・バチカンの3省連名で、ドイツ司教団に「シノドス評議会」設置の採決を中止させる

(2024.2.20 Vatican News   Salvatore Cernuzio)
   バチカンは、パロリン国務長官、フェルナンデス教理長官、プレボスト司教長官の連名の書簡を16日付けで、ドイツ司教協議会(DBK)に送り、現在開催中のDBK総会で予定していた「シノドス委員会」の規約採決をいったん中止するよう要請。DBKも19日までにこれを受け入れ、同規約の採決を議題から外した。この問題の扱いについてバチカン側は、今後持たれるDBKとの協議まで判断を留保する、としている。
 DBKが今総会で採決を予定していた「シノドス委員会」は、ドイツの教会が、教皇主導の”シノドスの道”に先んじて進めて来たドイツ版”シノドスの道”の歩みの最大の”成果”であり、昨年、司教団と一般信徒による協議で承認された「統治・意思決定評議会」導入のための準備を行うのが目的。司教約27人と一般信徒約50人で構成され、教会の権威、女性の役割、性道徳、司祭生活などドイツの教会の主要課題を協議し、実施可能な決定を下す機能を持つとされている。
 このようなドイツの教会の動きに対して、教皇フランシスコは昨年11月、ドイツの女性神学者4人に宛てた書簡で、「このような評議会は、教会のsacramental structureとは調和できない」とし、昨年1月にバチカンが出した書簡で既に評議会の設置が差し止められていることを確認している。
 バチカンの国務長官、教理長官、司教長官の連名によるDBK宛て書簡は、「シノドス委員会」の規約採決を中止し、バチカンとDBK代表者との協議後まで、判断を持ち越すよう求めている。協議の日程はまだ明らかになっていないが、教皇によって承認されたこの書簡は、「もしシノドス委員会の規約が、協議以前に採択された場合、協議の意味をなさなくなるだけでなく、進行中の対話プロセス全般の問題が生じるだろう」と”警告”。
 「(ドイツの教会が設置を目指している)ような評議会は、現在の教会法では想定されていない… そのような評議会の設置に関する決定も、司教協議会には設置のための規約を承認する権限がないため、無効となる」とし、 このような問題点はすでに教皇によって強調されており、「したがって、『シノドス委員会』の規定を承認することは教皇の命令に反し、既成事実を再び教皇に突きつけることになる」とも述べている。

 この書簡を受けて、DBKは19日、シノドス委員会の規約に関する採決を、22日まで開かれる総会の議題から削除したが、DBK会長は19日の会見で「(最近のバチカンの)警告とは関係なく、ドイツの司教団は、改革の道を進むつもりだ。改革の根本にわたる部分をバチカンと協議するのは当然。バチカンに敬意を表して、シノドス委員会の創設に関する項目が総会の議題から削除したのもそのためだ」と言明。

 シノドス委員会が設立の準備をするドイツ教会の「統治・意思決定評議会」によって、「いかなる形でも司教の権限を制限するつもりはない。性的虐待などのスキャンダルによってドイツ教会の権威が損なわれている現状に抜本的に対処するための、本当に意思決定につながる、拘束力をもち、透明性のある助言を(評議会から)求めようとしているのだ」と説明している。

 

2024年2月21日

・教皇、シノドス総会第1会期で注目された主要テーマの研究グループ設置、第2会期の日程発表

Pope Francis attends the Synod session in OctoberPope Francis attends the Synod session in October  (Vatican Media)

(2024.2.17 Vatican News )

 教皇フランシスコは17日、新たな証書を発表、2023年10月の世界代表司教会議(シノドス)総会第1会期で注目されたさまざまなテーマを検討するための研究グループを設置するとともに、総会第2会期の日程を決定された。

 総会第2会期は10月2日水曜日から10月27日日曜日までとし、「シノダリティ(共働的)な教会」を目指すための課題への取り組みが継続される。これ先立ち、9月30日から10月1日までの2日間を準備のための霊的黙想の期間とし、参加者は9月29日までにローマに到着するものとする。

 第1会期の会合で浮上したテーマのいくつかを掘り下げるための研究グループは、教皇庁の管轄官庁とそれらを調整するシノドス事務局によって創設される。

 創設を決めた証書で、「随時確立される世界代表司教会議(シノドス)のプロセスを支援し、これに伴うシノドス事務局の任務には、教会会議の精神に基づいてさまざまな司教と地方教会との関係を促進することが含まれる」とし、「教皇庁は、それぞれの固有の能力に応じて、シノドス事務局の活動に協力し、研究グループを形成し、シノドスの方法に従って詳細な研究を開始する」と結論づけている。 

 2023年12月11日に出されたシノドス事務局長による文書「2024年10月に向けて」は、次回のセッションで「教会のあらゆるレベルでシノダリティをどのように実践するかに焦点を当てること」をすでに強調している。

 教皇証書では、”シノドスの道”の歩みで、耳を傾けることから浮かび上がった最も重要なテーマのいくつかは「神学的、正典的、司牧的な考察に、かなりの時間を必要とする」とされ、これらのテーマの研究には、各大陸とローマ教皇庁の専門家がそれぞれの能力に応じて参加することとしている。

 17日発表の証書では、どのような研究グループを設立し、どのようなテーマを考察するかについては定義されていないが、 昨年10月のシノドス総会第一会期の会合終了時に投票で承認された総括文書では、いくつかの教会規範の更新の必要性、叙階牧師の形成、司教と修道会との関係、ディアコンテートに関する神学的・司牧的研究など、いくつかのテーマが示されている。

 12月に出されたシノドス事務局長の文書と17日の教皇証書から推測されるように、この研究グループは、さまざまなテーマに関する普遍教会の考察を支援する有用なツールとして役立つだろう。 だが、それらは、教会における交わりの表現であるシノダリティそのものに焦点を当てる次のシノドス会議で議論される材料を直接構成するものではない。研究グループの考察結果は、最終的にシノドス事務局が調整を行い、教皇に直接報告することになる。 

 なお、教皇は17日、シノドス事務局に現在の10人に加えて新たに以下の6人の顧問を任命する人事も発表された。

 リエージュ教区(ベルギー)のモンシニョール・アルフォンス・ボラス司教代理、 ジル・ルーティエ・ラヴァル大学(カナダ)神学教授、 オーモンド・ラッシュ・オーストラリア・カトリック大学神学准教授、 シスター・ビルギット・ワイラー・ペルー・カトリック大学神学教授、 トリシア・C・ブルース宗教社会学協会次期会長、マリア・クララ・ルケッティ・ビンゲマー・リオデジャネイロ・カトリック大学神学教授。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2024年2月17日

・日本の教会のシノドス総会第二会期に向けた取り組み発表

(2024.1.27 カトリック・あい)
 日本の司教団が26日付けでシノドス特別チーム担当の菊地功・司教協議会会長名で、10月のシノドス総会第二会期に向けた日本の教会としての取り組みを以下のように発表した。

日本のカトリック教会の皆様

シノドス特別チーム 担当:菊地功
世界代表司教会議 第16回通常総会第2会期に向けての取り組みについて

教皇庁シノドス事務局からの2023年12月11日付書簡「2024年10月に向けて」に記載されている指示に従う形で、今後の日本の教会での取り組みを検討するため、昨年末に司教協議会にシノドス特別チームが設置されました。メンバーはアジアの大陸別シノドスに参加した三名(西村桃子さん、辻明美さん、高山徹神父)に小西広志神父と私で構成しています。当チームは以下に示す取り組みを計画し、この度司教協議会の承諾を得ましたので皆様にお知らせします。
なお、準備に必要な公文書などは、邦訳されて中央協議会のホームページで公開されていますので、ご参照ください。

 

*教皇庁シノドス事務局の指示は、主に次の二点です。

  1. 「シノドス的」教会のあり方についての意見書の、5月15日までの提出。
  2. 「シノドス的」な活気ある取り組みの報告。

これを踏まえ、さらに教皇フランシスコの言葉、「このシノドスとはシノダリティについてのものであり、他のあれこれのテーマについてではありません。……重要なのは、考察する方法、つまりシノドス的方法です」から示唆を得て、以下の三点を計画しました。特別チームの一番の願いは、「シノドス的方法」を多くの方々が知り、体験してくださることです。

 

*2024年10月の第二会期に向けての日本での取り組み。

  • 「シンドス的方法」を紹介する『シノドス ハンドブック』の作成と配布
  • 各教区レベルでの「シノドスの集い」の開催と、そのための支援。
  • 日本の教会レベルでの「シノドスの集い」の開催。

それぞれの具体的内容については、今後、準備ができ次第、お知らせいたします。
なお第二番目の教区レベルでの「シノドスの集い」については、第二会期開始前の本年9月末ころまでの開催を希望します。

また三番目については、以下の要綱で開催します。

 日本の教会におけるシノドスの集い=日時:2024年3月7日(木)午後3時から8日(金)午後3時まで ・会場:日本カトリック会館(東京都江東区潮見)・参加者:各教区の司教全員、それぞれの教区の、司祭、奉献生活者、信徒の代表1名ずつ。

詳細は別途、各教区事務局にお知らせいたしますが、具体的には各教区から4名の参加者は、一堂に会して丸テーブルを囲みながら「霊における会話」を実施します。

そこで生まれてきた意見や提案を教皇庁シノドス事務局に提出します。これはシノドス事務局からの書簡「2024年10月に向けて」にある指示に沿ってのものです。

しかし、この取り組みは、シノドス事務局への提出文書を作成するためにするのではなく、むしろ、「ともに歩む」教会の実際を参加者が体験するためするものだと考えます。

これからもシノドスの歩みは続いてまいります。日本の教会の皆様には、中央協議会のホームページなどを通じて必要な情報を提供してまいりますので、ご一緒に道を歩んでくださるようお願い申し上げます。

以上

2024年1月27日

・シノドス事務局長がフィリピンの代表団に、総会第一会期の結果と10月の第二会期への対応を語る

Cardinal Mario Grech, Secretary General of the Synod of Bishops 

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2024年1月21日

・シノドス事務局の総会第二会期に向けた取り組み書簡・全文

(2024.1.19 カトリック・あい)

   “シノドスの道”を担当するバチカンのグレック・シノドス事務局長とオロリッシュ・シノドス総会総括責任者は昨年12月12日までに、全世界の司教たちにあてて、2024年10月に予定する世界代表司教会議(シノドス)第16回総会第二会期に向けた取り組みに関する書簡を送った。

 その概要は、すでにVatican News で伝えられ、「カトリック・あい」でその翻訳を掲載済みだが、1月19日に付けのカトリック中央協議会ホームページで、その全訳が掲載されたので以下に転載する。

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 世界代表司教会議(シノドス) 第16回通常総会 2024年10月に向けて

            シノドス事務局

2021年10月9日に教皇によって開始された旅、「ともに歩む教会のため――交わり、参加、そして宣教」を継続していくために、今後、シノドス総会第2会期(2024年10月)までの数カ月間に取るべき手順について、シノドス事務局通常評議会によって作成され、承認された指示を以下にまとめました。

シノドス2021-2024の全過程は、旅を続けるためのひらめきの源泉となります。聞き取りと意見聴取のフェーズにおいて、さまざまなレベルのシノドスの集いに参加した人々、とりわけ第1会期の参加者は、複数であり、かつ違いを交わりの豊かさとして生きることのできる教会を、具体的に体験してきました。

この体験は、平和と一致が可能であると信じることが困難な世界に向けられた、預言者的なことばです。わたしたちは、復活した方から招かれ、派遣されて、現代世界に福音を告げ知らせます。シノドス的教会として成長することは、この招きと使命に応える具体的な方法なのです。

総会に参加した人々の証言は貴重です。彼らの証言は、わたしたちが受け取ったたまもののかけがえのない一部であり、どんな文章でも凝縮することのできない豊かな体験を伝えています。主によって招かれ、派遣された弟子として互いを認め合う兄弟姉妹のシノドス的な出会いは恵みであり、喜びの源です。こうした体験から、このたまものを分かち合い、より多くの人々をこのダイナミズムに巻き込みたいという願いが生まれます。

参加者の証言に加え、第1会期の成果は、会期終了後に承認され、シノドス2021-2024のウェブサイト(www.synod.va)で多言語で入手可能な「まとめ」報告書に集成されています。この文書は、二つの会期間に、神の民の旅の参照点となります。

とりわけ、シノドスの歩みは、わたしたちがこれまで連続して取り組んできた三つのレベル、すなわち、各地方教会レベル、地方教会の集合体(全国、地域、大陸)レベル、全教会レベルを絡み合わせながら、以下に示す路線に沿って継続されます。これらの作業路線を承認しながら、教皇が思い起こしたとおり、「このシノドスとはシノダリティについてのものであり、他のあれこれのテーマについてではありません。……重要なのは、考察する方法、つまりシノドス的方法です」。

このような方向で、これまでの歩みは進められてきました。また、このような方向で、第1会期の作業を発展させるよう求められています。第1会期中、総会は、大きな関連性をもつ事柄をシノドス的方法で取り上げ、収れんする事柄を指摘し、取り組むべき課題を示し、提案をまとめました。これらは非常に重要な問題であり、そのいくつかは全教会レベルで、ローマ教皇庁の諸省と協力しながら検討される必要があります。

こうした中には、たとえば、『カトリック新教会法典』と『東方教会法典』の更新を見据えた予備的研究(「まとめ」1章、r)、叙階された奉仕者の養成に関する『基本綱要(Ratio fundamentalis)』(11章、j)、司教省文書『ムトゥエ・レラチオネス』(10章、g)、あるいは助祭職、より具体的には女性の助祭職への参入に関する神学的・司牧的研究の進展(9章、n)などが含まれます。

これらのテーマの一覧表は、シノドス総会の成果として教皇に提出されます。シノドス事務局によって調整された、全大陸から選出された専門家グループは、教皇庁の関係各省とともに、教皇によって指示されたテーマについて、シノドス的な方法で作業するよう要請されていきます。この作業の進捗に関する報告は、2024年10月の第2会期で発表される予定です。

 

1.考察を深めるために指針となる問い

地方教会とその集合体は、まず、シノドスのテーマの根幹をなす「まとめ」報告書の諸要素を深めることによって貢献するよう求められています。これらの貢献は、次の質問によって導かれます。

どのようにすればわたしたちは、宣教においてシノドス的教会になりうるか」

 この新たな考察の目的は、復活した主とその福音を現代世界にのべ伝えるという一つの使命の中で、洗礼を受けた一人ひとりと各教会の独自の貢献を発展するために、わたしたちがそれぞれの状況や文脈の中でたどることのできる道筋と、採用することのできる手段を明らかにすることです。

したがって、これは、教会組織をより効率的なものにするための技術的、あるいは手続き的な改善計画に限定するような要請ではなく、むしろ、わたしたちが呼ばれている宣教への専心の具体的な形、すなわち、シノドス的教会にふさわしい、一致と多様性の間のダイナミズムを表現するものについて考察するようにとの呼びかけです。

この点で、使徒的勧告『福音の喜び』27項を読み直すことは役立つでしょう。「わたしは、すべてを造り替えるような『宣教という選択肢』にあこがれています。それは自己防衛ではなく、習慣も、様式も、時間も、言語も、そして教会のあらゆる組織的構造も、現代の福音化にふさわしい手段となるものです。

司牧的な回心が要請する構造改革は、次の意味においてしか理解されないでしょう。つまり、教会の全構造をいっそう宣教へと向かうものとすること、すべての領域で通常の司牧活動をより広くいっそう開かれたものとすること、司牧に携わる者がつねに『出向いていく』態勢であるよう励ますことです。

そして、こうした配慮によって、イエスが友として招いた人が皆、積極的にこたえるよう支えることです。オセアニアの司教たちに向けてヨハネ・パウロ二世が述べたとおりです。『教会の刷新はすべて宣教を目的とすべきです。教会的な内向性というものに陥らないために』」。

指針となる問いの中で特定された綿密な作業が志向する地平は、キリストがわたしたちに託された宣教のダイナミズムによって動かされる改革です。ここにおいて、わたしたちは司牧上の回心によって支えられます。この回心は、主の約束に従ってわたしたちを決して一人にしない霊が、わたしたちを招き、成し遂げさせるものです。

 

1.1 深めるための二つのレベル

この指針となる問いは、つねに「まとめ」報告書全体を参照点として、二つのレベルで取り組む必要があります。

a)地方教会レベルで。神の民全員の、宣教における差別化された共同責任をどのように強化することができるでしょうか。宣教に関して、どのような関わり方、組織、識別のプロセス、意思決定が、共同責任を認識し、形作り、促進することを可能するでしょうか。この共同責任をよりよく表現するために、どの奉仕職や参加型組織を新たにし、導入することができるでしょうか。「まとめ」報告書の中、8〜12章、16章、18章を、より具体的に参照とすることができます。

b)諸教会間の関係、異なるレベルの地方教会の集合体間の関係、ローマの司教との関係というレベルで。「教会全体の次元とその地域的ルーツとの間の動的バランス」(「まとめ」報告書5章、g)を見極めるため、どのようにすればこれらの関係性を創造的に明示することができるでしょうか。ここではとくに、「まとめ」報告書の13章、19章、20章を参照とすることができます。

 

1.2 作業整理のためのいくつかの提案

指針となる問いと、上記の二つのレベルから始めて、各地方教会はさらなる意見聴取を実施することが求められ、利用可能な時間内で何が可能か、どのようなアプローチをとるのが最善かを決断します。最初のステップは、「まとめ」報告書の関連する章を振り返りながら、指針となる問いに取り組む視点を選ぶことです。現実的には、すべての内容を検討することは不可能でしょう。

したがって、各地方教会は、自らの状況、特徴や体験に照らして貢献できる部分に焦点を当て、シノダリティの、目に見える具体的なしるしとなる、優れた実践を分かち合うよう招かれています。決定されたことに基づいて、各教区・東方教会教区は、このさらなる意見聴取の成果を、それが属する司教協議会または東方教会の位階機構に、各協議会・機構が間もなく提示する時期と方法で送ることになります。

明確にしておきますが、この作業は、シノドスの歩みをゼロから始めることでも、第1段階で行われた聞き取りと意見聴取のプロセスを繰り返すことでもありません。この段階では、すでに設置されている教区レベルの参加型の団体やシノドス・チームに加え、神の民の中でさまざまな体験、技能、カリスマ、奉仕職を表現し、その視点が「どのように」ということに焦点を当てる上で、とりわけ助けになる人やグループを参加させることが重要になります。

つまり、叙階された奉仕者(とくに小教区の司祭)、その他の司牧リーダー(たとえばカテキスタや、草の根共同体や小共同体のリーダー、とくに地域によっては司牧拠点のリーダー)、男女奉献生活者、信徒団体・教会運動体・新しい共同体のリーダー、教会関連の団体や組織(学校、大学、病院、一時収容施設、文化センターなど)の責任者、神学者や教会法学者などを参加させるのです。

司教協議会と東方教会の位階機構は、このプロセスのこの部分の参照点であり、その方法と時期を定め、教区・東方教会教区と調整しながらそこからの意見を集めることが求められています。彼らはまた、自分たちのレベルでも、大陸レベルでも、適切で実行可能と思われることに従って、同じ指針となる問いから始めて、詳細な研究を継続することが求められています。

地方教会レベルにおいても、また地方教会の集合体レベルにおいても、真の意味でシノドス的な識別を行うためにはまた、神学的・教会法的な専門知識だけでなく、人文科学・社会科学の貢献も必要で、そこには、これらの分野の専門家や学術機関が含まれます。

各教区・東方教会教区からの意見を集めた後、司教協議会・東方教会の位階機構、さらに、どの司教協議会にも属さない教区は、最大8ページのまとめを作成し、2024年5月15日までにシノドス事務局に送付する任務を負っています。こうして集められた資料に基づいて、第2会期の『討議要綱』が作成されます。

2.シノドスのダイナミズムを活かしながら

過去2年間、神の民全体を巻き込んできたシノドスのダイナミズムを維持し、活性化させることは、上に概説した詳細な調査と意見聴取の作業と同様に重要です。第1会期は、優先事項として、「シノドスの歩みに参加する人々の数を増やし、これまでに現れた参加への障害を克服すること」(「まとめ」報告書、1章、m)を指摘し、また、デジタル環境を含め、注意を払うべきさまざまな態様やグループを指摘しました。

この目的のために、各地方教会もまた、「まとめ」報告書全体に目を通し、自分たちの状況にもっとも合致する要望を集めることが求められています。これを基に、第1フェーズですでに成功裏に採用された方法、とりわけ「霊における会話」を用いて、神の民全体を巻き込むためのもっとも適切な取り組み(養成活動、詳細な神学研究、シノドス形式による祭儀、草の根の意見聴取、マイノリティや貧困・社会的周縁の状況で生活するグループからの聞き取り、論争の的となっている課題に取り組む場など)を推進することができるようになります。

修道会、奉献生活会、信徒団体、教会運動体、新しい共同体もまた、同様のことを行うことが求められ、所在する教区や東方教会教区の作業に貢献することとなります。その目的は、シノドスの歩みの第1フェーズが始まり、大きな実を結んだ、すべての人、とりわけ教会生活の周縁にとどまる人々に耳を傾け、対話するダイナミズムを維持することです。

そのように実行しようと望む各地方教会は、それが属する司教協議会または東方教会の位階機構に、宣教に向かうシノドスのダイナミズムを成長させるために重要であると思われる優れた実践を分かち合いつつ、実施された活動や体験についての簡潔な証言(2ページ以内)を送付することができます。司教協議会と東方教会の位階機構は、2024年5月15日までにこれらをシノドス事務局に送付する責任があります。

これらの報告は、第2会期中に総会が直接識別する対象にはなりませんが、しかし、総会メンバーが読むことができるようになります。その目的は、総会の作業を位置づける枠組みを構成するための助けとすることです。また、体験や優れた実践を共有することで、同じ課題に取り組むよう求められている諸教会間の出会いと協力のダイナミズムが活性化されることもあるでしょう。

 

3.責任者とその任務

総会の二つの会期の間の旅の主体は、それぞれの地方教会です。このフェーズにおいて、各教区・東方教会教区の司教は、刺激を与えるという代えがたい役割を担っています。つまり、自らの教区・東方教会教区でさらにこの意見聴取を行い、同伴し、その結果を検証するのは、司教の任務です。

このプロセスを実施し、活性化させるために、各領域からのシノドス総会メンバーの協力と、これまでのフェーズで異なるレベルに設置されたシノドス・チームの協力を求めることが示唆されています。

司教協議会と東方教会の位階機構は、自らのレベルでの詳細な作業に直接関わり、各地方教会の調整役を果たすことが求められています。

とりわけ、

1)指針となる問いで指摘された、深める作業に関して、司教協議会と東方教会の位階機構に以下のことを求めます。

  • このプロセスに同伴し、意見聴取の方法と時期について地方教会に指示を与えること、
  • 司教協議会と東方教会の位階機構が適切と考える方法に従って、地方教会の集合体レベルでもまた、指針となる問いの詳細な研究を実施すること、
  • 受け取ったり、作成した各報告のまとめを準備し、5月15日までにシノドス事務局に送付すること。

2)シノドスのダイナミズムを維持するための取り組みに関しては、司教協議会と東方教会の位階機構に以下のことを要請します。

  • 諸地方教会のグループ化を含め、宣教におけるシノドス的教会としての成長を可能にする取り組みを推進し続けること、
  • 教区・東方教会教区が作成した証言と優れた実践を収集し、それらを要約せずに、5月15日までにシノドス事務局に送付すること。

バチカン、2023年12月11日

2024年1月19日

・カトリック中央協議会が、シノドス総会第一期の総括文書(『まとめ』報告書)訳文を掲載

(2024.1.19 カトリック・あい)

カトリック中央協議会は1月19日付けのホームページで、昨年10月に開かれた世界代表司教会議(シノドス)第16回通常総会の総括文書(中央協議会訳では「『まとめ』報告書」)の日本語訳を掲載した。

「カトリック・あい」では昨年11月初めにバチカンのシノドス事務局が総括文書を発表して半月後に全文の試訳を掲載済みで、翻訳の言葉や表記には当然違いがあるが、「カトリック・あい」もバチカン発表の公式英語文をもとにしているので、内容にはほぼ相違がない。頻繁に使用されている「シノドス」「シノダリティ」というキーワードについて「カトリック・あい」では、「共働性」「共働的」、また会議の名称として使われる場合も明確に日本語をつけて区別したが、今回の中央協議会訳では、単にカタカナ表記のみになっている。また「命」「私」などを当用漢字表記とせず、ひらがな表記としている。

 

(2024.1.19 カトリック中央協議会)

世界代表司教会議第 16 回通常総会 第 1 会期(2023 年 10 月 4 日~29 日)「まとめ」報告書
宣教するシノドス的教会
2023 年 10 月 28 日(昼 12 時)

はじめに

親愛なる姉妹、兄弟の皆さん、
「一つの霊によって、わたしたちは、……皆一つのからだとなるために洗礼を受け」(一コリント12・13)ました。これが、2023 年 10 月 4 日から 28 日まで、「ともに歩む教会のため―交わり、参加、そして宣教」というテーマで開催された、今回の世界代表司教会議(シノドス)第 1 会期において、わたしたちが味わった喜びと感謝に満ちた体験です。背景、言語、文化の多様性にもかかわらず、洗礼という共通の恵みによって、わたしたちは、心を一つにしてこの日々をともに過ごすことができました。聖歌隊のように、わたしたちは多様な声で一つの魂を歌おうとしてきました。聖霊がわたしたちに与えてくれたのは、聖霊だけが生み出す方法を知る調和を体験することであり、それは引き裂かれ、分裂した世界におけるたまものであり、あかしです。
今回の総会は、古く新しい戦争が世界で激化し、無数の犠牲者の不条理な悲劇を生み出している最中に開催されました。貧しい人々、移住を余儀なくされている人々、暴力に苦しんでいる人々、気候変動の壊滅的な影響に苦しんでいる人々の叫びは、わたしたちの間に響いていました。それらはメディアを通してだけでなく、これらの悲劇的な出来事に家族や人々と個人的に関わっている多くの人々の声からも聞こえました。わたしたちは皆、どのようなときにも、それを心に抱き、祈りながら、わたしたちの教会が和解、希望、正義、平和の道をどのようにはぐくむことができるかを考えてきました。
わたしたちの信仰を確認し、使命において大胆であるよう励ましてくれたペトロの後継者を囲んで、わたしたちの集いはローマで開かれました。エキュメニカルな前晩の祈りでこれらの日々を始められたことは恵みで、他のキリスト教諸派の指導者たちや代表者たちが教皇とともにペトロの墓で祈る姿を見ることができました。一致は神の聖なる教会の中で静かに発酵しています。わたしたちは自分の目でそれを見、喜びに満ちてあかしします。「兄弟がともに座っている。なんという恵み、なんという喜び」(詩編 133・1)。
教皇の要請により、本総会では、神の民の他のメンバーが司教たちの周りに集まっていました。司教たちは、自分たち同士でも、またローマの司教との間でも一致団結し、諸教会の交わりとしての教会を表現しました。信徒、奉献生活者、助祭と司祭は、司教たちとともに、教会全体と教会内のすべての人を巻き込もうとする歩みの証人でした。彼らの存在によって、本総会が孤立したイベントではなく、シノドスの歩みの不可欠な部分であり、必要なステップであることをわたしたちは思い出しました。総会で語られた多様な発題とさまざまな立場は、シノダリティのスタイルを学び、それを実現するために、もっとも適した形を模索する教会の姿を明らかにしました。
この第 1 会期に至る旅が始まってから 2 年以上が経ちました。2021 年 10 月 9 日にシノドスの歩みが開始された後、すべての教会は、異なるペースではありましたが、教区、国、大陸の段階を経て、それぞれの文書に反映されている聞き取りのプロセスに取り組んできました。今回の総会は、全教会がこの意見聴取の成果を受け取り、祈りと対話の中で、霊がわたしたちに求めている道を識別するフェーズの幕開けとなりました。このフェーズは、2024 年 10 月に総会第 2 会期がその作業を完了し、それを教皇に提供するまで続きます。
教会の聖伝に根ざしたすべての旅路は、公会議の教えの光の中で行われています。第二バチカン公会議は、実際、世界と教会の畑に蒔かれた種のようなものでした。信者の日常生活、あらゆる人々や文化における教会の経験、多くの聖性のあかし、神学者たちの考察が、第二バチカン公会議が芽を出し、成長する土壌となったのです。2021-2024 シノドスは、その種の力を引き出し、その可能性を発展させ続けます。シノドスの旅は、実際、聖性に招かれ、公会議が、神秘としての教会、神の民としての教会について教えたことを実践していくものです。それは、わたしたちが福音をよりよく理解し実践するために、洗礼を受けたすべての人々が各自の多様な召命に応じて行う貢献を評価しています。
この意味で、このシノドスは、公会議をさらに受け入れる真の行為であり、そのインスピレーションを永続させ、現代世界のためにその預言者的な力を再活性化させるものです。
1 カ月の働きの後、今、主はわたしたちに、わたしたちの活動の成果を皆さんに伝え、ともに旅を続けるために、それぞれの教会に戻るようにと呼びかけています。ここローマでは、わたしたちは大人数ではありませんでしたが、教皇が招いたシノドスの道の目的は、洗礼を受けたすべての人を巻き込むことです。わたしたちはその実現を切に願い、それを可能にするために全力を尽くしたいと思います。この「まとめ」報告書では、この数日間を特徴づけた対話、祈り、話し合いの中で浮かび上がった主な要素を集めています。わたしたちの個人的な体験談は、どんな文書でも十分にとらえることのできない、生きた経験の調子でこの「まとめ」を豊かにするでしょう。こうしてわたしたちは、沈黙と聞き取り、分かち合いと祈りの瞬間がいかに豊かであったかを証言することができるでしょう。また、異なる意見に耳を傾け、すぐに反論する誘惑に負けることなく、自分の発言を絶対的な確信としてではなく、他者への贈り物として提供することは容易ではないということも分かち合うことになるでしょう。しかし、主の恵みによって、わたしたちの限界にもかかわらず、そう成し遂げるように導かれ、これこそがわたしたちにとって真のシノダリティの体験となりました。実践することで、わたしたちはそれをよりよく理解し、その価値を把握することができました。
多様なカリスマ、召命、奉仕職の中で、洗礼を受けた人としてともに歩むことは、わたしたちの共同体にとってだけでなく、世界にとっても重要であることを、わたしたちは理解しました。実際、福音的な連帯はともし火のようなものであり、それは升の下に置かれるのではなく、家全体を照らすように燭台の上に置かれなければなりません(マタイ 5・15 参照)。世界は今日、かつてないほどこのあかしを必要としています。イエスの弟子であるわたしたちは、傷ついた人類に神の愛と優しさを示し、伝える任務から逃れることはできません。
この第 1 会期の作業は、『討議要綱(Instrumentum laboris)』が提示した「ロードマップ」に従って行われ、この要綱によって本総会は、シノドス的教会の特徴的なしるしと、それが含む交わり、宣教、参加のダイナミズムについて考察することができました。わたしたちは問題の是非を議論し、詳細な調査が必要なテーマを特定し、予備的な提案を進めることができました。このような経過を踏まえ、この「まとめ」報告書は、『討議要綱』の内容をすべて繰り返すのではなく、優先順位が高いと思われる問いやテーマについて新たな刺激を与えるものです。これは最終文書ではなく、まだ続けなければならない識別のためのツールです。

「まとめ」報告書は 3 部構成になっています。第 1 部は「シノドス的教会の顔」を概説し、シノダリティの実践と理解を示し、その神学的基盤を提示します。ここでシノダリティは何よりもまず、三一の神の観想から生まれ、教会における一致と多様性を明確にすることによって展開される霊的体験として提示されています。第 2 部は、「すべての弟子、すべての宣教者」と題され、教会の生活と宣教に関わるすべての人々とその互いの関係性を扱っています。第 2 部でシノダリティは、主に、神の民の共同の旅として、また、み国の到来に奉仕するカリスマと奉仕職の実りある対話として提示されます。第 3 部は「絆を紡ぎ、共同体を築く」と題されています。ここでシノダリティは、主に、諸教会間の交流や世界との対話を可能にする、一連のプロセスや諸組織のネットワークとして提示されます。
3 部構成の各章では、「意見の合致点」「検討課題」「対話から生まれた提案」をまとめています。
「意見の合致点」は、わたしたちが考察の拠り所とする定点を示すものであり、わたしたちが道を見失うことなく、進むべき方向を見定めるための地図のようなものです。「検討課題」は、神学的、司牧的、教会法的な研究を継続する必要があるとわたしたちが認識したポイントを集めたものです。一方、「提案」は、進むべき可能性のある道を示しています。提案されたものもあれば、推奨されたものもあれば、より強い決意をもって要請されたものもあります。
今後数カ月間、各国司教協議会と東方典礼カトリック教会の位階機構(hierarchical structures)は、各地方教会とシノドス事務局をつなぐ役割を果たし、考察の発展において重要な役割を果たすことになります。彼らは、到達した意見の合致点から出発して、もっとも関連性のある緊急の課題と提案に焦点を当て、それらを神学的・司牧的に深めるよう促し、それを教会法的に適用する仕方を指摘するよう求められています。
わたしたちがローマでの数日間の共同作業で経験した、互いの意見に耳を傾け、真摯に対話する風土が、神の国の良き種を育てるために、わたしたちの地域社会で、そして世界中で広がっていくという願いを、希望に支えられながら心に抱いています。

第 1 部 シノドス的教会の顔

1.シノダリティ:体験と理解

意見の合致点
a)わたしたちは、教会のシノドス的側面を、新たな意識をもって理解するようにという招き
を受けました。シノドスの実践は、新約聖書と初代教会において証明されており、その後、さ
まざまな諸教会や伝統の中で、特定の歴史的形態をとるようになりました。第二バチカン公会
議はこれらの実践を「刷新」し、さらに教皇フランシスコは、教会が再びそれを刷新するよう
勧めています。2021-24 年シノドスもこのプロセスの一部です。聖なる神の民は、神のことば
に根ざし、時には痛みを伴うこともあるものの、喜びの出会いの中で、沈黙し、祈り、聴き、
語るというシノドス的なあり方によって、わたしたちは皆、キリストのうちに兄弟姉妹である
と深く認識することを、このシノドスを通して発見しました。このプロセスから得られるかけ
がえのない実りは、信仰深い神の民としての自分たちのアイデンティティに対する意識が高め
られたことです。その中で、各自が洗礼に由来する尊厳の担い手となって、福音化という共通
の使命に対する、それぞれに異なる共同責任に招かれているのです。
b)今回の歩みは、神の家であり家族であって、より人々の生活に近く、より官僚的でなく、
より関係を大事にする教会に対する、わたしたちの体験と願いを新たにしました。このような
体験や願いにこそ、「シノドス的」「シノダリティ」という用語が関連付けられ、いま、さら
なる説明が必要な、一つの理解を提供しています。それは、2018 年、若者に関するシノドスの
際に、若者たちが最初に望むと宣言した教会です。
c)パウロ六世ホールでの総会の進め方は、円卓に小グループで座るなど、ある文化圏では聖書
の婚宴(黙示録 19・9)のイメージにたとえられていました。これは、シノドス的な教会のあ
り方とエウカリスチアのイメージを象徴していると理解されました。エウカリスチアこそが、
神のことばを中心に置く、シノダリティの源泉であり頂点なのです。シノドス的に生きている
教会では、異なる文化、言語、典礼、考え方、現実が、霊の導きを真摯に求める中で、ともに
実りある関わりをもつことができるのです。
d)わたしたちの中には、戦争、殉教、迫害、飢餓の犠牲となっている諸民族からやって来た
姉妹や兄弟がいました。多くの場合、シノドスの歩みに参加することができなかったこれらの
人々の窮状は、しかしながら、わたしたちの話し合いと祈りの輪に入り、彼らとの交わりの感
覚と平和を創り出す者としての決意を深めました。
e)総会では、このシノドスの歩みの間、霊が教会に注いだ多くのたまものの中で、希望、い
やし、和解、信頼回復について頻繁に語られました。教会で虐待を受け、傷ついてきた人々を
含め、すべての人に耳を傾け、寄り添う、開かれた姿勢によって、長い間、人の目から見えな
い存在と感じてきた多くの人々は、目に見える存在となりました。このような虐待を助長した
構造的な状況への対処を含め、和解と正義に向けた長い道のりはまだわたしたちの目の前に残
り、具体的な悔い改めの姿勢が必要です。
f)「シノダリティ」ということばが神の民の多くにとって馴染みのないものであり、それが一
部の人々に混乱と不安を引き起こしていることは分かっています。語られた不安の中には、教
会の教えが変更され、先祖たちの使徒的信仰から遠ざかり、現代において神に飢え渇く人々の
期待を裏切ることになるのではないかという危惧もあります。しかし、わたしたちは、シノダ
リティは生きた、活力に満ちた聖伝の表現であると確信しています。
g)教皇フランシスコは、議会制民主主義の価値を過小評価することなく、一部の人々が、シ
ノドスは教会的・霊的性格を欠いた多数決の審議機関になり、教会の位階的な本性を危うくす
るのではないか、と懸念を表していることに応えています。変化を強いられることを恐れる人
もいれば、何も変わらないことを恐れる人、また生きた聖伝のペースで進む勇気があまりに少
ないことを恐れる人もいることは明らかです。また、戸惑いや反対には、権力やそれに伴う特
権を失うことへの恐れも往々にして隠れているものです。しかしながら、あらゆる文化的文脈
において、「シノドス的」や「シノダリティ」ということばは、交わり、宣教、参加を統合す
る教会のあり方を語っています。その一例が、アマゾン教会協議会(CEAMA)であり、これは
同地域における宣教するシノドスの歩みの成果なのです。
h)もっとも広義において、シノダリティは、キリスト者がキリストとの交わりのうちに、人
類全体とともにみ国に向かって歩むこと、と理解できます。その方向性は宣教に向けられてお
り、その実践には、教会生活のさまざまなレベルで集いに集まることが含まれます。互いに耳
を傾け、対話し、共同識別し、聖霊のうちに現存するキリストの表現として意見の一致を生み
出し、各自の責任にしたがって決定を下すことが含まれているのです。
i)体験と出会いを通して、わたしたちはこの気づきのうちにともに成長してきました。要約す
ると、最初の数日間から、総会は二つの確信によって形作られていました。一つ目は、わたし
たちがこの数年間に分かち合ってきた体験は真にキリスト教的なものであり、その豊かさと深
さのすべてを受け取るべきであるということ。二つ目は、「シノドス的」「シノダリティ」と
いう用語は、異なる文化において、その意味のレベルをより正確に明確化する必要があるとい
うことです。必要な説明をした上で、シノダリティは教会の未来を表している、という実質的
な合意が生まれました。

検討課題
j)すでに実施された検討作業を土台として、司牧的、神学的、教会法的といったさまざまなレ
ベルで、シノダリティの意味を明確にすることが必要です。これは、その概念が漠然としすぎ
たり、一般的に聞こえたり、一時的な流行として現れたりする危険を避けるのを助けるためで
す。それによってわたしたちは、神学的な深まりや解説を伴って、「ともに歩む」ことに関
し、幅広い理解を提供することができます。同様に、シノダリティと交わりとの関係、シノダ
リティと団体性との関係も明確にする必要があります。
k)今回進行中のシノドスの歩みも含め、東方典礼教会の伝統とラテン典礼の聖伝の間で、シ
ノダリティの実践と理解の違いについて、両者の出会いを促進することでその理解と認識を深
めたい、という願いが生まれました。
l)とりわけ、人々が共同体としてともに歩むことに慣れていて、また個人主義が根付いていな
い文化的背景の中で、シノドス的な生活のさまざまな表現が、より深い考察のために検討され
るべきです。このように、シノドス的な実践は、人々を自らに向かわせる個人主義、分裂させ
るポピュリズム、均質化し平坦化するグローバル化に対する教会の預言者的な応答として重要
な役割を果たしています。それはこれらの問題を解決するものではないものの、複数の視点を
統合しながら、現代において、その代替となるあり方、行動の仕方を提供するものです。これ
は希望に満ちた代替案であり、さらなる探求と照らしが必要です。

提案
m)シノドスの歩みの豊かさと深さは、参加を拡大していく価値があることを示しており、こ
れまでに現れた参加をはばむ障害を克服します。
n)来年のシノドスの歩みにおいて、聖職者(助祭、司祭、司教)がより積極的に参加する方
法を見つける必要があります。シノドス的教会は、彼らの声、体験、貢献なしではいられませ
ん。彼らのうちで、シノドスの歩みに抵抗を感じている人がいることの理由を、よく理解する
必要があります。
o)シノドスの文化は、デジタルの手段を使うことも含め、若者たちが自分自身、家族や仲
間、聖職者たちと自由に語り合える場もつことで、より世代を超えたものとする必要がありま
す。
p)総会第 2 会期に先立って、第二バチカン公会議以降の研究の豊かな遺産、とくに教皇庁国
際神学委員会『教会の生活と宣教におけるシノダリティ』(2018 年)と『教会生活における信
仰の感覚』(2014 年)の文書を活用しながら、シノダリティの概念と実践に関する用語的・概
念的理解を神学的に深めることを、本総会は提案します。
q)シノダリティの教会法的な意味合いについても、同様に明確化する必要があります。これ
らの点についても、神学と教会法の専門家による大陸間特別委員会を、総会第 2 会期前に設置
することを提案します。
r)最後に、この時点で、『カトリック新教会法典』と『東方典礼教会法典』の広範な改訂が求められています。したがって、予備的な研究が推奨されます。

2.三位の神によって集められ、遣わされる

意見の合致点
a)第二バチカン公会議の教えによれば、教会は「父と子と聖霊の一致に基づいて一つに集め
られた民」(『教会憲章』4 項)です。おん父は、おん子の使命と霊のたまものを通して、わ
たしたちを交わりと宣教のダイナミズムに巻き込み、「わたし」から「わたしたち」へと移行
させ、世界に奉仕するものとしてくださいます。シノダリティは、神が人類と出会いに来る三
位の神のダイナミズムを、霊的態度や教会の歩みへと置き換えます。こうするためには、洗礼
を受けたすべての人が、それぞれの召命、カリスマ、奉仕職を相互に実行するよう取り組まね
ばなりません。そうすることによってのみ、教会は真の意味で、教会自身の中で、そして世界
との「対話」(『エクレシアム・スアム』67 項参照)となることができ、イエスが行ったよう
に、すべての人と肩を並べて歩むことができるのです。
b)原初より、教会のシノドスの旅はみ国を目指すものであり、そのみ国は、神がすべてにお
いてすべてとなられるときに完全に達成されるものです。教会が示す友愛のあかしと、もっと
も小さくされた人へ奉仕する宣教への献身は、それらがしるしであり道具である「神秘」に勝
るものでは決してないのです。教会は自らを、福音を告げ知らせる中心に据えるためにシノド
ス的な構成を考えるのではなく、たとえその成り立ちの不完全さがあっても、み国の到来への
奉仕を最善の形で果たすために、シノドス的な構成を検討するのです。
c)キリスト教共同体の刷新は、神の恵みが第一義だと認識することによってのみ可能となります。もし霊的な深みが欠けているならば、シノダリティは表面的な刷新にとどまります。しかし、わたしたちに求められているのは、他の場所で得た霊的体験を共同体の歩みへと置き換えることだけでなく、より重要なのは、いかに相互的な関係性が神との真の出会いの場であり形であるかを体験することです。この意味において、シノドスの展望は、聖伝の豊かな霊的遺産を利用しつつ、その形、つまり、参加に開かれた祈りの形、ともに行われる識別の形、分かち合いから生まれ奉仕として放射される宣教の情熱の形を刷新するのに貢献します。
d)「霊における会話」は、その限界はあるにせよ、真に耳を傾けることを可能にし、霊が教
会に何を語りかけているのかを識別する上で実り豊かなツールです。それを実践することで、
喜び、驚き、感謝が呼び起こされ、個人、グループ、そして教会を変革する刷新の道として体
験されました。「対話」ということばは、単なるおしゃべり以上のものを表現していて、つま
り、思考と感情を織り交ぜ、共有された、極めて重要な空間を生み出しているのです。だから
こそ、対話の中で回心が働いていると言えるのです。それは、異なる諸民族や文化に見られる
人類学的現実であり、彼らは連帯して集まり、共同体にとって重要な問題に対処し、決断する
のです。恵みによって、この人間的体験は成就します。「霊において」対話するということ
は、まぎれもない聖霊の声が聞こえるような、真に福音的な雰囲気の中で、信仰の光に照らさ
れて分かち合い、神のみ旨を探し求める体験を生きることなのです。

e)シノダリティは宣教を命じられているので、キリスト教共同体は、他の諸宗教、信条、他
文化の人々と連帯すべきであり、そうすることで、一方では、自己投影したり自己防衛しよう
とするリスクを避け、他方、アイデンティティを失うリスクを避けるのです。福音の告知、貧
しい人への奉仕、共通の家へのケア、そして神学研究を特徴づけるのは、相互の学び合いやと
もに旅する中で表現される、対話の論理でなければなりません。

検討課題

f)おん父のみ旨に真に耳を傾けるためには、神学的観点から教会の識別の基準を深めることが
必要だと思われます。それにより、霊の自由と新しさへ言及することで、イエス・キリストは
「ただ一度」(ヘブライ 10・10)だけ来るという事実と適切に結びつくようになるのです。そ
のためにはまず、聖書にあかしされている神のことばに耳を傾けること、聖伝と教会の教導権
を受け入れること、そして預言者として時のしるしを読み取ることの関係性を明確にする必要
があります。
g)この目的のためには、信仰体験の知的次元と情緒的次元を単に並列させるのではなく、統
合することができる人類学的・霊的ビジョンを推進し、あらゆる種類の還元主義や理性と感情
の二元論を克服することが重要です。
h)これまで用いられてきた「見て、判断して、行動する」という方法や、「認識し、解釈
し、選択する」というステップのような、教会の識別の他のモデルと並んで、「霊における会
話」が神学的思考や人間科学・社会科学の貢献をどのように統合できるかを明らかにすること
が重要です。
i)「レクチオ・ディビナ」や、古今東西のさまざまな霊的伝統が識別の実践に提供しうる貢献
を発展させるべきです。実際、聖霊が何世紀にもわたって示唆し、教会の霊的遺産の一部であ
る、複数の形式や様式、方法や基準を大切にすることは適切なことです。

提案

j)教会は、それぞれの文脈のニーズや文化に関連する多様な霊的伝統から適切と思われる方法
で、「霊における会話」や他の形の識別を試み、適応させることを提案します。適切な形で同
伴することは、この実践を促進し、その論理を理解し、起こりうる抵抗を克服する助けとなる
でしょう。
k)各地方教会は、教会の識別プロセスを促進し、同伴するためにふさわしい、訓練された人
材を確保するよう勧められます。
l)教会生活を照らすために、識別の実践は、司牧領域で、文脈に適した方法で、有益な形で実
施することができます。そうすることで、共同体に存在するカリスマをより明確に認識し、
任務や奉仕職を賢明にゆだねることができるようになります。単なる活動計画を超えて、わた
したちは霊に照らされた司牧の道を計画することができるようになるのです。

3.信仰共同体への参入:キリスト教入信

意見の合致点

a)キリスト教入信とは、主が、教会の奉仕職を通して、わたしたちを復活の信仰へと導き、
三位の神と教会の交わりへと引き入れられる旅です。この旅は、それがとり行われる時代や、
東方教会と西方教会の伝統に特徴的な強調点の違いによって、実に多様な形をとっています。
しかし、みことばに耳を傾けること、生活上の回心、典礼の祝い、共同体とその使命への参加
は、つねにつながりをもっています。まさにこの理由から、洗礼準備の旅は、その段階と通過
点の漸進性をもって、すべての教会にとって、ともに歩む体験のパラダイムとなるのです。
b)入信すると、実にさまざまな召命や教会の奉仕職に接することになります。そこには、子
どもたちとともに歩むことで、歩むことを教える、母としての教会の顔が表れています。教会
は子どもたちの声に耳を傾け、疑問や質問に答えながら、一人ひとりの歴史、言語、文化がも
たらす新しさによって豊かにされるのです。こうした司牧活動の中で、キリスト教共同体は、
多くの場合、自分では気づかぬまま、初めてシノダリティと遭遇するのです。
c)カリスマや奉仕職の区別に先んじて、「一つの霊によって、わたしたちは、……皆一つのか
らだとなるために洗礼を受け」(一コリント 12・13)ました。したがって、洗礼を受けたすべ
ての人の間には、真の平等な尊厳があり、それぞれの召命に従って、宣教に対する共通の責任
があります。「万事について教え」(一ヨハネ 2・27)てくださる霊によって油注がれること
で、すべての信者は福音の真理に対する直感、「信仰の感覚(sensus fidei)」をもちます。こ
れは、神の実在とのある種の親和性と、信仰の真理に適合するものを直感的に把握する能力か
らなるものです。シノドスの歩みはこのたまものを高め、「信徒たちの同意(consensus
fidelium)」の存在を確認できるようにします。この歩みは、特定の教義や実践が使徒的信仰に属するかどうかを判断する確かな基準を提供するのです。
d)堅信の秘跡を通して、聖霊降臨の恵みは教会にとどまります。それは、霊のたまものの豊
かさで信徒を豊かにします。宣教の奉仕の中で、共通の洗礼の尊厳に根ざし、各自の特別な召
命を育てていくよう呼びかけています。その重要性はより強調されるべきで、教会のシノドス
的な顔を形づくる、さまざまなカリスマや奉仕職と関連して位置づけられる必要があります。
e)とりわけ主日に祝われるエウカリスチアは、聖なる神の民が集い、出会う最初の、基本的
となる形です。それが不可能な場合、共同体はエウカリスチアを望みつつも、「みことばの祭
儀」を祝うために集います。エウカリスチアにおいてわたしたちは、与えられた恵みの神秘を
祝います。主は、わたしたちをご自身のからだと血にあずかるようにと招くことによって、わ
たしたち同士と、また主とともに、一つのからだとなるのです。パウロが「コイノニア
(koinonia)」(一コリント 10・16−17 参照)ということばを使ったことに始まり、キリスト
教の伝統は、エウカリスチアへの十全な参加と同時に、信者同士、教会同士の関係性の本性の
両方を表すために、「交わり」ということばを大切にしてきました。それはわたしたちを、神
のいのちの観想へ、三位の神の神秘がもつ底知れぬ深みへと開いてくれますが、このことばは
また、わたしたちの人間関係の「日常性」を指してもいます。つまり、わたしたちが互いに自
らを開くもっとも単純な姿勢の中に、聖霊の息吹が純粋に息づいているのです。だからこそ、
エウカリスチアから湧き出て、その中で祝われる交わりは、シノダリティの道を構成し、方向
づけるのです。
f)エウカリスチアからわたしたちは、一致と多様性を明確に表現することを学びます。つま
り、教会の一致とキリスト教共同体の多様性、秘跡の神秘の一致と典礼の伝統の多様性、祭儀
の一致と召命、カリスマ、奉仕職の多様性などです。エウカリスチアほど、霊によって生み出
される調和が画一的なものではないこと、そして、教会のたまものの一つひとつが共通の教化
のために意図されたものであることを表すものはありません。

検討課題

g)洗礼の秘跡は、キリスト教入信から切り離され、その論理の外で理解することはできず、
個人主義的に理解することも不可能です。それゆえ、キリスト教入信についてのより一体化さ
れた視点からもたらされるシノダリティの理解へもたらす貢献について、さらに研究すること
が必要です。
h)「信仰の感覚」を成熟した形で実践するには、洗礼を受けるだけでなく、洗礼の恵みを育
てる、真に弟子として生きる生活が必要です。それによってわたしたちは、単なる支配的な思
潮や文化的に条件付けられたもの、あるいは福音と矛盾するものから、霊の働きを区別するこ
とができるようになります。「信仰の感覚」の行使を理解することで、適切な神学的考察を深
めることになります。
i)シノダリティについて考察することで、堅信の理解について新たな洞察を得ることができま
す。堅信によって霊の恵みが、聖霊降臨の調和の中で多様なたまものとカリスマを明確にしま
す。さまざまな教会体験に照らして、この秘跡の準備と典礼をより実りあるものにする方法を
研究し、すべての信徒が共同体形成、世界における宣教、信仰のあかしへの呼びかけを再び呼
び起こすようにすべきです。
j)司牧神学の視点から、いかに洗礼準備のやり方が、結婚準備、職業選択・社会的責任の選択
への同伴、教会共同体全体が関与しなければならない聖職者の養成といった、他の司牧の道筋
にも刺激を与えることができるかについて、研究を続けることが重要です。

提案

k)もし、エウカリスチアがシノダリティを形づくるのであれば、まず最初にすべきは、キリ
ストのうちに真の友情を感じながら、そのたまものにふさわしい仕方でミサを祝うことです。
真の意味で祝われる典礼は、弟子としての最初の、そして基本的な学校です。その素晴らしさ
と単純さは、他の準備されたどのような養成プログラムよりも優れて、わたしたちを育てるは
ずです。
l)第 2 ステップは、多くの人が指摘しているように、典礼言語を信徒にとってより親しみやす
くし、文化の多様性の中でより具体化する必要性についてです。伝統との継続性やより良い典
礼の養成の必要性を疑問視することなく、より深く考察することが必要です。この点に関し
て、各国司教協議会には、自発教令『マグニュム・プリンチピウム』(2017 年)に従って、よ
り広範な責任がゆだねられるべきです。
m)第 3 ステップは、ミサに限らず、あらゆる形の共同体の祈りを高めるという司牧的責任に
あります。典礼の祈りの他の表現、また、その地方の文化が反映された民間信心の実践は、す
べての信徒の参加を促す重要な要素です。それは信者を徐々にキリスト教の神秘に導き、教会
にあまり親しみのない人々を主との出会いに近づけます。各種の民間信心の中で、マリア信心
は多くの人の信仰を支え、養う能力がある点で、とくに際立っています。
4.教会の旅の主人公である貧しい人々

意見の合致点

a)貧しい人々は教会に愛を求めます。愛とは、尊敬、受容、承認を意味し、それらなしで、
食べ物、お金、社会的サービスを提供することは、確かに重要な援助の一形態ではあるもの
の、その人間の尊厳を十分に考慮していません。各自が、他者による福祉活動の対象となるの
ではなく、自ら成長の手段を決定できるようにする必要があります。評価と尊敬を受けること
は、それを可能にする強力な方法です。
b)貧しい人の優先的選択は、キリスト論的信仰に内在するものです。つまり、貧しく謙遜で
あったイエスは、貧しい人の友となり、貧しい人と食卓をともにし、貧困の原因を糾弾しまし
た。教会にとって、貧しい人や周縁部の人の優先的選択は、文化的、社会学的、政治的、哲学
的なものである以前に、神学領域です。聖ヨハネ・パウロ二世教皇にとって、神はまず彼らに
いつくしみを与える存在です。この神の選好はすべてのキリスト者の生活に影響を及ぼすもの
で、彼らは、「キリスト・イエスにもみられるもの」(フィリピ 2・5)を養うよう招かれてい
ます。
c)貧困の種類は一つだけではありません。貧困状態にある人々の中には、尊厳ある生活を送るための品々をもたない人がいます。移住者や難民、先住民族やアフリカ系の諸民族、暴力や虐待に苦しむ人、中でも女性たち、依存症に苦しむ人、組織的に声を奪われているマイノリテ
ィ、見捨てられた高齢者、人種差別、搾取、人身取引の被害者、とくに未成年者、搾取される
労働者、経済的に排除された人々、その他周縁部に生きる人々がいます。社会的弱者の中でも
っとも弱い立場に置かれていて、つねにその代わりに訴えていく必要がある人の中には、生ま
れなかった胎児とその母親が含まれます。本総会は、いくつかの大陸の多くの国々を苦しめて
いる戦争とテロリズムによって生み出された「新たな貧困層」の叫びを聞き、こうした争いの
原因となっている腐敗した政治と経済システムを糾弾します。

d)物質的な貧しさだけでなく、わたしたちの世界ではまた、多くの人が、生きる意味の喪失
として理解される、霊的貧しさを体験しています。自分自身への過度な不安によって、他者を
脅威とみなし、さらに自己に内向して、ある種の個人主義を表しています。霊的に貧しい人と
物質的に貧しい人が出会えば、互いのニーズに対する答えを見つけること向けた旅を始めま
す。これは、シノドス的教会の視点を具体化する、ともに歩む方法で、「心の貧しい人々は、
幸いである」(マタイ 5・3)という、福音書の真福八端の十全な意義を明らかにします。
e)貧しい人の側に立つためには、わたしたちの共通の家をケアする中で、彼らとともに取り
組むことが必要です。つまり、地球の叫びと貧しい人の叫びは同じ叫びなのです。この叫びに
対する反応がないために、生態系の危機、とりわけ気候変動は、人類の生存を脅かすものとな
っています。シノドス総会の開会に合わせて教皇フランシスコが発表した使徒的勧告『ラウダ
ーテ・デウム』は、このことを強調しています。気候変動の影響にもっともさらされている
国々の教会は、方向転換の緊急性を強く認識しており、このことは、地球上のさまざまな地域
にある他の地方教会の旅への貢献となります。
f)教会の取り組みは、貧困と排除の原因に迫らなければなりません。これには、排除された
人々の権利を守るための行動も含まれ、さらにこのことは、社会構造によって犯されたもので
あれ、個人、企業、政府によって犯されたものであれ、その不正義を公に糾弾することが必要
な場合もあります。貧しい人の声を聞くのに不可欠なのは、彼らの要求や視点に耳を傾け、彼
ら自身のことばを使うことです。
g)キリスト者には、教会の社会教説からインスピレーションを受け、さまざまな形で――市
民団体、労働組合、市民運動、草の根組織を通して、政治領域においてなど――活動しなが
ら、共通善を構築し、いのちの尊厳の守ることに積極的に参加するよう専心する義務がありま
す。教会は、彼らの活動に対して深く感謝しています。共同体は、真の愛と奉仕の精神をもっ
てこれらの分野で活動する人々を支援する義務があります。彼らの活動は、福音を告げ知ら
せ、神の国の到来をもたらす、教会の宣教の一部です。
h)キリスト教共同体は、キリストのみ顔と肉とに出会います。キリストは富んでいたのに、
わたしたちのために貧しくなり、わたしたちは、キリストの貧しさを通して豊かにされるので
す(二コリント 8・9 参照)。彼らと近しくなるだけでなく、彼らから学ぶよう求められてい
る。もしシノドス的になることが、道である方とともに歩むことであるならば、シノドス的教
会は、貧しさを体験している人を、その生活のあらゆる側面の中心に置く必要があります。つ
まり、彼らの苦しみを通して、苦しむキリストを直接知ることになるのです(『福音の喜び』
198 項参照)。彼らの生活が主のそれと似ていることにより、貧しい人々は、たまものとして
受けた救いの前触れ、福音の喜びの証人となるのです。

検討課題

i)世界のある地域では、教会は貧しく、貧しい人とともに、貧しい人のために存在します。貧
しい生活をしている人を、教会の慈善の「対象」として、「彼ら」と「わたしたち」と見てし
まうリスクがつねにあり、注意深く避けなければなりません。貧しさを体験している人々を中
心に置き、彼らから学ぶことは、教会がもっともっと実行しなければならないことです。
j)一方で、不正義な状況に対して預言者的に糾弾し、他方、交渉術に頼る必要があるものの、
政策決定者が共通善のために行動するよう説得する努力をすることは、明確な焦点と実りの豊
かさを失わないように、力強い緊張を維持しなければなりません。とくに、教会組織が公的、
また私的資金を使用することにより、福音が求める事柄のために発言する自由を制約すること
のないよう、注意しなければなりません。
k)教育、医療、社会福祉の分野で、だれ一人差別も排除もされることなくサービスを提供す
ることは、教会内と社会においてもっとも弱い立場の人々の融合と参加を促進する教会の明ら
かなしるしとなります。この分野で活動する団体は、自らをキリスト教共同体の表現であると
考え、慈善活動が人間味のないものにならないことが勧められています。彼らはまた、ネット
ワーク化し、互いに協調するよう求められています。
l)教会は、その関連組織で働く人々の正義の要求にどのように応えているかを誠実に検証し、
一貫性と誠実さをもって行動するようにしなければなりません。
m)シノドス的教会では、異なる地域の地方教会間でたまものを交換し、資源を分かち合うと
いう形でも、連帯感を表しています。これらの関係性は、関連するキリスト教共同体間の絆を
生み出すことで、教会の一致を促進しています。司祭不足の教会を助けるためにやってくる司
祭が、単に役割を解決するためだけに派遣されるのではなく、派遣元の教会と派遣先の教会双
方の成長の資源となるように、必要な条件を確保することに焦点を当てる必要があります。同
様に、わたしたちは、経済的援助が単なる福祉の提供に陥ることなく、真の福音的連帯を促進
し、透明性と信頼性をもって運営されることが必要です。

提案

n)教会の社会教説はあまりに知られていない資源であり、これに言及する必要があります。
各地方教会は、その内容をよりよく知らしめるだけでなく、そのひらめきを実行に移す実践を
通して、その受容を促進するよう求められています。
o)貧困に生きる人や周縁部の人と出会い、生活を分かち合い、彼らに奉仕する体験を、キリ
スト教共同体が提供するすべての養成コースの必須の部分とすべきです。つまり、それは信仰
にとって必要条件であり、選択可能な追加事項ではないのです。これはとくに叙階される奉仕
職と奉献生活の候補者に当てはまることです。
p)助祭の奉仕職を再考する一環として、教会は、貧しい人への奉仕をより強く志向するよう
推奨すべきです。
q)教会の教え、典礼、実践は、総合的なエコロジーの聖書的・神学的基盤を、より明示的
に、注意深く統合していかなければなりません。

5.「あらゆる種族、ことば、民族、国民」からなる教会

意見の合致点

a)キリスト者は特定の文化の中で生き、みことばと秘跡によってキリストを自らのうちに取
り込み、謙遜と喜びをもって愛の奉仕に従事し、あらゆる場所と時代の中ですでにわたしたち
を待ち受けているキリストの神秘を受け取ります。このようにしてわたしたちは、「あらゆる
種族とことばの違う民、あらゆる民族と国民」(黙示録 5・9)から集まった人々を迎え入れ
て、一つの教会となるのです。
b)教会が現存する文化的、歴史的、大陸的背景は、霊的、物質的に異なるニーズを表しま
す。このことは、各地方教会の文化、宣教の優先事項、各教会がシノドス的対話に持ち寄る関
心事やたまもの、そして彼ら自身を表現する言語を形づくっています。本総会の日々の間、わ
たしたちは教会であることの多様な表現を直接、そして多くの場合、喜びをもって体験するこ
とができました。
c)教会は、ますます多文化的、多宗教的な状況を生きています。そこでは、社会を構成する多
くの集団とともに、キリスト者が関わるべき諸宗教と文化の間の対話を生み出す方法を見つけ
ることが必要となっています。このような状況の中で教会の使命を生きるためには、存在し、
奉仕し、告げ知らせるというスタイルが必要です。それによって、橋を架け、相互理解を培
い、同伴し、耳を傾け、学ぶ福音化に携わろうと模索するのです。本総会中、他者との出会い
に向けて敷居をまたぐため、「靴を脱ぐ」というイメージが、対等な立場で、神聖な空間に対
する尊重と謙虚を表すしるしとして響きました。
d)移住によって各地方教会は、異文化共同体として再構築されます。難民や移住者は、その
多くがルーツを奪われた傷や、戦争や暴力の傷を負っていますが、彼らを受け入れる共同体に
とっては、刷新され豊かにされるための源泉となり、地理的に離れた教会と直接つながる機会
となることが多くあります。移住者に対する敵対的な態度がますます強まる中、わたしたち
は、手を広げた歓迎を実践し、新たな生活を築くのに同伴し、諸民族間の真の異文化交流を立
ち上げるよう求められています。移住者がもつ典礼の伝統や宗教実践を尊重することは、真に
歓迎することの不可欠な要素です。
e)宣教者たちは、全世界に福音を告げ知らせるために人生を捧げています。彼らの専心は福
音の力を雄弁に物語っています。しかしながら、「宣教」ということばが痛ましい歴史的記憶
を伴い、今日の交わりを妨げる文脈においては、特別な注意と感受性が必要となります。福音
の告知が植民地化、さらには大量虐殺へと結びついてきた地域もあるのです。このような状況
で福音宣教を行うには、犯した過ちを認め、これらの課題に対して新たな感受性を学び、植民
地主義を超えたキリスト教アイデンティティを確立しようとする世代に同伴する必要がありま
す。尊敬と謙遜は、わたしたちが互いに補い合い、異文化との出会いがキリスト教共同体の信
仰生活と思考を豊かにすることを認識するために必要な、基本的態度です。
16
f)教会は、すべての諸民族間の交わりを築く一環として、諸宗教対話の必要性を説き、その実
践を勧めています。暴力と分断の世界にあって、社会正義、平和、和解、共通の家のケアに向
けた、協調的な相互連帯のうちに、人類の一致、その共通の起源と共通の運命をあかしするこ
とは、かつてないほど急務となっています。あらゆる宗教、信条、文化の男女を通して、霊は
語りかけることができることを、教会は理解しています。

検討課題

g)教会であることの多様な表現の豊かさについて、わたしたちはより深い感受性を養うこと
が必要です。このためには、教会全体の次元とその地域性との間、また、教会の一致の絆の尊
重と多様性を窒息させる均質化の危険性との間の、動的バランスの探求が必要です。意義と優
先事項は異なる文脈の間で変化するものであり、そのためには、分権化の形を特定し、促進す
ることが必要です。
h)教会はまた、典礼生活や、道徳的・社会的・神学的考察といった重要な分野における分極
化や不信の影響を受けています。わたしたちは対話を通してその原因を理解し、それを克服す
るために、交わりと和解を活性化させる、大胆な歩みを進めなければなりません。
i)各地方教会において、福音化に関する理解の仕方の違いによって緊張が生じることがありま
す。つまり、生活のあかしの強調、人間の成長への取り組み、さまざまな信仰や文化との対
話、明示的な福音の告知などです。同様に、明示的にイエス・キリストを告げ知らせること
と、すでに蒔かれている「みことばの種(semina Verbi)」(訳注:『教会の宣教活動に関する教令』11 項)を探し求める中で各文化の特質を大切にすることとの間にも緊張が生じます。
j)福音のメッセージと、福音化を担った人々の文化との間に起こりうる混同が、研究すべき課
題の一つとして言及されました。
k)ますます強力になる武器の取引と使用によって紛争が増大しており、非暴力的な方法で紛
争に対処できるようにするために、より多くの考察と養成が必要であるという問いが、いくつ
かのグループの中で提起されています。これは、他の諸宗教との対話と協力の中で、キリスト
者が今日の世界に対してなしうる貴重な貢献です。

提案

l)多様で広範な文脈の中で、美しく、かつ親しみやすい方法で人々の思いや心情に語りかける
ために、わたしたちが使用する言語の問題に、あらためて注意を払う必要があります。
m)分権化の実験を運営・評価し、関係するすべての行為者とその役割を特定するための共通
の枠組みが必要です。一貫性を保つために、分権化に関する検討プロセスは、さまざまなレベ
ルで関係するすべての行為者の同意と貢献を想定し、シノドス的な形態で行われなければなり
ません。
n)先住民族司牧の取り組みには、彼らに対する、また彼らのために行われる活動ではなく、
共通の旅という形をとる新しい枠組みが必要です。あらゆるレベルの意思決定プロセスへ彼ら
が参加することで、より活力に満ちた、宣教する教会のために貢献できるのです。
o)本総会の作業から、第二バチカン公会議の教え、公会議後の教え、教会の社会教説につい
てよりよく学ぶことが求められています。わたしたちはより明確に、交わり、奉仕、対話にお
いて実効性のある「諸教会が集まる一つの教会」となるために、さまざまな伝統についてより
深く知ることが必要です。
p)移住者や難民の数が増加する一方で、彼らを受け入れる意欲は減少し、外国人に対する疑
いの目が強まる世界において、教会が、人種差別や外国人嫌悪と闘いながら、対話と出会いの
文化の中で、とりわけ司牧的養成を通して、断固として教育に取り組むことは適切なことで
す。移住者が社会に融合していくためのプロジェクトに取り組むことも同様に必要です。
q)人種に関わる正義に関して、対話と識別に新たに取り組むことを推奨します。人種に関わ
る不正義を生み出し、あるいは維持する教会内の仕組みを特定し、それに取り組まなければな
りません。人種差別の罪を根絶するため、いやしと和解のプロセスは、傷ついた人々の助けを
借りて始められるべきです。

6.東方典礼教会とラテン典礼教会の伝統

意見の合致点

a)東方典礼諸教会の中で、ペトロの後継者(教皇)と完全な交わりを結んでいる諸教会は、
典礼上、神学上、教会論上、教会法上の独自性を享受しており、それは教会全体を大いに豊か
にしています。とりわけ、多様性の中の一致という彼らの経験は、シノダリティの理解と実践
に貴重な貢献を提供することができます。
b) 歴史の中で、これらの教会に与えられた自治のレベルはさまざまな段階を経てきており、
ラテン典礼化(Latinization)のような、今では時代遅れとみなされる慣習や手続きもありまし
た。この数十年、これらの諸教会の固有性、独自性、自律性を認識する道はかなり発展してき
ました。
c)ラテン典礼が多数派の地域へ、東方典礼カトリック教会からの信者の大規模に移住することは、司牧上の重要な問題を提起しています。もし現在の流れが続き、あるいは増加すれば、東方典礼カトリック教会の信者は、教会法上の領域(canonical territories)内よりもディアスポラになる人のほうが多くなるかもしれません。いくつかの理由から、移住先国に東方典礼の位階制を設立することは、この問題に取り組むには十分でないのですが、ラテン典礼の地方教会が、シノダリティの名のもとに、移住してきた東方典礼の信者が同化の過程を経ずに、自らのアイデンティティを保ち、固有の遺産を育てられるように援助する必要があります。

検討課題

d)東方典礼カトリック教会の経験が、シノダリティの理解と実践に提供できる貢献につい
て、さらに研究することを提案します。
e)「自治権を有する(sui iuris)」諸教会のシノドスによって選出された司教に対して教皇が
同意するという役割や、教皇による、「教会法上の領域(canonical territory)」外の司教任命
については、いくつかの難題が残っています。総大司教の裁治権を「総大司教領(Patriarchal
territories)」の外まで拡大するという要請も、聖座との対話と識別の課題です。
f)さまざまなカトリック諸教会の信者がいる地域では、効果的な多様性の中の一致を、目に見
えるようにする手本を見出す必要があります。
g)東方典礼カトリック教会が全キリスト者の一致と、諸宗教対話・文化間対話の中での役割
に貢献できることについて検討する必要があります。

提案

h)まず、東方典礼カトリック教会の総大司教と主要大司教(Major Archbishops)による常設評議会の設立の要請が教皇に提出されました。
i)東方典礼カトリック教会、そのアイデンティティと使命について、また戦争と大規模移住の
状況における司牧的・教会法的課題に特化した特別シノドスを求める声もありました。
j)東方典礼とラテン典礼の神学者、歴史学者、教会法学者からなる合同委員会を設立し、さら
なる研究が必要な問題を研究し、この旅を続けるための提案を行う必要があります。
k)教皇庁の各省庁に、東方典礼カトリック教会のメンバーからの適切な代表者を置き、彼ら
の視点からの貢献によって教会全体を豊かにし、彼らが提起する問題に対処するのを助け、さ
まざまなレベルでの対話に彼らが参加できるようにすることが必要です。
l)東方典礼教会の信者の遺産を尊重する、受け入れの形態を促進するために、ディアスポラに
ある東方典礼の聖職者とラテン典礼の聖職者の関係性を強化し、それぞれの伝統についての相
互の知識と認識を促進する必要があります。

 

7.キリスト教一致への途上で

意見の合致点

a)シノドス総会の今回の会期は、深いエキュメニズムの姿勢のもとに幕を開けました。「と
もに」祈る前晩の祈りには、教皇フランシスコと並んで、他のキリスト教共同体の数多くの指
導者や代表者が出席し、これは、信仰の一致とたまものの交換の精神のうちに、ともに歩もう
という意志の明確なしるしとなりました。この非常に重要な出来事によってまた、わたしたち
はエキュメニカルなカイロス(時)の中にいることを認識し、わたしたちを結びつけるものは
分かつものよりも大きな存在であることを再確認することができました。というのも、「主は
一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの
上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられる」(エフェソ 4・5−6)からです。
b)シノダリティの原理の根底にある洗礼はまた、エキュメニズムの基礎でもあります。洗礼
を通して、すべてのキリスト者は「信仰の感覚」に参与し、だからこそ、シノドス総会がその
識別のプロセスで行ったように、彼らは自分の伝統にかかわりなく、注意深く耳を傾けられる
べきです。エキュメニズムの次元なしに、シノダリティはありえません。
c)エキュメニズムは何よりもまず、霊的刷新の問題であり、悔い改めと記憶のいやしのプロセ
スを必要とします。本総会では、友情、祈り、そして何よりも貧しい人への奉仕の取り組みを
分かち合う、さまざまな教会の伝統をもつキリスト者たちの証言を聞き、心を動かされまし
た。もっとも持たざる人に専心することで絆は強められ、キリストにおいてすでに全信者を結
びつけているものに焦点を当てる助けとなります。それゆえ、エキュメニズムが何よりもまず
日常生活の中で発展していくことが重要です。神学的・組織的対話においては、信頼と開放性
が高まる雰囲気の中で、相互理解を忍耐強く紡ぎ続けます。
d)世界の少なからぬ地域には、「血のエキュメニズム」が存在し、つまりそれは、イエス・
キリストを信じる信仰のためにいのちを捧げる、所属の異なるキリスト者たちから始まったも
のです。彼らの殉教のあかしは、どんなことばよりも雄弁です。一致は主の十字架から来るの
です。
e)すべてのキリスト者間の協力もまた、現代の司牧課題に取り組むための重要な要素です。
世俗化した社会では、こうすることで、福音の声をより力強いものにすることができ、貧困の
状況下では、正義、平和、そしてもっとも持たざる人の尊厳のために人々が力を合わせること
ができるのです。いつでも、どこでも、これこそが、集団、諸民族、国家を互いに対立させる
憎しみ、分裂、戦争の文化をいやすための基本的な資源となります。
f)異なる教会や教会共同体に属するキリスト者同士の結婚(混宗婚)は、交わりの知恵が成熟
し、互いに福音化し合える現実を生み出すかもしれません。

検討課題

g)本総会は、教会のシノドス的な構成についての理解の仕方において、キリスト教の教派間
の多様性を認識することができました。正教会でシノダリティは、主教たち(聖なるシノド
ス)独自の権威の団体性的行使の表現として、狭義に理解されています。より広い意味では、
教会の生活と使命にすべての信者が積極的に参加することを指します。他の教会共同体での実
践についてもいくつかの言及があり、わたしたちの議論を豊かにしました。これらはすべて、
さらなる研究が必要となります。
h)研究すべきもう一つのテーマは、さまざまなレベル(地方、地域、普遍)におけるシノダ
リティと(教皇)首位権の相互依存のつながりに関するものです。ステレオタイプや偏見を克
服するために、歴史の学び直しを共有することが必要です。現在進行中のエキュメニズム対話
は、第 1 千年期における実践に照らして、シノダリティと首位権が関連し、補完し合い、切り
離すことのできない現実であるという事実について、よりよい理解を提供しました。この繊細
な部分の解明については、回勅『キリスト者の一致』で聖ヨハネ・パウロ二世教皇が願ったよ
うに、一致のために奉仕するペトロの奉仕職に関する理解の仕方に影響を与えます。
i)「聖徒の交わり(Eucharistic hospitality, communicatio in sacris)」の問題は、秘跡的交わりと教会的交わりとの結びつきに照らして、神学、教会法、司牧的観点からさらに検討されるべきです。この課題は、とりわけ混宗婚カップルにとって重要です。それはまた、混宗婚に関するより広範な考察の必要性も挙げています。
j)さらに、「超教派」共同体や、キリスト教に刺激を受けた「リバイバル」運動といった現象
についての考察も要請されました。これらには、元々カトリック信者だった、多くの信者が参
加しています。

提案

k)2025 年は、すべてのキリスト者を一致させる信仰のしるしがまとめられたニケア公会議
(325 年)を記念する年となります。この出来事を共通の記念行事とすることは、過去に公会
議において論争の的となった課題がどのように議論され、ともに解決されたかをよりよく理解
する助けとなるでしょう。
l)摂理的なことですが、2025 年は復活祭の日付がすべてのキリスト教諸派で一致します。本
総会は、復活祭の祝いのために共通の日付を設定し、同じ日に、わたしたちのいのちであり、
救いである主の復活を祝うことができるようにしたいという強い希望を表明しました。
m)わたしたちはまた、あらゆるレベルのカトリックのシノドスの歩みに、引き続き他教派の
キリスト者に参加してもらい、2024 年の次会期の総会に、より多くの友好使節を招聘したいと思います。
n)現代世界における共通の使命に関し、エキュメニカルなシノドスを招集するという提案
も、一部から出されています。
o)また、エキュメニカルな殉教論を考案することも提案されました。

第 2 部 すべての弟子、すべての宣教者

8.教会は宣教である

意見の合致点

a)教会は宣教を有している、というよりもむしろ、教会は宣教「である」と断言します。
「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(ヨハネ 20・21)。
教会はおん父が遣わしたキリストから、自らの宣教を受け取ります。聖霊に支えられ、導かれ
る教会は、福音を知らない人々、受け入れない人々に福音を告げ知らせ、あかしします。人々
はこれを、イエスの宣教に根ざした、貧しい人の優先的選択をもって行います。このようにし
て、教会は神の国の到来にともに働き、教会はその「種」なのです(『教会憲章』5 項参
照)。
b)キリスト教入信の秘跡は、イエスのすべての弟子に教会の宣教の責任を与えます。男女信
徒、奉献生活者、叙階された奉仕者も、等しい尊厳を有しています。彼らは異なったカリスマ
と召命を受け、異なった役割と機能を実践していますが、キリストにおいて一つのからだを形
成するために、聖霊によって招かれ、養われています(一コリント 4−31)。彼らは皆、弟子で
あり、宣教者であって、福音化することの喜びと安らぎを経験する地域共同体の互恵的な活力
の中にいます。共同責任の実践はシノダリティにとって不可欠であり、教会のあらゆるレベル
において必要なものです。キリスト者一人ひとりがこの世界における一つの宣教です。
c)家庭はすべてのキリスト教共同体の柱です。両親、祖父母、そして家庭の中で信仰を分かち
合い、生活するすべての人は、最初の宣教者です。いのちと愛の共同体である家庭は、信仰教
育とキリスト教実践のための恵まれた場であり、共同体の中で特別な同伴を必要とします。教
会共同体内やその宣教への奉仕を含め、仕事と家庭生活の要求を両立させなければならない親
には、とくに支援が必要です。
d)宣教が教会全体を巻き込む恵みであるならば、信徒は、あらゆる分野の、ごく普通の日常
的な状況において、宣教を実現するためにきわめて重要な貢献をしています。何よりも、教会
をその場に現存させ、福音を告げ知らせるのは信徒です。たとえば、世界中で強い影響力をも
つデジタル環境の文化の中で、若者文化の中で、労働の世界やビジネス、政治、芸術、文化の
世界で、科学研究、教育、養成の世界で、共通の家のケアの中で、そしてとりわけ公共生活へ
の参加を通して、信徒は働いています。彼らはどこにいても、日常生活の中でイエス・キリス
トをあかしし、公然と信仰を他者と分かち合うよう求められています。とりわけ若者は、その
たまものと弱さをもって、イエスとの友情のうちに成長する中で、仲間たちに対して福音の使
徒となるのです。
e)信徒もまた、キリスト教共同体の中でますます存在感を増し、積極的に奉仕しています。
多くの信徒が司牧する共同体を組織し、活性化させ、信仰養成者、神学者、養成者、霊的同伴
者、カテキスタとして奉仕し、小教区や教区のさまざまな組織に参加しています。多くの地域
で、キリスト教共同体の生活と教会の宣教は、カテキスタの肩にかかっています。さらに信徒
は、営繕や運営の分野でも奉仕しています。彼らの貢献は教会の宣教のために不可欠であり、
そのために必要な能力習得は提供されるべきです。
f)信徒のカリスマは、その多様性において、聖霊が教会に与える明確なたまものであり、それ
を呼び起こし、認め、十分に評価しなければならなりません。司祭不足を補うために信徒が求
められる状況がありますが、そこでは、信徒としてもっている使徒職の性格が損なわれる危険
性があります。また、司祭がすべてを行い、信徒のカリスマや奉仕職が無視され、十分に活用
されない場合もあります。本総会で多くの人が表明したように、すべてのケースで、信徒を
「聖職者化」し、神の民の不平等や分断を永続させる、一種の信徒エリートを生み出す危険性
があります。
g)「諸民族への」宣教は、諸教会相互に豊かさをもたらします。というのも、それは宣教者
だけでなく、こうして祈り、物を分かち合い、あかしへと刺激を受けた共同体全体を巻き込む
からです。司祭不足の教会であっても、この取り組みを放棄すべきではないし、一方、司祭召
命がより多くある教会では、純粋に福音的なやり方で司牧協力することで、利益を得ることが
できます。男女の信徒、奉献生活者、助祭と司祭、とりわけ宣教会会員や「フィデイ・ドヌム
宣教者」といった、すべての宣教者は、知識の絆とたまものの交換を生み出すための重要な資
源です。
h)教会の宣教は、とくにその共同体的、宣教的性格が十分に表現される場合、エウカリスチ
アによって絶えず刷新され、養われます。

検討課題

i)宣教の鍵となるカリスマと奉仕職の関係について、神学的理解を深め続ける必要がありま
す。
j)第二バチカン公会議とそれに続く教導職の教えは、信徒独自の宣教を、現世的、世俗的現実
の聖化という観点から提示しています。しかし現実には、小教区、教区、そして最近では普遍
的なレベルでの司牧実践においてさえも、信徒は、教会自体の職務や奉仕職をますますゆだね
られるようになっています。神学的考察と教会法の条文は、このような重要な発展と調整を図
り、教会の宣教の統一感を損ないかねない二元論を避けるよう努めなければなりません。
k)わたしたちは、洗礼を受けたすべての人の宣教に対する共同責任を促進する中で、障がい
者の使徒的な能力を認識しています。彼らがもたらす人間性の計り知れない豊かさからもたら
される福音化への貢献を大切にしたいと思います。ときに教会共同体の中でさえ起こってい
た、彼らの苦悩、疎外、差別の体験を認識しています。
l)司牧組織は再編される必要があり、それによって、信徒のカリスマと奉仕職が認知され、発
揮され、活性化されて、シノドス的教会の宣教活力に挿入されるようになります。司牧者たち
の指導のもと、共同体は、宣教のために人々を派遣し、派遣した人を支援することができるよ
うになるでしょう。このようにして、これらの組織は、信者が社会の中で、家庭の中で、職場
生活の中で実践する宣教のために奉仕することを第一義とし、内部事情や組織的関心にのみ焦
点を当てることはありません。
m)『討議要綱』で使われている「全員が奉仕職を担う教会(an all-ministerial church)」(B2.2、d)という表現は誤解を招くおそれがあります。曖昧さを避けるために、その意味を明確化すべきです。

提案

n)若者の特別な参加を得ながら、各地方教会の必要性に応じた奉仕職を設定する上で、より
創造性が必要です。典礼で奉仕する人よりもすでにより広い責任のある既存の朗読奉仕者の責
任を、さらに拡大することが考えられます。これによって、より十全な、神のことばの奉仕職
となりうるわけで、ふさわしい状況では、説教することも含まれうるでしょう。また、家庭生
活を支え、結婚の秘跡を準備する人々に同伴することに取り組む既婚夫婦に任命する奉仕職を
設ける可能性も検討できるでしょう。
o)各地方教会は、信徒のカリスマと奉仕職に対する共同体の承認について、適切な方法と時
期を検討するよう求められています。これは、司牧の任務が授与される、典礼行事の機会に行
われうるものです。

 

9.教会の生活と宣教における女性

意見の合致点

a)わたしたちは神の似姿で、男女に創造されました。初めから、創造は一致と相違を示し、
女性と男性に共通する性質、招き、運命と、人間として二つ別々の体験を与えています。聖書
は女性と男性の補完性と互恵性を証言し、また、被造物に対する神の計画の中心にある男女の
契約を証言しています。イエスは女性を対話の相手とみなし、つまり、彼女たちに神の国につ
いて語り、ベタニヤのマリアのように、彼女たちを弟子として迎え入れました。これらの女性
たちは、イエスのいやし、解放、そして認知の力を体験し、ガリラヤからエルサレムへの道を
イエスとともに歩みました(ルカ 8・1−3 参照)。そして、復活の朝、一人の女性、マグダラ
のマリアに復活を告げ知らせることを任せたのです。
b)キリストのうちに、女性も男性も同じ洗礼の尊厳をまとい(ガラテヤ 3・28 参照)、霊の
多様なたまものを等しく受けています。男女は、キリストのうちに、愛し合う、競争しない関
係性という交わりへともに招かれ、教会生活のあらゆるレベルで表される共同責任に招かれて
います。教皇フランシスコがわたしたちに語ったように、わたしたちは「真福八端の力によっ
て呼び集められ、招かれた民」なのです。
c)本総会の間、女性と男性の間のすばらしい互恵性を体験しました。司牧的・秘跡的観点から女性を理解し、同伴するために、教会がより決定的な取り組みを行うように求める、シノドスの歩みのこれまでのフェーズでなされた呼びかけを、わたしたちはともに唱えます。女性は、さまざまなライフ・ステージにおいて、聖性に向かって歩む霊的体験を分かち合いたいと願っています。つまりそれは、若い女性として、母親として、友人関係において、あらゆる年代での家庭生活において、労働の世界において、奉献生活において、です。女性たちは、性暴力と経済的不平等、彼女たちをモノとして扱う風潮がいまだに根強く残る社会の中で、正義を求めて叫んでいます。女性は人身取引、強制移住、戦争の傷跡を負っています。女性に対する司牧的同伴と精力的な支援活動は手を携えて行われるべきです。
d)女性は教会に通う人の大多数を占め、しばしば家庭の中で最初の信仰の宣教者です。奉献
生活の女性は、観想生活においても活動生活においても、わたしたちのただ中で基本的で重要
なたまもの、しるし、あかしとなっています。女性の宣教者、聖人、神学者、神秘家の長い歴
史はまた、現代の女性と男性にとって涵養とひらめきの強力な源泉です。
e)信仰の女性、神の母であるナザレのマリアは、すべての人にとって、神学的、教会的、霊
的意味の唯一の源泉であり続けています。マリアは、神に注意深く耳を傾け、聖霊に心を開い
ていなさいという普遍的な呼びかけをわたしたちに思い起こさせてくれます。マリアは、産み
育てる喜びを知り、また、痛みと苦しみに耐えてきました。貧しい状況で出産し、難民とな
り、そしておん子の残忍な殺害の悲しみを生きてきました。しかし、彼女は復活の輝きと聖霊
降臨の栄光をもまた知っているのです。
f)多くの女性が、司祭と司教の働きに深い感謝を表明する一方で、傷ついている教会について
も語りました。聖職者主義、優越主義のメンタリティ、不適切な権威の表現は、教会の顔に傷
跡を残し、交わりを損ない続けています。あらゆる効果的な組織改革の基礎として、深い霊的
回心が必須です。性虐待や権力や権威の乱用は、正義、いやし、和解を求め続けています。わ
たしたちは、教会はいかにすれば、すべての人を守る空間となりうるかを問いました。
g)教会内で、男女間の関係における尊厳と正義が侵害されるようでは、わたしたちが世界に
向かって行う宣教の信頼性は低下します。シノドスの歩みは、関係性の刷新と組織上の変化が
必要であることを示しています。そうすることでわたしたちは、男女の信徒と奉献生活者、助
祭、司祭、司教など、すべての人の参加と貢献を、宣教のわざにおける共同責任をもつ弟子と
して、より歓迎できるようになるのです。
h)本総会はわたしたちに、女性を問題や課題として語る過ちを繰り返さないように求めま
す。そうではなく、神の計画の地平の奥深さをよりよく理解するために、男女が対話し、その
中で、従属、排除、競争のない、主人公としてともに相手を理解することのできる教会を推進
していきたいと願っています。

検討課題

i)女性の積極的貢献が認識、評価され、その司牧上のリーダーシップが教会の生活と宣教のあ
らゆる領域で増大するようにという明確な要望を、世界中の教会が表明してきました。すべて
の人のカリスマをよりよく表現し、司牧上の必要によりよく応えるために、教会はどのように
すれば既存の役割や奉仕職に、より多くの女性を加えることができるでしょうか。新たな奉仕
職が必要な場合、だれが、どのようなレベルで、どのような方法で、それらを識別すべきでし
ょうか。
j)女性が助祭の奉仕職に就くことに関して、さまざまな立場が表明されています。この措置は
聖伝に反し、容認できないという人もいれば、しかし、女性に助祭職への道が開かれることは
初代教会の実践を回復することになる、という人もいます。さらに別の人は、これを、時のし
るしへの適切で必要な対応であり、聖伝に忠実で、教会に新たな元気と活力を求める多くの
人々の心に響くものと識別する人もいます。この要請は、憂慮すべき人類学的混同を物語って
おり、もしそれを認められれば、教会は時代の精神に迎合してしまうことになると危惧する人
もいます。
k)この要望に関する議論はまた、助祭職の神学に関する、より広範な継続的考察とも関連し
ています(以下の 11.参照)。

提案

l)各地方教会は、さまざまなその社会的背景の中で、もっとも疎外されている女性たちに耳を
傾け、同伴し、ケアする働きを拡大することが奨励されます。
m)女性が意思決定過程に参加し、司牧活動と奉仕職において責任ある役割を担うことができ
るように確約することが緊急に必要です。教皇は、教皇庁内で責任ある地位で働く女性の数を
大幅に増やしました。同じことが教会生活の他のレベルでも起こるべきです。それに応じて、
教会法の条文も変更される必要があります。
n)女性の助祭職への参入に関する神学的・司牧的研究は、教皇によって特別に設置された委
員会の成果と、すでに行われてきた神学・史学・釈義学的研究の成果を活用して、継続される
べきです。可能であれば、その結果は本総会の次の会期で発表されるべきです。
o)教会内における雇用の不正義と不公正な報酬の事例、とりわけ、あまりにも頻繁に安価な
労働力と見なされる奉献生活の女性に対して、対処する必要があります。
p)養成プログラムや神学研究への女性のアクセスを十分に拡大する必要があります。叙階さ
れた奉仕職のより良い養成を促進するために、神学校の教育や養成プログラムにも女性を参加
させるよう提案します。
q)典礼文や教会文書が、男女に平等に考慮した言語の使用により注意を払い、また女性の経
験をより広範に描くさまざまなことば、イメージ、物語を含める必要があります。
r)適切に養成を受けた女性が、すべての教会裁判の裁判官になれるよう提案します。

 

10.奉献生活と信徒団体・運動体:カリスマのしるし

意見の合致点

a)教会は、もっとも特別なものからもっとも単純なものまで、カリスマのたまものからつねに恩恵を受けてきました。そのカリスマを通して、聖霊は、喜びと感謝をもって、教会を若返らせ、新たにします。聖なる神の民は、これらのカリスマのうちに、神がそれをもって、自らの宣教を支え、導き、照らす、摂理的な助けを見出すのです。
b)教会のカリスマ的次元は、奉献生活の形態の豊かさと多様性の中で明らかにされます。こ
のあかしは、どの時代においても、教会共同体の生活を刷新することに貢献し、何度も繰り返
される世俗の誘惑に対する解毒剤を提供しています。修道生活を構成するさまざまな家族は、
弟子であることの素晴らしさとキリストにおける聖性を表しています。それは、さまざまに異
なる祈りの形であれ、人々の中の奉仕であれ、また、共同生活の形を通してであれ、観想生活
の孤独を通してであれ、新しい諸文化の最前線においてであれ、そうなのです。奉献生活の中
にいる人々が重要な歴史的変化を最初に察知し、霊の呼びかけを心に留めることがよくありま
した。現代もまた、教会は彼らの預言者的声と行動を必要としています。キリスト教共同体は
また、奉献生活の共同体の中で試行錯誤を重ね、何世紀にもわたって培ってきた、シノドス的
生活と識別の実践を認め、注意の目を向けたいと思っています。彼らから、シノドスの道をど
う歩むべきかという知恵を学ぶことができます。多くの修道会は、管区や総会の運営におい
て、組織を刷新し、生活様式を見直し、新しい形の奉仕やもっとも貧しい人々への寄り添いを
活性化するため、霊における会話や、また似た形の識別を実践しています。しかし、対話の余
地を与えない、権威主義的スタイルに固執しているケースも見受けられます。
c)同様の感謝をもって、神の民は、新しい教会共同体の中で花開いてきた長い歴史をもつ共同体の中に、刷新の種を認めます。信徒団体、教会運動体、新しい共同体は、洗礼を受けたすべての人の共同責任が成熟していることの貴重なしるしです。これらの人々は、異なる召命の中で交わりを促進し、福音を告げ知らせる推進力をもち、経済的・社会的に疎外されている人々に近づき、共通善を推進しているところに価値があります。彼らはしばしば、シノドス的交わりと宣教への参加の模範となっています。
d)修道生活者や信徒団体のメンバー、とくに女性に対するさまざまな虐待の事例は、権威の
行使における問題を示すものであり、断固とした適切な介入が必要です。

検討課題

e)教会の教導権には、教会の生活と宣教における位階的たまものとカリスマ的たまもの両方
の重要性に関する、よく発達した教えの体系があります。このためには、教会理解と神学的考
察における成長が必要です。したがって、この教えに関する教会論的意義と具体的な司牧的意
味をあらためて検討する価値があります。
f)教会内での多様なカリスマの表現は、神の民がもっとも小さくされた姉妹、兄弟のそばに歩
み寄る預言者的存在となり、現代の文化に霊的側面についての深い感覚を提供するという取り
組みを強調しています。奉献生活、信徒団体、教会運動体、新しい共同体が、いかにそのカリ
スマを地方教会における交わりと宣教のために役立て、預言者的な現存を通して聖性へ向かう
現在の道を拡大できるかについて、さらに深い理解を発展させる必要があります

提案

g)わたしたちは、教会における司教と修道者の関係に関する、1978 年の司教省文書『ムトゥ
エ・レラチオネス』を改訂する機は熟したと考えます。この改訂を、関係者全員に意見を聞き
ながら、シノドス的方法で行うことを提案します。
h)同じ目的のために、各国司教協議会と、奉献生活および使徒的生活会の総長連盟や管区長
連盟は、出会いと協力体制を促進するための手段と道具を、シノドス的精神に則って設置する
ことが必要です。
i)個々の地方教会と地方教会が集合したグループの両方のレベルにおいて、宣教のためのシノ
ダリティを推進するには、信徒団体、教会運動体、新しい共同体の代表者が、彼らの生活と活
動と、地方教会のそれとの間の、永続的な関係を育てるために集うことのできる協議会や諮問
機関を設置し、その構成を整えることが必要です。
j)あらゆるレベルにおける神学養成において、なによりも叙階された奉仕者の養成において、
教会のカリスマの側面が強調されるよう注視し、必要に応じて強化すべきです。

 

11.シノドス的教会における助祭と司祭

意見の合致点

a)司祭は自分の司教の主要な協力者であり、その司教とともに一つの司祭団を形成します
(『教会憲章』 28 項参照)。助祭は、みことば、典礼、しかしとりわけ愛の行為の「奉仕
(diakonia)」において、神の民に仕える奉仕職のために叙階されます(『教会憲章』29 項参
照)。彼らに対して、シノドス総会はまず深い感謝の意を表し、彼らが孤独と孤立を経験して
いるかもしれないことを意識しながら、キリスト教共同体が祈り、友情、協力によって彼らを
支えるよう励まします。
b)助祭と司祭は、もっとも多様な形態の司牧活動に従事していて、それは、小教区で、福音
化で、貧しい人や疎外された人の中で、文化や教育の世界で、「諸民族」への宣教で、神学研
究で、霊性センターや霊的刷新の家で、その他多くの場です。シノドス的教会において、叙階
された奉仕者は、人々に寄り添い、すべての人を歓迎し、耳を傾ける態度で神の民への奉仕に
生き、一方で深い個人としての霊性と祈りの生活を培うよう求められています。なによりも、
「神の身分でありながら……かえって自分を無にして、しもべの身分になった」(フィリピ
2・6−7)イエスを模範として、権威の行使について再考することが求められています。本総会
は、多くの司祭と助祭が、その献身によって、よい牧者でありしもべであるキリストを、目に
見える形にしていることを認めています。
c)奉仕職と宣教に対する一つの障害は、聖職者主義です。これは神の招きに対する誤解から生
じており、それを奉仕というよりも特権と考え、説明責任を負うことを拒否する世俗的な仕方
で権力行使をすることに現れています。このような司祭職召命の歪曲に対しては、養成の初期
段階から神の民と近しく接触できる道を確保し、もっとも助けを必要としている人々の中で奉
仕する具体的体験を通して、対抗しなければなりません。今日の司祭の奉仕職の実践は、司教
や司祭団と調和し、他の奉仕職やカリスマと深く交わることなしには考えられません。残念な
ことですが、聖職者主義は司祭だけでなく、信徒にも現れうる態度です。
d)共同責任の文脈の中で、叙階された奉仕職を実践するには、自分の能力と限界を自覚する
ことが必要です。したがって、人間の養成に対する現実的なアプローチが、文化的、霊的次元
の養成と、弟子としての養成が確実に統合されたものとすることは重要です。この点に関し、
若者の出身家庭、その召命を成熟させるキリスト教共同体、そしてその成長に同伴する他の家
庭の貢献を過小評価することはできません。

検討課題

e)シノドス的教会の奉仕のため、洗礼を受けた全員を養成するという文脈の中で、助祭と司
祭の養成には 特別に注意が必要です。この要望は本総会で広く表明されてきたことですが、
神学校やその他の司祭養成プログラムを、共同体の日常生活と結びついた状態にすべきです。
権威主義的な態度につながり、召命の真の成長を妨げる形式主義やイデオロギーのリスクを避
けなければなりません。養成プログラムの見直しには、幅広い議論と考察が必要です。
f)司祭の独身制については、さまざまな意見が表明されてきています。すべての人がその価値
を、預言者的で、キリストを深くあかしするものと評価していますが、しかし司祭職において
神学的に適切だとされている性質が、とりわけ教会的・文化的背景がそれをより困難にしてい
る中で、ラテン典礼教会において、必然的に規律上の義務に置き換えられるべきものなのか、
と問う人もいます。この議論は新しいものではありませんが、さらなる検討が必要です。

提案

g)ラテン典礼教会では、さまざまな教会的背景の中、多様な仕方で終身助祭が実践されてき
ました。全く導入されていない地方教会もあれば、助祭が司祭不足の一種の代用品として認識
される懸念をもつ地方教会もあります。ときに助祭の奉仕職は、共同体の貧しい人、困窮して
いる人への奉仕というよりも、むしろ典礼の中で表現されることもあります。したがって、第
二バチカン公会議以降、助祭の奉仕職がどのように実施されてきたかについて評価することを
勧めます。
h)神学的観点からは、司祭職への前段階としてだけでなく、まずそれ自体として助祭職を理
解する必要があります。「過渡的な」形態と区別するために、助祭職の一義的な形態を「終
身」とすること自体、まだ十分に視点の変化が実現されていないことの表れです。
i)助祭職の神学を取り巻く不確実さは、ラテン典礼教会において、助祭職が第二バチカン公会
議以降、独自の永続的な位階奉仕職として復興されたという事実とも関連しています。さらに
深い研究が、女性の助祭職への任命という問題にも光を当てることになるでしょう。
j)宣教するシノドス的教会の視点から、叙階された奉仕職の養成について徹底的に見直すこと
が求められています。これはまた、養成をどのように構造化するかを決定している『(司祭養
成)基本綱要(Ratio fundamentalis)』の改訂を意味します。また同時に、司祭と助祭の生涯養成を考える上で、シノドス的なやり方を確実に採用することを推奨します。
k)透明性と説明責任の文化は、シノドス的教会建設を進めていく上で極めて重要です。司祭
と助祭が自分の奉仕職を遂行する中で、どのように責任ある役割を実行しているかについて、
定期的に監査できるような手順と組織を確認するよう、各地方教会に求めます。参加型の組織
や司牧訪問のような既存の制度は、その共同体を巻き込むことに注意しながら、この働きの出
発点となりうるものです。そうした形態は、地域の状況や多様な文化に適応させて、妨げや官
僚主義的な重荷にならないようにしなければなりません。どのようなプロセスが必要かの識別
は、地域、または大陸レベルで検討されるかもしれません。
l)その奉仕職を離れた司祭たちを、彼らの養成と経験を認める司牧奉仕に再び参加させる可能
性については、ケースバイケース、文脈にしたがって検討するべきです。

12.教会的交わりにおける司教

意見の合致点

a)第二バチカン公会議によれば、司教は、使徒の後継者として、地方教会での、諸教会間で
の、さらに教会全体との交わりに奉仕する立場にあります。したがって、司教像は、司教にゆ
だねられた神の民の部分、司祭団、助祭たち、奉献生活者、他の司教、そしてローマの司教に
よって織り成される関係の網の目においてのみ、適切に理解されうるもので、つねに宣教に向
かうよう考えています。
b)司教はその教会において、福音の告知と典礼に第一の責任を負っています。キリスト教共
同体を導き、貧しさを経験する人の司牧的ケアともっとも弱い立場に置かれている人の擁護を
推進します。一致の目に見える原理として、とりわけ、福音の告知と共同体の共通善のため
に、霊が遣わしたさまざまなカリスマと奉仕職を識別し、調整する任務を担っています。この
奉仕職は、共同責任、神の民に耳を傾けることによって行われる説教、謙遜と回心による聖化
と典礼祭儀が統治に伴うとき、シノドス的な仕方で実現されます。
c)司教は、地方教会においてシノドスの歩みを開始し、活気づけるために、かけがえのない役割を担っており、「全員、幾人か、一人」の間の相互作用を促進します。「一人」の司教(訳注:教皇)の奉仕職は、識別と意思決定のプロセスにより直接的に関与する「幾人か」(訳注:各司教)の貢献を通して、信者「全員」の参加を大切にするのです。司教自身がシノドス的なアプローチを採用するという確信と、その権威を行使するスタイルは、どのように司祭や助祭、信徒男女、奉献生活者がシノドスの歩みに参加するかに、決定的な影響を与えます。司教は、すべての人にとってのシノダリティの模範となるよう求められているのです。
d)教会が神の家族として認識されている状況では、司教はすべての人の父とみなされます。
しかし、世俗化された社会では、司教の権威がいかに体験されるかについて、危機が生じま
す。司教像が市民的権威の像と同一視されないように、司教職の秘跡的本性を見失わないよう
にすることが重要です。
e)司教への期待はしばしば非常に高く、多くの司教は、運営と法的責任が過重だと感じてい
ることを訴えており、したがって、その使命を十分に果たすことが困難となっています。司教
はまた、自らの弱点や限界とうまく折り合いをつけなければならず、ときには、人間的であれ
霊的であれ、必要な支えを欠くこともあります。ある種の孤独感は珍しいものではありませ
ん。だからこそ、一方で、司教の使命にとって本質的な側面にあらためて焦点を合わせること
が、他方では、司教相互や司祭団との真の友愛をはぐくむことが重要となります。

検討課題

f)神学的なレベルでは、司教と地方教会との相互関係の意義を大幅に深める必要があります。
司教は教会を導くと同時に、その歴史、伝統、カリスマの豊かさを認識し、保存することが求
められています。
g)叙階の秘跡と裁治権との関係の問題はより深く研究される必要があります。『教会憲章』や
使徒憲章『プレディカテ・エバンジェリウム』のような最近の教えとの対話の中、このような
研究の目的は、司教が共有する責任の原理の根底にある神学的・教会法的基準を明確にし、共
同責任の範囲、形態、意味合いを決定することです。
h)司教団内で完全な合意が得られていない信仰と道徳の問題について発言を求められると、
不快感を示す司教もいます。司教の団体性と神学的・司牧的見解の多様性との関係について、
さらなる考察が必要となります。
i)シノドス的教会にとって不可欠なのは、未成年者と社会的弱者を保護するために確立された
手続きを尊重し、透明性を確保する文化です。虐待防止に特化した体制をさらに発展させる必
要があります。虐待の取り扱いというデリケートな問題によって、多くの司教は、父親の役割
と裁判官の役割を両立させるという困難な状況に置かれています。司法の任務を別の機関にゆ
だね、教会法に規定することの妥当性を検討すべきです。

提案

j)法的にまだ定義されていない形で、司教の権威のスタイル、教区財産の財政運営、参加型機
関の働き、あらゆる可能な種類の虐待からの保護に関連して、司教の業績を定期的に見直す仕
組みとプロセスを実施する必要があります。説明責任の文化は、共同責任を促進し、虐待から
保護するシノドス的教会の不可欠な要素です。
k)司教の評議会(『新教会法典』473 条 4 項)や、教区司牧評議会と東方典礼教区
(Eparchial)司牧評議会(同 511 条、『東方典礼教会法典』272 条)を義務化し、共同責任を
行使する教区諸機関を、法的意味も含め、より実効性あるものにすることが求められます。
l)本総会は、教皇大使の権威と司教協議会の参与とのバランスをとりながら、司教候補者の選
考基準を見直すよう求めています。また、神の民からの意見聴取の幅を広げ、選考の際に不適
切な圧力を避けるよう配慮しつつ、より多くの信徒、奉献生活者をそのプロセスに含めるよう
要請されています。
m)多くの司教は、管区大司教座(教会管区)と地方区の機能を再考し、その構造を強化する
必要性を表明しています。それによって、司教たちはその地域における団体性を具体的に表現
することができ、友愛、相互支援、透明性、より広範な意見聴取を通して、司教たちの間で通
常の実践とすることができるのです。

 

13.司教団の中のローマの司教

意見の合致点

a)シノドスのダイナミズムは、ローマの司教の奉仕職にも新たな光を当てています。実に、
シノダリティは、地方、地域、普遍教会レベルにおける、教会の共同体的(「全員」[訳注:
神の民])、団体性的(「幾人か」[訳注:司教])、個人に関する(「一人」[訳注:教
皇])側面を、調和のとれた姿で統合します。このようなビジョンにおいては、ペトロから受
け継ぐローマの司教の奉仕職は、神の民全体を含む共同体的側面や、司教の奉仕職を行使する
団体性的側面と同様に、シノドスのダイナミズムに内在するものです。したがって、シノダリ
ティ、団体性、そして首位権は互いに関連しており、つまり首位権はシノダリティと団体性の
行使を前提とし、ちょうど両者が首位権の行使を含意するのと同じです。
b)すべてのキリスト者の一致を促進することは、ローマの司教の奉仕職の本性的側面です。
エキュメニカルな旅は、ペトロの後継者の奉仕職に対する理解を深めてきており、将来もそう
でなければなりません。回勅『キリスト者の一致』における聖ヨハネ・パウロ二世教皇の招き
に対する応答や、エキュメニズム対話からの結論は、首位権、団体性、シノダリティや、それ
らの相互関係に関するカトリックの理解を助けることができます。
c)教皇庁の改革は、カトリック教会のシノドスの旅にとって重要な側面です。使徒憲章『プレ
ディカテ・エバンジェリウム』は、「ローマ教皇庁は教皇と司教たちの間に立つのではなく、
むしろそれぞれの性質に適した形で、両者に仕える立場にあります」(I.8)と主張していま
す。また、「交わりの生活」(I.4)と「健全な分権化」(II.2)に基づく改革を推進していま
す。ローマの各省庁の多くのメンバーが教区司教であるという事実は、教会の普遍性を表現し
ており、教皇庁と各地方教会との関係をはぐくむべきものです。『プレディカテ・エバンジェ
リウム』の効果的な履行によって、異なる省庁間、および各省庁内の両方において、教皇庁内
のシノダリティはより大きく育てられるかもしれません。

検討課題

d)シノドス的教会における、刷新された司教職理解が、ローマの司教の奉仕職と教皇庁の役
割にどのような影響を与えるかについて、さらなる洞察が必要となります。この課題は、教会
統治における共同責任がどういった形で実現されるかについて重大な意味をもちます。普遍教
会レベルでは、教皇の奉仕職を、団体性により則った形で執行するための条文が、『新教会法
典』と『東方典礼教会法典』にあります。これらの条文は、実践においてさらに発展し、将来
の両教典の改訂の中で強化されうるものです。
e)シノダリティは、枢機卿たちがペトロの、すなわち教皇の奉仕職に協力しうる仕方に、そ
して定例および臨時枢機卿会議で彼らの団体性に基づく識別を促進する方法に光を当てること
ができます。
f)枢機卿団のメンバーの出身と文化の多様性をも考慮しつつ、彼ら相互の知己と交わりの絆を
はぐくむ、もっとも適切な方法を研究することは、教会の善のために重要です。

 

提案

g)「アドリミナ」の使徒座訪問は、地方教会の司牧者とローマの司教と、その教皇庁内のもっとも近しい協力者との関係性にとって、最高のときです。このような訪問が、交わりを育て、団体性とシノダリティの真の実践を促す、開かれた相互交流の場とさらになるように、その形式を見直す必要があります。
h)教会のシノドス的な構成に照らして、教皇庁の省庁が、司教たちの協議を強化し、多様な
状況により注意を払い、地方教会の声にもっと耳を傾けることが必要です。
i)教皇の代理者(訳注:大使など)が地方教会の奉仕を助け、完成させる使命を果たしている
各国の地方教会が、代理者の働きを評価する形態を確立することが適切であると考えられま
す。
j)ペトロの奉仕職に奉仕するシノドス的な評議会である、「枢機卿評議会(Council of
Cardinals, C-9)」の体験を拡大、強化することが提案されています。
k)第二バチカン公会議の教えに照らして、教皇庁の高位聖職者を司教に叙階することが適切
かどうか、慎重に検討する必要があります。

第 3 部 絆を紡ぎ、共同体を築く

14.養成へのシノドス的アプローチ

意見の合致点

a)洗礼を受けた一人ひとりは、主のたまものへの応答として自分自身の養成に気を配り、受
けた才能を活用し、それらが実を結んで、すべての人のために役立つようにすることが求めら
れています。主がその弟子たちの養成にささげた時間は、この教会的な養成の重要性を明らか
にしています。これはしばしば影に隠れて起きていることですが、宣教にとっては決定的なこ
とです。わたしたちは、こうした務めに携わっているすべての人々に感謝と励ましのことばを
述べるとともに、教会のシノドスの歩みから生まれた、養成に関する新たな方向性を受け入れ
るよう彼らを招きたいと思います。
b)イエスが弟子たちを養成した仕方は、わたしたちが従うべき模範です。イエスは単に教え
を授けるだけでなく、弟子たちと生活をともにしました。自らの祈りによって、「祈ることを
教えてください」という問いを彼らから引き出し、群衆に食事を与えることによって、困って
いる人を見捨てないことを教え、エルサレムへ歩むことによって、十字架への道を示しまし
た。福音書からわたしたちは、養成とは、単に自分の能力を強化するのみ、またはそれを中心
にするだけではなく、敗北や失敗さえも実りあるものとするみ国の「論理」へ回心することだ
と学ぶのです。
c)聖なる神の民は、養成の対象であるだけでなく、何よりもまず、養成にとって共同責任のあ
る主体です。実際、最初の養成は家庭で行われます。わたしたちが通常、両親や祖父母のこと
ばで、実際、その方言で、信仰の最初の告げ知らせを受けるのは、まさに家庭です。したがっ
て、教会で奉仕職を担う人々は、共同体にとって不可欠な協力関係の中で、信仰深い神の民の
知恵と結び合わせて貢献しなければなりません。これは、シノドス的な意味で理解される養成
の最初のしるしです。
d)キリスト教入信には、養成の道筋を示す指針があります。養成の中心は、ケリグマを深め
ること、すなわち、わたしたちに新しいいのちのたまものを与えるイエス・キリストとの出会
いです。カテケージスの論理は、わたしたちが皆、聖性に召された罪びとであることを思い起
こさせます。だからこそわたしたちは、ゆるしの秘跡が完成へと導く個人の回心への旅を歩む
のです。これはまた、わたしたちが多くのあかしに支えられながら、聖性への望みを育てる理
由でもあります。
e)神の民の養成が行われる領域は多岐に渡ります。神学的養成に加え、本総会は、特定の技
能の養成を要望しました。つまり、共同責任・聞き取り・識別の実践、エキュメニズム対話と
諸宗教対話の実施、もっとも貧しい人々への奉仕と共通の家のケア、「デジタル宣教者」とし
ての取り組み、識別プロセスの促進、霊における会話、合意形成と紛争解決、です。子どもと
若者の信仰養成には特別な注意が払われるべきで、その中には、共同体への能動的参加を含め
なければなりません。
f)シノドス的教会のための養成は、シノドス的方法で、つまり、ともに旅をしながらともに養
成された神の民全体で行われなければなりません。司牧奉仕職の非常に多くの領域で見られる
「権限委譲」という考え方を克服する必要があります。シノドスの鍵において、養成は、神の
民が家庭において、職場において、教会的・社会的・知的領域において、洗礼から来る自らの
召命を十全に生き抜くことができるようにすることを意味します。それは、一人ひとりが自分
のカリスマと召命に従って、教会の宣教に能動的に参加できるようにすることなのです。

検討課題

g)若者が人格的・性的アイデンティティにおいて成熟する歩みに寄り添い、独身と奉献された貞潔に呼ばれた人たちの成熟を支えるために、人間関係と性教育に関する働きを引き受けることを勧めます。こうした領域における養成は、すべてのライフステージにとって必要となる援助です。
h)それらの貢献を単に横並びに置くのではなく、より成熟したまとめへと統合するよう人間
経験を理解するため、人文諸科学間、とくに心理学と神学との対話を深めることが重要です。
i)これまでのシノドスですでに要請されてきたように、叙階された奉仕職のための養成プログ
ラムに、神の民が幅広く参加する必要があります。したがって、彼らに対する女性と家庭の貢
献を高めることのできる方法にとくに注意を払いながら、養成プログラムを徹底的に見直す必
要があります。
j)各国司教協議会は、地域レベルで協力し、デジタル方式の選択肢の開発を含め、利用可能な
あらゆる資源を活用し、生涯養成と学習の文化を創造することが奨励されます。

提案

k)シノダリティの観点から、神の民全体(信徒、奉献生活者と叙階された奉仕者)を対象と
した共同での養成のためにデザインされ意図されたプログラム提供を優先することを提案しま
す。各教区が各地方教会内でのこうした計画を奨励するよう努力すべきです。各国司教協議会
が地域レベルで協力し、デジタル方式の選択肢の開発も含め、利用可能なあらゆる資源を活用
して、生涯養成の文化を創造するよう奨励します。
l)過去のシノドスですでに要請されたように、叙階された奉仕職に就くための養成プログラム
には、 神の民のさまざまなメンバーが参加すべきです。女性の参加はとくに重要です。
m)叙階された奉仕職の候補者選考のための適切な基準とプロセスを適用し、神学生の予備プ
ログラムのための要件が確実に満たされるようにする必要があります。
n)叙階された奉仕者の養成は、地方それぞれの文脈の中で、シノドス的教会と首尾一貫した
方法でデザインされるべきです。特定の進路に踏み出す前に、候補者たちは、キリスト教共同
体の、初歩的であっても意味ある体験をすべきなのですが。養成では、信者の日常生活から切
り離された、人工的な環境を作り出すべきではありません。叙階された奉仕職の養成の要件を
守ることで、説教し、秘跡を執行し、愛の行為を実行する中で、神の民に奉仕する真の精神を
はぐくむことができるのです。このためには、司祭と終身助祭のための『基本綱要(Ratio
fundamentalis)』を改訂する必要があるかもしれません。
o)シノドスの歩みがどれほど受容されたかを評価し、シノドス的教会にふさわしいスタイル
での権威行使を促進するための変革を提案するために、総会の次の会期のための準備におい
て、司祭の初期養成と生涯養成の責任者への意見聴取を実施すべきです。

 

15.教会の識別と未解決の諸問題

意見の合致点

a)霊における会話の経験は、参加者全員にとって豊かなものでした。わたしたちのコミュニ
ケーション・スタイルは、自分の意見を自由に表現し、互いに耳を傾け合うことに恵まれ、非
常に好評でした。それによってわたしたちは、相手の立場を指示する理由づけにまず耳を傾け
ることなしに、自分の主張の繰り返しに基づく議論に早急に移ることを避けられました。
b)この基本的なアプローチは、デジタル技術や人工知能の人類学的影響、非暴力と正当防
衛、奉仕職に関する諸課題、セクシュアリティと「身体性」に関する諸課題など、教会内で議
論の的となっている諸問題を注意深く考察していくことを可能にする状況を作り出します。
c)これらやその他の領域における、教会としての真の識別を発展させていくためには、神のことばと教会の教えに照らしてこれらの諸問題に取り組み、適切に情報を得て考察することが必要です。空虚な公式の繰り返しを避けるためには、哲学的・神学的考察と合わせて、人文科学や社会科学を含む、対話の機会を提供する必要があります。
d)このような論争の的となる多くの諸課題の中心には、愛と真理の関係についての問いがあ
り、このことが論争の的となる多くの諸課題に影響を与えます。この関係は問題と考えられる
前に、実際、キリストにおいて啓示された恵みと考えるべきものです。なぜなら、イエスは詩
編に見られる約束を成就するために来たからです。「いつくしみとまことは出会い、正義と平
和は口づけし、まことは地から萌えいで、正義は天から注がれます」(詩編 85・11−12)。
e)いくつかの福音箇所を読むと、イエスはその人の歴史や置かれた状況の独自性の中で人々
と出会うということが分かります。イエスは決して偏見やレッテルからではなく、全身全霊で
関わっていく真の関係性から始めます。それは、誤解や拒絶を経験するという代価を払ってで
も、です。イエスは、たとえそれが表現されないままであっても、助けを必要としている人々
の叫びにいつも耳を傾けています。愛を伝え、自信を回復させる行動をとり、その存在によっ
て新しい人生を可能にし、彼に出会った人々は変容して立ち去っていきます。これが起きるの
は、イエスが担っている真理は観念ではなく、わたしたちのうちにいる神の現存そのものだか
らであり、また、イエスがそれを抱いて行動する愛は単なる感情ではなく、歴史を変えるみ国
の正義だからです。
f)わたしたち自身が個人としても共同体としても回心してこそ、他者を支援することができる
のです。イエスが有する明快な福音のビジョンを、司牧上の選択に反映させる際に遭遇する困
難さは、わたしたちが福音に忠実に生き抜くことに苦闘していることの表れです。もしわたし
たちが教義を厳格に、裁くような姿勢で用いるなら、わたしたちは福音を裏切っており、もし
わたしたちがあわれみを「安っぽく」実践するなら、神の愛は伝わりません。真理と愛の一致
は、真の兄弟姉妹の間で起こるように、相手の困難さを、自分のものとするほどまでに引き受
けることを意味します。しかしながら、この一致は、忍耐強くともに歩む道に従っていくこと
によってのみ達成されるものです。
g)アイデンティティとセクシャリティの諸課題に関連するもの、いのちの終わり、込み入っ
た夫婦関係、人工知能に関連する倫理課題といったある種の課題は、社会のみならず教会にお
いても議論の的となっており、それはこれらが新たな問いを生じさせるからです。わたしたち
が発展させてきた人類学的な区分は、ときに、経験や科学的知見から生まれる複雑な諸要素を
把握するのに十分でないことがあり、より高度な精密さとさらなる研究を必要とします。個人
や教会のからだを傷つける、単純化された判断に屈することなく、この考察のために必要な時
間を取り、わたしたちの最高のエネルギーを投入することが重要です。これらのうち多くの課
題に関しては、教会の教えがすでに方向感を提示しており、しかしこの教えは明らかに、司牧
実践に変換される必要が依然としてあります。さらなる明確化が必要な場合であっても、祈り
と回心の中に溶け込んだイエスの行動は、わたしたちに進むべき道を示してくれます。

検討課題

h)キリスト論的啓示に由来する、愛と真理が織り成す原初的なものについての教会の考察を
継続し、これらの原点に忠実な教会の実践を目指すことが必要です。
i)さまざまな分野の専門家が、その個人的霊性とともに自らの専門知識をもち寄り、彼らが提
供するものが真に教会の奉仕となるよう勧めます。こうした文脈の中でシノダリティが意味す
るものは、宣教奉仕において、多様な状況の中、しかし目的意識を共有しながら、ともに考え
る用意ができているということです。
j)聖なる神の民の日常的な体験を出発点とし、その奉仕に身を置く神学的・文化的研究を可能
にする条件についての考察の必要性を確認しました。

提案

k)論議を呼んでいる教義的、司牧的、倫理的諸課題について、神のことば、教会の教え、神学的考察、シノドス的体験の評価に照らして、共同識別を可能にする取り組みを提案します。これは、守秘義務を守り、率直な議論を促進する組織的な状況の中で、多様な技能や背景をもつ専門家が徹底的に議論することによって達成することができます。適切な場合には、検討中の諸課題から直接影響を受ける人々も参加させるべきです。そうした取り組みは、総会の次期会期前までに開始されなければなりません。

 

16.耳を傾け、同伴する教会を目指して

意見の合致点

a)シノドスの歩みの最初の 2 年間と、本総会を含め、耳を傾けることは、わたしたちの体験
をもっともよく表すことばです。これは、耳を傾ける行為を、与え、受け取ることです。耳を
傾けるということは、深い人間的現実であり、各自が相手の旅に貢献し、自分自身の旅への貢
献を受け取るという互恵性のダイナミズムです。
b)地方教会レベルでシノドスの歩みに参加した多くの人々、とりわけ教会と社会の中で周縁
化されて苦しむ人々は、教会において、また教会によって、語り、聞いてもらうよう招かれた
ことで大変驚きました。深く耳を傾けられることは、肯定され尊厳が認められる体験であり、
人々や共同体を引き込む強力な方法です。
c)イエス・キリストを人生の中心に据えるには、ある程度、自己を空にすることが必要です。
この観点において、耳を傾けることは、相手のために空間を空けるために、喜んで「中心から
外に出る」ことを意味します。わたしたちはこのことを、霊における会話のダイナミズムの中
で経験してきました。それは、各人が自分の限界と自分の視点の偏りを認識することを強い
る、厳しい禁欲的な実践です。このため、教会共同体の境界を越えて語りかける神の霊の声に
耳を傾ける可能性が開かれ、変化と回心の旅を始めることができるのです。
d)耳を傾けることにはキリスト論的意義があります。つまり、出会った人に対するイエスの
態度を採ることを意味するのです(フィリピ 2・6−11 参照)。また、自らの名ではなく、共同
体の名において行動する、洗礼を受けた人々の行動を通して耳を傾けるのは教会なので、教会
的価値をももっているのです。
e)シノドスの歩みを通して教会は、聞いてもらい同伴を求める多くの人々やグループに出会
いました。まず第一に、わたしたちは若者を挙げますが、彼らが耳を傾け同伴してほしいとい
う望みは、若者シノドス(2018 年)と本総会の中で強く鳴り響き、若者の優先的選択の必要性
が確認されました。
f)教会は、聖職者や教会に任命された人による性的、霊的、経済的、組織的、権力的、良心的
虐待の被害者や犠牲者の声に、特別な注意と感受性をもって耳を傾ける必要があります。真に
耳を傾けることは、いやし、悔い改め、正義、和解に向かう道の基本要素です。
g)本総会は、それらがいのちの源泉と認識し、結婚と性倫理に関する教会の聖伝と教導権に
忠実でいる選択肢として独身生活を受け入れるすべての人々へ、親しみと支援を表明します。
キリスト教共同体は彼らに寄り添い、耳を傾け、その献身に同伴するよう招かれています。
h)さまざまな方法で、結婚の状態、アイデンティティ、セクシュアリティのために教会から
疎外され、あるいは排除されていると感じる人々も、耳を傾け、同伴してもらうことを求めて
います。本総会の中では、教会に傷つけられ、無視されていると感じている人々に対する深い
愛、いつくしみと共感の気持ちが感じられました。彼らは、裁かれることを恐れることなく、
安心して話を聞き、尊重してもらえる「家」と呼ぶべき場を欲しています。耳を傾けること
は、神のみ旨を探し求めてともに歩むための前提条件です。キリスト者はあらゆる人の尊厳も
つねに尊重しなければならないことを、本総会は何度も繰り返し語っています。
i)不平等社会の中で、さまざまな形の貧困、排除、周縁化に苦しむ人々もまた、話を聞いても
らい同伴を求めて教会に目を向けます。こうして耳を傾けることで、教会は貧困と周縁化の現
実を理解し、苦しむ人々への友情のうちに寄り添えるようになるのです。重要なのは、苦しむ
人々によってまた、教会が福音化されるということです。耳を傾けることで彼らの視点に気づ
き、具体的に彼らの側に身を置くことができ、彼らによって福音化されるのです。獄中の人々
の声に耳を傾け、同伴する奉仕に従事しているすべての人に感謝し、励ましたいと思います。
とりわけ彼らは、主のいつくしみ深い愛を体験し、共同体から孤立していると感じないように
する必要があります。教会に代わって、彼らは主のことばを実現します。「牢にいたときに訪
ねてくれた」(マタイ 25・36)。
j)多くの人が、しばしば見捨てられそうになるほどの孤独を体験します。高齢者や病者は、社
会から見えない存在となることがよくあります。小教区やキリスト教共同体が彼らに寄り添
い、耳を傾けるよう励ましたいと思います。「病気のときに見舞い」(マタイ 25・36)という
福音のことばに触発されたいつくしみのわざは、当事者にとって、また地域社会の絆をはぐく
むためにも深い意義を有します。
k)結局のところ、教会は、声が届きやすい人たちだけでなく、すべての人の声に耳を傾けた
いのです。地域によっては、文化的・社会的な理由から、若者、女性、マイノリティといった
特定グループの人々が、公共空間や教会の場で自由に自己表現することが比較的困難になって
いることがあります。抑圧的で独裁的な体制下で生活する場合も、こうした自由が奪われま
す。キリスト教共同体において権威が、解放するようにではなく抑圧的に行使された場合、同
じことが起こりえます。

検討課題

l)耳を傾けるには無条件の受容が必要です。これは、福音を告げ知らせることを妥協したり、
提案された何らかの意見や立場を支持したりすることではありません。イエスは、無条件に耳
を傾ける人々に対し新たな地平と道筋を開きました。わたしたちは、出会う人々と救いの「よ
い知らせ」を分かち合うために、同じことをするよう招かれています。
m)世界の多くの地域で広まっている、キリスト教小共同体は、洗礼を受けた人たちによる、また洗礼を受けた人たちの間での耳を傾ける実践を育てています。とりわけ都市の文脈にそれを適応できる方法を探求することで、その潜在力を高めることが求められています。

提案

n)排除されていると感じる人々が、より歓迎する教会を体験できるために、わたしたちは何
を変える必要があるでしょうか。耳を傾け同伴することは単なる個人の行為ではなく、教会活
動の一形態です。したがって、霊的同伴を十分活用しながら、さまざまなレベルで、キリスト
教共同体の通常の司牧計画や運営組織の中に、それらは位置づけられるべきです。シノドス的
教会は耳を傾ける教会であることが必要で、この責任は実践に移されなければなりません。
o)わたしたちは、この働きを一から始めるのではありません。もっとも貧しい人の中、移住
者や難民の中で同伴するカリタスの働きや、奉献生活者や信徒の団体に結びついた他の多くの
文脈を含め、数多くの団体や組織がすでにこの貴重な、耳を傾けるという働きを遂行していま
す。こうした働きをより統合的な方法で地方教会の共同体に結びつけることで、それが誰かに
委託された働きではなく、共同体全体の生活の一部と見なされるようになります。
p)さまざまな形で耳を傾け同伴する奉仕を行う人々は、遭遇する人の体験を考慮に入れ、適
切な訓練を受ける必要があります。また、彼らが共同体から支持されていると感じられること
も必要です。彼らの側としては、共同体が、自分たちに代わって行われる奉仕の意義を十分に
理解し、こうして聞き取った成果を受け取る必要があります。この奉仕をより重要なものとす
るために、耳を傾け同伴する奉仕職を確立するよう提案します。それは洗礼に基づき、さまざ
まな文脈に適用されるべきです。この奉仕職の授与方法は、共同体の関与を促進するものでな
ければなりません。
q)SECAM(アフリカ・マダガスカル司教協議会連盟シンポジウム)は、一夫多妻制の問題に
ついての神学的・司牧的識別と、一夫多妻制のもとで信仰を求めている人々への同伴を促進す
るよう勧められています。

 

17.デジタル環境における宣教

意見の合致点

a)デジタル文化は、わたしたちが現実をどのようにとらえ、その結果、自分と、互いと、周
りの人と、さらに神とさえどう関わるかについて、根本的な変化をもたらすものです。デジタ
ル環境は、わたしたちの学習プロセス、時間・空間感覚、身体性、対人関係、そして実際、考
え方の多くを変えてしまいます。現実と仮想という二元論は、人々、とくに、いわゆる「デジ
タル・ネイティブ」の若者たちの現実と経験を適切に表現するものではありません。
b)したがって、デジタル文化は別個の宣教領域というよりも、現代文化における教会の重要
なあかしの一側面です。だからこそ、シノドス的教会において特別な重要性を有するのです。
c)宣教師たちはいつも、キリストとともに新たな未開拓地へと旅立ち、聖霊は彼らを押し出
し、導いてきました。携帯電話やタブレット端末から入る空間を含め、人々が意味と愛を求め
るあらゆる空間で、今日の文化に手が届くかどうかはわたしたち次第です。
d)まずデジタル文化を理解することなしに、デジタル文化を福音化することはできません。
若者、中でも神学生、若い司祭、若い奉献生活者はその文化に直接、深く触れていることが多
く、デジタル環境の中で教会の宣教を実践していくのに一番ふさわしく、また聖職者を含め、
共同体の他の人々が、その文化の原動力により親しめるよう同伴するのにも適しています。
e)シノドスの歩みの中で、「デジタル・シノドス」(「教会は聞いている」プロジェクト)
の取り組みは、宣教の鍵となるデジタル環境の可能性、それに携わる人々の創造性と寛大さ、
そして彼らに訓練、同伴、仲間同士の交流と協力の機会を提供する重要性を表しています。

検討課題

f)インターネットは、子どもたちや家庭の生活の中でますます存在感を増しています。それは
わたしたちの生活を向上させる大きな潜在力を秘めていますが、いじめ、誤情報、性的搾取、
依存症などを通して、危害や傷害を与えることもあります。ネット空間が安全であるだけでな
く、霊的にいのちを与えるものであることを保証するために、キリスト教共同体がどのように
家庭を支援できるかを考えることは急務です。
g)優れたカテケージスや信仰養成を提供する、貴重で有益な教会関連のオンラインの取り組
みは数多くあります。残念なことに、信仰に関連する諸課題が、表面的、偏向的、さらに憎し
みに満ちた形で扱われているサイトも存在します。教会として、また個人のデジタル宣教者と
してわたしたちは、オンライン上の自分の存在が、コミュニケーションをとる人々にとって成
長の体験となるようにするにはどうしたらよいかを自問する義務があります。
h)オンラインの使徒的活動は、伝統的に理解されてきた地域の境界を越えて広がる空間と広
がりをもっています。このことは、どのようにそれが規制され、どの教会権威が監督責任を負
うのかという重要な問題を提起しています。
i)わたしたちはまた、新たなデジタル宣教の未開拓地が、既存の小教区・教区組織の刷新に与
える影響についても考えなければなりません。ますますデジタル化する世界において、どのよ
うにすれば、すでに行っていることを保存しようとする考え方にとらわれることなく、その代
わり、宣教の新たな形のためのエネルギーを解き放つことができるでしょうか。
j)新型コロナウィルス感染症の流行は、創造的なオンライン司牧の取り組みの幅を広げ、それ
はとくに、地域社会の高齢者や社会的弱者が経験する孤立・孤独体験の影響を軽減しました。
カトリックの教育機関もまた、オンライン・プラットフォームを効果的に活用し、ロックダウ
ン期間中も養成とカテケージスを提供し続けました。この経験がわたしたちに何を教え、デジ
タル環境における教会の宣教にどのような継続的利点があるかを評価する必要があります。
k)若者はまさに美を追求するものですが、多くの若者は、わたしたちがそこに彼らを招こうとし続けている教会の物理的空間を見放して、その代わり、オンライン空間を好んでいます。このことは、どのように彼らと関わり、彼らに養成とカテケージスを提供しようとするかに示唆を与えます。これは、司牧的観点から検討すべきことです。

提案

l)すでにデジタル宣教者として活動している人たちを認め、養成し、同伴する機会を提供し、
一方でまた、彼らが互いの中でネットワークづくりをすることを助ける必要があります。
m)他宗教の人や、信仰をもたなくても、人間の尊厳、正義、共通の家のケアを促進する共通
の目的のために協力する人を含む、協力的インフルエンサーのネットワーク作りは重要です。

 

18.参加のための諸組織

意見の合致点

a)信仰深い神の民の一員として、洗礼を受けたすべての人は、それぞれの召命、能力、経験
に応じて、宣教のための共同責任を負っています。したがって、全員が、全体としてのキリス
ト教共同体と教会を改革するステップを想像し、識別することに貢献するのです。このように
して教会は「甘美と慰めに満ちた福音化の喜び」(訳注:パウロ六世『福音宣教』80 項)を体験するのです。シノダリティの目的は、それを形づくる組織体の構成と機能において、宣教です。共同責任は宣教のためであり、つまり宣教が、わたしたちは真にイエスの名によって集まっているかを証明し、宣教が、参加する組織を官僚主義的な限界と世俗的な権力の論理から解放し、宣教が集いを実りあるものにするのです。
b)最近の教会の教え(とりわけ第二バチカン公会議『教会憲章』と教皇フランシスコ使徒的
勧告『福音の喜び』)に照らすと、宣教におけるすべての人のこの共同責任は、キリスト教共
同体、そして、そのすべての奉仕、すべての機関、各司牧団体を含む地方教会全体の構造の基
礎となる基準でなければなりません(一コリント 12・4−31 参照)。世界における宣教のため
に信徒を正当に認知することによって、キリスト教共同体のケアを司教と司祭だけにゆだねる
口実は成り立たなくなるのです。
c)もっとも卓越した権威は神のことばであり、それは、参加型の団体のあらゆる会議、あらゆる意見聴取、あらゆる意思決定プロセスにひらめきを与えるものでなければなりません。そのためには、あらゆるレベルにおいて、集いがエウカリスチアから意義と力を引き出し、祈りの中で聞き、分かち合われたみことばに照らされて行われる必要があります。
d)宣教するシノドス的共同体の識別と意思決定のためのさまざまな評議会の構成には、使徒
的な気質をもつ男女の参加がなければなりません。彼らは、教会に頻繁に出席しているからで
はなく、日常生活の中で真に福音的な証言者であることによって任命されるのです。神の民
は、世界とその周縁に住むことによってすでに宣教を生きている人々の声を、参加型の団体を
含め、自分たちの中で共鳴させることができれば、より宣教的になります。

検討課題

e)わたしたちが分かち合ってきたことを踏まえれば、重要なのは、多くの人が自分には無理
だと感じている中、いかにしてさまざまな評議会への参加を促せるかを問うことです。シノダ
リティは、各メンバーが教会の宣教のためのプロセスと意思決定に関与することによって成長
します。この意味で、わたしたちは、新たに生まれる教会内のキリスト教小共同体に励まされ
ています。彼らは神のことばとエウカリスチアを中心に、日々親密さをもって生きています。
f)『愛のよろこび』の中で教皇フランシスコは、教会が参加型諸機関の複合体へと変貌するよ
うゆだねており、この任務はこれ以上先延ばしできないものです。愛する関係が複雑になった
状況で生活する、洗礼を受けた男女の参加が、「さまざまな教会奉仕に……あってよいので
す。ですから、典礼、司牧、教育、組織といった領域で、まさに今行われている、しかし乗り
越えることのできる、さまざまな形の排除についての識別が必要になります」(299 項)。こ
の識別は、いくつかの地方教会で体験されている、小教区・教区共同体の参加型団体からの彼
らの排除にも関わることです。
g)教会の交わりの独自性という観点から、シノダリティの諮問的側面と審議的側面をどのよう
に織り交ぜることができるでしょうか。神の民のカリスマと奉仕職のたまものが多様であると
すれば、さまざまな参加型団体での助言、識別、決定の働きをどう統合できるでしょうか。

提案

h)神の民が福音化の使命の能動的主体であるという理解に基づき、キリスト教共同体と地方
教会における司牧評議会の義務的性格を法制化するよう提案します。また、信徒がその洗礼に
よって、決定を識別する上で果たすことができる役割を認識し、信徒の適切な存在感をもっ
て、 参加する団体を強化することが望ましいでしょう。
i)参加型団体は、責任を行使する人が説明責任を体験する、最初の事例となります。わたした
ちは彼らの取り組みを暖かく受け入れ、支援する一方で、彼らは、自分たちがその表現となっ
ている、共同体に対する説明責任の文化を実践するよう招かれています。

 

19.教会全体の交わりにおける教会のグループ化

意見の合致点
a)聖霊はそのたまものを共通善のために豊かに分配し、したがってわたしたちは、教会全体
の交わりの中で、各教会が多くのものを提供できると確信しています。教会をキリストのから
だとして見るとき、さまざまなメンバーが相互に依存し合い、同じいのちを分かち合っている
ことがより簡単に理解できます。「一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一
つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです」(一コリント 12・26)。ですから
わたしたちは、このような考え方から生まれる霊的態度、すなわち謙遜と寛容、尊敬と分かち
合いを育てたいのです。また相互の知識を深め、必要な組織を準備する意欲も重要で、それに
よって、霊的豊かさ、宣教的な弟子性、物質的な物のやり取りが具体的現実となるのです。
b)各地方教会のグループ化という問いは、教会におけるシノダリティの完全な実施にとって
基本であることが証明されました。地方教会のグループ化を含む、シノダリティと団体性の事
例をどう構成するかという問いに対して、本総会は、シノドスの歩みの第 1 フェーズを適切に
行うために、各国司教協議会と大陸別総会が行う教会的識別の重要性について合意しました。
c)シノドスの歩みは、『新教会法典』と『東方典礼教会法典』によって規定されている諸団体
が、これらの団体が地方教会から理解されることによって、より効果的にその機能を発揮する
ことを示しました。教会(Ecclesia tota[教会全体])が諸教会の交わりであるという事実によって、各司教は、教会の一司牧者としての自らの奉仕職を構成する一つの側面として、すべての教会のケア(sollicitudo omnium Ecclesiarum)の務めを、より直接的に、義務として果たすことが必要となります。
d)各国司教協議会は、シノドスの歩みの第 1 フェーズで決定的役割を果たしました。その歩
みは、大陸レベルでのシノダリティと団体性の必要性を浮き彫りにしました。これらのレベル
で活動する諸団体は、地域の現実とインカルチュレーションのプロセスを尊重しながら、シノ
ダリティの実践に貢献しています。本総会は、こうした方法で、教会統治における画一化と中
央集権化のリスクを回避できると確信しました。

検討課題

e)新しい教会組織を作る前に、既存の組織を強化し、活性化する必要があります。また、教
会のグループ化に関する改革の意義について、教会論的・教会法的研究が必要であり、そうす
ることで、それらはより十全にシノドス的性格を有するようになるのです。
f)第 1 千年期の教会におけるシノドス的実践を考察する中で、現在の教会法の秩序の中で古代
の制度をどのように復興することができ、司教協議会のように、それらが新しく創設された制
度と調和できるのかを研究するよう提案します。
g)司教協議会の教義的・法的性格をさらに研究し、地方教会で起きる教義的問いを含む、団
体性に基づく行為の可能性を認め、その結果、自発教令『アポストロス・スオス』に関する考
察を再開する必要があります。
h)部分教会会議(全体公議と管区会議)(訳注:『新教会法典』439 条)に言及する条文を改訂し、最近のオーストラリアの全体会議でえられた免除の例に従い、神の民の参加を増やすことができるでしょうか。

提案

i)教会法ですでに規定されている組織の中で、教会管区、または管区大司教座は、その地域内
の各地方教会の交わりの場として復興、強化されるべきです。
j)関係する当局は、教会のグループ化について明らかになった洞察に従い、地域、国、大陸レ
ベルでのシノダリティを実施すべきです。
k)必要な場合には、どの司教協議会にも属さない司教たちにとって有益で、国境を越えた教
会間の交わりを促進する、国際的な教会管区の創設を提案します。
l)東方典礼カトリック教会の位階も存在するラテン典礼諸国では、彼ら自身の法典で確立され
た統治の自律性はそのままに、東方典礼の司教をその国の司教協議会に加えるよう勧めます。
m)各大陸の特殊性を尊重しつつも、司教協議会の参加と、神の民の多様性を表す代表者たち
を擁する諸教会の参加を十分考慮した、大陸別総会の教会法的な構成がなされるべきです。

 

20.世界代表司教会議(シノドス)と教会会議

意見の合致点
a)「ともに歩む」体験で疲れてきたときでさえ、本総会は神の民であることの福音的な喜び
を感じていました。シノドスの旅の本段階における新しい体験は、概して歓迎されました。そ
のもっとも顕著なものは、以下のとおりです。つまり、シノドス開催のイベントからプロセス
への移行(使徒憲章『エピスコパリス・コムニオ』で示されたとおり)、司教とともに他のメ
ンバー、女性と男性の参加、友好使節の積極参加、総会準備のための霊的黙想会、聖ペトロ大
聖堂でのミサ、祈りの雰囲気と霊における会話の手法、さらに、パウロ六世ホールでの総会手
配自体もそうです。
b)シノドス総会は、その極めて司教のものとしての性格を保ちつつ、この機会に、教会生活
のシノドス的な次元(すべての人の参加)、団体性的な次元(教会全体に対する司教たちのケ
ア)、首位的な次元(交わりの保証人であるローマの司教による奉仕)の間の内在的なつなが
りを明らかにしました。
c)シノドスの歩みは、昔も今も、わたしたちを励ます恵みのときです。神は、教会の生活と宣
教を導くことのできる、シノダリティという新たな文化を経験する機会をわたしたちに与えて
います。しかし、宣教するシノダリティへの個人としての回心がもし欠けているなら、共同責
任の組織を作り出すだけでは不十分だということをわたしたちは思い起こしました。シノドス
の歩みは、教会のあらゆるレベルにおいて、その奉仕職とカリスマによってシノドスに参加す
るよう招かれた人々の、個人としての責任を減少させるものではなく、むしろ、よりいっそう
それを求めるものなのです。

検討課題

d)シノドスの旅の証人として、司教以外のメンバーの存在は評価されました。しかし、正式
参加者としての彼らの存在が本総会の司教的性格に与える影響については疑問が残ったままで
す。司教の特定の務めが十分に理解されない危険性を指摘する人もいます。司教ではない参加
者が本総会に招かれる基準もまた、明確にする必要があります。
e)2021 年 11 月の第 1 回ラテンアメリカとカリブ教会会議、ブラジルにおける神の民の組織、
オーストラリアの全体会議といった経験が報告されました。神の民の全員の意思決定への貢献
と、司教独自の任務とを(過度に分離することなく)区別しながら、今後、シノダリティと団
体性をいかに統合していくかを見極め、深めることが残された課題です。シノダリティ、団体
性、首位権の明確化は、静的あるいは直線的な形で解釈されるべきではなく、差異のある共同
責任における、動的な循環性に従って解釈されるべきです。
f)地域レベルにおいて、連続的なステップ(教会会議に続いて司教総会)を考えることは可能
な一方で、カトリック教会全体については、これがどのように提案されるかを明らかにするこ
とが適切だと考えられます。本総会で採用されたやり方がこの必要に応えると考える人もいれ
ば、教会会議に続いて司教総会を開催してその識別を結論づけるよう提案する人もいます。さ
らに、シノドス総会のメンバーの役割を司教たちに限定すること好む人もいます。
g)さまざまな学問分野の専門家、とりわけ神学者や教会法学者による、本総会への働きやシ
ノドス的教会の歩みへの貢献もまた、何らかのものを提供します。
h)また、シノドスの歩みと、インターネットやメディアによるコミュニケーションとの相互
作用についても考える必要があるでしょう。

提案
i)教会のあらゆるレベルで、シノドスの歩みが評価されるべきです。
j)世界代表司教会議(シノドス)第 16 回通常総会第 1 会期の成果が評価されるべきです。

旅を続けながら

「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか」(マルコ 4・30)
主のことばは、教会のことばよりも優先されます。弟子たちのことばは、たとえシノドスのことばであっても、主ご自身が語ることの反響にすぎません。
み国を告げ知らせるために、イエスはたとえ話で語ることを選び、自然界、仕事場、日常生活のさまざまな要素など、人間生活のありふれた体験の中に、神の神秘を語るイメージを見出したのです。
こうしてイエスは、み国はわたしたちを超越するものではあるものの、遠い存在ではないことを知らしめたのです。この世のものの中に神の支配を見るか、それとも決して見ないか、のどちらかです。
地に落ちた一粒の種に、イエスは自らの運命を見ました。それは、価値も意義もなく朽ち果てていく運命にあるものでありながら、いのちのダイナミズム、止めることのできない、予測不可能な、過越のダイナミズムをもっているものです。いのちを与え、多くの人のためのパンとなるよう運命づけられたダイナミズムです。そのパンは、エウカリスチアとなるよう運命づけられました。
今日、人々が互いに覇権を争い、目に見えるものに執着する文化の中で、教会はイエスのことばを響かせ、その力をすべて生かして再びいのちを吹き込むよう求められています。
「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか」(訳注:マルコ 4・30)。主のこの問
いは、いま、わたしたちの目の前にある仕事を照らしてくれます。いくつかの分野に分散し、すべてを効率と手続き至上主義の論理に落とし込めばいいという問題ではありません。そうではなく、この報告書の多くのことばや提案の中から、小さな種に見えても未来を担うものを掌握し、それが多くの人のために成長し成熟できる土壌にどうやって届けるかを構想することなのです。マリアはみことばを聞いた後、ナザレで自問しました。「どうして、そのようなことがありえましょうか」(ルカ 1・34)。答えはただ一つ。霊の陰にとどまり、その力に包まれることです。
これから第 2 会期までの期間を見据えて、これまでの旅路と、それを祝福してくださった主に感謝しましょう。わたしたちは次のフェーズを、旅を続ける忠実な神の民にとって確かな希望と慰めのしるしであるおとめマリアの執り成しと、今日その祭日を祝う聖シモン聖ユダ使徒の執り成しにゆだねます。この「まとめ」報告書が象徴する小さな種を、わたしたち全員が迎え入れるよう招かれているのです。
聖霊とともに!
ローマ、2023 年 10 月 28 日、聖シモン聖ユダ使徒の祝日

2024年1月19日

・菊地・日本カトリック司教協議会会長がシノドス総会第一会期の参加報告

(2023.12.31 カトリック・あい)10月の世界代表司教会議(シノドス)第16回通常総会第一会期に出席した菊地功・日本司教協議会会長(東京大司教)が12月14日付けて、参加報告を発表した。中央協議会ホームページによる全文以下の通り。

 

 

会議名: 世界代表司教会議 第16回通常総会
日時: 2023年9月29日から10月29日
場所: サクロファノ黙想の家(9月29日から10月3日)
パウロ六世謁見ホール(10月4日から最終日まで)
宿舎(菊地): 教皇庁アカデミア(外交官養成所)
日本からの参加者: 菊地功(司教団選出代表)、
西村桃子(教皇任命議長代理)、
弘田鎮枝(教皇任命専門家)
テーマ: 「ともに歩む教会のため―交わり、参加、そして宣教」
参加者: 投票権を持つ「メンバー」: 363名
各国の司教協議会から選出された代表のほか、120名は教皇様の指名。教皇様の指名の中には、枢機卿や司教のほか70名の司祭・修道者・信徒が含まれ、そのうちの54名が女性。

概要:

会議に先立って、参加者はエキュメニカルな祈りの集いに参加した後バスで移動し、ローマ郊外のサクロファノで黙想会に参加した。
霊的指導は、朝の祈りとミサの前にSr. Maria Grazia Angelini O.S.B.が、そして午前中に二回の講話がFr. Timothy Radcliffe, O.P.によって行われ、午後にはグループに分かれて「霊的な会話」が実践された。
なお講話のテキストは以下のリンクで公開されている。

https://www.synod.va/en/highlights/retreat-for-the-participants-of-the-synodal-assembly.html

10月4日の教皇司式の開会ミサで始まったシノドス本会議では、参加者全員が35のテーブルに分かれ、各テーブルには11名ずつが配置された。各テーブルには12のタブレットが置かれ、テーブルの真ん中には四方向に向かってモニターが配置され、そのモニターの中心には発言者を映し出すための小さなビデオカメラが設置されていた。
今回のシノドスで一番重要な位置を占めるのが、「霊的な会話」という分かち合いであり、その分かち合いを単なるおしゃべりではなく「霊的な会話」にするためには、それなりのトレーニングを受けた司会者(ファシリテーター)が不可欠。テーブルに参加者11名にプラスしてもう一台のタブレットがあるのは、このファシリテーターのため。
35のテーブルそれぞれに配置されたファシリテーターは、事前の研修を受けていたとはいえ、一番骨の折れる仕事は、事前に定められた3分という制限時間を越え、時に長々と話し続ける聖職者、特に枢機卿や司教の発言を遮って、与えられたテーマからそれないように、そして制限時間を守るように導くことであった。ファシリテーターは男女の信徒や司祭・修道者。
この丸テーブルで、枢機卿、司教、司祭、修道者、信徒が、同じテーマについて同じ持ち時間で、自分の思いを分かち合う光景は、今回のシノドスの「ともに歩む」教会を体現する一番の象徴的な光景であった。
会期中は、討議要綱の四つの課題(A, B1, B2, B3)についての「霊的な会話」が進んだ段階で全体会議が行われ、それぞれのグループから3分間の発表と、自由な発言が許された。このグループ別の発表と自由な発言の時間を統括する、議長代理として教皇様から日本の西村桃子さんが任命され、この議長代理には今回初めて枢機卿以外も任命され、その中には西村さんを含め二名の女性がおり、参加者は教会の歴史に刻まれる、女性の活躍の「初めて」の出来事を目撃した。
ほとんどの全体会に出席された教皇フランシスコは、「自分の好き嫌いではなくて、主役は聖霊」という言葉を繰り返された。実際、従来のシノドスであれば、事前にある程度結論を見越して最終の答申書の原案を作成し準備しておくことが可能であった。それは基本的には、事前に各司教協議会から提出された回答に基づいて作成された討議要綱に沿って会議が進められ、最後はアジェンダに従って多数決で決するから。
しかし今回は全く異なっていた。丸テーブルでの「霊的な会話」に何度も参加して気がついたのは、繰り返すうちに、想像もしなかった結論がそのテーブルから発表されていったこと。事前には全く想像もつかない内容が、小グループのコンセンサスとして発表されていくために、最終文書のドラフトは、最後週がはじまるまで完成しなかった。
その霊的な会話は、ほとんどすべての参加者が、実際にその場に参加し、実際に耳を傾けた、忍耐のうちに過ごした時間であり、さらには、その霊的な会話は、教会の一部の声ではなく、まだ十分ではないものの、すべての人を平等に招き入れた小共同体でなされた。
シノドス的教会とは、どこに進むのかあらかじめ計画を定めることが難しい教会である。
シノドス的教会とは、忍耐を必要として、じっくりと時間をかける手間を惜しまない教会である。
シノドス的教会とは、それを構成するすべての人が平等に発言し識別に参加する、一つのキリストの体としての教会である。
その意味で、今回のシノドスは何かを決める会議ではなく、聖霊による導きを共同識別するすべを身につけるシノドスであった。何かが決まったり決まらなかったりすることに一喜一憂せず、このプロセスを具体的に生きることの重要性を理解したい。
シノドス第一会期は、最終週に「神の民への手紙」を採択し、今回のシノドスに参加した一同の思いを教会全体へ伝えた。その後、様々な意見が噴出したため、最終文書のドラフトは何度も書き直され、最終案は10月28日土曜日の午後に初めて提示され、そのまま段落ごとの採決に入り、三分の二以上の賛成のもとで採択された。来年10月の第二会期の作業文書となる。

今後について:

今回の第一会期のはじめに、来年2024年10月の第二会期の参加者は、第一会期と同じ参加者であることが告知された。
また会期中最終週には、参加していたすべての司教協議会会長がシノドス事務局に招集され、来年に向けた道筋について意見交換を行ったが、何ら具体的な決定はなかった。
その後、現時点では、シノドス事務局から来年に向けた準備についての指示は全くない。

提案:

第一会期の実りを分かち合い、第二会期に向けて準備する中でシノドスの精神を広めるために、来年度末(2025年3月)までのシノドス特別(ad hoc)委員会の設置を提案する。

  • メンバーは、アジア大陸シノドスに参加した日本の代表、西村桃子さん、辻明美さん、高山徹神父、東京教区シノドス担当者の小西神父、そして菊地功。
  • 目的は、シノドス第一会期の実りである最終文書の内容についての啓発を行い、シノドスの精神を広める中で、第二回期に向けての全国的な意識の高揚を図る。
  • 基本的に会議はオンラインで行い、セミナーなどもオンラインで行う予定。
  • シノドス第一会期最終文書の翻訳を急ぎ、小冊子として出版する

以 上

 

2023年12月31日

・来年10月のシノドス総会第二会期に向け、バチカンが世界の司教たちに書簡を送付-”シノドスの道”を歩み続けることを強調するが

Participants in the 2023 Synod of Bishops on synodality in the Paul VI HallParticipants in the 2023 Synod of Bishops on synodality in the Paul VI Hall 

*議論すべき課題

 これまでに明らかになった特定の課題について、書簡は、「一部の課題については世界の全教会のレベルで、またバチカンと協力して、熟考される必要がある」と説明。 具体的には、「ラテン典礼に関する教会法典(CIC)、および東方典礼に関する教会法典(CCEO)の見直しを念頭に置いた予備調査」「 叙階司祭の育成に関する教会法の規定」「教会における司教と修道者の相互関係に関する文書『Mutuae Relationes』、「助祭職、特に女性の助祭叙階を認めることに関する神学的および司牧的研究の深化」などを挙げている

 これらの課題のリストは、シノドス会議の成果として教皇に提出されることになる。 全大陸から選ばれた専門家グループは、シノドス事務局が調整役となるバチカンの担当部局とともに、教皇が示した課題について「シノドス的な進め方」で取り組むよう求められ、取り組みの進捗状況についてはシノドス総会の場で報告されることになる、としている。

*福音宣教で「シノダル(共働的)な教会」となる方法に焦点を当てる

 そして、来月に予定される(専門家グループの)議論は、「復活された主と、主の福音を今日の世界に宣べ伝える、唯一の使命の遂行にあたって、それぞれの信徒、それぞれの教会の、独自性のある貢献を高めるあり方と、そのために取るべき手段を特定するために、『宣教の使命においてシノダルな教会はどうあるべきか』という基本課題に焦点があてられる。

 議論においては、「教会の構造をより効率的にするための技術的、手続き的な改善計画」に限定せず、「シノドスの一致と多様性のダイナミズムを持つ、宣教への取り組みの具体的な形を反映したものでなければならない」とし、教皇フランシスコの出された使徒的勧告「福音の喜び」の27項を引用している-「私は、すべてを作り替えるような宣教、という選択肢を夢見ています。 それは自己保存のためでなく、教会の慣習、物事の進め方、時間とスケジュール、言語と構造を、今日の世界を福音化のために適切に導くことができるように、すべてを変えることのできる宣教の推進力です。 司牧的回心が求める(教会の)構造の刷新は、この観点からのみ理解することができます-構造をより使命志向にする取り組みの一環として(…)」と。

 

 

*2つのレベルで歩みを進める

 

 書簡で、新たに出された指示によれば、来年10月の総会第二会期に至る”シノドスの道”の取り組みは、「常に(シノドス総会第一会期の)総括文書全体を参照」しながら、2つのレベルでなされる必要がある。一つは、 現地教会レベルで、ここでは、「教会は、神の民のすべての成員の使命における多様な『共同責任』をどのように強化できるか」が課題となる。具体的には、「福音宣教の使命に関連する構造、識別プロセス、意思決定プロセスを、どのようにして共同責任を形成し、促進できるか」「 このような共同責任をよりよく表現するために、教会のどの部署や参加組織を刷新、あるいは新規に導入できるか」などだ。 教会と教皇との関係に関わる2つ目の レベルに関しては、「教会全体の次元と現地教会の根幹の動的なバランス」を見出すために、それらをどのように明確に表現するかが課題となろう。

 以上すべてを念頭に置いて、シノドス事務局は、各現地教会にさらなる話し合いを進めるよう求めている。

 

 

*”ゼロ”から始めない

 また書簡では、”シノドスの道”の歩みは、ゼロから開始されるわけではないため、「2021年から2023年の歩みの最初の段階で行われた、耳を傾け、如何を交換するプロセスを繰り返す必要はない」とも説明。 新たな段階では、教区レベルの参加組織とすでに確立されているシノドス・チームに加えて、「神の民の中でさまざまな経験、スキル、カリスマ性、奉仕活動を表現し、その主張を表明する人々やグループを巻き込むことが重要になる…  これらには、神学者や教会法学者、地域の学術機関が含まれる」としている。

 

*世界の各教区からの報告・提言は 2024 年 5 月 15 日までにシノドス事務局に

  世界の各司教協議会と東方教会の同等組織は、教区からの報告・提言を集め、最大8ページに要約して、2024年5月15日までにシノドス事務局に送付する任務を負う。 集められた資料をもとに、来年10月の総会第二会期に向けた「Instrumentum Laboris (討議要綱)が作成される。

*シノダル(共働的)な動きを活かし続ける

 書簡では、現地教会が総会第一会期の総括文書全体に目を通し、それぞれが置かれた状況を反映した具体的な要望を集めるように、求められている。 そうすることで、「神の民全体を巻き込む最も適切な取り組み(例えば、新たな取り組みを始めようとする活動、神学的徹底した研究、教会会議スタイルの祝典、草の根協議、少数民族や貧困の中で暮らすグループの声に耳を傾ける、 物議を醸す問題のためのスペースを作成する余白を作る、など)を推進することが可能になる」と書簡は述べている。

 また、 現地教会は希望すれば、実行された活動についての短い証言と生きた経験を最大 2 ページにまとめて、それぞれの司教協議会に送り、福音宣教の取り組みを成長させるために重要と考えられる優れた実践を共有することができる、としている。

  書簡は最後に、世界の司教協議会に対し、総会第二会期に至る道を「共に歩み、重要と思われる課題に徹底した検討を行い、受け取った報告・提言の概要をまとめ、2024年5月15日までにシノドス事務局長に再度送付すること」を求めている。司教協議会は、教会のシノドス(共働性)と宣教の側面を促進する取り組みを引き続き推進し、教区によって提示された証言と優れた実践を集め、 同じ期限までにシノドス事務局長に提出する必要がある。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 (「カトリック・あい」の見解:この書簡の表現は、あたかも、世界のすべての教会で、”シノドスの道”の歩みが教皇やバチカンの当局者たちが求めている通りに行われてきた、という前提に立っているように思われる。総会第一期では、そうなっていない地域も少なくないことが、議論の中で明らかになったはずだが、それが無視されているように見える。日本を含むアジアのいくつかの国の教会のように、シノドスの道の歩みの最初の段階が満足に行われていない教会はどうするのか、ということが念頭に置かれていないようだ。”成果”を急ぎ過ぎるところに、どれだけ成果を残せるのだろうか。教皇フランシスコの思いに、どこまで近づけるのだろうか。疑問を禁じ得ない)

2023年12月13日

・「ドイツの教会の”シノドスの道”はカトリック教会の一致を脅かしている」教皇、4人の女性神学者の訴えに返答

(2023.11.23 Crux Senior Correspondent  Elise Ann Allen)

デンバー発 – ドイツのカトリック教会が進める”シノドスの道”に批判的な同国の4人の女性神学者から提出された訴えに対して、教皇フランシスコが答えた書簡の内容が23日までに明らかになった。それによると、教皇は、「ドイツの教会の取り組みは、世界の教会との団結を壊す危険がある」と指摘し、具体的にいくつかの問題を挙げている。

 教皇の書簡が11月10日付け4人に対し送られたもので、この日は、ドイツの教会で、司教たちと一般信徒代表による新たな統治組織の創設のための会議がエッセンで開かれた日に当たっている。共同統治について、バチカンは以前から否定する立場をとっており、教皇も書簡で、このようなドイツの教会の対応は「sacramental structure」に調和できず、「こうした普遍的な教会の共通の道からいっそう逸脱する恐れのある具体的な動きについて、あなた方の懸念を共有します」と述べている。

 教皇の訴えを提出していたのは、米オハイオ州のスチューベンヴィル大学のカタリーナ・ウェスターホルストマン教授、バチカン国際神学委員会委員でもあるオーストリアのウィーン大学のマリアンヌ・シュロッサー教授、ドイツのドレスデン工科大学のハンナ・ファルコヴィッツ名誉教授、ジャーナリストのドロテア・シュミット氏の4人。

 ドイツの教会の”シノドスの道”は、聖職者による性的虐待問題で信徒の教会離れが深刻化する中で、教会の管理運営のありかたを抜本的に見直す目的で、教皇フランシスコが世界的な取り組みとして”シノドスの道”を始めるのに先んじて開始されていた。そして、全教会的な話し合いの中で、 新たな教会の共同統治体の他、 司祭の独身制を廃止や、女性の司祭叙階、同性カップルに祝福を与えること、司教の選出において一般信徒が一定の役割を果たすことなどが提案されている。

 このような動きは、ドイツの教会の中でも、反対意見が出て、論争を巻き起こしており、バチカン当局も、ドイツの教会当局者に行き過ぎた判断をしないよう警告してきている。 そして、ドイツの教会指導者との協議が1年以上にわたって続けられた後、バチカン当局は今年1月、ドイツの教会による、司教と一般信徒で構成する教会の統治組織「シノダル評議会」の創設構想に対して、”拒否権”を発動した。具体的には、ピエトロ・パロリン国務長官、マルク・ウエレット前司教省長官、ルイス・ラダリア前教理省長官の3枢機卿連名で、1月にドイツの司教団に書簡を送り、「シノドス評議会」が司教協議会の役割を取り上げ、教会の使徒継承に基づく司教の権威と指導に疑問を投げかけるものだ、と強く批判した。

 こうした中で、4人の女性神学者は、「カトリック神学、人類学、そして教会の実践の本質的な基礎」を「完全に再定義」しようとする、ドイツの教会の進み方は受け入れられない、と判断、11月に入って8日に、ローマ在住の友人を介して、教皇に訴えの書簡を提出していた。

 4人が公表した教皇から彼女らあての書簡の中で、教皇は「あなた方が言及した(ドイツの教会が進めている)シノダル委員会の設立」に対する懸念を、自分も共有していると述べ、さらに、シノダル委員会は、「カトリック教会のsacramental structureと調和できない形での諮問・意思決定機関である評議会を準備することを目的としており、このような評議会の設立は、1月16日に私が承認した書簡でバチカンによって禁止されました」と言明した。

 教皇はさらに、「さまざまな新たな評議会や委員会で『救い』を求めたり、ある種の閉鎖的なやり方で、同様のテーマを議論したり」しないように注意し、昨年夏のドイツの教会あての書簡で「祈り、悔悛と崇敬」に注意を向ける必要を強調した、と述べ、教会にとって大事なのは、「教会の外に出て、特に教会の入り口、路上、刑務所、病院、広場、街で見捨てられている人々に会いに行くこと」とし、 「私は確信しています。そここそが、主が私たちに道を示してくださる場所なのです」と強調した。

 そして、 「主があなたを祝福し、聖母マリアがあなたを守ってくださいますように。 私のために、そして団結という共通の関心事のために祈り続けてください」と所管を締めくくっている。

 ウェスターホルストマン教授は、シュトゥーベンビル大学の新聞発表で、教皇の迅速な対応と「特に教会のsacramental structureに関する明快な意見」に感謝し、 「教皇の言葉の明快さは、ドイツの教会だけでなく、教会全体が普遍的な教会の交わりの中で聖霊に耳を傾け続けるのに役立つと確信しています。 これはドイツの司教たちの大多数に、聖ペトロの後継者との一致を続ける誓いを思い出させることにもなるでしょう」と述べた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

・・Cruxは、カトリック専門のニュース、分析、評論を網羅する米国のインターネット・メディアです。 2014年9月に米国の主要日刊紙の一つである「ボストン・グローブ」 (欧米を中心にした聖職者による幼児性的虐待事件摘発のきっかけとなった世界的なスクープで有名。映画化され、日本でも全国上映された)の報道活動の一環として創刊されました。現在は、米国に本拠を置くカトリック団体とパートナーシップを組み、多くのカトリック関係団体、機関、個人の支援を受けて、バチカンを含め,どこからも干渉を受けない、独立系カトリック・メディアとして世界的に高い評価を受けています。「カトリック・あい」は、カトリック専門の非営利メディアとして、Cruxが発信するニュース、分析、評論の日本語への翻訳、転載について了解を得て、掲載しています。

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2023年11月24日

新・シノドス第16回総会第一会期・総括文書(公式英語訳)

XVI ORDINARY GENERAL ASSEMBLY OF THE SYNOD OF BISHOPS First Session (4-29 October 2023)
Synthesis Report A SYNODAL CHURCH IN MISSION

INTRODUCTION

 Dear Sisters, dear Brothers

 ”For in the one Spirit we were all baptized into one body” (1 Cor 12:13). This is the experience, full of joy and gratitude, that we have had in this First Session of the Synodal
Assembly held from 4 to 29 October 2023 on the theme “For a Synodal Church. Communion, Participation, Mission”. Despite our diversity of backgrounds, languages and cultures, through the common grace of Baptism we have been able to live these days together with one heart and spirit.

 We have sought to sing like a choir, many voices as though expressing one soul. The Holy Spirit has gifted us with an experience of the harmony that He alone can generate; it is a
gift and a witness in a world that is torn and divided.

   Our Assembly has taken place while wars both old and new have raged in the world, with dramatic consequences that are impacting upon countless victims. The cry of those who
are poor resounded among us, of those forced to migrate and of those suffering violence and the devastating consequences of climate change. We heard their cry not only through the media, but also through the voices of many present, who are personally involved in these tragic events whether through their families or their people. We have all, at all times, taken this cry into our hearts and prayers, wondering how our Churches can foster paths of reconciliation, hope,justice and peace.

  Our meeting took place in Rome, gathered around the successor of Peter, who confirmed us in our faith and encouraged us to be audacious in our mission. It was a grace to
begin these days with an ecumenical vigil, which saw the leaders and representatives of the other Churches and Christian communities praying together with the Pope at the tomb of Peter.

   Unity ferments silently within the Holy Church of God; we see it with our own eyes, and we bear witness to it full of joy. “How very good and pleasant it is when kindred live together in unity” (Ps 133:1).

  At the behest of the Holy Father, the Assembly saw other members of the People of God gathered together and around the bishops. The bishops, united among themselves and with the Bishop of Rome, made manifest the Church as a communion of Churches. Lay people, those in consecrated life, deacons and priests were, together with the bishops, witnesses of a process that intends to involve the whole Church and everyone in the Church. Their presence reminded us that the Assembly is not an isolated event, but an integral part and a necessary step in the synodal process. The multiplicity of interventions and the plurality of positions voiced in the Assembly revealed a Church that is learning to embrace a synodal style and is seeking the most suitable ways to make this happen.

  It is more than two years since we began the journey that has led us to this Session. After the opening of the synodal process on 9 October 2021, all the Churches, albeit at different paces, have engaged in a listening process at diocesan, national and continental stages, the results of which were recorded in their respective documents.

  This Session opened the phase in which the entire Church received the fruits of this consultation in order to discern, in prayer and dialogue, the paths that the Spirit is asking us to follow. This phase will last until October 2024, when the Second Session of the Assembly will complete its work, offering it to the Holy Father.

  The entire journey, rooted in the Tradition of the Church, is taking place in the light of conciliar teaching. The Second Vatican Council was, in fact, like a seed sown in the field of
the world and the Church. The soil in which it germinated and grew was the daily lives of believers, the experience of the Churches of every people and culture, the many testimonies of holiness, and the reflections of theologians. The Synod 2021-2024 continues to draw on the energy of that seed and to develop its potential. The synodal path is, in fact, implementing what the Council taught about the Church as Mystery and People of God, called to holiness.

  It values the contribution all the baptised make, according to their respective vocations, in helping us to understand better and practice the Gospel. In this sense, it constitutes a true act of further reception of the Council, prolonging its inspiration and reinvigorating its prophetic force for today’s world.

  After a month of work, the Lord is now calling us to return to our Churches to hand over to all of you the fruits of our work and to continue the journey together. Here in Rome,
we were not many, but the purpose of the Synod path called by the Holy Father is to involve all the baptised. We ardently desire this to happen and want to commit ourselves to making it possible. In this Synthesis Report we have collected the main elements that emerged in the dialogue, prayer and discussion that characterised these days. Our personal stories will enrich this synthesis with the tenor of lived experience, which no document can adequately capture.

   We will thus be able to testify to the richness of our experience of listening, of silence and sharing, and of prayer. We will also share that it is not easy to listen to different ideas, without immediately giving in to the temptation to counter the views expressed; or to offer one’s contribution as a gift for others and not as something absolute or certain.

   However, the Lord’s grace has led us to achieve this, despite our limitations, and this has been for us a true experience of synodality. By having practised it, we understand it better and have grasped its value.

   We understood, in fact, that walking together as baptised persons, in the diversity of charisms, vocations, and ministries, is important not only for our communities, but also for the world. Evangelical solidarity is like a lamp, which must not be placed under a bushel, but on a lampstand so that it may shed light on the whole house (cf. Mt 5:15). The world needs this testimony today more than ever. As disciples of Jesus, we cannot shirk the responsibility of demonstrating and transmitting the love and tenderness of God to a wounded humanity.

   The work of this Session was carried out in accordance with the ‘roadmap’ laid down in the Instrumentum laboris, by means of which the Assembly was able to reflect on the
characteristic signs of a synodal Church and the dynamics of communion, mission and participation that it contains. We were able to discuss the merits of issues, identify themes in need of in-depth study, and take forward a preliminary set of proposals. In the light of the progress made, the Synthesis Report does not repeat or reiterate all the contents of the Instrumentum laboris; rather, it gives new impetus to the questions and themes we considered to be priorities. It is not a final document, but an instrument at the service of ongoing discernment.

   The Synthesis Report is structured in three parts.

   The first outlines “the face of the synodal Church”, presenting the practice and understanding of synodality and its theological
underpinning. Here it is presented first and foremost as a spiritual experience that stems from contemplation of the Trinity and unfolds by articulating unity and variety in the Church.

   The second part, entitled “All disciples, all missionaries”, deals with all those involved in the life and mission of the Church and their relationships with one another. In this part, synodality is mainly presented as a joint journey of the People of God and as a fruitful dialogue between the charisms and ministries at the service of the coming of the Kingdom.

   The third part bears the title “Weaving bonds, building community”. Here, synodality is presented mainly as a set of processes and as a network of bodies enabling exchange between the Churches and dialogue with the world.

   In each of the three parts, individual chapters bring together convergences, matters for consideration and proposals that emerged from the dialogue.

   The convergences identify specific points that orientate reflection, akin to a map that helps us find our way.

   The matters for consideration summarise points about which it is necessary to continue deepening our understanding pastorally, theologically, and canonically. This is like being at a crossroads where we need to pause so we can understand better the direction we need to take.

   The proposals indicate possible paths that can be taken. Some are suggested, others recommended, others still requested with some strength and determination.

   In the coming months, Episcopal Conferences as well as the hierarchical structures of the Eastern Catholic Churches, serving as a link between the local Churches and the General Secretariat of the Synod, will play an important role in developing our reflections. Taking their starting point from the convergences already reached, they are called to focus on the questions and proposals that are considered most urgent. They are asked to encourage a deepening of the issues both pastorally and theologically, and to indicate their canonical implications.

   We carry in our hearts the desire, sustained by hope, that the climate of mutual listening and sincere dialogue that we experienced during the days of common work in Rome will radiate in our communities and throughout the world, at the service of the growth of the good seed of the Kingdom of God.

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PART I – THE FACE OF THE SYNODAL CHURCH

1. Synodality: Experience and Understanding

Convergences

a) We welcomed the invitation to recognise the synodal dimension of the Church with a new awareness. Synodal practice is attested to in the New Testament and the Early Church,
taking particular historical forms in different Churches and traditions. The Second Vatican Council “updated” this practice, and Pope Francis has once again encouraged the Church to renew it.

   The Synod 2021-2024 is part of this renewal. Through it, the Holy People of God have discovered that a synodal way of being silent, praying, listening, and speaking, rooted in the Word of God and in joyful, if also sometimes painful encounters, leads to a deeper awareness that we are all brothers and sisters in Christ. An invaluable fruit of this process is the heightened awareness of our identity as the faithful People of God, within which each is the bearer of a dignity derived from Baptism, and each is called to differentiated co-responsibility for the common mission of evangelisation.

b) This process has renewed our experience of and desire for the Church as God’s home and family, a Church that is closer to the lives of Her people, less bureaucratic and more
relational. The terms “synodal” and “synodality” have been associated with this experience and desire, offering an understanding that now requires further clarification. This is the Church that young people first declared they desired in 2018 on the occasion of the Synod of Youth.

c) The manner in which the Assembly proceeded in the Paul VI Hall, including the seating of people in small groups at round tables, was likened for some cultures to the biblical
image of the wedding banquet (Rev 19:9). This was understood as emblematic of a synodal way of being Church and an image of the Eucharist, which is the source and summit of
synodality, with the Word of God at the centre. In a Church that is living synodally, different cultures, languages, rites, ways of thinking, and realities can engage together and
fruitfully in a sincere search for the Spirit’s guidance.

d) In our midst there have been sisters and brothers coming from peoples afflicted by war, martyrdom, persecution, and famine. The plight of their people, unable often to participate in the synodal process, has nevertheless entered into the cycle of our discussions and prayers, deepening our sense of communion with them and our determination to be peacemakers.

e) The Assembly frequently spoke of hope, healing, reconciliation, and restoration of trust among the many gifts the Spirit has poured out on the Church during this synodal process.
Openness to listening and accompanying all, including those who have suffered abuse and hurt in the Church, has made visible many who have long felt invisible. The long journey towards reconciliation and justice, including addressing the structural conditions that abetted such abuse, remains before us, and requires concrete gestures of penitence.
f) We know that “synodality” is a term unfamiliar to many members of the People of God, causing some people confusion and concern. Among the fears expressed is that the
teaching of the Church will be changed, causing us to depart from the Apostolic faith of our forebears and, in so doing, will fail to respond to needs of those who hunger and thirst
for God today. However, we are confident that synodality is an expression of the dynamic and living Tradition.

g) Without being dismissive of the importance of representative democracy, Pope Francis responds to the concern expressed by some that the Synod may become a body of majority deliberation denuded of its ecclesial and spiritual character, so jeopardising the hierarchical nature of the Church. It is clear that some people are afraid that they will be
forced to change; others fear that nothing at all will change or that there will be too little courage to move at the pace of the living Tradition. Also, perplexity and opposition can
sometimes conceal a fear of losing power and the privileges that derive from it.

   In all cultural contexts, however, the terms “synodal” and “synodality” speak of a mode of being Church that integrates communion, mission, and participation. An example is the Ecclesial Conference of the Amazon (CEAMA), a fruit of the synodal missionary process in the region.

h) In its broadest sense, synodality can be understood as Christians walking in communion with Christ toward the Kingdom along with the whole of humanity. Its orientation is
towards mission, and its practice involves gathering in assembly at each level of ecclesial life. It involves reciprocal listening, dialogue, community discernment, and creation of
consensus as an expression that renders Christ present in the Holy Spirit, each taking decisions in accordance with their responsibilities.

i) Through experience and encounters, we have grown together in this awareness. In summary, from the very first days, the Assembly found itself shaped by two convictions:
the first is that the experience we have shared over these years is authentically Christian and should be embraced in all its richness and depth; the second is that the terms “synodal” and “synodality” require a more accurate clarification of their levels of meaning in different cultures. The substantial agreement emerged that, with the necessary
clarifications, synodality represents the future of the Church.

Matters for Consideration

j) Building on the reflective work already undertaken, there is a need to clarify the meaning of synodality at different levels, in pastoral, theological, and canonical terms. This helps to avert the risk that the concept sounds too vague or generic or appears as a fad or fashion.

   It enables us to offer a broad understanding of walking together with further theological deepening and clarification. Likewise, it is necessary to clarify the relationship between
synodality and communion and between synodality and collegiality.

k) A desire emerged to enhance understanding and appreciation of the differences in the practice and understanding of synodality between the tradition of the Christian East and
the Latin Tradition, including in this ongoing synodal process, by fostering encounters between them.

l) In particular, the many expressions of synodal life in cultural contexts where people are used to walking together as a community and where individualism has not taken root,
should be considered for deeper reflection. In this way, synodal practice plays an important part in the Church’s prophetic response to an individualism that causes people to turn in on themselves, a populism that divides, and a globalisation that homogenises and flattens.

   Although not solving these problems, it nonetheless provides an alternative way of being and acting for our times, integrating a diversity of perspectives. This is a hopeful
alternative that needs further exploration and illumination.

 

Proposals

m) The richness and depth of the synodal process indicates the value of expanding participation, and overcoming the obstacles to participation that have emerged so far.

n) There is a need to find ways to involve the clergy (deacons, priests, bishops) more actively in the synodal process during the course of the next year. A synodal Church cannot do
without their voices, experiences or contributions. We need to understanding better the reasons why some have felt resistant to the synodal process.

o) The synodal culture needs to become more intergenerational, with spaces for young people to speak freely for themselves, within their families, and with their peers and pastors, including through digital channels.

p) The Assembly proposes to promote theological deepening of the terminological and conceptual understanding of the notion and practice of synodality before the Second
Session of the Assembly, drawing on the rich heritage of theological research since the Second Vatican Council and in particular the documents of the International Theological
Commission on Synodality in the life and mission of the Church (2018) and Sensus fidei in the life of the Church (2014).

q) The canonical implications of synodality require similar clarification. For these, too, we propose an intercontinental special commission of theological and canonical experts,
ahead of the Second Session of the Assembly.

r) Finally, a wider revision of the Code of Canon Law and the Code of Canon Law of the Oriental Churches is called for at this time. A preliminary study is therefore advised.

 

2. Gathered and Sent by the Trinity

Convergences

a) According to the teaching of the Second Vatican Council, the Church is “a people brought together by virtue of the unity of the Father, the Son and the Holy Spirit” (LG 4). The
Father, through the mission of the Son and the gift of the Spirit, involves us in a dynamism of communion and mission that moves us from the “I” to the “we” and places us at the
service of the world.

   Synodality translates the Trinitarian dynamism with which God comes to meet humanity into spiritual attitudes and ecclesial processes. For this to happen, it is necessary for all the baptized to commit themselves to the reciprocal exercise of their vocation, charism, and ministry. Only in this way can the Church truly become a “conversation” (cf. Ecclesiam suam 67) within itself and with the world, walking side by side with every human being in the style of Jesus.

b) Since the origins, the Church’s synodal journey is oriented toward the Kingdom, which will be fully accomplished when God is all in all. The witness of ecclesial fraternity and
missionary dedication to the service of the least will never measure up to the Mystery of which they are also a sign and instrument. The Church does not reflect on its synodal
configuration in order to place itself at the centre of the proclamation, but to best fulfil, even in its constitutive incompleteness, its service to the coming of the Kingdom.

c) The renewal of the Christian community is possible only by recognizing the primacy of grace. If spiritual depth is lacking, synodality remains cosmetic. What we are called to,
however, is not only to translate into community processes a spiritual experience gained elsewhere, but more deeply to experience how reciprocal relationships are the place and
form of an authentic encounter with God. In this sense, while drawing on the rich spiritual heritage of the Tradition, the synodal perspective contributes to renewing its forms: of a prayer open to participation, a discernment lived together, and a missionary energy that arises from sharing and that radiates as service.

d) Conversation in the Spirit is a tool that, even with its limitations, enables authentic listening in order to discern what the Spirit is saying to the Churches. Its practice has elicited joy, awe and gratitude and has been experienced as a path of renewal that transforms individuals, groups, and the Church. The word “conversation” expresses more than mere
dialogue: it interweaves thought and feeling, creating a shared vital space.  hat is why we can say that conversion is at play in conversation. This is an anthropological reality found
in different peoples and cultures, who gather together in solidarity to deal with and decide matters vital to the community.

   Grace brings this human experience to fruition. Conversing “in the Spirit” means living the experience of sharing in the light of faith and seeking God’s will in an authentically evangelical atmosphere within which the Holy Spirit’s unmistakable voice can be heard.

e) Since synodality is ordered to mission, Christian communities are to enter into solidarity with those of other religions, convictions and cultures, thus avoiding, on the one hand, the risk of self-referentiality and self-preservation, and on the other hand the risk of loss of identity. The logic of dialogue, expressed in mutual learning and journeying together must come to characterize evangelical proclamation, service to those experiencing poverty, care for our common home, and theological research.

 

Matters for Consideration

f) To bring about true listening to the Father’s will, it seems necessary to deepen the criteria of ecclesial discernment from a theological perspective so that the reference to the freedom and newness of the Spirit is appropriately coordinated with the fact that Jesus Christ comes “once for all” (Heb 10:10). This implies, first of all, to specify the relationship between listening to the Word of God attested to in Scripture, the reception of Tradition and the Magisterium of the Church, and the prophetic reading of the signs of the times.

g) To this end, it is crucial to promote anthropological and spiritual visions capable of integrating and not merely juxtaposing the intellectual and emotional dimensions of faith
experience, overcoming any and all reductionism and dualism between reason and feeling.

h) It is important to clarify how conversation in the Spirit can integrate the contributions of theological thought and the humanities and social sciences, alongside other models of
ecclesial discernment that are used such as the “see, judge, act” approach or the steps of “recognize, interpret, choose.”

i) The contribution that Lectio Divina and different spiritual traditions, ancient and recent, can offer to the practice of discernment should be developed. Indeed, it is appropriate to value the plurality of forms and styles, methods and criteria that the Holy Spirit has suggested over the centuries and that are part of the Church’s spiritual heritage.

Proposals

j) It is proposed that the Churches should experiment with and adapt conversation in the Spirit, and other forms of discernment in ways they may consider appropriate drawing from diverse spiritual traditions relevant to the needs and cultures of their contexts. Appropriate forms of accompaniment can facilitate this practice, helping to grasp its logic and overcome possible resistance.

k) Each local Church is encouraged to equip itself with suitable people trained to facilitate and accompany processes of ecclesial discernment.

l) In order to illuminate ecclesial life, the practice of discernment can usefully be implemented in the pastoral sphere, in a way that is contextually appropriate. This will make it possible to recognise more readily the charisms present in the community, to entrust tasks and ministries wisely. Going beyond the mere planning of activities we will be able
to plan pastoral paths in the light of the Spirit.

3. Entering the Community of Faith: Christian Initiation

Convergences

a) Christian initiation is the journey by which the Lord, through the ministry of the Church,
introduces us to Easter faith and draws us into Trinitarian and ecclesial communion. This
journey takes a variety of forms depending on the age at which it is undertaken and
differing emphases characteristic of Eastern and Western traditions. However, listening to
the Word and conversion of life, liturgical celebration and insertion into the community
and its mission are always intertwined. Precisely for this reason, the catechumenal journey,
with the gradualness of its stages and steps, is the paradigm for every ecclesial experience
of walking together.

b) Initiation brings us into contact with a great variety of vocations and ecclesial ministries.
All of these express the maternal face of a Church, a way of being that teaches its children
to walk by walking with them. It listens to them and, as it responds to their doubts and
questions, is enriched by the newness that each person brings through his or her history,
language and culture. Through this pastoral action, the Christian community encounters
synodality for the first time, often without being fully aware of it.

c) Before any distinction of charisms and ministries, “we were all baptised by one Spirit into
one body” (1Cor. 12:13). Therefore, among all the baptised, there is a genuine equality of
dignity and a common responsibility for mission, according to the vocation of each. By
the anointing of the Spirit, who “teaches all things” (1Jn 2:27), all believers possess an
instinct for the truth of the Gospel, the sensus fidei. This consists in a certain connaturality
with divine realities and the aptitude to grasp what conforms to the truth of faith intuitively.
Synodal processes enhance this gift, allowing the existence of that consensus of the faithful
(consensus fidelium) to be confirmed. This process provides a sure criterion for
determining whether a particular doctrine or practice belongs to the Apostolic faith.

d) The grace of Pentecost abides in the Church through the Sacrament of Confirmation. It
enriches the faithful with the abundance of the gifts of the Spirit. It calls them to develop
their specific vocation, rooted in their common baptismal dignity, in the service of mission.
Its importance requires greater emphasis and it needs to be located in relation to the variety
of charisms and ministries that form the synodal face of the Church.

e) The celebration of the Eucharist, especially on Sunday, is the first and fundamental form
by which the Holy People of God gather and meet. When this is not possible, the
community although desiring the Eucharist gathers to celebrate a Liturgy of the Word. In
the Eucharist, we celebrate a mystery of grace which is given to us. By calling us to
participate in his Body and Blood, the Lord forms us into one body, with one another and
with Himself. Beginning with Paul’s use of the term koinonia (cf. 1 Cor. 10:16-17), the
Christian tradition has treasured the word “communion” to indicate at the same time full
participation in the Eucharist, and, the nature of relationships among the faithful and
among the Churches. While it opens us to the contemplation of the divine life, to the
unfathomable depths of the Trinitarian mystery, this term also refers to the ‘everydayness’
of our relationships: in the simplest gestures by which we open ourselves to one another
the breath of the Spirit genuinely breathes. This is why communion, which springs from
the Eucharist and is celebrated in it, configures and directs the paths of synodality.

f) From the Eucharist we learn to articulate unity and diversity: unity of the Church and
multiplicity of Christian communities; unity of the sacramental mystery and variety of
liturgical traditions; unity of celebration and diversity of vocations, charisms and
ministries. Nothing shows more than the Eucharist that the harmony created by the Spirit
is not uniformity and that every ecclesial gift is intended for common edification.

Matters for Consideration

g) The Sacrament of Baptism cannot be understood in isolation or outside the logic of
Christian initiation, nor can it be understood in an individualistic way. Therefore, we need
to explore further the contribution that a more unified vision of Christian initiation can
make to the understanding of synodality.
h) A mature exercise of the sensus fidei requires not only reception of Baptism but a life lived
in authentic discipleship that develops the grace of Baptism. This enables us to distinguish
the action of the Spirit from merely dominant forms of thinking or cultural conditioning,
or from matters inconsistent with the Gospel. Understanding the exercise of the sensus
fidei is to be deepened with appropriate theological reflection.
i) Reflection on synodality can offer renewed insights into the understanding of
Confirmation, by which the grace of the Spirit articulates the variety of gifts and charisms
in the harmony of Pentecost. In light of different ecclesial experiences, ways to make the
preparation and celebration of this Sacrament more fruitful should be considered, to
awaken in all the faithful the call to community building, mission in the world and witness
to the faith.
j) From a pastoral theological perspective, it is important to continue research into how the
catechumenal way can offer inspiration for other pastoral paths, such as that of marriage
preparation, or accompaniment in choosing professional and social commitments, or
formation for the ordained ministry, in which the whole ecclesial community should be
involved.

Proposals

k) If the Eucharist shapes synodality, then the first step we should take is to celebrate the
Mass in a way that befits the gift, with an authentic sense of friendship in Christ. Liturgy
celebrated with authenticity is the first and fundamental school of discipleship. Its beauty
and simplicity should form us prior to any other organised formation programme.

l) A second step refers to the widely reported need to make liturgical language more
accessible to the faithful and more embodied in the diversity of cultures. Without calling
continuity with tradition and the need for better liturgical formation into question, deeper
reflection is needed. Episcopal Conferences should be entrusted with a wider responsibility
in this regard, according to the Motu Proprio Magnum principium.

m) A third step consists in the pastoral commitment to widen community prayer beyond the
celebration of Mass. Alternative forms of liturgical prayer, as well as practices of popular
piety, in which the distinctiveness of local cultures is reflected, are elements of great
importance in fostering the involvement of all the faithful. They introduce the faithful to
the Christian mystery and bring those less familiar with the Church closer to an encounter
with the Lord. Among the forms of popular piety, Marian devotion stands out because of
its ability to sustain and nourish the faith of many.

4. People in Poverty, Protagonists of the Church’s Journey

Convergences

a) Those in poverty ask the Church for love. By love, they mean respect, acceptance and
recognition, without which providing food, money or social services represents forms of
support that are certainly important but which do not fully take account of the dignity of
the person. Each person needs to be enabled to determine their own means of growth rather
than be the object of the welfare action of others. Being afforded recognition and respect
are powerful ways of enabling this.

b) The preferential option for the poor is implicit in Christological faith: Jesus, poor and
humble, befriended people in poverty, shared a table with them, and denounced the causes
of poverty. For the Church, the preferential option for the poor and those at the margins is
a theological category before being a cultural, sociological, political or philosophical one.
For St. John Paul II, God offers His mercy first to them. This divine preference has
consequences for the lives of all Christians, who are called to nourish “the same mind …
as Jesus Christ” (Phil 2:5).

c) Poverty is not just of one kind. Among the many faces of those in poverty are those who
do not have the things they need to lead a dignified life. There are also migrants and
refugees; indigenous peoples, original and Afro-descendent peoples; those who suffer
violence and abuse, in particular women; people struggling with addiction; minorities who
are systematically denied a voice; abandoned elderly people; victims of racism,
exploitation, and trafficking, especially minors; exploited workers; the economically
excluded, and others living on the peripheries. The most vulnerable of the vulnerable, on
whose behalf constant advocacy is needed, include the unborn and their mothers. The
Assembly hears the cry of the “new poor,” produced by wars and terrorism that plague
many countries on several continents, and the Assembly condemns the corrupt political
and economic systems that cause such strife.

d) Alongside forms of material poverty, many also experience spiritual poverty, understood
as lacking a sense of life’s meaning. An excessive preoccupation with oneself can lead to
seeing others as a threat, which in turn causes us to further turn in on ourselves, expressing
a certain kind of individualism. When the spiritually and materially poor encounter one
another, they begin a journey towards finding answers to each other’s needs. This is a way
of walking together that makes the perspective of the synodal Church concrete, which will
reveal to us the fullest sense of the Gospel beatitude, “Blessed are the poor in spirit” (Mt
5:3).

e) Standing with those who are poor requires engaging with them in caring for our common
home: the cry of the earth and the cry of those living in poverty are the same cry. The lack
of responses to this cry makes the ecological crisis, and climate change in particular, a
threat to the survival of humanity. The Apostolic Exhortation Laudate Deum, published by
Pope Francis to coincide with the opening of the work of the Synod Assembly, emphasises
this. The Church in countries most exposed to the consequences of climate change are
keenly aware of the urgent need to change course, and this represents their contribution to
the journey of other local churches in various parts of the planet.
f) The Church’s commitment must address the causes of poverty and exclusion. This
includes actions to protect the rights of those who are excluded, and this may require public
denunciation of injustices, whether perpetrated by societal structures or by individuals,
corporations or governments. Essential to hearing the voice of those in poverty is listening
to their demands and points of view, and utilising their own words.

g) Christians have a duty to commit themselves to active participation in building up the
common good and defending the dignity of life, drawing inspiration from the Church’s
social doctrine and working together in various ways, through engagement in civil society
organizations, trade unions, popular movements, grassroots associations, in the field of
politics, and so forth. The Church is deeply grateful for them. The community has a duty
to support those who work in these fields in a genuine spirit of charity and service. Their
action is part of the Church’s mission to proclaim the Gospel and bring about the coming
of the Kingdom of God.

h) The Christian community encounters the face and flesh of Christ, who, though he was rich,
became poor for our sake, that we might become rich through his poverty (cf. 2 Cor 8:9).
It is called not only to be close to them, but to learn from them. If becoming synodal means
walking together with the One who is the Way, a synodal Church needs to put those
experiencing poverty at the centre of all aspects of its life: through their sufferings, they
have direct knowledge of the suffering Christ (cf. Evangelii gaudium, no. 198). The
likeness of their lives to that of the Lord makes those who are poor heralds of a salvation
received as a gift and witnesses to the joy of the Gospel.

Matters for Consideration

i) In some parts of the world, the Church is poor, with those who are poor, and for those who
are poor. There is a constant risk, one to be carefully avoided, of viewing those living in
poverty in terms of “them” and “us,” as “objects” of the Church’s charity. Putting those
who experience poverty at the centre and learning from them is something the Church
must do more and more.
j) Prophetic denunciation of situations of injustice, on the one hand, and efforts to persuade
policy makers to act for the common good, which require recourse to diplomacy, on the
other, must be maintained in a dynamic tension so as not to lose a clear focus or
fruitfulness. In particular, care must be taken to ensure that the use of public or private
funds by Church bodies does not limit freedom to speak up for the demands of the Gospel.
k) The provision of services in the fields of education, health care and social welfare, without
discrimination or the exclusion of anyone, is a clear sign of a Church that promotes the
integration and participation of the most vulnerable in Church and society. Organizations
active in this field are encouraged to consider themselves as expressions of the Christian
community and to avoid charity becoming impersonal. They are also urged to network and
coordinate with others.
l) The Church must be honest in examining how it meets the demands of justice among those
who work in its affiliated institutions so as to ensure it acts with consistency and integrity.
m) In a synodal Church, solidarity also manifests itself in the form of an exchange of gifts and
in sharing resources between local churches from different regions. These relationships
foster the unity of the Church by creating bonds between the Christian communities
involved. There is a need to focus on the conditions necessary to ensured that priests who
come to the aid of churches needing clergy are not providing merely a functional solution
but represent a resource for the growth both of the Church that sends them and the Church
that receives them. Similarly, it is necessary to ensure that economic aid does not
degenerate into the mere provision of welfare, but also promotes authentic evangelical
solidarity and is managed transparently and reliably.

Proposals
n) The Church’s social doctrine is a too little-known resource. This needs to be addressed.
Local churches are invited not only to make its contents better known but to foster its
reception through practices that put its inspiration into action.
o) The experience of encounter, sharing a common life and serving those living in poverty
and on the margins should be an integral part of all formation paths offered by Christian
communities: it is a requirement of faith, not an optional extra. This is especially true for
candidates for ordained ministry and consecrated life.
p) As part of the rethinking of diaconal ministry, the Church should promote a stronger
orientation towards service to those who are poor.
q) Church teaching, liturgy, and practice must more explicitly and carefully integrate the
biblical and theological foundations of integral ecology.

5. A Church “out of every tribe, tongue, people and nation”

Convergences
a) Christians live in specific cultures, bringing Christ to them in Word and Sacrament,
engaging in the service of charity with humility and joy, receiving the mystery of Christ
that already awaits us in every place and time. In this way we become a Church that
welcomes people from “every tribe, tongue, people and nation” (Rev. 5:9).
b) The cultural, historical, and continental contexts in which the Church is present reveal
different spiritual and material needs. This shapes the culture of the local churches, their
missionary priorities, the concerns and gifts that each of them brings to the synodal
dialogue, and the languages with which they express themselves. During the days of the
Assembly, we were able to experience directly, and mostly joyfully, the diverse
expressions of being Church.
c) Churches live in increasingly multicultural and multireligious contexts. This necessitates
finding ways to create dialogue between religions and cultures, with which Christians
should engage alongside the many groups that compose a society. Living the Church’s
mission in these contexts requires a style of presence, service and proclamation that seeks
to build bridges, cultivate mutual understanding and engage in evangelisation that
accompanies, listens and learns. In the Assembly the image of “taking off one’s shoes” to
cross the threshold towards encounter with the other resonated as a sign of humility and
respect for a sacred space, on an equal footing.
d) Migration reshapes local churches as cross-cultural communities. Migrants and refugees,
many of whom bear the wounds of uprooting, war and violence, often become a source of
renewal and enrichment for the communities that welcome them and an opportunity to
establish direct links with geographically distant churches. In the face of increasingly
hostile attitudes toward migrants, we are called to practice an open welcome, to
accompany them in the construction of a new life and to build a true intercultural
communion among peoples. Respect for the liturgical traditions and religious practices of
migrants is an integral part of an authentic welcome.
e) Missionaries have given their lives to carry the Good News to the whole world. Their
commitment is a great testimony to the power of the Gospel. However, particular attention
and sensitivity are needed in contexts where “mission” is a word laden with painful
historical memories that hinders communion today. In some places, the proclamation of
the Gospel was associated with colonization, even genocide. Evangelising in these
contexts requires acknowledging mistakes made, learning a new sensitivity to these issues,
and accompanying a generation seeking to forge Christian identities beyond colonialism.
Respect and humility are fundamental attitudes needed to recognise that we complement
each other and that encounters with different cultures can enrich the living and thinking of
the faith of Christian communities.
f) The Church teaches the need for and encourages the practice of interreligious dialogue as
part of building communion among all peoples. In a world of violence and fragmentation,
a witness is ever more urgent to the unity of humanity, its common origin and common
destiny, in a coordinated and reciprocal solidarity toward social justice, peace,
reconciliation and care for our common home. The Church is aware that the Spirit can
speak through women and men of every religion, belief and culture.

Matters for Consideration
g) We need to cultivate a greater sensitivity towards the riches of our diverse expressions of
being Church. This requires a search for a dynamic balance between the dimension of the
Church as a whole and its local rootedness, between respect for the bond of Church unity
and the risk of homogenization that stifles variety. Meanings and priorities vary among
different contexts, and this requires identifying and fostering forms of decentralization.
h) The Church too is affected by polarization and distrust in vital matters such as liturgical
life and moral, social and theological reflection. We need to recognize the causes of each
through dialogue and undertake courageous processes of revitalizing communion and
processes of reconciliation to overcome them.
i) In our local churches, we sometimes experience tensions between different ways of
understanding evangelisation: emphasis on a witness of life, commitment to human
advancement, dialogue with faiths and cultures, and explicit proclamation of the Gospel.
Equally, a tension emerges between the explicit proclamation of Jesus Christ and valuing
the characteristics of each culture in search of the Gospel traits (semina Verbi) it already
contains.
j) Possible confusion between the Gospel’s message and the culture of those engaged in
evangelisation was mentioned as one of the issues to be explored.
k) Increasing conflicts, with the trade and use of increasingly powerful weapons, opens up
the question, raised in several groups, of more reflection and formation in order that we
can manage conflicts in a non-violent way. This is a valuable contribution that Christians
can offer to today’s world in dialogue and collaboration with other religions.

Proposals
l) Renewed attention is needed to the question of the languages we use to speak to people’s
minds and hearts in a wide diversity of contexts in a way that is both beautiful and
accessible.
m) We need a shared framework for managing and evaluating experimentations with forms of
decentralisation, identifying all the actors involved and their roles. For the sake of
coherence, discernment processes regarding decentralisation must take place in a synodal
style, envisaging the concurrence and contribution of all actors involved at different levels.
n) New paradigms are needed for pastoral engagement with indigenous peoples, taking the
form of a common journey and not an action done to them or for them. Their participation
in decision-making processes at all levels can contribute to a more vibrant and missionary
Church.
o) From the work of the Assembly, there is a call for better knowledge of the teachings of
Vatican II, post-conciliar teaching and the Church’s social doctrine. We need to know our
different traditions better in order to be more clearly a Church of Churches in communion,
effective in service and dialogue.
p) In a world where the number of migrants and refugees is increasing while the willingness
to welcome them is decreasing and where the foreigner is viewed with increasing
suspicion, it is appropriate for the Church to engage decisively in education, in the culture
of dialogue and encounter, combating racism and xenophobia, especially through pastoral
formation. Equally, it is necessary to engage in concrete projects for the integration of
migrants.
q) We recommend continued engagement in dialogue and discernment regarding racial
justice. Systems within the Church that create or maintain racial injustice need to be
identified and addressed. Processes for healing and reconciliation should be created, with
the help of those harmed, to eradicate the sin of racism.

6. The Eastern Churches and Latin Church Traditions

Convergences
a) Among the Eastern Churches those in full communion with the Successor of Peter enjoy
a liturgical, theological, ecclesiological and canonical distinctiveness that greatly enriches
the whole Church. In particular, their experience of unity in diversity can make a valuable
contribution to the understanding and practice of synodality.
b) Throughout history, the level of autonomy granted to these Churches has gone through
different phases. Some customs and procedures are now considered outdated, such as
Latinization. In recent decades, the path of recognizing the specificity, distinction and
autonomy of these Churches has developed considerably.
c) The substantial migration of faithful from the Catholic East into Latin-majority territories
raises important pastoral questions. If the current pattern continues or increases, there may
be more members of the Eastern Catholic Churches in diaspora than in canonical
territories. For several reasons, the establishment of Eastern hierarchies in the countries of
immigration is not sufficient to address the problem, but there is a need for the local Latinrite Churches, in the name of synodality, to help the Eastern faithful who have emigrated
to preserve their identity and cultivate their specific heritage, without undergoing
processes of assimilation.

Matters for Consideration

d) We suggest further study of the contribution that the experience of the Eastern Catholic
Churches can make to the understanding and practice of synodality.
e) Some difficulties remain regarding the Pope’s role in giving his assent to bishops elected
by the Synods of the Churches sui iuris for their territory and the papal appointment of
bishops outside canonical territory. The request to extend the jurisdiction of the Patriarchs
outside the Patriarchal territories is also a matter for discernment and dialogue with the
Holy See.
f) In regions where the faithful of different Catholic Churches are present, we need to find
models that render visible effective forms of unity in diversity.
g) We need to reflect on the contribution that the Eastern Catholic Churches can make to
Christian unity and their role in interreligious and intercultural dialogues.

Proposals
h) First and foremost, the request emerged to establish a permanent Council of the Patriarchs
and Major Archbishops of the Eastern Catholic Churches to the Holy Father.
i) Some requested to convoke a Special Synod dedicated to the Eastern Catholic Churches,
their identity and mission, as well addressing pastoral and canonical challenges in the
context of war and massive migration.
j) We need to establish a joint commission of Eastern and Latin theologians, historians and
canonists to address issues requiring further study and formulate proposals pointing a way
forward.
k) There needs to be adequate representation of members of the Eastern Catholic Churches
in the dicasteries of the Roman Curia to enrich the whole Church with their perspectives,
to help address problems as they arise and to enable their participation in dialogue at the
various different levels.
l) To foster forms of reception that respect the heritage of the faithful of the Eastern
Churches, we need to intensify relations between Eastern clergy in diaspora and Latin
clergy to deepen mutual knowledge and recognition of the respective Traditions

7. On the Road Towards Christian Unity

Convergences
a) This session of the Synodal Assembly opened with a profound ecumenical gesture. The
“Together” prayer vigil saw the presence of numerous other leaders and representatives of
different Christian communions alongside Pope Francis, a clear and credible sign of the
will to walk together in the spirit of unity of faith and exchange of gifts. This highly
significant event also allowed us to recognize that we are in an ecumenical kairos and to
reaffirm that what unites us is greater than what divides us. For in common we have “one
Lord, one faith, one baptism, one God and Father of all, who is over all, among all and in
all” (Eph. 4:5-6).
b) Baptism, which is at the root of the principle of synodality, also constitutes the foundation
of ecumenism. Through it, all Christians participate in the sensus fidei and for this reason
they should be listened to carefully, regardless of their tradition, as the Synod Assembly
did in its discernment process. There can be no synodality without an ecumenical
dimension.
c) Ecumenism is first and foremost a matter of spiritual renewal that also requires processes
for repentance and healing of memory. The Assembly was moved to hear testimonies of
Christians of different ecclesial traditions who share friendship, prayer and above all a
commitment to the service of those experiencing poverty. Dedication to the least of these
cements bonds and helps us focus on what already unites all believers in Christ. Therefore,
it is important that ecumenism is practised first and foremost in daily life. In theological
and institutional dialogue, the patient weaving of mutual understanding continues in an
atmosphere of growing trust and openness.
d) In not a few regions of the world there is an “ecumenism of blood”, stemming from
Christians of different affiliations who give their lives for faith in Jesus Christ. The
testimony of their martyrdom is more eloquent than any words. Unity comes from the
Cross of the Lord.
e) Collaboration among all Christians is crucial in addressing the pastoral challenges of our
time. In secularized societies, this enables the voice of the Gospel to have greater force. In
contexts of poverty, it impels people to join forces in the service of justice, peace and the
dignity of the least. In all instances, it is a resource for healing the culture of hatred,
division and war that pits groups, peoples and nations against each other.
f) Marriages between Christians who belong to different Churches or ecclesial communities
(inter-church marriages) may constitute realities in which the wisdom of communion can
mature, and it is possible to evangelize each other.
Matters for Consideration
g) Our assembly was able to perceive the diverse ways different Christian traditions
understand the synodal configuration of the Church. In Orthodox Churches, synodality is
understood in a strict sense as an expression of the collegial exercise of authority proper
to the bishops alone (the Holy Synod). Broadly, it refers to the active participation of all
the faithful in the life and mission of the Church. There were some references to practices
in other ecclesial communities, enriching our debates. All this requires further
investigation.
h) Another theme to be explored concerns the link between synodality and primacy at the
various levels (local, regional, universal) in their mutual interdependence. We need a
shared re-reading of history in order to overcome stereotypes and prejudices. Ongoing
ecumenical dialogues have provided a better understanding, in light of the practices of the
first millennium, of the fact that synodality and primacy are related, complementary and
inseparable realities. The clarification of this delicate point has consequences for the way
of understanding the Petrine ministry in the service of unity, according to what St. John
Paul II wished for in the encyclical Ut unum sint.
i) We need to examine the issue of Eucharistic hospitality (Communicatio in sacris) from
theological, canonical and pastoral perspectives in light of the link between sacramental
and ecclesial communion. This issue is of particular importance to inter-church couples. It
raises the need for a broader reflection on inter-church marriages.
j) Reflection was also urged on the phenomenon of “non-denominational” communities and
Christian-inspired “revival” movements, which are also joined in large numbers by faithful
who were originally Catholic.
Proposals
k) The year 2025 marks the anniversary of the Council of Nicaea (325) at which the symbol
of the faith that unites all Christians was elaborated. A common commemoration of this
event will help us to better understand how in the past controversial questions were
discussed and resolved together in Council.
l) In the same year, 2025, providentially, the date of the solemnity of Easter will coincide for
all Churches and Christian communities. The Assembly expressed a keen desire to come
to a common date for the feast of Easter so that we can celebrate the Resurrection of the
Lord, our life and our salvation, on the same day.
m) There is also a desire to continue to involve Christians of other Churches and ecclesial
traditions in Catholic synodal processes at all levels and to invite more fraternal delegates
to the next session of the Assembly in 2024.
n) A proposal has been put forward by some to convene an ecumenical Synod on common
mission in the contemporary world.
o) It was also proposed that we might devise an ecumenical martyrology.

PART II – ALL DISCIPLES, ALL MISSIONARIES

8. Church is Mission
Convergences
a) Rather than saying that the Church has a mission, we affirm that Church ‘is’ mission. “As
the Father has sent me, so I send you” (John 20:21): the Church receives from Christ, the
One who is sent by the Father, Her own mission. Supported and guided by the Holy Spirit,
the Church announces and witnesses the Gospel to those who do not know it or welcome
it. They do this with that preferential option for the poor that is rooted in the mission of
Jesus. In this way the Church co-operates in the coming of the Reign of God, of which She
is the seed (cf. LG 5).
b) The sacraments of Christian initiation confer on all the disciples of Jesus the responsibility
for the mission of the Church. Laymen and laywomen, those in consecrated life, and
ordained ministers have equal dignity. They have received different charisms and vocations
and exercise different roles and functions, but all are called and nourished by the Holy
Spirit to form one body in Christ (1 Cor. 4-31). They are all disciples, all missionaries, in
the reciprocal vitality of local communities who experience the delightful and comforting
joy of evangelizing. The exercise of co-responsibility is essential for synodality and is
necessary at all levels of the Church. Each Christian is a mission on this earth.
c) The family is the pillar of every Christian community. Parents and grandparents and all
those who live and share their faith in the family are the first missionaries. The family, as
a community of life and love, is a privileged place of education in faith and Christian
practice, one that needs special accompaniment within communities. Support is especially
needed for parents who must reconcile work, including within the Church community and
in service to its mission, with the demands of family life.
d) If the mission is a grace involving all the Church, the lay faithful contribute in a vital way
to advancing that mission in all areas and in the ordinary situations of every day. Above
all, it is they who make the Church present and who proclaim the Gospel, for example, in
digital culture, which has such a strong impact throughout the world; in youth culture; in
the world of work and business, politics, and the arts and culture; in scientific research,
education, and training; in the care of our common home; and especially through
participation in public life. Wherever they are present, they are called to witness to Jesus
Christ in daily life and to explicitly share the faith with others. In a special way, young
people, with their gifts and fragilities, growing in friendship with Jesus, become apostles
of the Gospel to their peers.
e) The lay faithful are also increasingly present and active in service within Christian
communities. Many of them organize and animate pastoral communities, serve as religious
educators, theologians and formators, spiritual animators and catechists, and participate in
various parish and diocesan bodies. In many regions, the life of Christian communities and
the mission of the Church depends upon catechists. In addition, lay people serve in
safeguarding and administration. All of these contributions are indispensable to the
mission of the Church; for this reason, the acquisition of necessary competences should be
provided for.
f) In their immense variety, the charisms of the laity represent distinct gifts to the Church
from the Holy Spirit that must be called forth, recognized, and fully appreciated. In some
situations, the laity may be called to help make up for the shortage of priests, with the
danger that the lay character of their apostolate risks being diminished. In other contexts,
it may be that priests do everything themselves and thus the charisms and ministries of the
laity are ignored or underutilized. In all contexts, there is a danger, that was expressed by
many at the Assembly, of “clericalizing” the laity, creating a kind of lay elite that
perpetuates inequalities and divisions among the People of God.
g) The mission ad gentes is mutually enriching for the Churches, because it not only involves
the missionaries themselves but the entire community, which in this way is inspired to
prayer, the sharing of goods, and witness. Churches lacking clergy should not give up this
commitment, while those with more vocations to the ordained ministry benefit from
cooperating pastorally in a genuinely evangelical manner. All the missionaries — laymen
and women, those in consecrated life, deacons and priests, and particularly the members
of missionary institutes and fidei donum missionaries — are an important resource for
creating bonds of knowledge and exchange of gifts.
h) The Church’s mission is continually renewed and nourished by the Eucharist, particularly
when its communal and missionary nature is fully expressed.

Matters for Consideration

i) There is a need to continue to deepen the theological understanding of the relationships
between charisms and ministries in a missionary key.
j) Vatican II and subsequent magisterial teaching present the distinctive mission of the laity
in terms of the sanctification of temporal or secular realities. However, the reality is that
pastoral practice at the parish, diocesan and, recently, even universal levels, increasingly
entrusts lay people with tasks and ministries within the Church itself. Theological
reflection and canonical provisions need to be reconciled with these important
developments and to avoid dualisms that could compromise the perception of the unity of
the Church’s mission.
k) In the promotion of the co-responsibility of all the baptized for mission we recognize the
apostolic capacities of persons with disabilities. We want to better value the contribution
to evangelisation offered by the immense richness of their humanity. We recognise their
experiences of suffering, marginalisation and discrimination, sometimes occurring even
within the Christian community.
l) Pastoral structures need to be re-organized so they can readily recognise, call forth, and
animate lay charisms and ministries, inserting them into the missionary dynamism of the
synodal Church. Under the guidance of their pastors, the communities will be able to send
people as well as sustain those they have sent on mission. In this way, these structures will
primarily be at the service of the mission that the faithful carry out within society, in the
family, and in work life, rather than focusing exclusively on internal matters or
organisational concerns.
m) The expression “an all-ministerial Church,” used in the Instrumentum laboris, can lend
itself to misunderstanding. Its meaning will have to be clarified in order to remove any
ambiguities.

Proposals
n) We need more creativity in establishing ministries according to the needs of local churches,
with the particular involvement of the young. One can think of further expanding
responsibilities assigned to the existing ministry of lector, responsibilities that are already
broader than those performed in the liturgy. This could become a fuller ministry of the
Word of God, which, in appropriate contexts, could also include preaching. We could also
explore the possibility of establishing a ministry assigned to married couples committed
to supporting family life and accompanying people preparing for the Sacrament of
Marriage.
o) Local churches are invited to consider appropriate means and moments of
acknowledgment by the community of lay charisms and ministries. This could happen on
the occasion of a liturgical celebration in which the pastoral mandate is bestowed.

9. Women in the Life and Mission of the Church

Convergences
a) We are created, male and female, in the image and likeness of God. From the beginning,
creation manifests unity and difference, bestowing on women and men a shared nature,
calling, and destiny, and two distinct experiences of being human. Sacred Scripture
testifies to the complementarity and reciprocity of women and men, and to the covenant
between them that lies at the heart of God’s design for creation. Jesus considered women
his interlocutors: he spoke with them about the Kingdom of God; he welcomed them as
disciples, as for example Mary of Bethany. These women, who experienced His power of
healing, liberation and recognition, travelled with Him on the road from Galilee to
Jerusalem (Lk 8,1-3). He entrusted the announcement of the Resurrection on Easter
morning to a woman, Mary Magdalene.
b) In Christ, women and men are clothed with the same baptismal dignity (Gal 3:28) and
receive equally the variety of gifts of the Spirit. We are called together into a communion
of loving, non-competitive relationships in Christ, and to a co-responsibility to be
expressed at every level of the Church’s life. We are, as Pope Francis said to us together,
“a people convened and called with the strength of the Beatitudes”.
c) We have had a very positive experience of the reciprocity between women and men during
this Assembly. Together we echo the call made in the previous phases of the synodal
process, that the Church adopt a more decisive commitment to understand and accompany
women from a pastoral and sacramental point of view. Women desire to share their
spiritual experience of journeying towards holiness in the various stages of life: as young
women, as mothers, in their friendships and relationships, in family life at all ages, in
working life, and in consecrated life. Women cry out for justice in societies still marked
by sexual violence, economic inequality and the tendency to treat them as objects. Women
are scarred by trafficking, forced migration and war. Pastoral accompaniment and vigorous
advocacy for women should go hand in hand.
d) Women make up most of those in our pews and are often the first missionaries of the faith
in the family. Consecrated women, both in contemplative and apostolic life, are a
fundamental and distinctive gift, sign and witness in our midst. The long history of women
missionaries, saints, theologians and mystics is also a powerful source of nourishment and
inspiration for women and men today.
e) Mary of Nazareth, woman of faith and Mother of God, remains for all a unique source of
theological, ecclesial and spiritual meaning. Mary reminds us of the universal call to listen
attentively to God and to remain open to the Holy Spirit. She knew the joy of bearing and
nurturing and endured pain and suffering. She gave birth in impoverished conditions,
became a refugee and lived the sorrow of her Son’s brutal killing, but she also knew the
magnificence of his Resurrection and the glory of Pentecost.
f) Many women expressed deep gratitude for the work of priests and bishops. They also
spoke of a Church that wounds. Clericalism, a chauvinist mentality and inappropriate
expressions of authority continue to scar the face of the Church and damage its
communion. A profound spiritual conversion is needed as the foundation for any effective
structural change. Sexual abuse and the abuse of power and authority continue to cry out
for justice, healing and reconciliation. We asked how the Church can be a place that
safeguards all.
g) Where dignity and justice are undermined in relationships between men and women in the
Church, we weaken the credibility of our proclamation to the world. Our synodal path
shows the need for relational renewal and structural changes. In this way we can better
welcome the participation and contribution of all – with lay and consecrated women and
men, deacons, priests, and bishops – as co-responsible disciples in the work of mission.
h) The Assembly asks that we avoid repeating the mistake of talking about women as an issue
or a problem. Instead, we desire to promote a Church in which men and women dialogue
together, in order to understand more deeply the horizon of God’s project, that sees them
together as protagonists, without subordination, exclusion and competition.

Matters for Consideration

i) Churches all over the world have expressed a clear request that the active contribution of
women would be recognised and valued, and that their pastoral leadership increase in all
areas of the Church’s life and mission. In order to give better expression to the gifts and
charisms of all and to be more responsive to pastoral needs, how can the Church include
more women in existing roles and ministries? If new ministries are required, who should
discern these, at what levels and in what ways?
j) Different positions have been expressed regarding women’s access to the diaconal
ministry. For some, this step would be unacceptable because they consider it a
discontinuity with Tradition. For others, however, opening access for women to the
diaconate would restore the practice of the Early Church. Others still, discern it as an
appropriate and necessary response to the signs of the times, faithful to the Tradition, and
one that would find an echo in the hearts of many who seek new energy and vitality in the
Church. Some express concern that the request speaks of a worrying anthropological
confusion, which, if granted, would marry the Church to the spirit of the age.
k) Discussion of this question is also related to the wider ongoing reflection on the theology
of the diaconate (cf. below Chapter 11).

Proposals
l) Local churches are encouraged to extend their work of listening, accompaniment and care
to the most marginalised women in their social contexts.
m) It is urgent to ensure that women can participate in decision-making processes and assume
roles of responsibility in pastoral care and ministry. The Holy Father has significantly
increased the number of women in positions of responsibility in the Roman Curia. This
should also happen at other levels of Church life, in consecrated life and dioceses.
Provision needs to be made in Canon Law accordingly.
n) Theological and pastoral research on the access of women to the diaconate should be
continued, benefiting from consideration of the results of the commissions specially
established by the Holy Father, and from the theological, historical and exegetical research
already undertaken. If possible, the results of this research should be presented to the next
Session of the Assembly.
o) Cases of labour injustice and unfair remuneration within the Church need to be addressed
especially for women in consecrated life, who are too often treated as cheap labour.
p) Women’s access to formation programmes and theological study needs to be considerably
expanded. We suggest that women should also be integrated into seminary teaching and
training programs to foster better formation for ordained ministry.
q) There is a need to ensure that liturgical texts and Church documents are more attentive to
the use of language that takes into equal consideration both men and women, and also
includes a range of words, images and narratives that draw more widely on women’s
experience.
r) We propose that women receive appropriate formation to enable them to be judges in all
canonical processes.

10. Consecrated Life and Lay Associations and Movements: ACharismatic Sign

Convergences
a) The Church has always benefitted from the gift of charisms, be it from the most
extraordinary to the simplest. Through them the Holy Spirit rejuvenates and renews the
Church with joy and gratitude. The Holy People of God recognise in these charisms the
providential help with which God sustains, directs and illuminates His mission.
b) The Church’s charismatic dimension is made manifest in the rich and varied forms of
consecrated life. This testimony has contributed to renewing the life of the ecclesial
community in every age and provides an antidote to the perennial temptation towards
worldliness. The diverse families that compose religious life demonstrate the beauty of
discipleship and holiness in Christ, whether in their distinctive forms of prayer, their
service among the people, whether through forms of community life, the solitude of the
contemplative life or at the frontier of new cultures. Those in consecrated life have often
been the first to sense important historical changes and to heed the promptings of the Spirit.
Today, too, the Church needs their prophetic voice and action. The Christian community
also recognises and wishes to be attentive to the practices of synodal life and discernment
that have been tried and tested in communities of consecrated life, maturing over the
centuries. We know that we can learn from them wisdom in how to walk the synodal path.
Many Congregations and Institutes practice conversation in the Spirit or similar forms of
discernment in the conduct of provincial and general chapters, in order to renew structures,
rethink lifestyles, and activate innovative forms of service and proximity to the poorest. In
other cases, however, we find the persistence of an authoritarian style, which makes no
room for dialogue.
c) With equal gratitude, the People of God recognize the seeds of renewal in communities
with a long history that has blossomed into new ecclesial communities. Lay associations,
ecclesial movements and new communities are a precious sign of the maturation of the coresponsibility of all the baptized. They hold particular value because of their experience in
promoting communion among different vocations, the impetus with which they proclaim
the Gospel, their proximity to those on the margins economically and socially and through
their promotion of the common good. They are often models of synodal communion and
of participation for mission.
d) Cases of abuse of various kinds experienced by those in religious life and members of lay
associations, especially of women, signal a problem in the exercise of authority and
demand decisive and appropriate interventions.

Matters for Consideration

e) The Church’s magisterium has a well-developed body of teaching on the importance of
both hierarchical and charismatic gifts in the life and mission of the Church. This calls for
growth in ecclesial understanding and in theological reflection. It is therefore worth
considering anew the ecclesiological significance and concrete pastoral implications of
this teaching.
f) The variety of charismatic expressions in the Church underscores the People of God’s
commitment to being a prophetic presence in proximity to the least of our sisters and
brothers, and to providing contemporary culture with a deeper sense of the spiritual aspects
of life. There is a need to develop a more profound understanding of how consecrated life,
as well as lay associations, ecclesial movements, and new communities, place their
charisms at the service of communion and mission in local churches, augmenting existing
paths towards holiness with a presence that is prophetic.

Proposals

g) We believe the time has come for a revision of the 1978 document Mutuae relationes,
regarding the relationships between bishops and religious in the Church. We propose that
this revision be completed in a synodal manner, consulting all involved.
h) To the same end, it is necessary to put in place, in a synodal spirit, means and instruments
for promoting encounters and forms of collaboration between Episcopal Conferences and
the Conferences of Superiors and Major Superiors of Institutes of Consecrated Life and
Societies of Apostolic Life.
i) At the level of both individual local churches and groupings of Churches, the promotion
of missionary synodality requires the establishment and configuration of councils and
advisory bodies at which representatives of lay associations and ecclesial movements and
new communities can meet in order to foster enduring relationships between their life and
work and that of the local churches.
j) In theological formation at all levels, above all in the formation of ordained ministers, the
prominence given to the Church’s charismatic dimension should be monitored and
strengthened where necessary.

11. Deacons and Priests in a Synodal Church

Convergences

a) Priests are the principal collaborators of the bishop, forming with him one presbyterate (cf
LG 28). Deacons are ordained for the ministry of serving the People of God in the diakonia
of the Word, in the liturgy, but above all in the exercise of charity (cf LG 29). The Synodal
Assembly wishes, first and foremost, to express to priests and deacons a deep sense of
gratitude. Aware that they may experience loneliness and isolation, it encourages Christian
communities to support them with prayer, friendship, and collaboration.
b) Deacons and priests engage in ministry in a wide variety of pastoral settings: in parishes,
in evangelisation, among those living in poverty and who are marginalized, in the world
of culture and education, as well as in the mission ad gentes, in theological research, at
retreat centres and places of spiritual renewal, and many others. In a synodal Church,
ordained ministers are called to live their service to the People of God in a disposition of
proximity to people, welcoming and listening to all, while cultivating a deep personal
spirituality and a life of prayer. Above all, they are required to reconsider the exercise of
authority, modelling it upon Jesus, who, “though he was in the form of God, […] emptied
himself, taking the form of a slave” (Phil. 2:6-7). The Assembly acknowledges that through
their dedication many priests and deacons make Christ, the Good Shepherd and the
Servant, present.
c) One obstacle to ministry and mission is clericalism. Clericalism stems from a
misunderstanding of the divine call, viewing it more as a privilege than a service, and
manifesting itself in the exercise of power in a worldly manner that refuses to allow itself
to be accountable. This distortion of the priestly vocation needs to be challenged from the
earliest stages of formation by ensuring close contact with the People of God and through
concrete service-learning experiences among those most in need. The exercise of priestly
ministry today cannot be conceived of except in harmony with the bishop and the
presbyterate, and in profound communion with other ministries and charisms.
Unfortunately, clericalism is a disposition that can manifest itself not only among ministers
but also among the laity.
d) In order to exercise ordained ministry in a context of co-responsibility, it is necessary to
be aware of one’s own capacities and limitations. For this reason, it is important to ensure
that a realistic approach to human formation is integrated with the cultural and spiritual
dimensions of formation, as well as formation for discipleship. In this regard, the
contribution of families of origin, and the Christian community, within which a young
man’s vocation is fostered, as well as that of other families that accompany his growth,
cannot be underestimated.

Matters for Consideration

e) Within the context of the formation of all the baptised for service in a synodal Church, the
formation of deacons and priests requires special attention. The request has been widely
expressed at this Assembly that seminaries and other programmes of priestly formation
remain connected to the daily life of the community. We need to avoid the risks of
formalism and ideology that lead to authoritarian attitudes, and impede genuine vocational
growth. Revision to programmes of formation requires extensive discussion and
consideration.
f) Different opinions have been expressed about priestly celibacy. Its value is appreciated by
all as richly prophetic and a profound witness to Christ; some ask, however, whether its
appropriateness, theologically, for priestly ministry should necessarily translate into a
disciplinary obligation in the Latin Church, above all in ecclesial and cultural contexts that
make it more difficult. This discussion is not new but requires further consideration.

Proposals

g) In the Latin Churches the permanent diaconate has been implemented in differing ways in
different ecclesial contexts. Some local churches have not introduced it at all; in others,
there is concern that deacons are perceived as a kind of substitute for the shortage of
priests. Sometimes, their ministry finds expression in the liturgy rather than in service to
those living in poverty and who are needy in the community. We therefore recommend an
assessment of how the diaconal ministry has been implemented since Vatican II.
h) From the theological point of view, there is a need to understand the diaconate first and
foremost in itself and not only as a stage of access to the presbyterate. Qualifying the
primary form of the diaconate as “permanent,” to distinguish it from the “transitional”
form, is itself an indication of a change of perspective that has not yet been adequately
realized.
i) The uncertainties surrounding the theology of the diaconate are related to the fact that it
has only been restored to a distinct and permanent hierarchical ministry in the Latin Church
since the Second Vatican Council. Deeper study will shed light on the question of the
access of women to the diaconate.
j) A thorough review of formation for ordained ministry in view of the missionary and
synodal dimensions of the Church is called for. This means also reviewing the Ratio
fundamentalis that determines how formation is structured. We also recommend at the
same time ensuring the adoption of a synodal style when it comes to the ongoing formation
of priests and deacons.
k) Transparency and a culture of accountability are of crucial importance for us to move
forward in building a synodal Church. We ask local churches to identify processes and
structures that allow for a regular audit of how priests and deacons are carrying out roles
of responsibility in the exercise of their ministry. Existing institutions, such as participatory
bodies or pastoral visits, can be the starting point for this work, taking care to involve the
community. Such forms must be adapted to local contexts and diverse cultures, so as not
to be a hindrance or a bureaucratic burden. The discernment of the kind of process required
could be considered at the regional or continental level.
l) On a case-by-case basis, and in accordance with the context, the possibility should be
considered of re-inserting priests who have left the ministry in pastoral services that
recognise their formation and experience.

12. The Bishop in Ecclesial Communion

Convergences

a) According to Vatican II, bishops, as successors of the Apostles, are placed at the service
of the communion that is realised in the local Church, among the Churches and with the
entire Church. The figure of the bishop can therefore adequately be understood only in the
web of relations that is woven from the portion of the People of God entrusted to him, the
presbyterate and the deacons, consecrated persons, and the other bishops, and the Bishop
of Rome, and taking account of a constant orientation toward mission.
b) The bishop is, in his Church, the one primarily responsible for proclaiming the Gospel and
for the liturgy. He guides the Christian community and promotes pastoral care of those
experiencing poverty and defence of the most vulnerable. As the visible principle of unity,
he has, in particular, the task of discerning and coordinating the different charisms and
ministries sent forth by the Spirit for the proclamation of the Gospel and the common good
of the community. This ministry is realized in a synodal manner when governance is
accompanied by co-responsibility, preaching by listening to the faithful People of God,
and sanctification and celebration of the liturgy by humility and conversion.
c) The bishop has an indispensable role in vivifying and animating the synodal process in the
local Church, promoting the mutuality between “all, some and one”. The “one” Episcopal
ministry values the participation of “all” the faithful, through the contribution of “some”
who are more directly involved in discernment and decision-making processes. The
conviction with which the bishop himself adopts a synodal approach and the style by which
he exercises authority will influence decisively how priests and deacons, lay men and
women, and those in consecrated life, participate in the synodal process. The bishop is
called to be an example of synodality for all.
d) In contexts where the Church is perceived as the family of God, the bishop is regarded as
a father to all; there is, however, a crisis in regard to how his authority is experienced in
secularised societies. It is important not to lose sight of the sacramental nature of the
Episcopate, lest the figure of the bishop be assimilated into that of a civil authority figure.
e) Expectations of bishops are often very high, and many bishops spoke of feeling
overburdened with administrative and legal commitments, which makes it difficult for
them to fully realize their mission. The bishop also must come to terms with his own frailty
and limitations and sometimes lacks the support he needs, whether human or spiritual. A
certain sense of loneliness is not uncommon. That is why it is important, on the one hand,
to refocus on elements that are essential to the mission of the bishop, and, on the other
hand, to cultivate authentic fraternity among bishops themselves and among bishops and
their priests.

Matters for Consideration

f) On the theological level, the significance of the reciprocal relationship between the bishop
and the local Church needs to be significantly deepened. He is called, both to guide his
local Church, and, at the same time, to recognise and preserve the richness of its history,
traditions and charisms.
g) The question of the relationship between the Sacrament of Holy Orders and jurisdiction
needs to be studied in greater depth. In dialogue with Lumen Gentium and more recent
teachings such as the Apostolic Constitution Praedicate Evangelium, the aim of such a
study would be to clarify the theological and canonical criteria underlying the principle of
the shared responsibility of the bishop and to determine the scope, forms and implications
of co-responsibility.
h) Some bishops express discomfort when they are asked to speak on matters of faith and
morals where full agreement within the Episcopate is lacking. Further reflection is needed
on the relationship between episcopal collegiality and diversity of theological and pastoral
views.
i) Integral to a synodal Church is ensuring a culture of transparency and respect for the
procedures established for the protection of minors and vulnerable people. It is necessary
to develop further structures dedicated to the prevention of abuse. The sensitive issue of
handling abuse places many bishops in the difficult situation of having to reconcile the
role of father with that of judge. The appropriateness of assigning the judicial task to
another body, to be specified canonically, should be explored.

Proposals

j) It is necessary to implement, in forms legally yet to be defined, structures and processes
for regular review of the bishop’s performance, with reference to the style of his authority,
the economic administration of the diocese’s assets, and the functioning of participatory
bodies, and safeguarding against all possible kinds of abuse. A culture of accountability is
an integral part of a synodal Church that promotes co-responsibility, as well as
safeguarding against abuses.
k) There are calls to make the Episcopal Council (can. 473 §4), the Diocesan Pastoral Council
and the Eparchial Pastoral Council (CIC can. 511, CCEO can 272) mandatory, and to make
the diocesan bodies exercising co-responsibility more operational, including in legal terms.
l) The Assembly calls for a review of the criteria for selecting candidates for the episcopate,
balancing the authority of the Apostolic Nuncio with participation of Episcopal
Conferences. There are also requests to expand consultation with the faithful People of
God, and to involve a greater number of lay people and consecrated persons in the
consultation process, taking care to avoid being put under any undue pressure in the
selection process.
m) Many bishops express the need to rethink the functioning and strengthen the structure of
the metropolitan sees (ecclesiastical provinces) and regions, so that they can become
concrete expressions of collegiality in a territory and, through fraternity, mutual support,
transparency and a wider consultation, become commonplace practices among bishops.

13. The Bishop of Rome in the College of Bishops

Convergences

a) The synodal dynamic also sheds new light on the ministry of the Bishop of Rome. Indeed,
synodality articulates symphonically the communal (“all”), collegial (“some”) and
personal (“one”) dimensions of the Church at the local, regional and universal levels. In
such a vision, the Petrine ministry of the Bishop of Rome is intrinsic to the synodal
dynamic, as are the communal aspect that includes the whole People of God and the
collegial dimension of the exercise of Episcopal ministry. Therefore, synodality,
collegiality, and primacy refer to each other: primacy presupposes the exercise of
synodality and of collegiality, just as both of them imply the exercise of primacy.
b) Promoting the unity of all Christians is an essential aspect of the ministry of the Bishop of
Rome. The ecumenical journey has deepened understanding of the ministry of the
Successor of Peter and must continue to do so in the future. Responses to the invitation
made by St. John Paul II in the encyclical Ut unum sint, as well as the conclusions of
ecumenical dialogues, can help the Catholic understanding of primacy, collegiality,
synodality, and their mutual relationships.
c) The reform of the Roman Curia is an important aspect of the Catholic Church’s synodal
journey. The Apostolic Constitution Praedicate evangelium insists that “the Roman Curia
does not stand between the Pope and the Bishops, rather it places itself at the service of
both in ways that are proper to the nature of each” (EP I.8). It promotes reform based on a
“life of communion” (EP I.4) and “healthy decentralization” (EP II.2). The fact that many
members of the Roman dicasteries are diocesan Bishops expresses the catholicity of the
Church and should foster the relationship between the Curia and local churches. The
effective implementation of Predicate evangelium may foster greater synodality within
the Curia both among the different dicasteries and within each of them.

Matters for Consideration
d) There is a need for more insight into how a renewed understanding of the Episcopate
within a synodal Church affects the ministry of the Bishop of Rome and the role of the
Roman Curia. This issue has significant implications for the way co-responsibility in
Church governance is lived out. At the universal level, the Code of Canon Law and
the Code of Canons of the Eastern Churches offer provisions for a more collegial exercise
of papal ministry. These could be further developed in practice and strengthened in a future
update of both texts.
e) Synodality can shed light on ways in which Cardinals can collaborate in the Petrine
ministry and the ways in which their collegial discernment can be promoted in ordinary
and extraordinary consistories.
f) It is important for the good of the Church to study the most appropriate ways to foster
mutual acquaintance and bonds of communion among the members of the College of
Cardinals, taking into account also their diversity of origin and culture.

Proposals
g) The Visits ad limina Apostolorum are the highest moment of the relationships of the
pastors of the local churches with the Bishop of Rome and his closest collaborators in the
Roman Curia. It is necessary to review the form in which they are carried out so that they
become always more the occasion for open and mutual exchange that fosters communion
and a true exercise of collegiality and synodality.
h) In light of the synodal configuration of the Church, it is necessary for the dicasteries of the
Roman Curia to enhance the consultation of bishops, for greater attention to the diversity
of situations and a more attentive listening to the voices of local churches.
i) It seems appropriate to establish forms of evaluation of the work of the Pontifical
Representatives by the local churches in the countries where they carry out their mission
to facilitate and perfect their service.
j) It is proposed to enhance and strengthen the experience of the Council of Cardinals (C-9)
as a synodal council at the service of the Petrine ministry.
k) In the light of the teaching of Vatican II, it is necessary to carefully evaluate whether it is
opportune to ordain the prelates of the Roman Curia as bishops.

PART III – WEAVING BONDS, BUILDING COMMUNITIES

14. A synodal approach to formation

Convergences
a) Every baptised person is called to take care of their own formation as a response to the gifts
of the Lord, making use of the talents they have received in order that they bear fruit and
put them at the service of all. The time the Lord has dedicated to the formation of His
disciples reveals the importance of this ecclesial formation. This often happens in the
background yet it is decisive for mission. We would like to express a word of thanks and
encouragement to all those who are engaged in this work and invite them to welcome the
new orientations in regard to formation emerging from the Church’s synodal journey.
b) The way in which Jesus formed the disciples constitutes the model we need to follow. He
did not merely impart teaching but he shared his life with them. Through the example of
his own prayer He drew from them the request: ‘Teach us to pray’. By feeding the crowds
He taught them not to dismiss the needy. By walking to Jerusalem He showed the way to
the Cross. From the Gospel we learn that formation is not only or primarily a strengthening
of one’s own abilities; it is a conversion to the ‘logic’ of the Kingdom that can render even
defeats and failures fruitful.
c) The Holy People of God is not only the object but is first and foremost the co-responsible
subject of formation. The first formation, in fact, takes place in the family. It is here that
we usually receive the first proclamation of the faith in the language – indeed in the dialect
– of our parents and grandparents. Those who carry out a ministry in the Church must
therefore intertwine their contribution with the wisdom of all the faithful People of God in
a cooperation that is indispensable to the community. This is the first sign of a formation
understood in a synodal sense.
d) In Christian initiation we find guidance in how to navigate our formation path. At the heart
of Christian formation is a deepening of the kerygma, that is, the encounter with Jesus
Christ that offers us the gift of a new life. Catechumenal logic reminds us that we are all
sinners called to holiness. This is why we engage in a journey towards personal conversion
that the Sacrament of Reconciliation brings to fulfilment. This is also why we nourish the
desire for holiness, supported by a large number of witnesses.
e) The areas in which the formation of the People of God takes places are many. In addition
to theological formation, the Assembly requested training in specific skills: the exercise of
co-responsibility, listening, and discernment; conducting ecumenical and interreligious
dialogue, service to the poorest and care for our common home; engagement as “digital
missionaries”, facilitation of discernment processes, Conversation in the Spirit, consensusbuilding and conflict resolution. Particular attention should also be given to catechetical
formation of children and young people, which should involve the active participation of
the community.
f) Formation for a synodal Church needs to be undertaken synodally: the entire People of God
being formed together as they journey together. There is a need to overcome the
‘delegation’ mindset found in so many areas of pastoral ministry. Formation in a synodal
key is meant to enable the People of God to live out their baptismal vocation fully, in the
family, in the workplace, in ecclesial, social, and intellectual spheres. It is meant to enable
each person to participate actively in the Church’s mission according to his or her own
charisms and vocation.

Matters for Consideration
g) We recommend undertaking work on relationship and sexual education to accompany
young people as they mature in their personal and sexual identities and to support the
maturation of those called to celibacy and consecrated chastity. Formation in these areas is
a necessary aid at all stages of life.
h) It is important to deepen the dialogue between the human sciences, especially psychology
and theology, for an understanding of human experience that does not merely situate these
approaches by side by side but integrates them into a more mature synthesis.
i) The People of God need to be widely represented in formation programmes for ordained
ministry, as already requested by previous Synods. We need, therefore, a thorough review
of formation programmes, with particular attention to how we can foster the contribution
of women and families to them.
j) Episcopal Conferences are encouraged to work together at the regional level to create a
culture of lifelong formation and learning, using all available resources, including the
development of digital options.

Proposals
k) In the light of synodality, we propose that priority should be given to providing programmes
designed and intended for the joint formation of the entire People of God (laity, consecrated
and ordained ministers). Dioceses should endeavour to encourage these projects within the
local churches. We encourage Episcopal Conferences to work together at regional level to
create a culture of ongoing formation, using all available resources, including the
development of digital options.
l) A range of members of the People of God should be represented in formation programs for
ordained ministries, as already requested by previous Synods. The involvement of women
is of particular importance.
m) Adequate standards and processes for selecting candidates for ordained ministry need to be
applied to ensure that requirements for the propaedeutic programme for seminarians are
met.
n) Formation for ordained ministers should be designed in a way that is consistent with a
synodal Church in the different local contexts. Before embarking on specific paths
candidates should have a significant, albeit initial, experience of life in a Christian
community. Formation should not create an artificial environment separate from the
ordinary life of the faithful. By safeguarding the requirements of formation for ministry,
we can foster an authentic spirit of service to the People of God in preaching, celebrating
the sacraments and enacting charity. This may require a revision of the Ratio fundamentalis
for priests and permanent deacons.
o) In preparation for the next session of the Assembly, a consultation of those responsible for
the initial and ongoing formation of priests should be undertaken to assess how the synodal
process is being received and to propose changes that will promote the exercise of authority
in a style appropriate to a synodal Church.

15. Ecclesial Discernment and Open Questions

Convergences
a) The experience of Conversation in the Spirit was enriching for all who took part. Our style
of communication, privileging freedom in expressing one’s views and listening to each
other, was greatly appreciated. It avoided us moving too quickly to a debate based on the
reiteration of our own positions without listening first to the reasoning that supports the
position of others.
b) This basic approach creates a context that enables careful consideration of matters that are
controversial within the Church, such as the anthropological effects of digital technologies
and artificial intelligence, non-violence and legitimate self-defence, issues related to
ministry, and issues related to sexuality and “bodiliness”, among others.
c) To develop authentic ecclesial discernment in these and other areas, it is necessary to
approach these questions in the light of the Word of God and Church teaching, properly
informed and reflected upon. In order to avoid repeating vacuous formulas, we need to
provide an opportunity for a dialogue involving the human and social sciences, as well as
philosophical and theological reflection.
d) At the heart of many of these controversial matters lies the question of the relationship
between love and truth and the impact this has on many controversial matters. This
relationship, before being considered a challenge, is actually to be considered as a grace
revealed in Christ. For Jesus brought to fulfilment the promise found in the psalms: “Love
and truth shall meet, justice and peace shall embrace. Truth will sprout from the earth and
justice will come forth from heaven” (Ps 85:11-12).
e) Several Gospel passages reveal that Jesus meets people in the uniqueness of their personal
story and situation. He never begins from the perspective of prejudices or labels, but from
the authenticity of relationship to which he commits himself wholeheartedly, even at the
cost of experiencing misunderstanding and rejection. Jesus always listens to the cry for
help of those in need, even in situations in which it remains unexpressed. He engages in
gestures that communicate love and restore confidence; he makes new life possible with
his presence: those who meet him come away transformed. This happens because the truth
of which Jesus is the bearer is not an idea, but the very presence of God in our midst; and
the love with which he acts is not just a feeling, but the justice of the Kingdom that changes
history.
f) We can only support others if we ourselves are undergoing conversion, both personal and
communal. The difficulty we encounter in translating Jesus’ clear evangelical vision into
pastoral choices is a sign of our struggle to live up to the Gospel. If we use doctrine harshly
and with a judgmental attitude, we betray the Gospel; if we practise mercy ‘on the cheap’,
we do not convey God’s love. The unity of truth and love implies bearing the difficulties
of others, even making them our own, as happens between brothers and sisters. This unity
can only be achieved, however, by patiently following the path of accompaniment.
g) Certain issues, such as those relating to matters of identity and sexuality, the end of life,
complicated marital situations, and ethical issues related to artificial intelligence, are
controversial not only in society, but also in the Church, because they raise new questions.
Sometimes the anthropological categories we have developed are not able to grasp the
complexity of the elements emerging from experience or knowledge in the sciences and
require greater precision and further study. It is important to take the time required for this
reflection and to invest our best energies in it, without giving in to simplistic judgements
that hurt individuals and the Body of the Church. Church teaching already provides a sense
of direction on many of these matters, but this teaching evidently still requires translation
into pastoral practice. Even where further clarification is required, Jesus’ actions,
assimilated in prayer and conversion of heart, show us the way forward.

Matters for Consideration
h) It is necessary to continue ecclesial reflection on the original interweaving of love and
truth flowing from Christological revelation, with a view to an ecclesial practice faithful
to these origins.
i) We encourage experts in different fields to bring together their knowledge with their
personal spirituality so that what they offer is a real ecclesial service. What synodality
means in this context is a readiness to think together in the service of mission and in diverse
settings, but with a shared sense of purpose.
j) We identified a need for reflection on the conditions that enable theological and cultural
research that takes as its starting point the daily experience of God’s Holy People and
places itself at its service.

Proposals
k) We propose that initiatives enabling shared discernment on controversial doctrinal,
pastoral and ethical issues should be developed, in the light of the Word of God, Church
teaching, theological reflection and an appreciation of the synodal experience. This can be
accomplished through in-depth discussions among experts with diverse skills and
backgrounds, in an institutional setting that protects confidentiality and promotes frank
discussion. When appropriate it should also involve people directly affected by the matters
under consideration. Such initiatives should be set in motion before the next Session of the
Assembly.

16. Towards a Listening and Accompanying Church

Convergences

a) During the first two years of the synodal journey, including during our Assembly, listening
is the word that best expresses our experience. This is listening given and received.
Listening is a deeply human reality, a dynamic of reciprocity in which each makes a
contribution to the other’s journey while receiving a contribution to one’s own.
b) Many of those who participated in the synodal process at the local level, and especially
those who have suffered forms of marginalization in the Church or in society were greatly
surprised by the invitation to speak and be heard in the Church and by the Church. Being
deeply listened to is an experience of affirmation and recognition of dignity, and is a
powerful way of engaging people and communities.
c) Placing Jesus at the centre of our lives requires some degree of self-emptying. In this
perspective, providing a listening ear means being willing to ‘decentre’ oneself in order to
leave space for the other. We have experienced this in the dynamic of conversations in the
Spirit. It is a demanding ascetical exercise that obliges each person to recognize his or her
own limitations and the partiality of his or her point of view. Because of this, it opens the
possibility of listening to the voice of the Spirit of God that speaks to those beyond the
borders of the ecclesial community, and can initiate a journey of change and conversion.
d) Listening has a Christological significance; it means adopting Jesus’ attitude toward the
people he encountered (cf. Phil. 2:6-11). It also has an ecclesial value, since it is the
Church that is listening through the actions of the baptised who act not simply in their own
name but in the name of the community.
e) The Church encountered many people and groups along the synodal process asking to be
listened to and accompanied. We mention first and foremost young people, whose request
for listening and accompaniment resonated strongly in the Synod dedicated to them (2018)
and in this Assembly, confirming the need for a preferential option for young people.
f) The Church needs to listen with special attention and sensitivity to the voices of victims
and survivors of sexual, spiritual, economic, institutional, power and conscience abuse by
clergy members or persons with Church appointments. Authentic listening is a
fundamental element of the path to healing, repentance, justice and reconciliation.
g) The Assembly expresses its closeness to and support for all those who accept being alone
as a choice made in fidelity to the Church’s Tradition and Magisterium on marriage and
sexual ethics, which they recognise as source of life. Christian communities are invited to
be close to them, listen to them and accompany them in their commitment.
h) In different ways, people who feel marginalized or excluded from the Church because of
their marriage status, identity or sexuality also ask to be heard and accompanied. There
was a deep sense of love, mercy and compassion felt in the Assembly for those who are or
feel hurt or neglected by the Church, who want a place to call “home” where they can feel
safe, be heard and respected, without fear of feeling judged. Listening is a prerequisite for
walking together in search of God’s will. The Assembly reiterates that Christians must
always show respect for the dignity of every person.
i) People who suffer the many different forms of poverty, exclusion and marginalization
within our unequal societies also turn to the Church in search of love, listening and
accompaniment. This listening allows the Church to understand the realities of poverty
and marginalisation, and to draw close in friendship to those who suffer. Crucially it also
enables the Church to be evangelised by those who suffer. Listening to them allows the
Church to understand their point of view and to place itself concretely at their side, and to
be evangelised by them. We thank and encourage all those who are engaged in the service
of listening to and accompanying those who are in prison. They, in particular, need to
experience the merciful love of the Lord and to not feel isolated from the community. On
behalf of the Church, they realise the Lord’s words “I was in prison and you visited me”
(Mt 25:36).
j) Many people experience a condition of loneliness that is often close to abandonment. The
elderly and the sick ill are often invisible in society. We encourage parishes and Christian
communities to be close to them and listen to them. Works of mercy inspired by the Gospel
words “I was sick and you visited me” (Mt 25:39) have a profound significance for the
people involved and for fostering the wider bonds of community.
k) Finally, the Church wants to listen to everyone, not just those who can most easily make
their voices heard. In some regions, for cultural and social reasons, members of certain
groups, such as young people, women, and minorities, may find it more difficult to express
themselves freely in public or ecclesial spaces. Living under oppressive and dictatorial
regimes also erode this freedom. The same can happen when the exercise of authority
within the Christian community becomes oppressive rather than liberating.

Matters for Consideration
l) Listening requires unconditional acceptance. It does not mean compromising proclamation
of the Gospel or endorsing any opinion or position proposed. Jesus opened up new
horizons and pathways for the people to whom he listened unconditionally, and in order to
share the Good News of salvation with those we encounter we are called to do likewise.
m) Widespread in many parts of the world, small Christian communities foster listening
practices of, and amongst, the baptised. We are called to enhance their potential, in
particular, by exploring how they can be adapted to urban contexts.

Proposals
n) What would need to change in order for those who feel excluded to experience the Church
as more welcoming? Listening and accompaniment are a form of ecclesial action, not just
the actions of individuals. They must therefore find a place within the ordinary pastoral
planning and operational structuring of Christian communities at different levels, making
full use of spiritual accompaniment. A synodal Church needs to be a listening Church and
this commitment has to be translated into practice.
o) We do not start this work from scratch. Numerous institutions and structures carry out the
valuable task of listening, including the accompaniment work of Caritas amongst the
poorest, and among migrants and refugees, and the many other contexts of accompaniment
linked to consecrated life or lay associations. Connecting their work in a more integral way
with the local Church community enables this work to be seen as part of the life of the
whole community, not a delegated task.
p) Those performing the service of listening and accompaniment, in its various forms, need
adequate formation, taking into account the experiences of those they come into contact
with. They also need to feel supported by the community. For their part, communities
should become fully aware of the meaning of this service exercised on their behalf and to
receive the fruits of this listening. We propose establishment of a ministry of listening and
accompaniment in order to give greater prominence to this service. It should be grounded
in baptism and adapted to different contexts. The way this ministry is conferred should
promote the involvement of the community.
q) SECAM (Symposium of the Episcopal Conferences of Africa and Madagascar) is
encouraged to promote a theological and pastoral discernment on question of polygamy
and the accompaniment of people in polygamous unions who are coming to faith.

17. Mission in the Digital Environment

Convergences
a) Digital culture represents a fundamental change in the way we conceive of reality and
consequently relate to ourselves, one another, our surroundings, and even to God. The
digital environment changes our learning processes as well as our perception of time,
space, our bodies, interpersonal relationships and, indeed, much of our way of thinking.
The dualism between real and virtual does not adequately describe the reality and
experience of people, especially the youngest, the so-called “digital natives.”
b) Digital culture, then, is not so much a distinct area of mission as a crucial dimension of the
Church’s witness in contemporary culture. This is why it holds special significance in a
synodal Church.
c) Missionaries have always gone with Christ to new frontiers, while the Holy Spirit pushed
and preceded them. It is up to us to reach today’s culture in all spaces where people seek
meaning and love, including the spaces they enter through their cell phones and tablets.
d) We cannot evangelize digital culture without first understanding it. Young people, and
among them, seminarians, young priests, and young consecrated men and women, who
often have profound and direct experience of it, are best suited to carry out the Church’s
mission in the digital environment, as well as to accompany the rest of the community,
including pastors, in becoming more familiar with its dynamics.
e) Within the synodal process, the initiatives of the “Digital Synod” (“The Church Listens to
You” Project) show the potential of the digital environment approached in a missionary
key, the creativity and generosity of those who engage in it, and the importance of
providing them with training, accompaniment and opportunities for peer-to-peer
discussion and collaboration.

Matters for Consideration
f) The Internet is increasingly present in the lives of children and families. While it has great
potential to improve people’s lives, it can also cause harm and injury, such as through
intimidation, disinformation, sexual exploitation, and addiction. There is an urgent need to
consider how the Christian community can support families in ensuring that the online
space is not only safe but also spiritually life-giving.
g) There are many valuable and useful Church-related online initiatives that provide excellent
catechesis and faith formation. Unfortunately, there are also sites where faith-related issues
are addressed in a superficial, polarized and even hate-filled manner. As a Church and as
individual digital missionaries, we have a duty to ask ourselves how we can ensure that
our online presence constitutes an experience of growth for those with whom we
communicate.
h) Online apostolic initiatives have a reach and scope that extends beyond traditionally
understood territorial boundaries. This raises important questions about how they can be
regulated and which ecclesiastical authority should be responsible for supervision.
i) We must also consider the implications of the new digital missionary frontier for the
renewal of existing parish and diocesan structures. In an increasingly digital world, how
do we avoid being trapped within a mindset that seeks only to conserve what we are
already doing and instead unleash new energies for new forms of mission?
j) The COVID-19 pandemic stimulated a range of creative online pastoral initiatives that
reduced the effects of the experience of isolation and loneliness experienced particularly
by elderly and vulnerable community members. Catholic educational institutions also used
online platforms effectively to continue offering formation and catechesis during
lockdowns. We need to assess what this experience has taught us and what the lasting
benefits might be for the Church’s mission in the digital environment.
k) While young people do seek beauty, many young people have abandoned the physical
spaces of Church into which we continue to try to invite them, favouring instead online
spaces. This has implications for how we try to engage them and seek to offer them
formation and catechesis. This is something to consider from a pastoral perspective.

Proposals
l) We need to provide opportunities for recognising, forming, and accompanying those
already working as digital missionaries, while also facilitating networking amongst them.
m) It is important to create collaborative networks of influencers that include people of other
religions or indeed who may profess no faith, but who wish to collaborate on common
causes to promote human dignity, justice, and care for our common home.

18. Structures for Participation

Convergences
a) As members of the faithful People of God, all the baptised are co-responsible for mission,
each according to his or her vocation, competence and experience. Therefore, all contribute
to imagining and discerning steps to reform Christian communities and the Church as a
whole. In this way, the Church experiences “the sweet and comforting joy of evangelising.”
The purpose of synodality, in the composition and functioning of the bodies in which it
takes shape, is mission. Co-responsibility is for mission: this attests that we are truly
gathered in the name of Jesus, this frees the bodies of participation from bureaucratic
limitations and worldly logics of power, and makes gathering fruitful.
b) In the light of the recent teaching of the Church (in particular, Lumen gentium and
Evangelii gaudium), this co-responsibility of all in mission must be the criterion
underlying the structuring of Christian communities and the entire local church with all its
services, in all its institutions, in each of its pastoral bodies (cf 1 Cor 12:4-31). The proper
recognition of the laity for mission in the world cannot become a pretext for assigning the
care of the Christian community to bishops and priests alone.
c) The authority par excellence is that of the Word of God, which must inspire every meeting
of participatory bodies, every consultation and every decision-making process. For this to
happen, it is necessary that, at every level, the gathering draws meaning and strength from
the Eucharist and takes place in the light of the Word heard and shared in prayer.
d) The composition of the various councils for the discernment and decision-making of a
synodal missionary community must provide for the presence of men and women who
have an apostolic disposition, distinguished not by their frequent presence in church, but
by a genuine evangelical witness in ordinary life. The People of God are all the more
missionary when they can make the voices of those already living the mission by
inhabiting the world and its peripheries resonate within themselves, including in
participatory bodies.

Matters for Consideration
e) In light of what we have shared, it is important to ask how we can promote participation
in the various councils when many feel they are not up to the task. Synodality grows when
each member is involved in processes and decision-making for the mission of the Church.
In this sense, we are encouraged by many small Christian communities in the emerging
Churches, who live the closeness of the day-to-day, around the Word of God and the
Eucharist.
f) In Amoris Laetitia, Pope Francis entrusted the Church to make changes to the composition
of participatory bodies, this task cannot be further delayed. The participation of baptised
men and women living in complex situations of loving relationship “can be expressed in
different ecclesial services, which necessarily requires discerning which of the various
forms of exclusion currently practised in the liturgical, pastoral, educational and
institutional framework, can be surmounted” (299). This discernment also concerns their
exclusion from parish and diocesan community participation bodies as experienced in
some local churches.
g) From the perspective of the uniqueness of ecclesial communion: how can we interweave
the consultative and deliberative aspects of synodality? Given the variety of charismatic
and ministerial gifts of the People of God, how do we integrate the tasks of advising,
discerning, and deciding in the various participatory bodies.

Proposals
h) Based on the understanding of the People of God as the active subject of the mission of
evangelisation, we suggest legislating for the obligatory nature of Pastoral Councils in
Christian communities and local churches. It would also be desirable to strengthen the
bodies of participation, with a proper presence of the laity, recognising the role they can
play in discerning decisions by virtue of their baptism.
i) Participatory bodies represent the first instance in which to experience the accountability
of those who exercise responsibility. While we warmly welcome and support their
commitment, in turn, they are invited to practice the culture of accountability to the
community of which they are an expression.

19. Groupings of Churches within the Communion of the Whole Church

Convergences

a) The Holy Spirit abundantly distributes His gifts for the common good, and so we are
convinced that each Church, in the communion of the entire Church, has much to offer.
When we view the Church as the Body of Christ, we understand more easily that the
various members are interdependent and share the same life: “if one member suffers, all
the members suffer together with it; and if one member is honoured, all the members
rejoice with it” (1 Cor 12:26). We therefore want to develop the spiritual attitudes that
arise from this outlook: humility and generosity, respect and sharing. Also important are
the willingness to grow in mutual knowledge and to prepare the necessary structures so
that the exchange of spiritual riches, missionary discipleship and material goods can
become a concrete reality.
b) The question of groupings of local churches proved to be fundamental to the full exercise
of synodality in the Church. In responding to the question of how to configure instances
of synodality and collegiality involving groupings of local churches, the Assembly agreed
on the importance of ecclesial discernment carried out by the Episcopal Conferences and
Continental Assemblies for the proper conduct of the first phase of the synodal process.
c) The synodal process has shown how the bodies provided by the Code of Canon Law and
the Code of Canons for the Eastern Churches exercise their function more effectively
when these bodies are understood from the local churches. The fact that the Church
(Ecclesia tota) is a communion of Churches requires each bishop in a more direct and
binding way to exercise his duty of care for all the Churches (sollicitudo omnium
Ecclesiarum) as a constitutive aspect of his ministry as pastor of a Church.
d) Episcopal Conferences played a decisive role in the first phase of the synodal process. The
process brought out the need for synodality and collegiality at the continental level. Bodies
operating at these levels contribute to the exercise of synodality, respecting local realities
and processes of inculturation. The Assembly expressed confidence that by these means,
the risk of uniformity and centralization in the government of the Church will be overcome.

Matters for Consideration
e) Before creating new ecclesial structures, we need to strengthen and revitalize those that
exist. There is also a need for ecclesiological and canonical study of the implications of
the reform related to groupings of Churches, so that they may assume a more fully synodal
character.
f) Considering the synodal practices of the Church of the first millennium, we suggest a study
exploring how ancient institutions can be recovered in the current canonical order, and
harmonising them with newly created ones, such as Episcopal Conferences.
g) The doctrinal and juridical nature of Episcopal Conferences needs further study,
recognising the possibility of collegial action, including questions of doctrine that arise
locally, thus reopening reflection on the Motu Proprio Apostolos suos.
h) Could the canons referring to particular councils (plenary and provincial) be revised in
order to increase the participation of the People of God, following the example of the
dispensation obtained in the recent Plenary Council of Australia?

Proposals
i) Among the structures already provided for in the Code, the ecclesiastical province or
metropolitan see should be recovered and strengthened as a place of communion for the
local churches within their territory.
j) Relevant authorities should implement synodality at regional, national, and continental
levels in accordance with the insights that have emerged in regard to Church groupings.
k) Where necessary, we suggest creating international ecclesiastical provinces to benefit
bishops who do not belong to any Episcopal Conference and to promote communion
among Churches across national borders.
l) In Latin Rite countries in which there is also a hierarchy of Eastern Catholic Churches, we
recommend including Eastern Bishops in national Episcopal Conferences, leaving intact
their governmental autonomy established by their own Code.
m) A canonical configuration of the Continental Assemblies should be worked out that, while
respecting the particularity of each continent, takes due account of the participation of the
Episcopal Conferences and that of the Churches, with their own delegates who make
present the variety of the People of God.

20. The Synod of Bishops and Ecclesial Assemblies

Convergences
a) Even when the experience of “walking together” has been tiring, the Assembly sensed the
evangelical joy of being the People of God. The new experiences involved in this stage of
the synodal journey were generally welcomed. The most obvious ones include the shift of
the celebration of the Synod from an event to a process (as indicated by the apostolic
constitution Episcopalis communio); the presence of other members, women and men,
alongside the bishops; the active presence of fraternal delegates; the spiritual retreat in
preparation for the Assembly; the celebration of the Eucharist at St. Peter’s; the atmosphere
of prayer and the method Conversation in the Spirit; and the very arrangement of the
Assembly in the Paul VI Hall.
b) The Assembly of the Synod of Bishops, while preserving its eminently Episcopal
character, made tangible on this occasion the intrinsic link between the synodal dimension
of the life of the Church (the participation of all), the collegial dimension (the care of the
bishops for the whole Church), and the primatial dimension (the service of the Bishop of
Rome, guarantor of communion).
c) The synodal process was and is a time of grace which encourages us. God is offering us
the opportunity to experience a new culture of synodality, capable of guiding the life and
mission of the Church. We recalled, however, that it is not enough to create structures of
co-responsibility if personal conversion to a missionary synodality is lacking. Synodal
processes do not diminish the personal responsibility of those called to participate in it at
every level of the Church by virtue of their ministry and charisms, but rather solicit it all
the more.

Matters for Consideration
d) The presence of members other than bishops as witnesses to the synodal journey was
appreciated. However, the question remains open about the effect of their presence as full
members on the episcopal character of the Assembly. Some see the risk that the specific
task of the bishops will not be adequately understood. The criteria by which non-bishop
members are called to be part of the Assembly will also need to be clarified.
e) Experiences such as the first Latin-American and Caribbean Ecclesial Assembly of
November 2021, the Organisms of the People of God in Brazil, and the Australian Plenary
Council were reported. It remains to identify and deepen how to integrate synodality and
collegiality in the future, distinguishing (without undue separation) the contribution of all
members of the People of God to the elaboration of decisions and the specific task of the
bishops. The articulation of synodality, collegiality, and primacy should not be interpreted
in a static or linear form but according to a dynamic circularity, in a differentiated coresponsibility.
f) While at the regional level, it is possible to think of successive steps (an ecclesial Assembly
followed by an Episcopal Assembly), it is considered appropriate to clarify how this might
be proposed with reference to the Catholic Church as a whole. Some believe that the
formula adopted in this Assembly responds to this need; others propose that an Episcopal
Assembly follow an Ecclesial Assembly to conclude the discernment. Still, others prefer
to reserve the role of members of the Synodal Assembly to the Bishops.
g) The contribution to the Assembly’s work and the synodal Church’s processes, made by
experts from different disciplines, particularly theologians and canonists, also has
something to offer.
h) It will also be necessary to reflect on the interaction between the synodal process and
Internet and media communication.

Proposals
i) The synodal processes at all levels of the Church should be evaluated.
j) The fruits of the First Session of the XVI Ordinary General Assembly of the Synod of Bishops should be evaluated.

PROCEEDING ALONG THE JOURNEY

“With what can we compare the kingdom of God, or what parable will we use for it”? (Mk 4:30)
The Word of the Lord takes precedence over words of the Church. The words of
disciples, even those of a Synod, are only an echo of what the Lord Himself says.
Jesus chose to speak in parables in order to announce the Reign of God. He found images
to speak of the mystery of God in the ordinary experiences of human life: the natural world,
the workplace, elements of the everyday. In this way, he let us know that the Reign of God
transcends us yet is not distant from us. Either we see God’s Reign in the things of this world,
or we will never see it.
Jesus saw his own destiny represented in a seed falling to the earth, something of no
value or significance destined to decay, yet possessing the dynamism of life, a dynamism that
is unstoppable, unpredictable, Paschal. This is a dynamism destined to give life; to become
bread for many; bread destined to become the Eucharist.
Today, in a culture where people struggle against one another for dominance and become
obsessed with what is visible, the Church is called to echo the words of Jesus, to bring them to
life again in all their potency.
“With what can we compare the kingdom of God, or what parable will we use for it?”
Our Lord’s question throws light on the work that now lies ahead of us. It is not a matter of
dispersing ourselves over several fronts, reducing everything to a logic of efficiency and
proceduralism. Rather, it is a matter of grasping, among the many words and proposals of this
Report, what appears as a small seed, yet one that bears the future, and of imagining how to
bring it to the soil that will enable it to grow and mature for the benefit of many. “How will
this happen?”, Mary asked herself in Nazareth (Lk 1:34) after hearing the Word. There is only
one answer: remain in the shadow of the Spirit and allow yourself to be enveloped by his
power.
As we look ahead to the period between now and the Second Session, let us thank the
Lord for the journey thus far and for the graces with which He has blessed it. We entrust the
next phase to the intercession of the Blessed Virgin Mary, a sign of sure hope and consolation
to the faithful People of God as they continue their journey, and to that of the Holy Apostles
Simon and Jude, whose Feast we celebrate today. We are all invited to welcome the small seed
that this Synthesis Report represents.
Adsumus Sancte Spiritus!
Rome, 28 October 2023, Feast of Ss. Simon and Jude, Apostles

2023年11月10日

・「性転換者の受洗認める、同性愛者のカップルが代父母となることも条件付きで」バチカンがブラジルの司教に回答書(Crux)

Cardinal Víctor Manuel Fernández, Prefect of the Dicastery for the Doctrine of the Faith, right, receives his biretta from Pope Francis as he is elevated as a cardinal in St. Peter’s Square at The Vatican, Saturday, Sept. 30, 2023. (Credit: Riccardo de Luca/AP.)

(2023.11.9 Crux  Senior Correspondent  Elise Ann Allen)

ローマ発 – バチカンの教理省が、バチカン海外宣教研究所の会員でブラジルのサント・アマロ教区長のジュゼッペ(ホセ)・ネグリ司教から出されていた「教会の同性愛者に対する対応」に関する質問状に回答したことが、9日明らかになった。回答書は、教皇フランシスコと教理省長官のビクトル・マヌエル・フェルナンデス枢機卿が10月31日付けで署名、回答していた。

Vatican signals openness but also caution on transsexuals and baptism

 それによると、① transsexual individuals(性転換者=心の性と身体の性が異なるため、外科的手術によって一致させた人)は洗礼を受けることができる② transgender (心の性と身体の性が一致していない人)と同性愛者のカップルに受洗者の代父母となることにも慎重に扉を開く、との判断を示す一方、「『同性愛者のライフスタイル』は依然として罪深いものであり、それよりも適切な選択肢が考慮されるべきだ」としている。

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 質問状でネグリ司教は、①性転換者は洗礼を受けられるか②性転換者は受洗者の代父母になることができるか③積極的な同性愛のカップルは受洗した子供の親になることができるか④同棲中の同性愛者が子供の代父、代母や、結婚の証人にになることができるか―などに確認を求めていた。

 回答書は、「積極的な同性愛者のライフスタイルは依然として罪深く、スキャンダルの潜在的な根源であり、洗礼は可能だが、慎重さが必要」としたうえで、 「ホルモン治療と性別適合手術を受けた性転換者は、信徒の間で公のスキャンダルや見当識障害を引き起こす危険性がない限り、他の信者と同じ条件で洗礼を受けることができる」とした。また、transgender の子供や青少年の場合も、「十分な準備と意欲があれば」洗礼を受けることができる、との判断を示した。

 また、回答書は、性転換者が洗礼を受ける場合、「特にその人が置かれている客観的な道徳的状況や、恵みに対する主観的な性質に疑問がある場合」は、特別な考慮が必要、とも述べている。

 回答は「カトリック教会のカテキズム」を引用しており、人が「重大な罪」を後悔することなく洗礼を受けた場合、その人は「sacramental character(霊的なしるし)」は受けても、秘跡の「sanctifying grace(罪の清めの恵み)」は受けない—神学的に言えば、その人は洗礼を受けており、したがって恵みを受ける希望があることを意味する―としている。

 回答は、「正当な意向なしに」洗礼を受けた人は、「恵みへの障害」が取り除かれた時、その人はなお恵みを欲している、という聖トマス・アクィナスの言葉とともに、 聖アウグスティヌスの言葉—「たとえ人が罪に陥ったとしても、キリストは洗礼で受けた人格を破壊せず、その人格が刻印されている罪人を引き寄せようとされる」を引用している。

 また、教皇フランシスコの使徒的勧告「Evangelii Gaudium(福音の喜び)」も引用。その中で教皇は、「教会は税関ではなく、父の家であり、どのような理由があっても秘​​跡の扉、特に洗礼は閉ざされるべきではありません… そこには、それぞれの苦労した人生を生きる余地があるのです… 人の客観的な道徳的な状況や、恵みに対する主観的な性質について疑問が残っている場合でも、神の無条件の愛の誠実さという側面を決して忘れてはなりません。この側面は、たとえ罪人であっても、常に開かれた、予測できない、取り消すことのできない契約を結ぶことができるのです」と強調されている。

 そのうえで、回答書は、このことは、その人の行動が明らかに変わらない場合でも当てはまり、その人の「新たな転落」が予測可能であっても、洗礼を受ける「目的の正当性」が消えるわけではない、と指摘。 いずれにしても、「教会は、受洗者に洗礼のすべての意味を完全に実践するよう常に求めるべきであり、それは常に理解され、キリスト教への入門の全行程の中でなされねばならない」と述べている。

 性転換者が受洗者の代父、代母になれるかどうかについては、一定の条件下で、性転換者が「代父母、またはその役割を担うことは認められる」とし、その役割は「権利ではない」ことを考慮すると、「司牧の慎重な配慮から、教会共同体の教育分野でスキャンダル、不当な正当化、見当識障害(時間や場所などの感覚が薄れ、社会生活や日常生活に支障をきたす障害)の危険がある場合には、代父母の役割は許可されるべきではない」との判断を示している。

 また、結婚の証人になることに関して、回答書は、同性愛者や性転換者が結婚の証人になることを「現在の教会法に禁止する規定はない」と述べている。

 同性愛者のカップルが、養子縁組や代理出産によって受洗を希望する子供の親になることができるかどうかについて、回答書は「子供が洗礼を受けるためには、その子がカトリックの宗教教育を受けられるという十分な根拠のある希望がなければならない」と条件を付けている。

 積極的な同性愛者としてのライフスタイルを送っている人が代父母になることができるか、については、教会法を引用しつつ、「より適切な(代父母の候補者をまず、検討すべきである」としたうえで、「適性を有し、信仰と自らが想定する職責に従った生活を送る者なら、誰でも代父母になることができる」。ただし、同棲している同性愛者たちと、「公然とロマンチックな関係を営む同性愛者のカップル」は区別する、と述べた。

 「いずれにせよ、司牧的な思慮深さから、洗礼の秘跡、特にその受容を守るために、あらゆる状況を賢明に検討することが求められる。洗礼は救いにとって必要なものであり、保護されるべき、貴重なものだからだ」と回答書は述べている。

 さらに回答書は、代父母の義務、教会共同体における役割、そして「教会の教えに対する配慮」に、教会共同体が「真の価値」を置いていることを強調。 「洗礼を受けた人にカトリックの信仰を適切に伝えるための保証人として、家族の中に他の人がいる可能性も考慮に入れる必要がある。また、代父母としてだけでなく、洗礼の証人としても、洗礼を受ける人を助けることができることを知っておくべきだ」としている。

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 以上のような、今回の教理省の回答書は、一部の関係者からは、「同性愛とLGBTQ+問題に関する教会の教えの変更に扉を開くものだ」として反対の声が上がっているが、一方で、同性愛者などの権利を要求する人々は「十分ではないが、重要な前進」と歓迎している。

 LGBTQ+擁護団体「 New Ways Ministry」のフランシス・デベルナルド事務局長は「今回の回答書は、『LGBTQ+問題に司牧に焦点を当てた対応を』という教皇の願望が定着しつつあることを示している」と述べた。また、これまでバチカンが表明してきた立場や、米国の一部の司教がLGBTQ+の個人に対して課した制限などとは対照的、とし、「同性愛の関係にある人は代父母としてふさわしくない可能性があるとしつつ、『ケースバイケースで司牧的慎重さが求められる』という表現は、既婚の同性愛者が代父母として奉仕できる可能性を開くものだ」と評価している。

 また事務局長は、Transgender の人々が洗礼を受け、カトリックの結婚式で代父母や証人になることを認めることは、「教皇や教会の高位聖職者たちが、性自認がカトリックの秘跡に参加するための障壁だとは認識していないことの確認」だ、とし、スペインのTransgender の男性が代父になることを認めないという 2015年に示した教理省の立場を「180度反転」させたもの、と強調。教会の典礼の秘跡への参加の壁を取り除くだけでなく、「カトリック教会が特定の慣行や政策について考えを変えることができる、そして実際に変えられることを、今回の回答書は証明した」とする一方で、教会が「LGBTQ+の平等のためにさらに努力し続けなければならない」ことも明らかにしている、と指摘した。

 同性愛者のカップルの子供は洗礼を受けることができるが、事務局長は「肉体的な関係にあることが公けになっている者が代父母となることを禁止する、と受け取られるる回答文書の表現は、バチカンがカトリック教会への参加のリトマス試験紙として使われてきた狭い結婚の定義に縛られ続けていることを示している」とも語り、「教会指導者がこの教理省の指針に”司牧的慎重さ”を持たない場合、他の聖職者がこの指針を利用して、そのような人々を、教会活動の他の分野から排除する別の政策を確立する可能性がある」と述べた。

 また、あからさまな関係にある同性愛者カップルは代父母になる資格がない、という教理省の判断に異議を唱え、このことは、「教理省がLGBTQ+のカトリック教徒を教会の生活に迎え入れることよりも、『スキャンダルを引き起こす』ことへの懸念を重視し続けていることを示している」とし、「教会指導者たちが、昔からの制限を継続するために今回の教理省の指針を利用するのではなく、教皇の積極的に教会に迎え入れようとする姿勢に倣う形で指針を運用する」ことに期待を表明した。

 先月、1か月にわたって開かれた世界代表司教会議(シノドス)通常総会の 総括文書は、以上のような問題をほとんど避けている、とLGBTQ+の支持者たちは批判しているが、デベルナルド事務局長は「今回の回答書は、たとえ”シノドスの道”がこの問題について前進するのに時間がかかっても、教会における「LGBTQ+の平等」を推進していきたい、という願望を示している…Transgender の人々を、より完全に教会の秘跡に迎え入れようというのは、好ましい一歩。さらに前に進める必要がある」と述べた。  

 なお、教皇フランシスコは、前月のシノドス通常総会の期間中に、「 New Ways Ministry」の創設者で長年、LGBTQ+の擁護者となってきたシスター・ジャニン・グラミックと会見されている。

 

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

・・Cruxは、カトリック専門のニュース、分析、評論を網羅する米国のインターネット・メディアです。 2014年9月に米国の主要日刊紙の一つである「ボストン・グローブ」 (欧米を中心にした聖職者による幼児性的虐待事件摘発のきっかけとなった世界的なスクープで有名。映画化され、日本でも全国上映された)の報道活動の一環として創刊されました。現在は、米国に本拠を置くカトリック団体とパートナーシップを組み、多くのカトリック関係団体、機関、個人の支援を受けて、バチカンを含め,どこからも干渉を受けない、独立系カトリック・メディアとして世界的に高い評価を受けています。「カトリック・あい」は、カトリック専門の非営利メディアとして、Cruxが発信するニュース、分析、評論の日本語への翻訳、転載について了解を得て、掲載しています。Crux is dedicated to smart, wired and independent reporting on the Vatican and worldwide Catholic Church. That kind of reporting doesn’t come cheap, and we need your support. You can help Crux by giving a small amount monthly, or with a onetime gift. Please remember, Crux is a for-profit organization, so contributions are not tax-deductible.

2023年11月10日

・「女性助祭」実現には前向き、ペルーの性的虐待問題にバチカンの早急な判断を希望ーアマゾン地域司教協議会会長が会見(CRUX)

(2023.11.1 Crux Senior Correspondent  Elise Ann Allen

ローマ発 – 10月29日に閉幕した世界代表司教会議(シノドス)第16回総会第一会期を終えて、アマゾン地域司教協議会会長でペルーのワンカヨ教区長のペドロ・バレト枢機卿が30日、Crux との会見に応じ、総会で議論の一つになった女性に助祭職を認める問題について、前向きな態度を表明。また、自国の教会共同体崩壊の可能性をはらむ教会組織での性的虐待事件についてバチカンの迅速な裁判を求めた。

 また、世界のカトリック教会でのラテンアメリカの影響力の増大、カトリックの重心が「西から南」に移っている現実についても語った。

 今総会では、女性助祭の問題を含めた教会における女性の役割が最大のテーマとなり、総括文書の中で参加者の意見が最も分かれる問題の一つとなったが、枢機卿は、「教会の歴史を通じて、常に女性をめぐる問題がありました… 一般社会の男性優位の影響を受けて、女性たちが教会の隅に追いやられてきたのです」 としたうえで、「今日の教会、特にラテンアメリカの教会では、女性の参加がなければ、教会は存在しなくなるようになっています。実際、私の教区でも、司祭のいない地域では、女性が典礼やその他の活動を主導することが多くなっている」と語った。

  今総会で大きな議論となった「女性を助祭に任命する可能性」について、「女性助祭に反対している人もいますが、全員ではありません… 女性はそれを要求していませんが、場合によっては、その可能性を与えられることもある」と述べ、総会の最後に、議決権を持つ参加者たちの投票で承認された総括文書にも、女性助祭の問題が取り上げられたことを指摘した。そして、 「この問題について、私たちはまだ検討を続けることができますが、すでに、教会や社会における女性の役割は大きく評価されているのです」と強調した。

 また、ペルーに本拠を置く一般信徒の集団「Sodalitium Christinae Vitae(SCV)」に関わる性的虐待事件について捜査しているバチカンに対し、早急に裁判を始めるよう求めた。一般信徒のSCVの創立者は、未成年者に対する性的虐待を含むさまざまな形の虐待で告発されており、今年 7月、教皇フランシスコは、マルタのチャールズ・シクルーナ大司教ら調査団を現地リマに派遣し、詳細な調査を進めている。枢機卿は自身も調査団のインタビューに応じたことを認めたが、 「現地調査はこれが初めてではなく、これまでに3回あったが効果はなかった。なぜバチカンが、この集団の解散を決定しないのか理解できない」と語った。

 そして、「この問題は、教会組織における虐待の観点から見ても非常に深刻」として。SCVの扱いに関する決定が速やかに決定するよう、希望を述べ、「神の正義は迅速でなければなりません… 20年間も待たされている被害者たちに寄り添うバチカンの決定が、すぐにも下されると信じています。」と強調した。

 以下はCrux とバレット枢機卿の一問一答。(英文)

 

 

Crux: Can share your experience of the synod? What were the most important topics, the things that caught your attention the most?

Barreto: There are three aspects that I think are very important in this synod experience. The first, we can say it was an experience of communion. Communion of all the countries, communion because there was a diversity of opinions, and communion because we really want that the Catholic Church is renewed for the good of humanity.

But we also have a mission to do. This synthesis document gathers what, since 2021, in all (local) churches, we have worked on, and we have gathered it, and starting from this, we have reflected and have truly seen many convergences, many. We have also seen that there are proposals to make, and we made proposals in this document. For example, there are 81 proposals in the synthesis document that we brought as bishops, as laity, as religious, as priests who participated in the synod to deliver, to reflect on, and to enrich this document.

And a third aspect that is very important is the invitation to participation, an active participation of all the baptized men and women: Communion, mission, and participation.

In every synod, there has been a concern that the voice of the west dominates, and that the voice of the south – Asia, Africa, Latin America – is not really listened to. What was your experience here? Was the voice of the global south heard?

That is a very good question because at this time, there is very significant support of the Church in Latin America and the Caribbean through CELAM, which is the Episcopal Conference of Latin America and the Caribbean. Since 1968, three years after the end of the Second Vatican Council, the Church in Latin America has been undergoing a synodal process without knowing it. We didn’t use the word synod, or synodality.

Later, in 1979, there was a conference of bishops to continue advancing in this application of the Second Vatican Council. There were problems and difficulties: Some were in favor of the preferential option for the poor and others said, no, that this was a Communist, Marxist affirmation, etc. In 1992, a conference took place in Santo Domingo, in the Dominican Republic, and this is where most of the confrontation took place, (it was) a very strong crisis inside of Latin America.

It seemed that there would be no more conferences. However, Pope Benedict XVI convoked in 2007 a fifth Latin American Conference of Bishops in the city of Aparecida in Brazil. He was there personally, and he opened two very important things: The centrality of the Word of God in the life and the mission of the Church, and second, that the preferential option for the poor is implicit in the Christological faith. With these two aspects, the conference could dialogue, reflect, and propose a document that Cardinal Jorge Mario Bergoglio, today Pope Francis, could help to write.

Starting from Aparecida, a certain hope was generated. But we lived in Latin America and, imprisoned, crushed, we can say, by a more European vision of the Church, more of other continents, and in this sense, we could ourselves keep alive faith and hope until March 2013, when we learned that for the first time, a Latin American cardinal, Pope Francis, [had been elected.]

To me it is very important to explain this. From there, there have been documents, such as Evangelii GaudiumLaudato Si on the common home, Fratelli Tutti, other exhortations on the call to holiness as baptized, as a people of God, and finally, Predicate Evangelium, which is the document for the reform of the Vatican curia, which was one of the problems.

So, there have been documents and there have been synods to listen to the People of God. Two synod sessions on the family, one session on youth, one session on the Amazon, and now, two sessions of the Synod on Synodality. I think that synodality is not a concept, it is a way of living our baptism, it’s a spirituality; it is listening, discerning, and acting together. A synod walking together; together we listen to God, we also listen to the cries of the poor, we listen to the clamor of the affected earth, and we discern in order to seek the will of God. The Church fulfills the will of God today acting together, but together in a diversity of situations. It’s the same for the Asian continent, the American continent, the European, etc.

But it is true that the Church in Latin America, with humility, I say it, we are contributing to the universal Church.

Latin America has had more experience with synodality, but are other parts of the world open to this perspective, or are they still learning? How do you see the situation?

I see that little by little, the Church is opening in its diversity, but also in its unity. This is why I said there were many convergences of the five continents. This is very, very important, the convergences. However, I think that it must also be recognized that the Church in Latin America is not presented as a model, no, but simply to say that we have walked more than 60 years after the Second Vatican Council with lights and shadows. We have followed a synodal path without realizing it, and the fruit of this synodal path is Aparecida, and the document as such.

But also, we have in the synthesis document the reference to the Ecclesial Conference of the Amazon. It’s the first time in history that there is an ecclesial conference, and I am the president, the first.

Will this be the future of the church?

Right now, it was put as an example in the synthesis document, but the Ecclesial Conference of the Amazon is like a very small plant that is fighting. It’s not about copying, it’s about living a synodal process in each place, with the cultural, social, and ecclesial context. I am very happy, this synod gives us hope again, but an active hope, one of action. It’s not a feeling of hope, because we have an Ecclesial Assembly of the Amazon with indigenous, most of whom are women; most are women, religious, some of them are indigenous, laity who live in the Amazon, priests and bishops. We already have it, everyone is equal. And the hierarchy of the Church is not that I mandate, but I have to listen to everyone and make a decision. This is the model.

One European cardinal said that before, the center of the Church was always in Europe, now the center is in Latin America. Not North America, but Latin America. Why? Because we have lived a synodal process, and this…challenges us, so that CEAMA is an expression of the Church.

How can the involvement of women at all levels be increased? How can this be done in ministries that already exist, or potential new ministries?

Looking at Jesus, the relationship with women is fundamental, especially with his mother, Mary. The greatest role of the woman is that she gave us the ability to have the Son of God incarnated. So, for me, it is Mary the mother with the couple in Cana, she is attentive to the lack of wine, they lack joy. The final words of Mary were, ‘Do what he tells you.’

In the Church’s history, it is always women influenced by society’s machismo, they have been relegated. Today in the Church, especially in Latin America, if women stopped participating, the Church would not exist. This is real. In my archdiocese, I have women religious who baptize, who celebrate marriages, who celebrate for liturgies in parishes where there are no priests. Although it is said that it is a liturgy, not a sacrament, the people applaud, saying, ‘The Mass of the Mother was so beautiful,’ even though it is explained. And how many times have nuns, women, pastoral agents, heard sins, with tears, and they do not give absolution, but God uses women for this.

The greatest thing is to value the role of women in the family, in society, in politics, in the economy.

In the synthesis document, it talks about the woman in the mission of the Church. However, there are some, not all, who are against the women’s diaconate. Women do not demand that, but they can, in some cases, be given the possibility of that. The good thing is that in the synthesis document, every paragraph was voted on, no paragraph was refused, because the majority said yes. So, we can continue reflecting, but the role of women in the Church and in society is being evaluated a lot.

Archbishop Charles Scicluna and Monsignor Jordi Bertomeu visited Peru in July to investigate the Sodalitium Christianae Vitae. How was this investigation seen by the Church in Peru? What possibilities do you see for the community going forward?

It called our attention that the pope made the decision to send Monsignor Scicluna and a priest from the (Dicastery for the) Doctrine of the Faith, Father Jordi Bertomeu. I was able to speak with them. It was not the first time there has been a commission, there have been three commissions, but with no effect, and personally, and also the Church itself, does not understand why the Holy See (doesn’t) make a decision to dissolve this organization, which from the perspective of abuse, they have been very serious, and also the economic aspect, so I hope that soon we will have a decision in that respect, because God’s justice has to be swift, it must be swift.

They say that there are some complications, but I personally don’t understand this, so I trust that soon we will have a decision to accompany those victims, who are (waiting) for 20 years.

You met the pope the other day, how was it?

Every time I come, I have a conversation with Pope Francis, very cordial, very close. He is very interested in CEAMA. I imagine that he was very happy that CEAMA was given as an example of synodality. He really pushed this, so it was very cordial. I’ve known Francis for almost 43 years, since we were relatively young.

We also spoke about the situation in Huancayo, where I’ve been for almost 20 years, and of the joy that we all have to participate in the synod. I (thanked) him a lot because we spoke a lot about the Holy Spirit, the protagonist of the synod, and he offered us an anthropology of texts of the Holy Fathers that speak about the Holy Spirit. In second place, he spoke to us about the People of God, we are all the People of God, we are Church. And third, there was a very strong critique of young priests who are more concerned with their vestments than being close to the people. I conveyed this gratitude.

I saw him with a very clear mind. He knows where he wants to go, and with finesse. I also thanked him for having invited Cardinal (Gerhard) Muller, for example, who was prefect of the Congregation for the Doctrine of the Faith, and Cardinal (Marc) Ouellet [to the synod]. There was (also) a Spanish theologian, very open and very combative, who was also invited, so the pope didn’t just want everyone thinking the same, but to be open, with respect. And this was very recognized by all.

Follow Elise Ann Allen on Twitter: @eliseannallen

2023年11月3日

シノドス総会第一会期・総括文書・日本語試訳終了・追加改訂あり(11月28日現在)

*「カトリック・あい」からお断り

 「世界代表司教会議(シノドス)第16回総会第一会期の総括文書は、2023年10月29日に総会第一会議が閉幕した後、Vatican Newsには短い概要が同日に掲載されたのみのまま、時間が経過し、11月10日になって、ようやく英語版を含む公式の総括文書全文がバチカンの公式ホームページで確認されました。

 総会第一会期でどのような議論があり、どこまで参加者の意見が一致たのか、しなかったのか、提言にする内容はどうだっかのか、など、これからの私たちの”シノドスの道”の歩み、そして来年10月の総会第二会期につなぐ、極めて重要なものと考えます。このため、「カトリック・あい」では総括文書の全文の早期入手に努め、信頼できるルートからイタリア語の原文を基にした英語版全文を入手して、10月30日から、試訳ができた箇所から掲載を始め、日本語も有志の方々の協力を得て、試訳を行い、11月14日に終了、試訳全文を掲載しました。

 その中で、11月10日までに、バチカンから英語訳を含む公式文書が出されたことを確認し、入手しましたので、別途、公式英語版として掲載しました。既に試訳済みの箇所については、今後、公式英語版と比較、精査のうえ、必要であれば文章表現に修正を考えたいと思います。よろしくご理解お願いいたします。

 なお、お読みになっていて、誤訳あるいは活字の転換ミスなどがあれば、ご指摘いただければ幸いです(andynanjo@gmail.comあてに)。なお、文中の聖書の日本語訳は「聖書協会・共同訳」を使用しています。

(代表・南條俊二)

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世界代表司教会議(シノドス)第16回総会第一期(2023年10月4‐29日)

「使命においてシノダル(共働的)な教会」

(目次)

・はじめに

第1部 シノダルな教会の顔

1.シノダリティ: 経験と理解

2.三位一体によって集められ、送られる

3.信仰共同体に入る: キリスト教への入信

4.貧しい人々、教会の旅の主人公

5.教会はあらゆる階級、言語、民族、国家から

6.東方典礼教会とラテン典礼教会の伝統

 7.キリスト教一致への途上にあって

第2部 皆が弟子、皆が宣教師

8.教会は使命

 9.教会の活動と使命における女性

10. 奉献生活と信徒の集合体:カリスマのしるし

11.シノドス的教会における助祭と司祭

 12.教会の交わりにおける司教

 13.司教団の中のローマ司教。

第3部 絆を紡ぎ、共同体社会を作る

14.育成へシノドス的アプローチ

15.教会の識別力と未解決の問題

16. 耳を傾け、寄り添う教会のために

17.デジタル環境における福音宣教

18.参加団体

19.全教会の交わりにおける教会のグループ化

20.代表司教会議と教会会議

・旅を続けるにあたって

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(本文

・はじめに

(公式英語版をもとに2023年11月12日改訳)

 親愛なる姉妹、兄弟の皆さん、

 「私たちは皆… 一つの霊によって一つの体となるために洗礼を受けています」(コリントの信徒への手紙Ⅰ・12章13節)— これは、2023年10月4日から28日まで「シノダル(共働的)な教会のために。交わり、参加、使命」をテーマに開かれたシノドス総会第1会期で私たちが得た、喜びと感謝に満ちた経験です。洗礼という共通の恵みによって、背景、言語、文化が様々に違っても、私たちは心を一つにし、魂を一つにしてこの総会の日々を過ごすことができました。

   聖歌隊のように、私たちはさまざまな声と魂を一致させて歌おうとしました。 聖霊は私たちに、神だけが生み出すことのできる調和を体験するようにしてくれました。それは引き裂かれ分断された世界における賜物であり、証しです。

   私たちが参加する今回の総会は、世界中で新旧の戦争が猛威を振るい、無数の犠牲者の不条理なドラマが見られる中で開かれました。 私たちの中で響く貧しい人たちの、避難を強いられた人たちの、暴力と気候変動の壊滅的な影響に苦しめられている人たちの叫び。

   このような人たちの叫びを、メディアを通してだけでなく、これらの悲劇に個人的に家族や人々を通して関わった多くの人々の証言を通して、私たちは聞いています。私たちは皆、常に、自分たちの教会がどのようにして和解、希望、正義、そして平和の道を育むことができるのかを考えながら、この叫びを、自分の心と祈りに取り込んでいます。

 今回の総会は、ローマで、私たちの信仰を確認したペテロの後継者(教皇)を中心に行われ、教皇は私たちの信仰を固め、使命に果敢に取り組むよう促されました。

   この総会の日々をエキュメニカルな徹夜祭で始めることができたのは恵みでした―ペトロの墓で、教皇とともに、教会の指導者たち、他のキリスト教諸宗派とキリスト生共同体の代表たちが共に祈ったのです。
一致は神の聖なる教会の中で静かに醸成されています。 私たちはそれを自分の目で見、喜びに満ちて証言します。 「兄弟が共に住むことは何という幸せ、何という麗しさ」(詩編133章1節)。

  教皇の求めで、総会では神の民のメンバーが共に、司教の周りに集いました。 司教たちは、皆一致し、ローマ司教(教皇)と共に、教会が交わりであることを証ししました。
信徒たち、修道者たち、助祭たちと司祭たちは、司教たちと共に、教会すべてと教会のすべての人が関わることを意図する歩みの証人となりました。

   彼らの参加は、総会が他と切り離されたひとつの催しではなく、”シノドスの道”において不可欠な部分であり、必要なステップであることを、思い起こさせました。
総会で表明された発言の多様さ、立場の数多さは、シノダリティ(共働性)を受け入れることを学び、それを実現するために最もふさわしいやり方を追い求める教会の姿を明らかにしました。

 私たちが、この総会に至る“シノドスの道”の旅を2021年10月9日に始めてから 2 年以上が経ちました。2021年10月9日に旅が始まった後、ペースは異なるものの、世界のすべての教会は、教区、国、大陸の各段階で「他者に耳を傾ける」プロセスに取り組み、その結果はそれぞれのとりまとめの文書に記録されました。

   (全世界レベルの)この総会は、教会全体が、識別をするために(これまでの各レベルで)祈りと対話=聖霊が私たちに求めているやり方―のうちに行われた討議の成果を受け取ることから始まりました。総会は、2024年10月の第二会期で作業を完成し、教皇にその成果を提出するまで続きます。

   教会の伝統に根ざした旅全体は、教会の伝統に基礎を置き、公会議の教えに照らして行われます。 実際、第二バチカン公会議は、世界と教会の分野に蒔かれた種のようなものでした。 それが発芽し成長する土壌は、信者たちの日常生活、あらゆる人々と文化の教会の経験、聖性についての多くの証言、そして神学者の考察でした。

 2021年から2024年の現在の“シノドス(の旅)″は、その種のエネルギーを引き出し、潜在的な可能性を発展させ続けています。この旅は、神の神秘と民としての教会についての第二バチカン公会議の教えを実践するよう、求められているのです。

   洗礼を受けたすべての人々が、さまざまな召命において、私たちが福音をより良く理解し実践できるよう助け、貢献したことを高く評価します。この意味で、それは公会議をさらに受け継ぎ、その霊感を育て、今日の世界のためにその預言的な力を再起動するという真の行為を成り立たせます。

 約1か月にわたる今総会の討議を経て、今、主は、私たちが(自分の担当する)教会に戻り、(総会での)私たちの働きの成果を皆さんに伝え、共に旅を続けるように、求めておられます。

   ここローマに集まった私たちは、人数は多くありませんでしたが、教皇が呼びかけられたシノドスの旅の狙いは、洗礼を受けたすべての人を関わらせることにあります。 私たちはそうなることを切望しており、その実現に全力を尽くすことを望んでいます。

 この総括文書で、私たちは、この総会の日々を特徴づける対話、祈り、そして討議に現れた主な要素を集めました。 私たちの個人的な物語は、どの構文も十分にとらえきれない生きた経験で、この総括文書を豊かなものにします。そうすることで私たちは、「耳と傾け」「沈黙し」「分かち合い」「祈る」経験のの豊かさを証言することができるでしょう。

   また、(他者の意見に)反論しようとする誘惑にすぐに負けず、異なる意見に耳を傾けるのは容易でない、ということにも私たちは共感するでしょう。 他者への贈り物として、そして絶対的なあるいは確かなものとしてではなく、貢献を申し出ることも同様です。

 しかし、主の恵みは、私たちをそれができるように導いてくださっています-限界があるにもかかわらず。そして、これは私たちにとって、真のシノダリティ(共働性)の経験でした。 実践することで、私たちはそれをよりよく理解し、その価値を把握しました。実際、私たちが理解したのは、多様なカリスマ、召命、奉仕活動の中で、洗礼を受けた人々として共に歩むことが、私たちの地域社会だけでなく、世界にとっても重要だ、ということです。

 福音的な連帯は、ランプのようなもので、「升の下に置くのではなく、家にあるすべてのものを照らすために燭台の上に置かれる」(マタイ福音書 5章15節 参照)必要があります。
今日、世界はこれまで以上に、この証しを必要としています。 私たちは、イエスの弟子として、傷ついた人類に神の愛と優しさを示し、伝える責任を果たすことを怠ってはなりません。

 今総会での討議は、Instrumentum Laboris(準備要綱)に書かれたロードマップに従って進められました。この要綱によって、総会は、シノダルな教会の特徴的なしるしと、そこに含まれる交わり、使命、参加の原動力について再考することができました。提示された課題の功罪について議論し、深い研究が必要なテーマを特定し、一連の初歩的ないくつかの提言を前に進めることができました。

   討議の進展状況を受け、総括文書は、準備要綱の内容すべてを、長々と繰り返し述べることはしていません。私たちが優先すべきと判断した問題とテーマに新たな弾みをつけています。 この総括文書は最終的な結論ではなく、進行中の識別の手段となるものです。

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 この総括文書は3部構成になっています。

 第1部は「シノドス的な教会の顔」を概説し、シノダリティ(共働性)の実践と理解、そしてその神学的根拠を提示します。ここでは、シノダリティのスタイルが、三位一体の観想に由来し、教会における統一性と多様性によって広がった霊的経験として、何よりも第一に示されます。

 「皆が弟子、皆が宣教師」と題された第 2 部は、教会の活動と使命に関わるすべての人々と、その他の人々との関係を扱います。 この部分では、シノダリティは、主に神の民の共同の旅として、また王国の到来に奉仕するカリスマと聖職の実りある対話として提示されます。

 第3 部には「絆を紡ぎ、共同体社会を作る」というタイトルが付けられています。 ここで、シノダリティは主に、諸教会間の交流と世界との対話を可能にする一連のプロセスと組織体のネットワークとして、提示されます。

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 3つの部のそれぞれの章は、それぞれ、総会の対話から生まれた「convergences(まとまったこと)」「matters for consideration( なお検討を要すること)」「proposals(提言)」に分けてまとめられています。

 「まとまったこと」は、熟考が示す具体的な点を特定し、私たちの(進むべき)道を見つけるのに役立つ地図のようなものです。

  「さらに検討を要すること」は、神学的、司牧的、正典的な理解を深め続ける必要があることについて要点をまとめたものです。取るべき方向をもっと良く理解するために、立ち止まる必要のある交差点のようなものです。

  「提言」は、進むことが可能な道を示しています。suggested(提案されているもの)、 recommended(推奨されているもの)、あるいは、requested with some strength and determination(一定の力と決意を込めて要請されているもの)もあります。

 来年10月の総会第2期までの期間、(世界各国の)司教協議会と東方カトリック教会の高位聖職者の機関は、現地の諸教会とシノドス事務局との間の連絡役として機能し、考察を進めるために重要な役割を果たすことになります。

 総会第1会期でまとまったところから出発して、最も緊急性が高いと考えられる問題や提言に焦点を当てることが求められています。司牧的、神学的な課題の深化を督励し、教会法上の含意を示すよう求められています。

 私たちは、ローマで共に働いた日々に経験した、互いに耳を傾け、誠実に意見を交わした雰囲気が、神の国の良い種の育成する奉仕によって、私たちの地域社会や世界を通して広がるよう、希望に支えられ、強い熱意を心から伝えます。

(ここまで、翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二・改訂)

 

第1部     シノダル(共働的)な教会の顔

1.シノダリティ(共働性):経験と理解

【一致 したこと】

a) 私たちは、教会のシノダル(共働的)な側面を新たに認識するよう招かれている。シノドス(代表司教会議)の実践は、新約聖書と初代教会で証明されています。その後、それらは異なるキリスト教会や伝統の中で特定の歴史的な形態をとるようになりました。第二バチカン公会議によって「改革」されたが、教皇フランシスコは教会に再びそれを更新*するよう勧めています。

  *注*updated:第2バチカン公会議は、ローマ教皇ヨハネ23世のもとで開かれ、後を継いだパウロ6世によって遂行されたカトリック教会公会議。公会議史上初めて世界五大陸から投票権を持つ参加者 (公会議教父) が集まり、まさに普遍公会議というにふさわしいものとなり、教会の現代化をテーマに多くの議論がなされ、教会憲章、典礼憲章、教義憲章はじめ多くの教令、宣言が出され、以後の教会の刷新の原動力となるなど、第2バチカン公会議は20世紀のカトリック教会において最も重要な出来事であり、現代に至るまで大きな影響力をもっている。したがって、「更新」や「改革」といった言葉が適切であると言える。

 2021年から2024年にかけての”シノドスの道”*も、このプロセスの一環です。神の聖なる民は、シノドスを通して、神のことばに根ざしつつ、喜びのうちに、時には疲労さえも伴う出会いの瞬間に織り込まれる「祈り、耳を傾け、語る」というシノダルな方法が、私たちは皆、キリストにある兄弟姉妹であるという深い自覚につながることを発見したのです。

*注*「Synod」という言葉は2021年10月に教皇フランシスコがその歩みを始められて以来、様々な意味に使われ、いまだに関係者の間でそれが続いている。「カトリック・あい」では、その意味を文脈の中で明確にするため、2021年10月からの小教区レベル、教区レベル、各国レベル、各地域(大陸)レベル、そして世界レベル(世界代表司教会議=シノドス=総会)に至る全体を「シノドスの道(synodal way, synodal path)」 とし、世界代表司教会議を「シノドス」、現在の総会を「世界代表司教会議(シノドス)総会」という表記で統一することで、訳の混乱が起きないように工夫した。

 それは、一人ひとりが洗礼によってもたらされた尊厳の担い手であり、福音化という共通の使命のための共同責任を担うように呼びかけられた、神の忠実な民としての私たちのアイデンティティに対する意識の高まりです。

b) このプロセスは、神の家であり家族である教会に対する私たちの経験と願いを新たにするものです。「シノダリティ」と「シノダル」という用語は、まさにこのような経験と、より人々に近く、官僚的でなく、もっと関わり合いのある教会への願いを表すものであり、より明確化される必要のある初歩的な理解を示しています。

 それは、若者たちに捧げられた2018年のシノドス総会*において、若者たちが「取り戻したい」と言明した教会です。

 *注*2018年10月28日 ローマに若者が300人参加した他、インターネットでも若者による意見が集められた。インターネットを通した質問書に、世界のおよそ10万人の青少年が回答を寄せた。

c) パウロ6世記念ホールで円卓を囲んで小グループに座るという、聖書の婚宴のイメージ(ヨハネの黙示録19章9節)に匹敵する配置で始まる総会の開催方法そのものが、シノドス教会を象徴しており、神の言葉を中心とするシノドスの源泉であり頂点である聖体のイメージです。その中で、異なる文化、言語、儀式、考え方、そして現実が、聖霊の導きの下、真摯な探求の中で共に実り豊かに関わることができるのです。

 *注*Paul VI Hall:1971年完成。ローマにある建物で、毎週水曜日朝の教皇の一般謁見の聖ペトロ広場の代わりとして利用される。

d) 私たちの中には、戦争、殉教、迫害、飢餓の犠牲となった人々の姉妹や兄弟がいた。シノドスのプロセスに参加することが不可能なことも多かった、これらの人々の苦境は、私たちの交流と祈りの中に入り込み、彼らとの交わりの感覚と平和をつくり出す者としての決意を育んでくれました。

 *注*In our midst:私たちの中に(この場に集まっている)「我々」とも訳する。

e) 総会では、このシノドスのプロセスの間に聖霊が教会に注いでくださった多くの賜物の中で、希望、癒し、和解、信頼の回復について頻繁に語られました。教会で虐待を受け、傷つけられてきた人々を含め、すべての人に耳を傾け、寄り添う姿勢は、長い間、見えないと感じてきた多くの人々を見えるようにしました。和解と正義に向けて、私たちはまだ長い道のりを歩まなければなりませんが、そのためには、そのような虐待を可能にした組織的な状況に対処し、具体的な懺悔の行動を起こすことが必要です。

f) 私たちは、”シノダリティ “という言葉が神の民の多くの人々にとって馴染みのない言葉であることを知っています。その中には、教会の教えが変更され、父による使徒信仰から遠ざかり、今日でさえも、神を求めて飢え渇いている人々の期待を裏切ることになるのではないかという危惧もあります。しかしながら、私たちは、シノダリティは生きた伝統のダイナミズムであると確信しています。

g) 教皇フランシスコは、代表民主主義の価値を低く評価することなく、シノドスが教会的・霊的な本質を欠いた多数決の審議機関となり、教会の本質的なヒエラルキーを危うくするのではないかという一部の人々の懸念に応えています。中には、変更を余儀なくされることを恐れる人もいれば、何も変わらず、生きている伝統のリズムで動く勇気があまりにも乏しくなることを恐れる人もいます。

 * 注*representative democracy 代表民主主義

 また、戸惑いや反発の中には、権力とそれに伴う特権を失うことへの恐怖が隠されていることもあるでしょう。いずれにせよ、どのような文化的背景においても、「シノダル(共働的」や 「シノダリティ (共働性)」という言葉は、交わり、宣教、参加を明確にする教会のあり方を示しています。この例として、アマゾン地域シノドス(代表司教会議=CEAMA)が挙げられますが、これは同地域における宣教的シノダル・プロセスの結果です。

h) シノダリティとは、キリスト者はキリストとともに、また全人類とともに御国に向かって歩むことや理解することができます。福音宣教を志すシノダリティは、教会生活のさまざまなレベルの集まり、互いの声に耳を傾けること、対話、共同体的な識別、キリストが聖霊のうちに生きてご自身を現存させてくださることの表現としての合意形成、差別化された共同責任において決定することを含みます。

i)経験と出会いを通して、私たちはこの認識を共にすることで成長してきました。第一は、私たちが、長年にわたって分かち合ってきた経験が正真正銘のキリスト教的なものであり、その豊かさと深さのすべてを受け入れるべきであるということです。第二は、「シノダル」と「シノダリティ」という言葉には、異なる文化においてその意味のレベルをより注意深く明確を必要とするというものでした。必要な明確化を施した際に、シノダルな視点は教会の未来を象徴するものであるという点で、実質的な一致が見られました。

【さらに検討を要すること】

j) すでに行われてきた内省的な作業に基づいて、司牧的な使い方から神学的、教会法的な使い方まで、さまざまなレベルでシノダリティの意味を明確にする必要があります。漠然としすぎたり汎用に聞こえたり、一時的なもののように思われるリスクを回避する必要があります。同様に、シノダリティと聖体拝領の関係、シノダリティと合議制の関係も明確にする必要があると考えられています。

k) 東方キリスト教の伝統とラテン語の伝統との間の会同の実践と理解の違いを、現在進行中の”シノドスの道”も含めて、両者の間の対話を促進することによって高めたいという願望が現れた。

*注*Encounters:出会い、遭遇。文脈に沿って、「対話」とした。

l) 特に、人々が共同体として共に歩むことに慣れている文化的背景におけるシノダルな生活の多くの表現が引き出されるべきである。このような観点から、シノダルの実践は、内向きな個人主義、ポピュリズムが分裂し、均質化し平坦化するグローバリゼーションに対する教会の預言的な対応の一環であると言えます。それはこれらの問題を解決するものではないが、希望に満ち、多様な視点を統合し、さらに探求され、照らされる必要のある、代替的なあり方と行動を提供する必要があると言えます。

*注*この総括文書は、「内向きな個人主義、ポピュリズム、グローバリゼーション」を社会的な否定的傾向だ、とし、教会におけるシノダルな生活の実践が、その対応であることを示唆している。それは、協力と一致を促進し、分裂と均質化に対抗することによって、希望に満ち、多様な視点を統合し、さらに探求・照明される必要がある存在だ、としている。

【提言】

m) 生きた経験の豊かさと深さから、シノダルの旅に参加する人々の数を増やし、これまでに現れた参加への障害や、一部の人々が抱いている不信感や恐れを克服することを優先事項として示します。

n) 今後1年間、助祭、司祭、司教がシノドスのプロセスにもっと積極的に参加する方法を開拓する必要がある。シノドス教会は、彼らの声、経験、貢献なしには成り立たない。私たちは、彼らの一部がシノダリティ化に抵抗する理由を理解する必要がある。

o) 最後に、シノドス文化がより世代を超えたものになる必要性が強く浮かび上がり、若者が家族、仲間、牧師たちと、デジタルコンテンツ(digital channels)を含めて自由に発言できる場が必要であることが示された。

p) 第二バチカン公会議以降の研究の豊かな継承と、特に国際神学委員会の『教会の生活と宣教におけるシノダリティに関する文書』(2018年)と『教会の生活におけるセンスス・フィデイ』(2014年)の文書*を活用しながら、来年の今総会第二会期に先立ち、シノダリティの概念と実践の用語的・概念的理解を深める神学的作業を適切な場で推進することを提言します。

*注*この二つの国際神学委員会の文書の日本語訳は今年5月に出版された「カトリック教会は刷新できるか」(田中昇など編・訳、教友社)でご覧になれる。

 

r)東方教会典礼法典の改訂の時期が来ているようである。したがって、そのための予備的研究を開始すべきなのです。

 

 

 

2.三位一体によって集められ、送られる

【一致したこと】

a) 第二バチカン公会議が言及しているように、教会は「父と子と聖霊の一致に基づいて一つに集められた民」です(第二バチカン公会議・教会憲章4項参照)

 御父は、御子の遣わしと聖霊の賜物を通して、我々を “私 “から “私たち ” へと移し、世界に尽くすように求められる交わりと宣教のダイナミズムに、関与させてくださるのです。シノダリティは、神が人類と出会うために訪れる三位一体的なダイナミズムを、霊的な態度や教会的なプロセスに翻訳*します。そのためには、洗礼を受けたすべての人が、それぞれの召命、神の恵み、聖職者の相互的な実践に献身することが必要です。

 そうすることによってのみ、教会は真の意味で、自分自身の中と世界との “対話 “となり(参照:Ecclesiam suam 67)、イエスに倣い**、すべての人間と肩を並べて歩むことができるのです。

*注*translates:ベネディクト16世著作「イエス・キリストの神」三位一体の神についての省察(訳:星野泰昭)において、「十字架の神秘に翻訳されなければなりません」としているのを参照。原文:Für uns Menschen heißt Schenken, Sichselbergeben, immer auch Kreuz.(Das trinitarische Ge- heimnis übersetzt sich in der Welt in ein Kreuzesgeheim- nis: Dort ist die Fruchtbarkeit, aus der der Heilige Geist kommt. (独)übersetztは(英)translateに相当する。

**the style of Jesus.:イエスのスタイルだと日本語だと軽く見えるので「イエスに倣い」とした。

b) その起源から、教会のシノドスの旅は、神がすべてのうちにすべてのものになられる時に、完全になされるであろう御国へと向けられています。教会的兄弟愛の証しと、最も貧しい人々への奉仕のための宣教的献身は、それらのしるしであり道具でもある神秘の証しには、決して及びません。

 教会は、自らを宣教の中心に据えるためにシノドスの構成を省みるのではなく、たとえその構成上の不完全さの中にあっても、御国の到来への奉仕を最もよく果たすために、シノドスの構成を省みるのです。教会のシノドスの旅の中心は、神の国とその最終的な完成にあります。教会は、自らを宣教の中心に据えるためではなく、たとえ不完全な状態であっても、神の国の到来によりよく奉仕するために、そのシノダル的な構成を振り返るのです。友愛に満ちた一致と、最も小さい人々への宣教的献身という教会の証しは、その御国のしるしであり、道具なのです。

c) キリスト教共同体の刷新*は、恵みの優位性を認識することによってのみ可能である。もし霊的な深みが欠けているのなら、シノダリティはうわべだけの「刷新」にとどまってしまいます。 私たちに求められているのは、他の場所で得た霊的経験を共同体のプロセスに反映させることだけでなく、共同体の友愛関係が神との真の交流の場であり、形であることをより深く経験することです。この意味において、シノダルの視点は、伝統の豊かな霊的な遺産を活かしつつ、その形式を新たにすることに貢献します。それは参加に開かれた祈り、共に生きるという識別、分かち合いから生まれ、奉仕として放たれる宣教的エネルギーなどです。

*注*renewal:三箇所あるが、文脈と日本語の自然さを優先して翻訳した。

 その起源から、教会における”シノドスの道”の歩みは、恵みの重要性を認識することによって、キリスト教共同体の刷新を志向しています。霊的な深みがなければ、シノダリティは単なる表面的なものとなってしまう。私たちは、神と真正に出会う場所と形として、友愛関係を優先するよう求められているのです。シノダルな視点は、伝統の霊的遺産に基礎を置きながら、その形式を変革することにも貢献します。これには、参加を歓迎する祈り、共に実践する識別、そして分かち合いから生まれ、奉仕を通して現れる宣教のエネルギーが含まれます。

d) 聖霊による会話は、その限界はあるとしても、聖霊が教会に何を語っておられるかを見極め、真摯に耳を傾けることを可能にする、実りある手段です。その実践は、喜び、畏敬の念、感謝の念を呼び起こし、個人、グループ、そして教会を変容させる刷新の道として経験されてきました。

 「対話」という言葉は、単なる会話以上のものを表現しています。それは、思考と感情を調和的に織り交ぜ、分かち合う生命世界を生み出すものです。だからこそ、対話による関与は重要な意味を持つと言えるのです。それは、共同体にとって重要な問題に対処し、決定するために連帯して集うという実践によって結ばれた、異なる民族や文化に見られる人類学的なデータです。恩寵はこの人間的経験を結実させます。「聖霊にあって」対話をするということは、聖霊がそのまぎれもない声を聞かせ、真に福音的な雰囲気の中で、信仰の光を分かち合い、神の意志を求める経験を生きることを意味するのです。

 まとめ:キリスト教共同体の刷新は、真摯な対話と聖霊との関わりを通してのみ可能となります。この種の対話は、単なる対話を超え、信仰の光の中で分かち合い、神の御心を求め、聖霊の声が聞こえるような本来の福音的な雰囲気を作り出すことを含みます。それは、個人、グループ、そして教会全体に影響を与える変容的な経験なのです。

e) シノダリティは宣教を使命としているので、キリスト教共同体は、他宗教、他信条、他文化の男女と友愛を分かち合うことが不可欠であり、一方では自己言及や自己保身のリスクを避け、他方ではアイデンティティの喪失のリスクを避けなければなりません。対話、相互学習、共に歩むという論理は、福音宣教、貧しい人々への奉仕活動、共通の家庭への配慮、神学的研究を特徴づけるものでなければならず、教会の司牧スタイルとなります。

【さらに検討を要すること】

f) 御父の御心に真に耳を傾けることを実現するためには、聖霊の自由と新しさへの言及が、「ただ一度」(ヘブライ10:10)であるイエス・キリストの出来事と適切に調整されるように、神学的観点から教会的識別の基準を深める必要があると思われます。そのためにはまず、聖書に記されている神の言葉に耳を傾けること、伝統と教会の教導職を受け入れること、そして時代のしるしを預言的に読み取ることの関係を、明確にする必要があります。

*注*once and for all:「この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、私たちは聖なる者とされたのです」(ヘブライ人への手紙10章10節)

g) そのためには、理性と感情の間の還元主義や二元論を克服し、信仰体験の知的次元と情緒的次元を並列させるのではなく、統合することができる人間学的・霊的ビジョンを促進することが極めて重要です。

h) 聖霊による対話が、神学的思考と人文科学と社会科学(the humanities and social sciences)の貢献をどのように統合できるのか、特に「見る」「判断」「行動」 によって精査することや、「認識」「解釈」「選択」の手順によって行われる他の教会的識別のモデルに照らし合わせた場合でも、明確にすることが重要です。

*注*other models of ecclesial:「他の教会的」とは、f〜hによって教会内の識別に対するより広範で包括的なアプローチの必要性を強調するために、言及されている。神学的思考と人文科学と社会科学などのさまざまな視点や学問分野を照らし合わせ、様々な状況や文脈の中で神の御心を識別し理解するために用いることのできる様々な方法論や枠組みがあることを示唆している。

i)「Lectio Divina(神の読書)」*と、古今東西のさまざまな霊的伝統が識別の実践に提供しうる貢献を発展させるべきなのです。実際、聖霊が何世紀にもわたって示唆し、教会の霊的遺産の一部である、複数の形式やスタイル、方法や基準を評価することは適切なのです。

*注*Lectio Divinaは、神の言葉を深く味わうために聖書で祈る瞑想的な方法。 初期教会の時代にさかのぼり、6世紀の聖ベネディクトによって修道生活の慣行として確立された。

 

【提言】

 j ) 教会の生活の中で、聖霊による対話や その他の形式の識別を試み、適応させ、文化や文脈に応じ て、さまざまな霊的伝統の豊かさを大切にすることを提案します。適切な形の同伴*がこの実践を促進し、その論理を理解し、起こりうる抵抗を克服する助けとなります。

 *注*Appropriate forms of accompaniment:日本語の場合、「適切な理解」「適切な共感」と方法や手段として記すことが通常だが、form(形)は日本語の場合は、具体的な形や外見を指すことが一般的だが、西洋圏(キリスト教圏)では、ある目的や目標に対して適切な形式や方法を指す場合がある。

l)司牧の場においても、教会生活の具体性を照らし出すために、状況に応じて適切な方法で、識別の実践を行うことが重要です。それによって、共同体に存在するカリスマをよりよく認識し、 任務や 使命を賢明に委ね、単なる活動の計画を超え、聖霊の光に照らされた司牧の道 を設計することが可能になります。

3. 信仰共同体に入る: キリスト教への入信

【一致したこと】

a) キリスト教への入信は、主が、教会の務めを通して私たちに復活祭信仰を示し、私たちを三位一体的、教会的な交わりの中に入れてくださる旅程です。この旅程は、それが行われる年齢や、東洋と西洋の伝統にふさわしい強調点の違いによって、実に多様な形をとっています。もっとも**、御言葉に耳を傾けること、生活を改めること、典礼を祝うこと、共同体とその使命の中に溶け込むことは、常にこの旅程に絡み合っています。まさにこの理由から、求道者の旅は、その段階と歩みの漸進性をもって、すべての教会的歩みのパラダイムとなるのです。

*注*この文脈では、キリスト教のinitiation processが異なる伝統や年齢によって異なる特徴や重点を持つことを指している。つまり、異なる伝統等によって、initiationの形式や重視される点が異なるということを言っている。**英語分ではhoweverとある。 前述の内容と対照的な要素や制約を導入する際に使われる単語だが、キリスト教入信の旅は、様々な形式をとりいれるが、その中には東西の伝統に固有の重点があるとし、それを述べた後に、聖書の言葉、聴衆の生活の変革、ミサの祝福、共同体への参加などを含みcatechumenal journeyは、段階的な進行によって、全ての共同体の歩みによって関わって絡み合っているものとしているので、使い方として「しかし」という逆接ではない。よって、「もっとも」と訳した。

b) 入信は、実に多様な召命や教会の務めに触れることをもたらします。そこには、子どもたちとともに歩むことによって、子どもたちに歩むことを教える教会の母性的な顔が表れています。「母性的な一面を持つ教会」は子どもたちの声に耳を傾け、子どもたちの疑問や質問に答えながら、一人ひとりの歴史、言語、文化がもたらす新しさによって豊かにされるのです。この司牧的行為の実践の中で、キリスト教共同体は、多くの場合、十分に意識されることなく、合一性の最初の形態を経験するのです。

*注*”maternal face”と”she”: カトリック教会における教会とは、父性的な性格を持つとされる。司教や神父などの聖職者は、父親のような役割を果たし、信徒を導く。しかし、教会もまた母性的な性格を持つと考えられており、信仰の親元としての保護や教育など、母親のような役割も果たすとされている。「彼女」と訳すると違和感があるので、「母性的な一面を持つ教会」とした。

c) カリスマや宣教の区別以前に、「奴隷も自由人も、一つの霊によって一つの体となるために洗礼を受け」(コリントの信徒への手紙1・12章13節)とあるように、洗礼を受けたすべての人には、各人の召命に従って、尊厳の真の平等と、宣教に対する共通の責任があります。「この油があなたがたに、すべてのことを教えます」(ヨハネの手紙1・2章27節)。

 聖霊の油注ぎによって、信者は皆、福音の真理に対する直感(信仰の感覚:sensus fidei )を持っています。それは、神の存在に対するある種の親近感と、信仰の真理に適合するものを直感的に把握する適性から成っているのです。シノドスの道はこの賜物を高め、特定の教義や実践が使徒的信仰に属するかどうかを決定する確かな基準である、信者たちの同意(consensus fidelium)の存在を検証することを可能にします。

d) 堅信は聖霊降臨の恵みを教会に永続させます。聖霊の賜物の豊かさで信徒を豊かにし、共通の洗礼の尊厳に根ざした特定の召命を宣教の奉仕の中で発展させるように呼びかけます。その重要性はより強調され、教会のシノダル(共働的)な顔(synodal face)を描く多様なカリスマと宣教との関連において位置づけられなければなりません。

f) 聖体から、教会の一致とキリスト教共同体の多様性、秘跡の神秘の一致と典礼の伝統の多様性、祝典の一致と召命、カリスマ、奉仕活動の多様性など、一致と多様性を明確に表現することを学ぶことになります。聖霊によって生み出される調和は画一的なものではなく、すべての教会的賜物が共通の啓発のために意図されたものであることを、聖体以上に示すものはないのです。

【さらに検討を要すること】

g) 洗礼の秘跡は、キリスト教の入信の論理から切り離して理解することはできないし、個人主義的に理解することもできません。従って、キリスト教の入信についてのより統一的なビジョンからもたらされる会衆制の理解への貢献をさらに探求する必要があります。

h) 信仰の感覚の成熟には、洗礼を受けるだけでなく、聖餐の恵みを真正なる弟子としての生活へと発展させることが必要であり、それによって、支配的な考え方の表れであるもの、文化的な影響であるもの、あるいはいかなる場合にも聖霊の働きや福音と矛盾するものから見分けることができるようになります。これは、適切な神学的考察によって深める必要があります。

i) シノダリティに関する考察は、聖霊の恵みがペンテコステ(聖霊降臨日)の調和の中で多様な賜物とカリスマを明確にする堅信についての理解に新たな洞察を与えることができます。様々な教会経験に照らし、この秘跡の準備と祝典をより実りあるものにし、すべての信徒が共同体形成、世界における宣教、 信仰のあかしへの呼びかけを呼び覚ますための方法を研究すべきなのです。

j) 司牧の神学的観点から、教会で指導を受けるための(catechumenal)論理が、結婚準備、職業的・社会的に積極的に関わることによる選択に伴い、あるいは聖職への養成など、教会の共同体全体が関与しなければならない他の司牧の道をどのように照らし出すことができるかについて、研究を続けることが重要です。

【提言】

k) 聖体がシノダリティ(共働性)を形づくるものであるなら、最初の一歩は、その賜物にふさわしく、真正な友愛をもって祝福することによって、その恵みに敬意を表わすことです。真正をもって祝われる典礼は、弟子としての自覚と友愛の最初の、そして基本的な学びの場になります。あらゆる養成の取り組みを行う前に、私たちはその力強い素晴らしさと、その身振りの高貴な意味合いによって自分自身を形成することを許さねばなりません。

l) 第二のステップは、典礼言語を信徒にとってより親しみやすいものにし、文化の多様性の中でより具体化する必要性が広く報告されていることに言及しています。伝統との連続性や典礼の形成の必要性を疑問視することなく、この問題についての考察と、教皇フランシスコのmotu proprio(自発教令)「Magnum principium」*に沿った司教協議会へのより大きな責任の帰属が求められています。

*注*教皇フランシスコが2017年9月3日付で使徒的書簡の形で発出した自発教令。 1983年の教会法典を修正し、典礼本文の現代語への翻訳の責任と権限を、各国、各地域の司教協議会に移管し、バチカンの典礼秘跡省の役割を制限した。

 

m) 第三のステップは、ミサの祭儀だけに限定することなく、あらゆる形式の共同祈願を高めるという司牧的取り組みであります。典礼の祈りの他の表現、また、その土地の文化的才能を生かした民衆的な敬虔の実践は、すべての信徒の参加を促進し、信徒にキリスト教の神秘を徐々に紹介し、教会にあまり馴染みのない人々を主との出会いに近づける上で、非常に重要な要素です。人々の敬虔なる形のうちで、聖母マリアへの献身は、多くの人々の信仰を支え、育むことができるという点で、特に際立っています。

4. 貧しい人々、教会の旅の主人公

【まとまったこと】

a) 教会は貧しい人々に愛を求めます。愛とは、尊敬、受容、承認を意味しており、それなくして、食料、金銭、福祉を提供することは、確かに重要ではあるが、人の尊厳を十分に考慮しない援助の一形態となってしまいます。尊重と承認は、個人の能力を活性化するための強力な手段であり、その結果、一人ひとりの人は、他者の福祉行為の対象ではなく、自分自身の成長の道の主体となるのです。

b) 貧しい人々への優先的配慮は、キリスト論的信仰に暗黙のうちに含まれています- イエスは貧しく謙遜であったが、貧しい人々と親しくし、貧しい人々と共に歩み、貧しい人々と食卓を共にし、貧困の原因を訴えられました。教会にとって、貧しい人々や捨てられた人々のための選択肢は、文化的、社会的、政治的、哲学的なものである前に、神学的なものなのです。聖ヨハネ・パウロ二世にとって、神はまず彼らに慈悲を与えます。この神の選択は、「イエス・キリストにも見られるもの」(フィリピの信徒への手紙2章5節)を育むように召されているすべてのキリスト者の生活の中で結果をもたらします。

c) 貧困の種類はひとつだけではありません。貧しい人々のさまざまな顔の中には、尊厳ある生活を送るための必需品を欠く、すべての人々の顔があります。それは、移民や難民、先住民族、原住民族、アフリカ系住民、暴力や虐待に苦しむ人々、特に女性や依存症の人々、発言権を組織的に否定されるマイノリティ、見捨てられた高齢者、人種差別、搾取、人身売買の被害者、特に未成年者、搾取される労働者、経済的に排除された人々、その他周辺地域に住む人々のことです。

 弱者の中で最も弱い立場にあり、そのために絶え間ない擁護が必要なのは、胎内にいる胎児とその母親だといえるでしょう。今総会は、さまざまな大陸の多くの国々を苦しめている戦争とテロリズムによって生み出された「新しい貧困層」の叫びを認識し、その原因となっている腐敗した政治・経済体制を非難します。

d) 私たちの世界は、物質的な貧困のさまざまな形態とともに、精神的な貧困の形態も知っています。自分自身への過度なこだわりは、他者を脅威とみなし、個人主義に閉じこもることにつながることになります。これまで述べてきたように、物質的な貧困と精神的な貧困は、結びつけば互いのニーズに対する答えを見つけることができるでしょう。共に歩むということは、シノドス教会の視点を具体化することであり、福音の言葉「心の貧しい人々は幸いである」(マタイによる福音書5章3節)の完全な意味を私たちに明らかにすることなのです。

e) 貧しい人々と共に立つということは、私たちの共通の故郷と関わりを持つことにおいても彼らと共に関わるということなのです。今総会の開会に合わせて教皇フランシスコが発表された使徒的勧告『Laudate Deum』が指摘するように、対応の欠如は、生態系の危機と特に気候変動を人類の生存に対する脅威にしています。 気候変動の影響に最もさらされている国々の教会は、方向転換の緊急性を強く認識しており、このことは、地球上の他の教会の旅路への貢献です。

f) 教会の使命は、貧困と排除の原因に取り組むことです。これには、貧しい人々や排除された人々の権利を守るための行動も含まれ、個人、政府、企業、社会構造のいずれによって行われたにせよ、不正を公に糾弾することが必要かもしれません。そのためには、彼らの要求や視点に耳を傾けることが不可欠であり、彼らの言葉を用いて彼らの声を代弁するのです。

g) キリスト者は、教会の社会教義からインスピレーションを受け、さまざまな形(市民社会組織への参加、労働組合、民衆運動、民衆に根差した団体、政治の分野など)で活動しながら、共同体の構築と生命の尊厳の擁護に積極的に参加することを約束する義務があります。教会は、彼らの行動に深い感謝を表明するでしょう。共同体は、慈愛と奉仕の純粋な精神をもって、これらの分野で働く人々を支援します。彼らの活動は、福音を宣べ伝え、神の国の到来に協力するという教会の使命の一部なのです。

h) 貧しい人々の中で、キリスト者の共同体は、裕福な人であったキリストが、私たちのために貧しくなってくださり、その貧しさによって私たちが裕福になるようにしてくださったキリストの顔と肉体に出会うのです(コリント信徒への手紙2・8章9節参照)。それは、彼らと親しくなるだけでなく、彼らから学ぶことでもあります。シノドスとは、道であるお方とともに歩むことであるとすれば、シノダルな教会は、貧しい人々をその生活のあらゆる側面の中心に置く必要があります。彼らの生活が主と似ていることから、貧しい人々は賜物として受けた救いの前触れとなり、福音の喜びの証人となるのです。

【なお検討を要すること】

i) 世界のある地域では、教会は貧しく、貧しい人々とともに、貧しい人々のためにある。教会の慈愛の” モノ ” として、貧しい人々を “彼ら” と “私たち” の観点から見てしまうという、注意深く避けなければならないリスクが常にあります。貧しい人々を中心に置き、彼らから学ぶことは、教会がもっとすべきことなのです。

*注*Object: “object”は「対象」という意味であり、「モノ」とも解釈される。例えば「貧しい人を対象に支援する」としたいときは“Supporting disadvantaged individuals.” Individual(個人)の複数形にするなどがある。Peopleも可能だが、文脈による。

j) 不公正な状況に対する預言的な糾弾と、為政者への働きかけは、外交的な手段に訴える必要がありますが、明晰さと実りを失わないように、動的な緊張関係を保たなければなりません。特に、教会機構が公的または私的な資金を使用することが、福音の要求のために発言する自由を制約しないように注意しなければなりません。

*注*policy makers:政策立案者のことを「為政者」と言い換えた。

k) 教育、医療、社会福祉の分野で、いかなる差別も排除もなく活動することは、教会の構成として、最も弱い人々の統合と社会への参加を促進する教会の明確なしるしです。 この分野で活動する団体は、自らをキリスト教共同体の表現としているからこそ、非人道的なスタイルの慈善活動を避けるよう強く求められています。また、これらの共同体は、ネットワークを作り、協調することが強く求められています。

*注*They are also: they areが共同体を指しているのか、非人間的な慈善活動かを明確にし、alsoで同時にという意味も兼ねて、共同体が、キリスト教共同体の表現としているからこそ、非人道的な慈善活動を避けるのと同時に、ネットワークを作り、協調することを強く求めるとした。

l) 教会は、その整合性を誠実に示すために、その関連機関で働く人々に対する正義の要求をどのように満たしているかを誠実に調べなければならなりません。

m)シノダル的な教会において、連帯意識は、異なる地域の地方教会間の贈り物の交換や資源の共有というレベルでも発揮されます。これらは、関係するキリスト教共同体間の絆を生み出すことによって、教会の一致を促進する関係です。

   私たちは、聖職者に恵まれない教会を助けるためにやってくる司祭が、単なる機能的な救済策ではなく、彼らを派遣する教会と彼らを受け入れる教会の成長のための資源となるように、確保されるべき条件に焦点を当てる必要があります。   同様に、経済援助が福祉主義に陥ることなく、福音的連帯を促進し、透明で信頼できる方法で管理されるように努力することが必要です。

*注*Welfarism:何故、welfarism(福祉主義)が否定的に書かれているかについて。福祉主義は、個人や社会全体の福祉や幸福を追求するために、経済的な支援やサービスを提供する考え方。この文脈で「福祉主義」を否定的に言及しているのは、単純な経済的支援や援助に留まらず、より包括的で文化的なアプローチが必要だという意味だ。この文脈では、福祉主義が問題とされている理由は、次の二つの点が書かれている。①福祉主義に頼るだけでなく、教会の発展を促し、成長を実現するためのより包括的な戦略が求められる②経済援助が福祉主義にdegenerate(退化)しないようにする必要があるという指摘が書かれてある。この文脈では単なる援助に頼るだけでなく、援助を通じて共に成長し、透明性と信頼性を確保することが求められている。これらの理由から、「福祉主義」自体は問題ないが、単なる経済的な援助や慈善事業にとどまらず、より包括的かつ持続可能なアプローチが求められている。

【提案】

n) 教会の社会教理は、あまりに知られていない資源であり、再び力を入れる必要があります。地域の教会は、その内容をよりよく知らせるだけでなく、その霊感を行動に移す実践を通して、その充足を促進することを約束しましょう。

o)貧しい人々や社会から疎外された人々に出会い、生活を分かち合い、奉仕する経験を、キリスト教共同体が提供するすべての養成過程の不可欠な一部とします。

p)司祭職の再考の一環として、貧しい人々への奉仕をより強く志向するように促進させます。

q) integral ecology*の聖書的・神学的基礎が、教会の教え、典礼、実践の中に、より明確かつ注意深く統合されますように。

*注*integral ecology:2015年に出された教皇フランシスコの環境回勅「Laudato-si」の中心的な考え。「すべてのものはすべてのものと密接に関わっていて、無関心でいられるものなどなにひとつない」を基本とする概念。

5. 教会はあらゆる階級、言語、民族、国家から

【一致したこと

a) キリスト者は、特定の文化で生活し、言葉と秘跡の中でキリストを自らの内にもたらします。慈愛の奉仕に取り組むことによって、キリストの秘義を謙遜と喜びをもって歓迎し、そのようにして、彼らは 「あらゆる部族と言葉の違う民」(黙示録5章9節)の教会となるのです。

b) 教会が存在する文化的、歴史的、地域的背景は、霊的、物質的に異なる必要を明らかにします。このことは、地域教会の文化、宣教の優先項目、各教会がシノダルな対話に持ち込む関心事や賜物、そして彼らが自分たちを表現する言語を形作っています。今総会を通して、私たちは教会であることの多様な表現を直接、しかも喜びをもって体験することができました。

c) 教会は、ますます多文化的、多宗教的な文脈の中で生きており、そこでは、社会を構成する他のグループとともに、宗教と文化の間の対話に関与することが不可欠です。このような文脈の中で教会の使命を生きることは、橋をかけるような存在であり、相互理解を培い、伴走し、耳を傾け、学ぶ福音化に携わろうとする存在、奉仕、宣教のスタイルが必要です。集会では何度か、「靴を脱いで」対等な立場で相手との出会いに臨む、というイメージが、謙遜と神聖な空間への敬意のしるしとして響くことです。

*注*taking off one’s shoes:この文脈では、他の宗教や文化との関わりにおいても、同様の謙虚さと尊重の姿勢が求められると意味している。「靴を脱ぐ」ことは、日本、及びアジア圏では礼儀だが、諸外国では失礼にもあたる。他の人々や文化との出会いにおいて、互いを平等な存在として尊重し、お互いを理解し合うための態度を示す際の「比喩表現」ではなく、具体的なアクションの一例として言及される。

d) 人口移動は、異文化共同体としての地域教会を作り変える現実です。移住者や難民の多くは、根こそぎ奪われ、戦争や暴力の傷を負っているが、彼らを受け入れる共同体にとっては、再生と豊かさの源となり、地理的に離れた教会と直接的なつながりを築く機会となることが多いのです。

  移住者に対する敵対的な態度がますます強まる中、私たちは、開かれた歓迎を実践し、新しい生活計画の建設に同行し、民族間の真の異文化交わりを築くよう求められています。移民の典礼的伝統と宗教的実践を尊重することは、真の歓迎の不可欠な部分になります。

*注*・the wounds of uprooting:根ざしていた環境を奪われるという意味ですが、文脈から次の戦争や暴力の傷を受ける状況から奪われているということである。

e) 宣教師たちは、福音を世界に伝えるためにその生涯を捧げてきました。彼らの努力は福音の力を雄弁に物語ります。しかし、「宣教」という言葉が、痛ましい歴史的遺産をはらんでいる文脈では、今日の交わりを妨げているような状況では特別な注意と感受性が必要です。

 一部の地域では、福音の宣教が植民地化や大量虐殺と結びつけられていました。このような文脈で福音を伝えるには、犯した過ちを認め、これらの問題に対する新たな感受性を学び、植民地主義を超えてキリスト教的アイデンティティを築こうとする世代に同伴することが必要です。尊敬と謙遜さは、私たちが互いに補い合い、異文化との出会いがキリスト教共同体の信仰の生き方や考え方を豊かにすることを認識するための基本的な態度です。

f) 教会は、すべての人々の間の交わりを築く一環として、諸宗教間の対話の必要性を教え、その実践を奨励します。暴力と分断の世界にあって、社会正義、平和、和解、共通の家庭への配慮に向けた協調的で友愛的な連帯の中で、人類の一致、共通の起源、共通の運命への証しは、これまで以上に急務とされています。教会は、聖霊があらゆる宗教、信念、文化を持つ人々の声を通して語りかけることができることを認識しています。

【さらに検討を要すること】

g)  教会であることの多様な表現の豊かさに対する感受性を養うことが必要です。このためには、教会全体としての姿と、その地域に根ざした姿との間にダイナミックなバランスを見出すこと、教会の一致の絆を尊重することと、多様性を妨げるような均質化の危険性との間にダイナミックなバランスを見出すことが必要になります。意味や優先事項は異なる文脈の中で変化するため、分権化*や中間的な存在**の形態を特定し、推進する必要があります。

*注*Decentralization:分権化とは、中央から地方や地域の組織や団体に権力や機能を分散させることを指す。これにより、地域の特性やニーズに応じた柔軟な対応が可能になる。

** intermediate instances:中間的な存在とは、中央集権的な組織や地方自治体と地域の間に位置する組織や団体のことを指す。これにより、地域レベルと中央レベルの連携や協力を図りながら、より効果的な意思決定や政策実施を行うことができる。

 文脈として、教会は異なる文脈や地域の特性を考慮し、分権化や中間的な存在を推進することで、地域のニーズに柔軟に対応しつつ、統一性を保ちつつ多様性を尊重することが求められる。

h)  教会は典礼生活や道徳的・社会的・神学的考察といった重要な分野における分極化や不信感の影響を受けています。私たちは、対話を通してそれらの原因を認識し、それらを克服するために、勇気をもって交わりの活性化と和解のプロセスを行う必要があります。

i)  私たちの地域教会では、福音化を理解するさまざまな方法の間に緊張が生じることがあります。それは、生活のあかし、人類の進歩への献身、信仰や文化との対話、福音の明確な宣教に焦点を当てたものです。同様に、明確にイエス・キリストを宣べ伝えることと、それぞれの文化がすでに持っている「種子としての御言葉(semina Verbi)」*を求めて、その特徴を大切にすることとの間にも緊張が生じます。

j)  福音のメッセージと伝道者の文化との間に起こりうる混乱は、探求されるべき問題の一つとして言及されます。

k)  一段と激しくなっている武器の取引とその使用がもたらす紛争の広がりは、今総会のいくつかの作業部会で提起され、非暴力的な方法で紛争に対処するための、より慎重な考察と訓練の問題を切り開いています。これは、他宗教との対話と協力を含め、キリスト者が今日の世界に対してなしうる正当な貢献です。

【提言】

l)  幅広い多様な文脈の中で、親しみやすく美しい方法で人々の心と心に語りかけるために、私たちが用いる言葉の問題に改めて注意を向けることが必要です。

m) 地方分権の形態を試すという観点から、その管理と評価のための共通の枠組みを定義し、関係するすべての人々とその役割を明らかにする必要があります。首尾一貫性を保つために、分権化に関する検討プロセスは、さまざまなレベルで関係する全ての関与する関係者の同意と貢献が得られるよう、シノダルなスタイルで行われねばなりません。

n) 先住民族との司牧的関わりには、彼らのために行われる支援に限らず、共に歩む旅に沿った新しいパラダイムが必要です。先住民のあらゆるレベルでの意思決定プロセスへの参加は、より活力に満ちた宣教的な教会に貢献することです*。

*注*New paradigms are needed for pastoral engagement with indigenous peoples, along the lines of a journey together and not an action done to them or for them.について:先住民族に対する支援や関与の形をより分散させることで、彼ら自身の自発性や主体性を尊重することを提案している。前文からも読み取れるように従来の中央集権的なアプローチではなく、彼ら自身が持つ知識、リソース、文化に基づく取り組みを促進することを目指す。

o) 今総会では、第2バチカン公会議の教え、公会議後の教理、教会の社会教説について、よりよく知ることが求められました。 私たちは、交わり、奉仕と対話において効果的な教会の教会であることをより明確にするために、私たちの異なる伝統をよりよく知る必要があります。

p) 移民や難民の数が増加する一方で、彼らを受け入れる意欲が減少し、外国人に対する猜疑のまなざしが強まる世界において、教会は、特に司牧養成プログラムにおいて、人種差別や外国人嫌悪と闘いながら、対話と出会いの文化の教育に断固とした姿勢で取り組むことが適切です。移住者の統合のためのプロジェクトに関与することも同様に必要です。

q) 人種的正義の分野における対話と識別への新たな取り組みを推奨します。教会内に人種的不公正を生み出し、あるいは維持するシステムが特定され、闘わなければなりません。癒しと和解のプロセスは、人種差別の罪を根絶するために、その影響を受けている人々の助けを借りて開始されねばなりません。

(ここまで「カトリック・あい」Chris Kyogetsu 試訳)

 

6.東方典礼教会とラテン典礼教会の伝統

 

【一致したこと】

a) 東方典礼教会のうち、ペトロの後継者と完全な交わりの関係にある教会は、典礼的・神学的・教会論的、正典的な独自性を享受しており、それは全教会を大いに豊かにしています。とりわけこれらの教会の、多様性の中の一致という経験は、シノダリティの理解と実践にあたり貴重な貢献となりえます。
b)  歴史を通して、これらの教会に与えられた自治の程度は様々な段階を経てきました。ラテン典礼化など、今では時代遅れとされる慣習や手続もあります。ここ数十年、これらの教会の特殊性、区別、自治を認める道はかなり発展してきました。
c)  東方典礼カトリックの地域からラテン典礼教会が主流の地域への信徒の大規模な移住は、司牧上の重要な問題提起となっています。もし現在の傾向が続き、あるいは強まれば、東方典礼カトリック教会は、ディアスポラにいる信徒の方が教会法上の管轄領内の信徒より多くなるかもしれません。 いくつかの理由から、移住国に東方諸教会の位階組織を設けても、問題の対処としては不十分です。しかし地域のラテン典礼教会はシノダリティの名のもとに、移住してきた東方典礼教会信徒が同化の過程を経ることなく、アイデンティティを保ち固有の伝統を培えるよう支援する必要があります。
 【さらに検討を要すること】
d) 私たちは、東方典礼カトリック教会の経験がシノダリティの理解と実践にもたらす貢献について、更に研究を進めることを提案します。
e)  諸教会の司教会議で選出された管轄領内の司教に承認を与える教皇の役割、および教会法上の管轄領外の司教の教皇による任命に関しては、いくつかの困難が残っています。また、総主教の管轄権を総主教領の外にまで拡大する要請もまた、教皇庁との協議と対話にかかっています。
f)  異なる典礼のカトリック諸教会の信徒が存在する地域では、多様性の中の一致を、目に見える効果的なかたちにするモデルを見つける必要があります。
g) キリスト者の一致につき東方典礼カトリック教会がなしうる貢献と、諸宗教間・文化間対話で東方典礼カトリック教会が果たしうる役割について、私たちは考える必要があります。
【提言】
h) まず第一に、教皇への要望として、東方カトリック教会の総主教および大司教の常設評議の設立が挙げられました。
i) 東方典礼カトリック教会、そのアイデンティティと使命、また、戦争と大規模移住の状況における司牧的・典礼的課題への取り組みに特化した特別シノドスの召集を求める声もありました。
j) 更なる研究が必要な課題に取り組み、進むべき方針を示す提案をまとめるため、東方典礼とラテン典礼の神学者、歴史学者、教会法学者からなる共同委員会を設立する必要があります。
k) ローマ教皇庁の諸省で東方典礼カトリック教会の教会員が十分に代表される必要があります。東方典礼カトリック教会の視点からの貢献によって全教会を豊かにし、問題が生じたときに対処する助けとし、さまざまなレベルでの対話に参加することができるようにするためです。

l) 東方典礼教会の信者の伝統を尊重するような受容の形態を育むため、ディアスポラにいる東方典礼聖職者とラテン典礼聖職者の関係は強化されるべきであり、互いの伝統に対する相互の知識と認識は促進されるべきです。

 7.キリスト教一致への途上にあって

【まとまったこと】

 

a)  シノドス総会第一会期は、深いエキュメニズムの表現とともに幕を開けました。「共に」の祈祷会には、教皇フランシスコと並んで、他のキリスト教宗派の指導者や代表者が数多く出席し、信仰の一致と賜物の交換の精神をもって共に歩もうという、明確で確かな決意の表れとなりました。   この非常に意義深い出来事によって、私たちはエキュメニカルなカイロス(タイミング)にあることを認識し、私たちを結びつけるものは私たちを分かつものよりも偉大であることを再確認することができました。なぜなら、私たちにとって「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、 すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられ」(エフェ4:5-6)ることは共通だからです。b)  洗礼は、シノダリティの原理の根幹にあるものですが、エキュメニズムの基礎を構成してもいます。洗礼を通じて、すべてのキリスト者はsensus fidei(信仰の感覚)を分かち合っています。そのため、シノドス総会が識別プロセスで行ったのと同様に、どのような伝統に属する信徒であっても注意深く耳を傾けられるべきです。エキュメニカルな次元抜きのシノダリティはありえません。

c)  エキュメニズムは何よりもまず霊的刷新の問題であり、また悔い改めと記憶の癒しのプロセスを要求します。異なる教会の伝統に属するキリスト者が友情、祈り、そして特に貧困に苦しむ人々への奉仕を分かち合ったという証を耳にして、総会は感動で包まれました。

  最も小さい者への献身は絆を固くし、キリストを信じる全ての人を既に結び付けているものに焦点を当てる助けとなります。したがって、エキュメニズムが何よりもまず日常生活で実践されることが重要です。神学的・制度的対話では、信頼が深まり心が開かれるような雰囲気のなか、忍耐強く相互理解を織り上げる作業が続きます。

d)  世界の少なからぬ地域には、異なる宗派に属していながらもイエス・キリストへの信仰のために命を捧げるキリスト者たちによる「血のエキュメニズム」が存在します。彼らの殉教の証はどのような言葉よりも雄弁です。一致は主の十字架から生まれるのです。

e)  すべてのキリスト者の間の協力もまた、現代の司牧的課題に応えるために不可欠です。世俗化された社会において、それは福音の声により大きな力を与えます。貧困の状況においては、正義、平和、そして最も小さい者の尊厳のために力を合わせられるよう、人々を駆り立てます。どのような場合においても、それは集団、民族、国家を互いに対立させる憎しみ、分裂、戦争の文化を癒すための重要な資源です。

f)   異なる教会や教会共同体に属するキリスト者の結婚(混宗婚姻)は、交わりの知恵を成熟させ互いを福音化することが出来るという事実になりえます。

【さらに検討を要すること】

g)  私たちの総会は、異なるキリスト教の伝統が教会のシノダル(共働的)な成り立ちの理解する多様な方法を認識することができました。正教会では、シノダリティは司教のみが持つ権威の合議体的行使(聖シノド)を表すものとして、厳密に理解されています。
   広義のシノダリティとは、教会の生活と使命にすべての信徒が積極的に参加することを指します。他の教会共同体での用法に関する言及もあり、私たちの議論を豊かにしてくれました。これらはすべて、更なる研究が必要です。
h)  もう一つのテーマは、様々なレベル(地域、広域、全世界)におけるシノダリティとプライマシー(優越性)の相互依存関係です。このテーマについては、共に歴史を読み直して、ステレオタイプや偏見を克服する必要があります。
 
    現在行われているエキュメニカルな対話は、最初の千年紀の慣行を踏まえて、シノダリティとプライマシーが互いに関連し、補完し、切り離すことのできない現実であることを、よりよく理解させてくれます。この繊細な点の解明は、聖ヨハネ・パウロ二世が回勅「キリスト者の一致」で願ったように、一致への奉仕におけるペトロの務めの理解の仕方に影響を及ぼします。
i)  聖体のホスピタリティ(communicatio in sacris:典礼への共同参加)の課題は、神学的、教会法的、司牧的視点から、秘跡的交わりと教会的交わりの繋がりを踏まえて、更に検討する必要があります。この課題は特に、信仰を異にするカップルにとって重要です。混宗婚姻についてのより広範な考察の必要性を提起するものです。
j)  また、「超教派」の共同体や、キリスト教に触発された「リバイバル」運動といった現象についても、もともとカトリック信者であった人たちが大勢いることを考慮し、考察が促されました。

【提言】

k)  2025年は、すべてのキリスト者を結びつける信仰の象徴が策定されたニカイア公会議(325年)(からの1700年目の)記念すべき年です。この出来事を共同で記念することは、過去、論争となった問題が公会議でどのように共に議論され解決されたかを、よりよく理解することにもつながるでしょう。
l)  また2025年には、摂理的なことに、すべてのキリスト教宗派で復活祭の日付が一致します。総会では、復活祭の日付を共通にすることで、主の復活、私たちの生命、私たちの救いを同じ日に祝うことができるようにしたいという強い希望が表明されました。
m)  また、カトリックの”シノドスの道”に他の教派のキリスト者をあらゆるレベルで引き続き参加させ、2024 年の総会第2会期に、さらに多くの友好使節を招くことが望まれています。
n)  現代世界における共通の使命に関するエキュメニカルなシノドスを召集するという提案も、一部から出されています。

o)  エキュメニカルな殉教史の編纂が改めて提案されています。

第2部 皆が弟子、皆が宣教師

 

8.教会は使命

【まとまったこと】

a) 教会には使命があるというよりも、教会こそが使命であることを、私たちは確認します。「父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす」(ヨハネ福音書20章21節)—教会は父の使者であるキリストから自らの使命を受け取ります。

 教会は聖霊に支えられ、導かれながら、イエスの宣教に根ざして貧しい人々を優先しつつ、福音を知らない人々、福音を受け入れない人々に福音を告げ知らせ、福音をあかしします。このようにして、教会は神の国の到来に貢献し、その「芽となり、始まりとなる」( ※第二バチカン公会議「教会憲章」5項参照)のです。(ここまで、「カトリック・あい」岩井田泰・試訳)

b) キリスト教の入信の秘跡は、イエスのすべての弟子に、教会の使命に対する責任を与えます。男性信徒と女性信徒、男女の修道者、叙階された司祭は、同等の尊厳を持っています。彼らはさまざまなカリスマと召命を受け、さまざまな役割と機能を発揮しており、すべて聖霊によって召され、養われて、キリストにあって一つの体を形成しています。

  すべての弟子、すべての宣教師は、地域社会の友愛的な活力の中で、福音宣教の甘く心地よい喜びを経験しています。 共同責任の行使はシノダリティ(共働性)にとって不可欠であり、教会のあらゆるレベルで必要です。 すべてのキリスト教徒この世界での使命を持っています。
c) 家庭はあらゆるキリスト教共同体の根幹です。 両親、祖父母、そして家族で信仰を分かち合い、生きているすべての人が、第一の宣教師です。家庭は、命と愛の共同体として、信仰とキリスト教の実践における特権的な教育の場であり、共同体内での特別な配慮が必要です。教会共同体内での仕事やその使命への奉仕などの仕事と、家庭生活の要求とを調和させなければならない親にとっては、特に支援が必要です。
d) 宣教が教会全体を巻き込む恵みであるなら、信徒はあらゆる環境や日常の最も普通の状況において、それを実現するために重要な方法で貢献することになります。
 
   世界中に大きな影響を与えるデジタル環境の文化、若者文化、仕事の世界、ビジネスと政治、芸術と文化、科学研究、教育と訓練、一般家庭の世話、そして特別な方法での公共生活への参加… 信徒たちは、自分がいる場所では、日常生活の中でイエス・キリストを証しし、他の人たちとその信仰を明確に分かち合うことが求められています。 特に若者たちは、才能と弱さを持ち合わせていますが、イエスとの友情を育むにしたがって、仲間の間で福音の使徒となっていきます。
e) 信徒はまた、キリスト教共同体内でますます存在感を増し、積極的に奉仕するようになっています。 彼らの多くは司牧的な共同体を組織し、活性化させ、信仰教育者、神学者や司祭育成者、精神療法者やカテキスタとして働き、さまざまな教区や教区の団体に参加しています。
 
   多くの地域で、キリスト教共同体の生活と教会の使命は、カテキスタの存在にかかっています。 さらに、一般の人々が安全を守り、管理する役割を果たします。 彼らの貢献は教会の使命にとって不可欠です。 したがって、必要な技法の習得に注意を払う必要があります。
f) 信徒のカリスマは、その多様性にかかわらず、教会に対する聖霊の賜物であり、それが引き出され、認識され、十分に評価されなければなりません。
  状況によっては、司祭の不足を補うために信徒が使われることが起き、信徒の使徒職としての適切な性格が損なわれる危険性があります。他の状況では、司祭がすべてを取り仕切り、信徒のカリスマ性や奉仕が無視されたり、十分に活用されなかったりすることが起きます。
  今総会の多くの参加者が表明したように、信徒を「聖職者化」し、神の民の不平等と分裂を永続させる一種の”信徒エリート”を生み出す危険もあります。
g)第二バチカン公会議文書「教会の宣教活動に関する教令」の実践は、宣教師だけでなく、祈り、物品の分かち合い、証しをするよう刺激される共同体全体を巻き込むため、教会の相互の豊かさを実現します。
   聖職者が不足している教会であっても、この取り組みを放棄すべきではありませんが、一方で、叙階され​​た奉仕への召命が開花している教会は、真に福音的な論理に基づいて司牧協力に心を開くことが可能です。

  すべての宣教師(男性信徒と女性信徒、男性と女性の修道者、助祭と司祭、特に海外宣教師の会とFidei Donum*の宣教師たちは、自らの使命を受け、知識の絆を築き、賜物を交換するための重要な人的資源です。*注*「Fidei Donum」は、1957年にピオ12世教皇が出した回勅。アフリカを中心に宣教活動の現状を述べ、カトリック教会の宣教活動を支援するために、世界中の司教に対して、自分たちの信仰を広めるために、神の真理の火を広めることを呼びかけた。

h) 教会の使命は、特にその共同体的で宣教的な性格が前面に押し出される場合には、聖体祭儀によって、継続的に新たにされ、育まれます。

【さらに検討を要すること】
i) 宣教の観点からカリスマと奉仕職との関係について神学的理解を深め続ける必要があります。
j) 第二バチカン公会議とそれに続く教導職は、「一時的、あるいは世俗的な現実の神聖化」という観点から信徒に独特の使命を提示しています。
  司牧の実践の具体性においては、小教区、教区、そして最近では世界レベルでも、信徒が教会内での任務や奉仕を任されることが増えています。
  神学的考察と規範の規定は、これらの重要な進展と調和しなければならず、教会の使命の統一性の認識を損なう可能性のある二元論を避けるように努めねばなりません。
k) 受洗したすべての人の使命に対する共同責任を促進する際に、私たちは障害のある人々の使徒的能力を認識します。彼らがもたらした人類の計り知れない富から来る福音宣教への貢献を大切にしたい、と考えています。 彼らが苦しみ、疎外、差別を経験し、時にはキリスト教共同体の内部においてさえも、苦しんでいることを認識しています。
l) 共同体社会が信徒のカリスマと奉仕活動を引き出し、認識し、活気づけ、それらをシノダル(共働的)な教会の宣教活動に組み込むことができるよう、司牧の仕組みを再編成する必要があります。
  司牧者たちの指導の下、共同体社会は人々を(宣教の場に)派遣し、支援することができるようになります。そうして、司牧者たちは、教会の内部で行われる活動や組織の要請だけでなく、信者たちが社会、家庭、仕事の場で使命を果たせるように、自分たちが奉仕すべきだと考えるでしょう。
m) 今総会の準備文書 で使われた「”an all ministerial Church(全員が聖職者である教会)」という表現は、誤解を招く可能性があります。 曖昧な点を明確にするために、その意味についてさらに検討を加える必要があります。
【提言
n) 現地の教会の必要に応じて、若者を特別に関与させた奉仕活動を確立するために、さらなる創造性が必要であると認識されています。 すでに典礼で果たしている役割に限定されない奉仕を、朗読奉仕に拡大することを考えることもできます。
 このようにして、神の言葉の真の宣教を確立でき、そこに、適切な状況では説教も含まれる可能性があります。 家庭生活を支援することに尽力する夫婦や、結婚の秘跡の準備に協力する人々による奉仕を(注:制度として)確立する可能性も検討されるべきです。
o) 現地の教会は、共同体社会を豊かにするカリスマや奉仕活動が目に見えるようにし、共同体社会で認められるための形式や機会を設ける必要があります。これは、司牧的使命が委ねられている典礼の儀式として行われることも考えられます。
(ここまで、「カトリック・あい」南條俊二試訳)

 

9.教会の活動と使命における女性

【まとまったこと】

a) 私たちは、神の姿に似せて、男と女に作られています。当初から、創造は一致と相違を明確に示し、女性と男性に、「共有の自然、召命、運命と、はっきり異なる人間の経験」を授けました。聖典は、女性と男性の相互の補完性と依存関係、そして神の創造計画の中心にある男女間の約束について記しています。イエスは女性を、ご自分の対話者とみなしておられました。例えばベタニアのマリアのように、イエスは神の国について女性と語られ、弟子として女性を温かく迎え入られました。この女性たちは、イエスの癒し、解放、識別の力を体験し、ガリラヤからエルサレムまでの道を彼と共に歩きました(ルカ福音書8章1-3節参照)。イエスは、マグダラのマリアという1人の女性に、復活祭の朝に復活を知らせる役割を委ねました。

b) キリストにおいて、女性と男性は、同じ洗礼の尊厳を身にまとっており(ガラテヤの信徒への手紙3章28節参照)、多様な霊の賜物を等しく受けています。私たちは愛の交わり、つまりキリストにおいて競争しない関係へ、そして教会活動のあらゆるレベルで共同責任を示すことへ、共に招かれています。教皇フランシスコが私たちに語られたように、私たちは共に「Beatitudes(至福の教え=山上の垂訓)の力に招かれ集められた人々」なのです。

c) 今総会の間中、非常に有意義な女男間の相互依存を体験しました。共に私たちは前段階のシノドスのプロセスで下した重要な決断に同調し、司牧、秘跡の観点から、女性信徒に寄り添い、理解する更に断固とした教会側の取り組みを求めます。若い女性として、母として、友情関係において、あらゆる年代の家庭生活、仕事の世界、奉献生活での関係においてなど、人生の様々な段階で、女性たちは聖性に向けて旅する霊的体験を分かち合いたいと願っています。

 性暴力、経済的不平等、女性をモノとして扱う傾向が依然として存在する社会で、女性たちは正義を求めて叫んでいます。彼女たちは、人身売買、強制移住、戦争の傷を負っています。司牧的な寄り添いと、女性に対する積極的な擁護は、密接に連携する必要があります。

d) 女性は教会に出席する人の大半を占め、多くの場合、家庭においては信仰の最初の宣教師です。奉献生活を営む女性は、観想生活においても使徒的生活においても、私たちの只中にある、根本的かつ特徴的な賜物、しるし、証です。女性の宣教師、聖人、神学者、神秘家の長い歴史は、現代の男女にとって、力強い霊感と栄養の源でもあります。

e) 信仰の人であり神の母でもあるナザレのマリアは、すべての人にとって今も、神学的、教会的、霊的意義の唯一無二の源です。神に注意深く耳を傾け常に精霊に心を開いておくようにという普遍的な招きを、マリアは私たちに思い出させてくれます。マリアは、産み育てる喜びを知り、そして痛みと苦しみに耐えました。マリアは貧困状態で出産し、難民となり、息子が残虐に殺される悲しみを経験しましたが、復活の荘厳さと聖霊降臨の栄光も知りました。

f) 多くの女性が司祭と司教の働きに深い感謝の意を表明しましたが、傷を負わせる教会についても語りました。聖職者主義、優越主義的精神、権威の誤用が、教会の顔に傷をつけ、その交わりに打撃を与え続けています。効果的な構造変化の土台として、深い霊的回心が必要です。性的虐待や、権力と権威の乱用は、正義、癒し、和解を強く求め続けます。どのようにすれば、教会はすべての人を守ることができる場所になれるのか、私たちは問いかけました。

g) 教会での男女間の関係において尊厳と正義が損なわれる時、世界へ向けた私たちの主張の信頼性は弱まります。シノドスの道は、関係の刷新と構造変革の必要性を示しています。それによって、私たちは、一般信徒および奉献生活を営む男女、助祭、司祭、司教と共に、すべての人の参加と貢献を、使命の働きにおいて共同責任を負うべき弟子たちとして、今よりも喜びをもって受け入れることができるでしょう。

h) 今総会は、「女性について一つの論点、あるいは問題点として話す」という間違いを、繰り返さないよう求めます。そうではなく私たちは、従属、排除、競争なしに、男女を共に主人公として見る神の計画の範囲を、より深く理解するために、「男女が共に対話する教会」を促進したいと切望しているのです。

【さらに検討を要すること】

i) 女性の積極的な貢献が認められ、尊重されて、教会の活動と使命のすべての領域において、女性の司牧的指導力が拡大されるようにとの明白な要請を、世界中の教会が表明してきました。あらゆる人の賜物とカリスマ性をより正しく表現し、司牧的な必要性により良い形で対応するため、教会は、どうしたらもっと多くの女性を、現在の役割と奉仕職に加えられるでしょうか? 新たな奉仕職が必要なら、それを誰が見極めて、どのレベルで、どのような方法で行うのでしょうか?

j) 助祭職を女性に開放することについて、総会では様々な意見がありました。「伝統との断絶」だと考えるので、受け入れられない、という意見がある一方で、「初代教会の慣行を回復することになる」と支持する意見があり、「時代の兆候に対する適切かつ必要な対応であり、伝統に忠実で、教会に新たなエネルギーと活力を求める多くの人々の心に響くだろう」と積極的に受け入れようとする参加者もいました。また、「憂慮されるような人類学的混乱を伴うのではないか」と懸念する声の一方、「女性に助祭職が認められれば、教会は時代の精神と融合することになるだろう」と理解を示す声もありました。

k) この問題に関する議論は、助祭職の神学についての、さらに広範な反省にも関連しています(この総括文書の「 シノドス的教会における助祭と司祭」参照)。

【提言】

l) 地域教会は、その社会的状況の中で最も過小評価されている女性たちに耳を傾け、寄り添い、手を差し伸べる活動を広げることが奨励されます。

m) 女性が意思決定プロセスに参加でき、司牧や奉仕職において責任ある役割を担えるようにすることは、急務です。ローマ教皇は、教皇庁での責任のある地位に女性の数を大幅に増やしました。同じことが、奉献生活や司教区において、教会活動の他のレベルでも起こるべきです。それに応じて教会法に規定を設けることが必要です。

n) 教皇が特別に設置した委員会の結果の検討と、既に行われている神学的、歴史的、釈義的な研究を活用し、助祭職を女性に解放することに関する神学的、司牧的研究は継続するべきです。可能であれば、この研究の結果は次の議会で発表されるべきです。

o) 特に奉献生活を営む女性がしばしば安価な労働力とみなされる教会内の事例を含め、雇用差別や不当な報酬の事例にも対処する必要があります。

p) 神学研究および養成プログラムへの女性のアクセスを大幅に拡大する必要があります。叙階聖職者の構成をより良いものにするため、女性がセミナー講師や研修プログラムにも加わることを提案します。

q) 典礼文書や教会文書において、男女を平等に扱う言葉を使用することや、女性の体験をより広範囲に描く包括的な言葉や図、物語を含めることにも、もっと注意を払う必要があります。

r) 女性が適切な養成を受けて、すべての教会法上のプロセスにおいて裁判官になれるようにすることを、私たちは提案します。

10. 奉献生活と信徒協会および活動:カリスマのしるし

【一致したこと】

a) 教会は、最高に素晴らしいものから最もありふれたものまで、カリスマの賜物の恩恵を常に受けてきました。それを通して、喜びと感謝の気持ちで、聖霊が教会を若返らせ、刷新します。神がご自身の使命を支え、指揮し、教え導く神の助けを、聖なる神の民はこのカリスマの内に感じます。

b) 教会のカリスマ的側面は、豊かで多様な形の奉献生活において明らかにされます。その証しは、いつの時代も教会共同体の活動を刷新することに貢献してきており、繰り返し生じる世俗の誘惑に抗う手段を提供します。独特な形の祈りであれ、人々の間の奉仕であれ、共同体生活の形を通して、観想生活の孤独の内に、あるいは新しい文化の最前線で、宗教生活を送る多様な家族が、主に従うことの素晴らしさとキリストにおける聖性を実証しています。奉献生活者は、しばしば真っ先に重要な歴史の変化を感じ取り霊の招きを聞き入れてきました。今日も、教会は彼らの預言的な声と行動を必要としています。

 キリスト教共同体は、奉献生活の共同体において十分に試行され何世紀にもわたって成熟させてきたシノドス的生活と識別の実践を認め、それに注意を払いたいと願っています。それらのことから私たちはいかにシノドスの道を歩むかについての知恵を学ぶことができるのを知っています。構造を刷新し、生活様式を見直し、新しい形の奉仕と貧しい人々への寄り添いを活性化するため、多くの修道会は、管区長および総会の指導の下に、聖霊における対話、あるいは同様の識別を、実践しています。しかしながら、他の場合には、対話の余地を与えない権威主義的なスタイルに固執しているようです。

c) 穏やかな感謝の気持ちで、神の民は、新たな教会共同体へと開花してきた長い歴史を持つ共同体における刷新の種に気づいています。信徒協会、教会の活動、新たな共同体は、すべての受洗者の共同責任が成熟する貴重なしるしです。それが特に価値をもつ理由は、異なる召命間の交わりを促進すること、福音を伝える推進力、経済的、社会的に周辺的な地位に追いやられた人々に寄り添うことを、共通善の促進を通して、彼らが経験するからです。それらはしばしば、シノドス的な交わりと使命への参加のモデルです。

d) 宗教生活を送る人々や信徒協会のメンバーの、特に女性が経験する様々な種類の虐待の事例は、権威の行使に問題があることを示しており、断固とした適切な介入を必要としています。

【さらに検討を要すること】

e) 教会の教導職には、教会の活動と使命における聖職階級制の賜物とカリスマ的賜物の重要性について教育する充実した機関があります。これは、教会の理解と神学的反省の拡大を求めています。それゆえキリスト教研究の重要性と、この教育の具体的な司牧的意味について、あらためて検討してみる価値があります。

f) 教会での様々なカリスマ的表現が強調するのは、神の民が、最も小さき兄弟姉妹に寄り添う預言的存在であることと、人生のより深い意味の霊的側面を現代文化にもたらすことに、献身することです。奉仕生活、信徒協会、教会の活動、新たな共同体が、預言的な存在と共に、既存の聖性への道を良くしながら、地域教会の交わりと使命の奉仕に彼らのカリスマをどのように役立てられるのか、もっと深く理解する必要性があります。

【提言】

g)  1978年(にバチカン司教省と奉献・使徒的生活会省の長官の連名で発出された)文書「Mutuae Relations」で示された「司教と修道会の相互関係に関する指導原則」を改訂するべき時が来ていると私たちは思います。すべての関係者を交えて、シノダル(共働的)なやり方でこの改訂が行われることを提言します。

h) 同じ目標に向けて、司教協議会および修道会総長会議が集い連携できるような場と手段を、シノダルな精神で、整備する必要があります。

i) 個々の地域教会と、教会のグループの両方のレベルで、宣教師のシノダリティの促進に必要なのは、信徒協会、教会の活動、新たな共同体の代表者たちが結集できる協議会と諮問機関を設立・配置して、彼らの活動と地域教会の活動との間に持続する関係を築くことです。

j) あらゆるレベルの神学的養成、特に聖職者の養成においては、教会のカリスマ的側面を目立たせる点について観察し、必要ならそれを強化すべきです。

(ここまで、「カトリック・あい」新井忍・試訳改訂)

11.シノドス的教会における助祭と司祭

【まとまったこと】

a)  司祭は司教の主要な協力者であり、司教とともに一つの司祭団を形成します(教会憲章第28章参照)。助祭は奉仕のために叙階され、みことば、典礼、特に慈善のディアコニア(奉仕職)において神の民に仕えます(教会憲章29項「助祭」参照)。彼らに対して、シノドス総会はまず深い感謝をささげます。彼らが孤独と孤立を経験するかもしれないという認識のもと、シノドス総会は、キリスト教共同体が祈り、友情、協力によって彼らを支えるよう勧告します。

b)  助祭と司祭は、小教区、福音宣教、貧しい人々や社会から疎外された人々の間、文化や教育の世界、また異邦人への宣教、神学研究、黙想センターや霊的刷新の場、その他諸々、多様な司牧の場で奉仕しています。シノドス教会において、叙階された聖職者は、人々に寄り添い、すべての人を歓迎し、すべての人に耳を傾ける態度で、神の民への奉仕を生き、深い個人的霊性と祈りの生活を培うよう呼ばれています。とりわけ、「神の形でありながら… 自分を無にして、僕の形をとり」(フィリピの信徒への手紙 2章6-7節)イエスを模範として、権威の行使につき考え直すよう求められています。総会は、多くの司祭と助祭がその献身を通して、よき羊飼いでありしもべであるキリストを現存させていることを評価します。

c)  奉仕と使命に対する障害の一つは、聖職者主義です。聖職者主義は、神の召命に対する誤解から生じており、召命を奉仕というよりも特権とみなすもので、自分自身が責任を負うことを拒否する世俗的なやり方の権力行使に現れ出ます。このような司祭召命の歪みには、養成の初期段階から、神の民との密接なかかわりを確保することで、また最も困窮している人々への具体的な奉仕学習経験を通して、対抗しなければなりません。今日の司祭の務めは、司教や司祭団と調和し、他の奉仕活動やカリスマとの深い交わりの中で果たされる以外、考えられないものです。残念ながら、聖職者主義は、聖職者だけでなく、信徒にも現れうる態度です。

d)  共同責任の中で叙階職にたずさわるには、自分の能力と限界を自覚することが必要です。のため、人間形成に対する現実的なアプローチが、弟子養成のための形成と同様に、文化的・霊的な次元の形成と統合されるようにすることが重要です。この点で、青年の召命が育まれる原点である出身家庭やキリスト教共同体、また青年の成長に寄り添う他の家庭の貢献は軽視できません。

【なお検討を要すること】

e)  シノドス的教会での奉仕のための全受洗者の養成という観点からみて、助祭と司祭の養成には特別な注意が求められます。神学校や司祭養成の他のプログラムが、共同体の日常生活と結びついたものであるようにとの要望が、今総会では広く表明されました。私たちは、権威主義的な態度につながり、召命の真の成長を妨げる、形式主義やイデオロギーのリスクを避ける必要があります。養成プログラムの見直しには、広範な議論と健闘が要されます。

f)  司祭の独身制については、さまざまな意見が表明されています。預言性に富みキリストを深く証しするものとして、独身制の価値はすべての人が認めるところです。一方、独身制の司祭職にとっての神学的妥当性が、ラテン典礼教会における規律的義務性を即意味するのか、特に教会的・文化的背景から困難な場合について疑問を呈する声もあります。この議論は新しいものではありませんが、さらに考察が必要です。

【提言】

g ) ラテン典礼の教会では、終身助祭制度は教会的背景によって異なる方法で実施されてきました。ある地方教会では全く導入されておらず、またある地方教会では、助祭が司祭不足を補うための一種の救済策と見なされているという懸念があります。助祭職が、共同体の貧しい人々や困窮している人々への奉仕よりも、典礼で表現されていることもあります。そこで、第二バチカン公会議後の助祭職の実施について評価を行うことが推奨されます。

h)  神学的見地からは、助祭職を司祭へのアクセスの段階としてだけでなく、何よりもまずそれ自体として理解する必要があります。助祭職の基本形態を「終身」と形容して「過渡的」なものと区別することには、今なお十分に理解されていない視点の変化が表れています。

i)  助祭職の神学をめぐる不確実性は、ラテン典礼教会では助祭職が固有の終身的位階として再建されたのが第二バチカン公会議以降だったという事実に起因しています。より深く研究すれば、女性の助祭職への道という問題に光を当てることになるでしょう。

j)  教会の宣教的、シノドス的側面を考慮した叙階職養成の徹底的な見直しが求められています。これは、養成の構成を決定するRatio fundamentalis(基本綱要)を見直すことも意味します。また同時に私たちは、司祭と助祭の継続的な養成に関して、シノドス的形式を確実に採用するよう推奨します。

k)  透明性と説明責任の文化は、私たちがシノドス教会を築いて前進するためにきわめて重要です。私たちは、司祭と助祭が職務の遂行にあたりどのように責務を果たしているか、定期的に監査するためのプロセスと体制を考案するよう、地方教会に求めます。コミュニティを巻き込むよう配慮すれば、参加型組織や司牧訪問などの既存の制度を、この作業の出発点にできるでしょう。これらの制度の形式は、支障や事務の負担とならないよう、地域の状況や多様な文化に合わせる必要があります。どのようなプロセスが必要かの見きわめについては、地域レベルあるいは大陸レベルでの考慮が可能でしょう。

l)  ケースバイケースで、状況に応じて、職を離れた司祭をその養成と経験を活かせる司牧奉仕に再参加させることが可能か、検討すべきです。

(ここまで、「カトリック・あい」岩井田泰試訳)

12 教会の交わりにおける司教

 

【まとまったこと】

a) 第二バチカン公会議によれば、司教は、使徒たちの後継者として、諸教会の間で、また全体教会と共に、地方教会の中で実現される交わりの奉仕に当たるよう置かれています。それゆえ司教の姿は、彼に任された神の民の一部分—すなわち信徒、司祭団、助祭、奉献生活者—で編まれた諸関係、そして他の司教、ローマ司教との交わりの中でのみ理解されます。そして。それは絶えず、宣教に向けられているものです。

b) 司教*は、自分の教会で、福音宣教と典礼祭儀に責任を持つ第一の人です。キリスト者共同体を導き、貧しさを経験している人々や最も傷ついている人々を守るための司牧ケアを促進する。一致の見える原理として司教は、各種各様のカリスマと役務を識別し調整する仕事を持つ。それは福音宣教と共同体の共通善のため聖霊によって送り出されたものです。この役務はシノダル(共働的)な仕方で実行されます。すなわち統治が共同責任によって担われ、信仰深い神の民に聴くことによって教えを説き、謙虚さと回心によって聖化と祭儀執行がなされる時、シノダルな仕方といえるのです。

*注*「教会憲章」20項に「司教たちは…教えの教師、聖なる祭儀の祭司、統治の役務者として、群れの牧者となっている」と書かれている。

c) 司教は地方教会で、シノダルな過程を生かし活性化していくという不可欠の役目を持っています―「すべての人々の、幾人かの、一人の」間の相互性を促進しながら、「一人」の司教の役務は、「全」信徒の参加、及び、より直接に識別と決定の過程に関わる「幾人か」の貢献を重んじる(重く受けとめる)ことによって。 司教自らが採用するシノダルなアプローチと、彼が行使する権威の様式は、司祭と助祭、男女の一般信徒と奉献生活者がどのようにシノダルな過程に参加するかに決定的に影響するだろう。司教は全員のためのシノダリティの模範として召されているのです。

d) 教会が神の家族として捉えられる文脈の中で、司教はすべての人に対する父と見なされます。しかしながら、世俗化された社会の中で、彼の権威がどのように体験されるかに関しては危機があります。司教職の秘跡的な性格を見失わないことが重要です。司教の姿が市民社会的な権威者の姿と同一化されることがないために。

e) 司教たちへの期待はしばしば高すぎるし、また多くの司教が統治や司法的なことへの関与で荷が重すぎると感じていると語っており、このため彼らは自分たちの役目を十分に果たすことに困難を感じています。司教も自分自身の弱さや限界に対処すべきですが、時として、人間的あるいは霊的に必要なサポートを欠いています。ある種の孤独感を持っていることもまれではありません。それゆえ、一方で司教の役割、使命の本質的な要素に再び焦点を当てること、他方で司教たちの間や司教と司祭の間の真の兄弟性をはぐくむことが重要です。
(ここまで、「カトリック・あい」山口好信・試訳)

【なお検討を要すること】

f) 神学的なレベルで、司教と現地教会との相互関係の重要性を大幅に深化する必要があります。司教は現地教会を導くと同時に、その歴史、伝統、カリスマの豊かさを認識し、保全するよう求められています。

g) 叙階の秘跡と管轄権との関係の問題は、より深く研究される必要があります。このような研究の目的は、教会憲章や、使徒憲章Praedicate Evangelium(福音を述べ伝えよ)のような最近の教えの検討を通じて、司教の共同責任の原則の根底にある神学的・典礼的基準を明確にし、共同責任の範囲、形態、意味を決定することにあります。

h) 一部の司教は、司教団内の完全な合意が得られていない信仰と道徳の問題について発言するよう求められると、不快を呈します。司教の合議制と神学的・司牧的見解の多様性との関係について、さらなる考察が必要です。

i) シノドス的教会にとって不可欠なのは、未成年者や弱い立場の人々の保護を目的とする手続における透明性と尊重の文化を確立することです。虐待防止に特化した組織をさらに発展させることが必要です。虐待の取り扱いというデリケートな問題は、多くの司教を、父としての役割と裁判官としての役割を両立させなければならないという困難な立場に置きます。司法的任務を、教会法により規定される他の機関に委ねることの妥当性を検討すべきです。

【提言】

j) 司教の権威のあり方、教区の資産の経済的管理、参加型機関の機能、あらゆる種類の虐待からの保護につき、司教の業績を定期的に見直すための構造とプロセスを、法的に定めて導入することが必要です。説明責任の文化は、共同責任を促進し虐待を防止する、シノドス教会の不可欠な要素です。

k) 司教評議会(教会法473条4項)や教区司牧評議会・東方教会司教管区司牧評議会(教会法511条、東方典礼教会法272条)の義務化、また共同責任を行使する教区の機関を法的意味も含めてより運営しやすいものにすることが求められています。l) 総会は、教皇大使の権限と司教協議会の参加とのバランスを取りながら、司教候補者を選ぶ基準を見直すよう求めます。また、選考プロセスにおいて不当な圧力にさらされることのないよう留意しつつ、神の民との協議を拡大すること、より多くの信徒や奉献生活者を協議のプロセスに参加させることも要求されています。

m) 多くの司教は、首都教区(教会管区)や地区について、機能の再考と構造の強化の必要があると表明しています。それらが、領域における合議制の具体的表現となり、また友愛、相互支援、透明性、より広範な協議を通じて、司教の間で当たり前の慣行となるようにとの目的です。

(ここまで、「カトリック・あい」岩井田泰試訳)

 

 

13.司教団の中のローマ司教

【まとまったこと】

a) シノドス的な原動力は、ローマ司教の務めについても新たな光を投げかけました。シノダリティ(共働性)とは実に、地域、広域、全世界のレベルで、共同体的(全員)、合議体的(何人か)、個人的(ひとり)な教会のもつ側面を、協和音的に1つにまとめることです。この様な見方において、神の民全体を含む共同体的要素と司教の務めの合議体的側面がそうであるように、ローマ司教のペトロの務めは、シノドス的な原動力に本来備わっています。それゆえ、シノダリティ、合議制、primacy(司教の裁治権)は相互に関係しています。ちょうどシノダリティと合議制が司教の裁治権の行使を暗示するように、司教の裁治権はその両方の行使を前提とします。

b) すべてのキリスト者の一致を促進することは、ローマ司教の務めに不可欠な要素です。エキュメニカルな旅は、ペトロの後継者の務めに対する理解をこれまでも深めてきましたし、今後もそうし続けなければなりません。聖ヨハネ・パウロ二世が回勅「Ut unum sint(キリスト者の一致)」でなさった招きに応じることは、エキュメニカルな対話の成果と同様に、優越性、合議制、シノダリティと、それらの相互関係についての普遍的な理解を助けてくれます。

c) 教皇庁の改革は、カトリック教会のシノドスの旅の重要な要素です。(教皇フランシスコが改革の仕上げとして出された)使徒憲章「Praedicate Evangelium‎‎(福音を宣べ伝える)」は、「教皇庁は教皇と司教の間にあるものではなく、むしろ、それぞれの本質に適したやり方で、いつでも両方の役に立てるようにする」と断言しています。教皇庁は、「交わりの活動」と「健全な地方分権化」に基づいて改革を進めます。省の多くのメンバーが教区司教であるという事実は、教会の普遍性を表しており、教皇庁と地域教会の関係を築くべきです。この使徒憲章を効果的に実施することで、異なる省の間で、それぞれの省の中で、教皇庁内のより大きなシダリティが育つかもしれません。

【さらに検討を要すること】

d)シノドス的な教会内の司教職に対する新たな理解がローマ司教の務めや教皇庁の役割にどう影響するのか、それを見抜く更なる洞察が必要です。この課題は、教会運営において共同責任を実行にうつす方法に重大な影響を及ぼします。全世界レベルでは、教会法典および東方教会典礼法典には、教皇の務めをより合議体的に果たすための規定があります。これらの規定は、実行する上でさらに改良し、両文書の今後の改訂において強化できるかもしれません。

e)シノダリティは、枢機卿がパウロの務めにおいて共働できる方法と、通例のおよび臨時の枢機卿会議で彼らの合議体的な識別を促進できる方法を明らかにすることができます。

f)枢機卿会の会員がお互いに知り合って交わりの絆を育てるのに最も適した方法について研究することは、教会の利益のために重要です。

【提言】

g)「使徒たちの敷居への訪問」は、地域教会の主任司祭が、ローマ司教と、そして教皇庁で彼に最も近い協力者たちと、関係を持つ最高の機会です。この訪問が行われる手順を見直して、交わりと、合議制およびシノダリティの真の実践を推進する、開かれた相互交流のための機会にしましょう。

h) 教会のシノドス的構成の観点から、多様な状況に今以上に配慮し、地域教会の声にもっと注意深く傾聴するため、教皇庁の省は司教の協議をさらに高める必要があります。

i) 活動を円滑に進め完全なものにするため、教皇代理者の仕事を、使命を遂行した国々の地域教会が評価する手順を確立するのが適切と思われます。

j) ペトロの務めに奉仕するシノドス的な評議会として、枢機卿顧問団の経験を充実させ強化することを提案します。

k) 第二バチカン公会議の教えを踏まえると、教皇庁の高位聖職者を司教として任命するのが適切かどうか、注意深く評価する必要があります。

(ここまで「カトリック・あい」新井忍・試訳)

第3部 絆を紡ぎ、共同体社会を作る

14.育成へ、シノドス的アプローチ

【まとまったこと】

a)  自己形成に気を配ることは、洗礼を受けたすべての人が主の賜物を受け、いただいた才能を開花させ、すべての人に奉仕するように求められていることの答えです。主が弟子を育てるのに費やされた時間は、目立たないが宣教のための決定的な教会活動の重要性を明らかにしています。 私たちは、この分野に携わるすべての人々に感謝と激励の言葉をかけ、教会のシノドスの旅から生まれてきた新しい要素を理解するよう勧められている、と感じています。

b)  イエスが弟子たちを育てるのにとられた方法は、私たちが参考にすべきモデルを提供してくれます。 彼は単に何かを教えただけではなく、弟子たちと生活を共にされました。ご自分の祈りで、弟子たちに「私たちに祈りを教えてください」という質問をさせました。(ご自分の話を聞こうと集まった)群衆に食事を与えることで、貧しい人々をばらばらにさせてはならない、と教えられました。エルサレムに向かって歩くことで、十字架への道を示されました。福音から私たちが学ぶのは、育成とは、能力構築だけではなく、敗北や失敗さえも実りあるものにできる神の国の論理への転換なのです。

c )  神の聖なる民は、(神の愛を受ける?)客体であるだけでなく、何よりもまず共同責任を負う育成の主体です。 実際、私たちの最初の育成は、家庭から始まります。家庭の中で、私たちは、両親や祖父母の言葉、実際には、その土地の言葉で、最初の「信仰宣言」を受け取ることも少なくありません。教会の奉仕に従事する人々の貢献は、地域社会にとって欠かせない教育連携における素朴な人々の知恵と、織り交ぜられねなりません。これはシノダル(共働的)な感覚で理解される教育の、第一のしるしです。

d)  キリスト教の入門には、育成の道に関する主要なガイドラインがあります。育成の中心となるのは、kerygma、つまり私たちに新しい命の賜物をくださるイエス・キリストとの出会い、を深めることです。求道者の論理は、私たちは皆、聖性に召された罪人であることを思い起させます。それが、私たちが、和解の秘跡によって完成をもたらす回心の旅に参加し、多数の証人の助けを受けて聖性への強い希望を育む理由です。

e)  神の民の育成が行われる場は数多くあります。 神学的な育成に加えて、多くの特定のスキルの訓練があります-共同責任を鍛え、耳を傾け、識別し、キリスト教諸派や諸宗教との対話をし、貧しい人々への奉仕と”共通の家”の世話、「デジタル宣教師」としての活動、識別の促進と聖霊における会話、合意形成と紛争解決など。子どもと青少年の教理面での育成には特別な注意が払われるべきであり、教会共同体の積極的な参加が必要です。

f)  シノダル(共働的)な教会の育成は、シノダル的な方法で行うことが求められます。神の民全体が共に歩みながら、共に育成されるのです。 司牧の非常に多くの分野で見られる「他人任せの性向」を改める必要があります。シノダルな教会実現のカギは、神の民が家庭、職場、教会、社会、知的領域において、洗礼の召命を十分に実践できるようにすること、彼または彼女自身のカリスマ性と使命に応じて教会の使命に積極的に参加できるようにすること、です。

【さらに検討を要すること】

g) 私たちは、若者の成長の旅を共にし、独身と聖別された純潔に召された人々の情緒的な成熟を助けるために、情緒教育と性教育のテーマを深めることを勧めます。これらの分野での育成は、人生のすべての時期において必要な助けです。

 h) 人々の貢献を単に並べるのではなく、より成熟したものにまとめる人間的経験を理解するためには、人文科学、特に心理学と神学の間の対話を深めることが重要です。

i)従来のいくつものシノドス総会で要求が出されてきたように、神の民は聖職者の育成に十分に関与する必要があります。教会における女性の貢献と家族の貢献をどのように高めるかに、特に注意を払いながら、育成プログラムについて幅広い見直しが必要です。

j) 司教協議会は、デジタル技術の活用推進を含め、利用可能なすべての人的、物的資源を活用して、生涯学習の文化を共に創造するために、地域で活動することが奨励されます。

【提言】

k) シノダリティ(共働性)に照らして、可能な限り、神の民全体(信徒、聖職者、司祭)を対象とした共同育成の諸提案が支持される必要があります。地方レベルで共同育成プロジェクトを奨励するかどうかは教区の責任です。私たちは諸々の司教協議会に対し、地域レベルで協力し、デジタル技術の活用推進を含む、利用可能なすべての人的、物的資源を活用して、継続的な育成の文化を共同で作り上げていくことを奨励します.

l) 従来のいくつものシノドス総会で要求が出されてきたように、神の民のさまざまな構成者が、司祭の育成過程に関与すること。特に重要なのは女性たちの参加です。

m) 司祭候補者の適切な選考過程が必要であり、それに準備プログラムの必要条件が満たされる必要があります。

n) 聖職者の育成は、さまざまな状況において、シノダル(共働的)な教会と一貫性をもつものとして考えられるべきです。 そのためには、司祭候補者が具体的な手続きに入る前に、キリスト教共同体についての初歩的ではあるが、実際の経験を積むことが求められます。育成の旅は、信者たちの普通の生活から切り離された、人工的な環境によるものであってはならなりません。 聖職に就くための育成の諸要件をしっかりと守ることによって、説教、秘跡の奉仕、慈善活動のための、神の民への真の奉仕の精神を育むことになります。
関連して司祭と終身助祭に関する現行「Ratio Fndamentalis Institutionis Sacerdotalis(聖職者養成の根本方針)」*を見直することが、必要になるかも知れません。

  *注*原文では「the RatioFundamentalis 」としか書かれていないが、「RatioFundamentalis Institutionis Sacerdotalis(司祭養成の根本方針)」を指していると判断される。これだけの表記で、総会参加者も含めてどれだけの司祭、信徒が理解するだろうか?

o) 次回のシノドス総会第2会期の準備として、司祭の初期段階およびそれに続く育成の責任者との協議を実施し、シノドス過程の受け入れを評価し、シノダル(共働的)な教会にふさわしい形で権限が行使されるために必要な変更が提言されている。

15. 教会の識別力と未解決の問題

【まとまったこと】

a) 聖霊における会話の経験は、参加者全員にとって豊かなものでした。 特に、自分の意見を自由に表現し、互いの意見に耳を傾けることを重視する意思疎通の図り方が高く評価されました。 これによって、一方の主張の繰り返しに基づく議論を急ぎ過ぎ、相手の説明を理解するための場と時間が残されなくなることを避けることができます。

b) この基本的な態度は、デジタル技術と人工知能の人類学的な影響、非暴力と自衛、奉仕に関連した問題、身体性と性に関連した問題など、教会内でも物議を醸している問題を掘り下げるための好ましい状況を生み出します。

c) これらの分野やその他の分野で、真の教会的識別力を養うには、神の言葉と教導職に照らして、広範な情報データベースと明確に反映する要素を統合する必要があります。従来の公式の安易さに逃げ込まないようにするには、人文科学や社会科学の観点との比較、哲学的な考察、神学的な精緻化を進める必要があります。

d) 考察を続けることが重要な問題の中には、愛と真理の関係、そして、それが多くの物議を醸す問題に及ぼす影響の問題があります。このような関係は、取り組むべき問題である前に、キリストの啓示に宿る恵みです。なぜなら、イエスは、詩篇にある「慈しみとまことは出会い、義と平和が口づけをする。まことは地から芽生え、義は天から目を注ぐ」(85章11-12節)という言葉を成就なさったからです。

e) 福音書には、イエスが歴史や当時の状況の中で人々と出会っておられることが示されています。イエスは決して、偏見やレッテルを貼ることから始めることをなさらず、たとえ誤解や拒絶にさらされる犠牲を払ってでも、心から関わる真の関係から始められます。たとえそれが声にならないものであっても、困難にある人々の助けを求める叫びを、常に聞いておられます。愛を伝え、自信を取り戻すような振る舞いをなさいます。 ご自身の存在によって、人々に新しい人生を可能にします。イエスに出会う人々は大きく変わります。このようなことが起こるのは、イエスが担っておられる真理は、観念ではなく、私たちの中にある神の存在そのものだからです。そしてイエスが行動をもって示される愛は、単なる感情ではなく、歴史を変える王国の正義なのです。

f) この明確な福音のビジョンを司牧的選択に移す際に、私たちが出会う難しさは、私たちが福音に従って生きる能力を欠いているしるしを見せつけ、私たちの個人的、共同体的な回心なしには助けを求める人たちを支援できないことを思い起させます。もし私たちが、教義を厳しく批判的な態度で使うなら、福音を裏切ることになります。

 私たちが"安易な憐れみ”を実践するなら、神の愛は伝わりません。真理と愛の一致は、真の兄弟姉妹の場合のように、相手の困難を自分のものとして引き受けることを意味します。 だからこそ、このような一致は、忍耐強く、同行する歩む道を歩むことによってのみ、達成できるのです。

g) 性同一性や性的指向、人生の終わり、困難な結婚生活の状況、人工知能に関連する倫理問題など、いくつかの問題は、新たな問題を引き起こすことから、一般社会だけでなく、教会でも物議を醸しています。私たちが開発した人類学的カテゴリーでは、科学の経験や知識から現れる要素の複雑さを把握するには不十分な場合があり、改良とさらなる研究が必要です。

 人々と教会本体を傷つけるような単純化した判断に屈することなく、熟考に必要な時間を取り、それに最善のエネルギーを注ぐことが重要です。多くの示唆が教導職によってすでに提供されており、適切な司牧的取り組みに反映されるのを待っています。 また、さらなる解明が必要な場合には、祈りと回心によって自身に取り込まれたイエスの振る舞いが、私たちに進むべき道を示してくれます。

【さらに検討を要すること】

h) 私たちは、その霊感を尊重する教会の実践を目指し、イエスが目撃した愛と真理の本来の織り合わせ方について、教会で考察を続ける必要性を認識しています。

i ) 私たちは、さまざまな知識分野の専門家が、専門知識を真の教会奉仕に役立てる霊的な知恵を成熟させることを奨励します。 この分野におけるシノダリティ(共働性)は、「使命を果たすために、多様なアプローチで、目的を調和させて共に考える意欲」として表現されます。

j) 神の聖なる民の日々の経験から出発し、彼らに奉仕する方法を知る神学的および文化的研究を可能にする条件を特定する必要があります。

【提言】

k) 私たちは、神の言葉、教会の教え、神学的考察に照らし、そしてこのシノドス総会の経験を尊重しながら、論争を生んでいる教義上、司牧上、倫理上の問題について、共通の識別を可能にする取り組みを促進することを提言します。これは、議論の機密性を保護し、議論の率直さを促進する制度的環境の中で、さまざまなスキルや背景を持つ専門家の間で徹底的に協議することによって、また、上記の論争の影響を直接受けた人々の声を聴く機会を必要に応じて設けることで達成でるでしょう。 このような作業は、来るべきシノドス総会第二会期を視野に入れて、始められるべきです。

(ここまで「カトリック・あい」南條俊二試訳)

 

16. 耳を傾け、寄り添う教会のために

【一致したこと】

a)  今総会の期間も含めて、シノドスの道の旅の最初の2年間において、「耳を傾ける」ことは、私たちの体験を最もよく表わしている言葉です

。「耳を傾ける」には、聴く立場と聴かれる立場があります。それは、深く、人としての実存性を示し、自分自身も貢献をされながら、他者の旅に貢献する、という相互依存の力強い原動力となります。b) シノドスの旅の教区レベルの段階で、参加した多くの人々、特に教会や社会で周縁に追いやられて苦しんでいる人々にとって、教会の人々から教会で「話を聞かせください」と求められたことは大変な驚きでした。しっかりと耳を傾けてもらうことは、人としての尊厳が確認され、認知される、という体験であり、人々と共同体が共に関与する強力な手段となります。

c) 生活の中心にイエスを置く時、私たちはある程度、自分を空にすることが求められます。この視点から、「耳を澄ます」は、喜んで自分の場所を相手のために残して置くことを意味するのです。私たちは聖霊との力強い対話の中で既にこのことを体験しています。それぞれに、自分の限界や、ものの見方に偏向があることを分かるようにするために、厳しい訓練が必要になります。この訓練によって、耳を澄ませば、共同体という枠を超えて人々に語りかける聖霊の声が聞こえるようになり、変化や回心をもたらす旅を歩み始めることができるのです。

 d) 「耳を傾ける」にはキリスト論的重要さがあります。それは、イエスの出会った人々に対する姿勢をしてなさった態度を取り入れることを意味します(フィリピの信徒への手紙2章6-11節参照)。「耳を傾ける」には、教会的な有意性もあります。なぜなら、単に自分たちの名ではなく、共同体の名のもとに行動する信徒たちの行動を通して「耳を傾ける」のは、教会だからです。

e)  ”シノドスの道”のプロセスで、教会は、「耳を傾けてくれるように、寄り添ってくれるように」と願う多くの人々やグループに出会いました。私たちは真っ先に若者たちに言及しました。「「聴いて欲しい、寄り添って欲しい」という彼らの要求は、彼らに捧げられた2018年の世界代表司教会議(シノドス)総会、として今総会の議場に響き渡り、若者たちのために優先する選択肢の必要を確認しました

f)  教会が、特別な配慮と感受性をもって耳を傾ける必要があるのは、教会から任命された聖職者やそれ以外の人々による性的な、精神的な、経済的な、制度的な、そして、権力による、そして良心を悪用した虐待の犠牲者の声です。真に彼らの声に耳を傾けることは、癒し、悔い改め、正義、そして和解への道に必要な、根本的要素となります。

 g)  今総会は、結婚や性的倫理に関する教会の伝統と教導権に忠実になされた選択として、独身を受け入れたすべての人たちに、親密さと支援を表明します。彼らはそれを命の源として認識しています。キリスト教共同体は、彼らに寄り添い、耳を傾け、彼らに約束において共に歩むよう求められています。

h)  婚姻の形、身元、性別ゆえに、教会で、軽視されたり、のけ者にされていると感じている人たちもまた、聴かれること、共に歩んでくれることを、様々な仕方で求めています。 教会で傷つけられたり、無視されたり、あるはそのように感じている人たちが、安全だと感じ、自分たちの話を聞いてもらえ、敬意を払ってもらえる、裁かれていると感じる心配のない、「家」と呼べる場所を希望している、そうした人たちに、深い愛と同情が、今総会では、感じられました。耳を傾けることは、神の御心を捜し求めて共に歩むための前提条件になります。今総会は、キリスト教徒は常に、一人ひとりの人の尊厳に敬意を払わねばならない、ということを改めて表明します。

 i)  不公平な社会の中で貧困、排除、軽蔑といったさまざまな苦しみを味わっている人々は、愛し、耳を傾け、共に歩む存在として、教会に目を向けます。耳を傾けることで、教会は、貧困、排除、軽視の現実を理解し、苦しんでいる人たちに友情をもって接することができるようになります。重要なのは、そうすることがまた、教会が、苦しむ人たちによって福音化することを可能にすることです。彼らに耳を傾けることで、教会は彼らのものの見方を理解し、彼らの側に具体的に身を置き、彼らによって福音化されるようになるのです。

 私たちは、刑務所にいる人たちに耳を傾け、寄り添う奉仕に携わっている全ての人に感謝し、激励します。刑務所にいる人たちは、特に、主の慈悲深い愛を経験し、共同体社会から孤立してないと感じることを、必要としています。奉仕者たちは教会を代表して、「牢にいたときに訪ねてくれたからだ」(マタイ福音書25章36節)という神の御言葉を実践しているのです。

j)  多くの人々が、しばしば見捨てられたように感じるほどの孤独の状態を体験しています。高齢者や病気の人たちはしばしば、社会の中で存在が認められません。私たちは、小教区やキリスト教共同体が彼ら寄り添い、耳を傾けるように、強く求めます。 「いつ、病気をなさったり、牢におられたのを見て、お訪ねしたでしょうか」(マタイ福音書25章39節)という福音の御言葉に触発された慈しみの業には、関わりのある人々にとっても、共同 体の連帯をさらに広げていくためにも、重要な意味があるのです。 

k)  最後に、教会は、容易に声を聴くことのできる人たちだけではなく、誰の声にも耳を傾けたいと思っています。いくつかの地域で、文化的、社会的な理由から、若者、女性、少数者といった特定のグループの人々が、公的な、あるいは教会という場で自由に自己表現することを、もっと難しく感じているかもしれません。抑圧的で独裁的な政治体制の下での生活は、そうした自由も浸食されていきます。キリスト教共同体でも、権威の使い方が開放的であるよりも抑圧的になるとき、同じことが起きる可能性があります。

【さらに検討を要すること】

l) 「耳を傾ける」ことは、無条件の受け入れを求めます。これは福音の宣言について妥協する、あるいは、提案された意見や立場を何でも支持する、という意味ではありません。主イエスは条件を付けずに人々に耳を傾け、彼らのために新たな地平を開かれました。そして、彼らと共に救いの良き知らせを分かち合うために、私たちも同じことをするように求められているのです。m) 全世界の多くの地域に広がっている、小さなキリスト教共同体は、洗礼を受けた人々に、また彼らの間で、耳を傾ける慣行を育てています。都会的な環境の中で、彼らがどのようにして耳を傾けることができるか、を探求することで、潜在的な力を高めるように求められています。

【提言】

n)  「排除されている」と感じている人たちにとって、もっと親しみやすい存在として教会が体験できるようにするために、私たちは何を変える必要があるのでしょうか。耳を傾け、共に歩むことは、個々人の行動というだけでなく、教会活動の一つの形です。ですから、教会員は、霊的な寄り添いを十分に活用し、異なったレベルのキリスト教共同体の通常の司牧計画の立案と活動の構成の中に、場を探す必要があります。シノダル(共働的)な教会は、耳を傾ける教会である必要があり、その約束の言葉は、実践されねばなりません。

o)  私たちはゼロからこの作業を始めるわけではありません。数多くの機関と組織が「耳を傾ける」いう重要な作業をしています。その中には、貧しい人々、周縁に追いやられている人々、移住者、難民などに対するカリタスの寄り添うための作業、そして、奉献生活者や一般信徒の共同体と連携したその他の多くの寄り添いがあります。さらに統合的なやり方で、彼らの作業と現地の教会共同体を連携させ、この作業を、委託作業としてではなく、全共同体の大切な役割として理解されることが可能になります。p)  耳を傾け、寄り添う奉仕をさまざまな形で実践する人たちには、彼らが繋がりを持つ人たちの経験を考慮に入れた、十分な編成をする必要があります。また、彼らが、共同体から支援されていると感じられることも必要です。共同体の側も、自分たちのために行なわれる奉仕の意義を十分に認識し、耳を傾けることの成果を受け取るようにするべきです。 私たちは、この奉仕をさらに卓越したものにするために、耳を傾け、寄り添う部署の設置を提案します。部署についての協議には、教会共同体を関与させるべきです。

q)  SECAM (アフリカ・マダガスカル司教協議会)は、一夫多妻制の問題点についての神学的および司牧的な識別と、信仰を持つようになっている一夫多妻の人々への寄り添いを促進する促進するように奨励されています。

 

17. デジタル環境における福音宣教

【まとまったこと】

a)  デジタル文化は、私たちの現実の受け止め方において、私たち自身の、お互いの、私たちを取り巻く環境の、さらに神との関わり方においての根本的な変化を象徴しています。デジタル環境は、私たちの学習プロセス、時間の認識、空間、肉体、人間関係、そして考え方の大部分を変えます。「現実」と「仮想」の二元論では、人々の、特に最も若い、いわゆる「デジタル世代の人々」の現実と体験を適切に説明することはできません。

b) 従って、デジタル文化は、現代の文化において明確に区分けされた宣教地域というよりも、教会の証人となる重要な側面を持っています。これが、デジタル文化がシノダル(共働的)な教会において特別な意味を持つ理由です。

c)  宣教師たちは常にキリストと共に新天地に出かけ、聖霊の働きに導かれ、(宣教に)駆り立てられました。今日、人々が(人生の)意味と愛を求める、携帯電話とタブレットを含めたあらゆる場所で、現在の文化に働きかけるのは、私たちの役目なのです。

d)  まず初めに、このことを理解しなければ、デジタル文化における福音宣教はできません。若い人々、この世代の神学生、司祭、奉献生活をする男女には、デジタル文化の経験を積んでいる場合がよくあるで、デジタル環境の中で教会の使命を遂行し、司牧者も含めた教会共同体の人々に寄り添い、デジタル文化の活力に精通するのに最適です。

e)  シノドスの道の歩みで、「デジタル・シノドス」の取り組み(プロジェクト「教会はあなたに耳を傾ける」)は、次のことの潜在的な力を示しています。それは、宣教の鍵となる目的のためのデジタル環境、それに関わる人々の独創力と視野の広さ、そして、訓練、寄り添い、対等な者同士の話し合いと協力の重要さによってそれらを提供すること、です。

【なお検討を要すること】

f)  インターネットは、子供たちや家庭の生活の中にますます浸透しています。私たちの生活の質を向上する可能性が極めて高い反面、脅迫、偽情報、性的搾取、依存症などの危害や損害をもたらす可能性があります。キリスト教共同体には、オンライン空間が安全であるだけでなく、霊性に活力を与えるのを確実にするような、家庭支援の方法の検討が緊急に求められています。

g)  価値のある有用な教会関連のオンラインの取り組みが多くあり、優れた教理教育や信仰育成に貢献しています。しかし、残念なことに、信仰に関連した事柄について表面的で、分断をもたらすような、さらには悪意に満ちた姿勢をとるサイトもあります。教会として、個々の”デジタル宣教師”として、私たちのオンラインへの参加が、相手の人たちにとって成長をもたらす体験となることを、いかにして確かなものとするか、私たちは自分自身に問いかける責務があります。

h)  オンラインによる福音宣教の取り組みは、その到達範囲が、伝統的に理解されてきた領域の境界を超えます。このことは、どのようにしたら新しい取り組みを規制できるか、そして、管理責任があるのは教会のどの部署なのか、という重要な問題を提起します。

i)  私たちはまた、現在の小教区と教区の構成を刷新するための「新しいデジタル宣教のフロンティア」の影響についても考えねばなりません。拡大を続けるデジタルの世界で、私たちはどのようにして、現状維持を求める罠に陥らずに、新しい形の宣教の実践のためのエネルギーを解放することができるのか?

j)  新型コロナウィルスの世界的大流行に刺激された,オンラインによる創造的な司牧上の取り組みは、高齢の、脆弱な地域社会のメンバーたちが経験している孤立や孤独がもたらす影響を減少させる助けとなりました。カトリックの教育機関も、(コロナ感染防止のために余儀なくされた)施設の閉鎖中に、信仰養成と教理教育を続けるために、オンライン・プラットフォーム(情報の提供者とそれを利用するユーザーを結びつける場)を効果的に利用しました。このような体験が私たちに教えているのは何か、デジタル環境の中で、教会の使命にとって(オンラインの活用を)続ける利点は何か、をよく考えるのは好ましいことです。

k)  素晴らしさを熱心に追求する多くの若い人たちは、オンライン空間を選び、私たちが招こうとしていた教会の物理的空間を放棄しています。このことが意味するのは、彼らの関心を引き寄せる信仰養成と教理教育のための新たな方法を見い出す必要がある、ということです。これは司牧上、検討すべき課題です。

【提言】

l)  すでに行われているデジタル宣教を、教会が認知し、そのための訓練と共働を提供すること、さらに、そこで行なわれる会議を円滑にすることを、私たちは提言します。

m)  重要なのは、他宗教の信者や信仰を持たない人々も含めた、インターネット・メディアで影響力のある人の協力のネットワークを構築すること、それだけでなく、人間の尊厳、正義、そして"共通の家(地球)"のケアを促進するという共通の利害(目的・理念)においての、協力です

18. 参加する組織体

【まとまったこと】

a)  誠実な神の民のメンバーとして、洗礼を受けたすべての人は、彼、彼女それぞれの召命、経験、能力に応じて福音宣教の使命を果たす共同責任をもちます。そのために、福音を伝えることが素晴らしく、励ましとなる喜びの経験となるように、すべての人がキリスト教共同体と全教会の改革の行程の構想を練り、決定することに貢献します。

 シノダリティ(共働性)には、具体的な形をもつ組織体の構成と機能において、目的としての使命があります。その使命のための共同責任は、「イエスの名において真に集められたものであること」を事実として証しし、参加する組織体を官僚的なもつれや世俗的な力の論理から解放し、集まることを実りあるものにします。

b)  近年の教導職(特に第2バチカン公会議で決議された文書「教会憲章」と教皇フランシスコの使徒的勧告「福音の喜び」)に照らし、あらゆる福音宣教における共同責任は、奉仕を行なうキリスト教共同体とそれに含まれる組織のすべての、そして、それぞれがキリストの体である教会すべての、構築の根底となる尺度でなければなりません。(コリントの信徒への手紙Ⅰ・12章4-31節参照)。

 世界中で宣教活動をしている一般信徒たちの責任についての適切な認識をもとにすれば、キリスト教共同体の世話を司教たちや司祭たちに任せる、という口実にはなりえません。

c)卓越した権威は、神の御言葉にあります。その権威は、参加組織体のすべての集会、すべての協議、すべての意思決定プロセスに、ひらめきを与えるに違いありません。そのために必要なのは、すべての段階で、集会が、聖体祭儀から主の意図と力をいただき、祈りのうちに聴き、分かち合う御言葉の光の中で行なわれることです。

d) シノダル(共働的)な宣教共同体の識別や意思決定のための様々な会議は、使徒的な役割を持つ男女-教会に頻繁に参加することによるのではなく、日常生活で真の福音的な証しをすることで、際立っている人々―に参加の場を提供しなければなりません。

 神の民は、宣教師的であればあるほど、すでに、この世界とその片隅に住み、宣教の使命を果たしている人々、あるいは彼らに共感する宣教に参加する組織体と言葉を交わすことが、もっとできるようになります。

【なお検討を要すること】

e)  今総会で分かち合ったことを踏まえて、私たちが重要だと感じているのは、特に、当事者たちが「自分はそれを行うのに適当でない」と感じるときに、どのようにしてさまざまな会議への参加を促したらよいか、をよく考えることです。

 シノダリティ(共働性)は、教会の使命を果たすための識別と意思決定の過程に、めいめいのメンバーが関わることで育っていきます。その意味で、私たちは、成長しつつある教会で、御言葉と感謝の祭儀を中心にした日々の触れ合いの中で生きる沢山の小さなキリスト教徒の共同体によって啓発され、励まされます。

f) 参加する組織体の構成に関して、教皇フランシスコが使徒的勧告「AmorisLaetitia(家庭における・愛の喜び)」の中で託された作業を、さらに先延ばしすることはできません。複雑な愛情関係に生きるキリスト教徒の男性たち、女性たちの参加は「さまざまな教会奉仕に、あっていいのです。

 ですから、典礼、司牧、教育、組織と言った領域で、まさに今行われている、乗り越えることのできる、様々な形の”排除”についての『識別』が必要になります」(「(家庭における)愛の喜び」299項参照)。ここで問題とされている識別は、現地教会でも見られることがありますが、小教区や教区の共同体からの排除にも、関係しています。

g)  教会の交わりにおける宣教活動の独創性の観点から―私たちはどのようにして、シノダリティ(共働性)のもつ協議と熟考の二つの側面を編み合わせていくのか? 神の民のカリスマと聖職の構成を基礎に置いて―私たちはどのようにして、様々な参加組織体の中で助言、識別、決定の作業をまとめていくのか?

【提言】

h) 福音宣教に関する能動的な主体として神の民を理解することをもとに、キリスト教共同体と現地教会に設けられる司牧評議会の強制的な性格を成文化します。同様に、洗礼の恵みによって「信徒が決定について、識別の役割を果たすことができる」ということを認識し、彼らが適切に参加する組織体を強化することが望ましい。

i)  参加する組織体は、責任を果たす人々の説明責任の元となる行動を体験する最初の実例となります。私たちは彼らとの関わりを温かく歓迎し支援する一方で、今度は、彼らが示す共同体に対して「説明責任」の文化を実践するように勧めます。

19. 全教会の交わりにおける教会のグループ化

【まとまったこと】

a)  聖霊が共同の利益のためにその賜物を豊に分配しています。そのために私たちは、教会の交わりの中で、それぞれの教会が提供できるものが多くある、と確信しています。私たちが教会をキリストの体として見ると、教会に属する様々なメンバーは互いに依存し、同じキリストの体を分かち合っている、ということをより容易に理解できます。

 「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」(コリントの信徒への手紙1・12章26節)と聖書に書かれています。

 ですから、私たちはこの見方から生まれる、霊的な生き方―謙遜、寛容、尊敬、分かち合い-を発展させたいと思っています。

 同じように、霊的な豊かさ、宣教する弟子たちが、互いの知識の交流によって成長し、必要なものを構築しようとする意欲が重要になります。

b)  現地教会のグループ化の問題は、教会におけるシノダリティ(共働性)を十分に発揮することが基本であることを証明しています。現地教会のグループ化を含めて、シノダリティ(共働性)と合議性の事例をどのように構成するか、という問題に応えて、総会は、”シノドスの道”の旅の第一段階で適切に実施するために、司教協議会と大陸レベルの会合で行なわれた識別の重要性について合意しました。

c)  現地の 教会側の視点から組織体を理解した場合、教会法と東方教会の教会法において、組織体がいかに、より効果的にその機能を果たしてきたかが、”シノドスの道”の過程で分かりました。

 「教会」とは「諸々の教会の交わり」である、という事実は、司牧者としての司牧上の構成的な側面として、各司教がすべての教会(教皇パウロ 6 世が1969 年 に出された回勅「Sollicitudoomnium ecclesiarum(すべての教会の配慮)」に配慮して実践することを求めています。

d)  シノドスの旅の第一段階では、司教協議会が決定的な役割を果たしました。大陸レベルでの会議でシノダリティ(共働性)と合議性の必要を明らかにしました。これらの段階で活動している組織体 は、それぞれの地域の現実と文化受容の過程を尊重しながら、シノダリティ(共働性)の実践に貢献しています。総会は、このようにすれば教会の統治における画一化や中央集権化のリスクを克服できるとの確信を表明しました。

 

【なお検討を要すること】

e) 新しい教会の構築をする前に、私たちは既存の組織を強化し、活性化する必要があります。同様に、教会がさらに十分にシノダル(共働的)な性格を帯びるように、教会のグループ化に関係する改革の意味について、教会の教会的、教会法的な学びが必要なこと。

f) 最初の千年紀の教会の共働的な慣行をもとに、例えば、司教協議会のような、新しく設けられた制度と調和させながら、いかにして現在の教会法の順序に従って古い制度を回復させるかについての研究をするよう提案すること。

g) 司教協議会の教義的、教会法的 な本質は、現地の組織で起きた教義上の問題も含めて、合議的な対処の可能性を認めつつ、さらなる学びが必要とします。そうすることで、ヨハネ・パウロ二世教皇の自発教令 Apostolos suosついての考察を再開すること。

h)  このほどオーストラリアの教会会議総会で得られた主の賜物の例に倣い、神の民のより多くの参加が実現するように、(総会や地方の)特定の評議会に関する教会法を改定すること。

 

【提言】

i)  教会規範ですでに規定されている構成の中で、地域の現地教会群の交わりの場として、私たちは、教会管区あるいは首都教区の回復、強化をすべきです。

j)   関係当局は、教会のグループ構成に関して必要とされる洞察に従って、教区、国、大陸レベルにおけるシノダリティ(共働性)を推進すべきです。

k)  どの司教協議会にも属さない司教の便宜を図るために、国境を越えた教会群の間の交わりを促進するため、必要とされる地域に、国際的な教会管区の創設を提案します。

l) 東方カトリック教会の聖職階級制度も存在するラテン典礼の諸国において、東方教会の司教たちを、その独自の法典で確立された統治権を維持する形で、各国の司教協議会に含めることを推奨します。

m)  各大陸の会議の教会法的な形状は、それぞれの大陸の特性に敬意を払いつつ、神の民の多様性を提起する代表者たちと共に、司教協議会の参加と教会群の参加を十分に考慮するような形で機能させるべきです。

 

(ここまで、「カトリック・あい」田中典子試訳・2023.11.28改訂)

20. 世界代表司教会議と教会会議

【まとまったこと】

a) 「共に歩む」という経験は疲労と感じさせるものであったとしても、今総会で、私たちは、神の民であることの福音的な喜びを感じました。 シノドスの旅のこの段階での新たな経験は、総じて喜びを持って受け入れられました。

 最も明白なものに、(教皇フランシスコが2018年9月に発表されたシノドスをめぐる使徒憲章「エピスコパリス・コムニオ(司教の一致)」に示されているように)シノドス総会が”イベント”から”プロセス”に移行したことがありました。

 (総会における)司教たちと並んで、女性も男性も含めた他の教会員の存在、 兄弟姉妹である参加者の活発な存在、 総会の準備のための霊的な黙想、聖ペトロ大聖堂での聖体祭儀、 祈りの雰囲気と聖霊における会話の方法、 そしてパウロ六世ホールでの会議の際の配置などです。

b) この世界代表司教会議は、その卓越した司教主導の性格を維持しつつ、この機会に、教会生活のシノダル(共働的)な側面(全員の参加)と合議の側面(教会全体への司教の配慮)、そして主席司教の側面(ローマ司教、聖体の証人の奉仕)の間の、本質的なつながりを明確にしました。

c)  シノドス(共働)の道の歩みは、これまでも、そして今も、私たちを勇気づける恵みの時です。 神は、教会の生活と使命を導くことのできる、教会の新しい文化を経験する機会を、私たちに提供してくださっています。しかし、宣教におけるシノダリティ(共働性)への個人としての回心が欠けていれば、共同責任の仕組みを作り出すだけでは十分ではないことを、私たちは思い起こしました。

 シノドスの道の歩みは、教会のあらゆるレベルで、その奉仕とカリスマによって参加するように呼ばれている人々の個々の責任を軽くするものではなく、むしろ、いっそう重い責任が求められます。

【さらに検討を要すること】。

d)  司教以外の教会員がシノドスの旅の証人として、総会に参加したことは高く評価されました。 しかし、この総会の司教的性格からみて、「正規の参加者」としての参加がもたらす会議への影響については、依然として疑問が残っています。参加者の中には、 「司教の具体的な役割が十分に理解されない恐れがある」との見方もあります。 司教でない参加者が総会に出席を求められる基準を、明確にする必要があります。

e)  2021年11月の第1回ラテンアメリカ・カリブ地域司教協議会総会、ブラジルのOrganisms of the People of God (神の民の有機体)、オーストラリア教会総会などの経験が報告されました。決定の精緻化と司教の具体的な役割に対する、神の民の全成員の貢献を(不当な分離なしに)区別しながら、将来的に「シノダリティ(共働性)」と「合議性」をどのようにまとめていくかについて、見極め、深化することが、課題として残されています。

 共働性、合議性、そして司教の裁治権の関連は、固定的あるいは直線的に解釈されるべきではなく、according to a dynamic circularity, in a differentiated coresponsibility(区別された共同責任における動的な循環に従って)解釈されるべきです。

f) 地域レベルでは、連続的な手順(教会会議とそれに続く司教会議)を考えることは可能ですが、カトリック教会全体からみて、このような手順がどのように提案されるか、明確にすることが適切である、と考えられます。

 総会参加者の中には、「この総会で採用された方式が、そうした要請に応えている」と確信する人がいる一方で、「識別を結論付けるために、教会会議に続いて司教会議を開くこと」を提案する人も、「シノドス総会の参加者の役割を、司教に委ねるのがいい」とする人もいます。

g) さまざまな分野の専門家、特に神学者や教会法学者によってなされた今総会の作業とシノダル(共働的)な教会のプロセスへの貢献も、意義あるものでした。

h) シノドスの道の歩みとインターネットおよびメディアの間の相互作用についても熟考する必要があります。

【提言】

i) 教会のあらゆるレベルにおけるシノドスの道の歩みは、吟味される必要があります。

j) 世界代表司教会議(シノドス)第 16 回通常総会の第一会期の成果は、吟味される必要があります。

  *注*英語訳で「evaluate」となっている箇所は、日本語では一般的に「評価する」と訳されることが多いが、語感としては、「前向きに讃える」というニュアンスが含まれる傾向がある。英語の本来の意味は「価値を付ける」であり、良い悪いの判断は含まれまい。したがって、ここでの訳は「吟味」あるいは「査定」とする方が、ここでは適切であると判断した。

・旅を続けるにあたって

(2023年11月15日改訳)

 「神の王国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか?」 (マルコ福音書 4章30節)

 主の言葉は、教会のあらゆる言葉よりも優先します。 弟子たちの言葉は、それが教会会議の言葉であっても、イエスご自身の言葉の反響にすぎません。
神の統治を宣べ伝えるために、イエスは、たとえ話で話すことを選ばれました。人間生活での日常の体験—自然界、職場、日々の様々なこと—の中に、神の神秘を明らかにするイメージを見出されました。

 そうして、イエスは、「神の統治は、私たちを超越しているが、私たちから遠く離れてはいない」ということを、私たちが知るようにされました。私たちがそれをこの世の様々なことの中に、神の統治を見るか、それとも、決して見ないのでしょうか。

  イエスは、地に落ちる一粒の種の中に、ご自分の運命が示されているのを知っておられました-価値のないもの、あるいは朽ちることが定められているもの、だが、 生命の力、止めることのできない強い力、もつ-予想することのできない、Paschal(過ぎ越し)であることを。それは命を与えること、多くの人のパンとなること、御聖体となる運命のパンとなることを定められた強い力です。

 今日、支配することを求めて人々が互いに争い、見えるものに心を奪われている”文化”の中で、教会は、イエスの言葉を繰り返し、全力を挙げてその言葉に命を吹き込むように求められています。

 「何をもって神の国と比べることができるだろうか、(神の国を表現するのに)どのようなたとえを使うことができるだろうか」。

 私たちの主の質問は、私たちの前に今置かれている仕事に光を当てます。その仕事は、複数の分野に分散し、そのすべてを効率性と手続き主義の論理に帰することではありません。

 大事なことは、この総括文書にある多くの言葉や提案の中から、小さな種でありながら未来を担う思われるものをつかみ、それをどのようにして、多くの人のために生育し、実らせることのできる土に植えたらいいか、思いめぐらすことです。

 「どうしてそんなことがありえましょうか?」(ルカ福音書1章34節)—天使から「あなたはイエスを身ごもる」と告げられたマリアは、こう尋ねました。 答えは 1 つしかありません。「聖霊の影の中に留まり、その力に包まれるようにすること」です。

 今から2024年10月のシノドス総会第 2 会期までの期間を見据えて、これまでの旅と、それを祝福してくださった恵みを、主に感謝しましょう。

 私たちは次の段階を、旅を続ける忠実な神の民への確かな希望と慰めのしるしである聖母マリアのとりなし、そして今日、私たちがその祝日を祝う聖使徒シモンとユダのとりなしに委ねます。 私たちは皆、この総括文書が記述している小さな種を歓迎するよう招かれているのです。

 Adsumus Sancte Spiritus!(聖霊よ、私たちはあなたの前に立っています!)

2023年10月28日、使徒である聖シモンとユダの祝日、ローマにて

(ここまで「カトリック・あい」南條俊二試訳・改訂)

(編集総括「カトリック・あい」南條俊二)

 

2023年10月30日

☩教皇がシノドス総会閉幕ミサー「神と隣人への愛が、すべての核心」

(2023.10.29 Vatican News )

  教皇フランシスコは29日午前、聖ペトロ大聖堂で、約1か月に渡す世界代表司教会議(シノドス)第16回総会第1期の閉幕ミサを捧げられ、説教で、「主の愛ある臨在の中で経験し、友愛の美しさの中に見出した『聖霊の対話』」について語られた。そして、総会参加者たちが「主の愛ある臨在を体験し、友愛の美しさを見出した様子」を回想された。

 「交わり、参加、使命」をテーマとするシノダリティ(共働性)に関するこの総会第1期の閉幕ミサで、最高潮を示した。 説教で教皇は、福音朗読(マタイ福音書22章34-40節)で読まれた、 律法学者たちが、律法のどの戒めが最も重要か尋ねることで、イエスを試みようとする場面を振り返りながら、「この重要かつ永続的な疑問は、私たち自身の心や教会生活の中で起こり得ること」とされ、「 最も重要なのは、生涯かけて神を愛し、自分自身のように隣人を愛することだ」という主の答えは、「すべての中心」を示し、「どのようにしてすべてが新たに始まるのかを示していいます」と説かれた。

 

 (以下、バチカン放送)

 「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」(マタイ22章36節)とファリサイ派の律法の専門家から尋ねられた時、イエスの答えは明快だった。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、 あなたの神である主を愛しなさい』 。これが最も重要な第一の掟である。 第二も、これと同じように重要である。 『隣人を自分のように愛しなさい』」(22章37-39節)。

 このシノドス総会の第1会期の歩みを終えるにあたり、教皇は、「神をすべての命をもって愛し、隣人を自分のように愛する」という、すべての出発点・再出発点であるこの「原則かつ基礎」を見つめるようにと招かれた。そして、教皇はこの「神と隣人を愛する」という愛の態度を、「礼拝し、奉仕する」という2つの動詞で表現された。

 まず、「『愛する』とは、神を礼拝すること」とされた教皇は、「『礼拝』とは、神の無償の驚くべき愛に対して私たちが捧げることのできる、最初の答えです… 『神から愛されている』という驚き、礼拝にあるこの驚きは、教会において欠かすことができません」と説かれた。

 同時に、「神を礼拝することで、私たちは自由を再び見出します。なぜなら、神を礼拝する者は、私たちを隷属化する偶像を拒むからです」と語られ、私たちが闘うべき偶像として、虚栄心や、成功への熱望、何がなんでも目立とうとする態度、金銭への貪欲、出世への憧れなどを挙げつつ、「自分の宗教に対する考えや、自身の司牧の上手さなど、霊的なものに偽装された偶像をも示し、神の代わりに自分たちを中心に置くことがないように」と注意を促された。

 そして、「教会とは礼拝する存在である」と、教皇はすべての教区、小教区、共同体で、主が礼拝されるようにと望まれ、「こうしてこそ、私たちは自分自身でなく、イエスを見つめることができるでしょう」と語られた。

 次に、「愛するとは、奉仕すること」とされた教皇は、「キリストが最も重要な掟の中に、神と隣人を結び合わせたのは、決して両者を分離させないためです。この世の叫びに耳を傾けない真の宗教体験はなく、隣人に思いやりを持たない神の愛はありません」とされ、「私たちは、実に多くの教会改革のためのアイデアを持っているかもしれません。しかし、神を礼拝し、兄弟を神の愛で愛すること、これこそが、『永遠の偉大な改革』だということを忘れてはなりません。『礼拝する教会、奉仕する教会』とは、傷ついた人類の足を洗い、弱く、見捨てられた人と歩みを共にし、優しさをもって最も貧しい人々の所に出かけていく教会です」と強調された。

 教皇は、戦争の冷酷さの犠牲者、移民の苦しみ、孤独な人、貧しい人、人生の重みで押しつぶされた人の悲しみに思いを向けながら、「貧しい人を搾取し、兄弟愛を蝕み、社会を荒廃させることは大きな罪です。私たち、イエスの弟子たちは、神を第一に据え、それと同時に、神が大切にされる貧しく弱い人々を愛する『福音』という別のパン種を世界にもたらすことを望んでいるのです… 最も貧しい人々をはじめ、皆に奉仕する教会、慈しみの港として、皆に扉を開く教会、それが私たちが夢見るように、と招かれた教会なのです」と力を込めて語られた。

 シノドス総会・第1会期の閉会にあたり、教皇は、「聖霊の対話」の中で、主の優しい現存を体験するとともに、兄弟愛の素晴らしさを発見することができました… シノドスは歩みの途中であり、完全な実りをまだ見ることはできませんが、未来を見つめる目をもって、前に広がる地平線を眺めることができます」され、「主の導きと助けのうちに、神を礼拝し、人々に仕え、福音の喜びを皆にもたらす、よりシノドス的で宣教的な教会を目指しましょう!」と、シノドス関係者はじめ、全教会に励ましをおくられた。

 

2023年10月29日

・(総括文書解説)”コンセンサス”を追求、争点のある問題は”弱音ペダル”で総会を終える(Crux)

(2023.10.28 Crux  Senior Correspondent  Elise Ann Allen

ローマ 発– 教皇フランシスコが主宰する1か月にわたる「シノダリティ(共働性)に関するシノドス総会がまとめた総括文書で、注目を集めている問題について、明確かつ具体的な提案はなかった。だが、あるバチカン当局者は28日の夜、「十分で説得力のある合意」を模索した結果だ、と説明した。 」

 「教会の識別力は、聖霊が教会をどこに導いているのかを理解するために相互に耳を傾けることに基づいており、『コンセンサス〈総意)』という基準によっている」と、シノドス事務局長のマリオ・グレック枢機卿は語った。彼の言う「コンセンサス」の結果、総括文書では、女性の司祭叙階、女性助祭、LGBTQ+コミュニティの受け入れ問題に関する今総会の立場は示されなかった。いずれも、今総会の討議の中で出て来たものだった。それよりも、総括文書は、女性の地位の向上や疎外されていると感じている人々の受け入れでさらなる行動を取る必要性は明確にされたが、具体的な提案は示されていない。

 総括文書は42ページで、本文は「the face of the synodal church(シノダルな教会の顔)」「all disciples, all missionaries(すべての人は弟子、すべての人は宣教師)」「weave bonds, build community(絆を紡ぎ、共同体を築く)」の3部に分かれており、最後に「道を歩み続けるために」という章が続いている。 各章は、「まとまった点」「取り組むべき課題」「今後への提案」に分かれている。

 女性について「女性が意思決定過程に参加し、司牧や奉仕において責任ある役割を担うことができるよう保証することが急務である」と総括文書は述べ、教皇フランシスコがバチカン内の要職に数名の女性を任命したことに言及し、「教会活動の他のレベルでも同様のことが起きるべきだ… 教会法はそれに応じて適応されなければならない」としたが、どのような変更が必要になるかについての詳細を含めて具体的な内容は何も述べていない。

 女性助祭の問題に関して、総括文書は明確な立場や提案を示さず、教皇が女性助祭について研究するために設立した2つの委員会によってすでに行われた研究を活用し、司牧的および神学的研究が「継続されるべきである」とだけ述べた。このテーマに関するさらなる研究の結果は、来年の最終会議で発表されるべきだ、と総括文書は記している。

 総括文書では、 聖職者主義、「排外主義」、権力の乱用が教会の証しと交わりに損害を与えていることが指摘され、性的スキャンダルや経済的スキャンダルの影響も取り上げられたが、女性に関して解決すべき「課題や問題として」語ることを避け、むしろ「神の計画の深さを、より深く理解することを目的として男女が対話する教会」を推進する必要性を強調している。

 修道女の搾取についても言及されており、彼女たちが、しばしば”低賃金労働者”とみなされ、賃金はほとんど、あるいはまったく払われずにいる修道女の問題に取り組む必要がある、とし、 司祭の養成および神学研究プログラムにさらに多くの女性を参加させるように、との呼びかけもされている。

 注目すべきは、LGBTQ+コミュニティへの言及が繰り返し行われ、同性に魅力を感じる人たちをもっと積極手に受け入れる方法を見つける必要があるにもかかわらず、「homosexuality(同性愛)」や「same-sex(同性)」といった言葉にまったく言及されていない、ということである。 同性カップルへの祝福の問題は今総会前に大きな論争の種となったが、「祝福」という言葉も総括文書には登場しなかった。この問題は、「性自認や性的指向、人生の終わり、困難な夫婦関係など」、「人工知能に関連する倫理問題」などの形で、”ベールに包まれた言葉”で取り上げられた。

 総括文書は、これらの問題は「新たな問題を提起するため、社会だけでなく教会でも物議を醸している」とし、これらの問題に対する現在の「人類学的カテゴリー」は「経験や経験から現れる要素の複雑さを捉えるには十分ではない…科学的知識をもとにした解明と研究が必要」とするにとどめている。

 また総括文書は、「人々と教会共同体を傷つける単純化した判断に屈することなく」、これらの問題を熟考するために必要な時間とエネルギーを捧げることの重要性を強調。 「さらなる解明が必要な場合でも、祈りと心の転換に同化したイエスの行動は、私たちが進むべき道を示している」と述べた。

 「教会で疎外されていると感じている人々」について、今総会での議論や準備要綱には「LGBTQ+コミュニティ」も含まれているが、文書では、こうした声に耳を傾けるには「無条件の受け入れが必要である」と指摘しつつ、受け入れは「救いの福音のメッセージを提示する際の明晰性を放棄することを意味するものではなく、また、いかなる意見や立場を支持することを意味するものでもない」と述べ、「聖書のイエスは、彼が無条件で話を聴いた人々に新たな地平を開いた。私たちもそうするよう求められている」と指摘した。 米国に本拠を置くLGBTQ+カトリック教徒の擁護団体New Ways Ministryは28日夜に発表した声明で、総括文書について「階層構造の現状を再確認しただけだ。失望させられた」と述べた。

 司祭の独身制の問題について総括文書は、この問題については、さまざまな意見が表明されているが、「預言とキリストへの適合の証しに満ちた(司祭の独身制)の価値を、誰もが高く評価している」と述べる一方で、「(聖職位階制の教会の)司祭の奉仕との神学上の利便性が、特に教会的、文化的背景の文脈の中で、それが難しさを増しているラテン典礼教会での規律上の義務に必然的に変換されなければならないのか、と疑問に思う人もいる」とし、「これは新しい課題ではない。さらなる検討が必要だ」と結論を事実上、先送りした。

 2021年10月に教皇フランシスコによって正式に始められた”シノドスの道”の歩みの仕上げとなるシノドス総会は、正式なテーマを「シノドス的教会のために:交わり、参加、使命」とし、今回の第1期に続く、来年10月の総会第2期でピークを迎える教区レベルから国レベル、そして大陸レベルと進んできた多段階のプロセスだ。

 この過程における議論で、 女性の司祭叙階、女性助祭、同性カップルの祝福などは、最も物議をかもした問題だったが、歩みの参加者の中には、これらの問題への取り組みを「感情的」だと表現する者もいれば、「西洋の強迫観念」だと主張する者もいた。また、今総会の直前には、数人の保守的な高位聖職者が、これらの問題への関与をめぐって、”シノドスの道”が分裂する可能性がある、と警告。 教皇は、これに対して、回答を発表し、その中で女性の司祭叙階の禁止を再確認しつつ、「研究の可能性はある」と述べ、同性愛者のunionには、一定の注意事項付きでケースバイケースで祝福されると慎重に扉を開いた。

  世界代表司教会議(シノドス)の歴史で、女性と一般信徒が初めて正式な議決権を持つ形で参加した、シノダリティに関する総会は今回の第1期に続いて開かれる来年10月の第2期をもって閉幕する。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

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2023年10月29日