・「私たちは常に目覚めているか」-菊地大司教の年間第32主日の言葉

年間第32主日Aメッセージビデオ 2020年11月8日

 感染症が拡大し始めた初期の頃、毎日報道される感染者数に、恐れをなしたり安心してみたりと、一喜一憂を繰り返していました。少しでも感染者数が前日を上回っていたり、亡くなられた方があったという報道に接する度に、自らの命の危機を肌で感じて対策に奔走したものです。

 いわゆる第一波がある程度落ち着いた後、東京では再び毎日の検査での陽性者数が200人を超えることが続き、メディアでも、またその報道に接する私たちも、数字の発表を固唾をのんで待っているような状態でした。

 現在でも、東京では毎日午後3時になると、検査で陽性となった方々の人数が公表され、同時に亡くなられた方や重症の方の人数も公表されています。残念ながら、まだまだ感染が治まったとは言い難い数字が日々報道されていますが、何か当初のような興奮は冷めやり、まるで当たり前の数字であるかのように、報道でもそれを受け取るわたしたちでも、聞き流してしまうことが増えたように感じています。

 災害への備えについてもそうですが、やはり私たちは、時間が経過するにつれて当初の強烈な印象を忘れてしまったり、または毎日継続する数字に慣れっこになってしまうものです。

 本当は、何もない普段の時にこそ、緊急時を想定して備えておかなければ、いざという時には何も役に立たないことを私たちは経験上よく知っています。にもかかわらず、私たちの危機感は、実際の危機に直面しないことにはエンジンが始動しないのです。

 新型コロナ感染症にしても、すでに専門家からは、この冬に備えなくてはならない、という指摘があり、私たちも毎年冬のインフルエンザ流行の体験から、危険が迫っていることに体験的に気がつきながら、現時点での何か一段落したような雰囲気の中で制限を解除することにばかり気をとられ、次への備えがおろそかになりつつあるようにも感じます。

 今日のマタイ福音は、将来を見越してしっかりと準備をしていた五人のおとめと、今現在のことにしか関心がなく、将来への備えを怠っていた五人のおとめが登場します。

 イエスは、この話の締めくくりに、「だから目を覚ましていないさい。あなた方は、その日、そのときを知らないのだから」と述べておられます。

 私たちは、常に目覚めているでしょうか。何もない普段にこそ、心を備えておかなければ、肝心のいざという時には、何も役に立たない。私たちのその常日頃からの備えは、何のためのどのような備えでしょうか。私自身が救われるためだけの自己研鑽の備えでしょうか。何を備えるべきなのでしょうか。

 教皇フランシスコは、使徒的勧告「喜びに喜べ」に次のように記しておられました。

 「最も困窮した人が味わう困難な状況において、教会はそれを理解し、慰め、平等に全体の中に参加できるよう特別に配慮すべきであり、石のような規則を押しつけてはなりません」

 さらに「福音の持つ癒しの力と光を差し出すよりも、福音を無理に吹き込もう、とする人は、それを他者に投げつけるための石打ちの刑に変えてしまう」とまで言われます(49)

 私たちの備えとは、福音を証しして語り、また行動することであります。その証しは、「福音の持つ癒しの力と光を差し出す」ことにあり、他者を石打ちの刑に処するために正しさを押しつけ、断罪しようとする行動ではありません。

 目覚めている私たちは、常に目を他者の必要に向け、神の愛と慈しみそのものである主イエスの福音を証しするため、言葉と行いを持って、心を常に備えておくようにいたしましょう。

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2020年11月9日