・「典礼と祈りが”交わり”を豊かにする」菊地大司教の年間第16主日説教

2021年7月17日 (土) 週刊大司教35回:年間第16主日

Img_20210714_115859 7月18日、年間第16主日となりました。

 緊急事態宣言下で、まもなくオリンピック、続いてパラリンピックが行われます。コロナ禍の前には、数年前から、組織委員会と諸宗教団体との間で、選手村に設置される宗教センターで、選手の方々の宗教的必要に応える対応が準備されてきました。これは、オリンピック憲章で定められている、と聞いています。

 さらに、オリンピック観戦のために世界中から訪れる方々のために、小教区などでさまざまな対応をする検討を続けていました。組織委員会からの要望に応えるため、また小教区での対応を考えて、東京教区ではオリンピック対応チームを任命し、マルコ神父様を中心に、例えば五大陸のロザリオを準備したり、カテドラルでの国際ミサを企画して準備を進めていました。五大陸のロザリオは、来日する選手と関係者にギフトとして差し上げることも考えていました。

 残念ながら、コロナ禍ですべてご破算となりました。なんと言っても、選手は選手村から出ることができませんし、私たち宗教者も選手村には入れません。そこで組織委員会の要望に応えて、オンラインで「ことばの典礼」などを複数言語で配信することにしました。教区本部でさまざまなビデオを用意し、それはすべて組織委員会に渡し、その管理下で選手村に提供されます。詳しくは、今週のカトリック新聞をご覧ください。なお五大陸のロザリオは、そのようなわけで、在庫が教区本部にあります。ご希望の方は若干の実費等、ご寄付をいただきますが、教区本部からお分けします。申し込み方法は、今週のカトリック新聞をご覧ください。

 またオリンピックの試合は無観客で行われるので、世界から訪れる方々もおられません。そこで、小教区での特別な対応も必要ではなくなりました。

Img_20210714_140209 7月12日から15日まで、司教総会が開かれました。今回は、潮見まで来られる司教さんたちとオンラインによる出席の司教さんたちの”ハイブリッド”方式で行われましたが、分科会を含め、なんとか議題をこなすことができました。

 決定事項などは、後日カトリック新聞などに掲載されると思いますので、そちらに譲ります。潮見のカトリック会館の裏手には、特異な形をした辰巳国際水泳場がありますが、その右手に新しいオリンピック・プールが出来ました。そこに通うバスを駐車するためか、臨時の駐車場が、カトリック会館裏手の都有地に設けられていました。無事開催されることを祈ります。

 東京も梅雨明けしていますが、先日のスコールのような大雨の直後、夕方の空には虹が出ていました。

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 以下、本日午後6時に配信した、週刊大司教第三十五回、年間第16主日のメッセージ原稿です。

 

【年間第16主日B(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第35回 2021年7月18日】

 エレミヤの預言は、神が愛してやまない人間を、誰かに任せるのではなく、自ら牧者として守り養おうとするその行動を、慈しみ深い神の「正義と恵みの業」である、と記します。

 パウロは、エフェソの教会への手紙で、イエスが隔ての壁を取り除き、異邦人とユダヤ人を一つの体に一致させたことを述べ、それが平和の実現であると説きます。まさしく「多様性における一致」こそが、平和をもたらす道であることが示唆されています。

 イエスの時代、エルサレムの神殿において、ユダヤ人以外の異邦人は、「異邦人の庭」と呼ばれた神殿の外庭まで入ることが許されていました。

 そこには「隔ての壁」があったと言われています。そのことから、「隔ての壁」は、ユダヤ人が受ける神の祝福から異邦人は切り離されていることを象徴し、さらに、対立の中に生まれる「敵意」をも、象徴していました。

 18日のミサで読まれるマルコ福音の箇所は、先週の続きで、「福音宣教に派遣された弟子たちが共同体に戻り、宣教活動における成果を報告すると、イエスは観想の祈りのうちに振り返るように招かれた」と記します。

 イエスご自身も、朝早く、まだ暗いうちに、人里離れた所に出て行かれ、一人で祈られたことが他の箇所に記されています。「善い牧者として、義に基づいた神の平和を実現する」というご自分の使命を果たす力を、イエスはその観想の祈りから得ておられたのは、間違いありません。

 教皇ベネディクト16世は、回勅「神は愛」に、「教会の本質は三つの務めによって表されます。神の言葉を告げ知らせること、秘跡を祝うこと、愛の奉仕を行うこと」(回勅『神は愛』25参照)と記します。神の言葉を告げ知らせる宣教の前提には、秘跡を祝う典礼や祈りを大切にする共同体が無ければなりません。秘跡を祝う共同体は、愛の奉仕へと突き動かされていきます。そもそも「愛の奉仕」とは、主イエス・キリストの生き方に倣い、実践することなのですから、私たちは祈ることをないがしろにして、愛の奉仕に努めることはできません。

 教皇フランシスコは、2月3日の一般謁見で、次のように述べておられます。
「祈りもまた行事であり、出来事であり、現存であり、出会いです。まさにキリストとの出会いです… 典礼の無いキリスト教は、キリストがおられないキリスト教になってしまいます」。

 東京教区の宣教司牧方針の二つ目の柱は、「交わりの共同体」を育てることです。教会の本質は「交わり」です。信仰の共同体の中に生じる「交わり」は、父と子と聖霊の交わりの神の写し絵です。「交わり」を造り上げ、それを豊かにしてくれるのが、私たちの共同体で行われる典礼であり、祈りです。多様化した社会にあって、できる限り多くの人を私たちの「交わり」へと招き入れるために、典礼を豊かにし、共同体の祈りを深め、そこから福音を告げ知らせ、また証しするための力をいただきましょう。

 私は宣教司牧方針にこう記しました。「私たちの信仰は「『賛美』と『喜び』に彩られています。そのどちらも、人間の想いで始まったのではありません。天上の教会では主イエス・キリストを中心に聖母マリア、諸天使、諸聖人、そして地上のいのちを終えたすべての被造物が天の御父を『賛美』し、『喜び』に満たされています。その『賛美』と『喜び』の声に合わせて、地上の教会の私たちも神を「賛美」し、命の「喜び」を共同体と共に表すのです。典礼と祈りは『賛美』と『喜び』の時であり、場面です」

 言葉と行いを通じた証しを、祈りと観想からいただいた力のうちに実践いたしましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2021年7月17日

・「福音宣教は個人プレーでなく共同体の業」-菊地大司教の年間第15主日説教

2021年7月10日 (土)週刊大司教三十四回:年間第十五主日

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 7月11日は、年間第15主日です。週刊大司教も34回目となりました。(写真は築地教会)

 先週の日曜日に結腸の手術を受けられた教皇様については、毎日、聖座(バチカン)の広報官が短いステートメントを発表しています。7月9日の広報官マテオ・ブルーニ氏の発表では、多少の熱があったものの平熱に戻り、順調に回復していて、小聖堂でミサを捧げられたということです。

 また11日の昼のお告げの祈り(アンジェルス)は、やはり病院の十階の病室窓から行われるとのことです。教皇様は寄せられているメッセージや祈りに感謝されており、引き続きお祈りを求めておられます。教皇様の健康のため、また特に今回の手術からの回復のために、お祈りいたしましょう。

 昨日も記しましたが、緊急事態宣言が7月12日月曜日に発令されます。それに対する教区の対応は、まん延防止等重点措置の現在とほぼ変更しませんが、公示文書は月曜日午前中にカトリック東京大司教区ホームページに掲載し、また各小教区と主任司祭にも通知します。

 現時点で東京教区がどのような感染対策をとっているのかは、教区ホーム頁の一番上に、「在の東京教区における感染症への対応」と書かれたバナー(絵)がありますから、それをクリックすると、対応一覧のページに飛びます。ご参照ください。

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 以下、10日土曜日の午後6時配信の、「週刊大司教」34回目のメッセージ原稿です。

 前回から数回連続で、メッセージ終わりの部分において、昨年末に発表した教区の宣教司牧方針について触れることにしました。感染症対策の活動自粛で、宣教司牧方針について広くお話しする機会がありませんので、忘れられないように、繰り返し触れさせていただきます。

【年間第15主日B(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第34回 2021年7月11日】

 

 アモスの預言は北イスラエル王国の滅亡を告げたアモス自身が「私は預言者ではない。預言者の弟子でもない。私は家畜を飼い、いちじく桑を栽培するものだ」と宣言する言葉を伝えています。当時存在したといわれる専門職としての預言者団ではなく、ごく普通の人を通じて、神は運命的な言葉を伝達されました。

 パウロは、キリストの血によってあがなわれた者はすべて、神によって選ばれた者として、その救いの計画に参与する者とされたことを指摘します。

 マルコ福音は、イエスが12人の弟子たちを呼び集め、2人ずつ組にして、福音宣教のために送り出したことを記しています。イエスは弟子たちを派遣するにあたって、あれこれと個人的な必要を整えることなく、まずは出かけていって、行った先の家に滞在せよ、と命じています。下着の枚数が何枚か、の議論はさておいて、この派遣の意味は何でしょうか。

 弟子が二人で派遣されたことは、宣教の業が個人プレーではなくて、共同体の業であることを明示します。また、準備万端整えられたプログラムを通じて、ではなく、日々の生活における他者との交わりにあって、支え合いと分かち合いを通じて、福音が伝わっていくことが示されています。

 すなわち、福音宣教は、特別な人だけが行う特別なことではなく、誰でも神の言葉を告げるように召されるのであり、それは個人プレーではなく、共同体の業であり、なおかつ、日々の生活における他者との交わりの中で、支え合いながら、分かち合いながら具体化される神の業です。

 教皇フランシスコは「福音の喜び」に、「神は人々を個々としてではなく、民として呼び集めることをお選びになりました。1人で救われる人はいません(113)」と記して、教会は共同体として救いの業にあずかっていることを強調されます。その上で教皇は、「洗礼を受け、神の民のすべての成員は宣教する弟子となりました。・・・救いをもたらす神の愛を経験している人ならば、それを告げに出向いていくための準備の時間を、さほど必要としないからです(120)」と、呼びかけます。

 東京大司教区では、先週も触れたように、多くの方々の声を基にしながら、共同体としての宣教司牧方針を定めました。その三つの柱の一つは、「宣教する共同体」となることです。

 私たち信仰の共同体は、神の国の福音をこの世に伝えるためにあります。教会共同体は、福音を告げる共同体です。現在、東京大司教区には70を超える小教区共同体が存在します。また、各修道会の共同体も多数存在します。

 これだけの数の信仰の共同体があるということは、地域の人々に、社会に、そしてこの世に対しての宣教の基盤が、すでに十分に存在していることを意味します。福音宣教の道具として、活用していたでしょうか? 私たち1人ひとりの責任です。今あるものを十分に生かしながら、また場合によっては宣教の拠点を新たに設けながら、主イエス・キリストの福音を、さらに証ししていきましょう。

 宣教司牧方針に、「宣教する共同体は『キリスト者を増やすこと』だけが目的ではありません。『すべての被造物が神の恵みの中に生きること』を目指します。すべての被造物が主イエス・キリストの救いの業にあずかり、天の御父のもとに秩序づけられ、お互いに深い関わりの中にあるようになったら神の国は完成を迎えるでしょう」と記しました。

 特別な誰かではなく、私たち1人ひとりが、日々の生活における他者との交わりの中で、支え合いながら、分かち合いながら、信仰の共同体が行う福音宣教の業に呼ばれています。

(編集「カトリック・あい」)

 

 

2021年7月10日

・「自分の弱さを認めたとき、神の力が働く」菊地大司教の年間第14主日説教

2021年7月 3日 (土)週刊大司教第三十三回:年間第14主日

  7月となりました。7月4日は年間第14主日です。

 「大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」というパウロの言葉が、印象深く響く主日であります。私たちは、さまざまな困難に立ち向かって生き抜いていくために、強くありたいと思うものです。しかし、パウロは、「自分の力を前面に押し出していては、肝心の神の力が働かない。自ら、神の働きを妨げるバリアを張り巡らしているのだ」と諭します。

 自分のバリアは、こちらからも、向こうからも、互いに働きかけようとする人間関係を断ち切ります。人と人との関係性のないところに、神の力も働きません。それは本日の福音に明らかに記されています。自分の弱さを認めるところに、バリアを取り除く秘訣があるとパウロは語ります。

 7月3日は使徒聖トマの祝日でした。「私を見たから信じたのか。見ないで信じるものは幸い」と復活されたイエスから言われたトマです。「私を見たから信じたのか」は、トマの不信仰をとがめだてする言葉にも聞こえますが、それ以上に、実際に存在するイエスと相まみえることと、復活されたイエスと出会い、その主を信仰することとは、異なることを示唆しています。

 すなわち、イエスご自身が言われた「あなたがたは、私が飢えていたときに食べさせ、喉が渇いていたときに飲ませ、よそ者であったときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに世話をし、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」(マタイ25章35節)という言葉と、それに続く、「この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである」(同25章40節)という言葉にあるように、私たちは復活された主を、さまざまな場で、さまざまな人のうちに見いだします。

 助けを必要とする人との出会いのうちにおられ、私たちは主と出会います。従って、「私を見たから信じたのか」という主のトマへの問いかけは、実はその後に、「お前が信じたのは、それだけのためではないだろう。この姿を直接見ないとしても、さまざまな出会いの中で、私を見いだすだろう。その個人的出会いによって信じなさい」と続いていくのではなかろうか、と思います。私たちは「見ないで信じる」者ですが、それは全く出会いがない中で闇雲に信じているのではなく、教皇ベネディクト16世がしばしば指摘されたように、「主との個人的な出会い」を通じて信じるのです。そしてその出会いは、現実社会の中でのさまざまな出会いのうちに実存される、主イエスとの出会いです。Fabc09mass

 ちなみに、聖トマはその後、インドへ赴き、現在のインドにおけるカトリック東方典礼であるシロ・マランカラ、シロ・マラバール教会の礎を築いたといわれます。(写真は、2009年のアジア司教協議会連盟総会で行われた、シロ・マランカラ(Syro-Malankara)典礼のJoshua Mar Ignathios司教のミサ)

 ワクチンの接種が進んでいます。私も先日、1回目を受けました。7月末までには2回目を受ける予定です。教皇様ご自身も接種を受けられています。

 もちろん、ワクチン接種は任意でありますし、体質的に避けた方が良い方もおられますので、教会においては、接種を勧めるものの、義務とすることは考えていません。どうかご自分で判断なさってください。

 また近い将来、多くの方が接種を受けた段階になっても、例えば接種証明を持って、ミサの参加の可否を判断するなどということもいたしません。

以下、本日土曜日午後6時公開の、週刊大司教第33回目の、メッセージ原稿です。

 

【年間第14主日B(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第33回 2021年7月4日】

*思い上がりを捨て、心の目を開く

 「私は、弱いときにこそ強いからです」(コリントの信徒への手紙2・12章10節b)

 コリントの教会の手紙でパウロは、人間の思い描く理想とは異なる、いわば逆説の中に、神の真理は存在していることを指摘します。

 人間の常識が優先されるとき、神の真理はその働きを妨げられる。しかしその思い上がりに気付き、人間の力の限界、つまり弱さを認めたときに、初めて、それまで働きを阻んできた「キリストの力が私のうちに宿り」、その本来の力を発揮するのだ、とパウロは指摘します。思い上がり、思い込み、常識、自己保身、虚栄、などなど、神の力が働くことを妨げる私たちの利己的な心の動きは、幾つでも見いだすことができます。

 マルコ福音に記されたイエスの物語は、この事実を明確に示します。目の前に神ご自身がいるにもかかわらず、人々の心の目は、人間の常識によって閉ざされ、神の働きを妨げます。閉ざされたこ心の目は、自分たちが見たいものしか見ようとしません。人間の思い上がりは、簡単に心の目を閉ざし、自分たちが正しい、と思い込んで選択した行動が、実際には神に逆らう結果を招いていることにさえ、気付きません。

  *「閉じこもり、安全地帯にしがみつく教会」を望まない

 「出向いていく教会」であれ、と呼びかけられる教皇フランシスコは、「福音の喜び」の中で「宣教を中心とした司牧では、『いつもこうしてきた』という安易な司牧基準を捨てなければなりません(33)」と注意されます。

 そのうえで、教皇は「私は、出向いて行ったことで、事故に遭い、傷を負い、汚れた教会の方が好きです。閉じこもり、自分の安全地帯にしがみつく気楽さゆえに病んだ教会よりも好きです。中心であろうとばかりしている教会、強迫観念や手順に縛られ、閉じたまま死んでしまう教会は望みません。(49)」と指摘されます。

*再来年秋のシノドスに向けて、共に歩もう

 2023年秋に、シノドス(世界代表司教会議)が開催されます。教皇はそのテーマを、「共に歩む教会のため―交わり・参加・そして宣教」と定められました。教皇は、教会の「シノドス性」、すなわち、神の民として「共に歩む」姿勢をテーマとし、それを具体的に生きる教会であるための道を見いだそうとされています。神の民のすべてが、その識別へ参加するように招かれています。

 今年の10月から、世界各地の教区において、草の根の声を吸い上げるプロセスが始まります。そのための前提となる質問書は準備が進んでいます。先日のシノドス事務局とのオンライン会議によれば、準備されている質問書は、これまでのような重厚な文書ではなく、短い、理解しやすいものとのこと。どのような方法になるかはまだ定まっていませんが、東京教区でも、また日本の教会全体でも、この秋以降、できる限り多くの方の声を聴き、バチカンに届けたいと思います。

 また東京教区では、同じように、宣教司牧方針を定めるために、多くの方からの意見聴取を時間をかけて行い、昨年末に、今後10年ほどの方向性を記した文書をお示ししたところです。残念ながら、感染症の状況の中で教会活動の自粛が続き、具体的な動きを始めようとするところで滞っていますが、徐々に方針の三つの柱である「宣教する共同体」、「交わりの共同体」、「すべての命を大切にする共同体」を実現する道を歩み始めたい、と思います。

 「これまでこうして来たから」とか、「こうして成功した」とか、さまざまな人間の思いにがんじがらめになるとき、新しい挑戦へと踏み出すことをためらい、結局、神の力が働くのを妨げることを繰り返しています。「勇気を持って、傷つくのを恐れず、出向いていく教会」として、福音に生き、福音を証しして参りましょう。弱さを認めたとき、初めて神の力が働きます。

(編集「カトリック・あい」=聖書の引用は原文に最も近く、現代日本語としてもすぐれている「聖書協会・共同訳」にさせていただきました)

2021年7月3日

・「主は今日も呼び掛けられる“タリタ、クム”と」菊地大司教の年間第13主日説教

2021年6月26日 (土)週刊大司教第三十二回:年間第13主日

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  6月最後の主日となりました。年間第13主日です。週刊大司教は32回目です。

 6月29日が聖ペトロ聖パウロの祝日ですので、毎年この直前の主日には、各小教区において、聖ペトロ使徒座への献金が行われます。以下その意義を解説する、中央協議会のホームページからの抜粋です。

 「キリストの代理者、教会の最高牧者である教皇は、祈りと具体的な援助を通して全世界の人々にいつも寄り添っているのです。この教皇に心を合わせて、私たちも、世界中の苦しんでいる人々のために祈りと献金をささげます。教皇のこうした活動のために充てられる聖ペトロ使徒座への献金は、8世紀ごろイギリスで始まった、大人も子供も、一番小さなお金である1ペニーを毎年教皇に献金する運動が元になって世界中に広まったものです」

  この困難な状況の中、世界各地において、教会はこれまでとは異なる方法で助けを必要としている人たちにアプローチしようとしています。教皇様ご自身も、援助を必要としている世界各地の人々への配慮を、さまざまな具体的形で示しておられます。教皇様の活動を支えるためにも、献金にご協力ください。

  6月29日に近い月曜日には、毎年、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、東京教区で働く司祭の叙階金祝・銀祝などが行われてきました。また、土井枢機卿様、白柳枢機卿様、岡田大司教様と、1937年以来、歴代の教区司教の霊名がペトロだったこともあり、この月曜にお祝いのミサが捧げられてきました。

 今年は昨年と同様、感染症の状況下ですので、司祭叙階金祝・銀祝のお祝いは、年末の「テ・デウム」の際に行うことにしました。それでもこの月曜には、司祭団だけで、一般には非公開で、ペトロとパウロの祝日のミサを捧げる予定にしています。

  どうぞこの月曜日、東京教区で働いてくださる司祭たちのためにお祈りください。また特に、ペトロとパウロの霊名をお持ちの神父様方のために、お祈りくださいますようにお願いいたします。

 以下、本日午後6時公開の、週刊大司教第32回、年間第13主日のメッセージ原稿です。

【年間第13主日B(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第32回 2021年6月27日】

「タリタ、クム。少女よ、さあ、起きなさい」(マルコ福音書5章41節)

 マルコ福音は、会堂長ヤイロの幼い娘が病気で伏せっていたときに、父親の頼みに応えてイエスが出かけた出来事を描写しています。福音は、到着したときにはすでに亡くなっていたヤイロの娘を、イエスが生き返らせたという奇跡物語を伝えています。

 パウロはコリントの教会への手紙で、キリストから与えられた恵みと、教会における交わりによって豊かにされた者は、豊かに分かち合うものとならなければならないことを説いています。

 知恵の書は、万物を造られた創造主が、それを滅びのためではなく「生かすためにこそ」創造されたのだと強調し、「世にある造られたものは価値がある」と記します。

 イエスが行われた奇跡は、病によってうちひしがれ、人生の絶望の淵にある人たちが、イエスとの出会いによって生きる希望を取り戻した話でもあります。

 教皇ベネディクト16世は回勅「希望による救い」に、「福音は、あることを伝達して、知らせるだけではありません。福音は、あることを引き起こし、生活を変えるような伝達行為なのです」と記しています。その上で教皇は、福音が伝えられることによって、「時間、すなわち未来の未知の扉が開かれます。希望を持つ人は、生き方が変わります。新しい命の賜物を与えられるからです」(2)と記します。

 教皇は回勅の中で、福音とはすなわちイエス・キリストとの個人的な出会いの体験であることを強調し、次のように続けています。

 「この方は自らこの道を歩き、死の国に降り、死に打ち勝って、戻ってきてくださいます。それは、この世で私たちとともに歩み、この方と共にいれば、道を最後まで歩き通すことができると確信させてくださるためです。死の時も私たちとともに歩んでくださる方。・・・この方が現実におられると知っていること。それが、信じる者の人生に生まれる、新しい『希望』です」(6)

 豊かな希望に満たされたとき、人はその与えられた賜物を分かち合うために行動し、神が望まれたように、すべての被造物が滅びのためではなく「生かすためにこそ」創造されたことを証ししていきます。それが「福音が伝わる」ということだと、教皇は強調しています。

 神の似姿として、すべての命はその尊厳を守らなくてはならないと、教会は常に主張しています。なぜならば、命はまさしく「生かすためにこそ」創造されているからです。人間の尊厳への理解が進んだ現代社会にあっても、いまだにさまざまな形でその尊厳がないがしろにされている存在があります。

 また現在の感染症による困難な状況の下、経済も悪化し、雇用環境も厳しさを増す中で、生活に困窮し、孤立のうちに命の危機に直面する人も少なくありません。異質な存在を排除しようとする差別的な言動によって、尊厳を否定されている人もおられます。さらに世界的なレベルでは、貧困や紛争が、多く人生を狂わせ、中には人間の尊厳を否定するような扱いを受けたり、物のように売買されたり、命を奪われたりする現実があることも否定できません。

 福音は、希望をもたらす光であり、この社会を神が望むように働きかける力です。神の似姿であるすべての人の人間の尊厳が守られるように、福音を告げていきたいと思います。困難に直面する一人ひとりへ、立ち上がって希望を手にするようにと、今日、主は「タリタ、クム」と呼びかけます。自らとの出会いへ招かれる主イエスの福音を、証しする努力をいたしましょう。

(編集「カトリック・あい」=文中の聖書の日本語訳は「聖書協会・共同訳」。表記は当用漢字表記にしてあります)

2021年6月26日

・「困難の最中に、助けが必要な人に心を向けているか」菊地大司教の年間第12主日の説教

2021年6月19日 (土) 週刊大司教第三十一回:年間第12主日

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 6月20日は年間第12主日です。「週刊大司教」も31回目となりました。昨年、2020年11月8日の年間第32主日から、「週刊大司教」を始めました。ミサの公開が再開され、教会活動も徐々に再開されていた昨年秋、11月1日の諸聖人の祭日前晩のミサを持って、関口教会からの私が司式する主日のミサ配信を一度終わりとしました。毎週土曜日の夕方6時に、イエスのカリタス会のシスター方に来ていただいて、聖歌もお願いしていましたが、関口教会の青年を始め多くの方から積極的な関わりをいただき、心から感謝しております。

 その配信ミサをひとまず休止としましたが、感染症は終息せず、教会活動もさまざまな制約がありましたので、その次の日曜から、主日福音などに基づいたメッセージを、霊的聖体拝領の助けとして配信することにしました。これが「週刊大司教」です。その後も緊急事態宣言が再度発令されたりと、事態は流動的でしたので、「週刊大司教」を継続してきました。

 今後を見通すことは難しいのですが、今の段階では、少なくとも50回までは続けるつもりです。毎回のメッセージ原稿作成もそれなりに時間がかかります。しかしそれ以上に、事前の撮影と字幕入れなどを伴う映像編集には、教区本部の広報担当職員が当たっていますが、その職員の通常業務に増し加わる負担も無視することはできません。したがって、状況を見極めるものの、今年の待降節の始まる前ころまでは「週刊大司教」を続ける予定です。

 三度目となる緊急事態宣言は、6月20日をもって解除となりますが、翌日からは改めて「まん延防止等重点措置」の対象地域として東京都と千葉県が指定されます。7月11日までの予定です。

 これにともなう東京教区の対応については、基本的に三度目の緊急事態宣言が発令される前に戻るのですが、公示文書を作成してありますので、各小教区には一両日中にお伝えします。まだしばらくは、感染対策を緩めることは賢明ではないと思われますので、当面の間は慎重に行動したいと思います。

 オリンピック・パラリンピックが、すでに既定の事実として開催の方向に進んでいるようですが、世界中からあれだけ多くの人が、今の日本、しかも首都圏へ集中することに、一抹の不安を抱かざるを得ません。実施するからには、不安を払拭できるように、出来る限りの対策を打たれることを期待します。ワクチン接種については、私のところにも、19日に文京区から接種券が届きましたが、全国的に広い範囲で二度の接種が終了するには、まだまだ時間がかかるでしょう。ですから、教会の活動はこれまで通り、当分、慎重な対応を続けていきたいと思います。

 そのオリンピックですが、これまでどこの国でも(北京オリンピックでも)、選手村には宗教センターが設けられ、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、ヒンドゥー教、仏教という5つのグループが、開催期間中にチャプレンを派遣して、選手の精神的支えとなってきた、と聞いています。選手村に宗教センターを設けることは必須の条件だ、という話も耳にしました。

 今回の東京オリンピック・パラリンピックでも、当初は同様の計画があり、さまざまな宗教団体が協力して、宗教センターを運営したり、都内で宗教的行事を開催したりする予定で、数年前から話が進んでいました。東京教区でも、キリスト教諸団体の方々と協力して対応するために、オリンピック対応チームを任命して計画に参加してきました。残念ながら今回はこのような状況ですので、計画した通りには進みません。これまでさまざまに話し合ってきた事は、行われません。

 一応、現時点では、リモートで、数カ国語のミサや聖書の話や、祈りなどを提供する予定で、そのためのビデオ作成に教区本部の広報担当が取り組んでいます。とは言え、この時点になっても、本当にあるのか、あるならどのようにして行うのかなど、全く情報が伝わらないため、現実味が出てこないのですが、それでも、対応するためのそのような準備を進めています。当初企画していた、オリンピック・パラリンピック期間中の、カテドラルでの国際ミサなどは、やはり行わない方向です。

(なおメッセージ最後で触れている「人間の安全保障」については、2015年10月5日付けの私の「司教の日記」や、拙著「開発・発展・MDGsと日本」(サンパウロ刊、2012年)の冒頭の記事なども、ご覧いただければと思います)

 

 以下、19日午後6時配信の、週刊大司教第31回目のメッセージ原稿です。

【年間第12主日B(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第31回 2021年6月20日】

 「先生、私たちが溺れてもかまわないのですか」

 マルコ福音書に記されている、この弟子たちの叫びは、現在の私たちの叫びでもあります。世界中の人が、新型コロナ感染症と、それに伴う社会経済活動の停滞の中で、命と生活の危機にさらされている現在、まさしく私たちは「荒波に翻弄される船の中」に取り残されたような思いであります。

 荒れ狂う波風を鎮められた主は、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と語りかけます。すなわち、この自然界をコントロールしているのは、人間ではなくて、創造主である神だということを、イエスは明確にします。ヨブ記にも、世界を創造したのは神であって、それを支配しているのも神の権威であることが、記されていました。

 私たちは、科学や技術が発達しても、人間の知恵と知識には限界があることを、自然災害などを通じて、たびたび思い知らされてきました。歴史に必ず刻まれるであろう今回の事態も、やはり私たちの知恵と知識に限界があることを明確にし、この世界を支配する神に祈り求め、叫び続けることの重要さを肌で感じさせています。

 人間の限界を超えた出来事がなぜ起こるのかは、分かりません。しかしながら、私たちにはその理不尽さの中にあっても、神に祈り求めると同時に、出来ることを懸命に果たしていく務めがあります。弟子たちも、イエスを起こして声をかけるまで、ただ諦めて荒波に翻弄されていたわけではなく、なんとか船をコントロールしようと力を尽くしていたことでしょう。

 パウロは、そういう私たちに対して、「キリストの愛が私たちを駆り立てています」と、コリントの教会への手紙に記し、キリストのために生きるように、と促します。キリストのために生きる私たちは、その愛に駆り立てられて、キリストのように行動することを求められています。

 キリストの愛に駆り立てられ、キリストのように生きようとするとき、神の似姿である人間の尊厳が、ないがしろにされるような事態が、この困難な状況の中で頻繁に起こることを見逃すことはできません。疑心暗鬼の中で不安に駆られる人の心は、どうしても安心を求めて利己的になってしまいます。自分の生命の危機を感じ取るほど、他者への寛容さは、たやすく忘れられてしまいます。

 そんな中で、社会にあって異質な存在は、排除の対象となってしまいます。教皇フランシスコは、2018年の難民移住者の日のためのメッセージに、「あらゆる旅人が私たちの扉をたたくたびに、それはイエス・キリストとの出会いの機会になります」と語られ、その上で、「受け入れ、保護、支援、統合」という四つの行動が重要だ、と呼び掛けられました。

 私たちは、この困難の最中にあっても、助けを必要とする人たちに心を向け、「受け入れ」、「保護」し、「支援」しながら、社会全体へと「統合」しようとしているでしょうか。

 かつて、20世紀の終わりころ、国連が提唱する「人間の安全保障」の重要性を説いて、国際社会で高く評価されていたのは日本政府でした。武力による安全保障ではなく、一人ひとりの人間の尊厳を守ることで、世界の安全を確立しようと、政府は国際社会に呼びかけていました。残念ながら、人間の尊厳が等しく守られる社会の実現への道はまだまだ遠い、と感じさせられます。

 不安な事態の中で恐れ悩んでいる私たちは、神の計らいに信頼して祈り求めながらも、同時にキリストの愛に駆られて、賜物である命が守り抜かれるように、行動していきましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2021年6月19日

・「私たちは小さな努力の積み重ねで使命を果たす」菊地大司教の年間第11主日説教

2021年6月12日 (土)週刊大司教第三十回:年間第11主日

Sacredheart

 6月は「み心の月」と言われます。「み心」は、主イエスの心のことで、以前は「聖心」と書いて「みこころ」と読んでいましたが、近頃は「み心」と記されることが多いように思います。

 イエスのみ心は、私たちへのあふれんばかりの神の愛そのものです。十字架上で刺し貫かれたイエスの脇腹からは、血と水が流れ出たと記されています。血は、イエスのみ心からあふれでて、人類の罪をあがなう血です。また水が、命の泉であり新しい命を与える聖霊でもあります。キリストの聖体の主日後の金曜日に、毎年「イエスのみ心」の祭日が設けられ、今年は6月11日でありました。

 み心の信心は、初金曜日の信心につながっています。それは17世紀後半の聖女マルガリータ・マリア・アラコクの出来事に基づく伝統であります。聖体の前で祈る聖女に対して主イエスが出現され、自らの心臓を指し示して、その満ちあふれる愛をないがしろにする人々への悲しみを表明され、人々への回心を呼びかけた出来事があり、主はご自分の心に倣うようにと呼び掛けられました。

 そしてみ心の信心を行う者には恵みが与えられると告げ、その一つが、9か月の間、初金に聖体拝領を受ける人には特別な恵みがある、とされています。イエスは聖女に、「罪の償いのために、9か月間続けて、毎月の最初の金曜日に、ミサにあずかり聖体拝領をすれば、罪の中に死ぬことはなく、イエスの聖心に受け入れられるであろう」と告げたと言われます。

 1856年に教皇ピオ9世が「イエスのみ心」の祭日を定め、さらにその100年後、教皇ピオ12世は、み心の信心を深めるようにと、回勅をもって励ましを与えられました。さらにそれから50年後、教皇ベネディクト16世は、2006年5月15日付でイエズス会の総長に宛てて書簡を送り、「イエスのみ心への信心は、決して過去のものではなく、現代的な意味がある」と述べながら、次のように記されました。

 「内面的に神を受け入れた人は皆、神によって形づくられます。神の愛を経験した人は、その愛を『召命』として生きなければなりません。人はこの『召命』に応えなければなりません。主は「私たちの患いを負い、私たちの病を担った」(マタイ福音書8章17節)かたです。この主に目を注ぐことによって、私たちは人の苦しみと必要にもっと気づくことができるようになります。

 やりで刺し貫かれたイエスの脇腹を礼拝しながら観想することにより、私たちは、人びとを救おうとする神のみ旨を感じることができるようになります。この観想によって、私たちは、救いをもたらす神の憐れみに自分をゆだねることができるようになります。それと同時に、この観想は、「神の救いの業にあずかり、神の道具となりたい」という、私たちの望みを強めます。」(全文は中央協議会のHPで

 み心の月にあたり、イエスを通じて具体的に表された神の愛の心に触れ、それを自らの心とし、倣って生きることができるように、努めたいと思います。

 以下、本日午後6時配信の「週刊大司教」第30回目のメッセージ原稿です。

【年間第11主日B(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第30回 2021年6月13日】

 「神の国を何に例えようか。・・・それは、からし種のようなものである」と語るイエスの言葉を、マルコ福音は伝えています。

 取るに足らない小さな種から始まって、「葉の陰に空の鳥が巣を作れるほどの大きな枝を張る」までに育っていく過程を述べて、神の創造の業が人間の常識をはるかに超えた神秘のうちにあることを思い起こさせながら、イエスは神の国の実現への道を語ります。

 エゼキエル書も同じように、レバノン杉の小さな梢を切り取り、山の上に移すことで、今度は大きな枝を張るレバノン杉が育っていくことを記し、それをつかさどる神の力の偉大さを伝えます。

 パウロは、私たちの永遠の住みかは天にあるのだとしても、この地上での生活には重要な意味があることを指摘し、「体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれるものでありたい」と記します。

 すなわち、私たちは、主と共に天上の神の国で永遠の喜びのうちに生きることを望んでいるとしても、同時に、今、生きているこの世界の現実の中で、同じように神に喜ばれるものとして、主から与えられた使命に忠実に生きる務めがあることが、パウロの言葉から示唆されています。

 私たちには、「主イエスの福音を一人でも多くの人に伝える」という使命が与えられています。その業は、「派手なパフォーマンスによって達成されるのではなく、小さな努力の積み重ねの上に成り立つのだ」ということを、からし種の例えから学びたいと思います。一人ひとりの小さな働きは、まさしく私たちが播く小さなからし種であります。しかしその種は、神によって育まれる限り、人間の常識をはるかに超える実りをもたらします。救いの業は、神の業であって、私たち人間の業ではありません。

 去る5月11日、教皇フランシスコは、自発教令「アンティクウム・ミニステリウム」を発表され、信徒の奉仕職としての「カテキスタ」を正式に制定されました。

 カテキスタというこの奉仕職は、決して新しいものではなく、すでに新約聖書の中に、初代教会における務めとしてその役割を見い出すことができます。教会は当初から、聖霊の働きに従順に従い、教会の働きのために生涯をささげた信徒によって果たされる、さまざまな奉仕職によって支えられてきました。

 第二バチカン公会議以降、教会は福音化の働きにおける信徒の役割の重要性を強調してきました。第二バチカン公会議の教会憲章に、こう記されています。

 「信徒に固有の召命は、現世的なことがらに従事し、それらを神に従って秩序づけながら神の国を探し求めることである。自分自身の務めを果たしながら、福音の精神に導かれて、世の聖化のために、あたかもパン種のように内部から働きかけるためである」(31)

 カテキスタは、入信の秘跡の準備から、信徒の生涯養成に至るまで、神の民に奉仕するための信徒の召命であり、社会におけるパン種として働きかける生き方でもあります。パン種のように、またからし種のように、小さな一人ひとりの忠実な奉仕が、聖霊の導きのうちに、神の国の実現のために大きな実りを生み出します。私たちは小さな事に忠実に生きるよう、呼ばれています。

 新しく制定された信徒の奉仕職としてのカテキスタに限らず、キリスト者には、すべからく自分の召命に生きる務めがあります。神からの呼び掛けに忠実なものでありましょう。

(表記を当用漢字表記に統一しました。お読みになる皆さんに、言葉のもつ元々の深い意味を理解していただきたい、との願いからです。例えば、”教会用語”ではひらがなで表記されることの多い「命」は「ひざまずいて神意を聴く人・いただくもの」という古代中国の表意文字からきています。同様に、「心」は心臓をかたどってできた文字で、心臓の鼓動と精神の働きを結び付けて理解された、とされています。当然ですが、漢字も日本語です。いたずらに、ひらがな表記を多用して、言葉が歴史的に持っていた意味を忘れないようにしたいと思います。「カトリック・あい」)

 

2021年6月12日

・「御聖体をいただく私たちの務め」ー菊地大司教の「キリストの聖体の主日」説教

2021年6月 5日 (土) 週刊大司教第二十九回:キリストの聖体

Corpuschristios2 三位一体の主日の週の木曜日は、キリストの聖体の祝日です。ラテン語の呼び名で、しばしば「コルプス・クリスティ」と言われます。もっとも、多くの国では週日に集まることが難しいので、その次の日曜日にこの祝日を移動させることになっており、日本でもこの日曜日が、キリストの聖体の主日となります。

 私が30年も前に働いていたアフリカのガーナの小教区でも、この祝日は日曜日に移動して祝われていましたが、ほかのキリスト教国と同様、ミサ後には聖体行列を行っていました。私が働いていたオソンソンと言う村は、カトリックを含めクリスチャンが多数でしたので、山間部にあり谷底に細長く広がる村を、主な部分だけでも、かなり歩いたことを記憶しています。村の中に4カ所ほど、椰子の木の葉などを組んだ仮の祭壇を設けて、行列の途中で祈りをささげ、御聖体で祝福をして回りました。

Corpuschristios 左の写真は、しばしば掲載していますが、その聖体行列に出かけるところです。左の後ろ上に見えているのが、オソンソン教会の聖堂入り口。聖堂正面を下っていくと小学校があり、左右へ分かれて村へつながる道です。

 御聖体は、聖体顕示台を、私の右横のおじいちゃんが担いでいる船のような台の中に安置してあります。この船のようなものは、この地域で部族のチーフが担がれて乗る台をイメージした縮小版です。カラフルな傘は、チーフに尊敬を込めてそうするように、御聖体を覆うものです。そのチーフを担いでいるのは、例えば右の写真です。

Corpuschristios4 そして、上述した、村の中に設けた仮の祭壇で聖体顕示台を一時安置し、祈りをささげ、祝福をして回りました。

 もちろん日本でも聖体行列ができればそれに越したことはありませんが、御聖体が見世物のように見なされる事態は避けなければなりません。御聖体はキリストの実存であり、ふさわしい敬意のうちに礼拝され、共にいてくださる主に感謝と祈りがささげられるのですから、持って回れば良いというものではありません。そういったふさわしい宗教的環境を整えていく必要も、常々感じています。

 キリストの聖体の主日にあたり、こういった信仰の表現や行動が制限され、信教の自由が侵害されている国で、心と命の危機を肌で感じながら信仰を守っている多くの兄弟姉妹に、聖体のうちに現存される主が、常に共にいてくださることを、そして護り導いてくださることを、心から信じ、また祈ります。

 さて以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第29回目の、メッセージ原稿です。

【キリストの聖体の主日B(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第29回 2021年6月6日】

 主イエスは、最後の晩餐において聖体の秘跡を制定されました。それは、今も日々のミサにおいて繰り返され、私たちはミサにあずかり、聖体を拝領するごとに、あの晩、愛する弟子たちを交わりの宴へと招かれた主イエスの御心に、思いを馳せます。

 主は、すべての思いを込めて、残していく弟子たちに、パンと葡萄酒のうちに自らが現存し続けること、すなわち、世の終わりまで共にいることを宣言なさいました。

 「聖体は、信者の共同体に救いをもたらすキリストの現存であり、共同体の霊的な糧です」と、教皇ヨハネパウロ二世は「教会に命を与える聖体」に記しています。(9)

 主イエス・キリストは、世の終わりまで、御聖体のうちに現存し、私たちと共に歩み続けておられます。

 教皇ヨハネパウロ二世は、2004年の聖体の年にあたり発表された書簡「主よ、一緒にお泊まりください」に、こう記しています。

 「信仰は、私たちがキリストご自身に近づくのだ、ということを十分に意識して、聖体に近づくことを求めます。聖体の他の側面、つまり食事であること、過越の神秘であること、終末の先取りであることに、しるしに過ぎないものをはるかに凌駕した重要性を与えるのは、まさにキリストの現存なのです。聖体は、現存の神秘、世の終わりまで私たちと共におられる、というイエスの約束の完全な成就なのです。(16)」

 御聖体のうちに主ご自身が現存されるからこそ、聖体のいけにえは「キリスト教的生活全体の源泉であり頂点」だと、教会憲章は指摘します。その上で、感謝の祭儀にあずかることで、キリスト者は「いけにえを神にささげ、そのいけにえとともに自分自身もささげる」と指摘します(11)。

 すなわち、御聖体をいただくことは、神からお恵みをいただくという受動的な側面だけではなく、私たち自身が自分をいけにえとしてささげるという、能動的側面も伴っています。では、自らをいけにえとしてささげる、とはどういう意味でしょうか。御聖体をいただく私たちには、どのような行動が求められるのでしょうか。

 そもそも御聖体をいただく私たちには、主の死と復活を、世々に至るまで告げ知らせる務めがあります。その上で、私たちには、その福音に生き、言葉と行いで、現存される主イエスそのものである神の愛を証しする務めがあります。さらに私たちには、御聖体によってキリストの体と一致することで、一つの体としての教会共同体の一致を推し進める務めがあります。

 教皇ヨハネパウロ二世は、「主よ、一緒にお泊まりください」で、こう指摘しています。

 「たとえば、何億人もの人類を苦しめている飢餓の惨状や、発展途上国を苦しめている病気、老人の孤独、失業者たちが直面している困難、移住者たちの苦労などを、私は思い巡らしています。・・・私たちが『真にキリストに従う者である』と認められるのは、互いの愛と、とりわけ困窮している人たちへの配慮によるのです。これが、私たちのささげる感謝の祭儀が真正なものであるかどうかを判断するための基準となります。(28)」

 御聖体の秘跡のうちに現存される主は、歴史の流れを私たちとともに歩みながら、自らの愛を私たちが証しするように招いておられます。出向いていく教会であることを求めています。神のその愛に基づいた招きに、応える者でありましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2021年6月5日

・「アジア全域で三位一体の神を証しし続ける」-菊地大司教の「三位一体の主日」説教

2021年5月29日 (土)週刊大司教第二十八回:三位一体

 聖霊降臨の主日の次の日曜日は、三位一体の主日です。

 私たちが洗礼を受けた「父と子と聖霊」である神の三位一体について、「カトリック教会のカテキズム」には、こう記されています。

 「三位は一体です。三つの神々ではなく、三者として唯一の神、すなわち、実体として一つである三位の神を、私たちは信じています。三者が唯一の神性を分かち持つのではなく、それぞれのは神そのものなのです… 三つのペルソナのそれぞれが、神的実体、神的本質ないし本性という、同じ状態なのです」(253項)

 私たちは、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり」に(コリントの信徒への手紙)、すなわち「三位一体の神における交わり」に常に招かれています。

 緊急事態宣言が、6月20日まで延長されることになりました。東京教区としては、これまで継続してきた感染対策を今一度見つめ直し、徹底させていくようにいたします。変異したウイルスの存在も顕著になってきているようです。感染の機会をできる限り避けるように務めるとともに、ご自身やご家族の方々に少しでも不安がある場合は、ご自宅でお祈りをお続けください。

 確かに実際に教会で互いに出会わないことで、教会における絆が薄れてしまっているように感じます。しかし、昨年来たびたび申し上げているように、教会は交わりの共同体であって、三位一体の神における交わりへと招かれている共同体です。

 ですからその共同体は霊的につながっています。聖堂に集まってともに祈り、感謝の祭儀にあずかることは、もちろんわたしたちの信仰の中心にありますが、同時に私たちの信仰における絆は、時間と空間を超越していることも、そしてどこに在っても三位一体の神の懐に抱かれていることを、心に留めましょう。

 以下、29日夕方6時配信の、週刊大司教第28回目のメッセージ原稿です。メッセージの中で、アジアにおけるカトリック司教協議会の連盟組織であるFABCに触れています。もちろん日本の司教協議会もそのメンバーで、現在は常任委員会に委員長として高見大司教が参加しています。また私も来年までの任期で、人間開発局(Office for Human Development)の委員を拝命しています。現在二回目の二期目です。FABCは昨年、創立50年を迎えました。

 

【三位一体の主日B(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第28回 2021年5月30日】

 「至聖なる三位一体の神秘は、キリスト者の信仰と生活の中心的な神秘です。・・・信仰の他のすべての神秘の源、それらを照らす光なのです」と「カトリック教会のカテキズム」には記されています。(234項)

 私たちが「父と子と聖霊のみ名によって」洗礼を受けること、それが、「すべてのキリスト者の信仰は、三位一体に基づいて」いることを明示する、とカテキズムは記します。(232項)

 パウロは「ローマの教会への手紙」に、「人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によって私たちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」と記します。御父を「私たちからかけ離れた、厳しく裁く存在」として見るのではなく、私たちは「聖霊の導きによって御子と同じように御父を親しく感じる者とされているのだ」とパウロは強調しています。

 復活の主に出会い、聖霊をいただいた私たちは、その聖霊に導かれ、父と子と聖霊の交わりへと招かれ、神の子としてキリストと同じ相続人となるのだ、と強調することで、パウロは私たちの信仰が、「三位一体の神秘のうちにあること」を強調します。

 マタイ福音は、三位一体の交わりに招かれた私たちに、主は、「あなた方は行って、すべての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授けるように」と命じたと記します。すなわち、私たちは、三位一体の神秘にあずかることによって生かされ、その交わりに招かれた者として使命をいただき、全世界の人を三位一体の神秘における交わりに招くように遣わされています。私たちは自分の思いを告げる者ではなく、三位一体の神を告げる使者であります。

 アジアのさまざまな国や地域に置かれている司教協議会の連盟組織であるFABCアジア司教協議会連盟は、昨年で創立50年となりました。

(写真右は、2009年にマニラで開催されたFABC=アジア・カトリック司教協議会連盟=総会。故岡田大司教も参加されました)

 この50年間、アジア全域において、三位一体の神を証しし、イエスの福音を告げ知らせるために、牧者である司教たちの交わりを通じて、福音宣教への共通理解を深めてきました。中でも、FABCは三つの対話、すなわち、「人々(特に貧しい人々)との対話、諸宗教との対話、多様な文化との対話」が、アジアでの宣教において共通する重要課題である、と指摘し続けてきました。

 教皇ヨハネパウロ二世は、1998年のアジア特別シノドス後に発表した「アジアにおける教会」に、 「私たちは、アジアの膨大な人口そのものと、人類家族の遺産と歴史のかなりの部分を形作っている多くの文化、言語、信条、伝統の複雑なモザイク模様に驚かずにはいられません」(6)と、アジアの現実を生み出す背景を記されました。

 その上で、「教会は、これらの伝統を非常に深く尊敬し、これらの信者と誠実な対話をしよう、と努力しています。彼らが教えている宗教的価値は、イエス・キリストにおいて成就されることを待っているのです」(6)と記しておられます。

 同時に教皇は、「シノドス参加者は、アジアの社会と文化と宗教における聖霊の働きを喜んで認めました。それらを通して、御父は、アジアの諸民族の心をキリストにおいて完全に成熟するように準備しているのです」(2)とも指摘されます。

 アジアの一員であるこの国において、私たちは聖霊に導かれて、御子イエスの福音を証ししようとしています。聖霊の導きに勇気を持って信頼し、さまざまなレベルでの対話を忍耐と喜びを持って続けながら、交わりへと招かれる三位一体の神を、証し続けて参りましょう。

  (編集「カトリック・あい」)

 

2021年5月29日

・菊地大司教のロザリオの祈り第四週・メッセージと祈りの意向

2021年5月24日 (月)5月にロザリオを祈る:配信第四週目

Rozario6 教皇様の呼びかけに応えて、5月中に祈りを続けるロザリオの祈りの第四週目です。

 聖母マリアにはさまざまな称号が与えられていますが、その中でも、「教会の母」という称号は、「神の母」と並んで重要な意味があります。2018年2月に典礼秘跡省の教令を持って、「教会の母聖マリア」の記念日は義務の記念日となり、聖霊降臨の主日直後の月曜日に祝われることになっています。従って、今年は本日、5月24日が、「教会の母聖マリア」の記念日です。

 同教令には、次のように記されています

「母は十字架のもとに立ち(ヨハネ 19・25 参照)、わが子の愛のあかしを受け入れ、永遠のいのちへと再生する子としてすべての人を最愛の弟子の名のもとに迎えた。こうして母は、キリストが十字架上で霊をゆだねることによって生まれた教会の優しい母となった」

「生まれたばかりの教会の優しい導き手として、マリアは聖霊の到来を待ち望む使徒たちとともに祈り、階上の部屋で自らの使命を果たし始めていた(使徒言行録 1・14 参照)」

「福者教皇パウロ 6 世は、第 2 バチカン公会議第 3 会期の閉会に際し、1964 年 11 月 21日に、聖なるおとめマリアを『教会の母』と宣言した。『それはマリアが、信徒であれ司牧者であれマリアを最愛の母と呼ぶすべてのキリスト者の母であるということである』。そして、『すべてのキリスト者が、最も甘美なこの称号をもって、今後いっそう神の母に敬意を払い、取り次ぎを願うよう』定めた」

 24日は、ラウダート・シ特別年の締めくくりの日であり、なおかつ「教会の母聖マリア」の記念日です。神から管理を託されたこの共通の家に思いを馳せながら、教会の母である聖母に祈りましょう。常にわたしたちとともに歩んでくださる教会の母である聖母に信頼し、祈り続けましょう。

 以下、24日昼に配信の、ロザリオの祈り第四連目の、メッセージと祈りの意向の原稿です。

2021年5月の第四週

 信仰は、まず第一義的に、個人的な、神と私との関係の問題であります。

 同時に私たちの信仰は、きわめて共同体的な信仰でもあります。主イエスご自身が、弟子たちを集めて共同体を形作り、その共同体から、福音宣教者を派遣されました。

 使徒言行録に記されているとおり、初代教会は、共同体としての一致のうちにあり、互いに助け合い、分かち合い、学び合い、祈りと賛美を共にしていたことから、仲間が日々増えていったと記されています。教会はその始まりから共同体であり、共同体として成長を続けてきました。

 教皇フランシスコは、使徒的勧告「福音の喜び」の締めくくりに、こう記しています。

 「マリアは、・・・私たちの生活に葡萄酒が足りなくなることのないよう、常に気を配る友です。心を剣で刺し貫かれた方、あらゆる苦しみを理解される方です。すべての者の母として、正義を生み出すまで産みの苦しみを味わうすべての民の希望のしるしです。マリアは、私たちの人生に同伴するために身近な存在となってくださる宣教者であり、母の愛をもって、私たちの心を信仰へと開きます」

 教皇が指摘するように、聖母マリアは、教会の母として、常に教会共同体と歩みをともにされ、心を配り、また自ら福音宣教のために行動される模範を示されています。

 ところで教皇フランシスコは、回勅「ラウダート・シ」で、現代を生きる私たちの、将来の共同体への責任という視点の重要性を指摘されています。

 回勅において、すべての被造物は密接につながっているからこその総合的エコロジーの視点を強調される教皇フランシスコは「後続する世代の人々に、今成長しつつある子どもたちに、どのような世界を残そうとするのでしょうか」と問いかけます。

 その上で、「どのような世界を後世に残したいかと自問するとき、私たちはまず、その世界がどちらへ向かい、どのような意味を帯び、どのような価値があるものなのかを考え」なくてはならないことを強調します。(160)。

 私たちには、この共通の家の中で今を生きる責任と、将来の世代へどのような共通の家を残していくのかという、二つの責任があります。私たちと歩みをともにされる聖母マリアは、今を生きる者への配慮を忘れないように、将来の世代への配慮も忘れない方であります。

 聖母の取り次ぎを求めながら、この5月の間、皆で共に祈りましょう。

 一日も早く、人類が直面しているこの困難な事態が終息するように、また病床にある人たちに癒しが与えられるように、医療関係者の健康が守られるように、経済の悪化でいのちの危機に直面する人たちに助けがあるように、さまざまな事情により命を守るために助けを必要としている人たち、特に海外から来られた兄弟姉妹に必要な助けが与えられるように、さらに政治のリーダーたちが命を守るための正しい判断をすることができるように。

 そして、すべての人の上に復活の主イエスの守りと導きが豊かにあるように、私たち自身が御子イエスに倣って行動する勇気を持つことが出来るように、神の母である聖母の取り次ぎを祈りましょう。

栄えの神秘(日曜日・水曜日)

第四の黙想

マリア、天の栄光に上げられる

神は御子の母マリアをからだも魂も天の栄光に上げられました。

教会の母として、常にわたしたちを見守ってくださる聖母の心配りは、これまでも、また今も、またこれからも、教会共同体とともにあります。聖徒の交わりを信じるわたしたちは、過去と現在と将来の共同体と結ばれながら、ともに天の国の実現のために働かなくてはなりません

この一連をささげて、わたしたちも天の国を求め、永遠の喜びに入ることができるよう聖母の取り次ぎによって願いましょう。

終わりの祈り(教皇フランシスコ)

聖マリア、

あなたは救いと希望のしるしとして、

いつもわたしたちの歩みを照らしておられます。

病人の希望であるあなたに信頼して祈ります。

あなたは十字架の下で、揺るぎない信仰をもって、

イエスと苦しみをともにされました。

「ローマ市民の救い」*であるマリア、

あなたはわたしたちに必要なものをご存じです。

わたしたちはあなたがそれを与えてくださると信じています。

ガリラヤのカナでなさったように、

この試練の後に喜び祝う時が再び訪れますように。

愛である神の母マリア、わたしたちを助けてください。

わたしたちが御父のみ心にこたえ、

イエスのことばに従って生きることができますように。

イエスはわたしたちの苦しみをその身に負い、

わたしたちの悲しみを引き受け、

十字架を通して、

わたしたちを復活の喜びに導いてくださいます。

アーメン。

神の母聖マリア、

あなたのご保護により頼みます。

苦難のうちにあるわたしたちの願いを聞き入れてください。

栄光に輝く幸いなおとめよ、

あらゆる危険から、いつもわたしたちをお救いください。

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2021年5月25日

・「聖霊の導きに従い、言葉と行いで証ししているか」ー菊地大司教の「聖霊降臨主日」の説教

2021年5月22日 (土) 週刊大司教第二十七回:聖霊降臨

Laudatosi 聖霊降臨の主日となりました。

 聖霊降臨祭をもって、復活節は終了です。復活祭の締めくくりとして、聖霊降臨のミサでは、最後の派遣の言葉、「行きましょう、主の平和のうちに」のあとに、復活の八日間と同様、「アレルヤ」を唱えます。

 先週もお伝えしましたが、5月24日は、一年前から続いていた「ラウダート・シ特別年」の締めくくりの日です。

 2015年5月24日の聖霊降臨の日に、回勅「ラウダート・シ」が発表され、昨年がちょうど5周年となることから、教皇様はこの一年を、特別年として、「ラウダート・シ」について振り返り、考察を深めるように呼びかけられていました。

 教皇庁の人間開発のための部署(長官:タークソン枢機卿)では、これから数年間にわたり教会の多くの部門を巻き込んだ、ラウダート・シの精神を実現する具体的な行動計画を作成しています。

 そのキーワードはエコロジカルな回心(回勅の216項以下)と総合的エコロジー(回勅の137項以下)。そして同部署では、ラウダート・シに基づいた7つの目標を掲げています。この目標については、東京教区広報で抄訳を準備中ですので、間もなくホームページに掲載される予定です。

 もちろんこれらの目標や取り組みは、神の計画を実現するためであり、すべての人にイエス・キリストの福音を告げしらせることを、その基礎においてることは、言うまでもありません。

 エコロジカルな回心を語る教皇フランシスコは、「生態学的危機は、心からの回心への召喚状」だと記し、「熱心でよく祈ってはいても、・・・環境への関心を嘲笑しようとするキリスト者がいると言うことも知らねばなりません」と記します。その上で、「そうした人々皆に必要なものは『エコロジカルな回心』であり、それは、イエス・キリストとの出会いがもたらすものを周りの世界とのかかわりの中であかしさせます。神の作品の保護者たれ、との召命を生きることは、徳のある生活には欠かせないことであり、キリスト者としての経験にとって任意の、あるいは副次的な要素ではありません」と指摘しています。(217)

 さて、例年、聖霊降臨の主日には、午後から東京カテドラル聖マリア大聖堂で、教区の合同堅信式を行っていました。残念ながら、昨年と同様、現在の状況のため、合同堅信式を行うことが出来ません。またこれまでは、なるべく司教が小教区を訪問して堅信式を行ってきましたが、このような状況下で司牧訪問も適わず、小教区での司教司式の堅信式を行うこともできていません。すでにいくつもの小教区でおこなわれていますが、現在の状況が続く中ですので、主任司祭に堅信を授けるようにと委任しております。

 一日も早く、安心して皆で集まって祈り、賛美と感謝をささげる事が出来るようになる日が来ることを願い、祈り続けましょう。また病床にある方々の回復のため、医療関係者の健康のため、祈り続けましょう

以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第27回のメッセージ原稿です

 

【聖霊降臨の主日B(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第27回 2021年5月23日】

「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」

 五旬祭の日に聖霊を受けることで誕生した教会共同体は、「霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で」神の福音を語り始めました。パウロはその教会が、「霊の導きに従ってまた前進」し続けることで、どのような実りを生み出すのかを明確にします。

 ヨハネ福音は、「真理の霊が来ると、あなた方を導いて真理をことごとく悟らせる」と語るイエスの言葉を記して、教会共同体が、常に聖霊によって真理へと導かれていることを明確にします。

 第二バチカン公会議の教会憲章は、教会に聖霊が与えられたことによって、「聖霊は教会の中に、また信者たちの心の中に、あたかも神殿の中にいるかのように住み、彼らの中で祈り、彼らが神の子となったことを証明する」と記します。

 その上で、「福音の力を持って教会を若返らせ、絶えず新たにし、その花婿との完全な一致へと導く(4)」のは、聖霊である、と明示します。

 教会は、常に聖霊に満たされ、聖霊によって導かれています。第二バチカン公会議の現代世界憲章は「神の民は、世界を満たす主の霊によって自分が導かれていることを信じ、この信仰に基づいて、現代の人々と分かち合っている出来事、欲求、願望の中に、神の現存あるいは神の計画の真のしるしを見分けようとつとめる(11)」と記します。

 すなわち、教会は「社会の現実から切り離された隠れ家」となるのではなく、「積極的に社会の現実を識別し、神の計画を見極めるために出向いていく存在」であります。

 聖霊の導きに信頼していますか? 社会の現実に働く神の力を識別し、時のしるしを読み取り、聖霊の導きに身を委ねているでしょうか? 私たちが生み出すべきは、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」という聖霊の実りです。

 常に若返り、新たに変えられていく勇気がありますか? すべての人に理解される言葉で、福音を語り続けているでしょうか? 現代世界憲章が「現代の人々の喜びと希望、苦悩と不安、特に貧しい人々とすべて苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、苦悩と不安でもある」と冒頭に記していることを、常に心に留めたいと思います。

 感染症への対応が社会にさまざまな影響を及ぼしています。病床にあって命のために闘う人たちのために、また命を救うために奮闘される医療関係者に心からの敬意をもって、祈ります。そして、この困難な状況の一日も早い終息を求めて、祈り続けましょう。

 同時に、感染症対策に伴って経済が悪化し、生きる困難を抱える人たちが増え、さらには自殺・自死も、とりわけ若い世代で増加している、と指摘されています。闇の中を歩む不安な心は、寛容さを私たちから奪っています。法的立場や国籍を超えて、また社会的背景をこえて、助けを求めている多くの人たちを、まず守ろうとする寛容な社会でありたいと思います。命を守ることを最優先する社会の実現は、現代社会にあって聖霊に導かれる教会にとって、まさしく自分たちの問題であります。

 聖霊降臨を祝う今日、私たち現代社会に生きる教会共同体は、改めて聖霊に満たされ、聖霊の導きに信頼し、その実りを私たちの言葉と行いをもって生み出すことができるように努める決意を、新たにいたしましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2021年5月22日

・菊地大司教のロザリオの祈り第三週ー環境回勅「ラウダート・シ」を心に留めて

5月にロザリオを祈る:配信第三週目

2021年05月17日

 教皇様の呼びかけに応えて、5月中に祈りを続けるロザリオの祈りの第三週目です。教皇様は昨年5月24日に、回勅「ラウダート・シ」発表から5年となることを記念して、この16日から24日までを「ラウダート・シ」週間とし、さらに5月24日までを「ラウダート・シ」特別年と定めて、総合的エコロジーの観点からともに住む家である地球を守ることの大切さを自覚するようにと呼びかけられています。

 間もなく5月24日でその特別年が終わるにあたり、この一週間をあらためて「ラウダート・シ」週間とするようにと、タークソン枢機卿が責任者である教皇庁の人間開発促進の部署から呼びかけられています。これには国際カリタスも協力しております。

 今週特別に行われる行事については、残念ながら日本語はなくて英語のサイトですが、このリンクから一覧を見ることが出来ます。

 日本の教会では9月を環境を考えるための特別な一か月と定め、「すべての命を守る月間」と名付けています。現在、司教団に特別なチームを設けて、「ラウダート・シ」の精神を日本の教会でどのように生かしていくことが出来るのか、検討をしています。

 本日のロザリオの祈りの中で、この「ラーダート・シ」週間のことを心に留め、私たちの共通の家をどのように守っていくのか、考えていただければと思います。

 

【2021年5月の第三週】

 恐れは私たちの心を束縛します。イエスの受難と十字架上での死の後、弟子たちは恐れに束縛されて、部屋に閉じこもりました。五旬祭の日、イエスはその部屋に入り、聖霊を与え、弟子たちの心を恐れの束縛から解放します。

 「死」という最大の束縛から解放された復活の主は、「あなた方に平和があるように」と、弟子たちに言葉をかけます。この言葉は、恐れに束縛される心には、神の平和が欠如しているという事実を明確に指摘しています。

 神の平和とは、神の秩序の実現です。神が望まれる世界の実現です。

  神の平和の欠如とは、「神が望まれる世界とは正反対にある現実」であります。自分の殻に閉じこもり、他者への配慮を忘れた世界には、神の平和がありません。

  創世記には、神が人を創造されたときに、互いに助けるものとして共に生きるようにと、二人の人を創造して命を与えられた事が記されています。私たちは互いに助け合うように命を与えられました。いのちを守らず、他者への配慮を忘れた世界には、神の平和がありません。

 回勅「ラウダート・シ」で教皇フランシスコは、神が創造されたものは、一つとして他者と関係なく勝手に存在するものはなく、すべてが密接につながっていることを指摘し、こう記しています。

 「密接に絡み合う根本的な三つの関わり、すなわち、神との関わり、隣人との関わり、大地との関わりも、引き裂かれてしまいました。この断裂が罪です」(66)

  福音を告げしらせるようにと遣わされているわたしたちには、この世界において、三つの関わりが引き裂かれている状態を修復させる務めがあります。神が望まれる世界は、「創造主と人間と全被造界との関係」が修復され、調和が実現している世界であるはず、だからです。教皇様が、総合的エコロジーの課題を強調する由縁です。

 複雑に絡み合った現実は、時として、三つの関係の修復を困難にさせてしまいます。不可能とも思える現実の課題を目の当たりにして心が怖じ気づくとき、復活の命に生きておられる主は、聖霊を送り、神の平和をこの世界に実現するように、神の平和を心に取り戻すようにと呼びかけられます。

 聖母の取り次ぎを求めながら、この5月の間、皆で共に祈りましょう。

 一日も早く、人類が直面しているこの困難な事態が終息するように、また病床にある人たちに癒しが与えられるように、医療関係者の健康が守られるように、経済の悪化でいのちの危機に直面する人たちに助けがあるように、さまざまな事情により命を守るために助けを必要としている人たち、特に海外から来られた兄弟姉妹に必要な助けが与えられるように、さらに政治のリーダーたちがいのちを守るための正しい判断をすることができるように。

 そして、すべての人の上に復活の主イエスの守りと導きが豊かにあるように、私たち自身が御子イエスに倣って行動する勇気を持つことができるように、神の母である聖母の取り次ぎを祈りましょう。

 【栄えの神秘(日曜日・水曜日)第三の黙想 聖霊、使徒たちにくだる】

 主の約束のとおり、マリアとともに祈っていた使徒たちのうえに聖霊がくだります。

聖霊が弟子たちに下ったとき、そこには聖母マリアも共におられ、弟子たちと祈っていました。

聖母は、「お言葉通りにこの身になりますように」と天使ガブリエルに応えたときから、常に心に浮かぶ恐れと闘い、聖霊に導かれて、神の秩序を回復するために闘ってこられました。

 平和を実現する福音宣教の模範を示しているのは、聖母マリアです。

 この一連をささげて、私たちが聖霊に満たされ、いつも勇気をもって救いの福音をのべ伝える者となるよう、聖母の取り次ぎによって願いましょう。

終わりの祈り(教皇フランシスコ)

聖マリア、
あなたは救いと希望のしるしとして、
いつも私たちの歩みを照らしておられます。

病人の希望であるあなたに信頼して祈ります。
あなたは十字架の下で、揺るぎない信仰をもって、
イエスと苦しみを共にされました。

「ローマ市民の救い」*であるマリア、
あなたは私たちに必要なものをご存じです。
私たちはあなたがそれを与えてくださると信じています。
ガリラヤのカナでなさったように、
この試練の後に喜び祝う時が再び訪れますように。

愛である神の母マリア、私たちを助けてください。
私たちが御父のみ心に応え、
イエスの言葉に従って生きることができますように。
イエスは私たちの苦しみをその身に負い、
私たちの悲しみを引き受け、
十字架を通して、私したちを復活の喜びに導いてくださいます。
アーメン。

神の母聖マリア、
あなたのご保護により頼みます。
苦難のうちにある私たちの願いを聞き入れてください。
栄光に輝く幸いなおとめよ、
あらゆる危険から、いつも私たちをお救いください。

2021年5月17日

・「福音を愛の業による証しをもって告げ知らせる」菊地大司教の「主の昇天」説教

2021年5月15日 (土) 週刊大司教第二十六回:主の昇天

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 復活節第七主日は、主の昇天です。(写真は西千葉教会のヨセフ像)

 この一週間は、月曜の東京教区の司祭評議会に始まって、水曜日の司教協議会のHIV/AIDSデスク事務局会議、そして社会司教委員会、木曜日には司教協議会の常任司教委員会と東京カトリック神学院の常任司教委員会などと、すべてオンラインでの会議が続きました。

 どの会議でも、今後の年間予定をどうするのかが重要な議題のひとつとなり、秋以降に予定されているさまざまな行事は、状況が見通せないことや準備の時間も考えて、軒並み、中止やオンライン化が決まっていきました。

 オンラインでの行事は、全国どこにいても参加できるメリットがある反面、やはり実際に出会って交わるという部分に、まだ欠けているように感じます。慣れるのかもしれません。またオンラインの会議は、移動する時間と経費が節約できますが、移動時間がないぶん、立て続けに会議が続くことがあり、モニター画面の前に座りっぱなしになったり、海外との会議ですと時差を考慮に入れて、とんでもない時間に始まったりと、それはそれで大変です。

 中止になった行事といえば、5月21日から26日まで、有楽町で、カトリック美術協会の毎年の美術展が開催される予定でした。これも、昨年同様、中止となってしまいました。私自身はカトリック美術協会の顧問司教を務めていますが、私の父親も絵描きですので出品されることがあります。信徒の美術家の方々の渾身の作品が展示され、広く一般の方にも鑑賞いただく機会でしたので、残念です。来年は、安心して開催されますように。

 ワクチン接種が少しずつ進んでいるようです。司祭や修道者の方でも、高齢者が多いですから、順番に接種の予約が取れた方が出ているようです。私はまだ65歳前ですので、ワクチン接種はかなり先のことになるのではないかと思われます。まだまだ気を抜くことはできません。

 以下、本日土曜日午後6時に配信された、週刊大司教第二十六回、主の昇天の主日のメッセージ原稿です。

 

【復活節第七主日B・主の昇天(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第26回 2021年5月16日】

「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか」

 復活された主イエスは、40日にわたって弟子たちと共におられ、神の国について教え、ご自分が新しい命に生きていることを数多くの証拠を持って示されたと、使徒言行録の冒頭に記されています。

 十字架上での死によって主を失った弟子たちには、大きな絶望があったことでしょう。神の国の実現という、将来に向けての具体的な目的が潰えてしまったからです。復活された主に出会った弟子たちの「イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」という問いかけに、弟子たちの心に再び芽生えた希望が表現されています。

 残念ながら、弟子たちの心に再燃したその希望は、主が示す新たな命への道とは異なりました。マルコ福音には、天に上げられ、神の右の座につかれたイエスが、弟子たちに残した言葉が記されています。

 「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」

 これこそが、主イエスが示される新たな命への希望の道であります。

 福音を伝えることによって、多くの人が神の救いにあずかること。多くの人が神の愛に包まれて生きること。そこに本当の命の希望があるのだと、主は進むべき道を示されます。

 私たちには、福音を告げしらせ、命の希望の灯火をともしていく務めがあります。教会に与えられた、福音宣教の命令です。私たちの使命です。

 昨年から一年以上、私たちは困難な状況の中にあります。希望の光であるワクチン接種も徐々に始まってはいますが、緊急事態宣言やそのほかの措置が繰り返され、まだまだ油断することはできません。気を緩めることはまだできませんが、かすかながら光が見えつつあり、希望を感じ取ることができます。

 希望は人を生かします。希望は不安を打ち砕き、行動へと駆り立てる勇気を与えます。希望は、守りに入って自分のことだけを心配する目を、助けを必要とする他者へと開きます。希望は、私たちが一歩前へと足を踏み出す力を生み出します。

 この希望への道を切り開いてくださっている医療関係者の努力に、改めて感謝するとともに、病床にある方々の一日も早い回復を心から祈ります。

 「教会の使命は、キリストの命令に従い、聖霊の恵みと愛に動かされて、すべての人と民族の前に完全に現存するものとなるとき、初めて遂行される」と記している第二バチカン公会議の『教会の宣教活動に関する教令』は、愛の証しによる福音宣教について、次のように記します。

 「キリストが神の国の到来のしるしとして、あらゆる病気や患いを癒やしながら町や村を残らず巡ったように、教会もまた、その子らを通して、どのような状況にあるとしても、人々とくに貧しい人や苦しんでいる人と結ばれ、彼らのために喜んで自分を差し出す」(12)

 イエスは苦しみの意味を問う私たちに、抽象的に意味を説明するのではなく、ただ、「私に従って来なさい」と招き、ご自分の愛の業に参加するように呼ばれるのだ、と記したのは、ヨハネパウロ二世でありました。(「サルヴフィチ・ドローリス」26)

 今、この状況の中で、私たちには、福音を、愛の業による証しを持って告げ知らせる務めがあります。希望の光を届け、主が示される新しい命への真の希望の道を歩みましょう。

2021年5月15日

・「イエスの命を懸けた愛を証しできるように」菊池大司教の復活節第六主日の説教

週刊大司教第二十五回:復活節第六主日

 復活節もすでに第六主日となりました。

 残念なことに、緊急事態宣言は当初の5月11日は解除とならず、東京都に関しては月末まで延長されることが発表されています。千葉県のまん延防止等重点措置も、月末まで継続です。

 従って、東京大司教区では、現時点で行っている感染対策などを、そのまま継続します。現時点での教区の対策は、東京大司教区Okadakishi21cのホームページの一番トップに、常に掲示されていますので、ご参照ください。『現在の東京教区における感染症への対応」と記されたバナーがありますので、クリックされてください。

 5月8日土曜日の午前11時から、ごくOkadakishi21b一部の方々に参加者を限定して、昨年12月に帰天されたペトロ岡田武夫大司教と、昨年9月に帰天されたフランシスコ・ザベリオ岸忠雄神父の納骨式を、府中カトリック墓地で行いました。

 晴天に恵まれ、暑いほどの陽気でしたが、両師のご親族代表ほか10名ほどで、教区司祭団の共同納骨墓にお二人の御遺骨を納めさせていただきました。

 府中墓地の聖堂の目の前にあるのが教区司祭団の共同墓です。府中墓地にお出での節には、是非お祈りをお願いいたします。

 以下、週刊大司教第二十五回目の、メッセージ原稿です。

【復活節第六主日B(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第25回 2021年5月9日】

 「愛する者たち、互いに愛し合いましょう」と呼びかける使徒ヨハネは、「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしに」なったことにこそ、神の愛が示されていると強調します。

 すなわち、神から私たちに向けられた愛は、御子が十字架の上でその身をささげられたほどの愛であり、まさしく命がけの愛であります。その愛によって生かされているのだから、私たちも、口先ではなく、「命がけ」で愛に生きるように、という、実のところ極めて激しい呼びかけの言葉であります。

 使徒ヨハネの言葉は、イエスご自身の、さらに激しい呼びかけ、すなわち、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」という言葉に根ざしています。

 「隣人を愛する。友を愛する」と口にするのは、たやすいことです。もしかしたら「互いに愛し合いなさい」と言う呼びかけも、簡単なことだ、と思ってしまうこともあるやも知れません。でもそれは思い違いです。それは、単に優しくあることを意味しているからではありません。

 イエスが語る「愛」は、ご自身がそうされたように、命がけの愛であります。神の愛を具体化するために、イエスは受難の道を歩まれ、十字架の苦しみの中に、ご自身を「贖いのいけにえ」としてささげられました。それが神の愛です。

 この言葉を耳にするとき、私はどうしても、ルワンダ難民キャンプでの体験を思い起こしてしまいます。

 25年ほど前、当時の旧ザイールにあったルワンダ難民キャンプで、襲撃事件に遭遇しました。キャンプに二時間にわたって銃弾が撃ち込まれる中で、隣に一緒にいたはずのルワンダ人の神父が、外国人の私たちが襲撃されないように、と、建物の外に立ち、襲撃してきた一団の注意を引こうとしていたのでした。幸い彼が襲撃してきた一団に遭遇することがなかったのですが、その直後、「君たちを守るために、注意を引こうとしていたのだ」という彼の言葉を耳にしたとき、自分がそれまで「友のために命を捨てる」という言葉を、いかに軽々しく口にしてきたことかと思い知りました。

 そしてイエスの言葉がどれほど命がけの行動を促しているのかを、思い知りました。愛は簡単に口にできますが、神の愛に生きることは、命がけであります。

 5月は聖母月ですが、聖母マリアは命がけの愛に生きる模範を示されています。教皇フランシスコはそのことを「福音の喜び」で、「教会の福音宣教の活動には、マリアという生き方があります。というのは、マリアへと目を向けるたびに、優しさと愛情の革命的な力をあらためて信じるようになるからです」(288)と記して、聖母の愛が、単なる優しさにあるのではなく、「革命的な力」という表現で、命を懸けた生き方によって証しされていること示唆します。

 さて教会は、復活節第六主日を「世界広報の日」と定めています。新聞、雑誌、テレビ、ラジオ、映画、インターネットなどの広報媒体を用いて行う宣教について、教会全体で考え、振り返り、祈り、献金をささげる日です。この日にあたり教皇フランシスコは、『「来て、見なさい」(ヨハネ福音書1章46節)人々と、彼らのいる場で、そのままの彼らと会って、伝えなさい』というメッセージを発表されています。教皇は、「言葉は、それが『見てもらえる』ときにのみ、あなたを経験の中に、対話の中に、巻き込むときにのみ、力を得ます」と記して、イエスと出会った者がその体験を、実際の出会いの中で具体的に言葉と行いを持って証しするように招かれます。

 私たちは主イエスに倣い、命がけの愛に生きている姿を、具体的に証しするように、努めていきたいと思います。

(編集「カトリック・あい」)

2021年5月8日

・「SDGs目標2: 飢餓をゼロに」達成に向けて – 何ができるか?(世界銀行)

The Kitabi Tea Processing Facility in Kitabi, Rwanda. © A'Melody Lee/World Bank
ルワンダ、キタビのキタビ茶加工施設 © A’Melody Lee/世界銀行

(2021.4.30 世界銀行ニュース)

 4月の世界銀行グループ・国際通貨基金(IMF)春季会合で世界銀行が開いた、持続可能な開発目標(SDGs)の目標2「飢餓をゼロに」を達成するための解決策と資金調達方法を話し合う非公開会議には、農業の生産性と強靭性を追求するだけではなく、人々の健康や栄養の改善や、気候にも資する食料システムに転換していくことの重要性が強調されました。本会議には、日本の財務省高官も出席し、この議論に積極的に参加しました。

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 新型コロナウイルス感染症との闘いが始まって一年。感染症危機は経済危機を引き起こし、食料安全保障にも長期的な課題が生じています。 

  世界の最貧困層にとっては基本的な生計の維持すら難しくなっており、また保健・栄養サービスが滞ることによって今後長期にわたる負の影響が危惧されています。新型コロナウイルス感染症危機以前も、世界は持続可能な開発目標(SDGs)の「目標2:飢餓をゼロに」の達成に向けて順調に歩んでいたわけではありません。

 今回の感染症危機により、1億3,500万人の食料安全保障が急速に悪化し、3,400万人が飢饉に直面するというこれまでにない状況が発生するとみられます。 

 現在、世界で1億4,900万人の子どもが発育阻害の問題を抱えていますが、2022年までにさらに急性栄養不良の子どもが930万人、発育阻害の子どもが260万人増えるとする推計があります。そうなれば、これまで何年もかけて達成されてきた栄養改善事業の成果が水の泡になってしまいます。幼少期の発育阻害は学習能力や成人後の労働生産性に影響を与えるため、その負荷は生涯にわたって続きます。

さらに、今回の感染症危機によって改めて目を向ける必要性が高まっているのは、世界の体重過多・肥満人口の70%以上を低・中所得国の人々が占めているという事実です。  肥満によって新型コロナウイルス感染症による死亡リスクが48%、入院リスクが113%、重症化リスクが74%高まることが報告されています。

*環境に配慮した強靭で包摂的な開発に方向転換する機会

 この問題の重要性に鑑み、世界銀行は2021年世界銀行グループ・国際通貨基金(IMF)春季会合において、SDGs目標2の達成のための解決策と資金調達方法を話し合う非公開会議を開催しました。

 マリ・パンゲストゥ世界銀行専務理事とアミーナ・モハメッド国連副事務総長の共同司会の下、ベルギー、カナダ、ドイツ、インドネシア、インド、日本、メキシコ、ノルウェー、パキスタン、フィリピン、ルワンダ、英国、米国の13カ国から財務大臣、開発大臣、政府・関係機関高官が、また世界銀行からは、ユルゲン・フォーグレ持続可能な開発担当副総裁とマムタ・ムルティ人間開発担当副総裁が参加しました。日本の財務省高官も出席し、この議論に積極的に参加しました。

 会議では、この危機を乗り越えるために、新型コロナウイルス感染症の流行によって起きている短期的課題に対応すると同時に、食料安全保障と栄養問題の長期的な改善を促す明確な視点が欠かせないことが合意されました。基礎的な保健・栄養サービスを提供し続けるためには保健システムをさらに強化しなければなりません。また、 経済と地球の健全性や人々の健康を強化するような食料システムを構築することも必要です。 

 我々は何十年もの間、栄養不良や肥満に加え、食生活に起因する慢性疾患を助長するような食料生産と消費パターンを続け、食料生産の持続可能性を損なってきました。今回の新型コロナウイルス感染症危機は、環境に優しく強靭で包摂的な開発へと舵を切るための数十年に一度の機会です。

*セクターや組織を越えた協働アプローチの導入

 我々は、セクターや組織を越えた協働アプローチを推進してきました。農業、食料、保健、栄養、社会的保護などの分野の専門家・実務者が集まり、共に食料・栄養安全保障問題の解決に取り組んでおり、さらにジェンダーの視点を取り入れ、妊産婦や2歳未満の幼児に焦点を当てています。今回の会議では、こういったアプローチから見えてきた希望の持てる学びが共有されました。

 ルワンダの発育阻害削減事業は保健と社会的セーフティネットのプロジェクトを包括するものですが、さらに農業プロジェクトが補完的役割を果たしています。その中でいかに供給側と需要側の課題をすり合わせているかが、ルワンダ財務大臣より報告されました。

 世界銀行シニア・マネジメントは、新型コロナウイルス感染症へのグローバルな社会保障対策を取り上げ、それを土台として今後も社会の強靭性、人的資本、経済的包摂性を強化する対策を続けていく必要性を指摘しました。例えば、サヘル適応型社会的保護事業では、現金給付を他の支援策と組み合わせることで、収入や生計活動、資産保有、貯蓄等の効果が高くなることがわかりました。

 この会議では、現在、我々が直面している課題の大きさにも触れ、農業の生産性と強靭性を追求するだけではなく、人々の健康や栄養を改善し、さらに気候にも資する食料システムに転換していくことの重要性が強調されました。そのためには、農業セクターの補助金や現場支援のための支出の目的を再考しなければならない、という議論も交わされました。

*資金調達の難しさを乗り越える

 SDG2を達成するには、資金へのアクセスが必要になります。  政府開発援助(ODA)と国内資金が共に限られる中、従来とは異なる資金源からも資金を呼び込む革新的資金調達方式が必要となります。

 世界銀行はいくつかの国において「栄養の潜在力(The Power of Nutrition)」という革新的な資金調達イニシアティブと協力関係にあります。独自の革新的資金調達に取り組んでいる国もあります。例えばメキシコは、SDG債の販売を通じ年間最大約150億米ドルの資金調達を図っていますし、健康によくない食品に対する課税を試行している国もあります。

 世界銀行グループ は、IDA対象国における食料安全保障のために53億ドルを提供しています。また、SDG2達成のための資金調達における「状況を一変させる」ソリューションを確保するため、パートナー国・機関と協力して積極的に取り組んでいます。今回の会議でも紹介された通り、9月の国連食料システム・サミットと、2021年12月に日本政府がホスト国を務め世界中のさまざまな組織の栄養改善支援が表明される予定の東京栄養サミット(Nutrition for Growth Summit: N4G)が大きな節目となるでしょう。

*政府全体・世界銀行グループ全体のアプローチ

 世界は現在、万人のための食料・栄養の安全保障の確保、生計の保護、天然資源の持続可能な活用と温室効果ガス排出量削減の両立という3つの課題に直面しています。  これらに対応するには、以下の3点を念頭に置いた資金調達が必要です。

 第1に、農業生産性の強靱で持続可能な向上を実現し、安価で健康によい食料を地方市場で入手できるようにする必要があります。

 第2に、栄養と保健サービスに常にアクセスを確保することで子どもたちが経済的潜在性を最大限に発揮できるようにする必要があります。

 第3に、食料・栄養の安全保障と連動した、リスク対応・適応型の社会的セーフティネットを整備することで人々をショックから守る必要があります。

 2030年までにSDG2を達成することはまだ可能です。  ただし、IDA第20次増資(IDA20)の下で人的資本の強化を図りつつ、環境に配慮した強靭で包括的な回復に向けた歩みに弾みをつけるには、国内資金、政府開発援助、革新的資金調達といった財源から持続可能な資金を大幅に拡充することが必要になります。

 我々には意欲と手段があります。是非やり遂げようではありませんか!

(Meera Shekar=Global Lead, Nutrition、Kyoko Shibata Okamura=Nutrition Specialist, World Bank、Madhur Gautam=Lead Economist, Agriculture Global Practice, World Bank、Luc Christiaensen=Lead Agriculture Economist, World Bank、Ugo Gentilini=Global Lead for Social Assistance, World Bank)

 

2021年5月2日

・「コロナ禍の今、聖母の取り次ぎを求めて祈ろう」菊地大司教の復活節第5主日説教

2021年5月 1日 (土) 週刊大司教第二十四回:復活節第五主日

 復活節も第五主日となりました。東京教区でも東京都は緊急事態宣言の対象となっておりますし、都県境をまたいで千葉県などで隣接する教会も多いことから、それぞれの小教区の事情に応じて、ミサの公開を一時中止としているところもあること、報告をいただいています。

 4月29日には、小田神父様、古市神父様の司祭叙階式を、参加者を限定して執り行うことができました。それ以外は、多くの予定されていた行事が中止や延期となっています。この主日、5月2日は五井教会で堅信式の予定でしたが中止。5月5日は豊四季教会の五十周年ミサを司式する予定でしたが、これもプライベートなミサに変更。昨年から一年延期となり、連休中に予定されていた全国のカトリック青年の集まりも再度の延期。などなど、それ以外にも、特にこの連休中に予定されていた諸行事が、延期や中止となっているものと思います。

 一日も早くこの困難な状況が終息し、再び笑顔で教会に集える日が戻るように、病床にある方々に回復を、医療関係者の健康が守られるように、五月中は特に聖母の取り次ぎを願って、祈り続けましょう。祈りの力で、霊的に結ばれていることを、再確認いたしましょう。

 教皇様の、五月中にロザリオ・マラソンを行うという呼びかけに応え、急遽、東京教区でもロザリオのビデオを作成しています。5月3日から5月31日の、五月中の毎週月曜日昼に、東京教区のyoutubeアカウントから、週刊大司教と同じように配信します。準備するにはとても短い時間ですが、担当者がオーバータイムで必死に作成してくれていますので、これが皆様のお祈りの一助となれば、幸いです。

 配信内容としては、ロザリオの前に私のメッセージがあり、そのあと、月曜ですが復活節でもあるので「栄えの神秘」を、毎回一連ずつ唱えましょう。(毎月曜に一連で、今年の5月は5回月曜があるので、一か月でちょうど一環となります)最後に、昨年の信徒への手紙に記されていた、教皇フランシスコの祈りを唱えて終わります。もちろんその後で、それぞれの場で、一環、またはそれ以上、祈り続けてくださって構いません。

 いわゆる入管法(出入国管理及び難民認定法)などの一部を改正する案が国会で審議され、先般の名古屋入管におけるウィシュマ・サンダマリさんの死亡の事案などもあり、改正に反対する声が上がっています。こういったことに関する教会の態度は明確です。

 教会は、その旅路がどのような理由で始められようとも、そのどこにあっても、どのような状況にあっても、神の似姿である人間のいのちの尊厳は、常に守られなくてはならないと主張します。

 申命記10章19節には、「あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった」と記されていました。困難に直面する人々に、救いの手を差し伸べることは、そもそもの神の民の務めです。

 私たちが最優先するべきなのは、移住者の現在の法律的な立場ではなく、人間としての尊厳であると、教会は長年にわたり主張してきました。例えば1996年世界移住の日のメッセージで、教皇ヨハネパウロ二世はこう指摘しています。

「違法な状態にあるからといって、移住者の尊厳をおろそかにすることは許されません。・・・違法状態にある移住者が滞在許可を得ることができるように、手続きに必要な書類をそろえるために協力することはとても大切なことです… 特に、長年その国に滞在し地域社会に深く根をおろして、出身国への帰還が逆の意味で移住の形になるような人々のために、この種の努力をしなければなりません」

 教皇フランシスコは、難民や移住者への配慮を、命の尊厳に基づいて強調されています。それぞれの国家の法律の枠内では保護の対象とならなかったり、時には犯罪者のように扱われたり、さらには社会にあって異質な存在として必ずしも歓迎されないどころか、しばしば排除されている人たちが世界に多く存在する。教皇フランシスコは、危機に直面するそのような命の現実を前にして、法律的議論はさておいて、人間の命をいかにして護るのかを最優先にするよう呼びかけています。従って、現在の法律の改正論議にあっても、人間のいのちの尊厳が守られることをまず優先してくださることを希望してやみません。

 以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第二十四回目のメッセージ原稿です。

【復活節第五主日B(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第24回 2021年5月2日】

 使徒言行録は、回心したパウロが、当初は彼を迫害の手先として恐れていた弟子たちから受け入れられ、その出来事を通じて教会が、「平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えて」言った様を記しています。

 神の救いの計画は、人知をはるかに超えた方法をとりながら、成就する道をたどることを、改めて私たちに認識させます。同時に私たちは、その人知をはるかに超える道は聖霊によって導かれていることも、知っています。

 教会は、聖霊によって導かれています。第二バチカン公会議の教会憲章は、五旬祭の日に遣わされた聖霊が教会を導き続けていることを明確に指摘し、「聖霊は福音の力を持って教会を若返らせ、絶えず新たにし、その花婿との完全な一致へと導く」と記しています。(4)

 ヨハネも手紙の中で、「神の掟を守る人は、神の内にいつもとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。神がわたしたちの内にとどまってくださることは、神が与えてくださった“霊”によって分かります」と記すことで、教会に働き、教会を導き続ける聖霊の働きを明確にします。

 ヨハネ福音は、主ご自身がぶどうの木であり、私たちは枝として連なっているのだ、という話を記します。主イエスは、「ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、私につながっていなければ、実を結ぶことができない」と指摘されます。

 枝は、ぶどうの木である主イエスにつながっている限り、「豊かに実を結ぶ」ものの、どのような実を結ぶのかは、枝の自由にはなりません。すなわち、わたしたちが幹である主に枝としてつながると言うことは、自分が生み出したい実りを生み出すためではなく、主が望まれる実りを、主に与えられるがままに実らせることであります。

 私たちはこのことを理解しているでしょうか。信仰を深めたとき、「自分自身がよしとする理想」を「真の実り」と取り違えてしまうことはないでしょうか。豊かな実りは、主の実りであって、私たちの実りではありません。しかもその実りは、教会を導く聖霊による実りでもあります。聖霊は人知をはるかに超える方法で、教会に実りをもたらします。仮に、自分の理想を実りだと思い違いをするならば、それは教会に働く聖霊の導きを否定することにもなりかねません。

 聖霊の導きに全幅の信頼を寄せ、自らの理想に固執することなく、神の御手にすべてを委ねたのは、聖母マリアでありました。

 教会は5月を聖母の月として、ロザリオの祈りを捧げるよう勧めています。パウロ6世は第二バチカン公会議後の典礼改革の中にあって、聖母への信心の重要性を説いた「マリアーリス・クルトゥス」に、「ロザリオは天使による喜ばしいあいさつと、おとめの敬虔に満ちた承諾から始まって、福音からインスピレーションを受けて、信者がそれを唱えるべき態度を示唆しています」と記し、聖母が「お言葉通りにこの身になりますように」と神の御手にご自身をすべて委ねた態度に倣うように勧めています。

 また教会は伝統的に、人類が危機に直面するとき、聖母の取り次ぎを求めて、祈りをささげてきました。コロナ禍の今、私たちはこれまで以上に祈らなくてはなりません。

 私たちは、聖母に倣い、聖霊の導きに勇気を持って身を任せましょう。自分の実りではなく、主の実りを生み出す枝でありましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2021年5月1日