新型コロナウイルス感染拡大防止のため、東京教区では3月1日と8日の「公開」のミサの中止を決定しています。詳細については、この投稿の前の二つの投稿をご確認ください。(公示へのリンク と、補足説明のリンク )
3月1日と8日ついては、主日のミサにあずかる義務を免除いたしましたが、教区共同体の主日におけるともに祈りを捧げる務めと、祈りのうちに一致するために、また霊的に聖体を拝領することでキリストとの内的一致にあずかるために、主日の午前10時、カテドラルで捧げられるミサをインターネットで放映することにいたしました。
ミサは東京カテドラル聖マリア大聖堂の地下聖堂で捧げられ、構内に修道院のある師イエズス修道女会と近隣に修道院のある聖ドミニコ宣教修道女会のシスター方数名に、お手伝いいただきました。
また映像を作成するにあたっては、字幕などの課題をクリアして作業を進めてくださった、関口教会の信徒の方に感謝いたします。
以下、当日のミサの説教の原稿です。
今年の四旬節は、これまで経験したことがない四旬節となってしまいました。新型コロナウイルスの感染拡大をなるべく緩やかのものとするために、この二週間ほどが最も重要な期間であるという専門家会議の見解を受けて、主日のミサをその期間に限って非公開とすることを決めました。
ミサの中止という言葉が一人歩きしていますが、教区共同体という視点から見れば、ミサは続けられています。中止とされているのは公開のミサですが、司祭は主日の務めとして今日もミサを捧げており、そのミサは、たとえ「信者が列席できなくても、感謝の祭儀はキリストの行為であり、教会の行為」として、共同体の公のミサであります。
とはいえ、感謝の祭儀は「キリスト教的生活全体の源泉であり頂点で」ありますし、「聖体の集会においてキリストの体によって養われた者は、この最も神聖な神秘が適切に示し、見事に実現する神の民の一致を具体的に表す」と、第二バチカン公会議の教会憲章に記されていますから、ミサにあずかることと、聖体を拝領することは、わたしたちの信仰生活にとって欠くべからざる重要なことであります。
その意味で、現在のような状況は、あってはならないことでもあります。未知のウイルスからの感染を避けるために、わたしたちはしばらくの間、集まることを止めているのですが、それは決して共同体を解散したという意味ではありません。やむを得ない状況の中で集まり得ないときにも、共同体は存続し、ともに主の日に祈りを捧げる義務は消失していません。
また教会の伝統は、聖体拝領を通じてキリストとの内的な一致を目指すために、秘跡を通じた拝領と、霊的な拝領の二つがあることも教えています。
こうやって映像を通じてともに祈りを捧げるとき、またそれぞれの家庭で祈りを捧げるとき、それはひとり個人の信心業なのではなく、キリスト者の共同体のきずなのうちにある祈りであり、その祈りのうちにあって、ぜひキリストとの一致を求めて、霊的に聖体を拝領していただければと思います。
この不幸な状況は、同時に、わたしたちに様々な信仰における挑戦を突きつけております。ちょうど主イエスが、その公生活を始めるにあたり40日の試練を受けられたように、わたしたちもいま、復活の喜びに向けて心を整える40日間にあって、大きな試練に直面しております。
先ほど朗読された福音によれば、40日の試練の中で、イエスは三つの大きな誘惑を受けておられます。
まず空腹を覚えた時に、石をパンにせよとの誘惑。次にすべての権力と繁栄を手にすることへの誘惑。そして神への挑戦の誘惑。この三つの誘惑が記されています。
第一に、人間の本能的な欲望や安楽にとどまることへの願望。第二に、権力や繁栄という利己的な欲望。第三に、人間こそこの世の支配者であるという思い上がり。
悪魔からの誘惑とは一体どういうことか。それは、神から離れる方向へと人をいざなう、さまざまな負の力のことでしょう。そういう誘惑はどこからか降りかかってくるのかといえば、実は、外からやってくるものではない。その多くは、結局のところ、わたしたち一人ひとりの心の中から生み出されている。わたしたちの心の反映であるように思います。
わたしたちがいま直面している試練はどうでしょう。
東京ドームでミサを捧げられた教皇フランシスコは、「わたしたちは、すべてのいのちを守り、あかしするよう招かれています」と述べて、わたしたちが視点を、自分から他者へ移すようにと、むなしく輝く虚飾のシャボン玉を打ち破って外へ出向くようにと呼びかけられました。
その上で教皇は、そのために必要なことは、「知恵と勇気をもって、無償性と思いやり、寛大さとすなおに耳を傾ける姿勢、それらに特徴づけられるあかしです。それは、実際に目前にあるいのちを、抱擁し、受け入れる態度です」と指摘されました。
得体の知れないウイルスによる感染症が蔓延しつつある現在、感染の事実や発症の実態が目に見えない度合いがとても強い今回のコロナウイルスの感染拡大ですが、そのためにどうしてもわたしたちは疑心暗鬼の暗闇の中に閉じ込められたような気分になってしまいます。
確かに慎重な感染対策を行って、一人ひとりの身を守る行動は不可欠ですし、実際教会はいまそうしているわけですが、それが同時にわたしたち一人ひとりの心の内にも防御の「壁」を築き上げる結果になっていないでしょうか。
心が守りの姿勢になるとき、どうしてもその防御の「壁」はより堅固なものになり、自分を中心にした心の動きに、とらわれてしまいがちになります。それこそ悪魔の誘惑であります。
教皇は、「知恵と勇気をもって」行動せよと呼びかけます。
教皇は、「無償性と思いやり、寛大さとすなおに耳を傾ける姿勢」をもって、いのちを守る姿勢を証しせよと呼びかけます。
教皇は、「実際に目前にあるいのちを、抱擁し、受け入れる態度」が必要だと呼びかけます。
2009 年に新型インフルエンザが蔓延したとき、日本の司教団の部落差別人権委員会はメッセージを発表して、次のように指摘していました。
「『感染源』という発想から感染者探しにエネルギーを注ぐと、たくさんの『容疑者』を作り出していく危険があります… 感染症対策という名で社会防衛策がとられると、菌やウィルスよりも人々の間に不安や恐怖が伝播して偏見や差別を社会の中で醸成していく危険があります」
これもわたしたちが悪魔の誘惑に屈して築き上げてしまう心の防御の「壁」のなせる業であります。
わたしたちは体の健康を守るための防御壁を必要としていますが、その壁が、心の中にまで防御の「壁」を築き上げないように心したいと思います。
「人はパンだけで生きるものではない」という言葉は、パンの必要性を否定をしてはいません。しかしイエスは、それよりも重要なものがあるのだとして、「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と述べられています。
人は、自分のいのちを守るためにパンを必要とするが、それ以上に、神の言葉、すなわちすべてのいのちを守るための神の一人ひとりへの思いが実現することこそが、人を生かすのだ。
他者への思いやりの心は、単なる人間としての優しさに基づいているのではなく、神の言葉を実現させたいという信仰における確信に基づいています。その確信は、神ご自身が大切に思われているすべてのいのちに対する思いやりの心、豊かな想像力を持った配慮を、わたしたちに求めています。
この困難な時期、教会共同体においてつながっている兄弟姉妹に思いを馳せ、そのつながりの中でわたしたちは一致へと招かれていることをあらためて思い起こしましょう。そして体の防御の壁が心の「壁」になってしまわないように、神が愛されるすべてのいのちへと、わたしたちの心の思いを馳せましょう。
2020年3月3日
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カテゴリー : 菊地大司教
灰の式を受け四旬節が始まりました。平日にもかかわらず、今年も多 勢の信徒と共にミサに与り、回心の機会をいただいたこと、うれしく思いました。
この日は早朝に修道院を出、最寄りの教会でミサに与り、各自の使徒職の場へ。
「大斉日に限って空腹を感じるわね」「今朝のミサ信徒が多かった わよ」。夕の食卓での話題は、その日の出来事。確かに教会の折々の典 礼行事、大祝日、各教会の保護の聖人の記念日と、その準備の共同の 赦しの秘跡… 聖堂はいっぱい、いつも羨ましさを感じます。
種々の祭り事を面倒がらないで準備し、お祝いするタイ人の習わし 。暑くて枯れやすい切花を惜しげもなく祭 壇に飾り、祝祭日には、信徒が馳せ参じ、相応しい雰囲気作りを楽しげに準備するのです。
年に1度の保護の聖人の祝日には、近隣の教会にポスターを貼り、ご招 待。聖堂は満員。テントを貼った屋外にも座席が用意され、赦しの 秘跡を受けられるように、何人もの司祭があちこちに待機し、大きなスク リーンでミサに与かり、その後、全員に昼食を振る舞うのです。
果物、アイスクリーム、デザートの屋台まで、 大歓迎の教会祭です。親しくなったミャンマーの青年、倹約生活 をしていたので、教会のお祝いに誘い、ミサ後、一緒に充分なご馳走を 頂いた思い出もあります。信仰厚い青年でした。
毎月13日夕、ファチマの聖母教会で、ミサとローソク行列があり、 時々友人と参加。式後に振舞われる雑炊はすこぶる美味。枝の主日の前日には、手造りの棕梠の葉を用意します、細長い棕櫚の葉で芸術作品を作り、お喋りしながら信徒間の交わり…。
こちらの教会の生活、習わしに親しみ、理屈っぽい自分の信仰が、柔ら かく単純になったな、とほくそ笑んでいます。
頭と心と身体が丸ご と一体になった感性が息づく信仰、そこに教会共同体づくりの秘密 があるように思います。
(四旬節に入りしゅろの枝が生けられたバンコクのセントルイス病院の小聖堂)
(阿部羊子=あべ・ようこ=バンコク在住、聖パウロ女子修道会会員)
神様の御力と御業によってエジプトから脱出したイスラエルの民は、神様に対する不信と反抗の結果、約束された地に入ることができなくなり、40年間荒れ野をさまようこととなりました(民数記32章13節、詩編95章9-11節参照)。イスラエルの民は、約束の地にいた彼らより強く大きく見えた民族に殺されるのを恐れ、神様が彼らをそこに連れて行くことができるとは信じず、諦めたがったのです。
私はかつて、なぜイスラエルの民は自分自身のことをそのような苦境に陥らせたのだろうか、と不思議に思ったことがあります。なぜなら、イスラエルの民は神様に当時世の中で最大文明のエジプトから救い出されたばかりで、すでに神様のさまざまな壮大な御業と彼らの敵に対する偉大な勝利を目の当たりにしていたからです。
しかし年が経つにつれて、私自身も同じようにすることがあることに気が付きました。いつも普段の生活に神様からたくさんのお恵みと助けを賜っているにもかかわらず、自分の勝手な言い訳で神様のお導きを求めず、神様のご意志を背いたりすることがあります。
イスラエルの民が荒れ野で40年間さまようことは試練の期間でした。「主はあなたを苦しめ、試み、あなたの心にあるもの、すなわちその戒めを守るかどうかを知ろうとされた」(申命記8章2節)とモーセはイスラエルの人々に語りました。イスラエルの民の試練は、彼らが神の戒めに従うかどうかを見る以上のことを伴いました。 荒れ野での彼らの試練は、彼らの心を試すことを目的とされていました。
そして、私たちが自身の荒れ野を経験する時、すなわち、私たちが人生の試練または祈りの苦闘を経験する時、神様が私たちに同じことをされているかもしれないことを思い出すべきです。
神様は私たち自身の心を試されているのかもしれません。私たちの心は他ならなく本当に神様だけに向いているのか、それとも、主が私たちのためになさったことだけに主に献身しているのでしょうか。
これこそイスラエルの民が直面していた試練でした。エジプトでは、イスラエルの人々は奴隷から解放され、彼らの敵に対する神様の勝利を目撃した後、神様の賛美を歌い、彼らの救い主である主のうちに喜びました。しかし、荒れ野へ連れ出された時、物事は大変異なったものになりました。
彼らは謙虚にさせられ、馴染みのあるもの全てから離され、食べ物も飲み物もなく荒野を旅し、主が次に彼らを導く場所がわからず、約束の地にたどり着くかどうか疑問に思いました。揺さぶられ、彼らは疑い始めました。彼らは恐れ始め、不平を言い始めました。彼らはエジプトに戻ろうとさえ、考えていました。少なくとも、それは、彼らにとって馴染みのある所でしたから。
彼らは今、何をすればいいのでしょうか? 主が彼らを導くことを本当に許すのでしょうか? 自分の人生を完全に神様に委ねるのでしょうか? それとも、自分の計画や時刻表を信頼し、自分の人生が神様の御言葉によって導かれることを許さず、手放すことを恐れながら、必死に自分の支配を維持するのでしょうか?
モーセがイスラエルの人々に説明したように、主は「あなたを苦しめ、飢えさせ、あなたもその先祖も知らなかったマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きるということを、あなたに知らせるためであった」(申命記8章3節)。
四旬節の始まりに私たち自身が荒れ野に入る時、神様もしばしば私たちの心を試されることに気付くべきです。イスラエルの民が荒れ野で直面したような人生の瞬間、すなわち、不確実性、混乱、試練、疑いなどの瞬間に直面する時、私たちは何をしますか?
私たちの世界が予期せぬ変化や苦しみによって揺さぶられる時、自分の人生がどこに向かっているのかが分からなくなり、不安を感じることがあります。あるいは、霊的乾燥を経験し、通常の祈りと信心業がうまく機能していないように思える時、「神様はどこにおられるのか」と疑問に思うでしょう。
荒れ野に投げ込まれた時、パニックに陥るか、人生で落胆したくなるかもしれません。 過去に喜びをもたらした人生経験を必死に再現しようとしたり、主が私たちを引き離すかもしれない霊的な慣行にしがみついたりして、後戻りしたくなるかもしれません。
私たちは、荒れ野で神様がいつも共におられることを覚えておくべきです。そして、神様は私たちを、荒れ野を通って、その向こう側に導かれたいのです。そこでは、霊的な生活の成長があり、私たちの生活がいかに神様だけに完全に依存しているかを、より深く理解することができるのです。 荒れ野を通って、神様は、ご自身にもっと委ね、ご自身の導きの御手を信頼するよう、私たちを呼ばれています。神様は、私たちの祈りの暗闇の中で、もっと深くご自身の存在を体験し、私たちの苦しみの中で私たちを支えたいのです。
四旬節の40日間を通して、私たちは荒れ野での主イエスの試練の神秘に心を合わせます(カトリック教会のカテキズム、540番参照)。そして荒れ野では、「人間はパンだけで生きているのではなく、主の口から出るすべてのものによって生きている」(マタイ福音書4章4節)と思い起こされます。
(ガブリエル・ギデオン = シンガポールで生まれ育ち、日本在住のカトリック信徒)
ローマでの生活も軌道に乗りつつあった。高い天井、広い廊下、ゆ とりのあるスペースの建物での生活は、気持ちまでゆったりさせてくれる。
日課は、日本のそれとあまり変わらなかった。朝5時半に、起床の鐘が 鳴る。眠い目をこすりながらベッドから降り、洗面と身支度を済ませて、きちんと2列に並んで聖堂に行く。
聖堂 で、朝の祈りとミサ。(その頃のミサは、今のように司祭と会衆が対面で行うのではなくて、司祭は壁に向かって ミサを立て、会衆は司祭の背中を見ながらミサ中にロザリオを声に出してとなえる、という、実にちぐはぐなも のだった)。その後、30分の黙想。そして朝食。食事が済むと、食堂や寝室の掃除。8時半に鐘が鳴って、それぞれ 割り当てられた仕事に就く。
聖パウロ女子修道会は、「良い出版物によって福音を宣教する」ことを 目的として創立された。しかし、会憲には、「時のしるしに絶えず注意し、『進歩が提供し、時代の必要と状 況が要求する、より迅速で効果的な手段を、宣教のために取り入れる積極的な姿勢をもとう』」とある。
この文 言を忠実に生きた修道会は今、「良い書物」というよりは、マス・メディアとか、社会的コミュニケーションの手段 によって福音を宣教するようになっている。
私がローマに着いた頃の使徒職は、まだ出版と、始まったばかりの映 画だけだった。だから主な仕事は、本の編集や校正、印刷、製本などで、幾人ものシスターがそれらの仕事にあた っていた。また、お台所やお洗濯など、いわゆる”家事”に携わる人もいた。皆、上長から振り当てられた仕事 に就く。直接印刷や製本に関係のない仕事も「使徒職」と呼んで、使徒的精神で行うように、と教えられ ていた。
著作や編集関係の仕事をしているシスターたちの部屋に行くと「絶対沈黙」が支配し、皆、本や原稿と取り 組んでいる。その一方で、印刷や製本の仕事場では印刷機がまわる大きな音や、タイプライターの植字の音が聞こえ、その中 でシスターたちが大きな声でロザリオを唱えながら作業をしていた。
私たち日本人に与えられたのは、イタリア語の勉強。一人のイタリ ア人シスターが先生で、A,B,Cから教えてくれる。イタリア語は男性形と女性形があり、動詞は時相や人称、法に よって一つの動詞が48にも変化する。
複雑なイタリア語を学ぶのは、きつかった。でも楽しい挑戦でもあった。 話すからには間違えのないように、正しいイタリア語を話したい、と望んでいた私は間違えるのが怖さに、初め のうちはなかなか話せなかった。
( 石野澪子=いしの・みおこ=聖パウロ女子修道会修道女)
2020年2月29日
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カテゴリー : Sr石野
プーチンはわが北方領土をロシア領として確保する奇策に出ようとしている。ロシア憲法に「領土割譲禁止条項」を書き込もうとしているのである。
日露の違いは、日本が「ポツダム宣言を受諾した1945年8月15日をもって太平洋戦争は終結した」とするのに対して、ロシアは「同年9月2日ミズリー号船上にて降伏文書に日本政府が調印したのをもって戦争終結」とする立場だ。
すなわち、「平時における違法な軍事占領ではなく、戦時中の合法な軍事占領である」とするのである。日本人にとっては「違法」以外の何物でもない立場から惹起しうる損失を防ぐために、「領土割譲禁止」という改憲条項に辿り着いたのだろう。
もともとロシアという獰猛な巨大国家は、一度手中にした他国の領土を返還するはずがない国柄なのである。日本政府にしても、外務省のロシア通なら、そんなことは先刻重々承知のはずである。それでも元住民の望郷の念を大切に思うためであろう、「あきらめなさい」とは言えなかったのだ。
元住民の方々にしても、「ロシアが返還する」と本気で期待していたとは、考えづらい。随分と長い間実らぬ夢に期待を託していたことになる。お気の毒に思う。国民の一人として残念至極である。
( 2020. 2. 15記)
(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所長、プリンストン大学・博士)
2020年2月29日
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カテゴリー : 三輪先生
今年の2月11日、世界病者の日のためにパパ・フランシスコが選んだ聖書の箇所は「労苦し、重荷を負っている者はみな、私のもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ福音書11章28節)。
メッセージの中で、パパは、心身に病を持ち、苦しみ、孤独を経験している人たちに、イエスが真の「休息」と「慰め」を与えることが出来るのは、「実際に苦しむ人―すべての人、私たち―と共に生き、ご自身で、苦しみとはなんであるかを経験し、限りある存在である人間の、根源的『弱さ、はかなさ』を生き、
そこから来る『闇』を知り、共感することが出来るからだ」と言う。
イエスは「立ち止まって」、苦しむ「人」に気づき、見つめ、「私のところに来なさい」と言う。イエスが見つめるのは、形容詞「苦しむ」よりも先に、名詞「人」。イエスが、その「人」に差し出すのは、慰め、休息。でもそれ以上に、「いつくしみである自分自身」。
外的な休息を超え、ご自分の「いのち」に入るように、と招く。イエスは、さまざまな「病(やまい)、弱さ」に苦しむ私たちに「来なさい」と招く。イエスは「強い」から、「スーパーマン」だから、弱い私たちに慰めを与えられる-のではない。
パパは言う-イエスの中に、実際、この肉体と精神の「夜」に、あなた方の中に生じる不安と疑問は、通過する(乗り越える)ための力を見出すでしょう。そうです、キリストは私たちに処方箋は与えませんでした。しかし、ご自分の受難、死、復活をもって、私たちを悪の抑圧から解放します。イエスは、私たちから苦しみを「取り除く」のではなく、私たちが、人間としての尊厳をもって、苦しみを「乗り越える―過越(パスカ)」力をくださる。それこそが、真の「解放」である。
だから、とパパは強調する-さまざまな形の苦しみの中で、時に「人間性の欠如」が認められることがある。だからこそ人間の「包括(全体)的」癒しのために「治療することcurare」だけでなく、「世話をする(ケアする)prendersi cura」ことが、非常に大切だ、と。さらに、「慰め」と「寄り添い」は、病者だけでなく、その周りの人々、苦しむ家族も必要としていることを忘れないでください、と。
キリスト者、共同体、教会は、だから、「善いサマリア人」の「宿」(ルカ福音書10章34節)となるように招かれている-とパパは言う。苦しむ人が、親しさ、もてなし、慰めの中に表現されるキリストの恵みを見出すことが出来る場所、宿、家。それが、キリスト共同体、教会である、と。
苦しむ人が、実際、その「家」で出会う人々は、自らが、神の慈しみによって癒され、慰めをうけた経験をもち、他の人々に、神の癒し、慰めを運ぶ協力者となった人々。傷を負い、癒された人は「自分自身の傷を『通気口feritoie』とします」とパパは言う。自分の傷の通気口を通して、「病を超えた地平線」を見つめることが出来、苦しむ人の日々の生活、人生のために「光と空気を受け取る」、と
「通気口」という表現をパパはよく使う。私にはイメージしやすい、閉鎖された部屋にある小さな「通気口」。そこから、光が、空気、風が入ってくる… 私たちが、十字架上のキリストの、貫かれた傷を通して(通過して)真のいのちを受けたように、私たちのさまざまな「傷」も、キリストの「傷」によって癒し、慰め、休息を与える力に変えられる。
パパ・フランシスコの病者へのメッセージは安易な「奇跡主義」、言葉だけの慰めではない。パパは言う-一度、キリストの回復(休息)と慰めを受け取ったら、今度は私たちが、兄弟たちのための回復(休息)と慰めになるように呼ばれています。柔和で謙遜な態度をもって、「先生」に倣って、私の、「苦しみ、死」に対する態度、日々の生き方、心の在り様は、どうだろうか。
ユダヤ・キリスト教は教える、一つ一つの「命」は神に属していて、理屈を超えて神聖であり、人間の都合で勝手に使うことは出来ない。命は、誕生から死まで、受け入れられ、守られ、尊重され、奉仕されるべきです。だから、私たちは、時に、この世の理論(ロジック)に反対しなければならないこともある。場合によっては、意識(良心)の異議が、あなた方にとって、この命への、また人間(人格:persona)への「はい」への一貫性に留まるために必要な選択です。
最後に、パパは、世界のすべての国の医療機関と政府、善意のすべての人々に訴える-世界中で、貧困のために治療を受けることの出来ないたくさんの兄弟姉妹たちを思い起こしてください、すべての人が予防と回復に必要な治療を受けることが出来るように連帯を強めてください、と。自分たちの経済的利益のため、
「社会主義「」を無視しないでください、と。今日も、多くのボランティアたちが医療設備が整っていない場所に行って「やさしさと近しさのジェスチャー(行為)」で、「善きサマリア人」であるキリストの姿を反映している、と。
パパは、他のところで、「キリスト者であるから、キリストの姿を反映しているのではない」と言い切った。キリストを知らなくても、隣の人の苦しみに、共に泣き、重荷を共有しよう、と手を差し伸べ、あたたかい心で相手の痛みを包むことこそ、キリストの姿を映しているのだ、と。
タイに住んでいて実感する事のひとつに、人々の中に息づいている「 超自然界への感性」があります。物質文明の陰で薄らぎがちな見えな い世界を意識する「感知力」です。
30万余の修行に励む仏僧、早朝裸足で巷を歩き、人々が跪座して 捧げる奉納物を受けながら祈る僧侶、経済成長の波に浸蝕されない で営まれている。悪霊に非常な恐れを抱き、 お布施や善行に寛大で…偽善なしでさり気なく、 貧しい人も、裕福な人も、それ相応に励むのです。
カトリック界も同様、赦しや聖体の秘跡に親しみ、祝福や聖水を大 事にし、死者生者のためのミサ依頼、喜捨に励み、聖像に触れて祈 り、見えない恵の世界に開かれた素朴な信仰心を感じます。
ラーメン店を営むメタさん、見事なタイミングで臨終の人々を訪問 し、見ず知らずの人にも、宗派にかかわらず、イエス様の思 いで寄り添い、天国への花道に導いているのです。 よく書院に立ち寄り、『これから臨終者の見舞いに行きます、 シスター、お祈りお願いします』と頼まれます。
ある日、彼は、遠方の末期ガンの臨終者を訪ね、司祭を呼んだ。彼女はマリアの名で 洗礼を受け、聖体と病者の塗油の秘跡を受けて、2日後に亡くなった、と話してくれました。
死に臨む人に赦しと安らぎ、信仰と希望を灯して、天国に旅立つのを見送る メタさん。すでに200余の人を洗礼の恵みに導いたと言います。彼の霊名は洗礼者ヨハネ、まさに現代社会の高層ビルの谷間、チャオ プラヤー川の辺りで、見えない神の国、恵みの架け橋として生きる 洗礼者です。
「見えない神の次元を現実に生きる、凄いお呼びがかかった人生」-タイの人々の中で改めて使命を噛みしめています。
(阿部羊子=あべ・ようこ=バンコク在住、聖パウロ女子修道会会員)
(写真は「メタさんの連絡を受けた司祭が、臨終の床にある女性に洗礼を授けた」)
自ら聖書を手に取って読み始めたのは中学生になった頃でした。旧約聖書は難しそうだったから、新約聖書から読み始めました。
しばらくの間を経て、「ヘブライ人への手紙」第11章までに読み終えた時、その章に挙げられた「信仰のヒーローたち」が深い印象に残り、彼らのことをもっと知るため、旧約聖書も読み始めました。振り返ってみれば、「ヘブライ人への手紙」第11章(ヘブライ11章)が、自分が旧約聖書を読み始めたきっかけだったと言っていいと思います。
ヘブライ11章では、神様の救いの歴史において、信仰によって重要な役割を果たし賞賛された旧約聖書の諸人物が、いわゆる「信仰の殿堂」のように次々と挙げられました。旧約聖書を読み進めているうちに、彼ら「信仰のヒーローたち」のことを通じて、神の救いの歴史や神への信仰のあり方を少しずつ学んでいくことができました。
この2つの書簡に挙げられている信仰の模範たちを展開してみると、次のようになります。
[ヘブライ11章]
聖書の中で最初の義人(殉教者)のアベル 、神とともに歩んだエノク 、義の賜物を受けたノア 、神の選ばれた民の父と母になったアブラハム とサラ 、息子たちのヤコブとエサウの将来を祝福したイサク 、イスラエルの十二部族の父となったヤコブ 、兄弟たちをゆるしイスラエルの民を飢えから救った、夢解きの義人ヨセフ 、イスラエルの民に神の律法を与えたモーセ 、リーダーであり忠実なしもべのヨシュア 、危険を顧みずイスラエルの斥候を守ったラハブ 、わずか300名で数万人の軍勢を破ったギデオン 、従順な戦士のバラク 、怪力を持つ士師のサムソン 、戦士で士師のエフタ 、預言者で士師のサムエル 、神のみ心に適う者のダビデ。
その他、匿名で挙げられている(33~38節)のですが、著者の説明によって旧約聖書からほぼ正確に推測することができるのが、ダニエル、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ、ヒゼキヤ、エリヤ、エリシャ、エレミヤ、ゼカリヤ、イザヤ 。
神のみ心を生き、神の御独り子を産み、主とともに歩んだ聖母マリア 、全てを捨て、主イエスとの交わりの生活を生き、全ての人に福音をのべ伝えた使徒たち 、最初の共同体を作った弟子たち 、命をささげ、福音の真理を証しした殉教者たち 、従順、清貧、貞潔に基づく生活を送り、自分の生活をキリストに奉献した人たち 、正義のための業を行い、主のみことばを実践した数知れないキリスト信者 、家庭、職場、公共生活の中で、自分の職務の行使を通じて、主イエスに従うことの素晴らしさを告白してきた人たち 、
そして、主イエスが自分の生活と歴史の中にともにおられることを生き生きと認めながら、信仰によって生きている私たち 。
このように、私たちはイエス・キリストのうちに信仰によって、神の救いの歴史の中の「信仰のヒーローたち」と繋がっているのだと思います。なんと神秘的、素晴らしいことだと思いませんか。
(ガブリエル・ギデオン = シンガポールで生まれ育ち、日本在住のカトリック信徒)
2020年1月29日 (水)
東京教区がこれから当分の間進むべき方向性を明確にしようと、宣教司牧の基本方針について、10の課題に関する皆様の意見を昨年聖霊降臨祭までに募集いたしました。
当初の予定では、昨年中にとりまとめた上で今年の初めには何らかの方針を提示する予定でしたが、昨年半ば頃から教皇様訪日の準備にかかりきりになり、同方針策定を含めて多くの通常の作業が停止状態となっておりました。大変申し訳ありませんが、すべての日程は半年ほど遅れてしまいました。
教皇様訪日が終了してから、早速に頂いた70ほどの意見のとりまとめ作業に入り、小委員会で検討を重ね、先日、1月27日の司祭の集まりで、メンバーの一人であるフランシスコ会の小西神父様から、とりまとめ文書を司祭団に提示して頂きました(写真)。
あと少し手直しが必要な箇所がありますが、膨大な量の提案でしたので、すべてを網羅することはできません。それらをなんとかとりまとめた文書なのですが、これを印刷し、2月半ば頃までには皆さんに読んでい頂けるように手配しております。お待ちください。
とりまとめ文書の最後に、小教区共同体の皆様宛のいくつかの振り返りの質問を記しました。これをできればまた話し合って頂き、小教区としてのフィードバックを頂ければと思います。その方法や期限は、別途、後日案内いたします。
最終的には、当初の予定より半年ほど遅れて、9月頃には、宣教司牧方針の大枠をお示しすることができるかと思います。大枠というのは、全体としての方向性や優先事項のことです。
それに伴って、組織改変の問題が出て参ります。こちらは、別途作業部会などを立ち上げて、もう少し丁寧に時間をかけて話し合う必要があります。とりわけ、一番意見の多かった宣教協力体の見直しは、もう少し時間が必要なため、3月にあらためて立ち上げる教区宣教司牧評議会の中で作業部会を設定して頂き、詳細な検討をお願いしたいと思います。組織に関する結論は、9月にはちょっと無理ですので、少なくとも一年は時間が必要かと思われます。今しばらくお待ちください。
また、滞日外国人の信徒の方への関わりに関しても、課題がいくつも指摘されましたが、これはすでに昨年作業部会を立ち上げ検討を行ってきました。その話し合いから出てきたアイディアをもとに、基本方針の文書を作成中です。これもCTICなどとの調整を経て、9月頃の宣教司牧方針の大枠発表に会わせて、一緒に発表できるように考えています。
頂いた意見のすべてをそのまま反映することはできませんが、なるべく多くの意見を生かして、方針を見定めていきたいと思います。今しばらく、ご辛抱ください。
なお、この数週間、新型コロナウイルスによる感染症が顕在化しています。不確実な情報に基づいていたずらに不安をあおることは厳に慎まなくてはなりませんが、同時に例年のインフルエンザへの注意喚起と同様に慎重な対応をすることは無駄ではありませんので、これも注意喚起の文書を作成して、まもなく小教区などに配布できるように準備中です。
中国本土に隣接する香港教区などでは、かなり厳しい対応をしているようで、その対応は香港教区のホームページに、英語と中国語で掲載されていますので、参考までにリンクを張って おきます。
さて、白柳枢機卿様の時代から、カトリック教会は世界宗教者平和会議(WCRP/Religions for Peace)の活動に関わって参りました。白柳枢機卿様は日本委員会の理事長も務められたと思います。キリスト教関係諸団体は言う及ばず、仏教系、神道系、イスラム系など、諸宗教の交わりの中で世界平和を模索する団体で、今年で創立50年となります。立正佼成会の方々から始まりましたが、今や世界に広がり、全世界にそれぞれの委員会を置く世界的組織となっています。
私も数年前から日本委員会の理事を拝命しておりますし、理事には複数のカトリック関係者もおり、また評議員には高見大司教様が加わっており、現在の理事長は聖公会の植松主教様が務められています。
今般、ドイツで開かれた世界大会で、世界全体の新しい事務総長が選出されました。エジプト出身の女性で、オランダの大学などで教え、国連の場で長年にわたって宗教団体と諸政府の関係確立の仕事をされてきたアッザ・カラム教授です。(向かって左側)
今般、選出後初めての外遊として、アッザ・カラム次期事務総長が日本を訪問され、昨日1月28日のWCRP日本委員会理事会後には、立正佼成会本部で講演会を、そして本日は事務総長代行の杉野師と共に、東京カテドラル聖マリア大聖堂を訪れてくださいました。
アッザ・カラム次期事務総長(米国の労働許可を待っているため、選出後も正式に就任していません)は、特に信仰に基づいた様々な人道支援団体(カリタスのような)が、規模において世界の有数な人道支援団体(国際のNGO)のリストの上位を独占していることを指摘して、それらの団体と諸宗教の指導者が協調して世界の様々な問題に取り組むことができれば、政治的な意図から離れて、民間の立場から真の平和の確立につなげて行くことができると話されておりました。
アッザ・カラム次期事務総長は、今回は日本における信仰に基づいた人道支援諸団体との会合を予定しており、明治神宮を会場として行われるとのことでした。とりわけ、SDGs(持続可能な開発目標)の2030年の達成実現に向けて、宗教者の果たす役割の重要性を強調しておられます。カリタスの立場から、できる限りの協力を模索したいと思います。
(菊地功=きくち・いさお=東京大司教)
2020年1月30日
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カテゴリー : 菊地大司教
ローマでの私の生活がスタートした。
まだ修練期に入ったわけでは ないし、それほど厳しい規則にしばられることもなければ、緊張があるわけでもない。むしろ遠来の客に接す るかのように、みなが親切に扱ってくれた。
日本を発つ前に父から「イタリアも戦争に負けた国だから、何かと 不自由なことがあるかもしれないが、決して不満を持ったり不平を言ってはいけない」と注意されていたので 、その言葉を肝に銘じて毎日の生活を始めた。しかし、少しの不自由も不満もなかった。言葉(イタリア語) 以外は。言葉では大いに不自由を感じた。
しかし、それは敗戦とは少しの関係もないことだった。それと時間割 の、主だった時を告げる鐘の音は日本とまったく同じなので、これまた不自由なし。建物が大きいのでいくつ かある階段を間違って昇ったり、廊下の右に曲がるところを左に折れたり、その反対だったりと、小さな困 難はあったが、ほんとに小さくて、問題ともいえなかった。
身に着けるものや、ちょっとした日用品は日本から持って行ったし 、必要なものがあれば、ローマの修道院から支給された。食事も十分で、どちらかというと洋食に向いている 私には、少しの不満もなかった。
ただしワインを除けば、の話である。イタリアでは昼食にも夕食にも必ずワイ ンが出る。水のかわりにワインを飲む。数滴口にしただけで顔が真っ赤になり、心臓がどきどきしてくる私 はワインを飲めなかった。それなのに皆から勧められる。これには閉口した。
それともう一つ・・・アメリ カから寄贈される干鱈が頻繁に食卓に出ることも。これは戦争と関係がある。物資が不足していたイタリアに は、アメリカからいろいろの物が送られてきた。その中にたくさんの干鱈があって、たびたび食卓にのぼった 。
でも一番つらかったのはチ―ズ。日本でしていたようにこまかく切って水で飲み込むわけにもいかないし 、顔で笑って心で泣きながら、さも、おいしいものを食べるかのように見せかけて水で飲み込む。これは 私にとって修練期に入る前の大きな試練の一つだった。
そのうちにチーズも私の喉をスムースに通るように なった。修院の中を案内してくれていたシスターが、「ここがお風呂よ」と言って開けたドアの向こうには浴 槽はなく、シャワーだけ。はじめはちょっと戸惑った。でも何も問わずに、「ハイ」と返事した。
当時は目上 にも規則にも従順、ひたすら従順。疑問をもつこと自体悪いことのように教えられていた。こうして、私のロ ーマ生活もかなり順調に滑り出した。
( 石野澪子=いしの・みおこ=聖パウロ女子修道会修道女)
2020年1月30日
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カテゴリー : Sr石野
「15年戦争」と呼ばれることもあった「近代日本が戦い続けたアジア太平洋における戦争」に敗北し、米英仏ソ連合国の軍門に下った時、男どもは震え上がった。
「占領軍は日本民族を、二度と再び平和を乱す軍国主義に陥らないようにと、改良を実施するだろう。日本男子は去勢され、日本の女子はアメリカの白人男子の精液で人工授精されるのだ」との噂が流れた。
他方、「被占領地化する日本国内では、大和民族の純潔を護るためにと、成年女子に青酸カリが配布される」とささやかれた。占領軍兵士に弄ばれないためであった。
だが占領軍の兵士は「文明のメッセンジャー」であった。清潔な軍服を身にまとい、満面の笑顔で群がる日本の子供らにチュ-インガムを配り与えた。NHKのラジオ放送は、平川…なんといったっけ…タダイチ先生だったかな… の英語会話が人気番組になり、「カムカム エブリボディ…」と口真似したものだ。
それから幾星霜、英語学習の需要は再燃しているようだ。あたかも令和2年の今年は東京オリンピックの年だ。観光需要に対応するためである。「国家主導」というよりは、いわゆる「グラスルーツ」的な振興である。
それだけ日本国民の国際化が自発的に進んできたということだろう。
(2020. 1. 30記)
(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所長)
2020年1月30日
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カテゴリー : 三輪先生
明けましておめでとうございます。
先日、久しぶりに自宅のパソコンのデータをクリーンアップしている時、ずっと放置していた多くのデータファイルの中、あるファイルの内に書いてある一口メモを目にしました。
「James 4:13-16、Never forget! 」(ヤコブの手紙4章13節ー16節、忘れるな!)
20年以上も前に自分自身に残したメモでした。自分にとって大事な聖句の一つであったから、従うことを忘れないようにメモっておきました。しかし、久しぶりにこのメモを再び見れば、やはり時が経つに連れて、その教えを忘れたりすることがあることに気が付きました。
「13節 さて、『今日か明日、これこれの町へ行って一年滞在し、商売をして、ひと儲けしよう』と言う人たち、 14節 あなたがたは明日のことも、自分の命がどうなるかも知らないのです。あなたがたは、つかの間現れ、やがては消えてゆく霧にすぎません。15節 むしろ、あなたがたは、『主の御心であれば、生きて、あのことや、このことをしよう』と言うべきです。 16節 ところが実際は、見栄を張り誇っています。そのような誇りはすべて悪です」
一見、使徒ヤコブは商人や大人を批判しているようですが、実際には年齢と関係なくすべての人たちに向けた教えなのです。当時私が尊敬していたあるお年寄りの神父様がそう教えてくれました。何かを計画して、目的(目標)があって、そのために一定の時間を投入し、ある特定の行動を遂行して、ある特定の結果(報い)を求め得ることは、すなわち第13節のこと、学生を含めほとんどの人たちが網羅されています。
ここでの問題は、計画を立てることではありません。使徒ヤコブは、計画を立てることが罪深い、または愚かだとは言っていません。彼は第15節で、あのことを行い、このことを計画すること自体は合理的であると指しています。また、ルカ福音書にも「あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰を据えて計算しない者がいるだろうか 」(14章28節)。
むしろ、ヤコブが指摘している問題は、完全な自立、自分の能力に対する自信、そして謙虚さ欠如の態度です。自分が高ぶって、自分の欲と野望を叶えるための計画だけで、頭にはその目標と結果のことしかなく、神様の御心が何なのか、などを考えたり、祈ったりすることがないままひたすら、自己中心的、自分に夢中であるということです。
久しぶりにこのメモを再び目にしたことで、使徒ヤコブの教えと尊敬していたお年寄りの神父様のことを思い出させられ、神様に感謝いたします。今度こそは忘れることのないように、常に見れるようにスマホにもメモっておきました。
2020年は神様の内に皆様にとって素晴らしい年となることを心からお祈りします。
南杏子さん(稲垣政則撮影)
長野県のとある精神科病院を舞台にした話題の映画『閉鎖病棟―それぞれの朝―』(平山秀幸監督)を観た。
妻と愛人を殺害して死刑が確定したものの、刑の執行が失敗したことから精神科病院に入院して生き続けることになった中年男性、秀丸が主人公。作品は、幻聴に悩まされる元サラリーマンや、義理の父親から家庭内暴力(DV)を受けた女子高校生らと秀丸が出会い、次第に心を通わせていく日々を描く。居場所をなくした人々の交流と回復、そして病院内で起きた衝撃的な事件をきっかけに、登場人物たちは別の運命を背負っていく……。
元死刑囚の秀丸を笑福亭鶴瓶さんが演じ、役作りのために7キロ減量して撮影に臨んだというこの作品は、中国最大の映画祭「第28回金鶏百花映画奨」の外国映画部門で、最優秀男優賞と最優秀作品賞に輝いた。国内でも、「第44回報知映画賞」で女子高生役を演じた小松菜奈さんが助演女優賞を受賞するなど、何かと話題を集めた。確かに見応えのある素晴らしい作品だった。
映画の原作となったのは、精神科医で作家の帚木蓬生さんが書かれた小説『平成病棟』。1995年の山本周五郎賞を受賞し、約四半世紀も読み継がれた名作だ。普遍的な作品には時代を超える力がある。作品のタイトルにも強いインパクトがある。ただ、作品に描かれた精神科病棟そのものは、実は大きく変わろうとしている。
閉ざされた病室で日々を暮らし、超長期にわたる入院が当たり前だった日本の精神科医療は転機にある。厚生労働省は2004年以来、精神科医療を「入院医療中心から地域生活中心へ」改革するビジョンを掲げている。この方針の下、精神に障害のある人も地域で暮らせる仕組み作りがさまざまな形で進められ、精神科の病床は現在の約35万床が2025年には約27万床に減少する見通しだ。1年以上の長期入院患者も、現在の18万5000人から25年には半減すると予測されている。
東京都小平市にある国立精神・神経医療研究センター病院も、精神科患者向けの病床数を大きく減らし、開放病棟のシェアを約半分程度にまで広げている。デイケアや外来作業療法などを充実させ、入院の短期化を図った成果として、長期入院はほぼゼロにまで減らしたとして注目されている。
変革のさなかに求められるのは、市民の側の理解と学習だ。2022年度から使われる高校保健体育の教科書には、精神疾患の記述が40年ぶりに復活する。「精神疾患の予防と回復」という項目で、高校生たちは「精神疾患の予防と回復には、運動、食事、休養及び睡眠の調和のとれた生活を実践するとともに、心身の不調に気付くことが重要であること。また疾病の早期発見及び社会的な対策が必要であること」を学ぶ。精神疾患に対する偏見の解消や病気の早期発見につなげる取り組みの一環だ。
「わしは世間に出たらあかん人間や」――。映画の中で秀丸が悲しげにつぶやくシーンが、劇場を後にしても忘れられない。私たちは今、そのセリフからさまざまなことを学ぶ必要があるに違いない。
(みなみきょうこ・医師、作家: 末期がんや白血病、フレイル……病に負けず舞台を目指す人たちと女性医師の挑戦を描いた物語『ステージ・ドクター菜々子が熱くなる瞬間』を2019年9月に講談社から刊行しました。終末期医療のあり方を問う医療ミステリー『サイレント・ブレス―看取りのカルテ』=幻冬舎=、クレーム集中病院を舞台に医師と患者のあるべき関係をテーマに据えた長編小説『ディア・ペイシェント』=幻冬舎=も好評発売中!)
2019年は「子供が歴史転換の予兆を代表した年」として記憶されるだろうか。それも女子だ。スウェーデンの環境活動家、16歳のグレタ・トゥンベリさんだ。地球温暖化について国連で先進国首脳を痛罵したのだ。
日本では学校教育で生徒が「怖くて」、叱ることもできない先生がいるのだそうだ。それをとがめて、プロスポーツ界のレジェンド、イチロー氏がテレビで警告した。「生徒が怖くてどうするんですか」と批判しつつ、「これからは自分で自分を教育しなければなりません」と呼びかけた。
今年のクリスマスにも大きな変化があったようだ。
曾孫からのクリスマスカード、まだ1歳そこそこだから、むろん母親、つまり私にとっては孫娘が用意したものだろうが、そこにはサンタは描かれていなくて、代わりにトナカイの帽子をかぶった男子の曾孫がプレゼントは僕が届けるよとあった。神話 、伝説 、慣習、に超然とする姿勢の萌芽が認められた。
「生徒が怖くてどうするんですか」と、教育の現場を批判したのはイチローさんだが、時代は大きく動いていて、子供の時代に、はっきりと1歩も2歩も踏み出していることが実感された年であった。天真爛漫な子供らの楽しむお遊びも様変わりして、チャンバラや、ままごとの時代はすでに遠のいて見える。
アーティフィシャル・インテリジェンスのおもちゃや、大人が実務で操るものと同じハイテクの機器を巧みに操る子供たちもいるような今の時代は、人類の新世紀がすでに開幕したことを告げているのだろう。ここから我々は何処に向かっていくのだろうか。環境破壊の地球を逃れて宇宙を右往左往するのだろうか。
「希望」の光よ、今こそ輝き、燦々と、往く道を示し、励まし、たがえないように、導いてください。
(2019・12・29記)
(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元国際関係研究所長)
2019年12月31日
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カテゴリー : 三輪先生
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