ハラスメントのない教会共同体をめざして~教会におけるハラスメント意識調査まとめ【総括編】
(「カトリック札幌教区ニュース」47号 2024年11月より)
前回までの教区ニュースで、札幌教区のハラスメント調査報告が終わりましたが、まとめの最後となる総括編では、その分析と社会学的見地からの考察と提案をお伝えしたいと思います。
(1)ハラスメントの定義
ハラスメントは「嫌がらせ」など「相手に不快を与える言動」によって起こります。自分の思いではなく、相手の主観による受け止めによって発生します。客観的な事実(常識的な業務命令、地域の習慣)があったとしても、そのアプローチの仕方によっては、ハラスメントは起こり得ることがあります。つまり、受け手による傷つきがハラスメントのスタートになることを肝に銘じておく必要があります。
(2)なぜハラスメントが起きるのか
ハラスメントの原因を確認してみましよう。あらゆるハラスメントは、2種類の関係性を土台として行われているように感じます。
①変えられない事実
性別・年別・国籍などの事実にもとづく価値観や文化・習慣・歴史により、日本文化の中で固定化されたルールとして、悪気なく行われるものです。代えられない事実を根拠に、相手を指摘(無意識の攻撃)することは、避けられない痛みとなります。
②個人の倫理観
育った環境や変化する体験、家族構成・経済・地位・学歴・性格・疾病・障がいなどによるものです。本人にとっては重要な深い体験を、他者が簡単に指摘(無意識の攻撃)することは、大きな痛みを与えます。このような無意識の攻撃は、自分が知らないこと・知り得ないこと・気づかないことに対し、自分が踏み込んだ対応により、知らないうちに人間関係を壊す行為となります。もし最初から知っていたなら、また良い関係を構築出来ていたら、そして深い交わりの中で生きていたら、信頼関係の内に避けられたのかも知れません。
(3)日本の社会と教会におけるハラスメント
ここでは、日本の社会と教会におけるハラスメントの起こり得る文化的背景と男女別の考察を説明します。第二次世界大戦後の復興時、戦争という苦難を乗り越えた人々は社会の復興に一丸となって向き合ってきました。「仕事第一」「24時間働けますか」など、企業戦士と共に働くことが日本の成長であり、日本経済社会への貢献であるとされました。犠牲をいとわず家族を顧みず働いた方々もいたかもしれません。
育児は女性に任せていた時代もあったかも知れませんが、そのおかけで今の日本があることは間違いありません。そして当時それを支えてきたのは家や子どもを守るお母さんたち、すなわち専業主婦の存在でした。役割が明確に分かれており、大黒柱とそれを支える家族という関係が昭和の時代を進んできた家庭・社会環境であったと言えます。その関係は教会での活発な動きに連動していきました。
教会活動の中で最も強かったのは婦人会であったというのは、日本全国の教会の現状を見ても明らかです。それは教会活動に割く時間の割合が、女性には多かったからです。このように信仰の伝達は女性の数に比例していきました。専業主婦の存在が減ってきたという事が、新しい教会の歩みを振り返る為に欠かせない視点です。
その時代は、現代とは違い、発展途上の日本の教会の歩みの中で、内部に向けて力を蓄え、教会は多くの課題に向き合うよりも、教会員が家族のようになり、元気になるため、信仰を深める時間に重点がおかれていました。しかし現代は多様な課題が私たちに与えられています。特に「命」 「人権」に向けた社会的な動きがあり、日本のキリスト教研究の発展に伴い、振り返るべき「典礼」 「歴史」 「聖書」 「教会制度」など、新たな課題も出てきており、教会は祈り、働き、考えるのに忙しくなりました。次から次にやって来る課題に、だんだんゆとりがなく、配慮するのに疲れが生じてきました。教会の能力的キャパオーバーというのが適切ではないでしようか。
そんな中、「昔の教会の方が教会らしかった」という声も聞こえますが、いつの時代も教会は福音宣教を中心に据え置いてきたので、比較はできません。また現代は更に一人一人が「考える時代」です。しかしノスタルジーに溺れてしまうキリスト者は思考停止となり、今ある頭の中の器だけで対応するようになり、それを超えることにより自然に自己本性が表れ始める。すなわち限界を迎えると、思考停止し開き直ってしまうのです。「
自分にとっての当たり前」 「自分の思うこと」 「言いたいこと」を言う。もちろん嘘は良くない事ですが、それは楽な対応です。そこに向けた「欲求が抑えられない」。それを否定されることに許せなくなり、他者を優先できす「自己本位な動き方」などが起こります。結果、違う文化環境で育った人は、口に出して反論できない傷ついた他者が生まれ、泣き寝入りの中で過ごす人が生まれます。
今の社会は性別に関係なく、全ての人が働かなければ生きていけない時代に入り、子どもたちは教会よりも学校を優先しなければならなくなり、青年たちは自立した生活のために働かなければなりません。人々は教会の外で生きる時間が増えました。それはある意味教会人が社会の中に溶け込んでいったともいえるかもしれません。
しかし教会に残された人は新しい風が入らず、今まで教会に来続けてきた人たちは世代交代できず主流となっています。時代とともに変わりゆく教会は、新しい風が入らない中で発展を目指さなければなりません。しかし、同じ人が活躍せざるを得ない状況は、かつての教会文化がそのまま維持継続せざるを得ない環境を残し続けています。
(4)教会からハラスメントは無くなるか
答えは、残念ながらNO、つまり現段階のままでは無くならないでしよう。今回のハラスメント調査を見ると、信徒も修道者も司祭も今までの教会の流れのまま、気が付くと加害者(すでに加害者になっている人もいる)となり、被害者が訴えて初めて驚くことが明らかとなりました。どのように乗り越えたらよいのでしょうか。
まず、「自分はハラスメントを行っているのでは?」という反省の土台が要求されます。これは自己否定ほどではないが、自分と向き合う作業であり、かなきつい振り返りです。そのためにも過去ではなく今を見ること、変えられない現実と向き合うこと、事実からスタートすること、自分以外の価値観に目を向けること、自分を変える事に挑戦すること、自分の価値観をシビアに振り返ること、新しい風を受け入れ理解することが求められます。
教会は分かち合い(シノドスを含む)など素晴らしい方法を持ち合わせていますが、その場と日常は必ずしも一致しないという弱さを人は持ち合わせています。信仰と生活の遊離と同じなのです。ですから、真剣に回心に向かう姿勢が求められています。
(5)打開策はあるのか
解決はかなり難しいですが、考えていかなければなりません。これは私たちにとって大きな課題です。前提として、適切な人間関係とコミュニケーションがあれば、多くは解決するでしょうが、いったん崩れてしまうと、転がり落ちるように関係性は壊れます。そこで打開策に向けて数点、指摘します。
①教会において権利と義務は誰もにある
「聖職者中心主義」は便利なシステムですが、責任がすべての人にあるという自覚が必要です。しかもその責任は同等にあります。権利と義務は、教会内において誰もが持ちうるものであることに気づかなければなりません。聖職者の役割、修道者や信徒の役割はそれぞれ明確に分かれています。しかし、かけがえのない一人の人間であるという役割はすべての人にあること、これが愛の掟に基づいて見直されなければなりません。
②「普通」とは何かを考える
「普通のこと」が通用していないことに気づく必要があります。「普通」ということは「あなたの普通」であり、「みんなの普通」 「教会の普通」とは違います。普通を語る場合、「間違ったあり方」であり、「自分は間違っているのかもしれない」という視点が前提になけれは、気づくことすらないし、ハラスメントは一生なくなりません。
③何よりも他者を尊重する
他者に対する尊敬と、相手が望む関わり方を考える、という歩みが無ければ、ハラスメントはなくなりません。また、その関わり方も時代とともに変わっていることを受け入れねばなりません。TPO(時・場所・状況)が変わると、その都度、変化するものであり、常にリセットせねばなりません。
④表現方法を見直す
たとえ相手が間違っていたとしても、それに対する関わり方、修正の仕方はあります。教会は民主主義ではないので、少数が間違っているとは限らないことも重要です。その認識がずれるとハラスメントが起きます。コミュニケーション方法の感性を磨くことは大切です。自分の意見を通すことに専念するのは、論外です。
(6)最後に
ハラスメントはあらゆる確度から起こり得ます。だから大切なことは、感情(特に怒り)や人との心理的距離感をどうコントロールできるかです。キリスト教的な対応は、シノドスでも大切にされている対話、特に聞くことと誤解を生まないように尋ね合う事です。
そして、互いに信頼を裏切らない関係づくりこそが、乗り越えるための課題です。具体的には伝えずらいが、日常のささやかな対話の積み重ねを通して、自分を知ってもらい、相手を知っていく作業です。信徒と修道者と司祭という立場や役割は変えることができませんが、人と人との間では、たとえ立場があったとしても、主従関係ではなく兄弟姉妹の関係がそれらを乗り越えていけるはすです。
本来、社会では作りづらいが、教会では最も適した環境のはずです。だからこそ教会から初めてハラスメントの無い社会を示していかねばなりません。逆に兄弟姉妹の関係を壊す態度が、ハラスメントを増長させるのです。
イエス・キリストは誰も涙する人を作りたくない。そう信じることで、自分発信ではなく常に他者を通して作る関係性によって神の国の実現を目指したのではないでしょうか。
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「ハラスメントのない教会共同体をめざして~教会におけるハラスメント意識調査~(2023年実施)」について、3回のシリーズでお伝えしました。お伝えできたのはまだ一部にすぎません。今後、札幌司教区ハラスメント対応デスクが行う啓発訪問などを通して報告を継続し、ハラスメントのない教会共同体をめざして、皆様と共に分かち合い歩んで行きたいと思います。
(カトリック札幌司教区ハラスメント対応デスク 担当司祭 松村繁彦)
(編集「カトリック・あい」… 聖職者による性的虐待を受けた信徒など被害者への日本のカトリック教会では、形はともかく、ほとんどまともな取り組みがなされていない。そうした中で、札幌教区は、信者に対する意識調査やそれにもとずく対応の検討など具体的な努力が見られる。教区内で小教区の主任司祭が信徒に性的虐待を働いていたという被害者からの訴えに、その主任司祭が修道会会員だという理由からまともな対応ができていない事案も起きており、まだまだ教区長や担当司祭に努力の余地があるようだ。だが、それでも、日本の他教区が見習うべき点も少なくない。そのような判断から、「カトリック・あい」では、これまで「札幌教区ニュース」に3回にわたって掲載された特集「ハラスメントのない教会共同体をめざして~教会におけるハラスメント意識調査まとめ」を転載した。)