・「命の福音を証しする宣教者は、皆さん一人ひとり」菊地大司教27主日説教

2020年10月 3日 (土) 年間第27主日@東京カテドラル

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 10月はロザリオの月です。

 10月7日にはロザリオの聖母の祝日があり、伝統的に10月にロザリオを祈ることが勧められてきたこともあり、教皇レオ十三世によって10月が「ロザリオの月」と定められました。

 ロザリオの起源には諸説ありますが、十二世紀後半の聖人である聖ドミニコが、当時の異端と闘うときに、聖母からの啓示を受けて始まったと言われています。10月7日のロザリオの聖母の記念日も、1571年のレパントの海戦でのオスマン・トルコ軍に対する勝利が、ロザリオの祈りによってもたらされたとされていることにちなむものですので、そういったことだけを耳にすれば、ロザリオは戦いのための武器のようにも聞こえてしまいます。

 もちろん、ある意味、ロザリオは信仰における戦いのために道具とも言えるのかも知れませんから、歴史的背景が変わった現代社会にあっても、信仰を守るために重要な存在であると思います。とりわけ、現在のように、家に留まって個人的に祈る機会がふえていますから、ロザリオの祈りを持って、霊的共同体の絆を深めることは意味があることだと思います。

 先日、ご案内の通り、ミサにおける年齢制限を解除しました。まだまだ慎重な行動が必要だと思いますので、健康に不安がある方はご自宅でお祈りくださって構いませんが、状況を見ながら、少しずつ、なるべく多くの方にミサに参加していただけるように、条件を見直していきたいと思います。

 それでも、原則としている三つの密を避けることや、マスクの着用を含めた咳エチケット、手指の消毒に関しては、大原則としてお忘れにならないようにお願いします。またミサにあずかる際には、それぞれの小教区独自の方法で、参加者の記録を残すようにしています。これは、クラスターなどが発生したと見なされた場合、その場にいた方々への連絡などをする必要性があるためです。ご協力をお願いいたします。

 本日10月3日午後、東京教区には新しい司祭が誕生しました。夕方6時から行われた主日ミサの説教でも、そのことに触れています。以下、その主日ミサの説教原稿です。

【年間第27主日A(公開配信ミサ)東京カテドラル聖マリア大聖堂 2020年10月3日】

 先ほど、10月3日の午後、この大聖堂で新しい司祭と助祭が誕生しました。東京教区は、喜びのうちに、ホルヘ・ラミレス神父と古市助祭を迎えます。

 教会において司祭になるとことは、就職とは全く違います。司祭への道は神からの呼びかけに応える道であり、その呼びかけに対して、「ここに私がおります。私を遣わしてください」(イザヤ書6章8節)と応えたことに基づいて歩み続ける人生の旅路です。

 さらにその召命は個人の問題ではありません。「召命を育てる義務は、キリスト教共同体全体にある」と、第二バチカン公会議の司祭の養成に関する教令は指摘しています。司祭は、自分たちと関係のない所で養成され、自動的に誕生して、小教区に与えられるような存在ではなく、教会共同体が自ら生み出し育てていく存在です。そのために、同教令は「共同体は、特にキリスト教的生活を十全に生きることによって、その義務を果たさなければならない」と指摘しています。

 ですから、今回新司祭が誕生したことも、それに続く助祭が誕生したことも、どこかで勝手に起こっている無関係な事柄なのではなく、教区共同体にとって、また小教区共同体にとって、自らの責任において関わっている大切な務めの結果であります。

 もちろん教区には一粒会という存在があり、祈りと献金を通じて、神学生の養成を支えてきました。皆さまの寛大なご支援に、心から感謝いたします。同時に教区の全員が、一粒会の会員であり、神学生養成に責任を持って関わっていることも思い起こしていただければと思います。

 さて、司祭への道は、冒頭で申し上げたように、会社への就職活動とは全く異なりますから、まさしく十人十色、一人ひとりに独自の物語が存在します。そして多くの場合、召命の道程は、人間が考え計画した通りには進まないことが多いのです。

 もちろん神学校での養成にはカリキュラムがあり、それに従って単位を取得して行かなければならないのですが、しかしそれは、いわゆる「資格取得」のための勉強でもありません。神学校は、「司祭になるための資格取得の学校」ではありません。

 自分が司祭になりたいと決意し、神学校の所定の単位を取ったからといって、それが即座に司祭となることとは結びつかないのです。司祭は資格ではなく、生きる道であります。それも自ら切り開く道ではなく、神が用意した計画を見いだしながら、神の呼びかけに生きる道であります。

 一人ひとりに司祭の召命の旅路についての話を聞く度に、今日の福音に記された詩編からの引用の言葉が思い浮かびます。

 「家を建てる者の捨てた石が隅の親石となった。これは主の業、私たちの目には驚くべきこと」(118章22節)

 ホルヘ神父も古市助祭も、いわゆる「一直線」に問題なく進んで、司祭や助祭になったわけではありません。東京教区の皆さんには、そういえば、数年前まで、この二人の名前は聞いたこともなかったと、いぶかしく思われた方も少なくないだろうと思います。二人とも非常にユニークな人生を歩み、紆余曲折を経て、最終的に東京教区の聖職者として、本日叙階を受けました。

 まさしく、「これは主の業、私たちの目には驚くべきこと」であります。

 先ほど私は、「最終的に東京教区の聖職者として」と申し上げました。でも、「叙階を受けること」が目的地ではありません。叙階式が目指すゴールではありません。司祭にとって、そこからが大切です。

 第一の朗読で、イザヤは「ぶどうを植えたものの、よい実を得ることが出来なかったこと」への神の憤りを記しています。

 「ぶどう畑に対してすべきことで、私がしなかったことがまだあるか。私は良いぶどうが実るのを待ち望んだのに、どうして酸っぱいぶどうが実ったのか」

 さまざまな紆余曲折を経て二人をここまで呼ばれ導かれた神は、まさしくぶどうを植えた神です。よい実がなることを待っておられる神です。神はなすべきことでなさらなかったことは、何一つありません。残されているのは、「植えられたものが、これからどのような実りを生み出すか」であります。したがって、ゴールはまだまだ先、と言わなければなりません。

 ですから、どうか司祭のためにお祈りください。1人でも多くの司祭が誕生するようにと。召命のために祈るのと同じように、司祭のこれからの生涯のためにお祈りください。神学校の卒業は完成品の誕生ではなく、これからさらに育てていく原型の誕生です。育てるのは、教会共同体の聖なる努めであります。必要な助けを与えてくださり、土台を用意してくださった神に、自信を持って良いぶどうを実りとして差し出すことができるように、司祭のためにお祈りをお願いいたします。

 さて、「召命なんて自分とは関係がない」と思われている方も、おられるのかも知れません。そんなことは全くありません。キリストの弟子となったすべての人には、それぞれ固有の召命があります。私たちはすべからく、ぶどうとして神から植えられ、多くの世話を神から受けています。私たちにも、よい実りを生み出す務めがあります。信徒の召命であります。

 第二バチカン公会議の教会憲章には、こう記されています。

 「信徒に固有の召命は、現世的なことがらに従事し、それらを神に従って秩序づけながら神の国を探し求めることである。自分自身の務めを果たしながら、福音の精神に導かれて、世の聖化のために、あたかもパン種のように内部から働きかけるためである」(31項)

 新型コロナウイルス感染症の事態が続く中で、多くの人が当たり前のように「命を守るための行動」などと、口にするようになりました。今の時点でも世界各地で、命を守るために尽力される医療関係者は多くおられ、その働きに心から感謝します。また病床にあって病気と闘っている多くの方に、神の慈しみの手が差し伸べられるように祈ります。

 今回の事態で、「命を守る」は、キリスト者の専売特許ではなくなりました。政治のリーダーですら、そう口にします。でも、少しだけ、そこには違いがあるようにも感じています。

 覚えておいでしょうか。昨年の教皇訪日のテーマは、何だったでしょう。「すべての命を守るため」であります。

 私たちキリスト者は、私の健康を守るために命を守ろうと言っているのではなく、私以外のすべての命を守るために行動しようと言っています。それは私たちが、すべての命が、神から与えられた賜物であり、等しく人間の尊厳があるからだと信じているからです。

 この私たちの賜物である命への思いを、この事態のただ中で広く伝えていくことは、重要です。社会のただ中にあって、その言葉と行いで、命の福音を証しする宣教者が必要です。そしてそれは、皆さん一人ひとりであります。「あたかもパン種のように」福音をあかしする皆さんの存在です。植えられたぶどうの木として、命を与えられた神に感謝しながら、自らの召命に忠実に生き、福音をパン種のように社会全体に及ぼしながら、神に喜ばれる良い実をつける者となりましょう。

 

(表記は当用漢字表記に、聖書の日本語訳は「聖書協会共同訳」を使用させていただきました。書き言葉で、大司教のメッセージをより良く理解していただくためです。ご了承ください=「カトリック・あい」)

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2020年10月3日