・「典礼と祈りが”交わり”を豊かにする」菊地大司教の年間第16主日説教

2021年7月17日 (土) 週刊大司教35回:年間第16主日

Img_20210714_115859 7月18日、年間第16主日となりました。

 緊急事態宣言下で、まもなくオリンピック、続いてパラリンピックが行われます。コロナ禍の前には、数年前から、組織委員会と諸宗教団体との間で、選手村に設置される宗教センターで、選手の方々の宗教的必要に応える対応が準備されてきました。これは、オリンピック憲章で定められている、と聞いています。

 さらに、オリンピック観戦のために世界中から訪れる方々のために、小教区などでさまざまな対応をする検討を続けていました。組織委員会からの要望に応えるため、また小教区での対応を考えて、東京教区ではオリンピック対応チームを任命し、マルコ神父様を中心に、例えば五大陸のロザリオを準備したり、カテドラルでの国際ミサを企画して準備を進めていました。五大陸のロザリオは、来日する選手と関係者にギフトとして差し上げることも考えていました。

 残念ながら、コロナ禍ですべてご破算となりました。なんと言っても、選手は選手村から出ることができませんし、私たち宗教者も選手村には入れません。そこで組織委員会の要望に応えて、オンラインで「ことばの典礼」などを複数言語で配信することにしました。教区本部でさまざまなビデオを用意し、それはすべて組織委員会に渡し、その管理下で選手村に提供されます。詳しくは、今週のカトリック新聞をご覧ください。なお五大陸のロザリオは、そのようなわけで、在庫が教区本部にあります。ご希望の方は若干の実費等、ご寄付をいただきますが、教区本部からお分けします。申し込み方法は、今週のカトリック新聞をご覧ください。

 またオリンピックの試合は無観客で行われるので、世界から訪れる方々もおられません。そこで、小教区での特別な対応も必要ではなくなりました。

Img_20210714_140209 7月12日から15日まで、司教総会が開かれました。今回は、潮見まで来られる司教さんたちとオンラインによる出席の司教さんたちの”ハイブリッド”方式で行われましたが、分科会を含め、なんとか議題をこなすことができました。

 決定事項などは、後日カトリック新聞などに掲載されると思いますので、そちらに譲ります。潮見のカトリック会館の裏手には、特異な形をした辰巳国際水泳場がありますが、その右手に新しいオリンピック・プールが出来ました。そこに通うバスを駐車するためか、臨時の駐車場が、カトリック会館裏手の都有地に設けられていました。無事開催されることを祈ります。

 東京も梅雨明けしていますが、先日のスコールのような大雨の直後、夕方の空には虹が出ていました。

Niji2021

 以下、本日午後6時に配信した、週刊大司教第三十五回、年間第16主日のメッセージ原稿です。

 

【年間第16主日B(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第35回 2021年7月18日】

 エレミヤの預言は、神が愛してやまない人間を、誰かに任せるのではなく、自ら牧者として守り養おうとするその行動を、慈しみ深い神の「正義と恵みの業」である、と記します。

 パウロは、エフェソの教会への手紙で、イエスが隔ての壁を取り除き、異邦人とユダヤ人を一つの体に一致させたことを述べ、それが平和の実現であると説きます。まさしく「多様性における一致」こそが、平和をもたらす道であることが示唆されています。

 イエスの時代、エルサレムの神殿において、ユダヤ人以外の異邦人は、「異邦人の庭」と呼ばれた神殿の外庭まで入ることが許されていました。

 そこには「隔ての壁」があったと言われています。そのことから、「隔ての壁」は、ユダヤ人が受ける神の祝福から異邦人は切り離されていることを象徴し、さらに、対立の中に生まれる「敵意」をも、象徴していました。

 18日のミサで読まれるマルコ福音の箇所は、先週の続きで、「福音宣教に派遣された弟子たちが共同体に戻り、宣教活動における成果を報告すると、イエスは観想の祈りのうちに振り返るように招かれた」と記します。

 イエスご自身も、朝早く、まだ暗いうちに、人里離れた所に出て行かれ、一人で祈られたことが他の箇所に記されています。「善い牧者として、義に基づいた神の平和を実現する」というご自分の使命を果たす力を、イエスはその観想の祈りから得ておられたのは、間違いありません。

 教皇ベネディクト16世は、回勅「神は愛」に、「教会の本質は三つの務めによって表されます。神の言葉を告げ知らせること、秘跡を祝うこと、愛の奉仕を行うこと」(回勅『神は愛』25参照)と記します。神の言葉を告げ知らせる宣教の前提には、秘跡を祝う典礼や祈りを大切にする共同体が無ければなりません。秘跡を祝う共同体は、愛の奉仕へと突き動かされていきます。そもそも「愛の奉仕」とは、主イエス・キリストの生き方に倣い、実践することなのですから、私たちは祈ることをないがしろにして、愛の奉仕に努めることはできません。

 教皇フランシスコは、2月3日の一般謁見で、次のように述べておられます。
「祈りもまた行事であり、出来事であり、現存であり、出会いです。まさにキリストとの出会いです… 典礼の無いキリスト教は、キリストがおられないキリスト教になってしまいます」。

 東京教区の宣教司牧方針の二つ目の柱は、「交わりの共同体」を育てることです。教会の本質は「交わり」です。信仰の共同体の中に生じる「交わり」は、父と子と聖霊の交わりの神の写し絵です。「交わり」を造り上げ、それを豊かにしてくれるのが、私たちの共同体で行われる典礼であり、祈りです。多様化した社会にあって、できる限り多くの人を私たちの「交わり」へと招き入れるために、典礼を豊かにし、共同体の祈りを深め、そこから福音を告げ知らせ、また証しするための力をいただきましょう。

 私は宣教司牧方針にこう記しました。「私たちの信仰は「『賛美』と『喜び』に彩られています。そのどちらも、人間の想いで始まったのではありません。天上の教会では主イエス・キリストを中心に聖母マリア、諸天使、諸聖人、そして地上のいのちを終えたすべての被造物が天の御父を『賛美』し、『喜び』に満たされています。その『賛美』と『喜び』の声に合わせて、地上の教会の私たちも神を「賛美」し、命の「喜び」を共同体と共に表すのです。典礼と祈りは『賛美』と『喜び』の時であり、場面です」

 言葉と行いを通じた証しを、祈りと観想からいただいた力のうちに実践いたしましょう。

(編集「カトリック・あい」)

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2021年7月17日