ローマでの生活も軌道に乗りつつあった。高い天井、広い廊下、ゆとりのあるスペースの建物での生活は、気持ちまでゆったりさせてくれる。
日課は、日本のそれとあまり変わらなかった。朝5時半に、起床の鐘が鳴る。眠い目をこすりながらベッドから降り、洗面と身支度を済ませて、きちんと2列に並んで聖堂に行く。
聖堂で、朝の祈りとミサ。(その頃のミサは、今のように司祭と会衆が対面で行うのではなくて、司祭は壁に向かってミサを立て、会衆は司祭の背中を見ながらミサ中にロザリオを声に出してとなえる、という、実にちぐはぐなものだった)。その後、30分の黙想。そして朝食。食事が済むと、食堂や寝室の掃除。8時半に鐘が鳴って、それぞれ割り当てられた仕事に就く。
聖パウロ女子修道会は、「良い出版物によって福音を宣教する」ことを目的として創立された。しかし、会憲には、「時のしるしに絶えず注意し、『進歩が提供し、時代の必要と状況が要求する、より迅速で効果的な手段を、宣教のために取り入れる積極的な姿勢をもとう』」とある。
この文言を忠実に生きた修道会は今、「良い書物」というよりは、マス・メディアとか、社会的コミュニケーションの手段によって福音を宣教するようになっている。
私がローマに着いた頃の使徒職は、まだ出版と、始まったばかりの映画だけだった。だから主な仕事は、本の編集や校正、印刷、製本などで、幾人ものシスターがそれらの仕事にあたっていた。また、お台所やお洗濯など、いわゆる”家事”に携わる人もいた。皆、上長から振り当てられた仕事に就く。直接印刷や製本に関係のない仕事も「使徒職」と呼んで、使徒的精神で行うように、と教えられていた。
著作や編集関係の仕事をしているシスターたちの部屋に行くと「絶対沈黙」が支配し、皆、本や原稿と取り組んでいる。その一方で、印刷や製本の仕事場では印刷機がまわる大きな音や、タイプライターの植字の音が聞こえ、その中でシスターたちが大きな声でロザリオを唱えながら作業をしていた。
私たち日本人に与えられたのは、イタリア語の勉強。一人のイタリア人シスターが先生で、A,B,Cから教えてくれる。イタリア語は男性形と女性形があり、動詞は時相や人称、法によって一つの動詞が48にも変化する。
複雑なイタリア語を学ぶのは、きつかった。でも楽しい挑戦でもあった。話すからには間違えのないように、正しいイタリア語を話したい、と望んでいた私は間違えるのが怖さに、初めのうちはなかなか話せなかった。
( 石野澪子=いしの・みおこ=聖パウロ女子修道会修道女)