・シノドス総会第2会期討議要綱・日本語試訳全文

=「カトリック・あい」による日本語試訳=(7.24で「初めに」「基礎編」、「本編」、および「結びに」まで全文終了)

世界代表司教会議第16回通常総会「宣教するシノダル(共働的)な教会はどうあるべきか」の第2会期(2024年10月)のための「討議要綱」 2024.7.9

〈目次〉

【初めに】

・(シノドスの道の)3年の歩み

・シノドス総会第二会期への作業ツール

【基礎編】

・教会、神の民、一致の秘跡

・シノダリティ(共働性)の共有された意味

・多様性における調和としての一致

・キリストにおける姉妹と兄弟:新たにされた相互関係

・回心と刷新への呼びかけ

【本編】

第1部 – 関係

・キリストと聖霊において:キリスト教への入信

・神の民のために:カリスマと聖職

・聖職者と共に:調和の奉仕

・教会間および世界において:交わりの具体性

 

第2部 – 道筋

・シノダリティ(共働性)をどのように養成するか

・使命を果たすための教会の識別

・意思決定過程

第3部 – 場所

・共通の旅の領域

・唯一無二のカトリック教会における現地の教会

・教会の一致を形作る絆

・ローマ司教の一致への奉仕

【結びに 】 世界の中のシノダル(共働的)教会

・・・・・・・・・・・・・・・

〈本文〉

【初めに】

 「万軍の主はこの山で すべての民のために祝宴を催される。それは脂の乗った肉の祝宴 熟成したぶどう酒の祝宴。 髄の多い脂身とよく濾されて熟成したぶどう酒。 主はこの山で すべての民の顔を覆うベールとすべての国民にかぶせられている覆いを破り 死を永遠に呑み込んでくださる。 主なる神はすべての顔から涙を拭い その民の恥をすべての地から消し去ってくださる。確かに、主は語られた」(イザヤ書25章6~8節=日本語訳は「聖書協会・共同訳」より)

 預言者イザヤは、山頂で主が用意された、すべての人々のための歓待と交わりの象徴である「豪華で豪華な宴会」の場面を描いています。父のもとに戻られた時、主イエスは弟子たちに、「すべての人々に手を差し伸べ、彼らに命と喜びの充足を与える宴会を提供する」という任務を託されました。主は、聖霊に導かれた教会を通して、人類の心に希望を再び灯し、喜びを取り戻し、すべての人、特に顔が涙で汚れ、苦悩の中で主に叫ぶ人々を救いたいと願っています。彼らの叫びは、人間の営みの深みを歩むキリストの弟子全員の耳に届きます。シノドスの旅が新たな戦争の勃発を伴い、世界を血で染め続ける多くの戦争に加わったとき、彼らの叫びは増幅されます。

 2021年に始まった”シノドス(の道)”の中心にある「シノダル(共働的な)教会のために。交わり、参加、宣教」は、「主に従い、主の使命に奉仕する」という決意において、神の民の喜びと再生への呼びかけです。「宣教する弟子となるように」という呼びかけは、私たちの共通の洗礼のアイデンティティに基づいており、教会が存在する文脈の多様性に根ざしており、唯一の父、唯一の主、唯一の聖霊において一致を見出します。それは、例外なくすべての洗礼を受けた人への呼びかけです。

 「神の民全体が福音の告知の担い手です。洗礼を受けたすべての人は宣教の主人公となるよう召されています。なぜなら、私たちは皆、宣教する弟子だからです」(国際神学委員会「教会の活動と使命におけるシノダリティ」=ITC、第53項)。この再生は、御言葉と聖礼典を通して聖霊によって集められた教会(第二バチカン公会議「教会における司教の司牧任務に関する教令」=CD 11項参照)において表現され、意味に飢え、交わりと連帯を渇望する世界に、教会が絶えず経験する救いを告げ知らせます。主はこの世のために、その山で宴会を準備しておられます。

 私たちは今日、教会の本質を表すシノドス(共働性)を実践することで、この使命への決意を新たにします。宣教者の弟子として成長する、ということは、「イエスに従うように」という呼びかけに応じ、父と子と聖霊の名において洗礼を受けた時に受けた賜物に応えることを意味します。それは、共通の目的地である天の都に向かって歴史を旅する巡礼者として、互いに伴走することを学ぶことを意味します。

 神の言葉と聖体によって養われながらこの道を歩むことで、私たちは受け取るものへと変容します。したがって、私たちは、聖なる民としての私たちのアイデンティティには避けることのできない共同体的な側面があり、私たちの祖先と私たちの後に続く世代の信者を受け入れる共同体へと私たちを形作ることを理解しています。

 受け取られ、証言される救いは関係性に基づくものであり、誰も一人で救われることはありません。あるいはむしろ、アジア司教協議会連盟の言葉を借りれば、私たちは「シノダリティ(共働性)は単なる目標ではなく、信者全員が手を携えて成し遂げる旅です。だからこそ、その意味を完全に理解するには時間がかかるのです」という認識を徐々に深めている(CEバングラデシュ)。聖アウグスチヌスは、キリスト教生活を連帯の巡礼、つまり「神に向かって歩むのではなく、愛情をもって」(アウグスチヌスの講話306B、1)共に歩むこと、祈り、宣教、隣人愛の生活を分かち合うことである、と語っています。

 第2バチカン公会議は、「すべての人は、世の光であるキリストとの一致に招かれています。 私たちはキリストから出、キリストによって生き、キリストに向かって人生を歩んでいます」(「教会に関する教義憲章第3項)。シノドスの旅の中心にあるのは、教会の生きた伝統の中に保たれている主の約束と招きをすべての人に伝え、私たちの中にある復活した主の存在を認識し、聖霊の働きの多くの実りを歓迎するという、古くて常に新しい願いです。

 この教会のビジョン、つまり宣教のためにシノダル(共働的)回心を求める「世界のあらゆる場所の巡礼者」というビジョンは、私たちがこの道を喜びと希望をもって前進する上での指針となります。このビジョンは、傷と恥ずべき不平等がすべてのキリストの弟子の心に深く響く、危機にある世界の現実とは、際立った対照をなしています。このビジョンは、「暴力と不正のすべての犠牲者のために祈り、世界のあらゆる場所で正義と平和の職人である男女と共に働く」という決意を新たにするよう、私たちを促します。

 

 

*3年間の歩み

 

 2021年10月9日~10日にバチカンで 会議(「カトリック・あい」注*世界の司教協議会代表、バチカンの幹部、修道会代表、信徒団体代表、青年評議会代表などが出席して、”Synodal Path(シノドスの道)”の始まりに当たっての祈り、共同祈願などによる全体集会と言語別グループに分かれた会議)が開かれた後、世界中の現地教会は、さまざまなペースとさまざまな方法で、最初の「耳を傾ける」段階に着手しました。

 「教会に属する」ということは、特定の時代と場所に生きる人々とコミュニティで構成される、神の一つの民の一部になることを意味します。「耳を傾ける」ことは、これらのコミュニティから始まり、シノドス事務局が統合文書と準備要綱の発行によって促進した継続的な対話の一環として、教区、国、大陸の段階を経て進められました。シノドス道のプロセスの循環性は、さまざまな状況における教会の基礎を認識し、強化し、それらを結びつける絆に貢献します。

 第1段階の革新は、大陸レベルの会議の開催でした。これにより、同じ地域の現地教会が集まり、互いに耳を傾け、旅に同行し、それぞれの状況に存在する使命を果たすための主な課題を一緒に見極めることを学びました。

 第 16 回シノドス通常総会の第 1 会期 (2023 年 10 月) で、次の段階が開始されました。この段階では、聖霊が私たちに求めている歩みを「祈りと対話」で識別するために、この「耳を傾ける」ことによる成果を積極的に受け入れました。この段階はシノドス総会の第2会期 (2024 年 10 月) の終了まで続き、教皇は現地教会によるさらなる実施に備えてこれらの成果を生かされます。

 第 2 会期の準備は、必然的に第1会期の総括文書 で提示されたその結果に基づいて行われます。シノドスの道全体の歩みの特徴である循環性と一致し、第 2会期の作業に明確な視点を提供するために、「宣教におけるシノダル(共働的)な教会になるにはどうすればよいか」という問いに導かれて、現地教会とのさらなる協議が行われました。

 文書「2024年10月のシノドス総会第2会期に向けて」(「カトリック・あい」注:バチカンのグレック・シノドス事務局長とオロリッシュ・シノドス総会総括責任者が2023年12月に全世界の司教たちにあてて、来年10月に予定する世界代表司教会議(シノドス)第16回総会第二会期に向けた取り組みに関する書簡のこと)で説明されているように、(第2会期の会合での)協議の目的は「復活した主とその福音を今日世界に宣べ伝える」という唯一の使命において、洗礼を受けた人それぞれとそれぞれの教会の独自の貢献を高めるために、さまざまな状況や状況で私たちがたどることができる道と採用できるツールを特定すること」です。

 したがって、これは、「教会の構造をより効率的にするための、技術的または手続き的な改善計画に限定する」のではなく、シノダル(共働的)な教会がもつべき一致と多様性の間のダイナミズムを表現する、私たちが求められている宣教の取り組みの具体的な形について熟考すること」が狙いなのです。

 第 2 会期の会議のための討議要綱の起草は、大半の(各国、地域の)司教協議会とその大陸レベルの連合体、東方カトリック教会、司教協議会に属さない教区、ローマ教皇庁の部局、修道会の総長、その国際連盟から寄せられた問いに対する回答、世界中から寄せられた経験と優れた実践の証言、そして世界中の大学、信徒団体、共同体、個人など約 200 のグループの意見を踏まえて、なされました。この討議要綱は、世界中の神の民の活動に根ざしています。

 これらの声は、これまでの旅に感謝を表明し、時には困難を伴う旅であることを証言しましたが、何よりも、「前に進みたい」という願いを語りました。

 北米司教協議会は、「このシノドスの旅に対する感謝は深いものです。米国の教会の仲間として、“シノドスの道”を進むために多くのことがなされました。教皇フランシスコの『出会いの文化』という概念を念頭に置き、緊張は残っており、継続的な考察と対話が必要です。これらの緊張が教会の愛の交わりを乱す必要はありません」(EC USA)と述べています。彼らはまた、(注:シノドスの道の歩みには)まだ長い道のりがあることを私たちに思い起させます。

 以前の段階と同様に、「聖霊による対話」の方法を採用することの利点が再び確認されました。たとえば、ある司教協議会連盟の言葉に注目してください―「アジア各地からの報告の多くは、聖霊による対話をシノドスの旅の出発点とする方法論に多大な熱意を示しています。多くの教区や会議が、この方法を既存の組織に導入し、大きな成功を収めています」。

 この熱意は、よりシノダル(共働的)な進め方を実験するための措置としてすでに取られています。

 ある欧州の司教協議会では、「(このことを踏まえて) 5 年間のシノドス試験段階を実施することを決定しました。世界代表司教会議(シノドス)の協議、対話、識別、意思決定、意思決定の形式は、国レベルで開発、評価、改良され、教区の経験と普遍教会におけるシノダリティ(共働性)の発展が考慮されることになります。私たちは、困難ではあるが重要な学習の旅の始まりにいます」と述べています。また、現地教会とその旅の価値、彼らが担う豊かさ、そして彼らの声を聞く必要性に対する深い認識が示されています。

 アフリカの司教協議会から出されたある報告によると、「現地教会は、もはや、『何も、あるいは、ほとんど貢献しない福音の受け手』として見られたり扱われたりしてはならない」としています。

 これらの報告に加えて、教区司祭の意見を聞く国際会議「シノドスのための教区司祭」(2024年4月28日~5月2日開催)の成果も加わりました。作業部会のまとめでは、何よりも「お互いに真に耳を傾ける機会を得られたことへの喜び。お互いのユニークな背景に対する深い理解と感謝の気持ちを育む、充実した経験ができた」と報告されています。

 また、「教会のさまざまな伝統を認めるシノダリティ(共働性)の文脈における教区司祭の役割を理解する必要性」と、「周縁部や社会の片隅で暮らす人々に届くことができないことへの懸念」も表明され、「教会がシノダリティを持ちたいなら、これらの人々の声に耳を傾けなければなりません」と述べられています。

 この討議要綱は、シノドス事務局が設置した5つの作業部会が作成した資料も参考にしています。これらの作業部会は、世界各地の専門家、女性、男性、そしてさまざまな教会の役割を担う人々で構成され、シノドス方式を用いて、シノダリティの意味とそれが教会生活に与える影響について、神学的および教会法的な考察を深めました。

 あらゆる大陸から集まり、教会のさまざまな役割を担う司教、司祭、聖職者、信徒、神学者、教会法学者、聖書学者で構成される専門家グループが、受け取った寄稿や資料を読み、解釈し、指導的質問に対する回答をまとめる任務を負った。彼らの仕事は、この討議要綱の起草に貢献しました。彼らの考察、および前述の5つの作業グループの考察は、この討議要綱に付随するさらなる資料にも反映され、その内容の一部に神学的基礎を提供しました。

 第2会期の準備作業と並行して、10の研究グループの作業も開始されました。彼らは、国際協議の最後に教皇が特定され10のテーマを掘り下げる任務を負っていました。これらの研究グループは、すべての大陸の司牧者と専門家で構成され、シノドス方式を採用しており、「さまざまなテーマを担当するローマ教皇庁の各部局と、調整を委ねられたシノドス事務局との間の合意によって構成される」と、2024年2月16日にフランシスコ教皇が署名した文書に記されており、使徒憲章「福音を宣べ伝えよ」(第33条)の精神に則っています。

 研究グループは、可能であれば2025年6月までに詳細な調査を完了することとし、(その前の)2024年10月のシノドス総会の第2会期の会合に中間報告書を提出する予定です。

 第2会期の終了に先立ち、フランシスコ教皇はすでに第1回会期の要請の一部を受け入れ、使徒憲章『エピスコパリス・コムニオ(司教の一致、の意)」』で想定されている形で実施作業を開始しています。「シノドス事務局は、ローマ教皇庁の管轄部門、およびテーマや状況に応じてさまざまな方法で関心を持つその他の部門と協力して、ローマ教皇によって承認されたシノドスの勧告の実施を推進します。」(第20条、第1項)。

 バチカンの法制省との合意をもとに、シノドスに奉仕する教会法委員会が設立されました。最後に、第 1会期の会議の要請 (総括文書 16q 参照) に従い、2024 年 4 月 25 日、アフリカおよびマダガスカル司教協議会は、「アフリカの教会にとっての一夫多妻制の神学的および牧会的影響を見極めるための特別委員会」の設置を発表しました。

*第2会期の作業ツール

 

 私たちの旅は、沈黙、祈り、神の言葉に耳を傾けること、対話、そして楽しい出会いによって特徴づけられてきました。困難がなかったわけではありません。しかし、この旅を通じて、神の民として、私たちはキリストの兄弟姉妹としてお互いの関係を、そして、「言葉と生活で神の王国の素晴らしさを全世界に宣言する、救われた人々の共同体になる」という共通の責任を、より深く認識するようになりました。

 これは抽象的なものではなく、名前と顔が刻まれた生きた経験です。第2会期の準備と活動の中で、私たちは次の問いに取り組み続けます―「宣教におけるシノドスの神の民のアイデンティティは、教会の日常活動で、どのように具体的な形をとることができるのか」。

 この討議要綱は、第1会期のために準備された前の討議要綱で述べられたこととも一致しています―「これは教会の教導権の文書でも、社会学的調査の報告書でもありません。実践的な指示、目標、目的の定式化、神学的ビジョンの完全な詳細を提供するものではありません」(10項、2022年10月のシノドス事務局文書第8項参照)。

 討議要綱を理解するには、シノドス全体のプロセスの中にこれを位置付けることが欠かせません。要綱は、シノドス事務局の活動に支えられた教会間の対話の循環によって形作られています。

 昨年10月の今シノドス総会の第1会期では、「シノダル(共働的)な教会の特徴的な兆候と、そこに宿る交わり、使命、参加の原動力」(第1会期総括文書=SR序文)を求めて、地域および大陸の協議の成果が集められました。第一会期の会議は、祈りと対話と識別を通じて、意見の一致点、検討を要する事項、提案をまとめ、総括文書にまとめました。そこで浮かび上がったものは、「シノダル(共働的)な教会は、自らをどのように表現するか」という問いに対する最初の答えとして理解できます。

 第2会期の会議は、これらのステップを振り返るのではなく、さらに先へ進むよう求められており、「宣教においてシノダルな教会となるには、どうすればよいか」という問いに焦点を当てます。

 これまでの旅で浮かび上がったその他の問いは、現地教会レベルや 10 の研究グループで、他の方法で継続される作業の主題となっています。第1会期と第2会期の2つのセッションは、切り離すことも、対立することもできません。二つは連続しており、何よりも、使徒憲章「エピスコパリス・コムニオ」が述べているように、2024 年 10 月末に終わることのない、より広範なプロセスの一部なのです。

 この討議要綱は、シノダリティ(共働性)の基礎的理解に始まり、“成熟”し、第1会期の会議で承認されたシノダリティの認識を提示した後、密接に絡み合った3つのセクションで、シノダル(共働的)宣教生活を明らかにし、教会をさまざまな観点から考察しています。

 一つ目は、主との関係、兄弟姉妹との関係、教会間の関係という観点から。これらの関係は、教会の活力を、単なる構造的なものよりも深い方法で支えています。

 二つ目は、教会関係のダイナミズムを支える道筋の観点から。

 そして、三つ目は、具体化された関係の具体的な文脈である場所の観点から。これらの関係は、多様性、多元性、相互関係を特徴とし、抽象的な普遍主義への人間の誘惑に抵抗する信仰告白の基盤に根ざしています。

 これらのセクションのそれぞれが、第2 会期の作業を構成するモジュールで、祈り、交わり、識別の対象となります。参加者たちは、共に歩むよう求められている道において、「自分の貢献を、絶対的または確実なものとしてではなく、他者への贈り物として提供」するよう求められます (SR序文)。これを基に、プロセス全体に関する最終文書が起草され、教皇に講じられるべき措置に関する提案が提示されます。

 私たちは、シノダリティに関する共通の理解がさらに深まり、シノダルな教会の実践にさらに焦点が当てられ、教会法の一部変更が提案されることを期待することができます(基本提案がさらに吸収され、実践されるにつれて、さらに重要で深遠な展開があるかもしれません)。とは言え、すべての問いに対する答えを期待できるわけではありません。

 第2 会期の会議での、教会全体に求める回心と改革の道の途中で、他の提案も出てくるでしょう。これまでの”シノドスの道“の成果の中には、対話と識別を通じて、問題に共に取り組む方法を経験し、学んだことが含まれます。私たちはまだ宣教的なシノダルな教会になる方法を学んでいる最中ですが、それは私たちが喜びをもって取り組むことのできる仕事だということを学んでいます。

 

 

・・・・・・・・・・

【基礎編】

 

    討議要綱のこの部分では、宣教するシノダル(共働的)な教会のビジョンの基礎を概説し、教会の神秘に対する理解を深めていただこうと思います。教会論に関する論文ではなく、10 月のシノドス総会第2会期で行われる特定の識別作業に役立つようにすることが目的です。

  「宣教においてシノダルな教会となるにはどうすればよいか」という問いに答えるには、司牧的および神学的な考察と提案を地平線に置く必要であり、そうすることで、回心と改革の道に私たちを導くのに役立ちます。

     次に、教会によって実施される具体的な措置により、地平線がより鮮明になり、教会の歴史全体を特徴付ける神学的な考察と牧会的実践の間の生成的な相互関係において得られる基礎に対するより深い理解が可能になります。

   すべての国の民の光であるキリストにおいて、私たちは神の一つの民であり、神との一致と全人類の統一のしるしと道具となるよう召されています。私たちは、歴史を共に歩み、三位一体の命に与る交わりを生き、共通の使命の観点からすべての人の参加を促進することによって、これを行います。このビジョンは、教会の生きた伝統に深く根ざしています。

   シノドスの(道の)歩みは、このビジョンの新たな認識が成熟することを可能にしました。この刷新は、2021年以来の(シノドスの道の)旅の間に現われ、シノドス総会の第1会期(202310月)でまとめられた総括文書に表れています。その総括文書は、第2会期で終える「識別」を支援するために、教会全体に提示しました。

 

 

*教会、神の民、一致の秘跡

 

1.父、子、聖霊の名による洗礼は、神の民の神秘的で躍動的で共同体的なアイデンティティを生み出します。それは、主イエスが私たちに先立っておられる人生の豊かさと、すべての男女が自由のうちに救いの賜物を受け入れるよう招く使命へと、私たちを導きます(マタイ福音書2818-19 参照)。洗礼において、イエスは私たちをご自身で覆い、ご自身のアイデンティティと使命を私たちと共有してくださいます(ガラテヤの信徒への手紙327 節参照)。

 

 

2.神は「人々を個別に、全く相互に関わりなしに聖化し、救うのではなく、真理に基づいて神を認め、忠実に神に仕える一つの民として確立すること」を望まれ(第二バチカン公会議「教会の関する教義憲章(LG9項)、三位一体の交わりに加えられます。

神は、神の民の中で、民を通して、キリストにおいて私たちに与えてくださる救いを実現し、明らかになさいます。シノドス(の道)は、イエス・キリストの足跡をたどり、聖霊に動かされて父のもとへの巡礼をする「聖性と使命への普遍的な召命を持つ神の民」という躍動的なビジョンに根ざしています。このシノダル(共働的)、宣教的な神の民は、その生活と歩みのさまざまな状況において、救いの福音を宣べ伝え、証しします。(さまざまな)文化と宗教によって形作られた地球上のすべての人々と共に歩み、対話し、寄り添います。

 

 

3.シノドスの道の歩みは、さまざまな状況と文化の中で神の国への旅を歩む「あらゆる部族、言語、民族、国民から教会が集まった」(202310月シノドス総会第一会期総括文書=SR5) 神の民であることの意味について、私たちの中に深い認識を育んできました。

神の民は、成就への道程で救済の歴史の段階を経る共同体の主体です。神の民は決して、単に洗礼を受けた人々の総体ではありません。教会の「私たち」であり、シノダリティ(共働性)と福音宣教の共同体的かつ歴史的な主体であり、すべての人が神によって用意された救済を受けられるようにするものです。

信仰と洗礼を通してこの民に組み入れられた私たちは、「旅する神の民にとって確かな希望と慰めのしるし」(第二バチカン公会議「教会に関する教義憲章」=LG 68) である聖母マリア、使徒たち、命を捧げるほどに信仰を証しした人々、そして私たちの前を進んだ聖人たちに付き添われています。

 

 

4.「諸民族の光はキリストであり」(LG 1項)、この光は教会の顔を照らします。教会は「キリストにおけるいわば秘跡、すなわち神と親密な交わりと全人類一致のしるし、道具」(同)であり、教会は月のように、反射光で輝きます。

 したがって、教会は自らの使命を自己参照的に理解することはできませんが、全人類の一致に奉仕する絆、関係、交わりの秘跡であることの責任を負います。参加の危機、共通の運命を持っている、という感覚の欠如、幸福と救済に対する、あまりにも個人主義的な概念が支配する現代に、私たちはこの責任を負っています。この使命を生きることで、教会は救いにおいて全人類を神自身に一致させるという神の計画を伝えます。

 そうすることで、教会は自分自身を宣べ伝えるのではなく、「主なるキリスト・イエス」を宣べ伝えるのです(「コリントの信徒への手紙」2・45節)。もしそうでなかったら、教会はキリストにおける「秘跡」としての(LG 1 参照)存在を失い、教会自身のアイデンティティと存在意義も失うでしょう。キリストにおける完全な一致への道(同)において、教会は、世界における神の国の秘跡なのです。

(以上、「初めに」から「本文」4項まで、「カトリック・あい」南條俊二試訳。聖書の日本語訳は「聖書協会・共同訳」を、第二バチカン公会議の諸文書については、カトリック中央協議会による改定公式訳を使用)

 

 

「シノダリティ(共働性)」の意味

5.シノダリティ(共働性)やシノダル(共働的)という言葉は、古代の教会で定期的になされていた「シノドス」という集会(会議)に由来するもので、とりわけ近年の(”シノドスの道”の)体験のお陰で、以前より理解され、また生きたものとされるようになりました。それらは「神の家庭、家族としての教会」、官僚的ではなく、「人々の生活に近い教会」(2023年10月のシノドス総会第1会議の総括文書=SR・1b)”と結び付けられるようになりました。

 昨年10月の世界代表司教会議(シノドス)第16回通常総会の第1会期の会議では“シノダリティ”の意味を理解することに集中しましたが、それはこの討議要綱の基礎となっている理解でもあります。現在進行中の研究グループの検討では、教会の構成的側面であるシノダリティについてのカトリック教会の見方を、それぞれの違いと特徴を他のキリスト教会の伝統と対話しつつ、さらに深く見極めようとしています。

 最も広い意味において、「シノダリティ」とは、「キリストと交わりながら御国に向かって人類全体と一緒に歩いていくキリスト者のこと」と理解できます。そしてその方向は派遣に向けられており、その実践は教会生活のそれぞれの次元で集会に集まることを含んでいます。互いに耳を傾け合い、対話し、共同体で識別し、聖霊においてキリストを現存させる表現としての合意を創り、それぞれの人が
各人の責任に一致した意思決定をすることを含みます(SR・1h)。

6.ですから、「シノダリティ」は、「教会の生活と派遣をもたらす特別な様式”(国際神学委員会報告「教会の活動と宣教の使命におけるシノダリティ」=ITC,n.70a)、教会の第一の行為としての、聴くことから始まる様式です。良きおとずれ(ローマの信徒への手紙10章17節)の宣言を聴くことから始まる信仰は、「聴くこと」から生まれます。すなわち、神の言葉を聴き、聖霊に聴き、互いに聴き、教会の伝統と教導職に聴くことです。

 ”シノドスの道”の歩みの諸段階で、教会は再度、聖書の教えを体験します。すなわち、「人は聴いたことを宣言することができるだけだ」と。

7.「シノダリティ」は、「教会の通常の生き方と働き方のなかに表れているべきです。この生き方と働き方の様式は、御言葉を聴き感謝の祭儀を祝う共同体の中で働き、また様々な奉仕職と役割にそれぞれの違いはあるとしてもすべての次元で、兄弟姉妹の一致や生活と派遣におけるすべての神の民の共同責任と参加に見られるべきものです」(ibid.)。 そしてこの「シノダリティ」という言葉は、教会のシノダルな性格がその制度の次元で表現されている教会の諸構造と諸過程を示しており、その結果、相応しい権威によって教会が招集される特別の出来事を差しています(cf.ibid)。

 教会について述べるとき、「シノダリティ」の観念は、交わりの観念の代替物ではありません。事実、第二バチカン公会議によって示された神の民の教会論では、交わりの観念は教会の神秘と派遣の深い実質を表現しており、その教会は感謝の祭儀の祝いに源泉と頂点を持っています。すなわち三一の神との交わりにおいて、また聖霊を通してキリストにおいて実現する人々の人格間の一致において見られるものです。

 同じ文脈の中で、「シノダリティ」は、教会、すなわち神の民の生き方と働き方の特別な様式であり、その構成員が共に旅をし、会合に集まり、福音化の派遣に能動的に参加する、とき、交わりとしての教会の存在を内実のあるものとします(ITC,n.6)。

8.「シノダリティ」は、キリストが司牧者に委ねている個々の権威と特別な任務の価値を下げるものでは、決してありません。司教と司祭、その協働者、そしてローマ教皇は「司教たちの一致と信者の群れの一致との恒久的かつ目に見える根源」(「教会に関する教義憲章」=LG23項)なのです。「シノダリティ」は「位階的奉仕職自体を理解するための最も適切な解釈の枠組み」(教皇フランシスコの世界代表司教会議(シノドス)創設50周年記念講演=2015年10月17日)を与えるものであり、権威を行使する者を含めて、教会全体を真の回心と改革へと招いています。

9.「シノダリティ」はそれ自体が目的ではありません。教会の本質を表すことができる限りにおいて、また教会においてあらゆるカリスマと召命と奉仕職が尊重されるよう促す限りにおいて、「シノダリティ」は、「信仰においてイエスを見る」(LG9項参照)人々の共同体が、あらゆる場所、あらゆる時の男女に、最も適切な方法で福音を宣言できるようにし、神の望む救いの一致の「見える秘蹟”(ibid.)になることを可能にするのです。

 このように、「シノダリティ」と派遣は密接につながっています。もし(今年10月の)シノドス総会第2会期がシノダルな生活のある側面に焦点を当てるとするなら、派遣においてより大きな効果があることを見越して、そうするのです。

 同時に「シノダリティ」は、全キリスト者の見える一致に向けてのエキュメニカルな旅を続けるための条件です。教会の取り組みにおけるエキュメニカルな旅の果実を受容することが、研究グループ10の表題かつ主題です。

 

多様性における調和としての一致

10.教会の交わりのダイナミズムとシノダルな生活は、感謝の祭儀の典礼にその模範と成就を見ます。その中で、信者の交わりは同時に諸教会の交わりであり、それは司教たちの交わりに表されています。「教会は司教のうちにあり、司教は教会のうちにある」(キプリアヌスの書簡66章8項)という極めて古い原理のゆえです。交わりの奉仕のために、主は、使徒ペトロ(マタイ福音書16章18節参照)とその後継者を置きました。ペトロ的役務によって、ローマ司教は、全信者の交わり、全教会の交わり、そして全司教の交わりに表される教会一致の「恒久的かつ目に見える根源」(LG23項)です。このように聖霊は、教会に働き、調和である聖霊は、人において働く(聖バジリウスの言葉、詩編29章1節参照)のです。

11.現在の”シノドスの道”の歩みを通して、教会一致の願いは、教会の多様性と手を携えながら、成長してきました。教会間で共有している認識は、次のようなことです。

 土地の状況や背景を欠いた派遣はないこと、すなわち福音の贈り物は、個別の時と場所に生きている人々や共同体に、自分たちだけに閉じこもらず、承認され、尊重され、広い地平に開かれなければならない物語の担い手に、与えられるということです。この道の途上でいただく最大の贈り物は「教会の多様性に満ちた顔」(ヨハネ・パウロ二世教皇の2001年1月の使徒的書簡『新千年期の初めに』40項でした。シノダルな刷新は、神の民、「聖霊によって与えられる義と平和の喜び」である神の国(ローマの信徒への手紙14章17節)の一部になるように、との神の普遍的な呼びかけが現存し、実現する場所として、土地の状況や背景を正しく理解しようと努めます。

 そうして、様々な異なった文化は、その活気に満ちた多様性の根底にあり、かつそれを完成する一致を捉えることができるのです。土地の状況や背景、文化、多様性を正しく評価することは、派遣的でシノダルな教会に成長していく鍵です。

12.同様に、聖霊が神の民の中に絶えず呼び起こしているカリスマと召命の豊かさが育っていることに気付きます。このことから、それらを見分ける力を育て、個々の教会の具体的な活動の中で、全体としての教会との諸関係を理解し、それらを派遣の益のために関連づけよう、との願いが生じています。さらにこのことは、交わりと派遣に関係する参加の問題を、もっと深く熟考することを意味します。

 ”シノドスの道”の歩みの全ての段階で、カリスマと召命と奉仕職の多様な中で男性も女性も、すべての受洗者が、参加と共同責任の行使を受け持つ可能性を広げよう、という希望が出てきました。この希望は3つの方向を差しています。

 第一に、信仰の宣言と伝達は、現代の状況に適した方法と手段で刷新される必要があること。第二に、典礼と秘跡の刷新。美しく尊く、近づきやすく、十分に参加でき、文化に受肉し、派遣に向かう意志を養うことができる典礼的な祝いから始めること。そして第三に、神の民の中の多くの人が典礼と秘跡に参加していないことを認め、それを変容させることです。

 男性と女性の関係、世代間の関係、異なった文化や社会的状況の人々やグループ間の関係、特に貧しく、排除されている人々との関係。これらの関係をより良く生きようとしている、(”シノドスの道”の)教会刷新と教会の努力の旅においてです。この相互性や参加と交わりの不足が、派遣に向かうシノダルな教会の刷新の障害として残っています。

(以上5項から12項まで「南の司祭」試訳、聖書の日本語訳は「聖書協会・共同訳」を、第二バチカン公会議の諸文書については、カトリック中央協議会による改定公式訳を使用)

 

 

キリストにおける姉妹と兄弟:新たにされた相互関係

13. 私たちが人間として直面する最初の違いは、男女間にあります。キリスト者としての私たちの召命は、この神から与えられた違いを敬い、世界のためのしるしとして、教会の中でダイナミックな関係的互恵性を生きることです。シノドスの観点からこのビジョンを考察する中で、あらゆる段階で寄せられた報告は、教会生活のすべての領域におけるこの相互関係をよりよく敬うために、女性のカリスマ、召命、役割をより十分に認識する必要性を強調しました。

 シノドスの観点は、その識別のための指針として三つの神学的参照点を強調しています。

(イ)参与とは、洗礼の教会論的意味合いに根ざしたものです。

(ロ)私たちは、洗礼を授かった者の共同体であり、才能を埋もれさせるのではなく、共同体と世の益のために、聖霊が各人に注がれる賜物を識別し、呼び起こすように召されています。

(ハ)各人それぞれの多様な召命と賜物を尊重し、認めながら、聖霊が信徒たちに授ける賜物は互いに補完し合うように秩序づけられており、洗礼を授かったすべての者の協力は、共同責任の行為として実践されるべきです。

 私たちの考察を導いているのは、聖書の証です―神は女性を御復活の最初の証人及び伝令者としてお選びになりました。洗礼によって、彼女たちは完全な平等を享受し、同じように聖霊から賜物の注ぎを受け、キリストの使命の奉仕に召されているのです。

14.この意味で、最初にすべき変化は、意識に関するものです。すなわち、共通の使命を志向するキリストにおける姉妹兄弟である女性と男性の間の関係性、相互依存、互恵性のビジョンへの転換です。教会の交わり、参与、使命は、相互関係と構造を変革せずによる結果に苦しむことになります。

 ラテンアメリカ司教協議会のある報告で指摘しているように、「すべての信者が共同責任を感じられる教会は、魅力的で信頼できる場所」でもあります。

15. いくつもの司教協議会からの報告では、女性が教会生活の多くの分野に参与できることを認めています。しかし、これらの参与の可能性は、しばしば未開拓のままであることも指摘されています。だからこそ、彼らは、10月のシノドス総会第2会期が、小教区、教区、及びその他の教会内の実態の中で、責任ある立場を含むこれらの可能性を十分に活用し、さらに発展させようとする意識を促し、また、奨励することを提案しています。また、私たちの時代の司牧的ニーズに応え、聖霊が女性に注がれるカリスマと賜物をよりよく表現する聖職的と司牧的様式のさらなる探求も求めています。

 ラテンアメリカ司教協議会が言うように、「私たちの文化では、マチスモ(男性優位主義)の存在が依然として強く、あらゆる教会の領域において女性の積極的な参与が必要です。教皇フランシスコが述べておられるように、「彼女たちの視点は、意思決定の過程において、また、司牧と宣教の様々な形態における役割の引き受けにおいて不可欠」なのです。

16.いくつもの司教協議会から、第2会期で検討すべき具体的な要請が上がってきています。それには次のようなものが含まれます。

(イ)教会全体の利益のために、女性が自らの経験、カリスマ、技能、霊的・神学的・司牧的洞察を共有できるように、教会内で対話の領域を促進すること。

(ロ)教会の識別及び意思決定の過程のすべての段階 (起草及び意思決定) への、女性のより広範な参与。

(ハ)既存の規定に沿って、教区及び教会機関における責任ある職位のより広範な開放。

(ニ)奉献されている女性の生活及びカリスマ並びに、責任ある職位における彼女たちの起用に対する一層の認識と支援の強化。

(ホ)神学校や教育機関及び神学部における責任ある職位の女性への開放。

(へ)あらゆる教会法的過程における女性裁判官の数の増加。

 シノドス事務局に出された報告書はまた、説教、教育、カテケーシス(教理教育)、及び教会の公式文書の起草において、より包括的な言葉の使用と、聖書と伝統からの様々なイメージにより大きな注意を払うよう引き続き求めています。

17.現地教会の中には、助祭職に女性を認めるよう求めるところもあれば、反対を繰り返しているところもあります。第2会期の作業の主題ではないこの問題については、適切な時期に適切な方法で、神学的な考察を継続することが望ましい。過去にこの問題を扱った二つの委員会の結果を考慮に入れて検討中の第5研究グループの成果は、この問題の成熟に貢献することになるでしょう。

18.  上に述べた要求の多くは、教会生活への参与の欠如がしばしば嘆かれる信徒たちにも当てはまります。一般的に、女性の役割に関する考察は、男女信徒  によって行使されるすべての奉仕活動を強化したい、という願いが強調されることが多くなります。また、十分な訓練を受けた男女の信徒が、ミサ聖祭の際を含め、神の御言葉の説教に貢献することを求める声もあります

 

回心と刷新への呼びかけ

19. イエスは回心への呼びかけをもって公の宣教活動を始められました(「マルコ福音書」1章15節参照)。この呼びかけは、個人と共同体の生き方を再考し、聖霊によって自分自身を変容させるようにという招きを表しています。いかなる改革も構造的なものだけに留まることはできず、「キリストの心」(「フィリピの信徒への手紙」2章5節)に従った内面の変革に根ざしたものでなければなりません。

 シノダルな教会にとって、最初の回心は傾聴することであり、その再発見はこれまでの旅の最大の成果の一つです。これは、第一に、シノドスの真の主役である聖霊に耳を傾けること、そして宣教のための基本的な性質として互いに耳を傾けることです。

20.  教会のシノダル(共働的)様式は、人類に多くの重要な洞察を提供します。不平等の拡大、伝統的な統制仕組みに対する幻滅の高まり、民主主義に対する不満、人間の相互作用における市場モデル(*金融用語:収益・利益分析)的な支配力、そして対話ではなく力によって紛争を解決しようとする誘惑が顕著な現代において、シノダリティは私たちの社会の未来に激励を与えることができます。その魅力は、それが経営戦略ではなく、感謝の精神をもって生き、祝うべき実践であるという事実に由来します。

 シノダルな人間関係の生き方は、明確な共同体の中で歓迎され、認められたい、という人間の深いニーズに応える社会的な証しです。シノダルな実践は、教会でさえもしばしば同化した、人々の孤立や文化的個人主義の高まりに異議を唱え、私たちに共通善のための相互配慮、相互依存、共同責任を呼びかけています。同様に、それはまた、人々を息苦しくさせ、人々が自らの発展の自由な主体となることを許さない、誇張された”社会的共同体主義”への挑戦でもあります。

 すべての人、とりわけ貧しい人々の声に耳を傾ける意欲は、シノダルな生き方が促進する意欲であり、権力の集中が最貧困層や社会から疎外された人々、少数派の声を閉ざす世界とは対照的です。シノダルの過程の具体性は、教会自身がこの次元でどれほど成長する必要があるか、を示しています。研究室グループ2もこの問題に取り組んでいます。

21. ”シノドスの道”の歩みのあらゆる段階で、教会と社会における癒し、和解、信頼回復の必要性が強く主張されました。この癒しと回復の道を歩むことは、私たちの世界における神の民の宣教の使命的献身であり、私たちが天から呼び起こさなければならない賜物です。この道をさらに歩むという願いは、シノダルの刷新の実りです。

 

(以上、13項から21項まで、ガブリエル・タン氏の試訳)

 

 

【本編】

 

第1部 – 関係

 ”シノドスの道“全体を通じて、世界中のあらゆる地域から、「官僚主義に重点を置かず、主との関係、男女の関係、家族、コミュニティ、社会集団間の関係を育む能力のある教会」を求める声が、上がりました。

 多様な所有物を織り合わせた関係の網だけが、個人やコミュニティを支え、彼らに基準点と方向性を与え、福音に従った人生の美しさを示すことができます。信仰は、キリストとの関係、他者との関係、コミュニティとの関係の中で伝えられます。

 シノダリティ(共働性)は使命への奉仕として存在するため、組織的な手段と考えるのではなく、イエスの弟子たちが連帯して関係を織り成す方法として生き、育むべきものであり、彼らに絶えず届き、彼らが生きる具体的な状況の中で証言するよう求められている「神の愛」に対応できるものです。

 宣教においてシノダル(共働的)教会となる方法を理解するには、関係の転換を経る必要があります。関係の転換は、特に一致のために関係を活性化する任務を負っている人々の優先順位と行動を、すべての人を解放し豊かにする贈り物の交換という具体的な形で方向づけます。

 

 

キリストと聖霊において: キリスト教の入信

 

22.「地上を旅する教会は、父である神の計画に従った、御子の派遣と聖霊の派遣とに由来するのであるから、その本性上、宣教的である」(第二バチカン公会議「教会の宣教活動に関する教令」2項)。イエスとの出会い、イエスの人格への信仰の固守、キリスト教入信の秘跡の執行は、私たちを三位一体の生命そのものへと導きます。聖霊の賜物を通して、主イエスは、洗礼を受ける人々が父との関係に参加できるようにします。

 イエスを満たし、イエスを導き(ルカ福音書4章1節参照)、イエスに油を注ぎ、福音を宣べ伝えるためにイエスを遣わし(同4章18節)、イエスを死からよみがえらせた(ローマの信徒への手紙8章11節)聖霊は、今、神の民一人ひとりに油を注いでいるのと同じ聖霊です。聖霊は、私たちを神の子、神の相続人とし、聖霊を通して、私たちは神に「アバ!父よ!」と呼びかけます。

 

23. 宣教におけるシノダル(共働的)教会の本質を理解するには、この三位一体の基盤、特に「人類の歴史と教会におけるキリストの働きと聖霊の働きの切っても切れないつながり」を理解することが不可欠です。「信じる者のうちに住み、教会全体を満たし、支配する聖霊こそが、信者のすばらしい交わりをもたらすのです。

 聖霊は、信者すべてをキリストとの親密な一致に導きます。そのため、聖霊は教会の一致の原理なのです。(第二バチカン公会議「エキュメニズムに関する教令」2項参照)。だからこそ、成人のキリスト教入信の過程は、教会のシノドス生活を理解するための特別な文脈なのです。それは、教会の起源と基礎、すなわち三位一体の神の位格を結び付け、区別する関係を強調します。

 洗礼の賜物によって、聖霊は私たちを、司祭、預言者、王であるキリストに一致させ、その体である教会の一員とし、唯一の父の子としてくださいます。こうして、私たちは、唯一の教会に私たちを結び付けるものに対する宣教と共同責任への召命を受けるのです。

 これらの賜物には、個人的、共同体的、宣教的という三重の不可分な方向性があります。それらは、洗礼を受けた男女すべてに、姉妹兄弟としてそれぞれの教会共同体の中で、心のこもった関係を築き、同じ洗礼を受けたすべての人々とさらに目に見える深い交わりを求め、福音を告げ知らせ、証しするよう力づけ、委ねます。

 

24. 聖職のシノダリティ(共働性)は、一方ではキリスト教の入信儀式に根ざしていますが、他方では、神の民が入信の儀式の旅をどのように生き、それを真の意味で自分たちのものにするかを明らかにしなければなりません。このためには、キリストに従うことや聖霊の生活と十分に結びついていない、静的で個人主義的な入信の儀式のビジョンを克服し、ダイナミックで変革的な価値を取り戻すことが含まれます。

 初期教会では、キリスト教徒たちは、創世記の「(第六日目に)神は言われた。『我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう』(創世記 1章26節)という言葉を読み、関係のダイナミズムが創造の人類学に刻み込まれていることを理解しました。受肉した御子のかたちに、そして似姿のかたちに、順応の漸進的な可能性、キリストと共にありキリストに似た者となることを選ぶ自由、という価値ある“胸躍る体験”の現れを見ました。

 この“胸躍る体験”は神の言葉を聞くことから始まり、それを通して洗礼を受ける者は徐々にキリスト・イエスに従うようになります。洗礼は似姿のダイナミズムに奉仕するものであり、そのため、洗礼は儀式の瞬間に終わる時間的な行為ではなく、回心、宣教への奉仕、共同体生活への参加への献身を通して確認され、養われ、有効に活用されなければならない賜物です。キリスト教への“入信”は毎週の主日ミサの聖体拝領で最高潮に達します。それは私たちをキリストに一致させ、キリストの体の一員にする絶え間ない恵みの賜物のしるしであり、回心と宣教の道で私たちを支える糧です。

25.この意味で、聖体拝領の儀式は教会の宣教的、シノダル(共働的)な働きを明示し、育てます。すべてのキリスト教徒が参加し、さまざまな聖職者、司教あるいは司祭の司式のもとで、キリスト教共同体は目に見える形となり、その中で宣教に対するすべての人の分化した共同責任が実現されるのです。

 典礼は「教会の活動が目指す頂点であり、同時に教会のあらゆる力が流れ出る源泉である」(第二バチカン公会議「典礼憲章」10項)と同時に、教会のシノドス生活の源泉であり、あらゆるシノドス行事の原型であり、三位一体の神秘を「鏡のように」(「コリントの信徒への手紙」1.13章12節、第二バチカン公会議「神の啓示に関する教義憲章」7項参照)映し出します。

26.司牧の提案と典礼の実践では、キリスト教入信の道程と教会のシノダル(共働的)活動および宣教活動とのつながりを維持し、さらに明らかにすることが必要です。そのようにして、私たちは、この旅を単なる教育的手段や単なる社会への帰属の指標に貶めることを避け、宣教と共同体の構築に向けた個人的な賜物の受け入れを促進するものとします。

   現地教会が置かれている多様な状況と文化の中で、適切な司牧と典礼の在り方が開発されなければなりません。また、キリスト教の入信が主に若者や大人に関係するものと、主に子供たちに関係するものとの違いにも、注意を払わなければなりません。

神の民のために:カリスマと奉仕

27.「恵みの賜物はいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ聖霊です。務めにはいろいろありますが、使えるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての人に働いてすべてをなさるのは同じ神です。一人一人に霊の働きが現れるのは、全体の益となるためです」(「コリントの信徒への手紙」1・12章4~7節)。

  聖霊の自由は、カリスマ(恵みの賜物)と奉仕職(教会の使命の観点から教会内で行われる奉仕の形態)の多様性の源です。聖霊は、これらを授け、さまざまな人々、文化、場所において、信仰の一致と唯一無二のカトリック教会への帰属を明示するように、絶えず働いています。

カリスマは、より単純で、より広く与えられるものも、すべてまず、教会の必要に応えて、その使命のために授けられます(第二バチカン公会議「教会憲章」12項参照)。同時に、カリスマは、さまざまな側面において、社会生活に効果的に貢献します。カリスマはしばしば共有され、奉献生活のさまざまな形態と、教会の団体、グループ、運動の多元性を生み出します。

28.洗礼を受けた各人が担うカリスマを顕現するよう求められている主な領域は、教会の活動や組織ではなく、日常生活、家族、社会関係です。キリスト教徒は、個人としても共同体としても、さまざまな状況において、恵みの賜物をすべての人の利益のために豊かに育むよう求められています。

  奉仕活動と同様に、カリスマの実りは、神の働き、神が各人に与えた召命、洗礼を受けた者の寛大で賢明な受け入れ、権威による承認と伴走にかかっています。したがって、カリスマは、それを受け、行使する者の所有物として解釈することも、彼らだけの利益のために意図されたものとして解釈することも、できません。

29.聖霊が賜物を授ける自由の表れとして、また個々の共同体の必要に応えるものとして、教会には洗礼を受けた男女なら誰でも行うことができる様々な奉仕があります。これらは共同体とその指導者に提供され、認められる定期的な奉仕の形をとります。それらは「洗礼」という共通の根源を示し、聖職の秘跡に根ざした叙階された奉仕と区別するために、洗礼奉仕と呼ぶことができます。

 たとえば、小さな教会共同体の調整の奉仕、祈りの瞬間を導く奉仕(葬儀やその他の場合)、聖餐の臨時奉仕、または必ずしも典礼的ではないその他の奉仕を行う男女がいます。ラテンおよび東方教会法典では、場合によっては、信徒の男性または女性が「洗礼の臨時奉仕者」になることもできる、とすでに規定されています。

 ラテン法典では、司教は、結婚式での手伝いを信徒の男性または女性に委任することができます。これらの奉仕職をより安定した形で信徒に委ねる方法について、引き続き熟考することは有益です。この熟考は、典礼の領域以外も含め、より多くの形態の信徒奉仕職を促進する方法についてのさらなる検討を伴うべきです。

30. 近年、教会生活に長く存在してきた特定の奉仕形態は、朗読者奉仕職や侍者奉仕職を含む「制定奉仕職」として新たな形態をとっています(2021年1月10日の自発教令「Spiritus Domini」参照)。カテキスタの制定奉仕職も発展しました(2021年5月10日の自発教令「Antiquum ministerium」参照)。

 制定奉仕職は、適切な識別と十分な教育の後、特別な儀式を通じて生涯に一度、司教によって男女に授与されます。その遂行の時期と方法は、正当な権威からの命令によって定められなければなりません。教会奉仕の特定の形態に関する神学的および教会法上の問題、特に教会の生活と指導における女性の必要な参加の問題は、教理省に委ねられ、シノドス事務局(研究グループ 5)との対話の中で検討されました。

 

31. すべてのカリスマが奉仕の形態をとるわけではありませんが、すべての奉仕は、神の民の特定のメンバーに与えられたカリスマに基づいています。これらのメンバーは、共同体の各人がキリストの体を造り上げる(「エフェソの信徒への手紙」 4章12節 参照)相互奉仕に参加できるように、さまざまな方法で行動するよう求められています。

 カリスマと同様に、奉仕も認識され、促進され、評価されなければなりません。世界代表司教会議(シノドス)のこれまでの会議では、「カリスマと奉仕職の識別と促進、およびそれらが対応すべきコミュニティと社会のニーズの特定が、現地教会が成長し、適切な基準、ツール、手順を自らに与えることを必要とする側面を持つことが繰り返し強調されてきました。

 第二バチカン公会議は、司牧者の任務は「信者の奉仕職とカリスマを認め、全員が一致して、各自のやり方で、共通の任務に協力できるようにする」ことであると教えています (「教会に関する教義憲章」30項)。カリスマと奉仕職の識別は、本来、教会の行為です。カリスマと奉仕職を認識し、促進するために、司教は、個々の信者、コミュニティ、参加団体など、関係者全員の声に耳を傾ける義務があります。

 この目的のために、さまざまな状況に適した手順を特定する必要がありますが、識別の基準と結果について真の合意が得られるように常に注意する必要があります。 (今年春開かれた)「シノドス総会第二期に向けた教区司祭による国際会議」は、これらの必要性を強く強調しています。

32. また、「聖霊の働きに対する信頼を深め、受け取って歓迎した賜物を、さまざまな地域の状況にふさわしい方法で教会の使命に役立てる方法を見極める勇気と創造性を高めるよう呼びかけること」も強調されています。

 まさにさまざまな状況、したがってコミュニティのニーズがあるからこそ、現地教会は、司牧者の指導のもと、また「それぞれの広範な社会的、文化的地域」(第二バチカン公会議「教会の宣教活動に関する教令」22項) のグループのもと、謙虚さと自信をもって、司牧と社会のニーズに応えるためにどの奉仕職を認識し、委ね、または設立したらいいのか、という「創造的な識別」に取り組む必要があります。

 このために、こうした識別を実行するための基準と方法を定義する必要があります。人々がますます容易に、一つの場所から別の場所へと移動できるようになっている時代に、洗礼の奉仕を、その活動の時期と場所を特定しながらどのように委託するか、についても考察する必要があります。

33. これまでの(”シノドスの道“の)歩みは、シノドス教会とは耳を傾け、歓迎し、寄り添うことができ、家や家族として認識される教会であるという認識につながりました。さまざまな理由で教会共同体から排除されたり、疎外されたり、疎外されたと感じたり、教会共同体の中で自分の尊厳や才能を十分に認めてもらえずに苦労している人々に関するニーズが、すべての大陸で生じています。歓迎されないことで、彼らは拒絶されたと感じ、信仰の旅や主との出会いが妨げられ、教会は宣教への貢献を奪われます。

34. 傾聴と随伴の奉仕を公認し、適切な制度を設けることが適切と思われます。そうすれば、シノダル(共働的)教会のこの特徴が、永続的で具体的な現実になります。教会共同体には「開かれた扉」が必要であり、人々が脅威を感じたり、批判されたりすることなく入ることができるようにすることです。

 この奉仕を行う形態は、経験、構造、社会的状況、利用可能な人的、物的資源の多様性に応じて、それぞれの地域の実状に適応する必要があります。そうすることで、国レベルあるいは大陸レベルの司教協議会の関与のもと、地方レベルでの識別が行われる余地が生まれます。

 しかし、特定の聖職者の存在は、その聖職者だけに耳を傾けるという約束を留保することを意味するものではありません。むしろ、預言的な性格を持っていると言っていいでしょう。

 一方で、傾聴と随伴いは、シノダル教会の活動の通常の側面であり、さまざまな方法ですべての信者と関わり、すべての教会共同体が成長するよう招かれている、ということを強調します。他方では、傾聴と随伴は教会の奉仕であり、個人の取り組みではなく、その価値が認識されていることを思い起こさせます。この認識は、シノドスの過程の成熟した成果です。

叙階された聖職者と共に:調和に奉仕する

35. 神の民の中での叙階された聖職者の活動に関して、”シノドスの道“のこれまでの歩みから対照的なデータが出てきました。

 一方では、司教、司祭、助祭が奉仕を遂行する際の喜び、責任、献身が強調され、他方では、彼らはある種の疲労について語っています。それはとりわけ、「孤立感、孤独感、健全で持続可能な関係から切り離されていること」、そして「あらゆるニーズに答えなければならないという要求に圧倒されていること」と関連しています。

 これは聖職者主義の有害な影響の一つである可能性があります。特に、司教は、一人の人間が合理的に達成できるものを超える「非現実的な期待」でしばしば大きな重荷を負わされています。

36. 「シノドス総会第2会期に向けた教区司祭の国際会議」では、この疲労を、司教と司祭が共通の奉仕において真に共に歩むことの難しさと関連付けられました。したがって、宣教的なシノダル教会での聖職者の職務の再構想は、一貫性をもつ要請であるだけでなく、これらの重荷から解放される機会でもあります。ただ、その場合、効果的な実践の転換を伴い、それによって聖職者と他の信徒に変化とそこから生じる利益が明らかにされる必要があります。

 聖職者の回心の旅に加えて、この道は、司牧活動についての新しい考え方と組織化の方法を必要とします。この新しい方法は、教会の使命への、すべての洗礼を受けた男女の参加を考慮し、特に、さまざまな洗礼のカリスマと職務を引き出し、認識し、活性化することを目指そうとするものです。

「福音宣教においてシノダル(共働的)教会になるにはどうすればよいか」という問いは、権力の行使をピラミッド型の方法からシノドス(共働)型の方法へと移行し、聖職者の職務の新たなビジョンを育むことができる関係、構造、プロセスについて具体的に考えるよう促します。洗礼のカリスマと奉仕活動を促進する枠組みの中で、聖職の秘跡を必要としない任務の再配分を開始できます。より詳細な責任の配分をすることで、より明確にシノダリティ(共働性)を特徴とする意思決定と実施プロセスが、よりよく働くようになります。

37. 第二バチカン公会議文書では、聖職は教会の存在そのもののために教会内で奉仕することを第一に考えられています。公会議はその権威によって、初期教会の聖職の形態を復活させました。この聖職は「種々の聖職位階において、古代から司教、司祭、助祭と呼ばれる人々によって行使されている」(「教会憲章」=LG 28項)ものです。この表現では、司教職と司祭職は、教会共同体の牧者であり、頭であるキリストの司祭職への特別な参加に相当し、助祭職は「司祭職のためではなく、奉仕職のため」(LG 29)です。

 さまざまな階級は、それぞれの特殊性において、相互に依存しながら、互いに有機的に関係しています。叙階された者は「権力を授けられた孤立した個人」としてではなく、叙階によって授けられた「キリストの賜物(munera)にあずかる者」として、「他の叙階された聖職者と共同で、また神の民との有機的な絆で結ばれた者」として考えるべきです。神の民は、たとえ異なる方法ではあっても、洗礼に基づく共通の司祭職において、キリストの同じ賜物に与っています。

38. 司教は、教会を司祭する任務を負っており、教会内の目に見える一致の原理であり、すべての教会との交わりの絆です。司教の奉仕職の独自性には、固有で、通常で、直接的な権力が伴い、各司教はキリストの名において個人的に、御言葉の告知、聖体およびその他の秘跡の執行の司祭、司牧指導という権力を行使します(LG 27項参照)。これは、司教が神の民から委ねられた部分(第二バチカン公会議「教会における司教の司牧任務に関する教令」=CD 11項 参照)から離れることを意味するものではなく、司教は善き羊飼いであるキリストの名において奉仕するよう召されているのです。

 「聖職の秘跡の完全性は、司教の奉献によって授けられる」(LG 21項)という事実は、他のすべてのカリスマと奉仕の源泉である特権の集積として考えられている「君主制」の司教職を正当化するものではありません。それは聖霊が洗礼を受けた男女とさまざまな共同体に注ぐすべての賜物を、一致して集め、構成する能力と義務を肯定するものです。司教職候補者の選考基準を含む司教職の特定の側面は、研究グループ 7 によって取り上げられています。

39. 司祭の奉仕職もまた、シノドスの意味で考えられ、実践されるべきである。特に司祭は、神の民の一部である地方教会(CD 11 項参照)に奉仕するために、「司教とともに一つの司祭団を構成する」(LG 28)。これは、司教を司祭団の外部の者とみなすのではなく、まず第一に、司祭団を司祭団の長として、司祭団に特別な配慮をするよう召されている者としてみなすことを求めています。

40. 司教と司祭は、使徒的奉仕の実施のために、2 種類の奉仕職の相互依存の絆の中で助祭によって支援されます。司教と司祭は助祭に関して自立しているわけではなく、助祭も司教と司祭に関して自立しているわけではありません。伝統、典礼の祈り、第二バチカン公会議後の実践が示すように、助祭の機能は多岐にわたるため、現地教会それぞれの特殊性と特異性に関係する必要があります。いずれにせよ、各助祭の奉仕は、助祭の奉仕の性質に従い、またシノダル(共働的)教会の宣教の枠組みの中で、他のすべての助祭の奉仕と調和し、交わりをもって考えられなければなりません。

41. 現地教会の一致を促進することに加え、教区司教あるいは東方教会の司教管区司教は、司祭と助祭の助けを得て、他の現地教会およびローマ司教を中心とする全教会との関係において、相互の賜物の交換に責任を負っている。司教であることと現地教会の司祭であることとの伝統的なつながりを再構築し、司教の交わり(communio episcoporum)と教会の交わり(communio Ecclesiarum)との対応を回復することは重要です。

 

教会間と世界における交わりの具体性

42. シノダリティ(共働性)は、人々、共同体、団体のネットワーク、そして教会間の効果的な賜物の交換と世界との福音宣教の対話を可能にする一連のプロセスを通して実行されます。洗礼を受けた者として、カリスマ、召命、奉仕の多様性の中で、また教会間の賜物の交換の中で共に歩むことは、一方ではますます強固な相互関係を経験し、他方では無償のものを軽視する商業文化に浸っている今日の世界にとって重要な秘跡のしるしです。

43. 公会議によれば、教会はその普遍性のゆえに「個々の部分は、自分に固有な賜物を他の部分と全教会に提供」(LG 13項)します。そして「教会の種々異なる部分の間には、霊的な富、使徒的働き手、物質的援助に関して、親密な交わりの絆が存在する。神の民の成員は、善を分かち合うよう招かれており、使徒の次の言葉は個々の教会にも当てはまる。『あなたがたは、それぞれが賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を用いて互いに仕えなさい』(新約聖書「ペトロの手紙1・4章10節)」(同)。

44. 司教協議会は、支配欲や優位性を主張することなく、唯一無二のカトリック教会を構成する教会間で連帯の精神で財産が共有されることを望んでいます。豊かな教会がある一方で大きな苦難に見舞われる教会があるのは問題です。教会のグループ化を含め、互いのつながりを促進し、支援ネットワークを形成するための取り決めを行うことが提案されます。

45. すべての現地教会は、一つの教会の交わりの中で受け取り、与え合います。財政的および物質的資源の支援を必要とする教会もあれば、生きた信仰の証しと最も貧しい人々への愛ある奉仕によって豊かになる教会もあります。他の民族に福音を伝えることに生涯を捧げる福音宣教者の助けを、何よりも必要とする教会もあります。特に、mission ad gentesに携わる司祭、助祭、修道者、信徒の寛大さが認識され、求められています。

46. 現地教会は、霊的、典礼的、神学的な賜物の交換、そして共通の家の保護や移民の動きなど、世界的に重要な社会問題についてのより大きな共通の証しの希望を表明しています。

 この点において、シノダル(共働的)教会は、すべての人、特に通常は主要な世界的プロセスの周辺にとどまっているグループ、コミュニティ、国の声に耳を傾けることで、「共通の問題の解決策を策定することの重要性」を証しすることができるでしょう。今日、アマゾン、コンゴ盆地、地中海など、広大な超国家的な地理的領域は、賜物の交換を行い、努力を調整するのに特に有望な地域です。

47. 特に、シノダル教会は、賜物の交換の観点から人間の移動の現実に取り組むよう求められています。これは、都市や近隣、小教区、司教区、または教区の日常生活の具体的な状況において、教会間の出会いの機会となり得ます。そのように、“シノドスの道”はコミュニティの経験に根ざします。分かれた状態にあるラテン伝統の教会と東方教会の出会いと賜物の交換の可能性に特に注意を払う必要があります。研究グループ 1 はこのテーマに取り組んでいます。

48. 教会間の賜物の交換は、暴力、迫害、信教の自由の欠如が特徴的な状況で行われます。実際、一部の教会は生き残りをかけて奮闘し、他の教会との連帯を求めながら、福音に反する事象との絶え間ない遭遇と、歴史を通じて主の弟子たちが直面した迫害の成果である富を共有し続けています。

 賜物の交換は、今も続く植民地主義と新植民地主義が影を投げかける中で、行われます。シノダリティ(共働性)の実践で成長する教会は、賜物の交換に対するこれらの社会的力学の影響を理解し、変革を求めるよう求められています。また、この取り組みには、「多くの教会が傷ついた記憶を抱えており、和解の道を促進する必要がある」ことを認識することも含まれます。

49. 「賜物の交換」という概念は、他の教会や教会共同体との関係において特に重要な意味を持っています。聖ヨハネ・パウロ2世は、この概念をエキュメニカルな対話に適用しました。「対話は単なる考えの交換ではありません。ある意味では常に『賜物の交換』なのです」(1995年5月の回勅「Ut unum sint(すべての人をひとつに)=UUS 28項)。

 神学的な対話のほかに、賜物の交換は祈りの共有において行われ、それによって私たちは自分以外の霊的伝統の賜物を受け取るために心を開きます。たとえば、他の教会や教会共同体の聖なる女性や男性の人生や霊的洞察も、私たちが受け取ることができる賜物であり、彼らの記憶、特に殉教者を、私たちの典礼暦に組み込みます。この精神において、私たちも寛大でなければならず、カトリック教会が管理している聖堂や聖なる地への巡礼や祈りの機会を他のキリスト教徒に提供せねばなりません。

50. 宗教間および文化間の対話は、シノドスの旅の外にあるものではなく、「どの時代、どの民族においても、神を畏れ、正義を行う人はすべて、神に受け入れられる」(「教会憲章」9項、使徒言行録10章35節参照)という教えをもとに、「より緊密な関係を築こう」という呼びかけの一部です。したがって賜物の交換は、キリスト教会に限定されません。なぜなら、真のカトリック(の普遍性)は視野を広げ、他の文化や宗教的伝統に存在する命、平和、正義、そして総合的な人間の発展を促進する要素を受け入れる意欲を、求めるからです。

第2部 道筋

 

 シノダル(共働的)教会は関係性を重視した教会であり、その中では人間関係の力学が、ますます複雑化する状況の中で展開される、使命に向かう共同体の活動の構造を形成します。ここで提案されているアプローチは、経験を切り離すのではなく、経験間のつながりを把握することによって、神の言葉の光の中で読み直される現実、伝統、預言的な証言から学び、犯した過ちを振り返ることを可能にします。

 第2部は、特にキリストとの結びつきなど、使命と共同体の活動の調和を志向した関係のケアと発展を確実にするプロセスに焦点を当て、共に対立や困難に立ち向かう能力を通じたプロセスに焦点を当てています。

 具体的には、使命を果たそうとするシノドス教会の生活における4つの、別個でありながら深く絡み合った領域に光を当て、その中でも特に形成―(神の言葉、兄弟姉妹、聖霊の声に)耳を傾けること、そして識別―透明性と説明責任を促進し、宣教のための識別を可能にする空間を再び開く相互関係において参加型の意思決定と意思決定の発展につながる識別、に重きを置きます。

 このダイナミズムの源であり頂点はEucharist(ミサ聖祭)であり、すべての関係の中心に「聖霊において御子を通しての父の無償の愛」を置くもの。宣教するシノダル教会を養う日々の糧は、世界への宣教の宣言でもあります。

 

・シノダリティ(共働性)をどのように養成するか

51 .  「洗礼を受けたそれぞれの人は、主の賜物に応えて自分自身の養成に努め、受けた才能を実り、それをすべての人に奉仕するために活用するよう求められている」(「2023年10月世界代表司教会議(シノドス)第16回通常総会・第1会期総括文書)=SR14項a)。

 第1会期の総括文書にあるこの言葉は、養成の必要性がこれまでの”シノドスの道“の歩みを通じて普遍的かつ最も強く浮上したテーマの1つであった理由を説明しています。そして、「宣教においてシノダル(共働的)な教会になるには、どうすればいいのか」という問いに答えるために、効果的な養成の道を優先し、特にすべての人の継続的な養成に配慮する必要があります。

52 .  多くの人にとって、シノダルな集りに参加することは、シノドスの理解と実践において養われる機会となっています。これは、洗礼の尊厳の意味、または聖霊が神の民に賜物として授ける「超自然的な信仰の感覚」(「教会憲章」=LG 12項)をよりよく理解したい、という強い願望を引き出しました。ですから、まず必要なのは、聖霊が教会の中でどのように働き、歴史を通じて教会を導いているか、についての知識をより深く養うことです。

53.  文脈のない宣教がないように、「特定の文化と独自の歴史を持つ特定の場所に根ざさない教会」はありません。それが、抽象的な養成の取り組みを思い描くことが不可能な理由です。これらは、現地教会とその集団、司教協議会、および同等の東方教会の階層構造によって定義されるべきです。したがって、この文書は、シノダリティ(共働性)に関する養成のいくつかのガイドラインと基本的な特徴を示すことに限定され、特定の場所の特定の状況、文化、伝統を考慮して、実践する必要があります。

54. 福音宣教におけるシノダル(共働的)教会は、聴く能力に基礎を置いています。そのために求められるのは、「教会の使命において誰もが”自給自足“でない」「誰もが貢献するものを持っており、他の人から学ぶことがある」と認識する必要があります。したがって、

 聴く能力を育成することは、不可欠な、第一の要件です。「霊における対話」の実践によって、神の言葉と兄弟姉妹に耳を傾けることがどのように織り合わされるか、そして、どのように徐々に聖霊の声に耳を傾けるようになるかを体験できるようになりました。この方法の形成の重要性を主張する多くの報告が寄せられています。

 教会には、多様な文化と精神的伝統から生まれた、傾聴、対話、識別のための多様な方法があります。この多様な方法の育成と、それぞれの地域の状況の中でそれらの方法間の対話を促進することが必要です。この点で重要なのは、さまざまなタイプの貧困や疎外を経験する人々の声に耳を傾けることです。多くの現地教会は、「この課題に対する準備ができていない」と感じており、「特別な育成が必要だ」と報告しています。これは、研究グループ 2 の作業に委ねられたポイントの 1 つです。

55.  福音宣教におけるシノダリティ(共働性)の観点から見た養成の目的は、証人、すなわち「聖霊の力と共同責任と協力において教会の使命を引き受けることのできる男女」を養成することです (使徒言行録 1章8節参照)。養成はキリスト教入信のダイナミズムに基づいており、私たちの態度、関係、精神、構造を継続的に変革するプロセスを伴う、主との出会いの個人的な経験を促進することを目的としています。

 福音宣教の主体は常に教会であり、教会のメンバーはそれぞれ洗礼の効力により救いの証人であり、先駆者です。聖体は「キリスト教的生活全体の源泉であり頂点」であり (「教会憲章」=LG 11項)、シノダリティ(共働性)における養成の基本的な文脈の中にあります。

 命と愛の共同体として、家族は信仰とキリスト教の実践について教育する特別な場です。世代が織り交ぜられる中で、それは「シノダリティの学校」であり、すべての人に他者を気遣うよう促し、弱い人も強い人も、子供も若者も老人も、誰もが受け取るものも与えるものも、たくさんあることを明らかにします。

56. シノダル(共働的)教会では、養成が不可欠である、とされねばなりません。養成はさまざまな考え、信念、スキルを習得することだけでなく、共通の出会い、共有、協力、識別の能力を促進することも目的としています。ですから、養成は人間のすべての側面、つまり知性、感情、精神に関わるものである必要があります。純粋に理論的な養成にとどまらず、具体的な経験と意味のある寄り添いを伴わねばなりません。特に若者の間で広まっている“デジタル・カルチャー”を含む、現地のの教会が生き、活動している文化に関する知識を育むことも同様に重要です。研究グループ 3 の作業は、デジタル。カルチャーと、この分野における適切な養成の促進に焦点が置かれています。

57.最後に、共同体として共有される養成の必要性が明確に主張されてきていますが、養成においては、一般信徒の男性と女性、奉献された男性と女性、叙階され​​た聖職者、聖職者候補者が共に参加し、相互の知識と尊敬を深め、協力する能力を高められるようにすることが求められます。

  そのために特別な配慮が必要なのは、養成プログラムに、神学生、司祭、修道者、一般信徒とともに女性の参加を促進することです。そして、大学神学部、研究所、神学校での教育と養成のポストに女性が就けるようにすることが、極めて重要です。また、女性が教会で果たすことができている役割と任務を、司祭、司教、一般信徒が認識するようにし、これらの機会の有効性の評価を教会生活のすべての領域、すなわち小教区、司教区、信徒団体、運動、共同体、修道会、教会組織、教皇庁で進めることが、提案されています。

(以上、「本編」第1部の57項まで、「カトリック・あい」南條俊二試訳。聖書の日本語訳は「聖書協会・共同訳」を、第二バチカン公会議の諸文書については、カトリック中央協議会による改定公式訳を使用)

使命に対する教会の識別力

58.   多種多様なカリスマを生み出す唯一の聖霊は、教会に命と神の真理をことごとく悟らせます(ヨハネ福音書10章10節、 16章13節 参照)。聖霊の継続的な臨在と働きによって、「使徒たちから伝わる伝統が、教会内で進歩する」(第二バチカン公会議「神の啓示に関する教義憲章」=DV 8)項)のです。

 聖霊の導きのおかげで、神の民はキリストの預言的役割を共有する者(同「教会に関する教義憲章=教会憲章」=LG 12項 参照)として、「神の臨在と目的の真のしるしを、現代の人々と共有する出来事、必要、願望の中に識別(同「現代世界における教会に関する司牧憲章=現代世界憲章」=GS 11項)します。

  この識別という教会の任務のために、聖霊はsensus fidei(信仰の感覚)」を授けてくれます。これは、「主が教会にお示しくださる新しい方法を識別する本能的な能力」(2015年10月17日の「世界代表司教会議(シノドス)創設50周年」における教皇フランシスコの講話)です。

59. 識別力は、個人レベルでそれに参加する人々、そして共同体レベルで一緒に参加する人々全員が、内なる自由の気質を培い、新しさに進取的で、「霊が諸教会に告げること」(新約聖書「ヨハネの黙示録 」2章7節)を聞くため、互いの声に耳を傾けるために、神の意志に信頼して、身を委ねることを約束します。

   マリアは、使徒共同体の中心に、祈りをもって存在(「使徒言行録」1章14節参照)し、すべての人にとって、真の共働的な霊性を生み出すための生ける模範であり、導き手です。出来事をすべて心に納めて思いめぐらし、(ルカ福音書1章26-38節、2章19節、51節)、聖霊の働きに対して惜しみなく心を開き、(同35節参照)、主の働きに対する感謝を分かち合い(同39-56節参照)、そしてイエスが、マリアの母親らしいケアを委ねられた(ヨハネ福音書19章25~27節参照)一人ひとり(同2章1~12節参照)に、具体的で時宜にかなった奉仕をされました。

60. 私たちが共有する使命について、自分自身の視点を共有することが求められる限り、識別のプロセスは、交わり、使命、そして参加という具体的な方法で明示されます。つまり、「共に歩む」ということです。その際、共同体や社会の片隅にいる人々の関与に特別な注意を払いながら、識別のプロセスへの幅広い参加を促進することが重要です。

61. あらゆる教会の識別の出発点は「神の言葉を聞くこと」です。聖書は、神の、人への卓越したコミュニケーションの証言で構成されています。神がご自分の民に語りかけ、今も語り続けていることを証言し、人とのコミュニケーションのさまざまな経路を示しています。

   神は聖書について、個人的な瞑想を通して語られ、それは聖書と共に祈る人の心に響きます。神は典礼祭儀の中で共同体に語りかけます。典礼祭儀は、主が教会に語られたことを解釈する最高の場所です。神は教会、母であり教師である教会を通して、その生きた伝統と、一般的な祈りを含む実践を通して語られます。私たちがその意味を識別する方法を知っている限り、神はいくつもの場所と時の出来事を通して語り続けられます。

  さらに、神は自然界を通してご自分の民に語りかけておられ、その存在そのものが、命を与える聖霊の存在に満ちた創造主ご自身の業を、私たちに示しています。

  最後に、神はそれぞれの人の良心の中で語られますが、それは良心が「人間の最も秘められた中心であり、聖所であった、そこで人間は独り、神と共にあり、神の声が人間の内奥で響く」(「現代世界憲章」=GS 16項)からです。

  真の識別力は、神のミュニケーションのこれらの経路をおろそかにしては、あり得ません

62. 共同体の識別は単なる組織的な技術ではなく、キリストと聖霊のうちに生きる教会の生活と使命を位置づける厳しい実践なのです。このために、常に聖霊の声を聞きつつ、主イエスの名のもとに集められる、という意識と意志をもって行われなければなりません(マタイ福音書18章20節参照)。

 イエスが約束されたように、教会を命と真理の充足へと導くことができるのは聖霊だけ(ヨハネ福音書16章13節参照)であり、意味を渇望する世界がそれを得られるようになるのです。

 神の民が福音を宣べ伝え、福音を証しするという使命を遂行するための手段は、ここに根ざしています。ですから、エルサレムの使徒共同体が教会史上初のシノダル(共働的)な出来事を「聖霊と私たちによい」(使徒言行録15章28節)と思われる、という言葉で特徴付けることを可能にした福音伝道の技を、あらゆるレベルで実践する方法を学ぶことが、優先されるべきです。この精神に基づいて、特定の場所、仕組み、諸行事で行われる教会宣教のシノダル(共働的)な活動の実践が理解され、方向付けられなければなりません。

(以上、58項から62項まで、岡山康子試訳。聖書の日本語訳は「聖書協会・共同訳」を、第二バチカン公会議の諸文書については、カトリック中央協議会による改定公式訳を使用)

 

65.  教会には、識別への多種多様なアプローチと、十分に確立した様々な手法があります。この多様性は豊富です。様々な状況に適切に合わせることができれば、この多様な取り組みを活用することは実り多いものになります。共通の利益のために、それぞれの特性やアイデンティティの堅固さを弱めることなく、実りある対話を行う必要があります。”シノドスの道“の歩みのすべて段階で明白になった「霊における対話」の実り多さは、この特定の教会識別の形態をシノダリティ(共働性)の実践に特に適していると考えるよう、私たちを促します。

66 .現地教会では、特に責任ある立場の人々の間で、識別の文化を広げ、育てる、養成の機会を提供することが不可欠です。同じくらい重要なのが、同伴者あるいは進行役の養成です。識別の取り組みを実行するうえで、彼らの貢献がしばしば決定的な役割を果たします。議論の的になっている教義、司牧、倫理に関する問題を共有して識別するための神学的基準およびシノダル(共働的)な手法の作成に取り組む研究グループ9の作業は、この方向で進められます。

 

意思決定のプロセス

67.「シノダル(共働的)な教会において、メンバーが自由で豊かな多様性をもつ中で、共同体全体が集まり、共に祈り、傾聴し、分析し、対話し、識別し、神の意志に可能な限り近い司牧上の決定を下すために助言を行うよう、招かれています」(国際神学委員会「教会の活動と使命におけるシノダリティ(共働性)=ITC68項)。この声明は断固として実施される必要があります。

 シノダル(共働的)な教会を促進するために、意思決定と決定プロセスに全員が参加すること以上に効果的な方法は考えられません。この参加は、共同体のメンバーそれぞれを尊重し、共有された決定の観点から、個々の技能や資質を評価する、差異化された責任に基づいて行われます。

68. こういった構想を実行に移すためには、このような意思決定プロセスがどのように形成されるかについて、じっくり考えることが役立ちます。後者には通常、関与と推敲(英語の用語によれば、decision-making=意思決定)の段階を伴い、「識別、協議、協力を合わせ用いることを通して」(ITC69項)、その後に下される決定に情報を提供し、支援しますが、その決定は最終的には、管轄当局(例えば、司教区または東方教会の司教管区における司教)の責任になります。

 2つの局面の間に競合や対立はなく、それらを組み合わせることで、下される決定が可能な限り神の意志と一致するのを確実にすることに役立ちます。「物事をうまく解決するのはシノダル(共働的)な課題であり、決定は聖職者の責任である」(ITC69項)。

69. 多くの場合、現行法では、決定の前に当局は協議を行う義務がある、と規定されています。この教会協議は省くことはできず、「聞くこと」よりもはるかに重要です。協議が行われなかったかのように進めない義務が当局にはあるからです。

 協議に関する意見には拘束力がないので、当局は法律上の観点からは自由ですが、もし一般的な合意が成立した場合、納得のいく理由がない限り、合意した意見から逸脱することはありません(sine praevalent iratione=一般的理論的根拠: 1983年改訂の教会法典、教会法127条2項2)。もし管轄当局がそうした場合、協議対象者から孤立し、彼らを結びつけていた絆が損なわれることになります。教会において、権限の行使は専制的な意思の押しつけるものではなく、神の人々の一致に奉仕する役務として、聖霊が求めるものを共同で探求する緩和力となります。

70. シノダル(共働的)な教会において、司教、司教団、教皇の決定する責任は、奪うことのできないものです。それはキリストが設立した教会の位階構造に根差しているからです。しかし、それは無条件ではありません。適切な識別の成果として協議過程において生まれる方向性は、特に現地教会の参加団体が実行したのであれば、無視できません。

 シノダル(共働的)な教会識別の目的は、司教たちを人々の声に従わせ、前者を後者に従属させることではなく、また、より受け入れられやすいとすでに思われている決定を下すよう司教に提案することでもなく、聖霊に従って共有された決定へと導くことです。

 ですから、協議と識別の間のいかなる対立も不適切で、教会においては、識別は全員の助けを借りて行われ、その職権により決定を下す司牧権なしに行われることは決してありません。この理由から、教会法典に繰り返し登場する「協議投票のみ」(tantum consultivum)という表現は、協議の価値を傷つけるものであり、修正される必要があります。

71. 状況の特殊性に合う、真にシノダル(共働的)な意思決定過程に命を吹き込むすべての可能性を広げられるかどうかは、現地教会にかかっています。これは重要かつ緊急の課題です。シノドスの成功は、これに大きくかかっているのです。具体的な変化がなければ、シノダル(共働的)な教会の構想は成功が見込めません。それでは”シノドスの道“の旅から、力と希望を得た神の民を疎外することになってしまうでしょう。世界の司教協議会の多くの報告が指摘しているように、特にそのことが当てはまるのは、起草および意思決定・決断過程における女性の効果的な参加です。

72. 協議、共同体の識別、シノダル(共働的)な意思決定のプロセスにおいて、参加者がすべての関連情報に効果的にアクセスし、理にかなった自分の意見を系統立てて説明できるようにすることが必要だ、ということを忘れてはなりません。

プロセスを開始する当局には、これを確実にする責任があります。健全なシノダル(共働的)な意思決定のプロセスには、適切な水準の透明性が求められます。同様に、この作業の繊細さと、協議で意見を表明する人々が負う特別な責任を認識することも重要です。

(以上65項から72項まで、新井忍氏試訳)

 

”シノドスの道”の歩みで重要かつ緊急なのは「透明性」「説明責任」そして「評価」

73.シノダル(共働的)な教会は透明性と説明責任を実践するという文化を要求します。なぜなら共通の使命を果たすには、共に歩み、共同責任を果たすために必要な相互信頼を育てるのに重要だからです。教会は社会的及び組織的ニーズを優先して説明責任を果たすことはありません。もっと正確に言えば、「説明責任の根本は、聖体(交わり)の神秘として教会のまさに本質的なものとして存在する」からです。

74.新約聖書によれば、教会の交わりを守るために、「初期のキリスト者にとって「説明責任」を果たすことが重要であることが分かります。使徒言行録11章はその例を示しています。ペトロが異教徒のコルネリウスに洗礼を授けてからエルサレムに戻る時、割礼を受けている者は「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」(使徒言行録11章2-3節)と言ってペトロを非難しました。ペトロは、それに対して彼のとった行動の理由を説明しています。

 このように共同体の人々の前で自身の司牧(宣教)の仕方について理由を説明することは、最も初期の教会からの伝統であり、12使徒の時代まで遡ることができます。監督職についてのキリスト教神学は、権威の行使について理解するための、そして、「透明性と責任説明」について熟考するための枠組みを示しています。

75. 現代では、教会内における教会による「透明性と説明責任」の要求は、財政上のスキャンダル、とどまることのない性的虐待、その他の未成年者や弱者への虐待などによる信頼性の喪失の結果として起きています。(注:このような問題に対する教会の聖職者たちの)「透明性と説明責任」の欠如は、(注;教会にいまだに存在する)「聖職者主義」を際立たせることになりました。それは、「聖職者は自分たちに与えられている権威の行使に対して、誰にも説明責任を負わない」という暗黙の思い込みがあるからです。

76. もしシノダル(共働的な)教会が「快適な場でありたい」と願うなら、説明責任と透明性は権威をもつ聖職者のレベルだけでなく、あらゆるレベルの活動の基本とならねばなりません。しかし、権威ある地位にいる人々は、この点に関してより大きな責任があります。「透明性と説明責任」は、性的虐待や経済的虐待に限ったものではありません。司牧方針、福音宣教のあり方、どのように教会が人々の尊厳を大切にするか、例えば、さまざまな組織や教会内での労働環境についても同様に配慮せねばなりません。

77. 「教会の上位の者に対する説明責任」は、何世紀にもわたって守られてきましたが、「共同体に対して権威を持つ者の説明責任」も、取り戻す必要があります。「透明性」は教会の権威の行使の特徴であらねばなりません。

 今日、あらゆる種類の司牧的な責任がどのように果たされているのかについて、定期的にその構成と評価が必要に応じて明らかになっています。倫理観が欠如していると思われることに対する評価は、聖職者が早急に問題を調節できるように導き、彼らの奉仕が改善するように成長と力を養うことに役立ちます。

78. 管理(規制)基準と仕組みに関する教会法の規範ですでに定められているものを順守するのに加えて、「透明性と説明責任」の果たし方の有効な形と手続きの構築は、現地教会、特にその集まり(教会管区、司教協議会、東方教会の位階制度)の状況に適した形で行なわれます。そして、それは民間の規制の枠組み、社会の期待、そしてその分野で専門性を実際に確保できることが条件になります。

 しかし、そうした条件が十分に満たされない地域であっても、教会は「透明性と説明責任」の文化の実現に向けて、活動、気風、精神性を進化させるために働くでしょう。

79. 特にそれぞれのもつ状況に適切な形で、少なくとも次のことを保証する必要があると思われます。

a) 経済問題評議会が有効に機能すること。

b) 神の民を有効に機能させ、特に司牧や経済計画に関して最も有能なメンバーを受け入れること。

c) 可能な限り、外部の監査人が証明した年次財政報告書の(実際に入手可能な形での)準備と発行、それによって教会とその施設の資産と財源の管理を透明にすること。

d)(未成年者や弱者の)保護の分野での諸活動や、女性への権威のある地位に就く機会の提供、女性の意思決定過程への参加についての例証を含めた、宣教実績の年次報告の策定。

e) 教会において果たされるすべての形の聖職の遂行、すべの役割の保持に関する定期的な評価の実行。

  以上は、”シノドスの道“の歩みとその実践の信頼性において、極めて重要であり緊急性をもっています。

(以上、73項から79項まで、田中典子氏試訳)

 

第3部 – 場所

 

 教会の宣教的なシノダル(共働的)な活動、それを構成する重要な関係、そしてその発展を可能にする道筋は、「場所」―つまり、特定の文脈と文化の中に置かれた教会の具体性と特殊性―を無視すべきではありません。

 第3部では、ピラミッド型モデル (つまり、教区、教区長、主教区または教区、教会管区、司教協議会、あるいは東方教会の階層構造、普遍教会) に従って、「連続するレベル、または程度で順序付ける動きのない場所の見方」を克服するよう求めています。このような見方は、私たちの持つべきものではありませんでした。教会間の関係のネットワークと賜物の交換は、「線」ではなく、常に関係の「網」として織り合わされてきました。それらは、ローマ教皇が永続的で目に見える原理と基盤である統一の絆で結ばれています。

 この意味で、教会の普遍性は抽象的な普遍主義と一致したことは一度もありません。さらに、空間の概念が急速に変化する状況において、教会の活動を「純粋に空間的な仕切り」の中に限定することは、教会を「致命的な不動の状態」に閉じ込め、憂慮すべき「司牧的冗長性」を生み出し、人間集団の最も活発な部分、特に若者に手を差し伸べることをできなくするでしょう。

 ですから、「場所」は、相互依存の観点から理解されねばなりません。相互依存は、教会とそれらが形成するグループ間の関係において具体化され、意味の統一性を与えられます。ローマ司教と彼と交わりを持つ司教団に課せられた一致の奉仕は、この視点を考慮し、その実行に必要な適切な制度的形態を見つけねばなりません。

 

共通の旅の領域

80. 「コリントにある神の教会・・・へ」(「コリントの信徒への手紙」1・1章2節)。福音の宣言は、人々の心に信仰を呼び覚ますことによって、ある「場所」に教会を設けるようにします。教会は、場所と文化に根ざし、場所と文化の間に確立された関係がなければ理解できません。

 「場所」の重要性を強調することは、特殊主義や相対主義に屈することを意味せず、空間と時間の中で「救い主である三位一体の神の顕現に従う」という共通の経験が形づくられる具体性を高めることを意味します。

 「場所」は、この経験の形態の多様性を生み出し、特定の文化的および歴史的文脈に根ざしている状態を維持します。典礼、神学、霊的、規律的な伝統の多様性は、この多様性が教会をどれほど豊かにし、素晴らしくするかを示しています。それぞれの地域的な具体性を持つ教会の交わりは、唯一無二の教会における信者の交わりを明示し、抽象的で均質的な普遍主義になってしまうのを回避します。

81. 文化の多元性とそれらの間の出会いと対話の実り多さは、教会の活動の条件であり、教会の普遍性の表現です。教会の普遍性に対する脅威ではありません。救いのメッセージは、一つであり、同じです。「体は一つ、霊が一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるように、と招かれたのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つです。すべてのものの父なる神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内におられます」(「エフェソの信徒への手紙」4章4-6節)。

 このメッセージは多様な形で、さまざまな民族、文化、伝統、言語で表現されています。この多様な形式を真剣に受け止めることで、覇権主義的な傾向を避け、救いのメッセージを「教会活動とその典礼、司牧。あるいは道徳的表現」を単一の理解に矮小化するリスクを軽減することができます。シノダル(共働的)な教会内の関係の網は、教会間の賜物の交換によって目に見える形になり、ローマ司教を長とする司教団の一致によって保証され、決して画一化されることのない統一の力強い守護者となるのです。

82. 今日、具体的な文脈に根ざした教会というビジョンは、現代の社会・文化的条件に直面しています。この条件は、特定の地域に根ざす、という私たちの経験を根本的に変化させました。「場所」はもはや純粋に地理的、空間的な観点から理解できません。むしろ、過去よりも、動的で流動的な関係の網と文化に私たちが属していることを示しています。

 この現実は、異なる場所の概念に基づいて構築された教会の組織形態に疑問を投げかけています。また、人々の生活に唯一の真実を具体化するために、異なる文脈に適切で、互いに矛盾しない差別化された基準を採用する必要があります。

83. 都市化は、この変化の第一の要因です。今日、人類史上初めて、地球上の人々の大半が農村部ではなく、都市部に住んでいます。

 「場所」への帰属意識は、地域を構成する境界が異なる方法で形成される都市環境では異なる形をとります。大都市では、小教区ばかりか、教区の境界を越えるのに地下鉄で数駅しかかかりません。多くの人が一日に何度もこの旅をします。多くの人は日常的に異なる教会の所在地間を移動しながら活動しています。

84. 第二の要因は、グローバル化した世界的な人間の移動の増加です。難民や移民は活気のあるコミュニティを形成することが多く、信仰の実践を拡大し、定住する場所をより多様なものにします。同時に、彼らはデジタル・メディアのおかげで、出身国とのつながりや関係を維持しています。そして、しばしば、複数の地域、文化、言語のグループに同時に所属します。出身コミュニティのメンバーが減り、時にはその存続に苦労する一方で、彼らの関係と文化の構造は世界的に拡大しています。

 (2023年10月のシノドス総会の)第1会期で指摘されたように、この点で象徴的なのは、一部の東方カトリック教会の状況です。現在の移住率が高くなれば、東方カトリック教会の信者のうち移住者の数が、教会法上の領土に住む人々の数よりも多くなる可能性があります(第1会期総括文書=SR 6項c参照)。

 いずれにせよ、「場所」を純粋に地理的な観点から定義することは、ますます時代遅れになっています。研究グループ 1 は、これが東方カトリック教会とラテン教会の関係にもたらす課題について考えるよう求められています。

85. 最後に申し上げたいのは、特に若者の間でのデジタル文化の広がりを見過ごせない、ということです。デジタル文化は、空間と時間の経験と概念に根本的な影響を与え、コミュニケーション、人間関係、信仰など、あらゆる種類の人間の活動を再形成します。第1会期の総括文書で「デジタル文化は、宣教の明確な領域というよりも、現代社会における教会の証言の重要な側面である」と述べられているのは偶然ではありません (SR 17項b)。研究グループ 3 は、この課題の研究に専念しています。

86.社会と文化のこれらの大きな変化は、宣教のために教会自身の現地的な側面の意味について改めて考えるよう、教会に促しています。現地教会は、常に物理的な文脈と具体的な文化の中で起こることを忘れず、「場所」を純粋に空間的に解釈することから、脱却する必要があります。「場所」、特に教会の「場所」は、単なる空間ではなく、人間関係が発展することのできる環境とネットワークであり、人々に根ざし、どこで活動が展開されても遂行できる使命の基盤を提供します。

 シノダル(共働的)な回心には、共に旅する道を歩むよう呼びかけられた現実の教会のシノダル(共働的)な改革が伴わねばなりません。しかし、これは司牧活動を選ばれた所属先に委ねることを意味しません。目的は、「すべての人と出会うこと」にあります。

87. この改革は、教会の交わり(communio Ecclesiarum)に表現された、神の聖なる民としての教会の理解に基づいて行われなければなりません。経験が示しているのは、現地教会でシノダル(共働的)な歩みを始めることは、教会全体の一致を損なうものではなく、むしろ「神の民の多様性と普遍性を表現するもの」なのです(LG 22参照)。ローマ司教(教皇)の一致の奉仕の遂行を危険にさらすものではなく、むしろ強化するものです。

 私たちは、教会についてその制度から考え始めるのではありません。最高レベルのものも含め、宣教活動の論理の中でこれらを再考する必要があります。

88.  「ローマ教皇の奉仕職が全教会の統一の目に見える根源であり、基礎であり、世界の各司教が現地教会の統一の目に見える根源であり基礎である(「教会憲章」=LG23項参照)ことを踏まえ、第二バチカン公会議は、「キリストの神秘体である教会は、教会の集合体でもあり、その中に、またそこから唯一のカトリック教会が存在する」(同)と言うことができました。この集合体は、

(a) 神の民の一部であり、それぞれが司教に委ねられている個々の教会

(b) 教会の集合体。ここでは、交わりの実例は、何よりも位階制の団体によって表される

(c) 教会全体(Ecclesia tota)―教会は、教会の交わりとして、司教制(cum Petro)と位階制(sub Petro)の絆でローマ司教の周りに集まった司教団。

 教会制度の改革は、教会のこの秩序立った表明に従わねばなりません。

(第3部の初めから88項まで、南條俊二試訳=第二バチカン公会議の諸文書については、カトリック中央協議会による改定公式訳を使用

89. 現地教会は、まさにその特質により、全教会の司牧的でシノダル(共働的)な生活を最も即座に体験できる場です。司教協議会から出された報告は、教区を底部にある小さなキリスト者共同体の集まりであり、宣教における交わりと参加という文脈として語っています。

このことについて、サクロファーノに世界中から集まった教区司祭たちは「教区の信徒は、喜び、悲しみ、希望、そして奮闘の時も、み名によって祈り、礼拝し、奉仕し、証人となるために集まったイエスの宣教する弟子であり、弟子」となった、と語りました。神は、彼らの教会の現実の中で働いています。

同時に、私たちは、教区のもつ大きな柔軟性を活用するためにもっとなすべきこがある、と認識しています。それは、教区という、多くの共同体の集合体も、新たな宣教活動では「一つの共同体」として理解されねばならない、ということです。

 

90. 同じように、今日の現地教会は、古くからの信徒と新しい信徒が混在する集団や共同体で構成されています。そして特に、聖職者の組織や使徒的生活を送る修道会は、現地教会の生活と活発な宣教活動に大いに貢献しています。

同じことが一般信徒の集団、小教区の活動、新らたに出来た共同体にも当てはまります。今日、教会の所属は、正式に決められた地理的な場所に固執せず、集団の繋がりに関係する形で増加しています。宣教の方向性に照らしあわせて、それぞれの文脈の中で「主が何を求めておられるのか」について、教会的な識別の中で、所属の多様性を促進せねばなりません。多様性を活発にし、一致の絆を大切にすることは、教区司教や(東方教会の)管区司教の具体的な能力と関係します。研究グループ 6はこれらの観点を反映させることについて、一任されています。

 

91. この「討議要綱」の草案に先行する審議でも、これまでの“シノドスの道”の歩みと同じようなことがありました。(注*世界の司教協議会などから)受け取った報告の多くに共通しているのが、小教区、管区、教区、東方教会の菅区といった様々なレベルの“評議会”を、司牧活動の計画、組織、遂行、評価の重要な手段として、強化する必要性を指摘していることです。

このような仕組みは、教会法ですでに想定されています。適切な対応によって、“評議会”の多様性は、うまく適応することでシノダル(共働的)なアプローチを強固にするのに、より一層、適していることが証明される可能性があります。

これらの“評議会”は、教会の識別とシノダル(共働的)な意思決定の対象となり、権威をもつ人々にとって、説明責任の行使と評価の場となる可能性があり、したがって、評議会は次にどのように義務を果たすのかについて説明する必要がある、ということを忘れてはなりません。ですから、「説明責任(を果たすこと)」は、シノダル(共働的)な提案と方向性を速やかに実施できるようするために、最も有望な分野の一つであり、効果的かつ速やかな影響を与える変化に繋がります。

 

92. (注:世界の司教協議会からの)多くの報告は、その方向に進むために、組織とその運営方法に関する枠組みを再構築する必要がある、と指摘しています。

重要なことはこれです―再構築は、選ばれたメンバーの構成が、透明性と説明責任の文化をしっかりと促進さようと奉仕している共同体の構成に反映されるのを確実するために、どのようにして彼らが任命されたかを注視するように要求することになる。それゆえ、メンバーの大多数は、「権威をもつ者(教区司祭や司教)」によって選ばれるのではなく、共同体あるいは現地教会の現実を実質的に表現できるような、別の方法で指名される必要があります。

 

93. 同様に、これらの組織の中に女性、若者、貧困や社会的に疎外された環境の中で生きる人々たちが、もっと積極的に受け入れられるように、メンバー構成に配慮せねばなりません。

さらに、(注:202310月のシノドス総会の)第1会期で強調されているように、共同体の生活と奉仕の組織に関わるだけでなく、日常の実生活や社会という文脈の中で、社会で認められている使徒的宣教の使命感(第1会期総括文書= SR 18d参照)を持って、信仰の証人として全力を挙げている男女がこれらの組織のメンバーとなるが基本です。

このように、これらの組織が実践する司牧的な優れた識別は、現実と多様性を持つ全体像を分析する能力と多様な視点を、よりオープンなものにし、より有益なものになるでしょう。

最後に、(世界の司教協議会の)報告の多くが、現行の教会法では設立が任意となっている司教協議会の設置義務化の必要性を指摘しています。

 

94. 世界のいくつかの司教協議会では、すでに改革の体験を共有し、優れた実践を確認しています。小規模で基盤をなすキリスト教共同体から、小教区、教区長、教区の司牧評議会に至る司牧評議会のネットワークの構築も、その中に含まれます。協議と傾聴のモデルとして、あらゆるレベルの教会の集会を開き、他の教会や教区、現地の他宗教の共同体が共に歩む社会貢献に協議の輪を広げることが、提案されています。そうすることで、キリスト者共同体は、彼らとともに旅をすることができるのです。

(以上、89 項から94項まで、田中典子試訳)

教会の一致を形作る絆

95 .  第一部で概説した「賜物の交換」という共同体の地平は、教会間の関係を鼓舞させます。それは、教会の一致を形づくる絆を強調することと、各地域の教会がその歴史と伝統をもって生きている状況に関連した特殊性を理解することを結びつけるものです。

  シノダル(共働的)な様式を取り入れることで、「すべての教会がすべての問題に対して必然的に同じペースで進まなければならない」という考えを克服させてくれます。逆に、ペースの違いは、正当な多様性の表現であり、賜物の交換と相互を充実する機会として評価することができます。これを実現するためには、この地平が具体的な構造と実践に具体化される必要があります。

  「宣教の使命におけるシノダルな教会となるには?」という問いに答えるには、そのような構造と実践を特定し、促進することが必要です。

96.  東方教会の階層構造と司教協議会は、教会間の繋がりを作り、経験を共有し、管理と司牧計画を分権化するための基本的な手段です。「第二バチカン公会議は、古代の総主教制教会のように、司教協議会は 『合議的精神の具体的な実現に向けて、多くの実りある形で貢献する 』立場にあると述べています(第二バチカン公会議「教会に関する教義憲章」=LG 23項)。

  しかし、この願いは完全には実現されていません。なぜなら、司教協議会を、真の教義上の権威を含む特定の帰属の主体と見なすような法的地位がまだ十分に確立されていないからです」(教皇フランシスコの使徒的勧告「福音の喜び(“Evangelii Gaudium”)」= EG 32項)。いかにして宣教の使命におけるシノダル(共働的)教会となるか、を模索するために、この問題に取り組む必要があります。

97 .   この”シノドスの道”の歩みの中で、これまでに集められたすべてのものから、次のような提案が出てきました。

(a)「司教協議会」を教義上の権威を授けられた教会の主体として認め、多面的な教会の枠組みの中で社会文化的多様性を前提とし、異なる社会文化的背景に適した典礼的、規律的、神学的、霊的表現の理解を支持すること。

(b)司教協議会及び東方教会の階層構造の機能並びに、教区司教座と教皇庁との間の関係についての実際の経験を評価し、実施されるべき具体的な改革を特定すること。研究グループ 7に属するアド・リミナ訪問*は、この評価のための適切な機会となり得る。(*ラテン語で「使徒たちの墓所の訪問」。世界の教区司教が5年に1度、聖ペトロと聖パウロの墓を巡礼し、教皇に謁見し、担当する教区の状況について教皇に報告書を提出し、教皇庁各省庁との情報交換などを行う)。

(c)すべての教区または東方教区 ”Eparchy”)が、教会管区と司教協議会または東方教会の階層構造に割り当てられるようにすること(第二バチカン公会議「教会における司教の司牧任務に関する教令」=CD 40項 参照)。

98. すべての地域にわたる大陸レベルの集まりをしたことは、今の”シノドスの道”の歩みにおける革新であり、「キリスト信者の生活の全領域にわたって、より深い適応」(第二バチカン公会議「教会の宣教活動に関する教令」= AG22項)を進めていくために、「各々の広範な社会的・文化的地域」(同)の特殊性を尊重する、という第二バチカン公会議の指針をより首尾一貫して実行する方法でした。

 この経験、及びいくつかの地域の教会が歩んできた道のりは、私たちがどのようにして、例えば教会協議会や司教協議会を通じて、シノダルと合議的ダイナミズムにより適切な制度的表現を与えることができるか、という問題を提起しています。これらの機関には、大陸または地域の協議と意思決定の調整された任務を委ねることができます。

 また、文書の起草や意思決定及び実施の過程に、多様な教会関係者を含めるために、識別方法を開発することもできます。さらに、識別には、多様な状況に適応した形で、市民機関、他宗教の代表者、非カトリック組織、及び社会全体との傾聴と対話の場も含めるべきであると提案されています。

99.  現地のシノダル(共働的)対話が終わりを迎えることなく継続されるべきであるという願いと、特定の地域における信仰の効果的な「インカルチュレーション(文化内開花)」(訳者注:教会の教えが非キリスト教文化からの影響に対しての適応と展開)の必要性は、教会の歴史の大部分において周期的な召集が義務とされてきた、それが管区会議であれ本会議であれ、特定の評議会の制度に対する新たな認識へと、私たちを動かします。

 シノダルの道を歩んできた経験に基づいて、司教会議と、関係する教区や東方教区(”Eparchy” の司牧評議会から委任された、あるいはその地域の教会の多様性を反映する他の方法で指定された信者(司祭、助祭、奉献生活を送る男女、男女信徒)から構成される教会会議を一緒にする形態を考えることができます。これを支援するために、特定の評議会の結論の承認手続きは、それらの時宜を得た公表に有利になるように改革されるべきです。

 

(以上、95項から99項まで、ガブリエル・タン試訳=第二バチカン公会議の諸文書については、カトリック中央協議会による改定公式訳を使用)

 

 

ローマ司教による一致への奉仕

 

100. 「どのようにして派遣するシノダル(共働的)な教会になるのか?」という問いに答えて、シノダリティ(共働性)、団体性、首位性を統一するダイナミズムを再考する必要もあります。そうすることで具体的な表現でもある諸制度間の関係を刺激できるからです。

101 .  目下の”シノドスの道“の歩みは「教会という共同体の中にも、独自の伝統を保つ諸部分教会が合法的に存在し、しかもペトロの座の首位権は変わることなく存続する。このペトロの座は愛の全集団を主宰し、合法的な多様性を保護し、また同時に部分的なものが統一を傷つけることなく、むしろそれに役立つように配慮する」(「教会憲章」=LG13項)という第二バチカン公会議の言葉の真実を示しました。

 この働きゆえに、全教会の一致の目に見える根源(「教会憲章」23項参照)としてのローマ司教は、シノダリティを保証する者です。彼は司教たちを招集し主宰し、シノドス(世界代表司教会議)の結果を確認することで、全教会をシノダル(共働的)な行動へと招いています。彼は、教会がシノダルなやり方と形態をさらに展開するよう配慮する必要があります。

102.  ペトロの奉仕職が行使される諸形式を熟考することは、教皇フランシスコ教皇に促され、多くの司教協議会によって求められているように、「健全な脱中央集権を進める」(使徒的勧告『福音の喜び』16項)観点からもなされるべきです。

    使徒憲章『Praedicate Evangelium(福音の宣教)』(2022年3月19日)によると、このことは、常に、教会に他ならない特別な交わりの神秘の実りと表現である共同責任の精神でなされるものであり、司教たちの“教師としての司教固有の職務”の行使において、彼らが熟知しており、教え・規律・交わりにおける教会の一致に影響しない事柄を解決する権威は、司教たちの権限に委ねること(『Praedicate Evangelium』2章2項)を意味します。

103.  先に進むために、私たちは最近の自発教令『Competentias quasdam decernere』(2022年2月15日)の記述、すなわち普遍教会における規律の一致を守るための教会法典の規定に関して権限のある領域と、そして地方教会における執行権と交わりの教会的ダイナミズムを元にした教会の諸慣行は、司教たちに委ねる、という線で進むことができます(同序文)。

104.  さらに、教会法的な規則を起草することは、シノダル(共働的)な様式を実践する場ともなります。規則を生み出すことは、権威によって付与された力の行使であるとみなされるだけでなく、真の教会的識別であるとみなされるべきです。それが、法制化に携わる全権を用いるだけだとしても、そうすることで、権威は、聖霊において正しく必要なことを聴いたことの実りである規則をシノダルな方法で公布することができるし、そうする必要があります。

105.  すでに述べた使徒憲章『Praedicate Evangelium』は、シノダル(共働的)で派遣的な方法で、ローマ司教と司教団に対するバチカン聖庁の奉仕を表明しました。透明性と説明責任を堅持するために、その働きの定期的な評価がなされるべきであり、また独立した団体(枢機卿会議、あるいはシノドスで選ばれた司教会議など)にその評価は委ねられるべきです。

   第8研究グループには、シノダルな派遣の観点から教皇庁の代表者たちの役割を調査検討することと、その職務をどう評価するかについて探求することが委ねられています。

106.  世界代表司教会議(シノドス)の第16回総会第1会期の参加者たちは、その成果を評価する必要を指示しています(第1会期の総括文書20項j)。この評価は、シノドスを「一過性のイベント」から「教会の空間的時間的に広がるプロセス」へと変えた使徒憲章『Episcopalis Communio』がもたらした展開を無視することはできません。

    全教会の次元でシノダリティ(協働性)と団体性を実践する場のなかで、シノドスは確かに傑出しています。パウロ6世によって、公会議の様式で、教会全体のために教皇を支える司教たちの会議として設けられ、いくつかの段階を経て、、シノダリティ(共働性)、団体性、首位性のダイナミックな関係が実現され、養われる場となっています。

  すべての聖なる神の民、個々の部分を委ねられている司教たち、そして一致の根源としてのローマ司教が、それぞれの働きに従ってシノダルな過程に十全に参加するのです。この参加は、ローマ司教の周りに集められたシノダルな集会によって表現されています。それは、その構成において、「『一致の秘跡』、すなわち司教たちのもとに一つに集められ秩序づけられた聖なる民」(「典礼憲章」26項)としての教会の多様性と普遍性を示しています。

107.  2021年から2024年にかけての”シノドスの道“の歩みの最も重要な実りの中に、教会一致(エキュメニズム)のはずみとそれを印す約束があります。ペトロの奉仕職の行使の問題も教会一致の観点から考えることで、その奉仕職に“新しい状況”(聖ヨハネ・パウロ2世の回勅『キリスト者の一致』95項)が開けてくるかもしれません。

  キリスト教一致推進省が最近発行した文書『ローマ司教:教会一致の対話における首位性とシノダリティ、そして回勅「キリスト者の一致」への応答』は、将来の研究のための見識を提供しています。この主題は第10研究グループの業務の一部分であり、教会の実践におけるエキュメニカルな旅の成果を受け止めることになります。

108.  シノドス総会第1会期に他の諸教会と教会的共同体の兄弟的な使節が参加したことで豊かになった私たちは、東方においても西方においても、エキュメニカルなパートナーによって、どのようにシノダリティ(協働性)が実践されているのか、その理解と評価を深めるよう促されています。

  エキュメニカルな対話は、シノダリティと教会一致の理解を深めるための基本です。とりわけ、この対話によって、共有すべき、また急を要する関心をどのように協議し、また識別するかを含めて、真にエキュメニカルでシノダルな実践をイメージするよう促されています。

  この可能性の根底には、私たちは一つの洗礼において一致しており、そこから神の民のアイデンティティと、交わり・参加・派遣のダイナミズムが流れ出ている、という事実があるのです。

 

(以上、100項から108項まで、「西方の司祭」試訳=第二バチカン公会議の諸文書については、カトリック中央協議会による改定公式訳を使用)

 

 

 

【結びに – 世界の中のシノダル(共働的)教会】

 

109.この世のあらゆるものはつながっており、他者への絶え間ない憧れによって特徴づけられています。あらゆるものは「関係への呼びかけ」であり、究極的には「誰も、いかなる物も自給自足ではない」という事実を証しています。

 キリスト教の啓示の光に照らしてみると、全世界は、それを超越し、活気づける存在の秘跡的なしるしであり、神との出会いへと導きます。そして最終的には、神が聖なる山に用意した終末論的な宴で完全に実現され、異なったもの共生の中で成就されます。

 

110. 復活の宣言によって変容した教会は、預言者イザヤのビジョンが息づき、生き生きと息づく場所、「弱い者の砦、苦難の中にある貧しい者の砦、豪雨を避ける逃れ場、暑さを避ける日陰」(旧約聖書・イザヤ書 25章4節)となることを目指しています。

 そのようにして、教会は、神の国に心を開きます。教会の人々が主の霊に導かれ、これまで垣間見たことのない地平に踏み出すとき、彼らは計り知れない喜びを経験します。その素晴らしさ、謙虚さ、簡明さにおいて、”シノドスの道“が私たちに求めている、教会のあり方の継続的な転換です。

 

111. 回勅「Fratelli Tutti(兄弟の皆さん)」は、復活したキリストにおいて兄弟姉妹として私たち自身を認識するよう呼びかけ、これを地位としてではなく生き方として提案しています。回勅は、私たちが生きている時代と神が用意した共生のビジョンとの対比を強調しています。

イザヤが名付けた喪のベール、覆い、涙は、私たちの時代にも存在しています。それらは、私たちが互いにますます孤立し、世界がますます暴力と二極化しており、生命の源から引き離されていることの結果であることが多いのです。

 この討議要綱が提示する問いかけは、「宣教においてシノダル(共働的)な教会となるにはどうすればよいか」「深く傾聴し、対話するにはどうすればよいか」「個人および共同体の洗礼召命のダイナミズムに照らして、どのように共同責任を負うべきか」「聖霊が各人に注いでいるカリスマを、すべての人が参加、共有できるように構造とプロセスを変革するにはどうすればよいか」「権力と権威を奉仕として行使するにはどうすればよいか」などです。これらの質問はどれも教会への奉仕であり、教会の活動を通じて現代の最も深い傷を癒す可能性への奉仕です。

 

112. 預言者イザヤは、賛美の歌で(「主の山における祝宴の」預言を締めくくります。「この方こそ私たちの神。私たちはこの方を待ち望んでいた。この方は私たちを救ってくださる。この方こそ私たちの待ち望んでいた主。その救いに喜び踊ろう」(イザヤ書25章9節)。

 神の民として、私たちはこの賛美に加わり、希望の巡礼者として、救いの福音の宣言を待ち望んでいる人々に向かって、“シノドスの道‷を進み続けましょう!

 

(完)

(以上109から112まで「カトリック・あい」南條俊二試訳、聖書の日本語訳は「聖書協会・共同訳」を使用)

 

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

このエントリーをはてなブックマークに追加
2024年7月20日