・10月の世界代表司教会議(シノドス)総会第2会期を前にバチカン事務局が会合の進め方などを説明

Press conference to present the second session of the SynodPress conference to present the second session of the Synod  (Vatican Media)
 na.
2024年9月17日

・10月のシノドス総会第2会期を前に、アフリカの教会指導者たちが会議ー障害は「家父長制の文化」「聖職者主義」そして「位階制主義」にある

 カメルーン・ヤウンデ 発– アフリカの神学者たちは、”ポストコロニアル国家”(第二次大戦後にアフリカの西欧の植民地から独立した国々)が「貪欲、部族主義、セクショナリズム、そして氏族主義の文化」を助長していると批判してきた。

 そして今、10月のシノダリティ(共働性)に関する世界代表司教会議(シノドス)総会第2会期を目前にして、このような問題が、アフリカの教会がシノダリティを受け入れ、共に歩む能力を妨げている、と主張している。

 汎アフリカ・カトリック神学・司牧者ネットワーク(PACTPAN)とアフリカ・マダガスカル主要指導者会議(COMSAM)が共同でこのほど開いた会議で、神学者たちは、アフリカのさまざまな状況で直面する課題を理解することの重要性を強調。

 彼らは8月30日のオンラインイベントで、「アフリカの教会とより広いアフリカ社会で共同責任を受け入れるためには、教会と国家の共通利益のために共に働き、実りある旅をするために、まず、アフリカの様々な状況の中で、私たちが直面する課題を理解する必要がある」と訴えた。

 さらに、「アフリカの指導者たちは、残念ながら、公共の利益を損ない、排除につながり、平和と社会的結束の価値をゴミ箱に捨てる『今こそ食べる時だ』という考え方に導かれている」と批判。

 「私たちは、アフリカの教会において、私たちの教区、宗教共同体、教会機関における部族主義、セクショナリズム、氏族主義、外国人嫌悪のスキャンダルによって、いまだに重荷を負っている。こうした否定的な傾向は、多くの教会の環境で共同責任を実施することを困難にしている」と訴えた。

 また、ナイジェリアのベヌエ州にあるマクルディ・カトリック教区のコミュニケーション・ディレクター兼総括司牧者のモーゼス・ロラプウ神父はCRUXの取材に答え、「アフリカの政治家や神学者にとって、貪欲、部族主義、汚職の政治の原因としてポストコロニアル国家を指摘する誘惑が常にある」ことを認め、「私たちは独立を手にしている。もしそうした問題が植民地主義の産物なら、自分たちの努力で、これらの悪徳をなくすことができたでしょう」と指摘。

 そして、「貪欲、汚職、部族主義は普遍的な傾向であり、アフリカに限ったものではありません。ですから、アフリカも、それらに苦しめられている他の人々がしてきたように、これらの悪徳に取り組むことができるのです… 欧州諸国は持続可能な成長のために、そうした取り組みができた。政治的意志と道徳的な勇気があれば、アフリカも同じことができるのです」と強調した。

 そのうえで、ロラプウ神父は、「アフリカの”シノドス教会”実現への障害は、植民地主義の遺産と結びついているだけでなく、文化的および言語的多様性、家父長制のイデオロギー、および社会経済的現実の働きでもあります」とし、「アフリカ人の豊かな文化遺産と言語の多様性は、アフリカのシノドス教会にとって依然として”脅威”であり、シノダリティ(共働性)ではなくコミュニケーションの障壁となっている… これはナイジェリアの教会に影響を及ぼし、一部の地域では”部族教会”に矮小化されています」と指摘した。

 さらに続けて、「アフリカは”家父長制社会”であり、教会もそう。ですから、教会の指導者の多くは、アフリカのほとんどの地域で女性が”多数派”であるにもかかわらず、彼女たちの声を教会の活動に反映させることも、リーダーシップを与えることも望まない、トラウマを負った避難民や、他の社会経済的現実によって非人間化された人々は、人間以下の状況で生活しており、真のシノダリティを経験できる状態には至っていません」と訴えた。

 ザンビアのマシュー・チャールズワース神父も同意見だ。

 「『家父長制の文化』と『聖職者主義」、そして特に『位階制主義』が、一般信徒の賜物を認識し、聖霊が彼らに語りかけることを妨げ、第二バチカン公会議が主張し、聖職者を一般信徒の奉仕者と見なすことを妨げています… 貪欲、部族主義、腐敗はアフリカの問題であり、ヒエラルキーの相対的な沈黙によって助けられるのではなく、公益のために働く代わりに一党の機嫌を取る一部のヒエラルキーの厚かましい党派心によって、一般信徒を裏切っている」と、CRUXに語った。

 そして、こうした問題は「シノダリティを実行するために必要な焦点と作業から注意をそらし、現実的な危険をもたらします。基本的には『意志があるところには道がある』という格言は真実でなければならず、シノダリティを実行する方法が見つからないなら、それは、教会のさまざまなレベルで意志がないためであり、真の障害は、それを実行する義務を負う人々の中に見出されるでしょう」と指摘。

 そのうえで、「私の経験では、霊についての真の会話がなされるところには、恵み、回心、協力、そして教会としてのシノダリティへの興奮があります」と述べた。

 カメルーンのクジョージ・ンクオ司教は、「(シノダリティは)私たちがアフリカで持っているコミュニティと連帯の感覚を求めています。人々は大きな帰属意識を持っており、善良な心を持つ権威者の話を聞く準備ができています」と語っている。

2024年9月7日

・イタリアの司祭、妻と生まれてくる子供のために司祭職返上ー「司祭独身制」巡る議論に一石(Crux)

(2024.9.2  Crux Staff)

Italian priest’s exit for wife, unborn child renews celibacy debate

 ローマ発 – 過去20年間イタリアで過ごしてきたスロバキア人の司祭が、「狂おしいほど」愛し合っている女性と結婚するために司祭職を辞した。女性との間には、重度の心臓病と診断された子どもが生まれる予定だという。

 この司祭は、北イタリアのアルバ教区のトマス・フラバティ神父(44)。 教区長のマルコ・ブルネッティ司教が1日に発表し、司祭職を離れ一般信徒に戻ることになる同神父の「優れた透明性と責任感」を称えた。

 この”事件”は司祭の独身制をめぐる議論を再び巻き起こしている。理由の1つは、あらゆる点でフラバティ神父は人気のある司牧者で、彼が奉仕した6つの小さな町のカトリック教徒、町長も、彼の辞任を嘆いているからだ。

 イタリアで最も広く読まれている日刊紙「ラ・レプブリカ」のインタビューで、フラバティ氏はこの決断に至った経緯を語った。

 同氏は約20年前にイタリアに来て、司祭になることを希望して神学の勉強を始め、2015年4月に司祭叙階された。いくつかの務めをこなした後、アルタ・ランガ地域の6つの共同体の司牧者としての役割を引き受け、カトリック・アクション青年部の顧問、教区事務所で青年への司牧と司祭叙階の促進に携わった。

 「司祭であることに喜びを感じ、周りの人々が大好きでした… 司祭職を退いても真の友情が続くことを確信しています」と語り、これまでの活動の中で女性と恋に落ち、女性は妊娠し、12月に出産の予定。胎児は出生前診断で重度の心臓欠陥があることが判明し、出産後に一連の複雑な手術が必要になるというが、彼と妻となる女性は「子供に『人生』という素晴らしい世界を発見する機会を与えること」を決意している、という。

 地元メディアによると、フラバティ氏は過去2か月間、教区を離れており、理由は不明の健康問題を抱えているが、現在、彼と女性は家族を支えるために仕事を探す予定だという。フラバティ氏は「(子育ての)経験が非常に限られていても、良い父親になりたい… 子供が生まれることは、男性にとって最も素晴らしいニュースです。全力を尽くします」と述べている。

 フラバティ氏が奉仕した6つの小教区の1つ、フェイゾリオ町のピエール・カルロ・ビエストロ町長は、フラバティ氏の幸せを祈る一方で、「(彼が司牧者でなくなることに)私もがっかりしている…彼が私たちのコミュニティ、とりわけ若者たちから常に高く評価されてきたからです。彼は、若者たちに多くの貢献をした来ました」と述べ、信者に対し、祈りの中でフラヴァティと彼の新しい家族を支えるよう呼びかけている。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

・・Cruxは、カトリック専門のニュース、分析、評論を網羅する米国のインターネット・メディアです。 2014年9月に米国の主要日刊紙の一つである「ボストン・グローブ」 (欧米を中心にした聖職者による幼児性的虐待事件摘発のきっかけとなった世界的なスクープで有名。映画化され、日本でも全国上映された)の報道活動の一環として創刊されました。現在は、米国に本拠を置くカトリック団体とパートナーシップを組み、多くのカトリック関係団体、機関、個人の支援を受けて、バチカンを含め,どこからも干渉を受けない、独立系カトリック・メディアとして世界的に高い評価を受けています。「カトリック・あい」は、カトリック専門の非営利メディアとして、Cruxが発信するニュース、分析、評論の日本語への翻訳、転載について了解を得て、掲載しています。
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2024年9月4日

・アマゾン地域の教会の司教、司祭、信徒代表が、女性の役割強化、教会財政危機などで対応協議(Crux)

(2024.8.23 Crux  Contributor   Eduardo Campos Lima)

 サンパウロ発 –10月の世界代表司教会議(シノドス)総会の第二会期を前に、ブラジル司教協議会のアマゾン特別司教委員会(CEA)が主催し、汎アマゾン教会ネットワーク(REPAM)とアマゾン教会協議会(CEAMA)の代表が参加する会議が19日から22日にかけてブラジルのマナウスで開かれ、5年前に開かれたアマゾン地域シノドスを基にした今後の取り組みについて協議した。

 具体的にはアマゾン地域で現在も深刻化が進む環境悪化への対処、女性助祭の叙階など教会における女性の役割の抜本強化、教会財政の危機への対応が、緊急課題として挙げられた。

 環境危機に関しては、アマゾン河流域では昨年、長期間にわたる水不足、干ばつが続き、今年に入っても河川の水は低下する一方、様々な地域で大気汚染が進んでいる。その主たる原因の一つは流域の森林破壊であり、それを食い止めるのが急務という。

 女性の役割の抜本強化では、5年前のアマゾン地域シノドスで激しい議論となった女性の助祭叙階について、現在ではこの地域の多くの信者がその実現を強く求めるようになっている。

 この会議に参加したブラジル北西部、アクレ州のフラビオ・ジョヴナーレ司教はCruxの取材に「女性の助祭叙階、そして既婚男性の司祭叙階の問題は、アマゾン地域ではいまも激論が続いていますが、慢性的な司祭不足が続くこの地域で、司牧活動をどのようにして続けるか、と言う問題が背景にあります」と語った。

 バチカンのシノドス事務局が設置した10の研究会の一つは、女性助祭の問題を扱っており、10月のシノドス総会第二会期の後、来春には検討結果が公開されることになっている。

 また、ジョヴナーレ司教によると、今回の会議では、アマゾン地域の教会が抱える財政的問題への具体的対応も議論された。司教は「私が教区を引き受けたとき、莫大な借金を抱えていました。私がやってきたのは、その利息を支払うことだけ。一方で教区の運営コストは増え続けています」とし、「私の担当しているような司牧地域が広いところでは、車で移動するのに必要なガソリンのコスト上昇が重い負担になっている」と窮状を説明した。

 会議では、財政的に苦しい教区、小教区への財政援助基金の創設で合意。国際的な援助を受ける活動を準備する専門家チームを発足させることを決めた。

 この会議の声明では、アマゾン地域の人々の自己の権利のための闘いに、教会も行動を共にする必要性についても言及。「聖霊は、人々と肩を並べ、人々の権利のために、人々と闘う教会の在り方を、私たちに示している」と述べている。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

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2024年8月27日

・10月のシノドス総会第2会期を目前にアジア17か国の枢機卿、司教など38人が対応を検討

*なお、この会議のについて、日本の司教団の公式サイト、中央協議会ニュースは8月20日現在、全く触れておらず、日本から誰が参加したのか、あるは不参加だったのかも、明らかにされていない。

2024年8月20日

・アジア司教協議会連盟(FABC)が10月のシノドス総会第2会期を前に専門のウェブサイト開設

(2024.8.20 カトリック・あい)

 アジア司教協議会連盟(FABC)が20日までに明らかにしたところによると、FABCは10月の世界代表司教会議(シノドス)総会第2会期に向けて、シノドス専門のウエブサイトhttp://synodalityasia.net を開設した。

 FABCの Office of Social Communications(OSC)の声明によると、このサイトは、”シノドスの道”のアジアにおける歩みに関する情報をまとめ発信するのが狙い。バチカンの関連公式文書の現地語翻訳や解説、シノドスの道に関するアジアの信者たちの声を共有することに努める。

 サイト創設者であるFABC.OSC会長のセバスティアン・フランシス枢機卿(マレーシア)は、サイト開設について、シノダリティ(共働性)に関するシノドスとそこに至る歩みを、神の民全員が参加する世界的なものにしたい、という教皇フランシスコの願いを受けたものであり、「このウェブサイトが、多様性に富んだ広大なアジア大陸でシノドスを支援する手段となることを望んでいます」と説明した。
またFABC. OSCのメンバーであるトーマス・ドソウザ大司教は、「このウェブサイトはバチカンとアジアの教会を結びつけ、関係する聴衆と情報を共有するための架け橋です」と述べた。

 FABC.OSCのジョージ・プラトタム室長は、「新しいウェブサイトは、アジアの地方教会の多様性を反映したニュース、解説、翻訳、インフォグラフィック、ソーシャルメディアを掲載するプラットフォームとして機能し、10月のシノドス総会第2会期とそれ以降のオンラインによる”シノドスの道”の歩みへの関わりを促進できるようにしたい」と抱負を語った。

  FABC OSC は、アジアにおけるシノドス関連のニュース、イベント、リソースの最新情報を入手するために、シノドス アジアの Web サイトにアクセスし、ソーシャル メディア チャネルをフォローするよう、すべての人に呼びかけている。

 関連のサイトのアドレスなどは以下の通り。

• Web サイト: https://synodalityasia.net/ • Instagram: https://www.instagram.com/synod.asia/ • YouTube: https://www.youtube.com/@SYNODASIA

• X: https://x.com/synodasia  • Facebook: https://www.facebook.com/synodasia

投稿用コンテンツの送信先: info@synodalityasia.net

 

2024年8月20日

・「全ての信者の参加を強めることができるか」に9割が「ノー」-シノドス事務局、総会の成果に否定的なオンライン世論調査結果を一日で削除

(2024.8.19 カトリック・あい)
 カトリック系のインターネット・メディアCNA がこのほど バチカン発で報じたところによると、バチカンのシノドス事務局が公式のX(旧ツイッター)で、10月に第2会期を予定する世界代表司教会議(シノドス)総会をどう評価するかについての調査を7月26に実施、即日、その結果を掲載してわずか1日、27日にその内容を消去した。 第2会期の協議に悪影響を及ぼすオンライン投票を迅速に削除したことで、オンライン評論家から批判を受けている。(Vatican office deletes online poll showing negative response to Synod on Synodality | Catholic News Agency)

 CNAによるとシノドス事務局がソーシャルメディアアカウントに7月26日に掲載したアンケートでは、「教会の回心と改革の道としてのシノドスは、すべての洗礼を受けた者の使命と参加を強めることができると思いますか?」という質問が出された。

 これに対して、約13万6000件の閲覧があり、約7000人が掲載開始から24時間以内に回答。その結果、回答者の88%が否定的な答えをした。

 「共に旅する」ことを意味する新しい神学概念である「シノドス」に対する低い支持率が示されたのは、複数年にわたる世界的な”シノドスの道”の歩みが終わりに近づき、その世界レベルの集まりの締めくくりとなるシノドス総会第2会期が10月にバチカンで開かれようとする直前のことだ。

 CNAによると、このアンケートに対するXとFacebookへの閲覧者からの回答、コメントは、掲載開始の翌日、27日にシノドス事務局の公式アカウントから削除された。だが、一部のインターネット・ユーザーは、シノドス事務局が削除する前に、投票結果を閲覧しており、ソーシャルメディアで、このことを知ったカトリック教徒は、シノドス事務局の不利な結果の削除を批判し、多くが「偽善的」と非難した。

 Xユーザーで、伝統と改革ローマ典礼の典礼を比較するプロジェクトに取り組んでいる英国のカトリック教徒であるマシュー・ヘイゼル(@MPHazell)は、投稿の削除を批判し、「ああ、@Synod_va の #synodality に関する投票が削除された!あまり #synodal らしくないですね…」と嘆く。

 また、カトリック信仰テクノロジーズの副社長ジョナサン・ルイスは、オンライン投票の結果について、「世界の教会と比べて、北米の信者たちの”シノドス主義”に対する抵抗の現実を改めて強調するものだ」と述べている。

 

2024年8月19日

・「教会での女性の役割を高めるために、一層の対話が必要」-シノドス総括のオロリッシュ枢機卿がCruxに語る

(2024.8.2 Crux  Senior Correspondent   Elise Ann Allen)

 「教会における女性の役割」は、教皇が提起した”シノドスの道”が2021年に始まり、国、地域、大陸、そして世界レベルのシノドス総会へと歩みを進める中で、最も議論され、論争を呼んだ問題の1つになっている。昨年10月のシノドス総会第1会期の会議でも、女性の問題とLGBTQ+への対応が最も熱心に議論された。

 今年10月2日から27日まで開かれる総会第2会期の会議で、”シノドスの道”は当面の歩みが一段落するが、シノドス事務局は7月9日に発表した第2会期に向けた準備要綱で、これらの問題をほとんど取り上げず、さらなる掘り下げを複数の作業グループに委ねた。グループの1つは、バチカンの教理省とシノドス事務局のメンバーで構成されており、女性の特定の聖職に関する神学上および教会法上の問題を研究する任務を負う。

 バチカンは、この作業グループのメンバー構成や、具体的な検討内容を明らかにしていないが、教皇フランシスコが最近の米CBSとのインタビューで「女性は司祭職、助祭職どちらの役職にも就くことはできない」と語ったにもかかわらず、女性の助祭と司祭叙階についての検討が行われると広く信じられている。

 オロリッシュ枢機卿はCruxとのインタビューで、「自分はシノド事務局のメンバーではないため、検討作業には参加していない」とし、女性の役割に関する作業グループについての詳細を明らかにしなかったが、「女性の役割に関しては、すべての大陸で状況は同じではないため、誠実な対話に取り組まなければなりません」と述べた。

 そして「西欧全体では、女性が聖職に就くことを求める声が強いが、世界の他の地域ではそうではない。助祭職にも違いがある。助祭職は聖職ではないし、聖職にも就くことはできない」としてうえで、「これは教会が簡単にできる変更ではないし、世界の一部だけでできる変更でもない。(無理に強行すれば)教会を分裂させてしまうでしょう」と説明。

 そのうえで、「女性と教会生活および統治への女性の関与という問題に関して前進する唯一の道は、非常に誠実な対話だ。おそらくそうした対話の中で、女性たちは『ああ、でも、はい、分かりました。(教会の活動に)全面的に参加したいし、意思決定にも参加したいのですが、そのために司祭になる必要はないかも知れません』と言うでしょう。それでも、他の人々は依然として女性の司祭叙任を望むかもしれません」ない、と述べた。

 この問題に関する見解が大きく異なることを考えると、「開かれた対話」がこの問題に取り組む唯一の方法であり、それは「自分の立場を相手に納得させるための対話ではなく、聖霊の導きを求め、教会が将来どのように前進できるかを問う対話」だと枢機卿は強調。「今日の教会における論争の二極化にもかかわらず、このような対話は可能であり、”シノドスの道”の歩みの中でそれが行われている。もちろん右派、左派などさまざまな立場の人々がいますが、『霊における対話』という方法論を通じて真の対話に取り組む人々もいます」と述べ、「(注:自分たちの主張を一方的に押し付けるような)”ロビー活動”は教会文化にはありませんし、そうあるべきではありません。私たちには祈り、議論、お互いに耳を傾けるなど、他の手段があります」と主張した。

・・・・・・・・・

 オロリッシュ枢機卿は現在、全欧州の祭壇奉仕者たちによる夏のローマ巡礼を主導した後もローマに滞在しているが、1日の記者会見で、同日までの巡礼中に女性の役割が話題になったか、との質問に、「女性の助祭と司祭の問題は取り上げられませんでしたが、自分が話をした若者の多くがこの問題を重視していることが分かりました。私にとって、皆の話を聞くことは重要です。司教として、枢機卿として、私は常に人々の話を聞いて意見を修正せねばならない。あらかじめ決まった答えを持ちたくはありません」とし、「常に耳を傾けること」の重要性を強調した。

 また、若い男女が共に祭壇奉仕者の務めを果たしているのは「まったく普通のことであり、そうあるべきです」と語り、「(祭壇奉仕者の子の巡礼に)若い女性がたくさんいたことをとても嬉しく思います。彼女たちはとても優秀で、自分自身を捧げる方法と教会を前進させる方法を知っています」と述べた。

 教皇フランシスコは、祭壇奉仕者を男子に限るという、数十年にわたり世界の多くの地域の教会で行われてきた慣習を改め、女子も祭壇奉仕者になることを明確に認めた。報道陣の取材に、巡礼に参加したミア・ロザーメルは、「個人的に祭壇奉仕で男女の違いはないと感じており、昔とは状況が変わりました」と語っている。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

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2024年8月3日

・シノドス総会・第2会期を前にーアフリカの教会は女性の助祭叙階の可能性を協議(CRUX)

Deacon Willard Witherspoon distributes Communion during Mass at St. Peter Claver Church in Baltimore in this 2016 file photo. (Credit: Bob Roller/CNS.)

(2024.7.31 Crux  Africa Correspondent   Ngala Killian Chimtom)

African Church reflects on the possibility of ordaining women as deacons カメルーン、ヤウンデ発 – 世界のカトリック教会が今年 10 月の世界代表司教会議(シノドス)総会・第2会期に向けて準備を進める中、アフリカの教会は、アフリカにおける女性の助祭叙階の可能性について検討している。

 アフリカ大陸のカトリック教会の指導者たちと一般信徒が7月26日にオンライン会議を開き、一夫多妻制、既婚男性や女性の助祭叙階など、特定の聖職の形と司牧に関する神学上および教会法上の問題のいくつかについて意見を交換した。

 会議では、国際神学委員会のアフリカ人女性の委員であり、シノドス総会の参加者でもるジョゼ・ンガルラ教授が、カトリック教会における女性の助祭叙階の是非に関する議論の口火を切った。

 彼女は教会文化に言及し、「原始教会には男性と女性の両方の常任助祭がいた」が、西洋の歴史的状況により、女性の助祭職は消えていた、と説明。

 第二バチカン公会議では「常任助祭を復活させるが、それは男性のみに限る」ことしたが、決議の過程で、一部の神学者や女性の権利を主張する人々たちは、教会の指導者たちに「原始教会に常任女性の助祭もいた」ことを注意を向けさせた。そして、教皇パウロ6世は、この問題で歴史的調査を求め、「原始教会の調査を行う委員会が設立され、原始教会には常任女性の助祭がいたことは事実であると結論づけられました。しかし、その結論は棚上げされてしまった」と語った。

 また既婚男性を助祭に叙階することの是非についての議論も行われ、 ナイジェリアのオグブエフィのトニー・ナチェッタ氏は、「既婚者を助祭職に任命することは、特に家父長制のナイジェリアでは”立ち入り禁止区域”です。ナイジェリアに最初のカトリック司祭は来たのは1885年頃。その後1世紀以上にわたるカトリック教会の特徴の1つは『独身男性が司祭になること』でした。ですから、既婚男性の助祭叙階について公けに議論し始めれば、”嵐”以上のものになるでしょう」と主張。 ナイジェリアは既婚男性の助祭を受け入れる準備ができていない、ましてや既婚男性の司祭など受け入れる準備ができていない」と述べた。

 だが、その一方、南アフリカのような国では、既婚男性の助祭がおり、ネイピア枢機卿は 「私には既婚の助祭になっている兄がいるので、非常に近い経験からお話できます。兄は今は引退していますが、彼は、司祭が司祭職でなければできない職務を行えるよう、結婚準備などの職務を代行していました」と説明した。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

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2024年8月2日

・シノドス総会第2会期討議要綱・日本語試訳全文

=「カトリック・あい」による日本語試訳=(7.24で「初めに」「基礎編」、「本編」、および「結びに」まで全文終了)

世界代表司教会議第16回通常総会「宣教するシノダル(共働的)な教会はどうあるべきか」の第2会期(2024年10月)のための「討議要綱」 2024.7.9

〈目次〉

【初めに】

・(シノドスの道の)3年の歩み

・シノドス総会第二会期への作業ツール

【基礎編】

・教会、神の民、一致の秘跡

・シノダリティ(共働性)の共有された意味

・多様性における調和としての一致

・キリストにおける姉妹と兄弟:新たにされた相互関係

・回心と刷新への呼びかけ

【本編】

第1部 – 関係

・キリストと聖霊において:キリスト教への入信

・神の民のために:カリスマと聖職

・聖職者と共に:調和の奉仕

・教会間および世界において:交わりの具体性

 

第2部 – 道筋

・シノダリティ(共働性)をどのように養成するか

・使命を果たすための教会の識別

・意思決定過程

第3部 – 場所

・共通の旅の領域

・唯一無二のカトリック教会における現地の教会

・教会の一致を形作る絆

・ローマ司教の一致への奉仕

【結びに 】 世界の中のシノダル(共働的)教会

・・・・・・・・・・・・・・・

〈本文〉

【初めに】

 「万軍の主はこの山で すべての民のために祝宴を催される。それは脂の乗った肉の祝宴 熟成したぶどう酒の祝宴。 髄の多い脂身とよく濾されて熟成したぶどう酒。 主はこの山で すべての民の顔を覆うベールとすべての国民にかぶせられている覆いを破り 死を永遠に呑み込んでくださる。 主なる神はすべての顔から涙を拭い その民の恥をすべての地から消し去ってくださる。確かに、主は語られた」(イザヤ書25章6~8節=日本語訳は「聖書協会・共同訳」より)

 預言者イザヤは、山頂で主が用意された、すべての人々のための歓待と交わりの象徴である「豪華で豪華な宴会」の場面を描いています。父のもとに戻られた時、主イエスは弟子たちに、「すべての人々に手を差し伸べ、彼らに命と喜びの充足を与える宴会を提供する」という任務を託されました。主は、聖霊に導かれた教会を通して、人類の心に希望を再び灯し、喜びを取り戻し、すべての人、特に顔が涙で汚れ、苦悩の中で主に叫ぶ人々を救いたいと願っています。彼らの叫びは、人間の営みの深みを歩むキリストの弟子全員の耳に届きます。シノドスの旅が新たな戦争の勃発を伴い、世界を血で染め続ける多くの戦争に加わったとき、彼らの叫びは増幅されます。

 2021年に始まった”シノドス(の道)”の中心にある「シノダル(共働的な)教会のために。交わり、参加、宣教」は、「主に従い、主の使命に奉仕する」という決意において、神の民の喜びと再生への呼びかけです。「宣教する弟子となるように」という呼びかけは、私たちの共通の洗礼のアイデンティティに基づいており、教会が存在する文脈の多様性に根ざしており、唯一の父、唯一の主、唯一の聖霊において一致を見出します。それは、例外なくすべての洗礼を受けた人への呼びかけです。

 「神の民全体が福音の告知の担い手です。洗礼を受けたすべての人は宣教の主人公となるよう召されています。なぜなら、私たちは皆、宣教する弟子だからです」(国際神学委員会「教会の活動と使命におけるシノダリティ」=ITC、第53項)。この再生は、御言葉と聖礼典を通して聖霊によって集められた教会(第二バチカン公会議「教会における司教の司牧任務に関する教令」=CD 11項参照)において表現され、意味に飢え、交わりと連帯を渇望する世界に、教会が絶えず経験する救いを告げ知らせます。主はこの世のために、その山で宴会を準備しておられます。

 私たちは今日、教会の本質を表すシノドス(共働性)を実践することで、この使命への決意を新たにします。宣教者の弟子として成長する、ということは、「イエスに従うように」という呼びかけに応じ、父と子と聖霊の名において洗礼を受けた時に受けた賜物に応えることを意味します。それは、共通の目的地である天の都に向かって歴史を旅する巡礼者として、互いに伴走することを学ぶことを意味します。

 神の言葉と聖体によって養われながらこの道を歩むことで、私たちは受け取るものへと変容します。したがって、私たちは、聖なる民としての私たちのアイデンティティには避けることのできない共同体的な側面があり、私たちの祖先と私たちの後に続く世代の信者を受け入れる共同体へと私たちを形作ることを理解しています。

 受け取られ、証言される救いは関係性に基づくものであり、誰も一人で救われることはありません。あるいはむしろ、アジア司教協議会連盟の言葉を借りれば、私たちは「シノダリティ(共働性)は単なる目標ではなく、信者全員が手を携えて成し遂げる旅です。だからこそ、その意味を完全に理解するには時間がかかるのです」という認識を徐々に深めている(CEバングラデシュ)。聖アウグスチヌスは、キリスト教生活を連帯の巡礼、つまり「神に向かって歩むのではなく、愛情をもって」(アウグスチヌスの講話306B、1)共に歩むこと、祈り、宣教、隣人愛の生活を分かち合うことである、と語っています。

 第2バチカン公会議は、「すべての人は、世の光であるキリストとの一致に招かれています。 私たちはキリストから出、キリストによって生き、キリストに向かって人生を歩んでいます」(「教会に関する教義憲章第3項)。シノドスの旅の中心にあるのは、教会の生きた伝統の中に保たれている主の約束と招きをすべての人に伝え、私たちの中にある復活した主の存在を認識し、聖霊の働きの多くの実りを歓迎するという、古くて常に新しい願いです。

 この教会のビジョン、つまり宣教のためにシノダル(共働的)回心を求める「世界のあらゆる場所の巡礼者」というビジョンは、私たちがこの道を喜びと希望をもって前進する上での指針となります。このビジョンは、傷と恥ずべき不平等がすべてのキリストの弟子の心に深く響く、危機にある世界の現実とは、際立った対照をなしています。このビジョンは、「暴力と不正のすべての犠牲者のために祈り、世界のあらゆる場所で正義と平和の職人である男女と共に働く」という決意を新たにするよう、私たちを促します。

 

 

*3年間の歩み

 

 2021年10月9日~10日にバチカンで 会議(「カトリック・あい」注*世界の司教協議会代表、バチカンの幹部、修道会代表、信徒団体代表、青年評議会代表などが出席して、”Synodal Path(シノドスの道)”の始まりに当たっての祈り、共同祈願などによる全体集会と言語別グループに分かれた会議)が開かれた後、世界中の現地教会は、さまざまなペースとさまざまな方法で、最初の「耳を傾ける」段階に着手しました。

 「教会に属する」ということは、特定の時代と場所に生きる人々とコミュニティで構成される、神の一つの民の一部になることを意味します。「耳を傾ける」ことは、これらのコミュニティから始まり、シノドス事務局が統合文書と準備要綱の発行によって促進した継続的な対話の一環として、教区、国、大陸の段階を経て進められました。シノドス道のプロセスの循環性は、さまざまな状況における教会の基礎を認識し、強化し、それらを結びつける絆に貢献します。

 第1段階の革新は、大陸レベルの会議の開催でした。これにより、同じ地域の現地教会が集まり、互いに耳を傾け、旅に同行し、それぞれの状況に存在する使命を果たすための主な課題を一緒に見極めることを学びました。

 第 16 回シノドス通常総会の第 1 会期 (2023 年 10 月) で、次の段階が開始されました。この段階では、聖霊が私たちに求めている歩みを「祈りと対話」で識別するために、この「耳を傾ける」ことによる成果を積極的に受け入れました。この段階はシノドス総会の第2会期 (2024 年 10 月) の終了まで続き、教皇は現地教会によるさらなる実施に備えてこれらの成果を生かされます。

 第 2 会期の準備は、必然的に第1会期の総括文書 で提示されたその結果に基づいて行われます。シノドスの道全体の歩みの特徴である循環性と一致し、第 2会期の作業に明確な視点を提供するために、「宣教におけるシノダル(共働的)な教会になるにはどうすればよいか」という問いに導かれて、現地教会とのさらなる協議が行われました。

 文書「2024年10月のシノドス総会第2会期に向けて」(「カトリック・あい」注:バチカンのグレック・シノドス事務局長とオロリッシュ・シノドス総会総括責任者が2023年12月に全世界の司教たちにあてて、来年10月に予定する世界代表司教会議(シノドス)第16回総会第二会期に向けた取り組みに関する書簡のこと)で説明されているように、(第2会期の会合での)協議の目的は「復活した主とその福音を今日世界に宣べ伝える」という唯一の使命において、洗礼を受けた人それぞれとそれぞれの教会の独自の貢献を高めるために、さまざまな状況や状況で私たちがたどることができる道と採用できるツールを特定すること」です。

 したがって、これは、「教会の構造をより効率的にするための、技術的または手続き的な改善計画に限定する」のではなく、シノダル(共働的)な教会がもつべき一致と多様性の間のダイナミズムを表現する、私たちが求められている宣教の取り組みの具体的な形について熟考すること」が狙いなのです。

 第 2 会期の会議のための討議要綱の起草は、大半の(各国、地域の)司教協議会とその大陸レベルの連合体、東方カトリック教会、司教協議会に属さない教区、ローマ教皇庁の部局、修道会の総長、その国際連盟から寄せられた問いに対する回答、世界中から寄せられた経験と優れた実践の証言、そして世界中の大学、信徒団体、共同体、個人など約 200 のグループの意見を踏まえて、なされました。この討議要綱は、世界中の神の民の活動に根ざしています。

 これらの声は、これまでの旅に感謝を表明し、時には困難を伴う旅であることを証言しましたが、何よりも、「前に進みたい」という願いを語りました。

 北米司教協議会は、「このシノドスの旅に対する感謝は深いものです。米国の教会の仲間として、“シノドスの道”を進むために多くのことがなされました。教皇フランシスコの『出会いの文化』という概念を念頭に置き、緊張は残っており、継続的な考察と対話が必要です。これらの緊張が教会の愛の交わりを乱す必要はありません」(EC USA)と述べています。彼らはまた、(注:シノドスの道の歩みには)まだ長い道のりがあることを私たちに思い起させます。

 以前の段階と同様に、「聖霊による対話」の方法を採用することの利点が再び確認されました。たとえば、ある司教協議会連盟の言葉に注目してください―「アジア各地からの報告の多くは、聖霊による対話をシノドスの旅の出発点とする方法論に多大な熱意を示しています。多くの教区や会議が、この方法を既存の組織に導入し、大きな成功を収めています」。

 この熱意は、よりシノダル(共働的)な進め方を実験するための措置としてすでに取られています。

 ある欧州の司教協議会では、「(このことを踏まえて) 5 年間のシノドス試験段階を実施することを決定しました。世界代表司教会議(シノドス)の協議、対話、識別、意思決定、意思決定の形式は、国レベルで開発、評価、改良され、教区の経験と普遍教会におけるシノダリティ(共働性)の発展が考慮されることになります。私たちは、困難ではあるが重要な学習の旅の始まりにいます」と述べています。また、現地教会とその旅の価値、彼らが担う豊かさ、そして彼らの声を聞く必要性に対する深い認識が示されています。

 アフリカの司教協議会から出されたある報告によると、「現地教会は、もはや、『何も、あるいは、ほとんど貢献しない福音の受け手』として見られたり扱われたりしてはならない」としています。

 これらの報告に加えて、教区司祭の意見を聞く国際会議「シノドスのための教区司祭」(2024年4月28日~5月2日開催)の成果も加わりました。作業部会のまとめでは、何よりも「お互いに真に耳を傾ける機会を得られたことへの喜び。お互いのユニークな背景に対する深い理解と感謝の気持ちを育む、充実した経験ができた」と報告されています。

 また、「教会のさまざまな伝統を認めるシノダリティ(共働性)の文脈における教区司祭の役割を理解する必要性」と、「周縁部や社会の片隅で暮らす人々に届くことができないことへの懸念」も表明され、「教会がシノダリティを持ちたいなら、これらの人々の声に耳を傾けなければなりません」と述べられています。

 この討議要綱は、シノドス事務局が設置した5つの作業部会が作成した資料も参考にしています。これらの作業部会は、世界各地の専門家、女性、男性、そしてさまざまな教会の役割を担う人々で構成され、シノドス方式を用いて、シノダリティの意味とそれが教会生活に与える影響について、神学的および教会法的な考察を深めました。

 あらゆる大陸から集まり、教会のさまざまな役割を担う司教、司祭、聖職者、信徒、神学者、教会法学者、聖書学者で構成される専門家グループが、受け取った寄稿や資料を読み、解釈し、指導的質問に対する回答をまとめる任務を負った。彼らの仕事は、この討議要綱の起草に貢献しました。彼らの考察、および前述の5つの作業グループの考察は、この討議要綱に付随するさらなる資料にも反映され、その内容の一部に神学的基礎を提供しました。

 第2会期の準備作業と並行して、10の研究グループの作業も開始されました。彼らは、国際協議の最後に教皇が特定され10のテーマを掘り下げる任務を負っていました。これらの研究グループは、すべての大陸の司牧者と専門家で構成され、シノドス方式を採用しており、「さまざまなテーマを担当するローマ教皇庁の各部局と、調整を委ねられたシノドス事務局との間の合意によって構成される」と、2024年2月16日にフランシスコ教皇が署名した文書に記されており、使徒憲章「福音を宣べ伝えよ」(第33条)の精神に則っています。

 研究グループは、可能であれば2025年6月までに詳細な調査を完了することとし、(その前の)2024年10月のシノドス総会の第2会期の会合に中間報告書を提出する予定です。

 第2会期の終了に先立ち、フランシスコ教皇はすでに第1回会期の要請の一部を受け入れ、使徒憲章『エピスコパリス・コムニオ(司教の一致、の意)」』で想定されている形で実施作業を開始しています。「シノドス事務局は、ローマ教皇庁の管轄部門、およびテーマや状況に応じてさまざまな方法で関心を持つその他の部門と協力して、ローマ教皇によって承認されたシノドスの勧告の実施を推進します。」(第20条、第1項)。

 バチカンの法制省との合意をもとに、シノドスに奉仕する教会法委員会が設立されました。最後に、第 1会期の会議の要請 (総括文書 16q 参照) に従い、2024 年 4 月 25 日、アフリカおよびマダガスカル司教協議会は、「アフリカの教会にとっての一夫多妻制の神学的および牧会的影響を見極めるための特別委員会」の設置を発表しました。

*第2会期の作業ツール

 

 私たちの旅は、沈黙、祈り、神の言葉に耳を傾けること、対話、そして楽しい出会いによって特徴づけられてきました。困難がなかったわけではありません。しかし、この旅を通じて、神の民として、私たちはキリストの兄弟姉妹としてお互いの関係を、そして、「言葉と生活で神の王国の素晴らしさを全世界に宣言する、救われた人々の共同体になる」という共通の責任を、より深く認識するようになりました。

 これは抽象的なものではなく、名前と顔が刻まれた生きた経験です。第2会期の準備と活動の中で、私たちは次の問いに取り組み続けます―「宣教におけるシノドスの神の民のアイデンティティは、教会の日常活動で、どのように具体的な形をとることができるのか」。

 この討議要綱は、第1会期のために準備された前の討議要綱で述べられたこととも一致しています―「これは教会の教導権の文書でも、社会学的調査の報告書でもありません。実践的な指示、目標、目的の定式化、神学的ビジョンの完全な詳細を提供するものではありません」(10項、2022年10月のシノドス事務局文書第8項参照)。

 討議要綱を理解するには、シノドス全体のプロセスの中にこれを位置付けることが欠かせません。要綱は、シノドス事務局の活動に支えられた教会間の対話の循環によって形作られています。

 昨年10月の今シノドス総会の第1会期では、「シノダル(共働的)な教会の特徴的な兆候と、そこに宿る交わり、使命、参加の原動力」(第1会期総括文書=SR序文)を求めて、地域および大陸の協議の成果が集められました。第一会期の会議は、祈りと対話と識別を通じて、意見の一致点、検討を要する事項、提案をまとめ、総括文書にまとめました。そこで浮かび上がったものは、「シノダル(共働的)な教会は、自らをどのように表現するか」という問いに対する最初の答えとして理解できます。

 第2会期の会議は、これらのステップを振り返るのではなく、さらに先へ進むよう求められており、「宣教においてシノダルな教会となるには、どうすればよいか」という問いに焦点を当てます。

 これまでの旅で浮かび上がったその他の問いは、現地教会レベルや 10 の研究グループで、他の方法で継続される作業の主題となっています。第1会期と第2会期の2つのセッションは、切り離すことも、対立することもできません。二つは連続しており、何よりも、使徒憲章「エピスコパリス・コムニオ」が述べているように、2024 年 10 月末に終わることのない、より広範なプロセスの一部なのです。

 この討議要綱は、シノダリティ(共働性)の基礎的理解に始まり、“成熟”し、第1会期の会議で承認されたシノダリティの認識を提示した後、密接に絡み合った3つのセクションで、シノダル(共働的)宣教生活を明らかにし、教会をさまざまな観点から考察しています。

 一つ目は、主との関係、兄弟姉妹との関係、教会間の関係という観点から。これらの関係は、教会の活力を、単なる構造的なものよりも深い方法で支えています。

 二つ目は、教会関係のダイナミズムを支える道筋の観点から。

 そして、三つ目は、具体化された関係の具体的な文脈である場所の観点から。これらの関係は、多様性、多元性、相互関係を特徴とし、抽象的な普遍主義への人間の誘惑に抵抗する信仰告白の基盤に根ざしています。

 これらのセクションのそれぞれが、第2 会期の作業を構成するモジュールで、祈り、交わり、識別の対象となります。参加者たちは、共に歩むよう求められている道において、「自分の貢献を、絶対的または確実なものとしてではなく、他者への贈り物として提供」するよう求められます (SR序文)。これを基に、プロセス全体に関する最終文書が起草され、教皇に講じられるべき措置に関する提案が提示されます。

 私たちは、シノダリティに関する共通の理解がさらに深まり、シノダルな教会の実践にさらに焦点が当てられ、教会法の一部変更が提案されることを期待することができます(基本提案がさらに吸収され、実践されるにつれて、さらに重要で深遠な展開があるかもしれません)。とは言え、すべての問いに対する答えを期待できるわけではありません。

 第2 会期の会議での、教会全体に求める回心と改革の道の途中で、他の提案も出てくるでしょう。これまでの”シノドスの道“の成果の中には、対話と識別を通じて、問題に共に取り組む方法を経験し、学んだことが含まれます。私たちはまだ宣教的なシノダルな教会になる方法を学んでいる最中ですが、それは私たちが喜びをもって取り組むことのできる仕事だということを学んでいます。

 

 

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【基礎編】

 

    討議要綱のこの部分では、宣教するシノダル(共働的)な教会のビジョンの基礎を概説し、教会の神秘に対する理解を深めていただこうと思います。教会論に関する論文ではなく、10 月のシノドス総会第2会期で行われる特定の識別作業に役立つようにすることが目的です。

  「宣教においてシノダルな教会となるにはどうすればよいか」という問いに答えるには、司牧的および神学的な考察と提案を地平線に置く必要であり、そうすることで、回心と改革の道に私たちを導くのに役立ちます。

     次に、教会によって実施される具体的な措置により、地平線がより鮮明になり、教会の歴史全体を特徴付ける神学的な考察と牧会的実践の間の生成的な相互関係において得られる基礎に対するより深い理解が可能になります。

   すべての国の民の光であるキリストにおいて、私たちは神の一つの民であり、神との一致と全人類の統一のしるしと道具となるよう召されています。私たちは、歴史を共に歩み、三位一体の命に与る交わりを生き、共通の使命の観点からすべての人の参加を促進することによって、これを行います。このビジョンは、教会の生きた伝統に深く根ざしています。

   シノドスの(道の)歩みは、このビジョンの新たな認識が成熟することを可能にしました。この刷新は、2021年以来の(シノドスの道の)旅の間に現われ、シノドス総会の第1会期(202310月)でまとめられた総括文書に表れています。その総括文書は、第2会期で終える「識別」を支援するために、教会全体に提示しました。

 

 

*教会、神の民、一致の秘跡

 

1.父、子、聖霊の名による洗礼は、神の民の神秘的で躍動的で共同体的なアイデンティティを生み出します。それは、主イエスが私たちに先立っておられる人生の豊かさと、すべての男女が自由のうちに救いの賜物を受け入れるよう招く使命へと、私たちを導きます(マタイ福音書2818-19 参照)。洗礼において、イエスは私たちをご自身で覆い、ご自身のアイデンティティと使命を私たちと共有してくださいます(ガラテヤの信徒への手紙327 節参照)。

 

 

2.神は「人々を個別に、全く相互に関わりなしに聖化し、救うのではなく、真理に基づいて神を認め、忠実に神に仕える一つの民として確立すること」を望まれ(第二バチカン公会議「教会の関する教義憲章(LG9項)、三位一体の交わりに加えられます。

神は、神の民の中で、民を通して、キリストにおいて私たちに与えてくださる救いを実現し、明らかになさいます。シノドス(の道)は、イエス・キリストの足跡をたどり、聖霊に動かされて父のもとへの巡礼をする「聖性と使命への普遍的な召命を持つ神の民」という躍動的なビジョンに根ざしています。このシノダル(共働的)、宣教的な神の民は、その生活と歩みのさまざまな状況において、救いの福音を宣べ伝え、証しします。(さまざまな)文化と宗教によって形作られた地球上のすべての人々と共に歩み、対話し、寄り添います。

 

 

3.シノドスの道の歩みは、さまざまな状況と文化の中で神の国への旅を歩む「あらゆる部族、言語、民族、国民から教会が集まった」(202310月シノドス総会第一会期総括文書=SR5) 神の民であることの意味について、私たちの中に深い認識を育んできました。

神の民は、成就への道程で救済の歴史の段階を経る共同体の主体です。神の民は決して、単に洗礼を受けた人々の総体ではありません。教会の「私たち」であり、シノダリティ(共働性)と福音宣教の共同体的かつ歴史的な主体であり、すべての人が神によって用意された救済を受けられるようにするものです。

信仰と洗礼を通してこの民に組み入れられた私たちは、「旅する神の民にとって確かな希望と慰めのしるし」(第二バチカン公会議「教会に関する教義憲章」=LG 68) である聖母マリア、使徒たち、命を捧げるほどに信仰を証しした人々、そして私たちの前を進んだ聖人たちに付き添われています。

 

 

4.「諸民族の光はキリストであり」(LG 1項)、この光は教会の顔を照らします。教会は「キリストにおけるいわば秘跡、すなわち神と親密な交わりと全人類一致のしるし、道具」(同)であり、教会は月のように、反射光で輝きます。

 したがって、教会は自らの使命を自己参照的に理解することはできませんが、全人類の一致に奉仕する絆、関係、交わりの秘跡であることの責任を負います。参加の危機、共通の運命を持っている、という感覚の欠如、幸福と救済に対する、あまりにも個人主義的な概念が支配する現代に、私たちはこの責任を負っています。この使命を生きることで、教会は救いにおいて全人類を神自身に一致させるという神の計画を伝えます。

 そうすることで、教会は自分自身を宣べ伝えるのではなく、「主なるキリスト・イエス」を宣べ伝えるのです(「コリントの信徒への手紙」2・45節)。もしそうでなかったら、教会はキリストにおける「秘跡」としての(LG 1 参照)存在を失い、教会自身のアイデンティティと存在意義も失うでしょう。キリストにおける完全な一致への道(同)において、教会は、世界における神の国の秘跡なのです。

(以上、「初めに」から「本文」4項まで、「カトリック・あい」南條俊二試訳。聖書の日本語訳は「聖書協会・共同訳」を、第二バチカン公会議の諸文書については、カトリック中央協議会による改定公式訳を使用)

 

 

「シノダリティ(共働性)」の意味

5.シノダリティ(共働性)やシノダル(共働的)という言葉は、古代の教会で定期的になされていた「シノドス」という集会(会議)に由来するもので、とりわけ近年の(”シノドスの道”の)体験のお陰で、以前より理解され、また生きたものとされるようになりました。それらは「神の家庭、家族としての教会」、官僚的ではなく、「人々の生活に近い教会」(2023年10月のシノドス総会第1会議の総括文書=SR・1b)”と結び付けられるようになりました。

 昨年10月の世界代表司教会議(シノドス)第16回通常総会の第1会期の会議では“シノダリティ”の意味を理解することに集中しましたが、それはこの討議要綱の基礎となっている理解でもあります。現在進行中の研究グループの検討では、教会の構成的側面であるシノダリティについてのカトリック教会の見方を、それぞれの違いと特徴を他のキリスト教会の伝統と対話しつつ、さらに深く見極めようとしています。

 最も広い意味において、「シノダリティ」とは、「キリストと交わりながら御国に向かって人類全体と一緒に歩いていくキリスト者のこと」と理解できます。そしてその方向は派遣に向けられており、その実践は教会生活のそれぞれの次元で集会に集まることを含んでいます。互いに耳を傾け合い、対話し、共同体で識別し、聖霊においてキリストを現存させる表現としての合意を創り、それぞれの人が
各人の責任に一致した意思決定をすることを含みます(SR・1h)。

6.ですから、「シノダリティ」は、「教会の生活と派遣をもたらす特別な様式”(国際神学委員会報告「教会の活動と宣教の使命におけるシノダリティ」=ITC,n.70a)、教会の第一の行為としての、聴くことから始まる様式です。良きおとずれ(ローマの信徒への手紙10章17節)の宣言を聴くことから始まる信仰は、「聴くこと」から生まれます。すなわち、神の言葉を聴き、聖霊に聴き、互いに聴き、教会の伝統と教導職に聴くことです。

 ”シノドスの道”の歩みの諸段階で、教会は再度、聖書の教えを体験します。すなわち、「人は聴いたことを宣言することができるだけだ」と。

7.「シノダリティ」は、「教会の通常の生き方と働き方のなかに表れているべきです。この生き方と働き方の様式は、御言葉を聴き感謝の祭儀を祝う共同体の中で働き、また様々な奉仕職と役割にそれぞれの違いはあるとしてもすべての次元で、兄弟姉妹の一致や生活と派遣におけるすべての神の民の共同責任と参加に見られるべきものです」(ibid.)。 そしてこの「シノダリティ」という言葉は、教会のシノダルな性格がその制度の次元で表現されている教会の諸構造と諸過程を示しており、その結果、相応しい権威によって教会が招集される特別の出来事を差しています(cf.ibid)。

 教会について述べるとき、「シノダリティ」の観念は、交わりの観念の代替物ではありません。事実、第二バチカン公会議によって示された神の民の教会論では、交わりの観念は教会の神秘と派遣の深い実質を表現しており、その教会は感謝の祭儀の祝いに源泉と頂点を持っています。すなわち三一の神との交わりにおいて、また聖霊を通してキリストにおいて実現する人々の人格間の一致において見られるものです。

 同じ文脈の中で、「シノダリティ」は、教会、すなわち神の民の生き方と働き方の特別な様式であり、その構成員が共に旅をし、会合に集まり、福音化の派遣に能動的に参加する、とき、交わりとしての教会の存在を内実のあるものとします(ITC,n.6)。

8.「シノダリティ」は、キリストが司牧者に委ねている個々の権威と特別な任務の価値を下げるものでは、決してありません。司教と司祭、その協働者、そしてローマ教皇は「司教たちの一致と信者の群れの一致との恒久的かつ目に見える根源」(「教会に関する教義憲章」=LG23項)なのです。「シノダリティ」は「位階的奉仕職自体を理解するための最も適切な解釈の枠組み」(教皇フランシスコの世界代表司教会議(シノドス)創設50周年記念講演=2015年10月17日)を与えるものであり、権威を行使する者を含めて、教会全体を真の回心と改革へと招いています。

9.「シノダリティ」はそれ自体が目的ではありません。教会の本質を表すことができる限りにおいて、また教会においてあらゆるカリスマと召命と奉仕職が尊重されるよう促す限りにおいて、「シノダリティ」は、「信仰においてイエスを見る」(LG9項参照)人々の共同体が、あらゆる場所、あらゆる時の男女に、最も適切な方法で福音を宣言できるようにし、神の望む救いの一致の「見える秘蹟”(ibid.)になることを可能にするのです。

 このように、「シノダリティ」と派遣は密接につながっています。もし(今年10月の)シノドス総会第2会期がシノダルな生活のある側面に焦点を当てるとするなら、派遣においてより大きな効果があることを見越して、そうするのです。

 同時に「シノダリティ」は、全キリスト者の見える一致に向けてのエキュメニカルな旅を続けるための条件です。教会の取り組みにおけるエキュメニカルな旅の果実を受容することが、研究グループ10の表題かつ主題です。

 

多様性における調和としての一致

10.教会の交わりのダイナミズムとシノダルな生活は、感謝の祭儀の典礼にその模範と成就を見ます。その中で、信者の交わりは同時に諸教会の交わりであり、それは司教たちの交わりに表されています。「教会は司教のうちにあり、司教は教会のうちにある」(キプリアヌスの書簡66章8項)という極めて古い原理のゆえです。交わりの奉仕のために、主は、使徒ペトロ(マタイ福音書16章18節参照)とその後継者を置きました。ペトロ的役務によって、ローマ司教は、全信者の交わり、全教会の交わり、そして全司教の交わりに表される教会一致の「恒久的かつ目に見える根源」(LG23項)です。このように聖霊は、教会に働き、調和である聖霊は、人において働く(聖バジリウスの言葉、詩編29章1節参照)のです。

11.現在の”シノドスの道”の歩みを通して、教会一致の願いは、教会の多様性と手を携えながら、成長してきました。教会間で共有している認識は、次のようなことです。

 土地の状況や背景を欠いた派遣はないこと、すなわち福音の贈り物は、個別の時と場所に生きている人々や共同体に、自分たちだけに閉じこもらず、承認され、尊重され、広い地平に開かれなければならない物語の担い手に、与えられるということです。この道の途上でいただく最大の贈り物は「教会の多様性に満ちた顔」(ヨハネ・パウロ二世教皇の2001年1月の使徒的書簡『新千年期の初めに』40項でした。シノダルな刷新は、神の民、「聖霊によって与えられる義と平和の喜び」である神の国(ローマの信徒への手紙14章17節)の一部になるように、との神の普遍的な呼びかけが現存し、実現する場所として、土地の状況や背景を正しく理解しようと努めます。

 そうして、様々な異なった文化は、その活気に満ちた多様性の根底にあり、かつそれを完成する一致を捉えることができるのです。土地の状況や背景、文化、多様性を正しく評価することは、派遣的でシノダルな教会に成長していく鍵です。

12.同様に、聖霊が神の民の中に絶えず呼び起こしているカリスマと召命の豊かさが育っていることに気付きます。このことから、それらを見分ける力を育て、個々の教会の具体的な活動の中で、全体としての教会との諸関係を理解し、それらを派遣の益のために関連づけよう、との願いが生じています。さらにこのことは、交わりと派遣に関係する参加の問題を、もっと深く熟考することを意味します。

 ”シノドスの道”の歩みの全ての段階で、カリスマと召命と奉仕職の多様な中で男性も女性も、すべての受洗者が、参加と共同責任の行使を受け持つ可能性を広げよう、という希望が出てきました。この希望は3つの方向を差しています。

 第一に、信仰の宣言と伝達は、現代の状況に適した方法と手段で刷新される必要があること。第二に、典礼と秘跡の刷新。美しく尊く、近づきやすく、十分に参加でき、文化に受肉し、派遣に向かう意志を養うことができる典礼的な祝いから始めること。そして第三に、神の民の中の多くの人が典礼と秘跡に参加していないことを認め、それを変容させることです。

 男性と女性の関係、世代間の関係、異なった文化や社会的状況の人々やグループ間の関係、特に貧しく、排除されている人々との関係。これらの関係をより良く生きようとしている、(”シノドスの道”の)教会刷新と教会の努力の旅においてです。この相互性や参加と交わりの不足が、派遣に向かうシノダルな教会の刷新の障害として残っています。

(以上5項から12項まで「南の司祭」試訳、聖書の日本語訳は「聖書協会・共同訳」を、第二バチカン公会議の諸文書については、カトリック中央協議会による改定公式訳を使用)

 

 

キリストにおける姉妹と兄弟:新たにされた相互関係

13. 私たちが人間として直面する最初の違いは、男女間にあります。キリスト者としての私たちの召命は、この神から与えられた違いを敬い、世界のためのしるしとして、教会の中でダイナミックな関係的互恵性を生きることです。シノドスの観点からこのビジョンを考察する中で、あらゆる段階で寄せられた報告は、教会生活のすべての領域におけるこの相互関係をよりよく敬うために、女性のカリスマ、召命、役割をより十分に認識する必要性を強調しました。

 シノドスの観点は、その識別のための指針として三つの神学的参照点を強調しています。

(イ)参与とは、洗礼の教会論的意味合いに根ざしたものです。

(ロ)私たちは、洗礼を授かった者の共同体であり、才能を埋もれさせるのではなく、共同体と世の益のために、聖霊が各人に注がれる賜物を識別し、呼び起こすように召されています。

(ハ)各人それぞれの多様な召命と賜物を尊重し、認めながら、聖霊が信徒たちに授ける賜物は互いに補完し合うように秩序づけられており、洗礼を授かったすべての者の協力は、共同責任の行為として実践されるべきです。

 私たちの考察を導いているのは、聖書の証です―神は女性を御復活の最初の証人及び伝令者としてお選びになりました。洗礼によって、彼女たちは完全な平等を享受し、同じように聖霊から賜物の注ぎを受け、キリストの使命の奉仕に召されているのです。

14.この意味で、最初にすべき変化は、意識に関するものです。すなわち、共通の使命を志向するキリストにおける姉妹兄弟である女性と男性の間の関係性、相互依存、互恵性のビジョンへの転換です。教会の交わり、参与、使命は、相互関係と構造を変革せずによる結果に苦しむことになります。

 ラテンアメリカ司教協議会のある報告で指摘しているように、「すべての信者が共同責任を感じられる教会は、魅力的で信頼できる場所」でもあります。

15. いくつもの司教協議会からの報告では、女性が教会生活の多くの分野に参与できることを認めています。しかし、これらの参与の可能性は、しばしば未開拓のままであることも指摘されています。だからこそ、彼らは、10月のシノドス総会第2会期が、小教区、教区、及びその他の教会内の実態の中で、責任ある立場を含むこれらの可能性を十分に活用し、さらに発展させようとする意識を促し、また、奨励することを提案しています。また、私たちの時代の司牧的ニーズに応え、聖霊が女性に注がれるカリスマと賜物をよりよく表現する聖職的と司牧的様式のさらなる探求も求めています。

 ラテンアメリカ司教協議会が言うように、「私たちの文化では、マチスモ(男性優位主義)の存在が依然として強く、あらゆる教会の領域において女性の積極的な参与が必要です。教皇フランシスコが述べておられるように、「彼女たちの視点は、意思決定の過程において、また、司牧と宣教の様々な形態における役割の引き受けにおいて不可欠」なのです。

16.いくつもの司教協議会から、第2会期で検討すべき具体的な要請が上がってきています。それには次のようなものが含まれます。

(イ)教会全体の利益のために、女性が自らの経験、カリスマ、技能、霊的・神学的・司牧的洞察を共有できるように、教会内で対話の領域を促進すること。

(ロ)教会の識別及び意思決定の過程のすべての段階 (起草及び意思決定) への、女性のより広範な参与。

(ハ)既存の規定に沿って、教区及び教会機関における責任ある職位のより広範な開放。

(ニ)奉献されている女性の生活及びカリスマ並びに、責任ある職位における彼女たちの起用に対する一層の認識と支援の強化。

(ホ)神学校や教育機関及び神学部における責任ある職位の女性への開放。

(へ)あらゆる教会法的過程における女性裁判官の数の増加。

 シノドス事務局に出された報告書はまた、説教、教育、カテケーシス(教理教育)、及び教会の公式文書の起草において、より包括的な言葉の使用と、聖書と伝統からの様々なイメージにより大きな注意を払うよう引き続き求めています。

17.現地教会の中には、助祭職に女性を認めるよう求めるところもあれば、反対を繰り返しているところもあります。第2会期の作業の主題ではないこの問題については、適切な時期に適切な方法で、神学的な考察を継続することが望ましい。過去にこの問題を扱った二つの委員会の結果を考慮に入れて検討中の第5研究グループの成果は、この問題の成熟に貢献することになるでしょう。

18.  上に述べた要求の多くは、教会生活への参与の欠如がしばしば嘆かれる信徒たちにも当てはまります。一般的に、女性の役割に関する考察は、男女信徒  によって行使されるすべての奉仕活動を強化したい、という願いが強調されることが多くなります。また、十分な訓練を受けた男女の信徒が、ミサ聖祭の際を含め、神の御言葉の説教に貢献することを求める声もあります

 

回心と刷新への呼びかけ

19. イエスは回心への呼びかけをもって公の宣教活動を始められました(「マルコ福音書」1章15節参照)。この呼びかけは、個人と共同体の生き方を再考し、聖霊によって自分自身を変容させるようにという招きを表しています。いかなる改革も構造的なものだけに留まることはできず、「キリストの心」(「フィリピの信徒への手紙」2章5節)に従った内面の変革に根ざしたものでなければなりません。

 シノダルな教会にとって、最初の回心は傾聴することであり、その再発見はこれまでの旅の最大の成果の一つです。これは、第一に、シノドスの真の主役である聖霊に耳を傾けること、そして宣教のための基本的な性質として互いに耳を傾けることです。

20.  教会のシノダル(共働的)様式は、人類に多くの重要な洞察を提供します。不平等の拡大、伝統的な統制仕組みに対する幻滅の高まり、民主主義に対する不満、人間の相互作用における市場モデル(*金融用語:収益・利益分析)的な支配力、そして対話ではなく力によって紛争を解決しようとする誘惑が顕著な現代において、シノダリティは私たちの社会の未来に激励を与えることができます。その魅力は、それが経営戦略ではなく、感謝の精神をもって生き、祝うべき実践であるという事実に由来します。

 シノダルな人間関係の生き方は、明確な共同体の中で歓迎され、認められたい、という人間の深いニーズに応える社会的な証しです。シノダルな実践は、教会でさえもしばしば同化した、人々の孤立や文化的個人主義の高まりに異議を唱え、私たちに共通善のための相互配慮、相互依存、共同責任を呼びかけています。同様に、それはまた、人々を息苦しくさせ、人々が自らの発展の自由な主体となることを許さない、誇張された”社会的共同体主義”への挑戦でもあります。

 すべての人、とりわけ貧しい人々の声に耳を傾ける意欲は、シノダルな生き方が促進する意欲であり、権力の集中が最貧困層や社会から疎外された人々、少数派の声を閉ざす世界とは対照的です。シノダルの過程の具体性は、教会自身がこの次元でどれほど成長する必要があるか、を示しています。研究室グループ2もこの問題に取り組んでいます。

21. ”シノドスの道”の歩みのあらゆる段階で、教会と社会における癒し、和解、信頼回復の必要性が強く主張されました。この癒しと回復の道を歩むことは、私たちの世界における神の民の宣教の使命的献身であり、私たちが天から呼び起こさなければならない賜物です。この道をさらに歩むという願いは、シノダルの刷新の実りです。

 

(以上、13項から21項まで、ガブリエル・タン氏の試訳)

 

 

【本編】

 

第1部 – 関係

 ”シノドスの道“全体を通じて、世界中のあらゆる地域から、「官僚主義に重点を置かず、主との関係、男女の関係、家族、コミュニティ、社会集団間の関係を育む能力のある教会」を求める声が、上がりました。

 多様な所有物を織り合わせた関係の網だけが、個人やコミュニティを支え、彼らに基準点と方向性を与え、福音に従った人生の美しさを示すことができます。信仰は、キリストとの関係、他者との関係、コミュニティとの関係の中で伝えられます。

 シノダリティ(共働性)は使命への奉仕として存在するため、組織的な手段と考えるのではなく、イエスの弟子たちが連帯して関係を織り成す方法として生き、育むべきものであり、彼らに絶えず届き、彼らが生きる具体的な状況の中で証言するよう求められている「神の愛」に対応できるものです。

 宣教においてシノダル(共働的)教会となる方法を理解するには、関係の転換を経る必要があります。関係の転換は、特に一致のために関係を活性化する任務を負っている人々の優先順位と行動を、すべての人を解放し豊かにする贈り物の交換という具体的な形で方向づけます。

 

 

キリストと聖霊において: キリスト教の入信

 

22.「地上を旅する教会は、父である神の計画に従った、御子の派遣と聖霊の派遣とに由来するのであるから、その本性上、宣教的である」(第二バチカン公会議「教会の宣教活動に関する教令」2項)。イエスとの出会い、イエスの人格への信仰の固守、キリスト教入信の秘跡の執行は、私たちを三位一体の生命そのものへと導きます。聖霊の賜物を通して、主イエスは、洗礼を受ける人々が父との関係に参加できるようにします。

 イエスを満たし、イエスを導き(ルカ福音書4章1節参照)、イエスに油を注ぎ、福音を宣べ伝えるためにイエスを遣わし(同4章18節)、イエスを死からよみがえらせた(ローマの信徒への手紙8章11節)聖霊は、今、神の民一人ひとりに油を注いでいるのと同じ聖霊です。聖霊は、私たちを神の子、神の相続人とし、聖霊を通して、私たちは神に「アバ!父よ!」と呼びかけます。

 

23. 宣教におけるシノダル(共働的)教会の本質を理解するには、この三位一体の基盤、特に「人類の歴史と教会におけるキリストの働きと聖霊の働きの切っても切れないつながり」を理解することが不可欠です。「信じる者のうちに住み、教会全体を満たし、支配する聖霊こそが、信者のすばらしい交わりをもたらすのです。

 聖霊は、信者すべてをキリストとの親密な一致に導きます。そのため、聖霊は教会の一致の原理なのです。(第二バチカン公会議「エキュメニズムに関する教令」2項参照)。だからこそ、成人のキリスト教入信の過程は、教会のシノドス生活を理解するための特別な文脈なのです。それは、教会の起源と基礎、すなわち三位一体の神の位格を結び付け、区別する関係を強調します。

 洗礼の賜物によって、聖霊は私たちを、司祭、預言者、王であるキリストに一致させ、その体である教会の一員とし、唯一の父の子としてくださいます。こうして、私たちは、唯一の教会に私たちを結び付けるものに対する宣教と共同責任への召命を受けるのです。

 これらの賜物には、個人的、共同体的、宣教的という三重の不可分な方向性があります。それらは、洗礼を受けた男女すべてに、姉妹兄弟としてそれぞれの教会共同体の中で、心のこもった関係を築き、同じ洗礼を受けたすべての人々とさらに目に見える深い交わりを求め、福音を告げ知らせ、証しするよう力づけ、委ねます。

 

24. 聖職のシノダリティ(共働性)は、一方ではキリスト教の入信儀式に根ざしていますが、他方では、神の民が入信の儀式の旅をどのように生き、それを真の意味で自分たちのものにするかを明らかにしなければなりません。このためには、キリストに従うことや聖霊の生活と十分に結びついていない、静的で個人主義的な入信の儀式のビジョンを克服し、ダイナミックで変革的な価値を取り戻すことが含まれます。

 初期教会では、キリスト教徒たちは、創世記の「(第六日目に)神は言われた。『我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう』(創世記 1章26節)という言葉を読み、関係のダイナミズムが創造の人類学に刻み込まれていることを理解しました。受肉した御子のかたちに、そして似姿のかたちに、順応の漸進的な可能性、キリストと共にありキリストに似た者となることを選ぶ自由、という価値ある“胸躍る体験”の現れを見ました。

 この“胸躍る体験”は神の言葉を聞くことから始まり、それを通して洗礼を受ける者は徐々にキリスト・イエスに従うようになります。洗礼は似姿のダイナミズムに奉仕するものであり、そのため、洗礼は儀式の瞬間に終わる時間的な行為ではなく、回心、宣教への奉仕、共同体生活への参加への献身を通して確認され、養われ、有効に活用されなければならない賜物です。キリスト教への“入信”は毎週の主日ミサの聖体拝領で最高潮に達します。それは私たちをキリストに一致させ、キリストの体の一員にする絶え間ない恵みの賜物のしるしであり、回心と宣教の道で私たちを支える糧です。

25.この意味で、聖体拝領の儀式は教会の宣教的、シノダル(共働的)な働きを明示し、育てます。すべてのキリスト教徒が参加し、さまざまな聖職者、司教あるいは司祭の司式のもとで、キリスト教共同体は目に見える形となり、その中で宣教に対するすべての人の分化した共同責任が実現されるのです。

 典礼は「教会の活動が目指す頂点であり、同時に教会のあらゆる力が流れ出る源泉である」(第二バチカン公会議「典礼憲章」10項)と同時に、教会のシノドス生活の源泉であり、あらゆるシノドス行事の原型であり、三位一体の神秘を「鏡のように」(「コリントの信徒への手紙」1.13章12節、第二バチカン公会議「神の啓示に関する教義憲章」7項参照)映し出します。

26.司牧の提案と典礼の実践では、キリスト教入信の道程と教会のシノダル(共働的)活動および宣教活動とのつながりを維持し、さらに明らかにすることが必要です。そのようにして、私たちは、この旅を単なる教育的手段や単なる社会への帰属の指標に貶めることを避け、宣教と共同体の構築に向けた個人的な賜物の受け入れを促進するものとします。

   現地教会が置かれている多様な状況と文化の中で、適切な司牧と典礼の在り方が開発されなければなりません。また、キリスト教の入信が主に若者や大人に関係するものと、主に子供たちに関係するものとの違いにも、注意を払わなければなりません。

神の民のために:カリスマと奉仕

27.「恵みの賜物はいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ聖霊です。務めにはいろいろありますが、使えるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての人に働いてすべてをなさるのは同じ神です。一人一人に霊の働きが現れるのは、全体の益となるためです」(「コリントの信徒への手紙」1・12章4~7節)。

  聖霊の自由は、カリスマ(恵みの賜物)と奉仕職(教会の使命の観点から教会内で行われる奉仕の形態)の多様性の源です。聖霊は、これらを授け、さまざまな人々、文化、場所において、信仰の一致と唯一無二のカトリック教会への帰属を明示するように、絶えず働いています。

カリスマは、より単純で、より広く与えられるものも、すべてまず、教会の必要に応えて、その使命のために授けられます(第二バチカン公会議「教会憲章」12項参照)。同時に、カリスマは、さまざまな側面において、社会生活に効果的に貢献します。カリスマはしばしば共有され、奉献生活のさまざまな形態と、教会の団体、グループ、運動の多元性を生み出します。

28.洗礼を受けた各人が担うカリスマを顕現するよう求められている主な領域は、教会の活動や組織ではなく、日常生活、家族、社会関係です。キリスト教徒は、個人としても共同体としても、さまざまな状況において、恵みの賜物をすべての人の利益のために豊かに育むよう求められています。

  奉仕活動と同様に、カリスマの実りは、神の働き、神が各人に与えた召命、洗礼を受けた者の寛大で賢明な受け入れ、権威による承認と伴走にかかっています。したがって、カリスマは、それを受け、行使する者の所有物として解釈することも、彼らだけの利益のために意図されたものとして解釈することも、できません。

29.聖霊が賜物を授ける自由の表れとして、また個々の共同体の必要に応えるものとして、教会には洗礼を受けた男女なら誰でも行うことができる様々な奉仕があります。これらは共同体とその指導者に提供され、認められる定期的な奉仕の形をとります。それらは「洗礼」という共通の根源を示し、聖職の秘跡に根ざした叙階された奉仕と区別するために、洗礼奉仕と呼ぶことができます。

 たとえば、小さな教会共同体の調整の奉仕、祈りの瞬間を導く奉仕(葬儀やその他の場合)、聖餐の臨時奉仕、または必ずしも典礼的ではないその他の奉仕を行う男女がいます。ラテンおよび東方教会法典では、場合によっては、信徒の男性または女性が「洗礼の臨時奉仕者」になることもできる、とすでに規定されています。

 ラテン法典では、司教は、結婚式での手伝いを信徒の男性または女性に委任することができます。これらの奉仕職をより安定した形で信徒に委ねる方法について、引き続き熟考することは有益です。この熟考は、典礼の領域以外も含め、より多くの形態の信徒奉仕職を促進する方法についてのさらなる検討を伴うべきです。

30. 近年、教会生活に長く存在してきた特定の奉仕形態は、朗読者奉仕職や侍者奉仕職を含む「制定奉仕職」として新たな形態をとっています(2021年1月10日の自発教令「Spiritus Domini」参照)。カテキスタの制定奉仕職も発展しました(2021年5月10日の自発教令「Antiquum ministerium」参照)。

 制定奉仕職は、適切な識別と十分な教育の後、特別な儀式を通じて生涯に一度、司教によって男女に授与されます。その遂行の時期と方法は、正当な権威からの命令によって定められなければなりません。教会奉仕の特定の形態に関する神学的および教会法上の問題、特に教会の生活と指導における女性の必要な参加の問題は、教理省に委ねられ、シノドス事務局(研究グループ 5)との対話の中で検討されました。

 

31. すべてのカリスマが奉仕の形態をとるわけではありませんが、すべての奉仕は、神の民の特定のメンバーに与えられたカリスマに基づいています。これらのメンバーは、共同体の各人がキリストの体を造り上げる(「エフェソの信徒への手紙」 4章12節 参照)相互奉仕に参加できるように、さまざまな方法で行動するよう求められています。

 カリスマと同様に、奉仕も認識され、促進され、評価されなければなりません。世界代表司教会議(シノドス)のこれまでの会議では、「カリスマと奉仕職の識別と促進、およびそれらが対応すべきコミュニティと社会のニーズの特定が、現地教会が成長し、適切な基準、ツール、手順を自らに与えることを必要とする側面を持つことが繰り返し強調されてきました。

 第二バチカン公会議は、司牧者の任務は「信者の奉仕職とカリスマを認め、全員が一致して、各自のやり方で、共通の任務に協力できるようにする」ことであると教えています (「教会に関する教義憲章」30項)。カリスマと奉仕職の識別は、本来、教会の行為です。カリスマと奉仕職を認識し、促進するために、司教は、個々の信者、コミュニティ、参加団体など、関係者全員の声に耳を傾ける義務があります。

 この目的のために、さまざまな状況に適した手順を特定する必要がありますが、識別の基準と結果について真の合意が得られるように常に注意する必要があります。 (今年春開かれた)「シノドス総会第二期に向けた教区司祭による国際会議」は、これらの必要性を強く強調しています。

32. また、「聖霊の働きに対する信頼を深め、受け取って歓迎した賜物を、さまざまな地域の状況にふさわしい方法で教会の使命に役立てる方法を見極める勇気と創造性を高めるよう呼びかけること」も強調されています。

 まさにさまざまな状況、したがってコミュニティのニーズがあるからこそ、現地教会は、司牧者の指導のもと、また「それぞれの広範な社会的、文化的地域」(第二バチカン公会議「教会の宣教活動に関する教令」22項) のグループのもと、謙虚さと自信をもって、司牧と社会のニーズに応えるためにどの奉仕職を認識し、委ね、または設立したらいいのか、という「創造的な識別」に取り組む必要があります。

 このために、こうした識別を実行するための基準と方法を定義する必要があります。人々がますます容易に、一つの場所から別の場所へと移動できるようになっている時代に、洗礼の奉仕を、その活動の時期と場所を特定しながらどのように委託するか、についても考察する必要があります。

33. これまでの(”シノドスの道“の)歩みは、シノドス教会とは耳を傾け、歓迎し、寄り添うことができ、家や家族として認識される教会であるという認識につながりました。さまざまな理由で教会共同体から排除されたり、疎外されたり、疎外されたと感じたり、教会共同体の中で自分の尊厳や才能を十分に認めてもらえずに苦労している人々に関するニーズが、すべての大陸で生じています。歓迎されないことで、彼らは拒絶されたと感じ、信仰の旅や主との出会いが妨げられ、教会は宣教への貢献を奪われます。

34. 傾聴と随伴の奉仕を公認し、適切な制度を設けることが適切と思われます。そうすれば、シノダル(共働的)教会のこの特徴が、永続的で具体的な現実になります。教会共同体には「開かれた扉」が必要であり、人々が脅威を感じたり、批判されたりすることなく入ることができるようにすることです。

 この奉仕を行う形態は、経験、構造、社会的状況、利用可能な人的、物的資源の多様性に応じて、それぞれの地域の実状に適応する必要があります。そうすることで、国レベルあるいは大陸レベルの司教協議会の関与のもと、地方レベルでの識別が行われる余地が生まれます。

 しかし、特定の聖職者の存在は、その聖職者だけに耳を傾けるという約束を留保することを意味するものではありません。むしろ、預言的な性格を持っていると言っていいでしょう。

 一方で、傾聴と随伴いは、シノダル教会の活動の通常の側面であり、さまざまな方法ですべての信者と関わり、すべての教会共同体が成長するよう招かれている、ということを強調します。他方では、傾聴と随伴は教会の奉仕であり、個人の取り組みではなく、その価値が認識されていることを思い起こさせます。この認識は、シノドスの過程の成熟した成果です。

叙階された聖職者と共に:調和に奉仕する

35. 神の民の中での叙階された聖職者の活動に関して、”シノドスの道“のこれまでの歩みから対照的なデータが出てきました。

 一方では、司教、司祭、助祭が奉仕を遂行する際の喜び、責任、献身が強調され、他方では、彼らはある種の疲労について語っています。それはとりわけ、「孤立感、孤独感、健全で持続可能な関係から切り離されていること」、そして「あらゆるニーズに答えなければならないという要求に圧倒されていること」と関連しています。

 これは聖職者主義の有害な影響の一つである可能性があります。特に、司教は、一人の人間が合理的に達成できるものを超える「非現実的な期待」でしばしば大きな重荷を負わされています。

36. 「シノドス総会第2会期に向けた教区司祭の国際会議」では、この疲労を、司教と司祭が共通の奉仕において真に共に歩むことの難しさと関連付けられました。したがって、宣教的なシノダル教会での聖職者の職務の再構想は、一貫性をもつ要請であるだけでなく、これらの重荷から解放される機会でもあります。ただ、その場合、効果的な実践の転換を伴い、それによって聖職者と他の信徒に変化とそこから生じる利益が明らかにされる必要があります。

 聖職者の回心の旅に加えて、この道は、司牧活動についての新しい考え方と組織化の方法を必要とします。この新しい方法は、教会の使命への、すべての洗礼を受けた男女の参加を考慮し、特に、さまざまな洗礼のカリスマと職務を引き出し、認識し、活性化することを目指そうとするものです。

「福音宣教においてシノダル(共働的)教会になるにはどうすればよいか」という問いは、権力の行使をピラミッド型の方法からシノドス(共働)型の方法へと移行し、聖職者の職務の新たなビジョンを育むことができる関係、構造、プロセスについて具体的に考えるよう促します。洗礼のカリスマと奉仕活動を促進する枠組みの中で、聖職の秘跡を必要としない任務の再配分を開始できます。より詳細な責任の配分をすることで、より明確にシノダリティ(共働性)を特徴とする意思決定と実施プロセスが、よりよく働くようになります。

37. 第二バチカン公会議文書では、聖職は教会の存在そのもののために教会内で奉仕することを第一に考えられています。公会議はその権威によって、初期教会の聖職の形態を復活させました。この聖職は「種々の聖職位階において、古代から司教、司祭、助祭と呼ばれる人々によって行使されている」(「教会憲章」=LG 28項)ものです。この表現では、司教職と司祭職は、教会共同体の牧者であり、頭であるキリストの司祭職への特別な参加に相当し、助祭職は「司祭職のためではなく、奉仕職のため」(LG 29)です。

 さまざまな階級は、それぞれの特殊性において、相互に依存しながら、互いに有機的に関係しています。叙階された者は「権力を授けられた孤立した個人」としてではなく、叙階によって授けられた「キリストの賜物(munera)にあずかる者」として、「他の叙階された聖職者と共同で、また神の民との有機的な絆で結ばれた者」として考えるべきです。神の民は、たとえ異なる方法ではあっても、洗礼に基づく共通の司祭職において、キリストの同じ賜物に与っています。

38. 司教は、教会を司祭する任務を負っており、教会内の目に見える一致の原理であり、すべての教会との交わりの絆です。司教の奉仕職の独自性には、固有で、通常で、直接的な権力が伴い、各司教はキリストの名において個人的に、御言葉の告知、聖体およびその他の秘跡の執行の司祭、司牧指導という権力を行使します(LG 27項参照)。これは、司教が神の民から委ねられた部分(第二バチカン公会議「教会における司教の司牧任務に関する教令」=CD 11項 参照)から離れることを意味するものではなく、司教は善き羊飼いであるキリストの名において奉仕するよう召されているのです。

 「聖職の秘跡の完全性は、司教の奉献によって授けられる」(LG 21項)という事実は、他のすべてのカリスマと奉仕の源泉である特権の集積として考えられている「君主制」の司教職を正当化するものではありません。それは聖霊が洗礼を受けた男女とさまざまな共同体に注ぐすべての賜物を、一致して集め、構成する能力と義務を肯定するものです。司教職候補者の選考基準を含む司教職の特定の側面は、研究グループ 7 によって取り上げられています。

39. 司祭の奉仕職もまた、シノドスの意味で考えられ、実践されるべきである。特に司祭は、神の民の一部である地方教会(CD 11 項参照)に奉仕するために、「司教とともに一つの司祭団を構成する」(LG 28)。これは、司教を司祭団の外部の者とみなすのではなく、まず第一に、司祭団を司祭団の長として、司祭団に特別な配慮をするよう召されている者としてみなすことを求めています。

40. 司教と司祭は、使徒的奉仕の実施のために、2 種類の奉仕職の相互依存の絆の中で助祭によって支援されます。司教と司祭は助祭に関して自立しているわけではなく、助祭も司教と司祭に関して自立しているわけではありません。伝統、典礼の祈り、第二バチカン公会議後の実践が示すように、助祭の機能は多岐にわたるため、現地教会それぞれの特殊性と特異性に関係する必要があります。いずれにせよ、各助祭の奉仕は、助祭の奉仕の性質に従い、またシノダル(共働的)教会の宣教の枠組みの中で、他のすべての助祭の奉仕と調和し、交わりをもって考えられなければなりません。

41. 現地教会の一致を促進することに加え、教区司教あるいは東方教会の司教管区司教は、司祭と助祭の助けを得て、他の現地教会およびローマ司教を中心とする全教会との関係において、相互の賜物の交換に責任を負っている。司教であることと現地教会の司祭であることとの伝統的なつながりを再構築し、司教の交わり(communio episcoporum)と教会の交わり(communio Ecclesiarum)との対応を回復することは重要です。

 

教会間と世界における交わりの具体性

42. シノダリティ(共働性)は、人々、共同体、団体のネットワーク、そして教会間の効果的な賜物の交換と世界との福音宣教の対話を可能にする一連のプロセスを通して実行されます。洗礼を受けた者として、カリスマ、召命、奉仕の多様性の中で、また教会間の賜物の交換の中で共に歩むことは、一方ではますます強固な相互関係を経験し、他方では無償のものを軽視する商業文化に浸っている今日の世界にとって重要な秘跡のしるしです。

43. 公会議によれば、教会はその普遍性のゆえに「個々の部分は、自分に固有な賜物を他の部分と全教会に提供」(LG 13項)します。そして「教会の種々異なる部分の間には、霊的な富、使徒的働き手、物質的援助に関して、親密な交わりの絆が存在する。神の民の成員は、善を分かち合うよう招かれており、使徒の次の言葉は個々の教会にも当てはまる。『あなたがたは、それぞれが賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を用いて互いに仕えなさい』(新約聖書「ペトロの手紙1・4章10節)」(同)。

44. 司教協議会は、支配欲や優位性を主張することなく、唯一無二のカトリック教会を構成する教会間で連帯の精神で財産が共有されることを望んでいます。豊かな教会がある一方で大きな苦難に見舞われる教会があるのは問題です。教会のグループ化を含め、互いのつながりを促進し、支援ネットワークを形成するための取り決めを行うことが提案されます。

45. すべての現地教会は、一つの教会の交わりの中で受け取り、与え合います。財政的および物質的資源の支援を必要とする教会もあれば、生きた信仰の証しと最も貧しい人々への愛ある奉仕によって豊かになる教会もあります。他の民族に福音を伝えることに生涯を捧げる福音宣教者の助けを、何よりも必要とする教会もあります。特に、mission ad gentesに携わる司祭、助祭、修道者、信徒の寛大さが認識され、求められています。

46. 現地教会は、霊的、典礼的、神学的な賜物の交換、そして共通の家の保護や移民の動きなど、世界的に重要な社会問題についてのより大きな共通の証しの希望を表明しています。

 この点において、シノダル(共働的)教会は、すべての人、特に通常は主要な世界的プロセスの周辺にとどまっているグループ、コミュニティ、国の声に耳を傾けることで、「共通の問題の解決策を策定することの重要性」を証しすることができるでしょう。今日、アマゾン、コンゴ盆地、地中海など、広大な超国家的な地理的領域は、賜物の交換を行い、努力を調整するのに特に有望な地域です。

47. 特に、シノダル教会は、賜物の交換の観点から人間の移動の現実に取り組むよう求められています。これは、都市や近隣、小教区、司教区、または教区の日常生活の具体的な状況において、教会間の出会いの機会となり得ます。そのように、“シノドスの道”はコミュニティの経験に根ざします。分かれた状態にあるラテン伝統の教会と東方教会の出会いと賜物の交換の可能性に特に注意を払う必要があります。研究グループ 1 はこのテーマに取り組んでいます。

48. 教会間の賜物の交換は、暴力、迫害、信教の自由の欠如が特徴的な状況で行われます。実際、一部の教会は生き残りをかけて奮闘し、他の教会との連帯を求めながら、福音に反する事象との絶え間ない遭遇と、歴史を通じて主の弟子たちが直面した迫害の成果である富を共有し続けています。

 賜物の交換は、今も続く植民地主義と新植民地主義が影を投げかける中で、行われます。シノダリティ(共働性)の実践で成長する教会は、賜物の交換に対するこれらの社会的力学の影響を理解し、変革を求めるよう求められています。また、この取り組みには、「多くの教会が傷ついた記憶を抱えており、和解の道を促進する必要がある」ことを認識することも含まれます。

49. 「賜物の交換」という概念は、他の教会や教会共同体との関係において特に重要な意味を持っています。聖ヨハネ・パウロ2世は、この概念をエキュメニカルな対話に適用しました。「対話は単なる考えの交換ではありません。ある意味では常に『賜物の交換』なのです」(1995年5月の回勅「Ut unum sint(すべての人をひとつに)=UUS 28項)。

 神学的な対話のほかに、賜物の交換は祈りの共有において行われ、それによって私たちは自分以外の霊的伝統の賜物を受け取るために心を開きます。たとえば、他の教会や教会共同体の聖なる女性や男性の人生や霊的洞察も、私たちが受け取ることができる賜物であり、彼らの記憶、特に殉教者を、私たちの典礼暦に組み込みます。この精神において、私たちも寛大でなければならず、カトリック教会が管理している聖堂や聖なる地への巡礼や祈りの機会を他のキリスト教徒に提供せねばなりません。

50. 宗教間および文化間の対話は、シノドスの旅の外にあるものではなく、「どの時代、どの民族においても、神を畏れ、正義を行う人はすべて、神に受け入れられる」(「教会憲章」9項、使徒言行録10章35節参照)という教えをもとに、「より緊密な関係を築こう」という呼びかけの一部です。したがって賜物の交換は、キリスト教会に限定されません。なぜなら、真のカトリック(の普遍性)は視野を広げ、他の文化や宗教的伝統に存在する命、平和、正義、そして総合的な人間の発展を促進する要素を受け入れる意欲を、求めるからです。

第2部 道筋

 

 シノダル(共働的)教会は関係性を重視した教会であり、その中では人間関係の力学が、ますます複雑化する状況の中で展開される、使命に向かう共同体の活動の構造を形成します。ここで提案されているアプローチは、経験を切り離すのではなく、経験間のつながりを把握することによって、神の言葉の光の中で読み直される現実、伝統、預言的な証言から学び、犯した過ちを振り返ることを可能にします。

 第2部は、特にキリストとの結びつきなど、使命と共同体の活動の調和を志向した関係のケアと発展を確実にするプロセスに焦点を当て、共に対立や困難に立ち向かう能力を通じたプロセスに焦点を当てています。

 具体的には、使命を果たそうとするシノドス教会の生活における4つの、別個でありながら深く絡み合った領域に光を当て、その中でも特に形成―(神の言葉、兄弟姉妹、聖霊の声に)耳を傾けること、そして識別―透明性と説明責任を促進し、宣教のための識別を可能にする空間を再び開く相互関係において参加型の意思決定と意思決定の発展につながる識別、に重きを置きます。

 このダイナミズムの源であり頂点はEucharist(ミサ聖祭)であり、すべての関係の中心に「聖霊において御子を通しての父の無償の愛」を置くもの。宣教するシノダル教会を養う日々の糧は、世界への宣教の宣言でもあります。

 

・シノダリティ(共働性)をどのように養成するか

51 .  「洗礼を受けたそれぞれの人は、主の賜物に応えて自分自身の養成に努め、受けた才能を実り、それをすべての人に奉仕するために活用するよう求められている」(「2023年10月世界代表司教会議(シノドス)第16回通常総会・第1会期総括文書)=SR14項a)。

 第1会期の総括文書にあるこの言葉は、養成の必要性がこれまでの”シノドスの道“の歩みを通じて普遍的かつ最も強く浮上したテーマの1つであった理由を説明しています。そして、「宣教においてシノダル(共働的)な教会になるには、どうすればいいのか」という問いに答えるために、効果的な養成の道を優先し、特にすべての人の継続的な養成に配慮する必要があります。

52 .  多くの人にとって、シノダルな集りに参加することは、シノドスの理解と実践において養われる機会となっています。これは、洗礼の尊厳の意味、または聖霊が神の民に賜物として授ける「超自然的な信仰の感覚」(「教会憲章」=LG 12項)をよりよく理解したい、という強い願望を引き出しました。ですから、まず必要なのは、聖霊が教会の中でどのように働き、歴史を通じて教会を導いているか、についての知識をより深く養うことです。

53.  文脈のない宣教がないように、「特定の文化と独自の歴史を持つ特定の場所に根ざさない教会」はありません。それが、抽象的な養成の取り組みを思い描くことが不可能な理由です。これらは、現地教会とその集団、司教協議会、および同等の東方教会の階層構造によって定義されるべきです。したがって、この文書は、シノダリティ(共働性)に関する養成のいくつかのガイドラインと基本的な特徴を示すことに限定され、特定の場所の特定の状況、文化、伝統を考慮して、実践する必要があります。

54. 福音宣教におけるシノダル(共働的)教会は、聴く能力に基礎を置いています。そのために求められるのは、「教会の使命において誰もが”自給自足“でない」「誰もが貢献するものを持っており、他の人から学ぶことがある」と認識する必要があります。したがって、

 聴く能力を育成することは、不可欠な、第一の要件です。「霊における対話」の実践によって、神の言葉と兄弟姉妹に耳を傾けることがどのように織り合わされるか、そして、どのように徐々に聖霊の声に耳を傾けるようになるかを体験できるようになりました。この方法の形成の重要性を主張する多くの報告が寄せられています。

 教会には、多様な文化と精神的伝統から生まれた、傾聴、対話、識別のための多様な方法があります。この多様な方法の育成と、それぞれの地域の状況の中でそれらの方法間の対話を促進することが必要です。この点で重要なのは、さまざまなタイプの貧困や疎外を経験する人々の声に耳を傾けることです。多くの現地教会は、「この課題に対する準備ができていない」と感じており、「特別な育成が必要だ」と報告しています。これは、研究グループ 2 の作業に委ねられたポイントの 1 つです。

55.  福音宣教におけるシノダリティ(共働性)の観点から見た養成の目的は、証人、すなわち「聖霊の力と共同責任と協力において教会の使命を引き受けることのできる男女」を養成することです (使徒言行録 1章8節参照)。養成はキリスト教入信のダイナミズムに基づいており、私たちの態度、関係、精神、構造を継続的に変革するプロセスを伴う、主との出会いの個人的な経験を促進することを目的としています。

 福音宣教の主体は常に教会であり、教会のメンバーはそれぞれ洗礼の効力により救いの証人であり、先駆者です。聖体は「キリスト教的生活全体の源泉であり頂点」であり (「教会憲章」=LG 11項)、シノダリティ(共働性)における養成の基本的な文脈の中にあります。

 命と愛の共同体として、家族は信仰とキリスト教の実践について教育する特別な場です。世代が織り交ぜられる中で、それは「シノダリティの学校」であり、すべての人に他者を気遣うよう促し、弱い人も強い人も、子供も若者も老人も、誰もが受け取るものも与えるものも、たくさんあることを明らかにします。

56. シノダル(共働的)教会では、養成が不可欠である、とされねばなりません。養成はさまざまな考え、信念、スキルを習得することだけでなく、共通の出会い、共有、協力、識別の能力を促進することも目的としています。ですから、養成は人間のすべての側面、つまり知性、感情、精神に関わるものである必要があります。純粋に理論的な養成にとどまらず、具体的な経験と意味のある寄り添いを伴わねばなりません。特に若者の間で広まっている“デジタル・カルチャー”を含む、現地のの教会が生き、活動している文化に関する知識を育むことも同様に重要です。研究グループ 3 の作業は、デジタル。カルチャーと、この分野における適切な養成の促進に焦点が置かれています。

57.最後に、共同体として共有される養成の必要性が明確に主張されてきていますが、養成においては、一般信徒の男性と女性、奉献された男性と女性、叙階され​​た聖職者、聖職者候補者が共に参加し、相互の知識と尊敬を深め、協力する能力を高められるようにすることが求められます。

  そのために特別な配慮が必要なのは、養成プログラムに、神学生、司祭、修道者、一般信徒とともに女性の参加を促進することです。そして、大学神学部、研究所、神学校での教育と養成のポストに女性が就けるようにすることが、極めて重要です。また、女性が教会で果たすことができている役割と任務を、司祭、司教、一般信徒が認識するようにし、これらの機会の有効性の評価を教会生活のすべての領域、すなわち小教区、司教区、信徒団体、運動、共同体、修道会、教会組織、教皇庁で進めることが、提案されています。

(以上、「本編」第1部の57項まで、「カトリック・あい」南條俊二試訳。聖書の日本語訳は「聖書協会・共同訳」を、第二バチカン公会議の諸文書については、カトリック中央協議会による改定公式訳を使用)

使命に対する教会の識別力

58.   多種多様なカリスマを生み出す唯一の聖霊は、教会に命と神の真理をことごとく悟らせます(ヨハネ福音書10章10節、 16章13節 参照)。聖霊の継続的な臨在と働きによって、「使徒たちから伝わる伝統が、教会内で進歩する」(第二バチカン公会議「神の啓示に関する教義憲章」=DV 8)項)のです。

 聖霊の導きのおかげで、神の民はキリストの預言的役割を共有する者(同「教会に関する教義憲章=教会憲章」=LG 12項 参照)として、「神の臨在と目的の真のしるしを、現代の人々と共有する出来事、必要、願望の中に識別(同「現代世界における教会に関する司牧憲章=現代世界憲章」=GS 11項)します。

  この識別という教会の任務のために、聖霊はsensus fidei(信仰の感覚)」を授けてくれます。これは、「主が教会にお示しくださる新しい方法を識別する本能的な能力」(2015年10月17日の「世界代表司教会議(シノドス)創設50周年」における教皇フランシスコの講話)です。

59. 識別力は、個人レベルでそれに参加する人々、そして共同体レベルで一緒に参加する人々全員が、内なる自由の気質を培い、新しさに進取的で、「霊が諸教会に告げること」(新約聖書「ヨハネの黙示録 」2章7節)を聞くため、互いの声に耳を傾けるために、神の意志に信頼して、身を委ねることを約束します。

   マリアは、使徒共同体の中心に、祈りをもって存在(「使徒言行録」1章14節参照)し、すべての人にとって、真の共働的な霊性を生み出すための生ける模範であり、導き手です。出来事をすべて心に納めて思いめぐらし、(ルカ福音書1章26-38節、2章19節、51節)、聖霊の働きに対して惜しみなく心を開き、(同35節参照)、主の働きに対する感謝を分かち合い(同39-56節参照)、そしてイエスが、マリアの母親らしいケアを委ねられた(ヨハネ福音書19章25~27節参照)一人ひとり(同2章1~12節参照)に、具体的で時宜にかなった奉仕をされました。

60. 私たちが共有する使命について、自分自身の視点を共有することが求められる限り、識別のプロセスは、交わり、使命、そして参加という具体的な方法で明示されます。つまり、「共に歩む」ということです。その際、共同体や社会の片隅にいる人々の関与に特別な注意を払いながら、識別のプロセスへの幅広い参加を促進することが重要です。

61. あらゆる教会の識別の出発点は「神の言葉を聞くこと」です。聖書は、神の、人への卓越したコミュニケーションの証言で構成されています。神がご自分の民に語りかけ、今も語り続けていることを証言し、人とのコミュニケーションのさまざまな経路を示しています。

   神は聖書について、個人的な瞑想を通して語られ、それは聖書と共に祈る人の心に響きます。神は典礼祭儀の中で共同体に語りかけます。典礼祭儀は、主が教会に語られたことを解釈する最高の場所です。神は教会、母であり教師である教会を通して、その生きた伝統と、一般的な祈りを含む実践を通して語られます。私たちがその意味を識別する方法を知っている限り、神はいくつもの場所と時の出来事を通して語り続けられます。

  さらに、神は自然界を通してご自分の民に語りかけておられ、その存在そのものが、命を与える聖霊の存在に満ちた創造主ご自身の業を、私たちに示しています。

  最後に、神はそれぞれの人の良心の中で語られますが、それは良心が「人間の最も秘められた中心であり、聖所であった、そこで人間は独り、神と共にあり、神の声が人間の内奥で響く」(「現代世界憲章」=GS 16項)からです。

  真の識別力は、神のミュニケーションのこれらの経路をおろそかにしては、あり得ません

62. 共同体の識別は単なる組織的な技術ではなく、キリストと聖霊のうちに生きる教会の生活と使命を位置づける厳しい実践なのです。このために、常に聖霊の声を聞きつつ、主イエスの名のもとに集められる、という意識と意志をもって行われなければなりません(マタイ福音書18章20節参照)。

 イエスが約束されたように、教会を命と真理の充足へと導くことができるのは聖霊だけ(ヨハネ福音書16章13節参照)であり、意味を渇望する世界がそれを得られるようになるのです。

 神の民が福音を宣べ伝え、福音を証しするという使命を遂行するための手段は、ここに根ざしています。ですから、エルサレムの使徒共同体が教会史上初のシノダル(共働的)な出来事を「聖霊と私たちによい」(使徒言行録15章28節)と思われる、という言葉で特徴付けることを可能にした福音伝道の技を、あらゆるレベルで実践する方法を学ぶことが、優先されるべきです。この精神に基づいて、特定の場所、仕組み、諸行事で行われる教会宣教のシノダル(共働的)な活動の実践が理解され、方向付けられなければなりません。

(以上、58項から62項まで、岡山康子試訳。聖書の日本語訳は「聖書協会・共同訳」を、第二バチカン公会議の諸文書については、カトリック中央協議会による改定公式訳を使用)

 

65.  教会には、識別への多種多様なアプローチと、十分に確立した様々な手法があります。この多様性は豊富です。様々な状況に適切に合わせることができれば、この多様な取り組みを活用することは実り多いものになります。共通の利益のために、それぞれの特性やアイデンティティの堅固さを弱めることなく、実りある対話を行う必要があります。”シノドスの道“の歩みのすべて段階で明白になった「霊における対話」の実り多さは、この特定の教会識別の形態をシノダリティ(共働性)の実践に特に適していると考えるよう、私たちを促します。

66 .現地教会では、特に責任ある立場の人々の間で、識別の文化を広げ、育てる、養成の機会を提供することが不可欠です。同じくらい重要なのが、同伴者あるいは進行役の養成です。識別の取り組みを実行するうえで、彼らの貢献がしばしば決定的な役割を果たします。議論の的になっている教義、司牧、倫理に関する問題を共有して識別するための神学的基準およびシノダル(共働的)な手法の作成に取り組む研究グループ9の作業は、この方向で進められます。

 

意思決定のプロセス

67.「シノダル(共働的)な教会において、メンバーが自由で豊かな多様性をもつ中で、共同体全体が集まり、共に祈り、傾聴し、分析し、対話し、識別し、神の意志に可能な限り近い司牧上の決定を下すために助言を行うよう、招かれています」(国際神学委員会「教会の活動と使命におけるシノダリティ(共働性)=ITC68項)。この声明は断固として実施される必要があります。

 シノダル(共働的)な教会を促進するために、意思決定と決定プロセスに全員が参加すること以上に効果的な方法は考えられません。この参加は、共同体のメンバーそれぞれを尊重し、共有された決定の観点から、個々の技能や資質を評価する、差異化された責任に基づいて行われます。

68. こういった構想を実行に移すためには、このような意思決定プロセスがどのように形成されるかについて、じっくり考えることが役立ちます。後者には通常、関与と推敲(英語の用語によれば、decision-making=意思決定)の段階を伴い、「識別、協議、協力を合わせ用いることを通して」(ITC69項)、その後に下される決定に情報を提供し、支援しますが、その決定は最終的には、管轄当局(例えば、司教区または東方教会の司教管区における司教)の責任になります。

 2つの局面の間に競合や対立はなく、それらを組み合わせることで、下される決定が可能な限り神の意志と一致するのを確実にすることに役立ちます。「物事をうまく解決するのはシノダル(共働的)な課題であり、決定は聖職者の責任である」(ITC69項)。

69. 多くの場合、現行法では、決定の前に当局は協議を行う義務がある、と規定されています。この教会協議は省くことはできず、「聞くこと」よりもはるかに重要です。協議が行われなかったかのように進めない義務が当局にはあるからです。

 協議に関する意見には拘束力がないので、当局は法律上の観点からは自由ですが、もし一般的な合意が成立した場合、納得のいく理由がない限り、合意した意見から逸脱することはありません(sine praevalent iratione=一般的理論的根拠: 1983年改訂の教会法典、教会法127条2項2)。もし管轄当局がそうした場合、協議対象者から孤立し、彼らを結びつけていた絆が損なわれることになります。教会において、権限の行使は専制的な意思の押しつけるものではなく、神の人々の一致に奉仕する役務として、聖霊が求めるものを共同で探求する緩和力となります。

70. シノダル(共働的)な教会において、司教、司教団、教皇の決定する責任は、奪うことのできないものです。それはキリストが設立した教会の位階構造に根差しているからです。しかし、それは無条件ではありません。適切な識別の成果として協議過程において生まれる方向性は、特に現地教会の参加団体が実行したのであれば、無視できません。

 シノダル(共働的)な教会識別の目的は、司教たちを人々の声に従わせ、前者を後者に従属させることではなく、また、より受け入れられやすいとすでに思われている決定を下すよう司教に提案することでもなく、聖霊に従って共有された決定へと導くことです。

 ですから、協議と識別の間のいかなる対立も不適切で、教会においては、識別は全員の助けを借りて行われ、その職権により決定を下す司牧権なしに行われることは決してありません。この理由から、教会法典に繰り返し登場する「協議投票のみ」(tantum consultivum)という表現は、協議の価値を傷つけるものであり、修正される必要があります。

71. 状況の特殊性に合う、真にシノダル(共働的)な意思決定過程に命を吹き込むすべての可能性を広げられるかどうかは、現地教会にかかっています。これは重要かつ緊急の課題です。シノドスの成功は、これに大きくかかっているのです。具体的な変化がなければ、シノダル(共働的)な教会の構想は成功が見込めません。それでは”シノドスの道“の旅から、力と希望を得た神の民を疎外することになってしまうでしょう。世界の司教協議会の多くの報告が指摘しているように、特にそのことが当てはまるのは、起草および意思決定・決断過程における女性の効果的な参加です。

72. 協議、共同体の識別、シノダル(共働的)な意思決定のプロセスにおいて、参加者がすべての関連情報に効果的にアクセスし、理にかなった自分の意見を系統立てて説明できるようにすることが必要だ、ということを忘れてはなりません。

プロセスを開始する当局には、これを確実にする責任があります。健全なシノダル(共働的)な意思決定のプロセスには、適切な水準の透明性が求められます。同様に、この作業の繊細さと、協議で意見を表明する人々が負う特別な責任を認識することも重要です。

(以上65項から72項まで、新井忍氏試訳)

 

”シノドスの道”の歩みで重要かつ緊急なのは「透明性」「説明責任」そして「評価」

73.シノダル(共働的)な教会は透明性と説明責任を実践するという文化を要求します。なぜなら共通の使命を果たすには、共に歩み、共同責任を果たすために必要な相互信頼を育てるのに重要だからです。教会は社会的及び組織的ニーズを優先して説明責任を果たすことはありません。もっと正確に言えば、「説明責任の根本は、聖体(交わり)の神秘として教会のまさに本質的なものとして存在する」からです。

74.新約聖書によれば、教会の交わりを守るために、「初期のキリスト者にとって「説明責任」を果たすことが重要であることが分かります。使徒言行録11章はその例を示しています。ペトロが異教徒のコルネリウスに洗礼を授けてからエルサレムに戻る時、割礼を受けている者は「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」(使徒言行録11章2-3節)と言ってペトロを非難しました。ペトロは、それに対して彼のとった行動の理由を説明しています。

 このように共同体の人々の前で自身の司牧(宣教)の仕方について理由を説明することは、最も初期の教会からの伝統であり、12使徒の時代まで遡ることができます。監督職についてのキリスト教神学は、権威の行使について理解するための、そして、「透明性と責任説明」について熟考するための枠組みを示しています。

75. 現代では、教会内における教会による「透明性と説明責任」の要求は、財政上のスキャンダル、とどまることのない性的虐待、その他の未成年者や弱者への虐待などによる信頼性の喪失の結果として起きています。(注:このような問題に対する教会の聖職者たちの)「透明性と説明責任」の欠如は、(注;教会にいまだに存在する)「聖職者主義」を際立たせることになりました。それは、「聖職者は自分たちに与えられている権威の行使に対して、誰にも説明責任を負わない」という暗黙の思い込みがあるからです。

76. もしシノダル(共働的な)教会が「快適な場でありたい」と願うなら、説明責任と透明性は権威をもつ聖職者のレベルだけでなく、あらゆるレベルの活動の基本とならねばなりません。しかし、権威ある地位にいる人々は、この点に関してより大きな責任があります。「透明性と説明責任」は、性的虐待や経済的虐待に限ったものではありません。司牧方針、福音宣教のあり方、どのように教会が人々の尊厳を大切にするか、例えば、さまざまな組織や教会内での労働環境についても同様に配慮せねばなりません。

77. 「教会の上位の者に対する説明責任」は、何世紀にもわたって守られてきましたが、「共同体に対して権威を持つ者の説明責任」も、取り戻す必要があります。「透明性」は教会の権威の行使の特徴であらねばなりません。

 今日、あらゆる種類の司牧的な責任がどのように果たされているのかについて、定期的にその構成と評価が必要に応じて明らかになっています。倫理観が欠如していると思われることに対する評価は、聖職者が早急に問題を調節できるように導き、彼らの奉仕が改善するように成長と力を養うことに役立ちます。

78. 管理(規制)基準と仕組みに関する教会法の規範ですでに定められているものを順守するのに加えて、「透明性と説明責任」の果たし方の有効な形と手続きの構築は、現地教会、特にその集まり(教会管区、司教協議会、東方教会の位階制度)の状況に適した形で行なわれます。そして、それは民間の規制の枠組み、社会の期待、そしてその分野で専門性を実際に確保できることが条件になります。

 しかし、そうした条件が十分に満たされない地域であっても、教会は「透明性と説明責任」の文化の実現に向けて、活動、気風、精神性を進化させるために働くでしょう。

79. 特にそれぞれのもつ状況に適切な形で、少なくとも次のことを保証する必要があると思われます。

a) 経済問題評議会が有効に機能すること。

b) 神の民を有効に機能させ、特に司牧や経済計画に関して最も有能なメンバーを受け入れること。

c) 可能な限り、外部の監査人が証明した年次財政報告書の(実際に入手可能な形での)準備と発行、それによって教会とその施設の資産と財源の管理を透明にすること。

d)(未成年者や弱者の)保護の分野での諸活動や、女性への権威のある地位に就く機会の提供、女性の意思決定過程への参加についての例証を含めた、宣教実績の年次報告の策定。

e) 教会において果たされるすべての形の聖職の遂行、すべの役割の保持に関する定期的な評価の実行。

  以上は、”シノドスの道“の歩みとその実践の信頼性において、極めて重要であり緊急性をもっています。

(以上、73項から79項まで、田中典子氏試訳)

 

第3部 – 場所

 

 教会の宣教的なシノダル(共働的)な活動、それを構成する重要な関係、そしてその発展を可能にする道筋は、「場所」―つまり、特定の文脈と文化の中に置かれた教会の具体性と特殊性―を無視すべきではありません。

 第3部では、ピラミッド型モデル (つまり、教区、教区長、主教区または教区、教会管区、司教協議会、あるいは東方教会の階層構造、普遍教会) に従って、「連続するレベル、または程度で順序付ける動きのない場所の見方」を克服するよう求めています。このような見方は、私たちの持つべきものではありませんでした。教会間の関係のネットワークと賜物の交換は、「線」ではなく、常に関係の「網」として織り合わされてきました。それらは、ローマ教皇が永続的で目に見える原理と基盤である統一の絆で結ばれています。

 この意味で、教会の普遍性は抽象的な普遍主義と一致したことは一度もありません。さらに、空間の概念が急速に変化する状況において、教会の活動を「純粋に空間的な仕切り」の中に限定することは、教会を「致命的な不動の状態」に閉じ込め、憂慮すべき「司牧的冗長性」を生み出し、人間集団の最も活発な部分、特に若者に手を差し伸べることをできなくするでしょう。

 ですから、「場所」は、相互依存の観点から理解されねばなりません。相互依存は、教会とそれらが形成するグループ間の関係において具体化され、意味の統一性を与えられます。ローマ司教と彼と交わりを持つ司教団に課せられた一致の奉仕は、この視点を考慮し、その実行に必要な適切な制度的形態を見つけねばなりません。

 

共通の旅の領域

80. 「コリントにある神の教会・・・へ」(「コリントの信徒への手紙」1・1章2節)。福音の宣言は、人々の心に信仰を呼び覚ますことによって、ある「場所」に教会を設けるようにします。教会は、場所と文化に根ざし、場所と文化の間に確立された関係がなければ理解できません。

 「場所」の重要性を強調することは、特殊主義や相対主義に屈することを意味せず、空間と時間の中で「救い主である三位一体の神の顕現に従う」という共通の経験が形づくられる具体性を高めることを意味します。

 「場所」は、この経験の形態の多様性を生み出し、特定の文化的および歴史的文脈に根ざしている状態を維持します。典礼、神学、霊的、規律的な伝統の多様性は、この多様性が教会をどれほど豊かにし、素晴らしくするかを示しています。それぞれの地域的な具体性を持つ教会の交わりは、唯一無二の教会における信者の交わりを明示し、抽象的で均質的な普遍主義になってしまうのを回避します。

81. 文化の多元性とそれらの間の出会いと対話の実り多さは、教会の活動の条件であり、教会の普遍性の表現です。教会の普遍性に対する脅威ではありません。救いのメッセージは、一つであり、同じです。「体は一つ、霊が一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるように、と招かれたのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つです。すべてのものの父なる神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内におられます」(「エフェソの信徒への手紙」4章4-6節)。

 このメッセージは多様な形で、さまざまな民族、文化、伝統、言語で表現されています。この多様な形式を真剣に受け止めることで、覇権主義的な傾向を避け、救いのメッセージを「教会活動とその典礼、司牧。あるいは道徳的表現」を単一の理解に矮小化するリスクを軽減することができます。シノダル(共働的)な教会内の関係の網は、教会間の賜物の交換によって目に見える形になり、ローマ司教を長とする司教団の一致によって保証され、決して画一化されることのない統一の力強い守護者となるのです。

82. 今日、具体的な文脈に根ざした教会というビジョンは、現代の社会・文化的条件に直面しています。この条件は、特定の地域に根ざす、という私たちの経験を根本的に変化させました。「場所」はもはや純粋に地理的、空間的な観点から理解できません。むしろ、過去よりも、動的で流動的な関係の網と文化に私たちが属していることを示しています。

 この現実は、異なる場所の概念に基づいて構築された教会の組織形態に疑問を投げかけています。また、人々の生活に唯一の真実を具体化するために、異なる文脈に適切で、互いに矛盾しない差別化された基準を採用する必要があります。

83. 都市化は、この変化の第一の要因です。今日、人類史上初めて、地球上の人々の大半が農村部ではなく、都市部に住んでいます。

 「場所」への帰属意識は、地域を構成する境界が異なる方法で形成される都市環境では異なる形をとります。大都市では、小教区ばかりか、教区の境界を越えるのに地下鉄で数駅しかかかりません。多くの人が一日に何度もこの旅をします。多くの人は日常的に異なる教会の所在地間を移動しながら活動しています。

84. 第二の要因は、グローバル化した世界的な人間の移動の増加です。難民や移民は活気のあるコミュニティを形成することが多く、信仰の実践を拡大し、定住する場所をより多様なものにします。同時に、彼らはデジタル・メディアのおかげで、出身国とのつながりや関係を維持しています。そして、しばしば、複数の地域、文化、言語のグループに同時に所属します。出身コミュニティのメンバーが減り、時にはその存続に苦労する一方で、彼らの関係と文化の構造は世界的に拡大しています。

 (2023年10月のシノドス総会の)第1会期で指摘されたように、この点で象徴的なのは、一部の東方カトリック教会の状況です。現在の移住率が高くなれば、東方カトリック教会の信者のうち移住者の数が、教会法上の領土に住む人々の数よりも多くなる可能性があります(第1会期総括文書=SR 6項c参照)。

 いずれにせよ、「場所」を純粋に地理的な観点から定義することは、ますます時代遅れになっています。研究グループ 1 は、これが東方カトリック教会とラテン教会の関係にもたらす課題について考えるよう求められています。

85. 最後に申し上げたいのは、特に若者の間でのデジタル文化の広がりを見過ごせない、ということです。デジタル文化は、空間と時間の経験と概念に根本的な影響を与え、コミュニケーション、人間関係、信仰など、あらゆる種類の人間の活動を再形成します。第1会期の総括文書で「デジタル文化は、宣教の明確な領域というよりも、現代社会における教会の証言の重要な側面である」と述べられているのは偶然ではありません (SR 17項b)。研究グループ 3 は、この課題の研究に専念しています。

86.社会と文化のこれらの大きな変化は、宣教のために教会自身の現地的な側面の意味について改めて考えるよう、教会に促しています。現地教会は、常に物理的な文脈と具体的な文化の中で起こることを忘れず、「場所」を純粋に空間的に解釈することから、脱却する必要があります。「場所」、特に教会の「場所」は、単なる空間ではなく、人間関係が発展することのできる環境とネットワークであり、人々に根ざし、どこで活動が展開されても遂行できる使命の基盤を提供します。

 シノダル(共働的)な回心には、共に旅する道を歩むよう呼びかけられた現実の教会のシノダル(共働的)な改革が伴わねばなりません。しかし、これは司牧活動を選ばれた所属先に委ねることを意味しません。目的は、「すべての人と出会うこと」にあります。

87. この改革は、教会の交わり(communio Ecclesiarum)に表現された、神の聖なる民としての教会の理解に基づいて行われなければなりません。経験が示しているのは、現地教会でシノダル(共働的)な歩みを始めることは、教会全体の一致を損なうものではなく、むしろ「神の民の多様性と普遍性を表現するもの」なのです(LG 22参照)。ローマ司教(教皇)の一致の奉仕の遂行を危険にさらすものではなく、むしろ強化するものです。

 私たちは、教会についてその制度から考え始めるのではありません。最高レベルのものも含め、宣教活動の論理の中でこれらを再考する必要があります。

88.  「ローマ教皇の奉仕職が全教会の統一の目に見える根源であり、基礎であり、世界の各司教が現地教会の統一の目に見える根源であり基礎である(「教会憲章」=LG23項参照)ことを踏まえ、第二バチカン公会議は、「キリストの神秘体である教会は、教会の集合体でもあり、その中に、またそこから唯一のカトリック教会が存在する」(同)と言うことができました。この集合体は、

(a) 神の民の一部であり、それぞれが司教に委ねられている個々の教会

(b) 教会の集合体。ここでは、交わりの実例は、何よりも位階制の団体によって表される

(c) 教会全体(Ecclesia tota)―教会は、教会の交わりとして、司教制(cum Petro)と位階制(sub Petro)の絆でローマ司教の周りに集まった司教団。

 教会制度の改革は、教会のこの秩序立った表明に従わねばなりません。

(第3部の初めから88項まで、南條俊二試訳=第二バチカン公会議の諸文書については、カトリック中央協議会による改定公式訳を使用

89. 現地教会は、まさにその特質により、全教会の司牧的でシノダル(共働的)な生活を最も即座に体験できる場です。司教協議会から出された報告は、教区を底部にある小さなキリスト者共同体の集まりであり、宣教における交わりと参加という文脈として語っています。

このことについて、サクロファーノに世界中から集まった教区司祭たちは「教区の信徒は、喜び、悲しみ、希望、そして奮闘の時も、み名によって祈り、礼拝し、奉仕し、証人となるために集まったイエスの宣教する弟子であり、弟子」となった、と語りました。神は、彼らの教会の現実の中で働いています。

同時に、私たちは、教区のもつ大きな柔軟性を活用するためにもっとなすべきこがある、と認識しています。それは、教区という、多くの共同体の集合体も、新たな宣教活動では「一つの共同体」として理解されねばならない、ということです。

 

90. 同じように、今日の現地教会は、古くからの信徒と新しい信徒が混在する集団や共同体で構成されています。そして特に、聖職者の組織や使徒的生活を送る修道会は、現地教会の生活と活発な宣教活動に大いに貢献しています。

同じことが一般信徒の集団、小教区の活動、新らたに出来た共同体にも当てはまります。今日、教会の所属は、正式に決められた地理的な場所に固執せず、集団の繋がりに関係する形で増加しています。宣教の方向性に照らしあわせて、それぞれの文脈の中で「主が何を求めておられるのか」について、教会的な識別の中で、所属の多様性を促進せねばなりません。多様性を活発にし、一致の絆を大切にすることは、教区司教や(東方教会の)管区司教の具体的な能力と関係します。研究グループ 6はこれらの観点を反映させることについて、一任されています。

 

91. この「討議要綱」の草案に先行する審議でも、これまでの“シノドスの道”の歩みと同じようなことがありました。(注*世界の司教協議会などから)受け取った報告の多くに共通しているのが、小教区、管区、教区、東方教会の菅区といった様々なレベルの“評議会”を、司牧活動の計画、組織、遂行、評価の重要な手段として、強化する必要性を指摘していることです。

このような仕組みは、教会法ですでに想定されています。適切な対応によって、“評議会”の多様性は、うまく適応することでシノダル(共働的)なアプローチを強固にするのに、より一層、適していることが証明される可能性があります。

これらの“評議会”は、教会の識別とシノダル(共働的)な意思決定の対象となり、権威をもつ人々にとって、説明責任の行使と評価の場となる可能性があり、したがって、評議会は次にどのように義務を果たすのかについて説明する必要がある、ということを忘れてはなりません。ですから、「説明責任(を果たすこと)」は、シノダル(共働的)な提案と方向性を速やかに実施できるようするために、最も有望な分野の一つであり、効果的かつ速やかな影響を与える変化に繋がります。

 

92. (注:世界の司教協議会からの)多くの報告は、その方向に進むために、組織とその運営方法に関する枠組みを再構築する必要がある、と指摘しています。

重要なことはこれです―再構築は、選ばれたメンバーの構成が、透明性と説明責任の文化をしっかりと促進さようと奉仕している共同体の構成に反映されるのを確実するために、どのようにして彼らが任命されたかを注視するように要求することになる。それゆえ、メンバーの大多数は、「権威をもつ者(教区司祭や司教)」によって選ばれるのではなく、共同体あるいは現地教会の現実を実質的に表現できるような、別の方法で指名される必要があります。

 

93. 同様に、これらの組織の中に女性、若者、貧困や社会的に疎外された環境の中で生きる人々たちが、もっと積極的に受け入れられるように、メンバー構成に配慮せねばなりません。

さらに、(注:202310月のシノドス総会の)第1会期で強調されているように、共同体の生活と奉仕の組織に関わるだけでなく、日常の実生活や社会という文脈の中で、社会で認められている使徒的宣教の使命感(第1会期総括文書= SR 18d参照)を持って、信仰の証人として全力を挙げている男女がこれらの組織のメンバーとなるが基本です。

このように、これらの組織が実践する司牧的な優れた識別は、現実と多様性を持つ全体像を分析する能力と多様な視点を、よりオープンなものにし、より有益なものになるでしょう。

最後に、(世界の司教協議会の)報告の多くが、現行の教会法では設立が任意となっている司教協議会の設置義務化の必要性を指摘しています。

 

94. 世界のいくつかの司教協議会では、すでに改革の体験を共有し、優れた実践を確認しています。小規模で基盤をなすキリスト教共同体から、小教区、教区長、教区の司牧評議会に至る司牧評議会のネットワークの構築も、その中に含まれます。協議と傾聴のモデルとして、あらゆるレベルの教会の集会を開き、他の教会や教区、現地の他宗教の共同体が共に歩む社会貢献に協議の輪を広げることが、提案されています。そうすることで、キリスト者共同体は、彼らとともに旅をすることができるのです。

(以上、89 項から94項まで、田中典子試訳)

教会の一致を形作る絆

95 .  第一部で概説した「賜物の交換」という共同体の地平は、教会間の関係を鼓舞させます。それは、教会の一致を形づくる絆を強調することと、各地域の教会がその歴史と伝統をもって生きている状況に関連した特殊性を理解することを結びつけるものです。

  シノダル(共働的)な様式を取り入れることで、「すべての教会がすべての問題に対して必然的に同じペースで進まなければならない」という考えを克服させてくれます。逆に、ペースの違いは、正当な多様性の表現であり、賜物の交換と相互を充実する機会として評価することができます。これを実現するためには、この地平が具体的な構造と実践に具体化される必要があります。

  「宣教の使命におけるシノダルな教会となるには?」という問いに答えるには、そのような構造と実践を特定し、促進することが必要です。

96.  東方教会の階層構造と司教協議会は、教会間の繋がりを作り、経験を共有し、管理と司牧計画を分権化するための基本的な手段です。「第二バチカン公会議は、古代の総主教制教会のように、司教協議会は 『合議的精神の具体的な実現に向けて、多くの実りある形で貢献する 』立場にあると述べています(第二バチカン公会議「教会に関する教義憲章」=LG 23項)。

  しかし、この願いは完全には実現されていません。なぜなら、司教協議会を、真の教義上の権威を含む特定の帰属の主体と見なすような法的地位がまだ十分に確立されていないからです」(教皇フランシスコの使徒的勧告「福音の喜び(“Evangelii Gaudium”)」= EG 32項)。いかにして宣教の使命におけるシノダル(共働的)教会となるか、を模索するために、この問題に取り組む必要があります。

97 .   この”シノドスの道”の歩みの中で、これまでに集められたすべてのものから、次のような提案が出てきました。

(a)「司教協議会」を教義上の権威を授けられた教会の主体として認め、多面的な教会の枠組みの中で社会文化的多様性を前提とし、異なる社会文化的背景に適した典礼的、規律的、神学的、霊的表現の理解を支持すること。

(b)司教協議会及び東方教会の階層構造の機能並びに、教区司教座と教皇庁との間の関係についての実際の経験を評価し、実施されるべき具体的な改革を特定すること。研究グループ 7に属するアド・リミナ訪問*は、この評価のための適切な機会となり得る。(*ラテン語で「使徒たちの墓所の訪問」。世界の教区司教が5年に1度、聖ペトロと聖パウロの墓を巡礼し、教皇に謁見し、担当する教区の状況について教皇に報告書を提出し、教皇庁各省庁との情報交換などを行う)。

(c)すべての教区または東方教区 ”Eparchy”)が、教会管区と司教協議会または東方教会の階層構造に割り当てられるようにすること(第二バチカン公会議「教会における司教の司牧任務に関する教令」=CD 40項 参照)。

98. すべての地域にわたる大陸レベルの集まりをしたことは、今の”シノドスの道”の歩みにおける革新であり、「キリスト信者の生活の全領域にわたって、より深い適応」(第二バチカン公会議「教会の宣教活動に関する教令」= AG22項)を進めていくために、「各々の広範な社会的・文化的地域」(同)の特殊性を尊重する、という第二バチカン公会議の指針をより首尾一貫して実行する方法でした。

 この経験、及びいくつかの地域の教会が歩んできた道のりは、私たちがどのようにして、例えば教会協議会や司教協議会を通じて、シノダルと合議的ダイナミズムにより適切な制度的表現を与えることができるか、という問題を提起しています。これらの機関には、大陸または地域の協議と意思決定の調整された任務を委ねることができます。

 また、文書の起草や意思決定及び実施の過程に、多様な教会関係者を含めるために、識別方法を開発することもできます。さらに、識別には、多様な状況に適応した形で、市民機関、他宗教の代表者、非カトリック組織、及び社会全体との傾聴と対話の場も含めるべきであると提案されています。

99.  現地のシノダル(共働的)対話が終わりを迎えることなく継続されるべきであるという願いと、特定の地域における信仰の効果的な「インカルチュレーション(文化内開花)」(訳者注:教会の教えが非キリスト教文化からの影響に対しての適応と展開)の必要性は、教会の歴史の大部分において周期的な召集が義務とされてきた、それが管区会議であれ本会議であれ、特定の評議会の制度に対する新たな認識へと、私たちを動かします。

 シノダルの道を歩んできた経験に基づいて、司教会議と、関係する教区や東方教区(”Eparchy” の司牧評議会から委任された、あるいはその地域の教会の多様性を反映する他の方法で指定された信者(司祭、助祭、奉献生活を送る男女、男女信徒)から構成される教会会議を一緒にする形態を考えることができます。これを支援するために、特定の評議会の結論の承認手続きは、それらの時宜を得た公表に有利になるように改革されるべきです。

 

(以上、95項から99項まで、ガブリエル・タン試訳=第二バチカン公会議の諸文書については、カトリック中央協議会による改定公式訳を使用)

 

 

ローマ司教による一致への奉仕

 

100. 「どのようにして派遣するシノダル(共働的)な教会になるのか?」という問いに答えて、シノダリティ(共働性)、団体性、首位性を統一するダイナミズムを再考する必要もあります。そうすることで具体的な表現でもある諸制度間の関係を刺激できるからです。

101 .  目下の”シノドスの道“の歩みは「教会という共同体の中にも、独自の伝統を保つ諸部分教会が合法的に存在し、しかもペトロの座の首位権は変わることなく存続する。このペトロの座は愛の全集団を主宰し、合法的な多様性を保護し、また同時に部分的なものが統一を傷つけることなく、むしろそれに役立つように配慮する」(「教会憲章」=LG13項)という第二バチカン公会議の言葉の真実を示しました。

 この働きゆえに、全教会の一致の目に見える根源(「教会憲章」23項参照)としてのローマ司教は、シノダリティを保証する者です。彼は司教たちを招集し主宰し、シノドス(世界代表司教会議)の結果を確認することで、全教会をシノダル(共働的)な行動へと招いています。彼は、教会がシノダルなやり方と形態をさらに展開するよう配慮する必要があります。

102.  ペトロの奉仕職が行使される諸形式を熟考することは、教皇フランシスコ教皇に促され、多くの司教協議会によって求められているように、「健全な脱中央集権を進める」(使徒的勧告『福音の喜び』16項)観点からもなされるべきです。

    使徒憲章『Praedicate Evangelium(福音の宣教)』(2022年3月19日)によると、このことは、常に、教会に他ならない特別な交わりの神秘の実りと表現である共同責任の精神でなされるものであり、司教たちの“教師としての司教固有の職務”の行使において、彼らが熟知しており、教え・規律・交わりにおける教会の一致に影響しない事柄を解決する権威は、司教たちの権限に委ねること(『Praedicate Evangelium』2章2項)を意味します。

103.  先に進むために、私たちは最近の自発教令『Competentias quasdam decernere』(2022年2月15日)の記述、すなわち普遍教会における規律の一致を守るための教会法典の規定に関して権限のある領域と、そして地方教会における執行権と交わりの教会的ダイナミズムを元にした教会の諸慣行は、司教たちに委ねる、という線で進むことができます(同序文)。

104.  さらに、教会法的な規則を起草することは、シノダル(共働的)な様式を実践する場ともなります。規則を生み出すことは、権威によって付与された力の行使であるとみなされるだけでなく、真の教会的識別であるとみなされるべきです。それが、法制化に携わる全権を用いるだけだとしても、そうすることで、権威は、聖霊において正しく必要なことを聴いたことの実りである規則をシノダルな方法で公布することができるし、そうする必要があります。

105.  すでに述べた使徒憲章『Praedicate Evangelium』は、シノダル(共働的)で派遣的な方法で、ローマ司教と司教団に対するバチカン聖庁の奉仕を表明しました。透明性と説明責任を堅持するために、その働きの定期的な評価がなされるべきであり、また独立した団体(枢機卿会議、あるいはシノドスで選ばれた司教会議など)にその評価は委ねられるべきです。

   第8研究グループには、シノダルな派遣の観点から教皇庁の代表者たちの役割を調査検討することと、その職務をどう評価するかについて探求することが委ねられています。

106.  世界代表司教会議(シノドス)の第16回総会第1会期の参加者たちは、その成果を評価する必要を指示しています(第1会期の総括文書20項j)。この評価は、シノドスを「一過性のイベント」から「教会の空間的時間的に広がるプロセス」へと変えた使徒憲章『Episcopalis Communio』がもたらした展開を無視することはできません。

    全教会の次元でシノダリティ(協働性)と団体性を実践する場のなかで、シノドスは確かに傑出しています。パウロ6世によって、公会議の様式で、教会全体のために教皇を支える司教たちの会議として設けられ、いくつかの段階を経て、、シノダリティ(共働性)、団体性、首位性のダイナミックな関係が実現され、養われる場となっています。

  すべての聖なる神の民、個々の部分を委ねられている司教たち、そして一致の根源としてのローマ司教が、それぞれの働きに従ってシノダルな過程に十全に参加するのです。この参加は、ローマ司教の周りに集められたシノダルな集会によって表現されています。それは、その構成において、「『一致の秘跡』、すなわち司教たちのもとに一つに集められ秩序づけられた聖なる民」(「典礼憲章」26項)としての教会の多様性と普遍性を示しています。

107.  2021年から2024年にかけての”シノドスの道“の歩みの最も重要な実りの中に、教会一致(エキュメニズム)のはずみとそれを印す約束があります。ペトロの奉仕職の行使の問題も教会一致の観点から考えることで、その奉仕職に“新しい状況”(聖ヨハネ・パウロ2世の回勅『キリスト者の一致』95項)が開けてくるかもしれません。

  キリスト教一致推進省が最近発行した文書『ローマ司教:教会一致の対話における首位性とシノダリティ、そして回勅「キリスト者の一致」への応答』は、将来の研究のための見識を提供しています。この主題は第10研究グループの業務の一部分であり、教会の実践におけるエキュメニカルな旅の成果を受け止めることになります。

108.  シノドス総会第1会期に他の諸教会と教会的共同体の兄弟的な使節が参加したことで豊かになった私たちは、東方においても西方においても、エキュメニカルなパートナーによって、どのようにシノダリティ(協働性)が実践されているのか、その理解と評価を深めるよう促されています。

  エキュメニカルな対話は、シノダリティと教会一致の理解を深めるための基本です。とりわけ、この対話によって、共有すべき、また急を要する関心をどのように協議し、また識別するかを含めて、真にエキュメニカルでシノダルな実践をイメージするよう促されています。

  この可能性の根底には、私たちは一つの洗礼において一致しており、そこから神の民のアイデンティティと、交わり・参加・派遣のダイナミズムが流れ出ている、という事実があるのです。

 

(以上、100項から108項まで、「西方の司祭」試訳=第二バチカン公会議の諸文書については、カトリック中央協議会による改定公式訳を使用)

 

 

 

【結びに – 世界の中のシノダル(共働的)教会】

 

109.この世のあらゆるものはつながっており、他者への絶え間ない憧れによって特徴づけられています。あらゆるものは「関係への呼びかけ」であり、究極的には「誰も、いかなる物も自給自足ではない」という事実を証しています。

 キリスト教の啓示の光に照らしてみると、全世界は、それを超越し、活気づける存在の秘跡的なしるしであり、神との出会いへと導きます。そして最終的には、神が聖なる山に用意した終末論的な宴で完全に実現され、異なったもの共生の中で成就されます。

 

110. 復活の宣言によって変容した教会は、預言者イザヤのビジョンが息づき、生き生きと息づく場所、「弱い者の砦、苦難の中にある貧しい者の砦、豪雨を避ける逃れ場、暑さを避ける日陰」(旧約聖書・イザヤ書 25章4節)となることを目指しています。

 そのようにして、教会は、神の国に心を開きます。教会の人々が主の霊に導かれ、これまで垣間見たことのない地平に踏み出すとき、彼らは計り知れない喜びを経験します。その素晴らしさ、謙虚さ、簡明さにおいて、”シノドスの道“が私たちに求めている、教会のあり方の継続的な転換です。

 

111. 回勅「Fratelli Tutti(兄弟の皆さん)」は、復活したキリストにおいて兄弟姉妹として私たち自身を認識するよう呼びかけ、これを地位としてではなく生き方として提案しています。回勅は、私たちが生きている時代と神が用意した共生のビジョンとの対比を強調しています。

イザヤが名付けた喪のベール、覆い、涙は、私たちの時代にも存在しています。それらは、私たちが互いにますます孤立し、世界がますます暴力と二極化しており、生命の源から引き離されていることの結果であることが多いのです。

 この討議要綱が提示する問いかけは、「宣教においてシノダル(共働的)な教会となるにはどうすればよいか」「深く傾聴し、対話するにはどうすればよいか」「個人および共同体の洗礼召命のダイナミズムに照らして、どのように共同責任を負うべきか」「聖霊が各人に注いでいるカリスマを、すべての人が参加、共有できるように構造とプロセスを変革するにはどうすればよいか」「権力と権威を奉仕として行使するにはどうすればよいか」などです。これらの質問はどれも教会への奉仕であり、教会の活動を通じて現代の最も深い傷を癒す可能性への奉仕です。

 

112. 預言者イザヤは、賛美の歌で(「主の山における祝宴の」預言を締めくくります。「この方こそ私たちの神。私たちはこの方を待ち望んでいた。この方は私たちを救ってくださる。この方こそ私たちの待ち望んでいた主。その救いに喜び踊ろう」(イザヤ書25章9節)。

 神の民として、私たちはこの賛美に加わり、希望の巡礼者として、救いの福音の宣言を待ち望んでいる人々に向かって、“シノドスの道‷を進み続けましょう!

 

(完)

(以上109から112まで「カトリック・あい」南條俊二試訳、聖書の日本語訳は「聖書協会・共同訳」を使用)

 

 

 

 

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2024年7月20日

・「10月のシノドス総会第2会期では『教会における女性の役割』に重点が置かれる」とインドのグラシアス枢機卿

(2024.7.13 Crux  Contributor  Nirmala Carvalho)

ムンバイ発 – アジアのカトリック教会で最高位の指導者の一人であり、教皇フランシスコの顧問団の一員でもあるインド・ムンバイの大司教、オスワルド・グラシアス枢機卿が13日、Cruxとの会見に応じ、10月に開かれる世界代表司教会議(シノドス)通常総会・第2会期では、先にシノドス事務局が発表した討議要綱で「女性助祭」がテーマから外されたにもかかわらず、「女性の役割」に討議の重点が置かれる、との見通しを示した。

 会見でグラシアス枢機卿は、10月の会議について、「女性について多くの議論が行われるでしょう」としたうえで、「教会において、女性に正当な地位を与えなければならないのは、非常に明白です… そのことに疑問の余地はありません」と言明した。

 枢機卿は、2006年以来、ムンバイの教会を率い、2013年から2019年までアジア司教協議会連盟の会長を務めた。また、米国のショーン・オマリー枢機卿とともに、2013年に教皇の枢機卿顧問会議が設立されて以来、メンバーであり続けている。

 シノドス事務局が9日に発表した、10月の第2会期に向けた討議要綱では、かねてから教会関係者の間で議論されている女性を助祭叙階の可能性について一切触れられていない、との指摘が一部に出ている。

 教皇は5月に放映された米CBSとのインタビューで、女性助祭の叙階について否定する発言をしたが、シノドス事務局は7月9日の記者会見で、この問題はバチカンの教理省がさまざまなテーマを扱う幅広い研究グループの検討対象の一つとして取り上げる予定だと述べていたが、グラシアス枢機卿は、「第2会期の会議の議題に助祭叙階問題が含まれないということは、女性問題が無視されることを意味するものではない」と語り、「私たちは、女性が、教会、特に教会の意思決定においてより大きな役割を果たすあり方について議論します」と明言した。

 そして、2021年に始まった現在の”シノドスの道”の歩みの課題の一つは、「カトリック教会の世界的な複雑さに対して解決策を見つけることです」とし、「こうした文脈の中で、教会が普遍的であること、そして一方でインドの状況、アフリカの状況、欧州の状況など多様であること」を念頭に置く必要があり、「そして、すべての人の感受性と、すべての人の司牧上の要請を心に留めておかなければなりません」と指摘した。

 また、今回の討議要綱には、「同性愛者」「性的指向」「ゲイ」への言及が一切なく、この問題を軽視しているように見える、との指摘も一部にあるが、「LGBTQ+コミュニティへの司牧上の働きかけを、会議が無視することはありません」と述べ、「私たちはこれまで、包括的な教会について話してきた。それは『すべての人』を意味します。教皇は特に、障がい者や疎外された人々、さらには性的指向の異なる人々にも気を配ってきました」と説明した。

枢機卿は、このような問題で「教義の変更を期待すること」に対して否定的な見方をしつつも、「私たちは彼ら(LGBTQ+コミュニティの人々)を人として拒絶しているわけではありませんが、気をつけねばならないのは、私たちが何らかの声明を出した場合、『教会が道徳的な立場を変えた』と解釈される可能性があることです。そういうことではありません。教会の立場はとても一貫しています。福音書は、主が私たちに望んでおられることを非常に明確に示しています。教皇は深い祈りと信仰の人であり、主と聖霊が望んでいる方向に教会を導いておられます」と強調。

 「討議要綱は、教えるためのものではなく、考えるための刺激となるもの」と述べた枢機卿は、「10月のシノドス総会第2会期では、4週間かけて、さまざまなトピックについて議論する予定です。司教、信徒、修道者、教区司祭などが参加し、結論を教皇にお示しします。そして教皇は、顧問団などの意見を聞いて、最終的な文書にされます」を説明した。

 さらに、”シノドスの道”の歩みについて、「全体として、計画通りに進んでいます。非常に順調です。ちょうど1週間前にローマから戻ったところですが、ローマ滞在中に、教皇や関係の人々と意見を交換し、会議の進め方について話し合いました」と述べ。「”シノドスの道”は来年の聖年に結びつきます。聖年は人々に希望を与え、神に感謝し、未来を計画するためのものあり、”シノドスの道”も人々に希望を与え、未来を計画し、すべての善に対して神に感謝するものとなるでしょう」と、来年の聖年への希望を語った。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2024年7月16日

(評論)シノドスの討議要綱に書かれなかった課題ー女性助祭、既婚の司祭、LGBTQ+… (Crux)

(2024.7.10 Crux  Senior Correspondent   Elise Ann Allen) 

 ローマ 発– バチカンでの9日の記者会見で発表された世界代表司教会議(シノドス)第16回通常総会の第2会期のための討議要綱は、それが「何を言っているか」よりも「何を言わなかったか」の方が注目に値すると、ほとんどの”バチカン・オブザーバー”が評価するかもしれない。

 昨年10月の第1会期の終わりに、1か月に及ぶ議論をまとめた統合文書は、既婚司祭、女性の叙階、LGBTQ+の受け入れなど、最も議論を呼び続けている問題について行動を促すのを期待していた人々を失望させた、と広く受け止められた。統合文書に不満を持つ人々は、今回の討議要綱が「司祭の独身制や既婚の司祭職について言及しておらず、LGBTQ+コミュニティへの言及もないこと」に改めて不満を抱く可能性がある。

 たしかに討議要綱には、「同性愛者」、「指向」、「同性愛者」についての言及はないが、「さまざまな理由で、教会共同体から排除されている、または排除されていると感じている人々、または教会共同体の中で自分の尊厳と賜物を完全に認識するのに苦労している人々に関する」、世界のすべての地域の願望を一般論として認めている。「この心からの受け入れの欠如は、そうした人々に『拒絶された』と感じさせ、信仰の旅路における主との出会いを妨げ、教会から宣教への貢献を奪う」と記述している。

*教会における女性の役割については

 女性については、統合文書と同様に、「女性がリーダーシップと統治の役割をより頻繁に担い、女性のより大きな包摂を促進することを望んでいること」を認めている。女性の司祭叙階や女性の司祭職に関する具体的な説明はないが、世界の司教協議会に「女性がすでに行っていることを認め、これらの役割をさらに発展させる」よう呼びかけ、「現代の司牧的必要に応えて、聖霊が女性に注ぐカリスマと賜物をよりよく表現する、聖職者と司牧の様式の探求」を呼びかけている、としている。

 討議要綱は、「教会の識別の過程と意思決定過程のすべての段階」に女性がより広く参加し、「既存の規定に沿って、教区と教会機関の責任ある地位へのより広いアクセス」を提案。「奉献された女性の人生とカリスマ、そして責任ある地位に就くことに対する認識と支援の拡大」、女性が「神学校、研究所、神学部の責任ある地位に就くこと」、そして「すべての教会法上の手続きにおける女性裁判官の数を増やすこと」なども求めている。

 女性の司祭職について、「いくつかの司教協議会がそれへの対応を求めたが、他の司教協議会は反対を表明」しており、「第2会期の作業の主題ではないこの問題について、神学的考察が適切な時間スケールで適切な方法で継続されるべきである」と述べるにとどまった、と指摘した。

 教皇フランシスコは、教会の統治と改革について助言する枢機卿顧問会議という最高諮問機関で、女性の参加の在り方について方法を検討してきた。昨年12月以来、このグループは、教会の生活とリーダーシップに女性をよりよく参加させる方法について、助祭叙階を含む、指導的立場にある女性たちからいくつかの提案を聞いてきた。

 教皇は先の米CBSのインタビューで、「女性が司祭や助祭に叙階されることは、起こらないだろう」と答えているが、討議要綱は、聖職の特定の形態、および教会の生活と指導への女性の参加に関するいくつかの神学的および教会法上の問題が「シノドス事務局との対話の中で、バチカン教理省に委ねられ」、議論されている、と”継続案件”であることを示している。

*聖職者による性的虐待問題も

 また討議要綱は、聖職者による虐待スキャンダルについても取り上げている。教会は、著名な芸術家で元イエズス会士、マルコ・ルプニク神父が数十年にわたって30人以上の成人女性を虐待したとして告発され、教理省によって調査されている事件など、収まることのないスキャンダルに動揺し続けている。

 関連して聖職者の権力濫用問題については、文「聖職者主義が濫用の原因」と非難し、透明性と説明責任の強化を求める声が出ていることを指摘。「現代において、教会内および教会による透明性と説明責任の要求は、金融スキャンダル、さらには未成年者や弱い立場の人々に対する性的虐待やその他の虐待による信頼の喪失の結果として生じている」と述べている。

*説明責任と透明性は司教にとどまらず、あらゆるレベルに

そのうえで、教会がよりシノダル(共働的)となり、それゆえに、より歓迎的であるためには、「説明責任と透明性が、権威(司教)のレベルにとどまらず、あらゆるレベルでの行動の核心に置かねばならない」と強調。

さらに、「権威ある立場にある人々は、この点に関してより大きな責任を負っている」と述べ、司牧計画の起草、福音宣教の方法、そして「教会が人間の尊厳をどのように尊重するか、例えば、その機関内の労働条件」に関して検討する際に、「透明性と説明責任を従来よりも重く考慮する必要がある」とし、「上司に対する説明責任の実践」は、教会では一般的な慣習になってきたが、「(軽視されてきた)権威を持つ者(司教)の教会共同体に対する説明責任」も果たされねばならない、と言明している。

そして、「透明性は、教会における権威の行使の特徴でなければならない。今日では、あらゆる分野のトップの責任がどのように行使されているかについての定期的な評価の構造と形式が、必要に応じて浮上している」と述べている。

・・・・・・・・・・・・・・・

 この討議要綱は、昨年10月の総会第一会期の会期末に公表された統合文書に対する反省と議論をまとめた様々な報告書に基づいて編纂され、公表され、世界の司教協議会からの意見などをもとにまとめられた。

 バチカンからの情報メモによると、6月30日までに、バチカンのシノドス事務局は、司教会議、様々な宗教団体、大学、学部、信者団体、個々の共同体や個人を含む200以上の国際機関から、統合文書に関する108件の報告を受けました。

 この討議要綱は、世界中の司教、司祭、修道士、平信徒を含む神学者のグループによって書かれ、シノドスの通常評議会のメンバーが最終調整を行った後、教皇フランシスコに正式に提出されました。

 シノドスの通常評議会のメンバーは、ジャン・クロード・オロリッシュ枢機卿(ルクセンブルク)、シノドス事務局長 のマリオ・グレック枢機卿(マルタ)。同事務局次長のルイス・マリン・デ・サン・マルティン司教(スペイン)とシスター・ナタリー・ベクカート(フランス)だ。

 討議要綱の原案は、司祭、奉献者、平信徒、神学者、司牧者など、さまざまな教会の階級を代表する約70人に送られ、いくつかの修正の後、文書は通常公会議に送り返され、その後、教皇に承認を求めて送付する前に、さらに調整が加えられた。

 討議要綱は5つのセクションに分かれ、序論から始まり、シノドスを理解するための基礎に捧げられたセクションが続く。教会の「宣教シノドス生活」に焦点をあてた「密接に絡み合った」3つの部分が続き、その第1は、「神との関係」「他者との関係」「教会間の関係」の視点だ。

 第4部では、前節で探求した関係のダイナミックさを具体的に支え、育む道に焦点を当て、第5部では、信仰に根ざした、これらの関係の具体的な場所、およびこれらの関係の違いと相互関係の性質に捧げられている。

 また、情報ノートが「神学的助成」と呼ぶものを提供し、instrumentum laborisで提示されたさまざまなテーマの正典的および神学的参照を提供します。これらの言及は、シノドスの参加者が作業文書の内容の根源を理解するのを助けることを目的としており、聖書、教会の伝統、第二バチカン公会議、教皇フランシスコの教導文書からの参照を指し示しています。

 今年10月のシノドスに関する世界代表司教会議総会の最終会合では、過去と同様に、教皇に提出する最終文書が作成され、熟考と使徒的勧告の可能性が期待されているが、女性の助祭叙階のような具体的な問題への言及が欠如していることから、一部のオブザーバーは、教皇が「最初からコンセンサスを欠いたホットな問題で議論を脇道に逸らさないように、潜在的に扇動的な問題をテーブルから外した」と見ている。

 教皇は昨年10月の総会第一会期の開会に先立って、5人の保守的な枢機卿がこれらの問題について提起した一連の疑念に対する回答を発表し、その中で、女性の司祭叙階の禁止を再確認する一方、それは「研究可能である」と述べ、条件付きで同性婚の祝福に慎重な扉を開いた際にも、同様の対応をしている。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

・・Cruxは、カトリック専門のニュース、分析、評論を網羅する米国のインターネット・メディアです。 2014年9月に米国の主要日刊紙の一つである「ボストン・グローブ」 (欧米を中心にした聖職者による幼児性的虐待事件摘発のきっかけとなった世界的なスクープで有名。映画化され、日本でも全国上映された)の報道活動の一環として創刊されました。現在は、米国に本拠を置くカトリック団体とパートナーシップを組み、多くのカトリック関係団体、機関、個人の支援を受けて、バチカンを含め,どこからも干渉を受けない、独立系カトリック・メディアとして世界的に高い評価を受けています。「カトリック・あい」は、カトリック専門の非営利メディアとして、Cruxが発信するニュース、分析、評論の日本語への翻訳、転載について了解を得て、掲載しています。
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2024年7月11日

(評論)シノドス討議要綱でバチカンは教会の四つの統治改革を提示している(La Croix)

(2024.7.10 La Croix   Loup Besmond de Senneville In Rome)

   The mountain that labors bring forth a mouse?(大山鳴動して鼠一匹、となってしまうのだろうか?)という一部の懸念をよそに、 バチカンが9日、10月の世界表司教会議(シノドス)総会の第二会期に向けた「Instrumentum Laboris(作業用具=バチカン放送日本語訳は「討議要綱」)」を発表した。約30ページ、111項目からなる文書は、「カトリック教会の内部意思決定プロセスにおける重大な変化」を明らかにし、4つの改革を提案している。

 討議要綱は、全体を通して、「カトリック教会内の意思決定を再考し、司教の権威を変えることなくすべての信者の参加を促進することの重要性」を強調している。その意図するところは、「教会における階層的なピラミッドを廃止すること」ではなく、「いくらか平らにし、頂点を底辺に近づけること」にある。

 密度が高く、やや技術的な内容のこの討議要綱は、ガバナンスの問題に焦点を当てている。この作成に当たって今年3月、昨年10月のシノドス総会第一会期で最も注目を集めた問題(女性の助祭、同性愛者の歓迎、独身制)を”脇に置く”ために10の作業グループが設けられている。

*提案された 4 つの改革

第 1 のポイント: 教会活動への女性の参加

  バチカンのシノドス事務局長は、時として「マッチョ」な文化を非難し、「教会の識別プロセスへの女性の幅広い参加」を推奨。また、女性が教区、神学校、トレーニング センターで「責任ある地位」に就き、「教会法のプロセスにおける裁判官」としての役割を担うことを提案している。

第 2 のポイント: 「信徒奉仕」の拡大

 信徒による奉仕の拡大は、第 2 バチカン公会議によってすでに開かれており、近年ではカテキスタ、朗読者、侍者奉仕の創設によって実証されている、これは必ずしも「典礼の領域」に結び付けられてはいない。「傾聴と伴走の奉仕」の創設は、「さまざまな理由で教会共同体から排除されている、または排除されていると感じている」人々を考慮するために推奨されている。討議要綱は、教会の包括的な側面を繰り返し強調し、信徒が「ミサ聖祭の儀式中を含め、神の言葉の説教に貢献できる」と考えている。信徒奉仕の拡大は、多くの司祭が感じている”作業負荷”を軽減するのに役立つだろう。ローマは「司牧活動の考え方と組織化の新しい方法」を推進し、司祭と信徒の間で「仕事の再配分」につながる。

透明性

 第3のポイント:教会の意思決定プロセスの再考

 教会の意思決定者の身元は変わらない。それは常にその地域の司教だが、「シノダル(共働的)な教会」では、「権威の行使は恣意的な意志を押し付けるものではなく、むしろ神の民の一致への奉仕として、聖霊が要求するものを共同で探求する力となる」べき、と述べている。この点で、イエズス会の霊性において特に重要とされている「識別」が、この討議要綱の中心となっている(この言葉は50回も登場している)。教区は現在よりもさらに強固な協議プロセスを確立すべきである、とし、参加者として、イタリアなどの一部の国ですでに行われているように、さまざまな「評議会」(小教区あるいは教区)のメンバーが選出される可能性を示している。

 第4のポイント:教会の階層による決定の透明性と説明責任の確立

 また討議要綱は、「金融スキャンダル、さらには未成年者や社会的弱者に対する性的虐待やその他の虐待」によって失われた教会への信頼性を取り戻すために、緊急に求められている、と強調。

 「透明性と説明責任の欠如は、”聖職者主義”を助長している。『聖職者は、与えられた権限の行使について誰に対しても説明責任を負わない』という暗黙の前提に基づいている」と指摘し、これに対処するために、教区は、例えば、「安全防護(未成年者や社会的弱者の保護)の分野や、女性の権威ある地位へのアクセスと意思決定および意思決定プロセスへの参加の促進の分野で行われた取り組みの実例を含む、使命の遂行に関する年次報告書」を通じて「財政的および司牧的な決定を報告」することが求められる。

 以上のような論理の転換は、10月2日からローマで会合するシノドス総会第二会期の会合で決定される。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

(注:LA CROIX internationalは、1883年に創刊された世界的に権威のある独立系のカトリック日刊紙LA CROIXのオンライン版。急激に変化する世界と教会の動きを適切な報道と解説で追い続けていることに定評があります。「カトリック・あい」は翻訳・転載の許可を得て、逐次、掲載していきます。原文はhttps://international.la-croix.comでご覧になれます。
LA CROIX international is the premier online Catholic daily providing unique quality content about topics that matter in the world such as politics, society, religion, culture, education and ethics. for post-Vatican II Catholics and those who are passionate about how the living Christian tradition engages, shapes and makes sense of the burning issues of the day in our rapidly changing world. Inspired by the reforming vision of the Second Vatican Council, LCI offers news, commentary and analysis on the Church in the World and the world of the Church. LA CROIX is Europe’s pre-eminent Catholic daily providing quality journalism on world events, politics, science, culture, technology, economy and much more. La CROIX which first appeared as a daily newspaper in 1883 is a highly respected and world leading, independent Catholic daily.
2024年7月11日

・シノドス総会第2会期の討議要綱・公式英語訳全文

 

=バチカンの公式英語訳全文=

“Instrumentum laboris” for the Second Session of the 16th Ordinary General Assembly of the Synod of Bishops (October 2024), 09.07.2024

 

XVI ORDINARY GENERAL ASSEMBLY OF THE SYNOD OF BISHOPS

How tobe a missionary synodal Church

Instrumentum laboris for the Second Session (October 2024)

Table of Contents

Introduction. I

Three years on the road.

A working tool for the Second Session.

Foundations

The Church, People of God, sacrament of unity.

The shared meaning of synodality.

Unity as harmony in diversity.

Sisters and brothers in Christ: a renewed reciprocity.

Call to conversion and reform.

Part I – Relations

In Christ and in the Spirit: Christian initiation.

For the People of God: charisms and ministries.

With ordained ministers: at the service of harmony.

Between the Churches and in the world: the concreteness of communion.

Part II – Pathways

An integral and shared formation.

Ecclesial discernment for mission.

Decision-making processes.

Part III – Places

Areas of shared journeying.

Local Churches in the one and unique Catholic Church.

The bonds that shape the unity of the Church.

The service to unity of the Bishop of Rome.

Conclusion – The Synodal Church in the World

Abbreviations

AG VATICAN COUNCIL II, Decr. Ad Gentes (7 December 1965)

CD VATICAN COUNCIL II, Decr. Christus Dominus (28 October 1965)

CIC Codex iuris canonici (25 January 1983)

ITC INTERNATIONAL THEOLOGICAL COMMISSION, Synodality in the Life and Mission of the Church (2 March 2018)

DCS GENERAL SECRETARIAT OF THE SYNOD, Document for the Continental Stage (27 October 2022)

DV VATICAN COUNCIL II, Const. Dogm. Dei Verbum (18 November 1965)

EG FRANCIS, Ap. Exhort. Evangelii Gaudium (24 November 2013)

GS VATICAN COUNCIL II, Past. Const. Gaudium et spes (7 December 1965)

LG VATICAN COUNCIL II, Dogm. Const. Lumen Gentium (21 November 1964)

LS FRANCIS, Enc. Lett. Laudato si’ (24 May 2015)

PE FRANCIS, Ap. Const. Praedicate Evangelium (19 March 2022)

SR XVI ORDINARY GENERAL ASSEMBLY OF THE BISHOPS SYNODOX, Synthesis Report (28 October 2023)

SC VATICAN COUNCIL II, Const. Sacrosanctum Concilium (4 December 1963)

UR VATICAN COUNCIL II, Decr. Unitatis redintegratio (21 November 1964)

UUS JOHN PAUL II, Encyclical Letter Ut unum sint (25 May 1995)

Introduction

On this mountain the Lord of the universe will make for all peoples a feast of rich food, a feast of well-aged wines,of rich food filled with marrow, of well-aged wines strained clear. And he will destroy on this mountain the shroud that is cast over all peoples, the sheet that is spread over all nations; he will swallow up death forever. Then the Lord God will wipe away the tears from all faces, and the disgrace of his people he will take away from all the earth, for the Lord has spoken Is 25:6-8

The prophet Isaiah presents the image of a superabundant and sumptuous banquet prepared by the Lord on the mountaintop, a symbol of conviviality and communion intended for all peoples. At the moment of returning to the Father, the Lord Jesus entrusts his disciples with the task of reaching out to all peoples to serve them a banquet of food that gives them the fullness of life and joy. Through his Church, guided by his Spirit, the Lord wants to rekindle hope in the hearts of humanity, restore joy and save all, especially those whose faces are stained with tears and who cry out to Him in anguish. Their cries reach the ears of all Christ’s disciples, men and women who walk in the depths of human affairs. Their cries are amplified at a time when the Synod’s journey has been accompanied by the outbreak of new wars, adding to the too many that continue to stain the world with blood.

At the heart of Synod 2021-2024, “For a Synodal Church. Communion, participation, mission” is a call to joy and to the renewal of the People of God in following the Lord and in their commitment to serving His mission. The call to be missionary disciples is based on our common baptismal identity and is rooted in the diversity of the contexts in which the Church[1] is present and finds its unity in the one Father, the one Lord, and the one Spirit. It is a call to all the baptised, without exception: “The whole People of God is an agent of the proclamation of the Gospel. Every baptised person is called to be a protagonist of mission since we are all missionary disciples” (ITC, no. 53). This renewal is expressed in a Church that, gathered by the Spirit through Word and Sacrament (cf. CD 11), proclaims the salvation it continually experiences to a world hungry for meaning and thirsting for communion and solidarity. For this world, the Lord prepares a banquet on his mountain.

We renew our commitment to this mission today bypractising synodality, which is an expression of the Church’s nature. Growing as missionary disciples means answering Jesus’ call to follow Him, responding to the gift we received when we were baptised in the name of the Father, the Son and the Holy Spirit. It means learning to accompany each other as a pilgrim people journeying through history towards a common destination, the heavenly city. By walking this path, nourished by the Word of God and the Eucharist, we are transformed into what we receive. Thus, we understand that our identity as a people saved and made holy has an inescapably communal dimension, fashioning us into a community that embraces the generations of believers who have preceded us and those who will follow us. The salvation to be received and borne witness to is relational since no one is saved alone. Or rather, using the words offered by an Asian Episcopal Conference, we grow gradually in our awareness that “Synodality is not simply a goal, but a journey of all the faithful, to be accomplished together hand in hand. This is why understanding its full meaning takes time” (CE Bangladesh).[2] St Augustine speaks of the Christian life as a pilgrimage in solidarity, a walking together “towards God not in steps, but with the affections” (Augustine, Discourse 306 B, 1), sharing a life of prayer, proclamation and love of neighbour.

The Second Vatican Council teaches that “All people are called to this union with Christ, who is the light of the world; from him we come, through him we live, and towards him we direct our lives” (LG, no. 3). At the heart of the synodal journey lies the desire, ancient and ever new, to communicate to all the promise and the invitation of the Lord kept in the living tradition of the Church, to recognise the Risen Lord’s presence in our midst and to welcome the many fruits of the Spirit’s action. This vision of the Church – a pilgrim people in every part of the world seeking synodal conversion for the sake of mission – guides us as we move forward on this path with joy and hope. It is a vision that contrasts starkly with the reality of a world in crisis, whose wounds and scandalous inequalities resonate deeply in the hearts of all Christ’s disciples. It prompts us to pray for all victims of violence and injustice and to renew our commitment to work alongside the women and men who are artisans of justice and peace in every part of the world.

 

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Three years on the road

After the opening of the synodal process on 9-10 October 2021, the local Churches worldwide, at different paces and in diverse ways, embarked on an initial listening phase. Belonging to the Church means being part of the one People of God, composed of people and communities living in concrete times and places. Synodal listening started from these communities, moving through diocesan, national and continental stages as part of a continuous dialogue the General Secretariat of the Synod helped foster by publishing synthesis and working documents. The circularity of the synodal process recognises and enhances the Church’s rootedness in various contexts, serving the bonds that unite them.

An innovation of the first stage was theconvening of Continental Assemblies. These brought together the local Churches of the same region, inviting them to learn to listen to each other, to accompany each other on the journey, and to discern together the main challenges to fulfilling the mission present in their contexts.

The First Session of the XVI Ordinary General Assembly of the Synod of Bishops (October 2023) opened the second phase, which welcomes the fruits of this listening in order to discern in prayer and dialogue the steps that the Spirit is asking us to take. This phase will continue until the end of the Second Session (October 2024), when the Holy Father will be offered these fruits in preparation for further implementation by the local Churches.

The preparation of the Second Session is necessarily based on the results of the First Session presented in the Synthesis Report (SR). Consistent with the circularity characterising the whole synodal process and in order to provide a clear focus for the work of the Second Session, a further consultation of the local Churches was launched, guided by the question: “How tobe a synodal Church in mission?” As the document Towards October 2024[3] explains, the objective of the consultation was ” to identify the paths we can follow and the tools we might adopt in our different contexts and circumstances in order to enhance the unique contribution of each baptised person and of each Church in the one mission of proclaiming the Risen Lord and his Gospel to the world today. This is not, therefore, a request that limits you to a plan of technical or procedural improvements to make the Church’s structures more efficient, but rather an invitation for reflection on the concrete forms of the missionary commitment to which we are called, that express the dynamism between unity and diversity proper to a synodal Church.”

The drafting of this Instrumentum laboris for the Second Session has been done in the light of the answers to the guiding question sent in by most of the Episcopal Conferences (EC) and their continental groupings, the Eastern Catholic Churches, the Dioceses that are not part of an Episcopal Conference, the Dicasteries of the Roman Curia, the Union of Superiors General and the International Union of Superiors General representing consecrated life, as well as the testimonies of experiences and good practices received from all over the world and the observations of almost two hundred groups: university faculties, associations of the faithful, communities and individuals from all over the world. In this way, it is rooted in the life of the People of God present throughout the world.

These voices expressed gratitude for the journey made and witnessed to the hardships it sometimes requires, but above all, they spoke of the desire to move forward. As a North American Episcopal Conference says, “gratitude for this synodal journey is profound. Much has been done to move along the synodal path as companions in the U.S. Church. Mindful of Pope Francis’ notion of a culture of encounter, tensions remain that will require continued reflection and dialogue. These tensions need not disrupt the communion of charity in the Church.” (EC USA). They also remind us that there is still a long way to go.

As in previous phases, the benefits of adopting the method of conversation in the Spirit have once again been reaffirmed. Note, for example, the words of one federation of Episcopal Conferences: “Many of the reports across Asia show tremendous enthusiasm for the synod methodology, which uses conversation in the Spirit as the starting point for the synodal journey. Many dioceses and conferences have introduced this method into their existing structures with great success.” This enthusiasm has already translated into steps taken to experiment with a more synodal way of proceeding. In one European Episcopal Conference: “it was decided [in the light of this] to implement a five-year synodal trial phase. The forms of synodal consultation, dialogue, discernment, decision-making and decision-making are to be developed, evaluated and refined at the national level. Diocesan experience and synodal developments in the universal Church will be taken into account. We are at the beginning of a challenging but important learning journey”. There is great awareness in the reports of the value of the local Churches and their journeys, of the richness of which they are bearers and of the need for their voices to be heard. According to one report received from an African Episcopal Conference: “Local Churches are not to be viewed and treated any more simply as recipients of the Gospel with nothing or very little to contribute”.

To these contributions were added the fruits of the International Meeting “Parish Priests for the Synod” (Sacrofano [Rome], 28 April – 2 May 2024), which enabled priests engaged in Parish ministry to be heard. The syntheses of the working groups express, above all, “their joy for the opportunity to truly listen to one another. It was an enriching experience in fostering a deep sense of understanding and appreciation for one another’s unique backgrounds.” They also express “a need to understand the role of Parish priest in the context of synodality acknowledging the various traditions in the Church” and the concern about not being able to reach the peripheries and those who live on the margins: “If the Church wants to be synodal, it must listen to these people”.

Similarly, this Instrumentum laboris has drawn from material produced by the five Working Groups set up by the General Secretariat of the Synod. These groups were composed of experts from different parts of the world, women and men, and those with different ecclesial roles.Using a synodal method, they have deepened theological and canonical reflection onthe meaning of synodality and its implications for the life of the Church.[4]

A group of experts, comprised of bishops, priests, consecrated and lay men and women, theologians, canonists and biblical scholars from all continents and with different ecclesial roles, was entrusted with reading and interpreting the contributions and materials received and compiling answers to the guiding question. Their work contributed to the drafting of this Instrumentum laboris. Their reflections, as well as those of the five Working Groups, mentioned above, will also feed into further material that will accompany this Instrumentum laboris, providing the theological foundations for some of its contents.

Alongside the preparatory work for the Second Session, the work of the ten Study Groups[5] has begun. They are entrusted with the task of delving into ten themes[6] emerging from the SR and identified by the Pope at the end of an international consultation. These Study Groups, made up of pastors and experts from all continents, use a synodal working method and are “constituted by common agreement between the Dicasteries of the Roman Curia responsible for the various themes and the General Secretariat of the Synod, which is entrusted with the coordination”, according to the Chirograph signed by Pope Francis on 16 February 2024 and in the spirit of the Apostolic Constitution Praedicate evangelium (art. 33). They will complete their in-depth study by June 2025, if possible, but will offer a progress report to the Synod Assembly in October 2024. Ahead of the conclusion of the Second Session, Pope Francis has already accepted some of the requests of the First Session and begun the work of implementation in the form envisaged by the Apostolic Constitution Episcopalis Communio: “Together with the competent dicastery of the Roman Curia, as well as other dicasteries interested in various ways according to the theme and the circumstances, the General Secretariat of the Synod for its part promotes the implementation of the synodal recommendations approved by the Roman Pontiff.” (art. 20, c. 1). In agreement with the Dicastery for Legislative Texts, a Canon Law Commission has been set up to serve the Synod. Finally, following the request of the First Session (cf. SR 16q), on 25 April 2024, SECAM (Symposium of Episcopal Conferences of Africa and Madagascar) announced the establishment of a special Commission to discern the theological and pastoral implications of polygamy for the Church in Africa.

A working tool for the Second Session

Our journey has been characterised by silence, prayer, listening to the Word of God, dialogue and joyful encounters. It has not been without difficulties. Yet through this, as the People of God, we have matured into a deeper awareness of our relationship with each other as brothers and sisters in Christ, with a common responsibility to be a community of the redeemed that proclaims the beauty of the Kingdom of God to the whole world in word and life. This identity is not an abstraction but a lived experience imprinted with names and faces. In preparation for the Second Session, and during its work, we continue to address this question: how can the identity of the synodal People of God in mission take concrete form in the relationships, paths and places where the everyday life of the Church takes place?

This Instrumentum laboris serves that purpose, cohering also with what was said about the Instrumentum laboris prepared for the First Session: “it is not a document of the Magisterium of the Church, nor the report of a sociological survey; it does not offer the formulation of operative indications, of goals and objectives, nor the complete elaboration of a theological vision” (n. 10, cf. DCS n. 8). To understand this document, it is essential to place it within the synodal process as a whole. It is shaped by the circularity of dialogue between the Churches, supported by the work of the General Secretariat of the Synod. The First Session of the Assembly (2023) gathered the fruits of the local and continental consultations in search of the “characteristic signs of a synodal Church and the dynamics of communion, mission and participation that inhabit it” (SR, Introduction). Through prayer, dialogue and discernment, the First Assembly drew forth and expressed in the Synthesis Report the convergences, the matters that require consideration and the proposals. What emerged can be understood as an initial response to the question, “How does a Synodal Church describe itself?”. The Second Session does not retrace these steps but is called to go further, focusing on its guiding question: “How to be a synodal Church in mission?”. Other questions that emerged during the journey are the subject of work that continues in other ways, at the level of the local Churches as well as in the ten Study Groups. The two Sessions cannot be separated, nor can they be opposed. They are in continuity, and above all, they are part of a broader process which, as the Apostolic Constitution Episcopalis communio states, will not cease at the end of October 2024.

In practical terms, this Instrumentum laboris opens with a section dedicated to foundational understandings of synodality, presenting the awareness of synodality that has matured along the way and was approved by the First Session. This is followed by three closely interwoven sections, which illuminate the missionary synodal life of the Church from different perspectives: I) from the perspective of the Relationships – with the Lord, between brothers and sisters and between Churches – which sustain the vitality of the Church in ways more profound than the merely structural; II) from the perspective of the pathways that support the dynamism of our ecclesial relationships; III) from the perspective of the places that are the tangible contexts for our embodied relationships, marked by their variety, plurality and interconnection, and rooted in the foundation of the profession of faith, resisting human temptations to abstract universalism. Each of these Sections will be the object of prayer, exchange and discernment in one of the modules that will structure the work of the Second Session. Each participant will be invited to “offer one’s contribution as a gift for others and not as something absolute or certain” (SR, Introduction) on a path that the members of the Assembly are called to walk together. On this basis, a final document relating to the whole process will be drafted and will offer the Pope proposals on steps that could be taken.

We can expect a further deepening of the shared understanding of synodality, a better focus on the practices of a synodal Church, and the proposal of some changes in canon law (there may be yet more significant and profound developments as the basic proposal is further assimilated and lived.). Nonetheless, we cannot expect the answer to every question. In addition, other proposals will emerge along the way, on the path of conversion and reform that the Second Session will invite the whole Church to undertake. Among the gains of the process so far, we can include having experienced and learned a method for addressing questions together, in dialogue and discernment. We are still learning how to be a missionary synodal Church, but it is a task we have learned that we can undertake with joy.

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Foundations

This section of the Instrumentum laboris seeks to outline the foundations of the vision of a missionary synodal Church, inviting us to deepen our understanding of the mystery of the Church. It does not offer a complete treatise on ecclesiology but is placed at the service of the particular work of discernment to be undertaken by the Synodal Assembly of October 2024. Responding to the question “How to be a synodal Church in mission?” requires a horizon within which to place pastoral and theological reflections and proposals, helping to orient us on a path of conversion and reform. In turn, the concrete measures implemented by the Church will allow the horizon to be brought into sharper focus and a deeper understanding of foundations to be gained in generative reciprocity between theological reflection and pastoral practice that marks the entire history of the Church.

In Christ, light of all the nations, we are one People of God, called to be a sign and instrument of union with God and of the unity of all humanity. We do this by walking together in history, living the communion that is a partaking in the life of the Trinity, and promoting the participation of all in view of our common mission. This vision has deep and strong roots in the Church’s living tradition. The synodal process has simply allowed a renewed awareness of this vision to mature. This renewal is expressed in the convergences that have emerged during the journey since 2021 and have been collated by the First Session of the Synodal Assembly (October 2023). Its Synthesis Report presented them to the whole Church to aid the discernment that will complete the Second Session.

The Church, People of God, sacrament of unity

1. Baptism in the name of the Father, the Son and the Holy Spirit gives rise to the mystical, dynamic and communitarian identity of the People of God. It orients us to the fullness of life in which the Lord Jesus precedes us and to the mission of inviting every man and woman to accept the gift of salvation in freedom (cf. Mt 28:18-19). In Baptism, Jesus clothes us with Himself and shares His identity and mission with us (cf. Gal 3:27).

2. It has pleased God “to sanctify and save men and women not individually and without regard for what binds them together, but to set them up as a people who would acknowledge him in truth and serve him in holiness” (LG 9), sharing in the communion of the Trinity. In and through His people, God realises and manifests the salvation He gives us in Christ. Synodality is rooted in this dynamic vision of the People of God with a universal vocation to holiness and mission while being on a pilgrimage to the Father in the footsteps of Jesus Christ and animated by the Holy Spirit. This synodal and missionary People of God proclaims and bears witness to the Good News of salvation in the different contexts in which it lives and walks. Walking together with all the peoples of the earth, shaped by their cultures and religions, it dialogues with them and accompanies them.

3. The synodal process has developed a deeper awareness in us of what it means to be the People of God gathered as “the Church from every tribe, tongue, people and nation” (SR 5), living its journey towards the Kingdom in different contexts and cultures. The People of God is the communal subject that goes through the stages of salvation history on its way to fulfilment. The People of God is never simply the sum of the baptised; rather, it is the ‘we’ of the Church, the communitarian and historical subject of synodality and mission, so that all may receive the salvation prepared by God. Incorporated into this people through faith and Baptism, we are accompanied by the Virgin Mary, “a sign of sure hope and comfort for the pilgrim people of God ” (LG 68), by the apostles, by those who have borne witness to their faith to the point of giving their lives, and with the saints who have gone before us.

4. “Christ is the light of the nations” (LG 1), and this light shines on the face of the Church, which “is in Christ as a sacrament or instrumental sign of intimate union with God and of the unity of all humanity” (ibid.). Like the moon, the Church shines with reflected light: it cannot, therefore, understand its mission self-referentially but receives the responsibility of being the sacrament of bonds, relationships and communion in service to the unity of all humanity. We bear this responsibility in times now dominated by the crisis of participation, the absence of a sense that we have a common destiny, and a too-often individualistic conception of happiness and, therefore, of salvation. In living out this mission, the Church communicates God’s plan to unite all humanity to Himself in salvation. In doing so, it does not proclaim itself “but Christ Jesus the Lord” (2 Cor 4:5). If this were not so, it would lose its being in Christ “as a sacrament” (cf. LG 1) and therefore, its own identity and raison d’être. On the way to fullness, the Church is the sacrament of the Kingdom of God in the world.

The shared meaning of synodality

5. The terms synodality and synodal, derived from the ancient and constant ecclesial practice of gathering in synod[7], have been better understood and, above all, lived thanks to the experience of recent years. They have been increasingly associated with the “desire for the Church as God’s home and family, a Church that is closer to the lives of Her people, less bureaucratic and more relational” (SR 1b), the home and family of God. During its First Session, the Assembly converged in understanding the meaning of ‘synodality’, an understanding that underlies this Instrumentum laboris. The in-depth study groups now underway aim to better focus the Catholic perspective on this constitutive dimension of the Church in a dialogue with other Christian traditions that respect the differences and particularities of each one. In its broadest sense, “synodality can be understood as Christians walking in communion with Christ toward the Kingdom along with the whole of humanity. Its orientation is towards mission, and its practice involves gathering in assembly at each level of ecclesial life. It involves reciprocal listening, dialogue, community discernment, and creation of consensus as an expression that renders Christ present in the Holy Spirit, each taking decisions in accordance with their responsibilities. ” (SR 1h).

6. Synodality, therefore, designates “the particular style that qualifies the life and mission of the Church” (ITC, n. 70a), a style that starts from listening as the first act of the Church. Faith, which is born from listening to the proclamation of the Good News (cf. Rom 10:17), lives from listening: listening to the Word of God, listening to the Holy Spirit, listening to one another, listening to the living tradition of the Church and its Magisterium. In the stages of the synodal process, the Church once again has experienced what the Scriptures teach: it is only possible to proclaim what one has heard.

7. Synodality “ought to be expressed in the Church’s ordinary way of living and working. This modus vivendi et operandi works through the community listening to the Word and celebrating the Eucharist, the brotherhood [and sisterhood] of communion and the co-responsibility and participation of the whole People of God in its life and mission, on all levels and distinguishing between various ministries and roles” (ibid.). The term then indicates the ecclesial structures and processes in which the synodal nature of the Church is expressed at the institutional level, and finally designates those particular events in which the Church is convoked by the competent authority (cf. ibid). In describing the Church, the notion of synodality is not an alternative to that of communion. In fact, in the context of the ecclesiology of the People of God illustrated by the Second Vatican Council, the concept of communionexpresses the profound substance of the mystery and mission of the Church, which has its source and culmination in the celebration of the Eucharist, that is, in communion with the Triune God and the unity among human persons that is realised in Christ through the Holy Spirit. In that same context, Synodality “is the specific modus vivendi et operandi of the Church, the People of God, which reveals and gives substance to her being as communion when all her members journey together, gather in assembly and take an active part in her evangelising mission.” (ITC, n.6)

8. Synodality in no way entails the devaluation of the particular authority and specific task that Christ entrusts to the pastors: the bishops with the presbyters, their collaborators, and the Roman Pontiff as ” the perpetual and visible principle and foundation of unity both of the bishops and of the multitude of the faithful” (LG 23). Rather, it offers “the most appropriate interpretative framework for understanding the hierarchical ministry itself” (Francis, Address in commemoration of the 50th anniversary of the institution of the Synod of Bishops, 17 October 2015), inviting the whole Church, including those who exercise authority, to true conversion and reform.

9. Synodality is not an end in itself. Insofar as it offers the possibility of expressing the nature of the Church and insofar as it allows all the charisms, vocations and ministries in the Church to be valued, it enables the community of those who “look to Jesus in faith” (LG 9) to proclaim the Gospel in the most appropriate way to women and men of every place and time, and to be a “visible sacrament” (ibid.) of the salvific unity willed by God. Synodality and mission are thus intimately linked. If the Second Session is to focus on certain aspects of synodal life, it does so with a view to greater effectiveness in mission. At the same time, synodality is the condition for continuing the ecumenical journey towards the visible unity of all Christians. The reception of the fruits of the ecumenical journey in ecclesial practices is the title and theme of Study Group 10.

Unity as harmony in diversity

10. The dynamism of ecclesial communion and, therefore, of the synodal life of the Church finds its own model and fulfilment in the Eucharistic liturgy. In it, the communion of the faithful (communio fidelium) is at the same time the communion of the Churches (communio Ecclesiarum), which is manifested in the communion of the bishops (communio episcoporum)because of the very ancient principle that “the Church is in the Bishop and the Bishop is in the Church” (St Cyprian, Ep. 66.8). At the service of communion, the Lord placed the Apostle Peter (cf. Mt 16:18) and his successors. By virtue of the Petrine ministry, the Bishop of Rome is “the perpetual and visible principle and foundation” (LG, n. 23) of the unity of the Church, expressed in the communion of all the faithful, of all the Churches, of all the bishops. Thus, is manifested the harmony that the Spirit works in the Church, the Spirit who is harmony in person (cf. S. Basil, In Ps 29:1).

11. Throughout the synod process, the Church’s desire for unity has grown hand in hand with an awareness of its diversity. It was precisely the sharing among the Churches that reminded us that there is no mission without context, that is, without a clear awareness that the gift of the Gospel is offered to people and communities living in particular times and places, not closed in on themselves but bearers of stories that must be recognised, respected, and opened to broader horizons. One of the greatest gifts received along the way has been the opportunity to encounter and celebrate the beauty of the “pluriform face of the Church” (John Paul II, Novo Millennio Ineunte, 40). Synodal renewal favours the appreciation of contexts as a place where God’s universal call to be part of his people, of that Kingdom of God, which is “justice, peace and joy in the Holy Spirit” (Rom 14:17), is made present and realised. In this way, different cultures can grasp the unity that underlies and completes their vibrant plurality. Appreciating contexts, cultures, and diversity is key to growing as a missionary synodal Church.

12. Similarly, awareness has grown of the variety of charisms and vocations that the Holy Spirit constantly awakens in the People of God. This gives rise to the desire to grow in the ability to discern them, understand their relationships within the concrete life of each Church and the Church as a whole, and articulate them for the good of mission. This also means reflecting more deeply on the question of participation in relation to communion and mission. At every stage of the process, the desire emerged to broaden the possibilities of participation and the exercise of co-responsibility by all the baptised, men and women, in the variety of their charisms, vocations and ministries. This desire points in three directions. The first is the need to renew the proclamation and transmission of the faith in ways and means appropriate to the current context. The second is the renewal of liturgical and sacramental life, starting with liturgical celebrations that are beautiful, dignified, accessible, fully participative, well-inculturated and capable of nourishing the impulse towards mission. The third is to recognise and transform the sorrow evoked by the non-participation of so many members of the People of God in this journey of ecclesial renewal and the Church’s struggle to live well the relationships between men and women, between the generations, and between people and groups of different cultural identities and social conditions, especially those made poor and the excluded. This weakness in reciprocity, participation and communion remains an obstacle to a full renewal of the Church in a missionary synodal sense.

Sisters and brothers in Christ: a renewed reciprocity

13. The first difference we encounter as human persons is between men and women. Our vocation as Christians is to honour this God-given difference by living within the Church a dynamic relational reciprocity as a sign for the world. In reflecting on this vision from a synodal perspective, the contributions received at all stages highlighted the need to give fuller recognition to the charisms, vocation and role of women, to better honour this reciprocity of relations in all spheres of the Church’s life. The synodal perspective highlights three theological reference points as a guide for discernment: a) participation is rooted in the ecclesiological implications of Baptism; b) we are a communion of baptized persons, called not to bury talents but to discern and call forth the gifts that the Spirit pours out on each for the good of the community and the world; c) while respecting and acknowledging the diverse vocations and gifts of each, the gifts that the Spirit bestows on the faithful are ordered to each other in a complementary manner and the collaboration of all the baptised is to be practised as an act of co-responsibility. Guiding us in our reflection is the testimony of the Holy Scriptures: God chose women as the first witnesses and heralds of the Resurrection. By virtue of Baptism, they enjoy full equality, receive the same outpouring of gifts from the Spirit, and are called to the service of Christ’s mission.

14. In this sense, the first change to be made is one of mentality: a conversion to a vision of relationality, interdependence and reciprocity between women and men, who are sisters and brothers in Christ, oriented to a common mission. The communion, participation and mission of the Church suffer the consequences of a failure to transform relationships and structures. As a contribution of a Latin American Episcopal Conference notes: “a Church in which all members can feel co-responsible is also an attractive and credible place”.

15. The contributions of the Episcopal Conferences recognise that women can participate in many areas of Church life. However, they also note that these possibilities for participation often remain untapped. That is why they suggest that the Second Session promote awareness of and encourage the full use and further development of these possibilities within Parishes, Dioceses and other ecclesial realities, including positions of responsibility. They also call for further exploration of ministerial and pastoral modalities that better express the charisms and gifts the Spirit pours out on women in response to the pastoral needs of our time. As a Latin American Episcopal Conference says: “In our culture the presence of machismo remains strong, while a more active participation of women in all ecclesial spheres is needed. As Pope Francis states, their perspective is indispensable in decision-making processes and in the assumption of roles in the different forms of pastoral care and mission”.

16. Concrete requests emerge from the contributions of the Episcopal Conferences for consideration at the Second Session, including: (a) the promotion of domains for dialogue in the Church so that women can share their experiences, charisms, skills, and spiritual, theological and pastoral insights for the good of the whole Church; (b) a wider participation of women in the processes of ecclesial discernment and all stages of decision-making processes (drafting and decision-making); c) wider access to positions of responsibility in Dioceses and ecclesiastical institutions, in line with existing provisions; d) greater recognition and support for the life and charisms of consecrated women and their employment in positions of responsibility; e) access for women to positions of responsibility in seminaries, institutes and theological faculties; f) an increase in the number of women judges in all canonical processes. The reports received also continue to call for greater attention to be paid to the use of language that is more inclusive and to a range of images from Scripture and Tradition in preaching, teaching, catechesis and the drafting of official Church documents.

17. While some local Churches call for women to be admitted to the diaconal ministry, others reiterate their opposition. On this issue, which will not be the subject of the work of the Second Session, it is good that theological reflection should continue, on an appropriate timescale and in the appropriate ways. The fruits of Study Group 5, which will take into consideration the results of the two Commissions that have dealt with the question in the past, will contribute to its maturation.

18. Many of the demands expressed above also apply to laymen, whose lack of participation in the life of the Church is often lamented. In general, reflection on the role of women often highlights the desire to strengthen all the ministries exercised by the laity (men and women). There is also a call for adequately trained lay men and women to contribute to preaching the Word of God, including during the celebration of the Eucharist.

Call to conversion and reform

19. Jesus began his public ministry with a call to conversion (cf. Mk 1:15). This call represents an invitation to rethink personal and communal ways of living and to let oneself be transformed by the Spirit. No reform could be limited to structures alone but must be rooted in an inner transformation according to the “mind of Christ” (Phil 2:5). For a synodal Church, the first conversion is to listening, the rediscovery of which has been one of the greatest fruits of the journey to date. This is, first of all, listening to the Holy Spirit, the real protagonist of the Synod, and then listening to each other as a fundamental disposition for mission.

20. The Church’s synodal style offers humanity many important insights. In an age marked by increasing inequalities, growing disillusionment with traditional models of governance, democratic disenchantment and the dominance of the market model in human interactions, and the temptation to resolve conflicts by force rather than dialogue, synodality could offer inspiration for the future of our societies. Its attractiveness stems from the fact that it is not a managementstrategy but a practice to be lived and celebrated in a spirit of gratitude.

The synodal way of living relationships is a social witness responding to the deep human need to be welcomed and recognised within a concrete community. Synodal practice challenges the growing isolation of people and cultural individualism, which even the Church has often absorbed, and calls us to mutual care, interdependence and co-responsibility for the common good. Equally, it is also a challenge to an exaggerated social communitarianism that suffocates people and does not allow them to be free subjects of their own development.

The willingness to listen to all, especially those made poor, a willingness that the synodal way of life promotes, stands in stark contrast to a world in which the concentration of power shuts out the voices of the poorest, the marginalised and minorities. The concreteness of the synodal process has shown how much the Church itself needs to grow in this dimension. Study Group 2 is also working on this issue.

21. At every stage of the synodal process, the need for healing, reconciliation, and restoration of trust within the Church and society resonated strongly. Walking this path of healing and restoration is a missionary commitment of the People of God in our world and a gift we must invoke from above. The desire to walk further on this path is a fruit of synodal renewal.

 

 

Part I – Relations

Throughout the synodal process and from all regions of the globe, the request emerged for a Church less focused on bureaucracy and more capable of nurturing relationships with the Lord, between men and women, in the family, in the community, and between social groups. Only a web of relationships that weaves together the multiplicity of belongings can sustain individuals and communities, offering them points of reference and orientation and showing them the beauty of life according to the Gospel. It is in relationships – with Christ, with others, in the community – that faith is transmitted.

As it exists in service to mission, synodality should not be thought of as an organisational expedient but lived and cultivated as the way the disciples of Jesus weave relationships in solidarity, capable of corresponding to the divine love that continually reaches them and that they are called to bear witness to in the concrete contexts in which they live. Understanding how to be a synodal Church in mission thus passes through a relational conversion, which reorients the priorities and the action of each person, especially of those whose task it is to animate relationships in the service of unity, in the concreteness of an exchange of gifts that liberates and enriches all.

 

In Christ and in the Spirit: Christian initiation

22. “The pilgrim Church is missionary by her very nature, since it is from the mission of the Son and the mission of the Holy Spirit that she draws her origin, in accordance with the decree of God the Father” (AG 2). The encounter with Jesus, the adherence in faith to his person, and the celebration of the sacraments of Christian initiation lead us into the very life of the Trinity. Through the gift of the Holy Spirit, the Lord Jesus enables those who receive Baptism to participate in his relationship with the Father. The Spirit with whom Jesus was filled and who led him (Lk 4:1), who anointed him and sent him out to proclaim the Gospel (Lk 4:18), who raised him from the dead (Rom 8:11) is the same Spirit who now anoints the members of the People of God. This Spirit makes us children and heirs of God, and it is through the Spirit that we cry out to God, calling him “Abbà! Father!”.

23. To understand the nature of a synodal Church in mission, it is indispensable to grasp this Trinitarian foundation, and in particular, the inextricable link between the work of Christ and the work of the Holy Spirit in human history and the Church: “It is the Holy Spirit, dwelling in those who believe and filling and ruling over the Church as a whole, who brings about that wonderful communion of the faithful. He brings them all into intimate union with Christ, so that he is the principle of the Church’s unity” (UR 2). This is why the process of Christian initiation of adults is a privileged context for understanding the synodal life of the Church. It highlights its origin and foundation: the relationships that unite and distinguish the three divine Persons. With the baptismal gifts, the Holy Spirit conforms us to Christ, priest, prophet, and king, makes us members of His Body, which is the Church, and makes us children of the one Father. Thus, we receive the call to mission and co-responsibility for what unites us in the one Church. Those gifts have a threefold and inseparable orientation: personal, communal and missionary. They empower and commit every baptised man or woman to building cordial relationships, as sisters and brothers, in their own ecclesial community, to the search for an ever more visible and profound communion with all those with whom they share the same Baptism, and to the proclamation and witness of the Gospel.

24. If, on the one hand, missionary synodality is rooted in Christian initiation, on the other hand, it must illuminate how the People of God lives the journey of initiation, making it its own for what it really means. This includes overcoming a static and individualistic vision of initiation that is insufficiently linked to the following of Christ and life in the Spirit and so recovering the dynamic and transformative value of Christian initiation. In the early Church, Christians reading the words of the Book of Genesis “on the sixth day”, God said: “Let us make humankind in our image, according to our likeness” (Gen 1:26), saw how relational dynamism was inscribed in the anthropology of creation. They saw in the image that of the incarnate Son and in the likeness the gradual possibility of conformation, the manifestation of the beneficial adventure of the freedom to choose to be with and like Christ. This adventure begins with listening to the Word of God, through which the catechumen gradually enters into the following of Christ Jesus. Baptism is at the service of the dynamism of the likeness, and for this reason, it is not a punctual act closed at the moment of its celebration but a gift that must be confirmed, nourished and put to good use through the commitment to conversion, service to mission and participation in the life of the community. Christian initiation culminates, in fact, in the Sunday Eucharist, which is celebrated every week, a sign of the unceasing gift of grace that conforms us to Christ and makes us members of his Body and nourishment that sustains us on the path of conversion and mission.

25. In this sense, the Eucharistic assembly manifests and nourishes the missionary synodal life of the Church. In the participation of all Christians, in the presence of different ministries and the presidency of the bishop or priest, the Christian community is made visible, in which a differentiated co-responsibility of all for the mission is realised. The liturgy, as “the high point towards which the activity of the Church is directed, and, simultaneously, the source from which all its power flows out” (SC 10) is at the same time the source of the synodal life of the Church and the prototype of every synodal event, making the mystery of the Trinity appear “as in a mirror” (1 Cor 13:12; cf. DV 7).

26. It is necessary that the pastoral proposals and liturgical practices preserve and make ever more evident the link between the journey of Christian initiation and the synodal and missionary life of the Church. In this way, we avoid reducing this journey to a solely pedagogical instrument or an indicator of a mere social belonging and promote instead the acceptance of this personal gift oriented towards mission and community building. The appropriate pastoral and liturgical arrangements must be developed in the plurality of situations and cultures in which the local Churches are immersed, also attentive to the difference between those in which Christian initiation involves mainly young people or adults and those in which it concerns mainly, if not exclusively, children.

For the People of God: charisms and ministries

27. “Now there are varieties of gifts, but the same Spirit; and there are varieties of services, but the same Lord; and there are varieties of activities, but it is the same God who activates all of them in everyone. To each is given the manifestation of the Spirit for the common good” (1 Cor 12:4, 7). The freedom of the Holy Spirit is at the origin of the variety of charisms (gifts of grace) and ministries (forms of service in the Church in view of her mission). The Spirit grants them and works unceasingly so that they manifest the unity of the faith and belonging to the one and unique Catholic Church in the variety of persons, cultures and places. Charisms, even the simplest and most widespread, are bestowed in response to the needs of the Church and for its mission (cf. LG 12). At the same time, they contribute effectively to the life of society, in its different aspects. Charisms are often shared, giving rise to the different forms of consecrated life and the pluralism of ecclesial associations, groups and movements.

28. The primary sphere in which the charisms borne by each baptised person are called to manifest themselves is not the organisation of ecclesial activities or structures but in daily life, family and social relationships. In the most diverse situations, Christians – individually and communally – are called to make the gifts of grace they have received flourish for the good of all. Like that of ministries, the fruitfulness of charisms depends on God’s action, the vocation God addresses to each one, the generous and wise acceptance of the baptised, and recognition and accompaniment by authority. Therefore, they cannot be interpreted as the property of those who receive and exercise them, nor as intended for their exclusive benefit.

29. As an expression of the Spirit’s freedom in bestowing gifts and as a response to the needs of individual communities, there is in the Church a variety of ministries that can be exercised by any baptised man or woman. These take the form of a regular service offered to and recognised by the community and those who guide it. They can be called baptismal ministries to indicate their common root (baptism) and to distinguish them from ordained ministries rooted in the sacrament of Order.

There are, for example, men and women who exercise the ministry of coordinating a small church community, the ministry of leading moments of prayer (at funerals or otherwise), the extraordinary ministry of communion, or other services not necessarily liturgical. The Latin and Eastern canonical norms already provide that, in some cases, lay faithful, men or women, may also be extraordinary ministers of baptism. According to the Latin norms, the bishop may delegate to lay faithful, men or women, to assist at weddings. It is useful to continue reflecting on how to entrust these ministries to the laity in a more stable form. This reflection should be accompanied by further consideration of how we can promote more forms of lay ministry, including outside the liturgical sphere.

30. In recent times, certain modes of service that have long been present in the life of the Church have received a new configuration as instituted ministries, including the ministry of lectors and that of acolytes (cf. Apostolic Letter in the form of motu proprio Spiritus Domini, 10 January 2021). The instituted ministry of catechists has also developed (cf. Apostolic Letter in the form of motu proprio Antiquum ministerium, 10 May 2021). Instituted ministries are conferred by the bishop on men and women once in a lifetime via a special rite after appropriate discernment and adequate formation. The time and manner of their exercise must be defined by a mandate from the legitimate authority. Some theological and canonical questions concerning specific forms of ecclesial ministry – in particular, the question of the necessary participation of women in the life and leadership of the Church – have been entrusted to the Dicastery for the Doctrine of the Faith, in dialogue with the General Secretariat of the Synod (Study Group No. 5).

31. While not all charisms take on properly ministerial forms, all ministries are founded on charisms given to certain members of the People of God, who are called to act in different ways so that each one in the community can participate in the building up of the body of Christ (cf. Eph 4:12), in mutual service. Like charisms, ministries must also be recognised, promoted and valued. The synodal process has repeatedly highlighted how the discernment and promotion of charisms and ministries, as well as the identification of the needs of communities and society to which they are intended to respond, is an aspect in which the local Churches need to grow, giving themselves adequate criteria, tools and procedures. The Second Vatican Council teaches that it is the task of pastors “to acknowledge their [the faithful’s] ministries and their charisms, so that all may cooperate unanimously, each in her or his own way, in the common task” (LG 30). The discernment of charisms and ministries is a properly ecclesial act: in order to recognise and promote them, the bishop is obliged to listen to the voice of all those involved: individual faithful, communities, and participative bodies. To this end, procedures suitable to the different contexts must be identified, always taking care to make possible a real consensus on the criteria and outcomes of discernment. The results of the “Parish Priests for the Synod” meeting strongly emphasise these needs.

32. Also emphasised is the call to grow in a deeper trust in the action of the Spirit and greater courage and creativity in discerning how to put the gifts received and welcomed at the service of the Church’s mission in a way that is appropriate to different local contexts. It is precisely the variety of contexts, and therefore of the needs of communities, that suggests that the local Churches, under the guidance of their pastors, and their groupings “in every great socio-cultural region” (AG 22), undertake with humility and confidence a creative discernment on which ministries that they must recognise, entrust or institute to respond to pastoral and societal needs. Therefore, criteria and ways to carry out this discernment must be defined. Reflection must also consider how to entrust baptismal ministries (non-instituted and instituted) at a time when people move from one place to another with increasing ease, specifying the times and areas of their exercise.

33. The journey so far has led to the recognition that a synodal Church is a Church that listens, is capable of welcoming and accompanying, and is perceived as home and family. A need emerges in all continents concerning people who, for different reasons, are or feel excluded or on the margins of the ecclesial community or who struggle to find full recognition of their dignity and gifts within it. This lack of welcome leaves them feeling rejected, hinders their journey of faith and encounter with the Lord, and deprives the Church of their contribution to mission.

34. It seems appropriate to create a recognised and properly instituted ministry of listening and accompaniment, which would make this characteristic feature of a synodal Church an enduring and tangible reality. An ‘open door’ of the community is needed, allowing people to enter without feeling threatened or judged. The forms of exercising this ministry will need to adapt to local circumstances according to the diversity of experiences, structures, social contexts and available resources. This opens up a space for discernment to take place at the local level, with the involvement of national or continental Episcopal Conferences. However, the presence of a specific ministry does not mean reserving the commitment to listening to these ministers alone. On the contrary, it has a prophetic character. On the one hand, it emphasises that listening and accompaniment are an ordinary dimension of the life of a synodal Church, which in different ways engages all the baptised and in which all communities are invited to grow; on the other hand, it reminds us that listening and accompaniment is an ecclesial service, not a personal initiative, the value of which is thus recognised. This awareness is a mature fruit of the synodal process.

With ordained ministers: at the service of harmony

35. Contrasting data emerged from the synodal process concerning the exercise of the ordained ministry within the People of God. On the one hand, the joy, commitment and dedication of bishops, priests and deacons in carrying out their service were emphasised; on the other hand, they have spoken of a certain fatigue, linked above all to a sense of isolation, loneliness, being cut off from healthy and sustainable relationships, and of being overwhelmed by the demand to provide answers to every need. This can be one of the toxic effects of clericalism. In particular, the figure of the bishop is frequently overloaded with unrealistic expectations of what a single person can reasonably achieve.

36. The meeting “Parish Priests for the Synod” linked this fatigue to the difficulty of bishops and priests in truly walking together in their shared ministry. A reimagining of the ordained ministry within the horizon of the missionary synodal Church is thus not only a demand for coherence but also an opportunity for release from these burdens, provided it is accompanied by an effective conversion of practices, which makes the change and the benefits deriving from it evident to ordained ministers and the other faithful.

In addition to the journey of conversion of ordained ministers, this path will entail a new way of thinking about and organising pastoral action, which takes into account the participation of all baptised men and women in the mission of the Church, aiming, in particular, to bring out, recognise and animate the different baptismal charisms and ministries. The question “How tobe a synodal Church in mission?” prompts us to reflect concretely on the relationships, structures and processes that can foster a renewed vision of ordained ministry, moving from a pyramidal way of exercising authority to a synodal way. Within the framework of promoting baptismal charisms and ministries, a reallocation of tasks whose performance does not require the sacrament of Orders can be initiated. A more detailed distribution of responsibilities will favour decision-making and taking processes marked by a more clearly synodal style.

37. In the conciliar texts, the ordained ministry is conceived primarily as service in the Church for the very existence of the Church. By its authority, the Council has restored the form of the ordained ministry of the early Church, a ministry which “is exercised in different orders by those who right from ancient times are called bishops, priests and deacons” (LG 28). In this articulation, episcopate and presbyterate correspond to a special participation in the priesthood of Christ the shepherd and head of the ecclesial community, while the diaconate is “not for the priesthood, but for the ministry ” (LG 29). The different orders are organically related one to the other, in mutual interdependence, in the specificity of each. The ordained cannot think of themselves as isolated individuals on whom powers have been conferred but as sharers in the gifts (munera) conferred by ordination, which are Christ’s, in collegiality with other ordained ministers and in an organic bond with the People of God of which he is a part and which, albeit in a different way, shares in those same gifts of Christ in the common priesthood founded on Baptism.

38. The bishop has the task of presiding over a Church, being a visible principle of unity within it and a bond of communion with all the Churches. The singularity of his ministry entails a power that is proper, ordinary and immediate, powers that each bishop exercises personally in the name of Christ (cf. LG 27) of the proclamation of the Word, presiding over the celebration of the Eucharist and the other sacraments, and pastoral guidance. This does not imply his separation from the portion of the People of God entrusted to him (cf. CD 11), and which he is called to serve in the name of Christ the Good Shepherd.

The fact that “the fullness of the sacrament of order is conferred by episcopal consecration” (LG 21) is not the justification for an episcopal ministry that is ‘monarchical’, conceived as an accumulation of prerogatives from which every other charism and ministry derives. Instead, it affirms the capacity and duty to gather and compose in unity every gift that the Spirit pours out on baptised men and women and on the various communities. Certain aspects of episcopal ministry, including the criteria for selecting candidates for the episcopate, are being addressed by Study Group 7.

39. The ministry of priests should also be conceived and lived in a synodal sense. In particular, priests “constitute along with their bishop one presbyterium” (LG 28) at the service of that portion of the People of God, which is the local Church (cf. CD 11). This requires that we do not consider the bishop as external to the presbyterate but as the one who presides over a local Church, first of all presiding over its presbyterate, of which he is a part with a particular singularity, being called to exercise special care towards priests.

40. Bishops and priests are assisted by deacons in a bond of mutual interdependence of the two types of ministry for the implementation of the apostolic service. Bishops and presbyters are not self-sufficient with respect to deacons and vice versa. Since the functions of deacons are many – as tradition, liturgical prayer and post-Vatican II praxis show – they must be related to the particularity and specificity of each individual local Church. The service of each deacon must, in any case, be conceived in harmony and communion with that of all other deacons, in accordance with the nature of the diaconal ministry and within the framework of mission in a synodal Church.

41. Besides promoting unity in the local Church, the Diocesan or Eparchial bishop, assisted by priests and deacons, is also responsible for relations with the other local Churches and the whole Church around the Bishop of Rome in a mutual exchange of gifts. Re-establishing the traditional link between being a bishop and presiding over a local Church is important, restoring the correspondence between the communion of bishops (communio episcoporum) and the communion of Churches (communio Ecclesiarum).

Between the Churches and in the world: the concreteness of communion

42. Synodality is implemented through networks of people, communities, bodies and a set of processes that enable an effective exchange of gifts between the Churches and an evangelising dialogue with the world. Walking together as baptised persons in the diversity of charisms, vocations and ministries, as well as in the exchange of gifts between Churches, is an important sacramental sign for today’s world, which, on the one hand, experiences increasingly intense forms of interconnectedness, and on the other is immersed in a mercantile culture that marginalises gratuitousness.

43. According to the Council, it is by virtue of the catholicity of the Church that “the individual parts bring their own gifts to the other parts and to the whole” (LG 13). “Between the different parts of the Church there are bonds of intimate communion with regard to spiritual riches, apostolic workers and temporal resources. For the members of the people of God are called to share their goods, and the words of the apostle are applicable also to the individual churches: ‘As each has received a gift, employ it for one another, as good stewards of God’s varied grace’ (1 Pet 4: 10)” (ibid.).

44. The Episcopal Conferences hope that goods will be shared in a spirit of solidarity between the Churches that make up the one and unique Catholic Church, without any desire for domination or claim to superiority. The existence of rich Churches and Churches that live in great hardship is a scandal. It is therefore suggested that arrangements be made to promote mutual ties and form support networks, including in the context of groupings of Churches.

45. All the local Churches receive and give in the communion of the one Church. There are Churches that need the support of financial and material resources; others that are enriched by the witness of living faith and loving service to the poorest; still others need, above all, the help of evangelisers who devote their lives to communicating the Gospel to other peoples. In particular, the generosity of priests, deacons, consecrated men and women, lay men and women engaged in the mission ad gentes is recognised and solicited.

46. The local Churches express a desire for an exchange of spiritual, liturgical and theological gifts and also for a greater shared witness on social issues of global importance, such as the care of the common home and migratory movements. In this regard, a synodal Church will be able to testify to the importance of solutions to common problems being worked out based on listening to the voices of all, especially those groups, communities and countries that usually remain on the margins of major global processes. Today, large supranational geographical areas, such as the Amazon, the Congo Basin, the Mediterranean, or similar regions, are particularly promising areas in which to implement forms of exchange of gifts and coordinate efforts.

47. In particular, a synodal Church is invited to approach the reality of human mobility from the perspective of the exchange of gifts. This can be an opportunity for encounters between the Churches in the concreteness of the daily life of cities and neighbourhoods, of Parishes and Dioceses or Eparchies. In this way, the synodal path is rooted in the experience of the communities. Particular attention should be paid to the possibility of encounter and exchange of gifts between the Churches of Latin tradition and the Eastern Catholic Churches in the diaspora. Study Group 1 is working on this theme.

48. The exchange of gifts between Churches takes place in contexts marked by violence, persecution and lack of religious freedom; indeed, some Churches struggle for their very survival and invoke the solidarity of other Churches while they continue to share their riches, the fruit of the constant encounter with opposition to the Gospel and the persecution faced by Lord’s disciples throughout history. Moreover, the exchange of gifts takes place in a context still overshadowed by continuing forms of colonialism and neo-colonialism. A Church growing in the practice of synodality is invited to understand the impact of these social dynamics on the exchange of gifts and to seek their transformation. Also, part of this commitment is the recognition that many Churches carry a wounded memory and that there is a need to promote paths of reconciliation.

49. The concept of the ‘exchange of gifts’ has particular significance in relations with other Churches and ecclesial Communities. St John Paul II applied this idea to ecumenical dialogue: “Dialogue is not only an exchange of ideas. In some way it is always an ‘exchange of gifts'” (UUS 28). Besides theological dialogue, the exchange of gifts takes place in the sharing of prayer, whereby we open ourselves to receive the gifts of spiritual traditions other than our own. For example, the lives and spiritual insights of holy women and men from other Churches and ecclesial Communities are also gifts we can receive, inserting their memories in our liturgical calendar, especially the martyrs. In this spirit, we must also be generous, offering other Christians the opportunity to come on pilgrimage and pray at the shrines and holy places of which the Catholic Church is a custodian.

50. Dialogue between religions and with cultures is not external to the synodal journey but is part of its call to live closer relations, given that “At all times and in every nation whoever fears God and does what is right is acceptable to God” (LG 9). Therefore, the exchange of gifts is not limited to the Christian Churches because an authentic Catholicity broadens the horizon and calls for the willingness to embrace those factors that promote life, peace, justice, and integral human development present in other cultures and religious traditions.

 

 

Part II – Pathways

A synodal Church is a relational Church in which interpersonal dynamics form the fabric of the life of a mission-oriented community, whose life unfolds within increasingly complex contexts. The approach proposed here does not separate but grasps the links between experiences, allowing us to learn from reality, which is reread in the light of the Word of God, from Tradition, from prophetic witnesses, and also reflects on mistakes made.

Part II highlights the processes that ensure the care and development of relationships, especially union with Christ, oriented towards mission and the harmony of community life through the ability to face conflicts and difficulties together. This part focuses on four distinct but profoundly intertwined areas in the life of the missionary synodal Church: formation, especially to listening (to the Word of God, to the brothers and sisters, and the voice of the Holy Spirit) and discernment, which leads to the development of participatory decision-making and taking that respects the different roles involved, in a mutual relationship that promotes transparency, accountability, and opens the space again to enable discernment for mission.

The source and culmination of this dynamism is the Eucharist, which places at the heart of all relationships the gratuitousness of the Father’s love through the Son in the Spirit. This daily bread that nourishes a missionary synodal Church is also the content of its proclamation to the world.

An integral and shared formation

51. “Each baptised person is called to take care of their own formation as a response to the gifts of the Lord, making use of the talents they have received in order that they bear fruit and put them at the service of all” (SR 14a). These words from the Synthesis Report of the First Session explain why the need for formation was one of the themes that emerged universally and most strongly throughout the Synodal Process. Therefore, responding to the question of “How to be a synodal Church in mission?” requires prioritising effective formation pathways, with particular attention to ongoing formation for everyone.

52. For many, participating in synodal gatherings has been an opportunity for being formed in the understanding and practice of synodality. This has drawn forth the strong desire for a better understanding of the meaning of baptismal dignity or that “supernatural sense of faith” (LG 12) that the Spirit bestows as a gift to the People of God. The first need is, therefore, for a deeper formation in the knowledge of how the Spirit acts in the Church and guides it through history.

53. Just as there is no mission without context, there is no Church which is not rooted in a given place, with its particular culture and unique history. This is why it is impossible to envisage abstract formation initiatives. These should be defined by local Churches, and their groupings, Episcopal Conferences, and equivalent Eastern hierarchical structures. This document, therefore, will limit itself to indicating some guidelines and fundamental characteristics of formation with regard to synodality, which should then be put into practice, taking into consideration the specific contexts, cultures, and traditions of a given place.

54. A synodal Church in mission is grounded in the ability to listen, which requires recognising that no one is self-sufficient in the Church’s mission and that everyone has a contribution to offer and something to learn from others. Formation in listening is, therefore, an essential initial requirement. The practice of conversation in the Spirit has made it possible to experience how listening to the Word of God and our brothers and sisters can be woven together and how this dynamic gradually opens one up to listening to the voice of the Spirit. Many contributions have been received that insist on the importance of formation in this method. The Church has a diverse range of methods for listening, dialogue, and discernment, arising from diverse cultures and spiritual traditions. It is important to promote formation in this plurality of methods as well as dialogue between them in local contexts. A key point in this regard is listening to people who experience various types of poverty and marginalisation. Many local Churches report that they feel unprepared for this task and express the need for specific formation. This is one of the points entrusted to the work of Study Group 2.

55. The purpose of formation in the perspective of missionary synodality is to form witnesses, that is: men and women capable of assuming the mission of the Church in co-responsibility and cooperation with the power of the Spirit (Acts 1:8). Formation is therefore based on the dynamism of Christian initiation, aiming to promote the personal experience of encounter with the Lord that entails a process of continuously converting our attitudes, relationships, mentality, and structures. The subject of mission is always the Church, and each of its members is a witness and herald of salvation by virtue of Baptism. The Eucharist, “the source and culmination of all Christian life” (LG 11), is the fundamental context of our formation in synodality. As a community of life and love, the family is a privileged place of education for faith and Christian practice. In the interweaving of generations, it is a school of synodality, inviting everyone to care for others and making visible that everyone – the weak and the strong, children, young and old – have much to receive and much to give.

56. In a synodal Church, formation must be integral. Indeed, it not only aims at acquiring various ideas, beliefs or skills but also at promoting the capacity for encounter, sharing, cooperation, and discernment in common. Formation must, therefore, engage all the dimensions of the human person: intellectual, affective, and spiritual. It cannot remain a purely theoretical formation but must include concrete experiences and meaningful accompaniment. It is equally important to foster knowledge of the cultures in which local Churches live and work, including the digital culture, which has become widespread, especially among young people. The work of Study Group 3 is devoted to the digital culture and the promotion of relevant formation in this field.

57. Finally, there has been a clear insistence on the need for a formation that is communal and shared, in which lay men and women, consecrated men and women, ordained ministers and candidates for ordained ministry participate together, thus enabling them to grow in their mutual knowledge and esteem for one another, and in their ability to co-operate. To this end, special attention is required to promote the participation of women in formation programmes alongside seminarians, priests, religious, and lay people. It is crucially important that women have access to teaching and formation roles in theological faculties, institutes, and seminaries. It is also suggested that priests, bishops, and the laity be offered formation to make them aware of the roles and tasks women can already perform in the Church and that an evaluation of the effective use of these opportunities be promoted in all areas of Church life: Parishes, Dioceses, lay associations, ecclesial movements, new communities, consecrated life, ecclesiastical institutions, and the Roman Curia. The work of Study Group 4 is dedicated to revising the formation of candidates for ordained ministry (Ratio Fundamentalis Institutionis Sacerdotalis) from a missionary synodal perspective. A request coming from all continents is to improve formation for preaching. Finally, there is a need for a shared formation that is both theoretical and practical in communal discernment within and appropriate to various local contexts.

Ecclesial discernment for mission

58. The one Spirit, who gives rise to a great variety of charisms, guides the Church towards the fullness of life and divine truth (cf. Jn 10:10; 16:13). By the continuous presence and action of Spirit, the “tradition which comes from the apostles progresses in the Church” (DV 8). Thanks to the guidance of the Spirit, the People of God, as sharers in the prophetic function of Christ (cf. LG 12), “discern the true signs of God’s presence and purpose in the events, needs and desires which it shares with the rest of modern humanity” (GS 11). For this ecclesial task of discernment, the Holy Spirit bestows the sensus fidei, which can be described as “the instinctive capacity to discern the new ways that the Lord is revealing to the Church” (Francis, Address for the 50th Anniversary of the Institution of the Synod of Bishops, 17 October 2015).

59. Discernment commits those who participate in it at a personal level and all participating together at a community level to cultivate dispositions of inner freedom, being open to newness and trusting surrender to God’s will in order to listen to one another so as to hear “what the Spirit is saying to the Churches” (Rev. 2:7). Mary, with her prayerful presence at the heart of the apostolic community in the cenacle (cf. Acts 1:14), is for all a living model and generative guide for an authentic synodal spirituality: in persevering and responsible listening to the Word and in meditative discernment of events (cf. Lk 1:26-38; 2:19. 51), in generous openness to the action of the Holy Spirit (cf. Lk 1:35), in sharing thanksgiving for the Lord’s work (cf. Lk 1:39-56), and in concrete and timely service to each and every person (cf. Jn 2:1-12) whom Jesus entrusted to her maternal care (cf. Jn 19:25-27).

60. Precisely insofar as it requires each person to share his or her point of view on the common mission we share, a process of discernment articulates in a concrete way communion, mission, and participation. In other words, it is a way of walking together. This is why it is crucial to promote broad participation in processes of discernment, taking special care to involve those on the margins of the community and society.

61. The starting point of all ecclesial discernment is listening to the Word of God. Sacred Scripture constitutes the witness par excellence of God’s communication with humanity. They testify that God has spoken to his People and continues to do so, and they present the different channels through which this communication occurs. God speaks through personal meditation on Scripture, which resonates in the hearts of those who pray with it. God speaks to the community in the liturgy, the pre-eminent place of interpreting what the Lord says to his Church. God speaks through the Church, both Mother and Teacher, through its living Tradition and practices, including those of popular piety. God continues to speak through the events in space and time, provided we know how to discern their meaning. Moreover, God communicates with his People through the natural world, whose very existence points us to the Creator’s handiwork, filled with the presence of the Holy Spirit, who gives life. Finally, God speaks in each person’s own conscience, which “is the most intimate centre and sanctuary of a person, in which he or she is alone with God whose voice echoes within them” (GS 16). An authentic discernment cannot neglect any of these channels of divine communication.

62. Communal discernment is not a mere organisational technique but a demanding practice that qualifies the life and mission of the Church lived out in Christ and the Holy Spirit. For this reason, it must always be carried out with the awareness and the will to be gathered in the name of the Lord Jesus (cf. Mt 18:20), listening to the voice of the Holy Spirit. As Jesus promised, only the Holy Spirit can lead the Church towards the fullness of life and truth (cf. Jn 16:13), that these may be made available to a world thirsting for meaning. The means by which the People of God lives out its mission of proclaiming and bearing witness to the Gospel is rooted here. It is, therefore, a priority to learn to practise at all levels that evangelical art that enabled the community of the apostles in Jerusalem to characterise the first synodal event in the history of the Church with these words: “For it has seemed good to the Holy Spirit and to us” (Acts 15:28). It is in this spirit that the practice of the Church’s missionary synodal life taking place in specific places, structures, and events must be understood and oriented.

63. Concrete procedural options, in their variety, must be consistent with the requirements of an underlying synodal theological methodology. Based on the experience of the synodal process, it is possible to identify some key elements, including the need for (a) a personal and communal prayer life, including participation in the Eucharist; (b) an adequate personal and communal preparation, based on listening to the Word of God and reality; (c) respectful and profound listening to the word of each person; (d) the search for the widest possible consensus not by finding the lowest common denominator, but by overflow, aiming at what most “makes hearts burn” (cf. Lk 24:32); and (e) while the consensus is to be formulated by those conducting the process, it must be given back to all those who participated, so that they can verify their representation in that formulation.

64. Discernment always takes place ‘with one’s feet on the ground,’ meaning within a concrete context, aware of its particularities and complexities. Discernment, therefore, can only benefit from the analytical contribution of the various human, social, and administrative sciences relevant to the issue at hand. This does not mean that technical and scientific expertise has the last word – such an approach would constitute a technocratic drift. Rather, the aim is to “provide a concrete foundation for the ethical and spiritual itinerary that follows” (LS 15). Therefore, these forms of expertise must be given a chance to offer their important contribution without dominating other perspectives.

65. In the Church, there is a great variety of approaches to discernment and various well-established methodologies. This diversity is a richness. With appropriate adaptations to different contexts, utilising these diverse approaches can prove fruitful. With a view to the common good, they should enter into a fruitful dialogue without diluting their respective traits or identitarian entrenchments. The fruitfulness of Conversation in the Spirit, evident at all stages of the synodal process, invites us to consider this particular form of ecclesial discernment as particularly well suited to the exercise of synodality.

66. In the local Churches, it is essential to offer formation opportunities that spread and nurture a culture of discernment, particularly among those in positions of responsibility. Equally important is the formation of accompaniers or facilitators, whose contribution often proves crucial in carrying out discernment processes. The work of Study Group 9, dedicated to the preparation of theological criteria and synodal methodologies for a shared discernment of controversial doctrinal, pastoral, and ethical issues, unfolds along these lines.

Decision-making processes

67. “In the synodal Church the whole community, in the free and rich diversity of its members, is called together to pray, listen, analyse, dialogue, discern and offer advice on taking pastoral decisions which correspond as closely as possible to God’s will” (ITC 68). This statement needs to be decisively implemented. It is difficult to imagine a more effective way to promote a synodal Church than the participation of all in decision-making and taking processes. This participation takes place based on a differentiated responsibility that respects each community member and values their respective skills and gifts in view of a shared decision.

68. To facilitate the implementation of such a vision, it is helpful to reflect on how such decision-making processes take form. The latter usually involves a phase of engagement and elaboration (decision-making, according to English terminology that is also used in other languages) “through a joint exercise of discernment, consultation and co-operation” (ITC 69), which informs and supports the decision that is subsequently made, which isultimately the responsibility of the competent authority (for example, in a Diocese or Eparchy, the bishop). There is no competition or conflict between the two phases, but by their combination, they contribute to ensuring that the decisions made are in conformity with God’s will as much as possible: “Working things out is a synodal task; the decision is a ministerial responsibility” (ibid.).

69. In many cases, existing law already prescribes that, before deciding, the authority is obliged to conduct a consultation. This ecclesial consultation cannot be omitted and goes far beyond listening because it obliges the authority not to proceed as if it had not taken place. The authority remains free from a juridical point of view since the consultative opinion is not binding, but if a general agreement emerges, the authority will not depart from it without a convincing reason (sine praevalenti ratione; CIC, Canon 127, §2, 2°). If the competent authority were to do so, it would isolate itself from those consulted, injuring the bond that unites them. In the Church, the exercise of authority does not consist in the imposition of an arbitrary will but rather constitutes a moderating force in the common search for what the Spirit requires, as a ministry at the service of the unity of the People of God.

70. In a synodal Church, the responsibility of the bishop, the College of bishops and the Roman Pontiff to make decisions is inalienable since it is rooted in the hierarchical structure of the Church established by Christ. However, it is not unconditional. An orientation that emerges in the consultative process as the outcome of proper discernment, especially if carried out by the participatory bodies of the local Church, cannot be ignored. The aim of synodal ecclesial discernment is not to make the bishops obey the voice of the people, subordinating the former to the latter, nor to offer the bishops an expedient to make decisions that have already been taken seem more acceptable, but rather to lead to a shared decision in obedience to the Holy Spirit. Any opposition between consultation and deliberation is therefore inadequate: in the Church, deliberation takes place with the help of all, never without the pastoral authority that takes decisions by virtue of its office. For this reason, the recurring formula in the Code of Canon Law, which speaks of a ‘consultative vote only’ (tantum consultivum), diminishes the value of consultation and should be corrected.

71. It is up to the local Churches to increasingly implement all the possibilities of giving life to authentically synodal decision-making processes that suit the context’s specificities. This is a task of great importance and urgency since the successful implementation of the Synod largely depends on it. Without tangible changes, the vision of a synodal Church will not be credible. This will alienate those members of the People of God who have drawn strength and hope from the synodal journey. This applies most especially to the effective participation of women in drafting and decision-making and taking processes, as called for in many of the contributions received from the Episcopal Conferences.

72. Finally, it should not be forgotten that processes of consultation, communal discernment and synodal decision-making require those who take part in them to have effective access to all relevant information so that they can formulate their own reasoned opinion. The authority initiating the process is responsible for ensuring that this happens. Sound synodal decision-making processes require an appropriate level of transparency. Likewise, it is important to recognise the delicacy of the task and the special responsibility borne by those who express their opinion in a consultation.

Transparency, accountability, and evaluation

73. A synodal Church requires both a culture and practice of transparency and accountability, which are essential to fostering the mutual trust necessary for walking together and exercising co-responsibility for the sake of the common mission. In the Church, the exercise of accountability does not primarily respond to social and organisational needs. Rather, its foundation is found in the very nature of the Church as a mystery of communion.

74. In the New Testament, we find accountability practices in the early Church’s life that are significantly related to protecting the communion of the Church. Chapter11 of the Acts of the Apostlesoffers us an example of this. When Peter returns to Jerusalem after having baptised Cornelius, a pagan, the circumcised believers rebuked him, saying, “Why did you go to uncircumcised men and eat with them?” (Acts 11:2-3). Peter responds by expressing the reasons behind his actions. Thus, accountability of one’s ministry before the community belongs to the oldest of the Church’s traditions, dating back to the time of the apostles. The Christian theology of stewardshipoffers a framework within which to understand the exercise of authority and situate reflection on transparency and accountability.

75. In our time, the demand for transparency and accountability in and by the Church has come about as a result of the loss of credibility due to financial scandals and, even more so, sexual abuse and other abuses of minors and vulnerable persons. The lack of transparency and accountability fuels clericalism, which is based on the implicit assumption that ordained ministers are accountable to no one for the exercise of the authority vested in them.

76. If the synodal Church wants to be welcoming, then accountability and transparency must be at the core of its action at all levels, not only at the level of authority. However, those in positions of authority have a greater responsibility in this regard. Transparency and accountability are not limited to sexual and financial abuse. They must also be concerned with pastoral plans, methods of evangelisation, and how the Church respects the dignity of the human person, for example, regarding the working conditions within its institutions.

77. While the practice of accountability to superiors has been preserved over the centuries, the dimension of accountability of authority to the community must be recovered. Transparency must be a feature of the exercise of authority in the Church. Today, structures and forms of regular evaluation of how ministerial responsibilities of all kinds are exercised emerge as necessary. Evaluation, understood in a non-moralistic sense, enables ministers to adjust quickly and fosters their growth and ability to perform their service better.

78. In addition to observing what is already provided for in the canonical norms regarding control criteria and mechanisms, it is up to the local Churches and, above all, their groupings (i.e. ecclesiastical provinces, Episcopal Conferences, and Eastern hierarchical structures) to construct effective forms and procedures of transparency and accountability, appropriate to the variety of contexts, based on the civil regulatory framework, the expectations of society, and the actual availability of expertise in the field. However, even where resources are scarce, the Church will work for an evolution of its work, ethos, and mentality in the direction of transparency and a culture of accountability.

79. In particular, in forms appropriate to each context, it seems necessary to guarantee at least a) an effective functioning of the Councils for Economic Affairs; b) the effective involvement of the People of God, especially the most competent members, in pastoral and economic planning; c) the preparation and publication (with real accessibility) of an annual financial statement, as much as possible certified by external auditors, which makes transparent the management of the goods and financial resources of the Church and its institutions; d) an annual statement on the performance of the mission, including an illustration of the initiatives undertaken in the area of safeguarding(protection of minors and vulnerable persons) and promoting women’s access to positions of authority and their participation in decision-making and taking processes; and e) periodic evaluation procedures on the performance of those exercising any form of ministry and holding any position within the Church. These are points of great importance and urgency for the credibility of the synodal process and its implementation.

Part III  – Places

The missionary synodal life of the Church, the vital relationships of which it is composed, and the pathways that enable its development should not overlook the concreteness and specificity of “place”, that is, the Church placed within a given context and culture. Part III invites us to overcome a static vision of places that orders them by successive levels or degrees according to a pyramidal model (i.e. Parish, deanery, Diocese or Eparchy, ecclesiastical province, Episcopal Conference or Eastern hierarchical structure, and universal Church). This has never been our vision. The network of relationships and the exchange of gifts between the Churches have always been interwoven as a web of relations rather than conceived as linear in form. They are gathered in the bond of unity of which the Roman Pontiff is the perpetual and visible principle and foundation. In this sense, the catholicity of the Church has never coincided with an abstract universalism. Moreover, in the context of a rapidly changing conception of space, constricting the Church’s action within purely spatial boundaries would imprison it in a fatal immobilism and produce a worrying pastoral redundancy, rendering it incapable of reaching the most dynamic parts of the population, especially the young. Instead, places must be understood from a perspective of mutual interdependency, which becomes concrete in the relationships between Churches and the groupings they form, endowed with a unity of meaning. The service of unity, which is incumbent upon the Bishop of Rome and the College of bishops in communion with him, must take this perspective into account and find the appropriate institutional forms necessary for its exercise.

Areas of shared journeying

80. “To the Church of God that is in Corinth…” (1 Cor 1:2). The proclamation of the Gospel, by awakening faith in the hearts of men and women, causes a Church to be established in a place. The Church cannot be understood without being rooted in a place and a culture and without the relationships established between places and cultures. Emphasising the importance of place does not mean giving in to particularism or relativism but enhancing the concreteness in which, in space and time, a shared experience of adherence to the manifestation of the Triune God who saves takes shape. The dimension of place preserves the generative plurality of the forms of this experience and their rootedness in specific cultural and historical contexts. The variety of liturgical, theological, spiritual, and disciplinary traditions demonstrate how much this plurality enriches the Church and makes it beautiful. The communion of the Churches, each with its local concreteness, manifests the communion of the faithful in the one and unique Church, avoiding its evaporation into an abstract and homogenising universalism.

81. The pluralism of cultures and the fruitfulness of the encounter and dialogue between them are a condition of the Church’s life, an expression of and not a threat to its catholicity. The salvific message remains one and the same: “There is one body and one Spirit, just as you were called to the one hope of your calling, one Lord, one faith, one baptism, one God and Father of all, who is above all and through all and in all” (Eph. 4:4-6). This message is pluriform and expressed in diverse peoples, cultures, traditions, and languages. Taking this plurality of forms seriously avoids hegemonic tendencies and mitigates the risk of reducing the message of salvation to a single understanding of ecclesial life and its liturgical, pastoral, or moral expression. The web of relations within a synodal Church, made visible in the exchange of gifts between the Churches and guaranteed by the unity of the College of bishops headed by the bishop of Rome, is a dynamic guardian of a unity that can never become uniformity.

82. Today, this vision of a Church rooted in concrete contexts encounters the socio-cultural conditions of our times, which have profoundly altered our experience of being rooted in a given territory. A place can no longer be understood in purely geographical and spatial terms; rather, it points to our belonging to a web of relations and a culture that is more dynamic and mobile than in the past. This reality challenges the Church’s organisational forms, which are structured based on a different concept of place. This also requires adopting differentiated criteria appropriate to different contexts, which do not contradict each other, in order to incarnate the one truth in people’s lives.

83. Urbanisation is one factor in this shift. Today, for the first time in human history, most of humanity lives in urban rather than rural areas. The sense of belonging to a place takes different forms in an urban context, where the boundaries that structure a locality are forged in a different way. In large megacities, it takes only a few underground or subway stops to cross the boundaries not only of the Parish but of the Diocese: a journey many people make several times a day. Many lives routinely take place moving between different church localities.

84. A second factor is increased human mobility within a globalised world. Refugees and migrants often form vibrant communities, enlarging the practice of faith and thus making the place where they settle more diverse. At the same time, they maintain connections and relationships with their country of origin, often thanks to digital media. They frequently experience simultaneous belonging to multiple local, cultural, and linguistic groups. Communities of origin experience, on the one hand, a reduction in their membership, sometimes to the point of struggling for survival. On the other hand, their relational and cultural fabric is expanded globally. As the First Session noted, emblematic in this respect is the situation of some Eastern Catholic Churches: with current migration rates, their diaspora members could become more numerous than those living in their canonical territories (cf. SR 6c). In any case, defining place in purely geographical terms will become increasingly anachronistic. Study Group 1 is called to reflect upon the challenges this poses for relations between the Eastern Catholic Churches and the Latin Church.

85. Finally, we cannot overlook the spread of digital culture, especially among young people. It radically impacts the experience and conception of space and time and reshapes all kinds of human activities, including communication, relationships, and faith. It is no coincidence that the First Session states that “digital culture, then, is not so much a distinct area of mission as a crucial dimension of the Church’s witness in contemporary society” (SR 17b). Study Group 3 is dedicated to studying this challenge.

86. These dynamics of society and culture invite the Church to think anew about the meaning of its own local dimension for the sake of mission. Without forgetting that life always takes place in physical contexts and concrete cultures, it is necessary to move away from a purely spatial interpretation of place: places, even and especially those of the Church, are not just spaces but environments and networks in which relationships can develop, offering people rootedness and a basis for mission, which they will carry out wherever their lives unfold. The synodal conversion of minds and hearts must be accompanied by a synodal reform of ecclesial realities, called to be roads on which to journey together. However, this does not mean consigning pastoral action to elective affiliations. The aim is to encounter every man and woman.

87. This reform must be conducted based on an understanding of the Church as the holy People of God, articulated in the communion of Churches (communio Ecclesiarum)Experience has shown us that launching the synodal process in the local Churches does not compromise the unity of the whole Church but rather expresses the variety and universality of the People of God (cf. LG 22). Nor does it jeopardise but instead enhances the exercise of the Bishop of Rome’s ministry of unity. We do not start thinking about the Church from its institutions. Indeed, these must be rethought in the logic of missionary service, including those at the highest level.

88. Given the ministry of the Bishop of Rome as the visible principle of unity of the whole Church and of each Bishop as visible principle of unity in his local Church, the Council was able to say that the Church, the mystical Body of Christ, is also a body of Churches, in and from which exists the one unique Catholic Church (cf. LG 23). This body comprises: (a) the individual Churches as portions of the People of God, each entrusted to a bishop; (b) the groupings of Churches, where the instances of communion are represented above all by the hierarchical bodies; and (c) the whole Church (Ecclesia tota), where the Church as a communion of Churches is expressed by the College of bishops gathered around the Bishop of Rome in the bond of episcopal (cum Petro) and hierarchical (sub Petro) communionThe reform of ecclesial institutions cannot but follow this ordered articulation of the Church.

Local Churches in the one and unique Catholic Church

89. By its very nature, the local Church is where we most immediately experience the missionary synodal life of the whole Church. The contributions submitted by the Episcopal Conferences speak of Parishes, base and small Christian communities as contexts of communion and participation in mission. As the parish priests gathered in Sacrofano stated: “The members of parishes are and become missionary disciples of Jesus gathered in his name for prayer and worship, service and witness in times of joy and sorrow, hope and struggle.” God is at work in these ecclesial realities. At the same time, we are aware that we must do more to harness the great flexibility of the Parish, which is understood as a community of communities in the service of missionary creativity.

90. Today, the local Churches are also made up of associations and communities that are old and new expressions of Christian life. In particular, Institutes of consecrated life and Societies of apostolic life contribute much to the life of the local Churches and the vitality of missionary action. The same applies to lay associations, ecclesial movements and new communities. Today, belonging to the Church is expressed in an increasing number of forms not formally attached to a geographically defined base but related to bonds of association. This variety of forms must be promoted in the light of the missionary orientation and the ecclesial discernment of what the Lord asks in each context. Animating this manifold variety and caring for the bonds of unity are the specific competencies of the diocesan or eparchial bishop. Study Group 6 has been entrusted with reflecting upon these aspects.

91. As in the previous phases of the synodal process, so too in the consultation that preceded the drafting of this Instrumentum Laboris: many of the contributions received consider the different types of Councils Parish, deanery, Diocesan, or Eparchial as essential instruments for the planning, organisation, execution, and evaluation of pastoral activities, and point to the need to enhance them. These structures are envisaged by existing canon law already in force. With the appropriate adaptations, they could prove to be even more suitable for giving a synodal approach a concrete form. These Councils can become subjects of ecclesial discernment and synodal decision-making and places for the practice of accountability and the evaluation of those in positions of authority, without forgetting that they, in turn, will have to account for how they perform their duties. Therefore, this is one of the most promising areas on which to act for a swift implementation of the synodal proposals and orientations, leading to changes with an effective and rapid impact.

92. Many contributions point to the need to reshape the profile of these bodies and their modus operandi in order to move in this direction. Significantly, this will require attention to how members are appointed, aiming to ensure that their composition reflects that of the community they serve (Parish or Diocese/Eparchy) in order to promote a culture of transparency and accountability credibly. It is, therefore, necessary that the majority of members are not chosen by the authority (parish priest or bishop) but designated in another way, effectively expressing the reality of the community or local Church.

93. In a similar vein, attention must be paid to the composition of these bodies to encourage greater involvement of women, young people, and those living in conditions of poverty or marginalisation in the composition of these bodies. Moreover, as the First Session emphasised, it is fundamental that these bodies include men and women committed to witnessing to the faith in the ordinary realities of life and in their social contexts, with a recognised apostolic and missionary disposition (cf. SR 18d), and not only those involved in organising the life and services of the community. In this way, the ecclesial discernment carried out by these bodies will benefit from greater openness and ability to analyse reality and a diversity of perspectives. Finally, many contributions point to the desire to make mandatory those Councils whose establishment is discretionary under current law.

94. Some Episcopal Conferences have shared experiences of reform and have identified good practices already in place. These include creating networks of pastoral Councils at the level of small and base Christian communities, Parishes and deaneries, right up to the Diocesan pastoral Council. As a model of consultation and listening, it is proposed that Church assemblies be held at all levels, trying to widen consultation to include the contribution of other Churches and ecclesial Communities, of other religions present in the local context and of society, with which the Christian community journeys.

The bonds that shape the unity of the Church

95. The communal horizon of the exchange of gifts, outlined in Part I, inspires the relationship between the Churches. It combines an emphasis on the bonds that shape the unity of the Church with an appreciation of the particularities linked to the context in which each local Church lives, with its history and tradition. Adopting a synodal style enables us to overcome the idea that all Churches must necessarily move at the same pace on every issue. On the contrary, differences in pace can be valued as an expression of legitimate diversity and an opportunity for the exchange of gifts and for mutual enrichment. In order to be realised, this horizon needs to be embodied in concrete structures and practices. Answering the question “How tobe a synodal Church in mission?” requires identifying and promoting such structures and practices.

96. Eastern hierarchical structures and Episcopal Conferences are fundamental instruments for creating links and sharing experiences between the Churches and for decentralising governance and pastoral planning. “The Second Vatican Council stated that, like the ancient patriarchal Churches, episcopal conferences are in a position ‘to contribute in many and fruitful ways to the concrete realization of the collegial spirit’ (LG 23). Yet this desire has not been fully realized, since a juridical status of Episcopal Conferences which would see them as subjects of specific attributions, including genuine doctrinal authority, has not yet been sufficiently elaborated” (EG 32). Seeking how to be a synodal Church in mission requires addressing this question.

97. From all that has been gathered so far, during this synodal process, the following proposals emerge: (a) recognition of Episcopal Conferences as ecclesial subjects endowed with doctrinal authority, assuming socio-cultural diversity within the framework of a multifaceted Church, and favouring the appreciation of liturgical, disciplinary, theological, and spiritual expressions appropriate to different socio-cultural contexts; (b) evaluating the real experience of the functioning of the Episcopal Conferences and the Eastern hierarchical structures, and of the relations between Episcopates and the Holy See, to identify the concrete reforms to be implemented; the ad limina visits, which fall under Study Group 7, could be a fitting context for this evaluation; and (c) ensuring that all Dioceses or Eparchies are assigned to an ecclesiastical Province and an Episcopal Conference or Eastern hierarchical Structure (cf. CD 40).

98. Convening Continental Assemblies across all regions was an innovation of the current synodal process and a way of more coherently implementing the conciliar instruction to honour the particularity “of every great socio-cultural area” in search of “a more profound adaptation in the entire area of Christian life” (AG 22). This experience, as well as the journey of the Churches in some regions, raises the question of how we might give synodal and collegial dynamism more appropriate institutional expression, for example, through ecclesial assemblies and Episcopal Conferences. These bodies can be entrusted with the coordinated tasks of continental or regional consultation and decision-making. Discernment methods can also be developed to include diverse ecclesial actors in drafting documents and conducting decision-making and taking processes. Furthermore, it is proposed that discernment should also include spaces for listening and dialogue with civil institutions, representatives of other religions, non-Catholic organisations and society at large, in forms adapted to the diversity of contexts.

99. The desire that local synodal dialogue should continue and not come to an end and the need for effective inculturation of the faith in specific regions drives us towards a new appreciation of the institution of particular Councils, be they provincial or plenary, whose periodic celebration has been an obligation for a large part of the Church’s history. Based on the experience of walking the synodal path, one can think of forms that bring together an assembly of bishops and an ecclesial assembly composed of members of the faithful (priests, deacons, consecrated men and women, laymen and laywomen), delegated by the pastoral Councils of the Dioceses or Eparchies involved, or designated in some other way to reflect the variety of the Church in the region. To aid this, the procedure of recognitio of theconclusions of particular Councils should be reformed to favour their timely publication.

The service to unity of the Bishop of Rome

100. Answering the question “How tobe a synodal Church in mission?” also requires revisiting the dynamic that unites synodality, collegiality, and primacy, so that it can innervate the relationships between the institutions through which it finds concrete expression.

101. The current Synodal Process has shown the truth of the conciliar affirmation that “within the ecclesiastical communion, there are lawfully particular churches which enjoy their own proper traditions, while the primacy of the see of Peter remains intact, which presides over the universal communion of charity and safeguards legitimate differences while taking care that what is particular not only does no harm to unity but rather is conducive to it” (cf. LG 13). By virtue of this function, the Bishop of Rome, as visible principle of the unity of the whole Church (cf. LG 23), is the guarantor of synodality. He calls the whole Church to synodal action by convoking, presiding over and confirming the results of the Synods of Bishops; it should be his care to ensure that the Church grows in a synodal style and form.

102. Reflection on the forms of exercise of the Petrine ministry should also be conducted from the perspective of “sound decentralisation” (EG 16), as urged by Pope Francis and requested by many Episcopal Conferences. According to the formulation provided by the Apostolic Constitution Praedicate Evangelium (19 March 2022), this entails leaving “to the competence of Bishops the authority to resolve, in the exercise of “their proper task as teachers” and pastors, those issues with which they are familiar and that do not affect the Church’s unity of doctrine, discipline and communion, always acting with that spirit of co-responsibility which is the fruit and expression of the specific mysterium communionis that is the Church.” (PE II, 2).

103. To proceed, we could follow the line of the recent Motu Proprio Competentias quasdam decernere (15 February 2022), which assigns “certain areas of competence with regard to the provisions of the Codes intended to safeguard unity of discipline in the universal Church, and executive power in the local Churches and ecclesial institutions on the basis of “the ecclesial dynamic of communion” (Prologue).

104. Moreover, the drafting of canonical norms can also be a place to exercise a synodal style. The generation of rules does not imply merely the exercise of a power endowed by authority but should be considered true ecclesial discernment. Even if it alone enjoys all the prerogatives to legislate, in doing so, the authority could and should act with a synodal method to promulgate a norm that is the fruit of listening in the Spirit to a need for justice.

105. The already mentioned Apostolic Constitution Praedicate Evangelium has shaped the Roman Curia’s service to the Bishop of Rome and the College of Bishops in a synodal and missionary way. To support transparency and accountability, periodic evaluation of its work should be undertaken and entrusted to an independent body (such as the Council of Cardinals and/or a council of bishops elected by the Synod). Study Group 8 is dedicated to examining the role of the Pontifical Representatives from a synodal missionary perspective and exploring ways of evaluating their work.

106. The synodal Assembly of October 2023 indicated the need to proceed to an evaluation of the fruits of the First Session (cf. SR 20j). This evaluation cannot ignore the development enacted by the Apostolic Constitution Episcopalis Communio, which transforms the Synod from an occasional event to an ecclesial process that extends in space and time. Among the places to practise synodality and collegiality at the level of the whole Church, the Synod of Bishops certainly stands out.

Instituted by Paul VI as an Assembly of Bishops convoked to participate, in a conciliar manner, in the care of the Roman Pontiff for the whole Church, it is now, in the form of the process by stages, the sphere where the dynamic relationship between synodality, collegiality, and primacy is realised and can be fostered. The entire holy People of God, the bishops who have been entrusted with its individual portions, and the Bishop of Rome as the principle of unity of the Church participate fully in the Synodal Process, each according to their own function. This participation is made manifest by the synodal Assembly gathered around the Bishop of Rome, which, in its composition, shows forth the variety and universality of the Church as “the sacrament of unity, the holy people drawn into an ordered whole under the bishops” (SC 26).

107. Among the most significant fruits of the 2021-2024 Synod is the intensity of the ecumenical impulse and the promise that marks it. It may also be useful to address the question of the exercise of the Petrine ministry in this light, opening it up “to a new situation” (UUS 95). The recent document The Bishop of Rome: Primacy and Synodality in Ecumenical Dialogues and Responses to the Encyclical Ut Unum Sint, issued by the Dicastery for the Promotion of Christian Unity, offers insights for further study. This theme is part of the work of Study Group 10, which is dedicated to the reception of the fruits of the ecumenical journey in ecclesial practices.

108. The richness offered by the participation of fraternal delegates from other Churches and Ecclesial Communities in the First Session invites us to deepen our understanding and appreciation of how synodality is practised by our ecumenical partners, both in the East and the West. Ecumenical dialogue is fundamental to fostering an understanding of synodality and the unity of the Church. Above all, it drives us to imagine authentically ecumenical synodal practices, including forms of consultation and discernment on shared and urgent concerns. At the root of this possibility is the fact that we are united in the one Baptism, from which flow the identity of the People of God and the dynamism of communion, participation, and mission.

 

Conclusion – The Synodal Church in the World

109. Everything in this world is connected and is marked by a restless longing for the other. Everything is a call to a relationship and a witness to the fact that, ultimately, no-one and no thing is self-sufficient. The whole world, when contemplated in the light of Christian Revelation, is a sacramental sign of a presence that both transcends and animates it, leading to encounter with God, which will ultimately be fulfilled in the convivial sociality of differences, fully realized at the eschatological banquet prepared by God on his holy mountain.

110. Transformed by the proclamation of the Resurrection, the Church seeks to become a place where Isaiah’s vision is breathed and lived so as to be “refuge to the poor, a refuge to the needy in their distress, a shelter from the rainstorm and a shade from the heat” (Is. 25:4). In this way, the Church opens its heart to the Kingdom. When the members of the Church allow themselves to be led by the Spirit of the Lord to horizons that they had not previously glimpsed, they experience immeasurable joy. In its beauty, humility, and simplicity, this is the ongoing conversion of the way of being the Church that the synodal process invites us to undertake.

111. The Encyclical Fratelli Tutti presents us with the call to recognise ourselves as sisters and brothers in the Risen Christ, proposing this less as a status and more as a way of life. The Encyclical emphasises the contrast between the time in which we live and the vision of conviviality prepared by God. The veil of mourning, the shroud and tears named by Isaiah are present, too, in our own times. They are often the result of our increasing isolation from one another, the growing violence and polarisation of our world, and our uprootedness from the sources of life. The questions that the Instrumentum Laboris asksare: how to be a synodal Church in mission; how to engage in deep listening and dialogue; how to be co-responsible in the light of the dynamism of our personal and communal baptismal vocation; how to transform structures and processes so that all may participate and share the charisms that the Spirit pours out on each for the common good; how to exercise power and authority as service. Each of these questions is a service to the Church and, through its action, to the possibility of healing the deepest wounds of our time.

112. The prophet Isaiah ends his oracle with a hymn of praise to be taken up in chorus: “this is our God; we have waited for him, so that he might save us. This is the Lord for whom we have waited; let us be glad and rejoice in his salvation” (Is. 25:9). As the People of God let us join in this praise, as pilgrims of hope let us continue to advance along the synodal path towards those who still await the proclamation of the Good News of salvation!

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[1] Unless otherwise indicated, or where it is clear from the context that this is not the case, in the text of the Instrumentum laboris the term “Church” indicates “the one and unique Catholic Church” (LG 23), while the plural “Churches” indicates the local Churches in which and from which it exists.

[2] Here, as below, the quotations from the Episcopal Conferences and their continental groupings come from the summaries sent to the General Secretariat of the Synod after the consultation of the local Churches that took place between the end of 2023 and mid-2024.

[3] Circulated by the General Secretariat of the Synod on 11 December 2023 and available at www.synod.va .

[4] In this regard, please refer to the document How to be Synodal Church in Mission? Five Perspectives to Deepen Theologically in view of the Second Session of the XVI Ordinary General Assembly of the Synod of Bishops, released by the General Secretariat of the Synod on 14 March 2024 and available at www.synod.va .

[5] In this regard, please refer to the document Study Groups on issues that emerged in the First Session of the XVI Ordinary General Assembly of the Synod of Bishops to be studied in depth in collaboration with the Dicasteries of the Roman Curia. Outline of Work, also circulated on 14 March 2024 and available at www.synod.va .

[6] The themes emerging in the Summary Report of the First Session and assigned to the ten Study Groups are:

1. Some aspects of relations between the Eastern Catholic Churches and the Latin Church (SR 6).

2. Listening to the cry of the poor (SR 4 and 16).

3. Mission in the digital environment (SR 17).

4. The revision of the Ratio Fundamentalis Institutionis Sacerdotalis in a missionary synodal perspective (SR 11).

5. Some theological and canonical matters regarding specific ministerial forms (SR 8 and 9).

6. The revision, in a synodal and missionary perspective, of the documents governing the relations between Bishops, Religious and Groupings of Churches (SR 10).

7. Some aspects of the figure and ministry of the Bishop (criteria for selecting candidates to the episcopate, judicial function of the Bishop, nature and conduct of ad limina Apostolorum visits) from a missionary synodal perspective (SR 12 and 13).

8. The Role of the Pontifical Representatives in a missionary synodal perspective (SR 13).

9. Theological criteria and synodal methodologies for a shared discernment of controversial doctrinal, pastoral and ethical issues (SR 15).

10. The reception of the fruits of the ecumenical journey in ecclesial practices (SR 7).

[7]The term ‘synod’ in the traditions of the Eastern and Western Churches refers to institutions and events that have taken different forms over time, involving a plurality of subjects. In their variety, what all these forms have in common is the fact of gathering together to dialogue, discern and decide.


2024年7月10日

・「女性の活躍の促進」「財政スキャンダルや性的虐待などに関する透明性と説明責任の要請」などテーマにーシノドス総会・第二会期の『討議要綱』発表

世界代表司教会議・第16回通常総会・第一会期 2023年10月 バチカン・パウロ6世ホール世界代表司教会議・第16回通常総会・第一会期 2023年10月 バチカン・パウロ6世ホール  (VATICAN MEDIA Divisione Foto)

 今年10月2日から27日まで開催される世界代表司教会議(シノドス)第16回通常総会・第二会期の作業の指針となる『討議要綱』が、9日、発表された。

 同文書は、2021年に開始されたシノドス全体の歩みを継続し、「宣教においてよりシノドス的」で、人々に寄り添う、すべての人が参加する教会のための提案を示している。考察すべき事項の中には、女性の活躍の促進や、透明性と説明責任などのテーマが含まれている。

宣教的かつシノドス的教会であるためには?―これが、2023年に続き、今年10月2日から27日まで開催予定の、シノドス第16回通常総会・第二会期の『討議要綱』の出発点となる、基本的な問いである。

9日にバチカン広報局から発表された討議要綱は、「あらかじめ用意された答え」を提供するものではない。それは、教会全体として、「宣教におけるシノドス性」の要求にいかに答えるかをめぐっての「示唆と提案」、すなわち、「さらに人々に寄り添い、官僚的でない、神の家・家族としての教会、すべての信者が共同の責任を負い、それぞれの任務と役割を通してその活動に参加することができる教会」を提案している。

 

 

*『討議要綱』を構成する5つのセクション

 

『討議要綱』は、序章、基礎編、そして3つの本編からなる、5つのセクションで構成されている。序章では、これまでの歩みを振り返り、「聖霊の会話」というシノドスのメソッドの普及など、すでに達成された目標に焦点を当てている。

次いで、シノドス性の理解に焦点を当てた基礎編(n.1~18)が続く。そこでは「シノドス性を理解することが回心と刷新の一つの歩み」として捉えられている。

分裂と対立が広がる世界において、「教会は一致のしるし、和解とすべての人に対する傾聴、特に貧しい人、疎外された人、権力によって片隅に置かれた少数者に耳を傾けるための道具」となるよう強調されている。

*教会における女性の活躍の促進

 

また基礎編は、「教会生活のあらゆる領域における女性の役割」の考察に広くスペースを割き(n.13-18)、女性のカリスマと召命を「さらに十分に認める必要性」を強調している。

『討議要綱』は、「神は何人かの女性たちを、イエスの復活の最初の証し人、最初に告げる者として選ばれた」ことを思い出させている。そして、女性たちは 「洗礼の力によって完全な平等の状態にあり、聖霊から同じ賜物を注がれ、キリストの宣教の奉仕に召されている」と述べている。

 

 

*参加と責任

 

『討議要綱』からは、文化によっては「男性優位主義の存在が色濃く残っている」ことも浮かび上がって来る。そのために、シノドス第二会期では、女性たちの「教会における識別と決定のプロセスへのより広い参加」と、教区や教会組織、神学校、研究機関、神学部等、また教会法上の裁判の裁判官の役割等における、責任ある地位へのより広いアクセスが求められている。

この提案は同様に奉献された女性たちにも向けられ、女性奉献生活者たちの生活とカリスマに対する 「より大きな認識とより決定的な支援」が、「責任ある地位での仕事」と共に望まれている。

 

 

*女性助祭をめぐる神学的考察の継続

 

女性の助祭職に対する承認について、『討議要綱』は、「いくつかの地方教会」からの要請がある一方で、他は「反対を主張している」と報告している(n.17)。このテーマは、来たる10月のシノドスの「作業対象にはならない」ことを明確にしつつも、「神学的な考察の継続」はよいこととしている。

いずれにせよ、女性の役割に関する考察は、「信徒によって行使されるすべての務めを強化したいとの願いを強調する」ものである。また「十分な育成を受けた男女の信徒が、ミサにおいても神の御言葉の説教に貢献できる」(n.18)かを問う要請もある。

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第一部 – 神、兄弟間、教会間との関係

 

序章と基礎編の後、『討議要綱』は本編に入る。第一部では、教会が宣教においてシノドス的であることを可能にする関係、すなわち、父なる神との関係、兄弟姉妹間の関係、そして教会間の関係に言及している(n.22-50)。

カリスマ、教会内の任務、聖職は、多くの矛盾の中で正義、平和、希望を探求する世界と、そのための方法にとって不可欠である。また、地方教会からは、単なる組織でも権威主義でもない、躍動と歩みの中で生まれ体験される絆の上に成り立つ教会を望む若者たちの声も聞こえてくる。こうした観点から、次期総会では、「傾聴」と「見守り」のような新しい役務を創設するという提案の吟味もなされるだろう。

第二部 – 育成プロセスと共同体的識別

 

このような関係は、「育成プロセス」と「共同体的識別」(n. 51-79)に沿ってキリスト教的に発展させられるべきである。こうして教会は、すべての人の責任と参加を接合させながら、適切な決定をすることができるようになる。「様々な世代の交錯は、シノドス性の学び舎である」と『討議要綱』は言う。「弱い人、強い人、子ども、若者、高齢者も、皆が、多くを受け、多くを与えることができる」(n.55)。

 

・説明責任の重要性

 

討議のテーマの中には、教会の善と宣教のために責任を負う人々が、自らの行動を透明性をもって説明できるように求めるものもある。「シノドス的な教会には、透明性と説明責任という文化と実践が求められる」。透明性と説明は「共に歩み、共通の使命を共同責任をもって遂行するのに必要な、相互信頼を育てるために不可欠である」(n. 73)と『討議要綱』は記す。同文書は、「教会における、また教会側からの、透明性と説明責任の要請は、財政的スキャンダルや、特に未成年者と社会的弱者に対する性的虐待やその他の虐待による信頼性の喪失の結果」であると強調する。透明性と説明責任の欠如は、事実、「聖職者主義」の温床となっている(n. 75)。

 

・評価システムの必要

 

説明責任と透明性は、「司牧計画、福音宣教の方法、教会が人間の尊厳を尊重する仕方、例えば、教会組織内の労働条件」(n.76)などにも広く関わる問題であると『討議要綱』 は主張。そのために「聖職者のあらゆる種類の責任の行使方法について、「評価のシステムと形式の必要」を呼びかけている(n.77)。そして、教会が「未成年者や弱い立場の人の保護の問題」を含め、資産や財源の管理と、宣教の展開に関する年次報告の公表を保証することを『討議要綱』は求めている(n.79)。

第三部 – エキュメニカル対話と諸宗教間対話の場所

『討議要綱』は、関係や道のりが形作られる場所(n.80~108)を分析する。ここで言う場所とは、文化や人的条件のダイナミズムによって特徴づけられた具体的状況を意味している。同文書は、教会体験に対する固定的な見方を克服するよう招きつつ、一つにして普遍的な教会が「様々な場所において、また様々な場所から」躍動的な循環の中で生きることを可能とする、多様性を認めている。

そして、エキュメニカル対話、諸宗教間対話、文化間対話という大きなテーマが、こうした視野に組み込まれていく。エキュメニカルな歩みの「新しい状況」に開かれた教皇職の行使のあり方もこのようなコンテクストの中で捉えられる(n.102、107)。

 

・希望の巡礼者

『討議要綱』は、2025年の聖年を見据えながら、「希望の巡礼者」として歩み続けるようにという招きと共に締めくくられている(No.112)。

(翻訳「バチカン放送・日本語課」、編集「カトリック・あい」)

2024年7月10日