる情報の中に取り込まれながら、与えられた命をより良く生きようとする時、私たちは命を豊かに育み、心の糧となる情報を見分けなくてはなりません。

残念ながら実際には、例えば「フェイクニュース」と呼ばれる真実とはほど遠い情報が存在したり、悪意のある情報が、人の心を傷つけ、時には大切な命を奪うほどの負の力となることもあります。

今年5月の第54回「世界広報の日」にあたって、教皇フランシスコはメッセージを発表され、その中で次のように指摘されています。

「私たちはどれだけおしゃべりやうわさ話に躍起になって、どれほど暴力や虚言を振るっているのか、ほとんど自覚していません。・・・裏づけのない情報を寄せ集め、ありきたりな話や一見説得力のありそうな話を繰り返し、ヘイトスピーチで人を傷つけ、人間の物語を紡ぐどころか、人間から尊厳を奪っているのです」

その上で教皇は「道具として用いられる物語や権力のための物語は長くは続きませんが、よい物語は時空を超えます。命を育むものなので、幾世紀を経ても普遍なのです」と指摘され、「主イエスご自身によって紡ぎ出される命を育む物語にこそ、普遍的な価値がある」として、耳を傾けるように呼びかけられます。

さらに教皇は、聖書に記された物語は、イエスを中心にした「神と人間との壮大なラブストーリー」だと指摘して、次のように述べておられます。

「イエスの物語は、神の人間への愛を完成させ、同時に、人間の神へのラブストーリーも完成させます。ですから人間は、種々の物語から成るこの物語の中の重要なエピソードの数々を、世代から世代へと語り伝え、記憶にとどめなければなりません」

情報が荒波のように押し寄せる現代社会に翻弄されながら、命をより良く生きようとする私たちは、時空を越えて命を育む物語を選び取り、それに生き、そして、その物語を自分のものとして、さらに多くの人へと語り継いでいかなくてはなりません。

本日のマタイ福音では、主イエスが弟子たちに「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」と尋ねた話が記されています。

主は「皆は私のことを何と言っているのだ」と、まるで現代を生きる私たち自身が、しばしば気に病んでいるようなことを尋ねられます。

それに対して弟子たちは、現代を生きる私たちがそうするように、「あちらではこう言っていた、こちらではこう言っていた、あの人はこう言っていた」などと、聞いてきた話をイエスに伝えます。聞いてきた話、すなわち「うわさ話」であります。

考えてみれば、私たちは「うわさ話」に取り囲まれています。私たちを包み込んで大量に流れている情報の多くも、極端に言えば「うわさ話」に過ぎません。その内容に誰も責任を負うことなく、出所も確かではなく、それがどういう効果を社会に及ぼすのかも配慮されないまま、そして時には悪意を込めて、一人歩きをするように社会に流されていく「うわさ話」は、なぜなのか私たちの興味をそそります。

大量に流れている情報を処理できずに困惑するとき、単純明快に結論を出してくれる「うわさ話」を、ありがたいと感じる誘惑もあります。しかし「うわさ話」は多くの場合、自分とは異なる存在との差異を強調することで、自らの立場を有利に感じさせ、自尊心をくすぐる誘惑です。無責任な「うわさ話」は、差別を生み出す負の力を秘めています。いや、実際に命を奪ってしまうほどの、暴力的な負の力を秘めています。

だからこそ、主イエスは弟子たちに「それでは、あなた方は私を何者だと言うのか」と迫ります。「うわさ話はもう良い、あなた自身はどう考え、どう判断しているのだ。自分の決断をここで明確にしろ」と、迫力を込めてイエスは弟子たちに迫ります。

すなわち、どこかの誰かが解説してくれる分かりやすいイエスの姿ではなく、自分自身がイエスと対峙して、その物語に直接耳を傾け、具体的に出会う中で見いだした、「私のイエス」について語るように求めているのです。

命を育む真理の物語は、どこかの誰かの知恵から生み出されるのではなく、パウロが「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。誰が、神の定めを極め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」と記したように、人知を遙かに超えた神ご自身が語られる言葉、すなわち「人となられた神の言葉」である主イエスから生み出され、物語られます。

教皇は先ほどのメッセージの終わりにこう記されます。

「そうして私たちは、語り手である主ー決定的な視点をもつ唯一の方ーのまなざしをもって、主要な登場人物たち、つまり今日の物語の中でわたしたちのすぐそばにいる役者である兄弟姉妹に歩み寄ります。そうです。世界という舞台では、誰も端役ではありませんし、どの人の物語も、生じうる変化に開かれているからです」

すなわち、ご自分の真理の物語を語られる主イエスは、今度は私たち自身が自分と主との物語を他の人に向けて物語ることを待っておられます。そしてそのすべてが、「たとえどんな物語であっても、命の与え主である神の前では、一つ一つが大切なのだ」と指摘されています。

「私たちは、『欺きはしない命と愛』という宝と、『誤らせも失望もさせない』メッセージを持っています… それは時代後れのものになったりはしない真理です」と、教皇フランシスコは「福音の喜び」(265)に記されています。

あふれんばかりの情報に翻弄されることなく、心静かにイエスの物語に耳を傾け、イエスと出会い、命を育むメッセージを、1人でも多くの人に伝えていく努力を続けましょう。

  (原文のまま、表記のみ、当用漢字表に基づくなどして、読みやすく修正させていただきました=カトリック・あい)

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2020年8月22日