・「コロナ禍の中、心を落ち着け、大切にすべきことを思い起こそう」菊地大司教の年間第24主日説教

年間第24主日@東京カテドラル 菊地東京大司教

年間第24主日となりました。

 東京教区では、現在の検査陽性者などの状況から、感染対策のステージは変更しないものの、いくつかの制限を変更することを検討しており、最終調整中です。9月14日月曜日の午後に、公表いたしますのでお待ちください。ただし、まだ慎重な対応は不可欠だと思いますので、大きな緩和は難しいと思われます。

 以下、本日土曜日の夕方6時から関口教会の主日ミサ(公開配信)で行った、ミサ説教の原稿です。

【年間第24主日A(公開配信ミサ)東京カテドラル聖マリア大聖堂 2020年9月12日)

 「あわれみ豊かな神をイエス・キリストは父として現してくださいました」ー教皇ヨハネパウロ二世の回勅「いつくしみ深い神」は、この言葉で始まります。

 その上で教皇は、社会をさらに人間的にすることが教会の任務であるとして、こう指摘しますー「社会がもっと人間的になれるのは、多くの要素を持った人間関係、社会関係の中に、正義だけでなく、福音の救世的メッセージを構成しているいつくしみ深い神を持ち込むときです。(14)」

 本日の第一朗読であるシラ書も、マタイ福音も、赦しと和解について記しています。

 自分と他者との関わりの中で、どうしても起こってしまう対立。互いを理解することが出来ないときに裁きが起こり、裁きは怒りを生み、対立を導き出してしまいます。シラ書は、人間関係における無理解によって発生する怒りや対立は、自分と神との関係にも深く影響するのだと指摘します。他者に対して裁きと怒りの思いを抱いたままで、今度は自分自身が神との関係の中で赦しをいただくことは出来ない。

 当然、私たちは、神の目においては足りない存在であり、神が望まれる道をしばしば外れ、繰り返し罪を犯してしまいます。そのたびごとに神に許しを請うのですが、神はまず、自分と他者との関係を正しくせよ、と求めます。赦しと和解を実現しなければ、どうして神に赦しを求めることができるだろうかと、シラ書は指摘します。

 マタイは、借金の帳消しに関わる王と家来とその仲間の話を持ち出し、イエスの言葉として「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」と記しています。もちろん490回赦せばよい、という話ではなく、七の七十倍という言葉で、「赦しの限りない深さ」を示します。

 なぜ赦し続けなくてはならないのか。それをパウロは、ローマの教会への手紙で「私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです」と記すことで、私たちの人生は、主ご自身が生きられた通りに生きることが目的なのだ、と指摘します。

 そして、私たちが倣おうとしている主イエスは、自らの命を奪う者を十字架上で赦す方であり、まさしくヨハネパウロ二世が言われるように、「哀れみ豊かな神を・・・父として現して」くださる方です。ですから、私たちは、哀れみ・慈しみそのものである神に倣い、徹底的に赦し、和解への道を歩まなくてはならず、それは私たち一人ひとりの性格が優しいからではなくて、主イエスに従うのだ、と人生の中で決めたのだからこそ、そうせざるを得ないのであります。

 私たちはこのところ、どちらへ進んだらよいのか迷い続ける、はっきりとしない状況の中に取り残されているような思いを、抱いています。感染症の事態は終息はせず、今日もまた、懸命に命を守るため努力を続ける医療関係者の方々がおられます。医療関係者の働きに敬意を持って感謝すると共に、迷い続けながらも、やはり命を守るために慎重な行動をとりながら、私たちも共に最善の道を模索し続けていきたいと思います。

 人生には不確定要素がつきものだとはいえ、いわば五里霧中のような状態が続けば続くほど、私たちは不安が増し、心に壁を築き上げ、自分を守ろうとするあまり、人間の身勝手さが社会の中で目につくようになってしまいます。

 「自粛警察」などという言葉も聞かれましたが、他者の言動に不寛容になるのは、自分の世界を守ろうとする心の壁を、強固に築き上げているからではないでしょうか。徹底的に異質なものを排除し、心の安定を得ようとするのは、それだけ心に余裕が失われているからではないかと思います。

 攻撃的な声も、そこここに聞こえてきます。感染症に限らず、例えば暴力的な行為の被害を受けた人に対する攻撃的な言動には、理不尽さを越えて、命に対する暴力性すら感じさせられます。私たちは、心を落ち着けて、何を大切にしなくてはならないのかを、いま一度、心に思い起こしたいと思います。

 東京ドームでのミサの説教で、教皇フランシスコは「キリスト者にとって、個々の人や状況を判断する唯一有効な基準は、神がご自分のすべての子どもたちに示しておられる、慈しみという基準です」と指摘されました。

 またこのカテドラルに集まった青年たちに、「恐れは、常に善の敵です。愛と平和の敵だからです。優れた宗教は、それぞれの人が実践している宗教はどれも、寛容を教え、調和を教え、慈しみを教えます。宗教は、恐怖、分断、対立を教えません。私たちキリスト者は、恐れることはない、と弟子たちに言われるイエスに耳を傾けます。どうしてでしょうか。私たちが神と共におり、神とともに兄弟姉妹を愛するなら、その愛は恐れを吹き飛ばすからです」と呼びかけられました。

 長期にわたる感染症の事態のなかにあって、改めてこの教皇の言葉を思い起こしたいと思います。今、私たちに必要なのは、愛と平和のための行動であり、慈しみという判断基準です。

 もっとも、神の慈しみは、ただただ優しければよい、何でもかんでも、とがめることなく赦せばよい、と言っているわけでもありません。何でも赦されて、何をしても良い、というのであれば、この社会に共同体は存在できません。私たちが、ただばらばらになってしまうだけ、だからです。七の七十倍のたとえは、犯した罪の責任を免除するものではありません。

 教皇ヨハネパウロ二世は、回勅「いつくしみ深い神」に、こう記されています。

 「出し惜しみしないで赦す要求が、正義の客観的諸要求を帳消しにするわけでないことは、言うまでもありません。・・・福音のメッセージのどのあたりを見ても、赦しとか、赦しの源泉である慈しみは、悪とか人をつまずかせることとか、損害をかけ侮辱したりするのを許容する赦し、というような意味ではありません。どんな時でも、悪とか、人をつまずかせたこととかは償い、損害は弁償し、侮辱は埋め合わせをするのが、赦しの条件となっています。(14)」

 他者の言動を裁くのは、常に私たちにとって大きな誘惑の一つです。特に不安と不確実さが社会を支配する時、その原因を求めて他者を裁いてしまう誘惑が増大します。教会共同体の中にさえ、互いを裁く傾向があることは、何年も前から指摘されてきたことでした。私たちは常に、裁きの共同体ではなく、赦しと和解の共同体になりたいと思います。

 教皇フランシスコの指摘ですー「必要なのは、自分の過去を振り返って祈り、自分自身を受け入れ、自分の限界をもって生きることを知り、そして、自分を赦すことです。他者にも同じ姿勢でいられるようにです。(「愛のよろこび」107)

 慈しみそのものである神に倣い、互いに赦しと和解を実現し、神の正義に支配される社会の実現を目指していきましょう。

(編集「カトリック・あい」)

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2020年9月13日