Sr.石野の思い出あれこれ ⑲ローマ生活、ワイン、干鱈、チーズ除けば順調な滑り出し

 ローマでの私の生活がスタートした。

 まだ修練期に入ったわけではないし、それほど厳しい規則にしばられることもなければ、緊張があるわけでもない。むしろ遠来の客に接するかのように、みなが親切に扱ってくれた。

 日本を発つ前に父から「イタリアも戦争に負けた国だから、何かと不自由なことがあるかもしれないが、決して不満を持ったり不平を言ってはいけない」と注意されていたので、その言葉を肝に銘じて毎日の生活を始めた。しかし、少しの不自由も不満もなかった。言葉(イタリア語)以外は。言葉では大いに不自由を感じた。

 しかし、それは敗戦とは少しの関係もないことだった。それと時間割の、主だった時を告げる鐘の音は日本とまったく同じなので、これまた不自由なし。建物が大きいのでいくつかある階段を間違って昇ったり、廊下の右に曲がるところを左に折れたり、その反対だったりと、小さな困難はあったが、ほんとに小さくて、問題ともいえなかった。

 身に着けるものや、ちょっとした日用品は日本から持って行ったし、必要なものがあれば、ローマの修道院から支給された。食事も十分で、どちらかというと洋食に向いている私には、少しの不満もなかった。

 ただしワインを除けば、の話である。イタリアでは昼食にも夕食にも必ずワインが出る。水のかわりにワインを飲む。数滴口にしただけで顔が真っ赤になり、心臓がどきどきしてくる私はワインを飲めなかった。それなのに皆から勧められる。これには閉口した。

 それともう一つ・・・アメリカから寄贈される干鱈が頻繁に食卓に出ることも。これは戦争と関係がある。物資が不足していたイタリアには、アメリカからいろいろの物が送られてきた。その中にたくさんの干鱈があって、たびたび食卓にのぼった

 でも一番つらかったのはチ―ズ。日本でしていたようにこまかく切って水で飲み込むわけにもいかないし、顔で笑って心で泣きながら、さも、おいしいものを食べるかのように見せかけて水で飲み込む。これは私にとって修練期に入る前の大きな試練の一つだった。

 そのうちにチーズも私の喉をスムースに通るようになった。修院の中を案内してくれていたシスターが、「ここがお風呂よ」と言って開けたドアの向こうには浴槽はなく、シャワーだけ。はじめはちょっと戸惑った。でも何も問わずに、「ハイ」と返事した。

 当時は目上にも規則にも従順、ひたすら従順。疑問をもつこと自体悪いことのように教えられていた。こうして、私のローマ生活もかなり順調に滑り出した。

( 石野澪子=いしの・みおこ=聖パウロ女子修道会修道女)

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2020年1月30日 | カテゴリー :