改♰「ともに天の父に向って声を上げよう」-教皇が27日に祈りの式と特別のUrbi et Orbiと全免償

2020.03.22 AngelusPope Francis prays the Sunday Angelus from the Apostolic Library in the Vatican 

(2020.3.22 VaticanNews  Christopher Wells)

 教皇フランシスコは22日、日曜正午の祈りで、新型コロナウイルスの世界的感染拡大に対して、私たちの父にともに祈るように、そして、どこにいても変わらぬ「祈り、思いやり、優しさ」をもって結束し、最も孤独で試されている人たちに寄り添う心をもって対応するよう、全世界の全てのキリスト教徒に促された。

 この日の祈りに続いて教皇は、全てのキリスト教徒に対して、共に祈るよう呼びかけられた。「この試練の日々、新型ウイルスの世界的感染拡大で人々はひどく怯えていますが、私は、皆で天の父に向かってともに声を上げることを提案します」。

 

*受胎告知の祝日、25日に主の祈りを共に唱えよう

 具体的には、受胎告知の祝日である3月25日の水曜日に、「諸教会の長たちと全ての教会共同体のリーダーたちが、様々な形の告白をする全てのキリスト教徒とともに、全能なる方、全知全能の神に救いを求めて呼びかけ、私たちの主なるイエスが教えてくださった、『私たちの父よ‥』で始まる祈りを唱える」ことを求められた。

 そして、「神がイエス・キリストとなったこの世に来られることを告げる、乙女マリアへの受胎告知を多くのキリスト教徒が思い起こすこの日(25日)に、復活されたキリストの勝利を祝う準備をするイエスの弟子たち全ての一致した祈りを、主がお聴きくださるように」と祈られた。

*27日に祈りの式、特別なUrbi et Orbi(使徒的祝福)、赦免

  さらに、教皇は3月27日に聖ペトロ大聖堂の正面の階段を上ったsagratoで祈りの式をすることを明らかにされ、「各種の通信手段を使って、全ての方がこれに参加するようにお勧めします」と述べらた。

 この式は聖書朗読、主に救いを願う祈り、聖体の礼拝、そして最後に、教皇がUrbi et Orbi(教皇祝福)をされる。様々な通信手段を通じての実況中継でこれを聴き、先に内赦院が出した教令の条件を満たすことで、全免償を受けることができる。「ローマと世界」に向けたこの祝福は、通常は、年に二回、復活祭とクリスマスに限ってされるものだ。

*祈りの式は日本時間28日午前2時から動画配信

 バチカンの報道官によると、この27日の儀式は、同日ローマ時間午後6時(日本時間28日午前2時)から、バチカンから生放送される。また、この祝福に伴う全免償を受けるにはバチカン内赦院が出した(注:新型コロナウイルスに感染した信徒、家族、対策に関わる医療・保健従事者、そして彼らの為に祈ることを含めて対応をしている人に特別の全免償を受ける恵みを与える、とした)教令の条件を満たす必要がある、という。

 教皇はまた、この日の祈りの終わりに、26日朝に大地震に見舞われたクロアチアの人々に心を向けられ、「復活された主が、クロアチアの人々に、この災難に立ち向かう力と連帯をお与えください」と祈られた。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

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【参考】

   教皇庁内赦院は、新型コロナウイルス患者とその家族、医療関係者をはじめ、このパンデミック危機下にあるすべての信者らに、特別免償を定めた教令を発表した。

 免償とは、既に赦された罪に伴う有限の罰の免除をいう。

 今回の教令は、人類が現在直面している感染症という見えない脅威が人々の生活に苦悩や怖れや不安、また特に心身の苦痛を与えている状況を直視すると同時に、神なる師イエスの模範に倣い、常に病者に寄り添い続けてきた教会の歴史に言及している。教皇フランシスコも、この最近の感染症危機に際し、病者たちへの連帯を表され、新型コロナウイルスの患者たちのために絶えず祈るように、改めて求めたおられる。

 このようなことから内赦院は、新型コロナウイルスに苦しむ人々が、その苦しみの神秘の中に贖い主キリストと同じ苦しみを見出し、主の御言葉に信頼し、この状況を信仰の精神をもって個人的回心の鍵のうちに生きられるよう、免償の恵みを受ける条件を以下のように定めた。

①コロナウイルスに感染し、保健当局の指示に従い、病院もしくは自宅に隔離されている信者で、あらゆる罪から離れる決意を持ち、メディアを通してミサ、ロザリオの祈り、十字架の道行、または他の形の信心業に精神的に一致し、少なくとも、信仰宣言(クレド)、主の祈り、至福なるおとめマリアへの敬虔な祈りを一つ唱え、この試練を神における信仰と兄弟への愛徳の精神をもって捧げ、可能な限り早く通常の条件(ゆるしの秘跡、ミサ、教皇の意向に従った祈り)を果たす意志を持つ者に、全免償が与えられる。

②医療関係者、家族、そして神なる贖い主の言葉に従って、善きサマリア人の模範に倣い、感染の危険に身を置きつつ、新型コロナウイルスの患者を看護するすべての人は、同様の条件のもと、全免償が与えられる。

③内赦院は、現在のパンデミックの状況下で、少なくとも30分間、聖体訪問、または聖体礼拝か、聖書の読書をする、あるいはロザリオの祈り、十字架の道行の黙想、神のいつくしみへの祈りの花束をもって、全能の神にこの感染症の収束と、この感染症で苦しむ患者たちの慰め、主の御許に召された人々の永遠の救いを祈る者に、同様の条件のもと、全免償を与える。

④教会は、病者の塗油と、危篤時の聖体を受けられない人を、聖人の交わりの力のもとに、神の憐みにゆだね、その信者に用意が整い、人生の中で何らかの祈りを唱える習慣があったならば、臨終に際して、全免償を与える。この免償の完成のために十字架を用いることが勧められる。

 

*バチカン内赦院が出した教令(公式英文訳)は以下の通り

Decree of the Apostolic Penitentiary on the granting of special Indulgences to the faithful in the current pandemic, 20.03.2020

The gift of special Indulgences is granted to the faithful suffering from COVID-19 disease, commonly known as Coronavirus, as well as to health care workers, family members and all those who in any capacity, including through prayer, care for them.

“Be joyful in hope, patient in affliction, faithful in prayer” (Rom 12: 12). The words written by Saint Paul to the Church of Rome resonate throughout the entire history of the Church and guide the judgment of the faithful in the face of all suffering, sickness and calamity.

The present moment in which the whole of humanity, threatened by an invisible and insidious disease, which for some time now has become part of all our lives, is marked day after day by anguished fears, new uncertainties and above all widespread physical and moral suffering.

The Church, following the example of her Divine Master, has always had the care of the sick at heart. As Saint John Paul II points out, the value of human suffering is twofold: “It is supernatural because it is rooted in the divine mystery of the Redemption of the world, and it is likewise deeply human, because in it the person discovers himself, his own humanity, his own dignity, his own mission” (Apostolic Letter Salvifici Doloris, 31).

Pope Francis, too, in these recent days, has shown his paternal closeness and renewed his invitation to pray incessantly for those who are sick with the Coronavirus.

So that all those who suffer because of COVID-19, precisely in the mystery of this suffering, may rediscover “the same redemptive suffering of Christ” (ibid., 30), this Apostolic Penitentiary, ex auctoritate Summi Pontificis, trusting in the word of Christ the Lord and considering with a spirit of faith the epidemic currently underway, to be lived in a spirit of personal conversion, grants the gift of Indulgences in accordance with the following disposition.

The Plenary Indulgence is granted to the faithful suffering from Coronavirus, who are subject to quarantine by order of the health authority in hospitals or in their own homes if, with a spirit detached from any sin, they unite spiritually through the media to the celebration of Holy Mass, the recitation of the Holy Rosary, to the pious practice of the Way of the Cross or other forms of devotion, or if at least they will recite the Creed, the Lord’s Prayer and a pious invocation to the Blessed Virgin Mary, offering this trial in a spirit of faith in God and charity towards their brothers and sisters, with the will to fulfil the usual conditions (sacramental confession, Eucharistic communion and prayer according to the Holy Father’s intentions), as soon as possible.

Health care workers, family members and all those who, following the example of the Good Samaritan, exposing themselves to the risk of contagion, care for the sick of Coronavirus according to the words of the divine Redeemer: “Greater love has no one than this: to lay down one’s life for one’s friends” (Jn 15: 13), will obtain the same gift of the Plenary Indulgence under the same conditions.

This Apostolic Penitentiary also willingly grants a Plenary Indulgence under the same conditions on the occasion of the current world epidemic, also to those faithful who offer a visit to the Blessed Sacrament, or Eucharistic adoration, or reading the Holy Scriptures for at least half an hour, or the recitation of the Holy Rosary, or the pious exercise of the Way of the Cross, or the recitation of the Chaplet of Divine Mercy, to implore from Almighty God the end of the epidemic, relief for those who are afflicted and eternal salvation for those whom the Lord has called to Himself.

The Church prays for those who find themselves unable to receive the Sacrament of the Anointing of the Sick and of the Viaticum, entrusting each and every one to divine Mercy by virtue of the communion of saints and granting the faithful a Plenary Indulgence on the point of death, provided that they are duly disposed and have recited a few prayers during their lifetime (in this case the Church makes up for the three usual conditions required). For the attainment of this indulgence the use of the crucifix or the cross is recommended (cf. Enchiridion indulgentiarum, no.12).

May the Blessed Virgin Mary, Mother of God and of the Church, Health of the Sick and Help of Christians, our Advocate, help suffering humanity, saving us from the evil of this pandemic and obtaining for us every good necessary for our salvation and sanctification.

The present Decree is valid notwithstanding any provision to the contrary.

Given in Rome, from the seat of the Apostolic Penitentiary, on 19 March 2020.

Mauro Cardinal Piacenza Major Penitentiary Krzysztof Nykiel Regent

 

 

 

 

 

At the close of his remarks following the Angelus, Pope Francis expressed his closeness to the people of Croatia, which was struck by magnitude 5.4 earthquake Sunday morning. The Holy Father prayed, “May the Risen Lord give them the strength and solidarity to face this calamity”.

 

2020年3月23日

♰「新型ウイルスは私たちが『一つの人類共同体』だと教えている」-イタリアの日刊紙に

(2020.3.20 VaticanNews)

  教皇フランシスコは20日付けのイタリアの日刊紙La Stampaに掲載されたインタビューで、新型コロナウイルスによってあらゆる人が体験している嘆き、苦しみについて語られ、このような状況を生き抜く唯一の道は、皆が結束すること、と強調された。

 そして、今この瞬間を「悔い改め、思いやり、希望をもって」生きることを勧め、「私たちには謙​​虚さが必要です。なぜなら、私たちは人生には暗い時期もあるということを、しょっちゅう忘れてしまうからです… 私たちは、辛いことが他の人にだけ起きる、と考えがちですが、誰にでも、そういう時はあるのです」と付け加えられた。そして、現在の四旬節は「他の人々と、特に苦しんでいる人々と連帯を実践するように、鍛える」時期だ、と説かれた。

*祈ること

 また、教皇は、祈りの重要性を強調された。福音書のガリラヤ湖をイエスと渡ろうとした弟子たちが、激しい突風で舟が沈みそうになり、眠っておられた彼に助けを求める場面(マルコ4章35-38節)を思い起こされ、「祈りは、私たちが自分の弱さを理解する助けとなります… 祈りは、溺れそうになっている人たち、危険にさらされ、孤立していると感じている人たちの叫びなのです」と語られた。そして、「困難で絶望的な状況の中で、主が、私たちをしっかりとつかんでくださる為にそこにおられることを知るのが重要なのです」と強調された。

*皆が苦しんでいる

 教皇は「信仰を持っている人と持っていない人」を区別しない。「人々が涙を流しているのは、苦しんでいるからです… ”あらゆる人”が苦しんでいます」とされ、「私たちは神の前で、皆、子供たちなのです」と述べられた。

*愛する人無しに亡くなる人

 また教皇は、「孤独で、家族の慰めも受けられずに、亡くなっていく人々」について語り、その一方で「看護師の1人が持っていた携帯電話を借りて、(注:側にいることのできない)愛する人に最後の別れを告げた、年配の女性」の話に心を打たれた、と話され、 「『さよなら』を言わずに亡くなった人々の痛みは、後に残された人々の心の傷になります」とされた。

 そのうえで、「(注:患者の世話をしている)全ての看護師、医師、そしてボランティアの方々に感謝します….. 疲労困憊の中で、その場にいることのできない患者の家族の為に、忍耐と思いやりをもって、彼らの代わりを務めてくれているのです」と医療関係者たちに感謝された。

 さらに、教皇は、新型コロナウイルスの世界的大感染(パンデミック)が私たちの将来にもたらすものについて触れられ、現在起きている危機が、「最終的には、人類は単一の共同体である」ということを、私たちに思い起こさせる助けとなり、「universal kinship(普遍的な親族関係=人類は皆、兄弟姉妹の関係にあること)」”が決定的に重要であることを教えてくれる、と指摘された。

 「私たちは、それを”(注:敵と味方に分かれての)戦いが終わった後”の現象と考えるべきです。もはや、”彼ら”ではなく、”私たち”なのです。なぜなら、私たちは共に協力することでしか、現在の状況から抜け出すことができないから」と強調され、次のように結ばれた。「私たちは、自分のルーツー祖父母、お年寄りーをもっと傍で見る必要があります… 私たちの中に、本当の親族関係を作る必要があります」。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

2020年3月21日

♰「不確かな状況、苦しみや不安の闇でも、神のみ旨に信頼して歩もう」-聖ヨセフの祭日に

(2020.3.19 バチカン放送)

 教皇フランシスコは19日の聖ヨセフの祭日にあたって、イタリア司教協議会が主催するロザリオの祈りにビデオ・メッセージをおくられた。

 イタリア司教協議会は、聖ヨセフの祭日の19日夜、皆でロザリオの祈りを唱えるよう、各家庭や、修道者の共同体などに呼びかけている。教皇は、お住いのバチカンのサンタ・マルタ館から、この祈りに参加される。

 これに先立ち、教皇はビデオを通し、次のようにロザリオの祈りへの一致を促された。

「今晩、聖家族とすべての家庭の保護者、聖ヨセフの取り次ぎに託して、皆で心を合わせて祈りましょう。ナザレの大工ヨセフも、不確かな状況に置かれ、苦しみや明日の不安を体験しました。聖ヨセフは、闇の中においても、常に神のみ旨に完全に信頼し、それに導かれて歩みました」

(編集「カトリック・あい」)

2020年3月20日

◎教皇連続講話「山上の説教」⑥「赦し」と「忍耐」が憐みの秘訣、神の憐れみは私たちの”空気”

 

ビデオを通じ一般謁見のカテケーシスを行う、教皇フランシスコ 2020年3月18日ビデオを通じ一般謁見のカテケーシス(3月18日 ()

 新型コロナウイルス感染拡大防止のため、多数の信徒の前での行事を中止されている教皇フランシスコは18日の水曜恒例一般謁見をバチカン宮殿図書室から動画配信の形でなさった。

 この一般謁見でのカテケーシス(教会の教えの解説)の講話で、教皇は、マタイ福音書の「山上の説教」の5番目の「幸い」の教え、「憐れみ深い人々は、幸いである。その人たちは憐みを受ける」(5章7節)を取り上げられた。

教皇の講話の要約は次のとおり。

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親愛なる兄弟姉妹の皆さん

今日はイエスが山上の説教で説かれた8つの「幸い」の5番目、「憐れみ深い人々は、幸いである。その人たちは憐みを受ける」を考察したいと思います。

この5番目の教えで特徴的なのは、「憐み」という言葉が、「幸い」の「原因」である前半と、その「実り」を表す後半の両方に使われ、互いに呼応していることです。

この「赦しの相互性」は、「山上の説教」だけでなく、福音全体に頻繁に見いだされるものです。「憐み」とは神の御心そのものです。その相互性は、特に私たちが唱える「主の祈り」に表れています。それは、「私たちの罪をお赦しください。私たちも人を赦します」とある通りです。

そして、この嘆願に対し、「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」(マタイ6章14-15節)という、唯ひとつの答えが与えられるのです。

「与えた赦し」と「受けた赦し」、この二つは切り離すことができません。だが、多くの人にとって、「赦す」のは、難しいことです。自分が受けたひどい仕打ちを赦すことは、高い山に登るように、たいへんな努力を必要とします。

この「憐みの相互性」は、私たちの考え方を覆すよう促します。私たちの力では不可能だからこそ、神の恵みが必要なのです。

8つの「幸い」の5番目の教えが「憐み」を約束し、「主の祈り」が罪の赦しを願っているように、私たちは本来、「負い目のある者」であり、「憐みを必要とする者」です。 私たち皆が、負い目を持っています。寛大な神に対してはもとより、兄弟たちに対してもそれを持っています。

すべての人が、自分が父として、母として、また夫、妻、兄弟姉妹として、あるべき理想の姿ではないことを知っています。私たちは人生において「負債」があり、そこに憐みを必要としているのです。私たちが過ちを犯したとしたら、そこには行うべき善が何か足りなかったということです。

しかし、この私たちの貧しさこそが、赦しのための力となるのです。私たちは「負い目のある者」ですが、私たちは「自分の量る秤で量り返される存在」です(参照:ルカ福音書6章38節)。そうであるなら、秤をいっぱいに広げて、人を赦すことです。

「赦し」と「忍耐」。これが憐みの秘訣であることを忘れてはなりません。赦すことで、赦されます。神は私たちに先立って、最初に赦しを与えてくださいます。神の赦しを受けながら、私たちも人を赦す力を得るのです。こうして、自分の「惨めさ」と「過ち」は、天の御国に向かって自分を開く機会となります。神は憐みであり、その秤は大きいのです。

私たちの憐みはどこから来るのでしょうか。イエスは言います。「あなたがたの父が憐み深いように、あなたがたも憐み深い者となりなさい」(ルカ福音書6章36節)。御父の愛を受け入れれば受け入れるほど、より多く愛することができるのです。

「憐み」は、キリスト教生活の中心です。あらゆる霊的歩みの唯一の真の到達点です。愛(カリタス)の最も美しい実りの一つです。私は教皇になって最初に、「憐み」という、このテーマを伝えたいと思いました。教皇就任後、初めてのお告げの祈りで、教皇としてこのメッセージを与える必要を強く感じたのです。

神の憐みは、私たちの自由であり幸いです。私たちは憐みを生き、空気のように、それ無しではいられません。私たちは条件を提示するには貧しすぎる立場です。私たちは赦す必要があります。それは赦される必要があるからです。

(編集「カトリック・あい」)

 

 

 

2020年3月19日

♰「キリストは生ける水の源」-日曜正午の祈りで

Pope Francis prays the Angelus in the Apostolic LibraryPope Francis prays the Angelus in the Apostolic Library 

(2020.3.15 VaticanNews) 教皇フランシスコは15日、新型コロナウイルスの感染防止のため、バチカン宮殿の図書室から動画配信の形でなさった正午の祈りの説教で、井戸の側でイエスがサマリア人と会われたことに触れたこの日の主日のミサの福音書朗読箇所(ヨハネ4章5-42節)について語られた。

「それで、イエスはヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に着かれて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである」

 教皇は「イエスは疲れています。のどが渇いています… 井戸のそばで休んていると、女の人が水を汲みにやって来たので、イエスは彼女に水を飲ませてください、と頼みます。そのようにすることで、ユダヤ人がサマリア人を軽蔑し、作っていた壁を破りました」と説かれた。

 そして「イエスは彼女と話を始めます。その中で、彼は、生きている水の神秘について、聖霊と神の賜物について、彼女に語ります」とされたうえで、「二人の話のポントは”水”です… 体の渇きをやわらげ、命を維持するために欠かすことのできない要素としての水、そして、永遠の命をくださる神の恵みの象徴としての水、です」と語られた。

 さらに教皇は「聖書の伝統では、神は生ける水の源とされており、神から離れ、神の律法が最悪の干ばつをもたらしました」と述べ、砂漠をさまようイスラエルの民を例に挙げ、神がご意思として、モーセに岩から水を流れ出させるようにされた、ことを示され、「使徒パウロも、その岩をキリストの象徴と解釈しています」と言われた。

 「救いを渇望する人は、それをイエスから何の束縛もなく引き出すことができます… イエスがサマリア人の女性に与えた”生ける水”の約束は、イエスの受難において現実のものとなるのです」とされた教皇は、「ご自分をいけにえとして捧げ、復活された神の子羊、キリストは、罪を赦し、新しい命へとよみがえらせる聖霊の湧き出る泉です」と強調。

 そして、「サマリア人の女性のように、”生けるイエス”と直に出会う人は誰でも、イエスについて他の人に話す必要があると感じます… 誰もが『イエスが本当に世界を救われる方だ』と公言するように」とされたうえで、「私たちも、自分の内にある命と希望を証しするように求められているのです」と呼びかけ、次の祈りで締めくくられた。

「聖母マリアが、生ける命の源、私たちが心に抱く命と愛への渇きを満たすことのできる唯一の方、キリストへの願望を培う私たちを助けてくださいますように」

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

2020年3月15日

♰教皇、新型コロナウイルスに苦しむ人々の加護を聖母マリアに願う祈り

 

(2020.3.11 VaticanNews Devin Watkins)

    感染拡大を続ける新型コロナウイルスに世界保健機関(WHO)が11日、「パンデミック(感染症の世界的な大流行)」を宣言したが、教皇フランシスコは同日、聖母マリアに感染に苦しむ人々への加護を願う祈りをお創りになり、新型コロナウイルス感染の緊急事態克服のための祈りと断食を捧げるローマ教区の日にあたって、ビデオ・メッセージの形で聖母マリアに捧げられた。

 ビデオは同日、アンジェロ・ド・ドナティス枢機卿が司式したローマ近郊サンクチュアリ・ディヴィーノ・アモーレでのミサの冒頭に放映され、バチカンのマッテオ・ブルーニ報道官は、新型コロナウイルスの危機が続くこの期間、ローマ、全イタリア、そして全世界を、「救いと希望のしるしとして、神の母の加護に委ねる」ことを、教皇は望まれている、と説明した。

*揺るぎない信仰

 教皇はこの祈りの中で、聖母マリアを「Health of the Sick(病に苦しむ人を癒やす方)」と呼び、彼女が、苦痛にあえぐイエスが架けられた十字架の傍らに立ちながら、信仰を固く守ったことを、それに加えられ、「ローマの人々の救いであるあなたは、私たちが何を必要としているかご存じです。そして、私たちは必要としているものをあなたがくださると信じています-ガリラヤのカナでなさったようにー試練の時の後に、喜びと祝いが戻ってくることを」とされた。

 報道官はまた、「父の御心に従うのを聖母マリアが助けてくださると知って、私たちが、彼女の加護の下に身を寄せることを強く望んでいる、と教皇は言われています」と付け加えた。

*歴史的な場所でのミサ

 11日のミサの場所としてサンクチュアリ・ディヴィーノ・アモーレが選ばれたのは、歴史的な意義によるもの。ピオ十二世教皇は1944年6月に、この地を訪れ、聖母像の前で祈りを捧げた。それは、第二次世界大戦末期、ナチス・ドイツの軍隊がイタリアから撤退した時で、教皇は、ローマの町の救いを願ったのだった。それから75年経った今、教皇フランシスコが、聖母マリアに、新型コロナウイルスの危機にある世界に目を注いでくださるように願っておられる。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

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教皇の祈りの英語訳“O Mary, you shine continuously along our journey as a sign of salvation and hope(聖母マリア、あなたは私たちの旅に、救いと希望のしるしとして輝き続けられます)”は次の通り。

  “We entrust ourselves to you, Health of the Sick, who at the Cross were near to the pain of Jesus, keeping your faith firm.“You, Salvation of the Roman people, know what we need, and we trust that you will provide for those needs so that, as at Cana of Galilee, joy and celebration may return after this moment of trial.“Help us, Mother of Divine Love, to conform ourselves to the will of the Father and to do what Jesus tells us, He who took our sufferings upon Himself, and took up our sorrows to bring us, through the Cross, to the joy of the Resurrection. Amen.“We seek refuge under your protection, O Holy Mother of God. Do not despise our pleas – we who are put to the test – and deliver us from every danger, O glorious and blessed Virgin.”

(カトリック・あい」仮訳)「私たちはあなた、十字架上のイエスに近い苦しみにある「病める人を癒す方」に、自らを委ねます。あなたの信仰を固く守ります。

 ローマの救いであるあなたは、私たちが何を必要としているかをご存じです。そして、私たちは、あなたが、必要としている人々に与えてくださり、ガリラヤのカナの時のように、試練の時の後に、喜びと祝いが戻ってくることを信じます。

 神の愛である母よ、私たちが父の御心に従い、イエスが語られることをするように、助けてください。イエスは、私たちの苦しみをご自分の上に置き、私たちにもたらされた悲しみを取り去り、十字架を通して、復活の喜びに導いてくださいます。アーメン。

 私たちはあなたの加護の下に身を寄せることを強く望みます。神の母聖マリア、私たちの切なる願いを蔑まないでくださいー私たちは試練を受けています。して、すべての危険から私たちをお救いください。栄光と祝福に満ちた乙女マリアよ」

 

 

2020年3月12日

◎教皇連続講話「山上の説教」⑤「義に飢え渇く人々は幸い。その人たちは満たされる」

(2020.3.11 カトリック・あい)

 教皇フランシスコは11日、水曜恒例の一般謁見とカテキーシスをバチカン宮殿の図書室から動画配信の形でなさった。この中で、イエスの「山上の説教」についての講話を続けられ、この日は、四つ目の幸い、「義に飢え渇く人は幸い」(マタイ福音書5章6節)を取り上げられた。バチカン広報が発表した、その内容は次の通り。

 「親愛なる兄弟姉妹のみなさん。今日のカテキーシスでは、山上の説教の第四の幸せに目を向けたいと思います。この箇所で、イエスは『義に飢え渇く人々は、幸いである。その人たちは満たされる』と語られました。イエスは、個人的に社会的に飢え渇いている人々についてだけでなく、神の目の中に義の切望にも注意を向けています。Pope Francis during the General Audience in the Vatican Library

 詩編63章は、「渇き」を次のように表現しています-『神よ、あなたこそわが神。私はあなたを探し求めます。魂はあなたに渇きます』(2節)。

 また聖アウグスチヌスは『主よ。あなたは私たちをご自身の為にお創りになりました。私たちの魂は、あなたのところに落ち着くまで、安らぐことがありません』(告白録1.1)と語りました。

 このような渇望はすべての人間の心の中にあり、キリストにおいて満たされることに気づくのです。キリストは、過ぎ越しの神秘を通して、私たちを父と和解させ、主において義とされる”良き知らせ”を全ての人と分かち合うよう呼びかけるのです。

 『山上の説教』は最高の感覚で正義を促すことによって約束します-『私たちの義への飢え渇きが、神がご自分の子たちに注がれる愛によって癒されることで、私たちが真の満足をえられるのだ』ということを」

(翻訳・南條俊二=聖書の引用は「聖書協会 共同訳」を使用)

 

 

Pope Francis during the General Audience in the Vatican Library 

 

 

2020年3月11日

♰教皇、新型ウイルス感染者のために”動画配信ミサ”-全ての人に祈りを求める

 これは前日の8日にバチカンのプレス・オフィスが発表していた。午前7時からのミサの冒頭で、教皇は「これから日々、私は新型コロナウイルスに感染された方々、医師、看護師、ボランティアの方々、家族、老人ホームのお年寄りたち、刑務所にいる人たちのためにミサを捧げます」と約束された。

 そして、世界の全ての人に今週、次の交唱で祈るよう求められた。「 Redeem me, O Lord, and have mercy on me. My foot stands on level ground; I will bless the Lord in the assembly(仮訳:(私をお救いください、主よ、私に慈しみを。私は堅い意志をもって、主の恵みを皆で祈ります)」。

 教皇はまず、この日-四旬節の第二月曜日-の第一朗読、ダニエル書の9章4-10節を取り上げ、「罪の告白」と特徴づけられた。

 人々は自分たちが罪を犯したことを認めてこう言いました。「私たちは罪を犯し、過ちを犯し、悪を行い、逆らって、あなたの戒めと法から離れ去りました。あなたの僕である用言者があなたの名によって私たちの王、高官、先祖たち、そして国の民すべてに語ったにもかかわらず、私たちは聞き従いませんでした」(5-6節)。これは罪の告白であり、自分たちが罪を犯したのを認めたのです。

*赦しの秘跡の準備

 続けて教皇は、「赦しの秘跡を受ける準備をする時、私たちは『良心の究明』をせねばなりません」とされたうえで、「知的レベルでなされた罪のリストの作成」と「罪を心から認めること」を区別された。

 そして、「頭の中で罪のリストを作りを羅列すること、『私は罪を犯しました』と言うこと、そして、司祭に告白し、赦しを受けること…は正しくない。”やることリスト”-、自分が手にする必要があること、あるいは過ちを犯したこと、のリストを作成するようなもの。それは頭の中にとどまりますが、真の罪の告白は、心の中にとどまらねばなりません」と説かれた。

 

*「頭」から「心」に

 さらに教皇は「私たちの惨めさを心から告白」するために一歩前に出るよう私たちを促され、「預言者のダニエルは告白しています。『主よ、正義はあなたにあります。私たちは心から恥じ入ります』と」とされた。

 そして、「自分が罪を犯し、よく祈っていないことに気づき、心からそのことを感じ、自分を恥じる気持ちになる時… 願う必要のある恵みとして、自分の犯した罪を恥じること。恥の感覚を失っている人は、道徳的判断の感覚を失い、他者に対する尊敬を失っています。神についても同じこと…。『主よ、私たちは、自分の王たち、王子たち、父親たちと同じように、あなたに対して罪を犯したことに、恥じ入っています。しかし、主よ、私たちの神、あなたは初めに正義を言われ、今は”思いやり”を言われます』」と語られた。

 

*神の心に触れる

 恥の感覚が、私たちは罪を犯したのだという記憶に加えられる時、「神の心の琴線に触れます」と言われた教皇は、恥の感覚は、私たちに神の慈悲を経験させ、私たちの告白は「罪のリストを読みあげること」ではなく、「善そのもので、思いやり深い、公正な神に私たちがしたことを、はっきりと理解すること」にある、と重ねて説かれた。

 最後に教皇は、次の言葉で説教を締めくくられた。「自分の罪を恥じ、恥ずかしいと感じる恵みを願いましょう。主が、私たちすべてに、この恵みをくださいますように」。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

2020年3月9日

♰「『証人』になるように、との神の招きは断れない」-日曜正午の祈りで

教皇フランシスコのビデオ中継による「お告げの祈り」、2020年3月8日、バチカン・聖ペトロ広場教皇フランシスコのビデオ中継による「お告げの祈り」、2020年3月8日、バチカン・聖ペトロ広場  (ANSA)

(2020.3.8 バチカン放送)

 教皇フランシスコは8日)、バチカン宮殿の図書室から、動画配信の形で正午の祈りと説教をなさった。通常、教皇はバチカン宮殿の窓から聖ペトロ広場に集う巡礼者たちに向け、説教と祈り、挨拶をなさるが、新型コロナウイルス感染拡大の防止へイタリア政府からの協力要請を受けて、この形をとられた。

 教皇は冒頭で「今日、図書室からこのお告げの祈りを行うことは、いつもとは感覚が異なりますが、私には皆さんが見え、皆さんの近くにいます」と話され、広場で「イドリブの忘れられた人たちのために」という横断幕を掲げた広場の人々に挨拶をおくり、シリア紛争で苦しむ市民への連帯に感謝を表された。そして、「今日、このような形で祈ることは、ウイルスが感染しやすい密集を作ることを避けるためであり、こうして予防に皆で協力したい」と願われた。

 この日は、復活祭前の準備期間「四旬節」の第二主日(日曜日)にあたり、教皇はマタイによる福音書から、イエスの変容のエピソード(17章1-9節)を取り上げ、この出来事を次のように観想された(以下、要旨)。

**********

 イエスは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて、高い山に登られました。高い山は神との近さを表す象徴です。イエスはここで、苦しみを受けて殺され復活するというご自身の神秘のより深い理解に、弟子たちを導こうとされました。

 実際、イエスは弟子たちに、ご自分を待つ苦しみと死と復活について語られましたが、彼らはイエスのこのような予告を受け入れることができませんでした。それゆえに、山の頂上に着いた時、イエスは三人の弟子たちの目の前で姿を変え、その「顔は太陽のように輝き、服は光のように白く」(2節)なりました。

 この素晴らしい変容の出来事を通して、三人の弟子たちは、イエスの中に栄光に輝く神の御子の姿を認めるよう招かれました。こうして、彼らは自分たちの師に対する認識をさらに高め、彼らの目には、人間の姿の中には見えない現実、イエスの天上的・神的な面が啓示されることになりました。

 天からは「これは私の愛する子、私の心に適う者。これに聞け」という声が聞こえました(5節)。こうして天の御父は、イエスがヨルダン川で洗礼を受けた時と同様に、御子イエスにご自分が託した権威を改めて示され、イエスに聞き従うよう弟子たちを招かれたのです。

 十二使徒の中で、イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネを選び、彼らにご自身の変容をお見せになる、という特別な体験を許されましたが、それにもかかわらず、ペトロは、試練の時にイエスを否認し、ヤコブとヨハネの兄弟は、イエスが王座に着く時には「最高の地位につけて欲しい」と願い、イエスに諌められることになりました(参照:マタイ福音書20章20-23節)。

 しかし、イエスが彼らを選んだのは、私たちの考える基準によらず、イエスの愛のご計画によるものでした。それは、無償で無条件の選択、自由な動機と見返りを求めない神的な友情に基づくものだったのです。

 イエスは、この三人の弟子たちを呼ばれたように、今日もある人々を近くに招き、ご自分の証人になるようにと呼ばれています。イエスの証人となることは、私たちの能力によるものではありません。だからといって、私たちの不適格さを理由にそれを断ることはできません。

 私たちはタボル山に登ったことはなく、イエスの御顔が太陽のように輝くのをこの目で見たこともありません。しかし、私たちにも、救いの言葉と信仰が与えられ、それぞれが異なる形でイエスとの出会いを体験しています。イエスは私たちにも「起きなさい。恐れることはない」(マタイ福音書17章7節)と呼びかけておられるのです。

(編集「カトリック・あい」)

 

2020年3月9日

♰「新型コロナウイルス感染者の為に祈る」-教皇、正午の祈りを動画配信

 

A man is seen wearing a mask during Pope Francis' live streaming of his Sunday AngelusA man is seen wearing a mask during Pope Francis’ live streaming of his Sunday Angelus  (AFP or licensors)

 中国の武漢を発生源とする新型コロナウイルスは現在、世界中に感染が広がり、感染者は10万人以上、死者は3500人を超えている。世界保健機関(WHO)は1月30日に、新型コロナウイルス感染拡大の現状を「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態」と宣言した。

  教皇は8日の正午の祈りを、動画配信され、聖ペトロ広場に設置した大型スクリーンの他、世界中のカトリック・メディアを通じて伝えられた。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

2020年3月8日

♰「若者たちよ、起き上がりなさい、そして世界を変える努力を」-4月5日の世界青年の日に

 

教皇フランシスコと若者たち、2019年1月、世界青年の日・パナマ大会で 教皇フランシスコと若者たち、2019年1月、世界青年の日・パナマ大会で   (Vatican Media)

 教皇フランシスコは5日、来月5日(日)に記念される2020年度「世界青年の日」を前に、教皇フランシスコはメッセージを送られた。

 「世界青年の日」(ワールドユースデー、WYD)は、カトリックの若者たちの祭典。「復活祭」の一週間前の日曜日「受難の主日(枝の主日)」に毎年、教区レベルで開かれる。

 世界レベルの大会は数年ごとに開催地を変えて開かれ、前回昨年のパナマに続いて、2022年にポルトガルの首都リスボンで予定されているが、教皇は今回のメッセージでのキーワードに「起き上がる」という動詞を使い、世界の若者たちに、リスボン大会への精神的準備を呼びかけている。

 今年のWYDのテーマは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」(ルカ福音書7章14節)だ。来年は「起き上がれ。あなたを、あなたが見たことの証人にする」(参照:使徒言行録26章16節)、そしてリスボン大会が行われる2022年は、「マリアは立ち上がり、急いで行った」(参照:ルカ福音書1章39節)をテーマにしている。

 教皇は今年のメッセージで、「起き上がる」という動詞が「復活する」「命に目覚める」という意味も持っていることに触れながら、福音書の「イエスが、ナインという町の、やもめの息子を、生き返らせたエピソード」(ルカ福音書7章11-17節)を、「キリストに従うための、決意ある一歩への招き」として読むよう勧められた。

 そして、「失敗や落胆、失望や無感動、物質主義や多くの偶像に浸かりきった虚無的な生活など、今日の人々が多くの「死」を体験していること」を指摘。「ナインの死んだ若者が生き返ったのは、彼が生きることを望まれた『一人の御方の眼差し』によるものでした」とされ、「今日も、イエスだけが、生きる力を失った人々に命をもたらし、私たちに再び命を与え、私たちを他の人々のもとに再び遣わすことがおできになるのです」と説かれた。

 さらに、「つながり」はあっても、「交わり」のない今日の文化を見つめながら、「バーチャルな世界に押しつぶされ、孤立する若者たち」に、「起き上がれ」というイエスの言葉とともに、「自分を現実に向けて開き、夢を見、リスクを受け入れ、世界を変えるために努力するように」と激励された。

(編集「カトリック・あい」)

・・・・・

教皇メッセージ全文のカトリック中央協議会の日本語訳以下の通り

2020年第35回「世界青年の日」教皇メッセージ 「若者よ、あなたにいう。起きなさい」(ルカ福音書7章14節)

親愛なる若者の皆さん

 「若者、信仰、そして召命の識別」というテーマで2018年10月に開催された世界代表司教会議(シノドス)を通して教会は、現代世界における皆さんの状況、生きる意味と目的を求める皆さんの探求、そして神と皆さんとのかかわりについて、深く考え始めました。2019年1月に、私はワールドユースデー(WYD)パナマ大会のために世界中から集まった数えきれないほど多くの、皆さんと同年代の人たちに会いました。これらの行事ーシノドスとWYDーは、「ともに歩む」という教会の本質的な側面を表しています。

 その歩みの中で、大切な節目を迎えるたびに、私たちは神によって、そして命そのものによって、新たな出発をするよう強く求められます。若者の皆さんは、こうしたことが得意でしょう。皆さんは旅に出ること、これまで見たことのない場所や人と出会うこと、新しい体験をすることが大好きです。だからこそ、私は、2022年に行われる皆さんの大陸をまたいだ次の巡礼の目的地として、ポルトガルの首都リスボンを選びました。15世紀から16世紀にかけて、多くの宣教師を含む大勢の若者が、イエスと結ばれた自分たちの体験を他の民族や国々と分かち合うために、そこから見知らぬ土地へと旅立ちました。WYDリスボン大会のテーマは「マリアは出かけて、急いで向かった」(ルカ福音書1章39節)です。その年までの2年間は、皆さんとともに別の二つの聖書個所を考えたいと思います。2020年は「若者よ、あなたにいう。起きなさい」(同7章14節)、2021年は「起き上がれ。私はあなたを、あなたが見たことの証人とする(使徒言行録26章16節参照)です。

 ご覧のとおり、三つのテーマに共通する動詞は、「起きる(出かける)」です。この表現には、復活、新しい命への目覚め、という意味もあります。これは、使徒的勧告『キリストは生きている』の中で繰り返し用いた動詞です。この文書は2018年のシノドス後にわたしが皆さんにあてて書いたもので、シノドス最終文書と合わせて、皆さんの人生の歩みを照らす灯火として、教会が差し出したものです。私たちをリスボンへと導く道が、教会全体の中で、この二つの文書の実践のための力強い取り組みと一致して、青少年司牧に携わる人々の任務を方向づけて行くよう心から望みます。

 それでは今年のテーマ、「若者よ、あなたにいう。起きなさい」(ルカ福音書7章14節)について考えましょう。この福音箇所はすでに、使徒的勧告『キリストは生きている』で引用しています。「あなたが、活力あふれる内面、夢、熱意、希望、おおらかさを失ってしまうと、イエスは、かつて、やもめの死んだ息子の前に立ったようにあなたの前に現れ、復活した主としての力の限りに訴えるのです。『若者よ、あなたにいう。起きなさい』」(20)。

 この箇所は、イエスがガリラヤ地方のナインという町に入り、一人の若者、やもめの一人息子の埋葬に向かう葬列に出会ったときのことを記しています。イエスはその女性の深い悲しみに心を打たれ、奇跡によってその息子を生き返らせます。しかしその奇跡は、一連のしぐさや態度が示された後のことです。「主はこの母親を見て、あわれに思い、『もう泣かなくともよい』といわれた。そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった」(ルカ福音書7章13-14節)。こうした主の行為と言葉について、しばらく考えてみましょう。

*悲しみと死を見つめる

 イエスは注意深いまなざしで、この葬列を見つめています。群衆の中から、悲痛な顔の女性を見つけます。イエスの眼差しは、新たな命の源となる出会いを生じさせます。多くを語る必要などないのです。

 それでは私たち一人ひとりの眼差しはどうでしょうか。注意深く見つめているでしょうか。それとも、携帯電話の膨大な写真やSNS上のアドレス帳に素早く目を通す時のように見ているのでしょうか。その場に居合わせていないのに、さまざまな出来事の目撃者になることが、今日、いかに多いことでしょう。何かが起こったら携帯でその場の写真を撮るばかりで、その渦中の人を自分の目で見ないことがよくあるのではないでしょうか。

 私たちは、周囲で、そして時には自分自身の中で、死──肉体の死、精神の死、感情の死、社会的な死──という現実に接します。そのことに気づいているでしょうか。それともその結果を受け入れるだけでしょうか。命を取り戻すために、私たちに何かできることがあるでしょうか。

 私は、皆さんの年代が味わっている多くの否定的な状況について考えています。たとえば、今にすべてをかけ、極端な行動によって命を危険にさらす人もいます。また、失望して「死人」になった若者もいます。ある若い女性が言っていました。「私の友人の中には、チャレンジする気概や、起き上がる勇気を失っている人がいます」。

 残念ながら、抑うつ状態は若者の間にも広がり、自殺したい、という気持ちさえ引き起こすこともあります。無気力に支配される、苦悩と後悔のどん底で自分を見失う、そうした状況がいかに多いことでしょう。魂の叫びをあげているのに、誰にも聞いてもらえない若者がどれほど多くいることでしょう。彼らの周囲には、自分たちは楽しんでいながら、彼らを遠巻きに見るだけの、無関心で冷淡な人々の視線があるばかりです。

 心の中では死んでいるのに、自分は生きていると思い込み、うわべだけで生きている人もいます(黙示録3章1節参照)。その人はすでに20歳で、人生を自分の尊厳にふさわしいものへと高めるのではなく、どん底に引きずり落としているのです。つかの間の娯楽や、人から注目や好意を受ける瞬間に得る、わずかな満足感を求めながら、「なりゆきに任せて生きる」ことがすべてだと思っているのです。

 また、”デジタル・ナルシシズム”が横行し、若者にも成人にも影響を及ぼしています。多くの人がそのように生きています。中には、お金をもうけることと、何事もなく暮らすことだけが人生の一大事であるかのように考える物質主義を、おそらく周りから吹き込まれた人もいます。ゆくゆくは自覚症状のない病、無関心、生きることへの無気力を悪化させるに違いありません。

 大切だと思って頑張ってきたことが、うまくいかなかったり、思うような成果を上げなかったりする時がありますが、そうした個人的な失敗によっても、否定的な状況は生じえます。それは、学校、スポーツ、芸術などのあらゆる分野で起こりうることです。「夢」が砕けると、自分が死んでしまったように感じます。

 しかし、誰にとっても、失敗は人生の一部に過ぎませんし、それが恵みとなることもあります。幸運を招くと思っていたものが、実は幻想や偶像であったということがよくあります。偶像は、私たちにすべてを要求し、私たちを隷属させますが、その見返りは何もありません。そして最後にはその偶像は崩壊し、ちりとほこりしか残りません。このように失敗も、もし偶像を打ち砕くのであれば、痛みは伴いますが、善となるのです。

 若者が置かれうる他の身体的死や道徳的死の状態、つまり依存症、犯罪、貧困、重病などについて考えていくこともできます。ですが、皆さんの中で、また皆さんの身近な人々の中で、今現在、あるいは過去に、「死」を引き起こしたものについては、各自で考え、認識してくださるよう皆さんにゆだねます。それと同時に、福音書のあの若者のことを忘れないでください。死んでいた彼が生き返ったのは、生きてほしいと願ったかたに見つめられたからです。このことは、現代においても、日々起こりうることです。

*あわれに思う

  聖書には、「はらわたが揺り動かされる」ほどに、他者の痛みに心を揺さぶられる人々の感情が、幾度も記されています。イエスは、そうした感情に動かされて、他者の現実を共有してくださるのです。イエスは人々の苦しみをその身に担われます。この母親の悲しみはイエスご自身の悲しみとなり、この息子の死はご自分の死となるのです。

 若者は共感できるということを、皆さんは幾度となく示してくれています。そのことは、皆さんのだれもがそうした状況になった際に、惜しみなく支援したことを見れば分かります。若者のボランティアの支援グループが活躍しない災害、地震、洪水はありません。被造物を守るために大勢の若者が活躍していることもまた、皆さんに地球の叫び声を聞く力があることの証しなのです。

 親愛なる若者の皆さん、そうした感性を奪われないでください。苦しんでいる人の嘆きに常に耳を傾けてください。現代世界の中で叫び、死にゆく人に心を動かされてください。「人生には、涙で洗われた瞳でなければ見えない現実があります」(『キリストは生きている』76)。泣いている人とともに泣くことができれば、あなたは真に幸せになれます。

 皆さんの大勢の仲間が、機会に恵まれなかったり、暴力や迫害を受けたりしています。彼らの傷を自分自身の傷としてください。そうすれば皆さんは、この世界における希望の担い手となり、兄弟姉妹に「起きなさい。あなたは独りではないのです」と、声をかけることができるでしょう。そして、御父は私たちを愛しておられ、イエスこそが私たちを起き上がらせるために差しのべられた神の手だ、ということを、身をもって証しすることができるでしょう。

*近づいて「触れる」

 イエスは埋葬に向かう人々を立ち止まらせます。イエスは近づき、傍らにいます。寄り添いはますます距離を縮め、他者を生き返らせる勇敢な行為となります。預言的な行為です。それは、生きておられ、命を与えてくださるイエスの”タッチ”、若者の死んだからだに聖霊を注ぎ、彼を生き返らせる”タッチ”です。

 そのひと触れは、苦悩や絶望の現実に浸透していきます。それは、人間の真の愛を通して伝わり、自由と尊厳、希望、充満した新たな命の、想像をはるかに超えた場を切り開くことのできる、神の”タッチ”です。イエスのこの行為の効力は測り知れません。それは、単純でありながらも具体的な寄り添いの動作からも、人を生き返らせる力が生じうることを思い出させてくれます。

 そうです。若者の皆さんもイエスのように、皆さんが出会う痛みや死の現実に近づき、それに触れ、生き返らせることができます。皆さんがまずイエスの愛に触れていただき、皆さんの心が自分たちに向けられたその優しさによって柔和にされたのなら、それは聖霊のおかげです。

 ですから、生きとし生けるもの、とりわけ飢えている人、渇いている人、病気の人、裸の人、拘留されている人、これらの兄弟姉妹に向けられた神の悲痛なほどの優しさを心に感じるならば、皆さんはイエスのように彼らに近づき、イエスのように触れ、内的に死を味わっている友、苦しんでいる友、信仰も希望も失った友を、神の命に導くことができるでしょう。

*「若者よ、あなたに言う。起きなさい」

 福音書は、イエスがナインで生き返らせたこの若者の名前を伝えてはいません。このことは、この若者に自分を重ねるようにという読者への招きです。イエスはあなたに、私に、私たちそれぞれに語りかけ、「起きなさい」と言っておられます。私たちキリスト者は、自分たちも倒れること、そして必ず起き上がらなければならないことを、十分に認識しています。倒れないのは歩かない人だけですが、それでは決して前に進めません。

 だからこそ、キリストの働きかけを受け入れ、神を信じることを行動で示すよう求められているのです。その第一歩は、起き上がることを受け入れることです。イエスが与えてくださる新しい命は、生きるべきすばらしい命です。これからも決して離れずに寄り添ってくださり、実りある豊かな人生を歩めるように私たちを助けてくださるかたによって、その命は支えられているからです。

 それこそが真に、新しい創造であり、新たな誕生です。気持ちの切り替えなどではありません。苦境に立たされたとき、おそらく多くの皆さんが、今はやりの何でも解決してくれるはずの「魔法の言葉」を何度も聞かされたことでしょう。「自分自身を信じなさい」「あなたの中に解決方法があるのだから、それを見つけなさい」「あなた自身が持っている前を向く力に気づきなさい」といったことばです。

 しかし、これらはすべて、単なることばにすぎません。真に「心が死んでいる」人には効き目がありません。キリストのことばは、それらとは違った深みのある、はるかに勝ることばです。それは神のことば、創造のことばです。死んでしまった命を生き返らせることのできるのは、この言葉だけです。

*「生き返った」新しい命

 若者は「ものを言い始めた」(ルカ福音書7章15節)と記されています。キリストによって触れられ、生き返った人が最初にしたことは、自分の思いを言い表すこと、恐れも迷いもなく自分の心の内を、自分自身を、願い、要求、夢を話すことです。かつては、「誰も自分のことを理解してくれない」と思い込んでいて、そうしなかったのかもしれません。

 「話す」ということは、他者と関わり始めることも意味します。「死んだ」状態のときには、自分の中に閉じこもり、関わりは途絶えるか、うわべだけで、形だけの、偽善的なものになってしまいます。イエスが私たちを生き返らせる時は、私たちを人々のもとに「お返しになるのです」(同上参照)。

 現代は、コミュニケーションよりも「コネクション」ばかりです。電子機器の使用が行き過ぎると、私たちは画面から離れられなくなります。

 このメッセージを通して私は、イエスのこの「起きなさい」から始まる文化的変革の挑戦に、若者の皆さんと一緒に取りかかろうと思っています。若者を一人ひとり切り離し、バーチャルワールド(仮想世界)に閉じ込めようとする文化に、私たちは「起きなさい」というイエスのこの言葉を広めます。それは、「バーチャルリアリティ(仮想現実)をはるかにしのぐ現実に開かれなさい」という招きです。

 テクノロジーをないがしろにするということではありません。テクノロジーを「目的」としてではなく、「手段」として用いるということです。「起きなさい」という言葉には、「夢を見なさい」、「果敢に挑戦しなさい」、「一生懸命、世界を変えようとしなさい」、あなたの願望にもう一度火をつけなさい、空や星、あなたの周りの世界を見つめなさい、という意味もあります。

 「起き上がって、あなた自身になりなさい」。私たちの周りにいる多くの若者の沈んだ顔は、このメッセージのおかげで、生き生きとし、どんなバーチャルリアリティよりもはるかに美しくなるでしょう。

 あなたが命を与えるなら、誰かがそれを受け取るのです。ある若者が言っていました。「何かすばらしいものを見て、自分もそうしたいと思ったなら、ソファから立ち上がりなさい」と。すばらしいものは情熱をかき立てます。若者は何かに、もしくはむしろ誰かに夢中になれば、ついには起き上がって、大きなことをし始めます。死んだ状態から起き上がり、キリストの証し人となって、キリストのために命をささげるはずです。

 親愛なる若者の皆さん、皆さんの情熱や夢は何ですか。それらを表に出してください。そしてそれらを通して、霊的、芸術的、社会的分野ですばらしいものを、世界に、教会に、そして他の若者に示してください。私の母国語で、皆さんにもう一度、言います。「アガン・リオ(ひと騒ぎしましょう)!」声を上げましょう。ある若者が言っていました。「もしイエスが自分のことしか考えなかったなら、このやもめの息子は生き返らなかったでしょう」。

 この若者の復活は、この子を再びその母親と結びつけます。この母親のうちにマリアを、私たちが世界中の若者をゆだねる聖母マリアを見ることができます。一人残らずすべての若者を優しく受け入れたいと望んでいる教会の姿も、この母の中に見ることができます。ですから教会のためにマリアに祈りましょう。マリアが、死にある子らの母、涙を流し、その子が生き返ることを懇願する母であり続けてくださいますように。死にあるわが子一人ひとりのために、教会もまた死にます。そして、生き返った子らそれぞれのために、教会もまた生き返るのです。

 皆さんの旅を祝福します。そしてどうか、私のために祈るのを忘れないでください。

        ローマ サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂にて 2020年2月11日 ルルドの聖母の記念日 フランシスコ

  (編集「かとりっく・あい」)

バチカン公式英語版全文以下の通り

MESSAGE OF HIS HOLINESS POPE FRANCIS FOR THE 35th WORLD YOUTH DAY 2020 Young man, I say to you, arise!” (Lk 7:14)

 

Dear Young People,

 In October 2018, with the Synod of Bishops on Young People, the Faith and Vocational Discernment, the Church undertook a process of reflection on your place in today’s world, your search for meaning and purpose in life, and your relationship with God. In January 2019, I met with hundreds of thousands of your contemporaries from throughout the world assembled in Panama for World Youth Day. Events of this type – the Synod and World Youth Day – are an expression of a fundamental dimension of the Church: the fact that we “journey together”.

 In this journey, every time we reach an important milestone, we are challenged by God and by life to make a new beginning. As young people, you are experts in this! You like to take trips, to discover new places and people, and to have new experiences. That is why I have chosen the city of Lisbon, the capital of Portugal, as the goal of our next intercontinental pilgrimage, to take place in 2022. From Lisbon, in the fifteenth and sixteenth centuries, great numbers of young people, including many missionaries, set out for unknown lands, to share their experience of Jesus with other peoples and nations. The theme of the Lisbon World Youth Day will be: “Mary arose and went with haste” (Lk 1:39). In these two intervening years, I want to reflect with you on two other biblical texts: for 2020, “Young man, I say to you, arise!” (Lk 7:14) and for 2021, “Stand up. I appoint you as a witness of what you have seen” (cf. Acts 26:16).

 As you can see, the verb “arise” or “stand up” appears in all three themes. These words also speak of resurrection, of awakening to new life. They are words that constantly appear in the Exhortation Christus Vivit (Christ is Alive!) that I addressed to you following the 2018 Synod and that, together with the Final Document, the Church offers you as a lamp to shed light on your path in life. I sincerely hope that the journey bringing us to Lisbon will coincide with a great effort on the part of the entire Church to implement these two documents and to let them guide the mission of those engaged in the pastoral care of young people.

 Let us now turn to this year’s theme: “Young man, I say to you, arise!” (cf. Lk 7:14). I mentioned this verse of the Gospel in Christus Vivit: “If you have lost your vitality, your dreams, your enthusiasm, your optimism and your generosity, Jesus stands before you as once he stood before the dead son of the widow, and with all the power of his resurrection he urges you: ‘Young man, I say to you, arise!’” (No. 20).

 That passage from the Bible tells us how Jesus, upon entering the town of Nain in Galilee, came upon the funeral procession of a young person, the only son of a widowed mother. Jesus, struck by the woman’s heartrending grief, miraculously restored her son to life. The miracle took place after a sequence of words and gestures: “When the Lord saw her, he had compassion for her and said to her, ‘Do not weep’. Then he came forward and touched the bier, and the bearers stood still” (Lk 7:13-14). Let us take a moment to meditate on these words and gestures of the Lord.

The ability to see pain and death

 Jesus looks carefully at this funeral procession. In the midst of the crowd, he makes out the face of a woman in great pain. His ability to see generates encounter, the source of new life. Few words are needed.

 What about my own ability to see? When I look at things, do I look carefully, or is it more like when I quickly scroll through the thousands of photos or social profiles on my cell phone? How often do we end up being eyewitnesses of events without ever experiencing them in real time! Sometimes our first reaction is to take a picture with our cell phone, without even bothering to look into the eyes of the persons involved.

 All around us, but at times also within us, we can see realities of death: physical, spiritual, emotional, social. Do we really notice them, or simply let them happen to us? Is there anything we can do in order to restore life?

  I think too of all those negative situations that people of your age are experiencing. Some stake everything on the present moment and risk their own lives in extreme experiences. Others are “dead” because they feel hopeless. One young woman told me: “Among my friends I see less desire to get involved, less courage to get up”. Sadly, depression is spreading among young people too, and in some cases even leads to the temptation to take one’s own life. How many situations are there where apathy reigns, where people plunge into an abyss of anguish and remorse! How many young people cry out with no one to hear their plea! Instead, they meet with looks of distraction and indifference on the part of people who want to enjoy their own “happy hour”, without being bothered about anyone or anything else.

 Others waste their lives with superficial things, thinking they are alive while in fact they are dead within (cf. Rev 3:1). At the age of twenty, they can already be dragging their lives down, instead of raising them up to the level of their true dignity. Everything is reduced to “living it up” and seeking a morsel of gratification: a minute of entertainment, a fleeting moment of attention and affection from others… And what about the widespread growing digital narcissism that affects young people and adults alike. All too many people are living this way! Some of them have perhaps bought into the materialism of those all around them who are concerned only with making money and taking it easy, as if these were the sole purpose of life. In the long run, this will inevitably lead to unhappiness, apathy and boredom with life, a growing sense of emptiness and frustration.

 Negative situations can also be the result of personal failure, whenever something we care about, something we were committed to, no longer seems to be working or giving the desired results. This can happen with school or with our ambitions in sports and in the arts… The end of the “dream” can make us feel dead. But failures are part of the life of every human being; sometimes they can also end up being a grace! Not infrequently, something that we thought would bring us happiness proves to be an illusion, an idol. Idols demand everything from us; they enslave us yet they give us nothing in return. And in the end they collapse, leaving only a cloud of dust. Failure, if it makes our idols collapse, is a good thing, however much suffering it involves.

 There are many other situations of physical or moral death that a young person may encounter. I think of addiction, crime, poverty or grave illness. I leave it to you to think about these things and to realize what has proved “deadly” for yourselves or for someone close to you, now or in the past. At the same time, I ask you to remember that the young man in the Gospel was truly dead, but he was able to come back to life because he was seen by Someone who wanted him to live. The same thing can also happen to us, today and every day.

To have compassion

 The Scriptures often speak of the feelings experienced by those who let themselves be touched “viscerally” by the pain of others. Jesus’ own feelings make him share in other people’s lives. He makes their pain his own. That mother’s grief became his own. The death of that young son became his own.

As young people, you have shown over and over again that you are capable of com-passion. I think of all those of you who have generously offered help whenever situations demanded it. No disaster, earthquake or flood takes place without young volunteers stepping up to offer a helping hand. The great mobilization of young people concerned about defending the environment is also a witness to your ability to hear the cry of the earth.

 Dear young people, do not let yourselves be robbed of this sensitivity! May you always be attentive to the plea of those who are suffering, and be moved by those who weep and die in today’s world. “Some realities of life are only seen with eyes cleansed by tears” (Christus Vivit, 76). If you can learn to weep with those who are weeping, you will find true happiness. So many of your contemporaries are disadvantaged and victims of violence and persecution. Let their wounds become your own, and you will be bearers of hope in this world. You will be able to say to your brother or sister: “Arise, you are not alone”, and you will help them realize that God the Father loves us, that Jesus is the hand he stretches out to us in order to raise us up.

To come forward and “touch”

 Jesus stops the funeral procession. He draws near, he demonstrates his closeness. Closeness thus turns into a courageous act of restoring life to another. A prophetic gesture. The touch of Jesus, the living One, communicates life. It is a touch that pours the Holy Spirit into the dead body of that young man and brings him back to life.

 That touch penetrates all hurt and despair. It is the touch of God himself, a touch also felt in authentic human love; it is a touch opening up unimaginable vistas of freedom and fullness of new life. The effectiveness of this gesture of Jesus is incalculable. It reminds us that even one sign of closeness, simple yet concrete, can awaken forces of resurrection.

 You too, as young people, are able to draw near to the realities of pain and death that you encounter. You too can touch them and, like Jesus, bring new life, thanks to the Holy Spirit. But only if you are first touched by his love, if your heart is melted by the experience of his goodness towards you. If you can feel God’s immense love for every living creature – especially our brothers and sisters who experience hunger and thirst, or are sick or naked or imprisoned – then you will be able to draw near to them as he does. You will be able to touch them as he does, and to bring his life to those of your friends who are inwardly dead, who suffer or have lost faith and hope.

“Young man, I say to you, arise!”

 The Gospel does not tell us the name of the young man whom Jesus restored to life in Nain. This invites each reader to identify with him. To you, to me, to each one of us, Jesus says: “Arise”. We are very aware that, as Christians, we constantly fall and have to get up again. People who are not on a journey never fall; then again, neither do they move forward. That is why we need to accept the help that Jesus gives us and put our faith in God. The first step is to let ourselves get up and to realize that the new life Jesus offers us is good and worth living. It is sustained by one who is ever at our side along our journey to the future. Jesus helps us to live this life in a dignified and meaningful way.

 This life is really a new creation, a new birth, not just a form of psychological conditioning. Perhaps, in times of difficulty, many of you have heard people repeat those “magic” formulas so fashionable nowadays, formulas that are supposed to take care of everything: “You have to believe in yourself”, “You have to discover your inner resources”, “You have to become conscious of your positive energy”… But these are mere words; they do not work for someone who is truly “dead inside”. Jesus’ word has a deeper resonance; it goes infinitely deeper. It is a divine and creative word, which alone can bring the dead to life.

Living the new life as “risen ones”

 The Gospel tells us that the young man “began to speak” (Lk 7:15). Those touched and restored to life by Jesus immediately speak up and express without hesitation or fear what has happened deep within them: their personality, desires, needs and dreams. Perhaps they were never able to do this before, for they thought no one would be able to understand.

 To speak also means to enter into a relationship with others. When we are “dead”, we remain closed in on ourselves. Our relationships break up, or become superficial, false and hypocritical. When Jesus restores us to life, he “gives” us to others (cf. v 15).

 Today, we are often “connected” but not communicating. The indiscriminate use of electronic devices can keep us constantly glued to the screen. With this Message, I would like to join you, young people, in calling for a cultural change, based on Jesus’ command to “arise”. In a culture that makes young people isolated and withdrawn into virtual worlds, let us spread Jesus’ invitation: “Arise!” He calls us to embrace a reality that is so much more than virtual. This does not involve rejecting technology, but rather using it as a means and not as an end. “Arise!” is also an invitation to “dream”, to “take a risk”, to be “committed to changing the world”, to rekindle your hopes and aspirations, and to contemplate the heavens, the stars and the world around you. “Arise and become what you are!” If this is our message, many young people will stop looking bored and weary, and let their faces come alive and be more beautiful than any virtual reality.

 If you give life, someone will be there to receive it. As a young woman once said: “Get off your couch when you see something beautiful, and try and do something similar”. Beauty awakes passion. And if a young person is passionate about something, or even better, about someone, he or she will arise and start to do great things. Young people will rise from the dead, become witnesses to Jesus and devote their lives to him.

 Dear young people, what are your passions and dreams? Give them free rein and, through them, offer the world, the Church and other young people something beautiful, whether in the realm of the spirit, the arts or society. I repeat what I once told you in my mother tongue: Hagan lío! Make your voices heard! I remember another young person who said: “If Jesus was someone who was only concerned about himself, the son of the widow would not have been raised”.

 The resurrection of that young man restored him to his mother. In that woman, we can see an image of Mary, our Mother, to whom we entrust all the young people of our world. In her, we can also recognize the Church, who wants to welcome with tender love each young person, without exception. So let us implore Mary’s intercession for the Church, that she may always be a mother for her dead children, weeping for them and asking that they be restored to life. In every one of her children who dies, the Church also dies, and in every one of her children who arises, the Church also arises.

 I bless your journey. And I ask you, please, not to forget to pray for me.

    Rome, from Saint John Lateran, 11 February 2020, Memorial of Our Lady of Lourdes FRANCISCUS

 

2020年3月6日

♰「”道”を踏み外させようとする沢山のメッセージに警戒を怠るな」-四旬節の最初の主日に

 

(2020.3.1 VaticanNews Linda Bordoni)

   教皇フランシスは、四旬節の最初の日曜日となった1日の正午の祈りの中の説教で、ミサで朗読されたマタイ福音書4章の「悪魔から試みを受けるイエス」の箇所を取り上げ、「神の道とは別の道を歩ませようとする試みがどのようなものであるか」について考察された。

 説教で教皇は「さまざまな所から私たちの所に寄せられるメッセージ」が、私たちを試み、罪を犯すことの陶酔」に誘うことに、用心し、警戒するように、信徒たちを促した。

 この日の福音朗読の初めの、「イエスがヨルダン川で洗礼を受けた後、悪魔から試みを受けるため、霊に導かれて荒れ野に行かれた」の場面を観想された。

 そして、イエスが40日の断食によって、天の王国を宣言する使命を果たすための準備をされたことを、思い起こされ、「この断食の終わりに、試みる者-悪魔-が近づいて来て、イエスを3度、試みました」とされた。

 

*悪魔の3つの試み

 悪魔の最初の試みは、イエスが空腹を覚えられたことから生まれ、悪魔は彼に、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」ともちかける。「しかし、これに対するイエスの答えははっきりしています-『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる』です」。

 悪魔の二度目の試みについて、教皇は「少し抜け目ないものでした… 聖書を引用することで、神を試すように、彼を誘ったのです」とされ、「しかし、この試みに対してさえも、イエスは困惑することはありません。なぜなら、神を信じる者は、神を試みに遭わせず、神の善なるものに自身を委ねるからです」と説かれた。

 そして最後、三度目の試みで、「悪魔の本当の動機が明らかになります… 天の王国の到来は、自己の敗北の始まりを意味するので、悪しき者は、『政治的な救世主』という見方をイエスに示すことで、その使命の達成から、彼を逸らそうとします」。だが、イエスは「権力と人間的な栄誉を崇拝することを拒否し、最終的に”試みる者”を退け、悪魔に『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある-と言われたのです」と教皇は語られた。

*悪魔とは決して対話をしない

 最後に教皇は、イエスが悪魔との対話をどのようにして、始めようとされないのか、について考察された。

 「イエスは、ご自身の言葉ではなく、神の言葉をもって、悪魔に応えました」とし、信徒たちに「いつも用心し、注意深くし、イエスと同じようにすること」を強く求められた。

*サタンは人々の生活に押し入ってくる

  また教皇は、「今日も、サタンは人々の生活に押し入り、人の心をそそる提案をして誘惑します… サタンは私たちの良心を手なずけようと、自分の声と他の沢山の声を混ぜ合わせます」と述べ、「罪を犯す陶酔を体験させようと、私たちに寄せられる沢山のメッセージ」に注意するよう、信徒たちに求めた。

 そして、「イエスの荒れ野での体験は、私たちに、そうした試みは『神の道と別の道を歩ませようとする誘惑である』と教えてくれます… 別の道とは、私たちに『自分のことは自分で足りる、人生それ自体が目的だ、とする気持ちをもつこと』でしょう… ですが、これはすべて、錯覚です。私たちが神と距離を置けば置くほど、大きな存在の問題に直面した時に、無防備で無力だ、と感じることに、たちまち気が付くのです」。

 教皇は説教の締めくくりに、「蛇の頭を押しつぶした」イエスの母、聖母マリアが、この四旬節の間、私たちを助けてくださるように、と祈られた-「試みに遭う時、油断することのないように、この世のどのような偶像にも身を任すことのないように、そして悪との闘いでイエスに付き従うように」。「そうすることで、私たちも、イエスとともに、勝利を手にするでしょう」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二=聖書の引用箇所の日本語訳は「聖書協会 共同訳」を使用)

 

2020年3月2日

♰「AIには情報と富の独占、民主主義の脅威となる危険」-生命アカデミー総会に

バチカンで開催された人工知能をテーマにした会議 2020年2月27日バチカンで開催された人工知能をテーマにした会議 2020年2月27日 

 教皇は前日からの軽い不調のため、予定されていた出席者と会見を見送られたため、メッセージは同アカデミー総裁のビンチェンツォ・パリア大司教が代読した。(28日のミサや他の謁見は教皇が通常どおり行われた)

 メッセージで教皇は、「AIなどのテクノロジーの倫理的活用」を希望され、「デジタル技術の発展の中でも、特にAIは今日の時代の変化の中心にあるもの」としたうえで、「この技術革新が、個人や社会生活の様々な側面に関わり、私たち自身や世界に対する考え方、人々の行動や決断をも左右する、その影響」に注意を向けられた。

 そして「デジタル化は、空間・時間・体の感覚を変え、自身の限界を忘れさせると共に、同一化を要求し、異なるものを評価することをより困難にさせます… 社会・経済において、人間は『消費者』という存在に矮小化され、知らないうちに、商業的・政治的目的で、習慣や傾向をめぐるデータをチェックされてしまいます」とAIの負の側面を指摘。

 さらに、「ある人々が、私たちのすべてを把握する一方、私たちは、彼らについて何も知らないまま、批判精神や自由に対する良心を摘み取られてしまう」危険を警告され、そのようにして「情報と豊かさを一部の人々に握らせ、社会の民主主義に重大なリスクをもたらす」不均衡に注意を促された。

 だが、そうした負の側面の一方で、「AIなどの最新技術が与える大きな可能性」に期待を述べられ、これらの技術を「善に用いることのできる一つの資源、一つの神の恵み」とされたうえで、「新しいテクノロジーについては、正しい使用法を伝えるだけでは十分でありません… たとえすぐに利益をもたらさなくても、共通善を忍耐強く追求させるための、広い教育的な努力が必要です」と強調された。

 最後に教皇は、今日の人間と技術の関係をより統合的なものとするために、「人間の尊厳」「正義」「支援」「連帯」を共通の倫理的指標として示された。

(編集「カトリック・あい」)

2020年2月29日

♰「”惨めな塵”の私たちが、神に愛されていることを知る時」-「灰の水曜日」の儀式

(2002.2.27 バチカン放送)

 カトリック教会の典礼暦で、復活祭の準備期間「四旬節」に入った26日、教皇フランシスコは、ローマ市内の聖サビーナ教会で「灰の水曜日」の伝統儀式をとり行われた。

 「四旬節」は、公生活に入る前のキリストが「霊」に導かれ、荒れ野に行き、40日間の断食を行ったことを思い起こすもので、信者はこの間、悔悛・祈り・断食・節制・施し・愛徳の業などを通し、キリストの復活の記念によりふさわしい形であずかれるよう精神的準備を行う。

 「四旬節」の初日は「灰の水曜日」と呼ばれ、この日、教会では、各々が死と痛悔の象徴である灰を受ける、「灰の式」がとり行われる。この儀式には、前年の「受難の主日(枝の主日)」(復活祭直前の日曜日で、聖週間初日)に祝福された枝を燃やした灰が用いられる。司祭はその灰を聖水で祝別し、「あなたはちりであり、ちりに帰る」(創世記3章19節)、または「回心して福音を信じなさい」(マルコ福音書1章15節)という言葉をもって、信者の頭や額に灰で十字のしるしをする。

 この日の夕方、教皇による「灰の水曜日」の一連の儀式は、ローマのアベンティーノの丘の教会群の間で行われた。まず、聖アンセルモ教会での祈りと共に、宗教行列が出発。諸聖人の連祷が響く中、行列は聖サビーナ教会へと向かい、同教会で、教皇はミサを捧げられ、この中で「灰の式」をとり行われた。

 説教で教皇は「四旬節は人々に無用な道徳主義を投げかけるための時ではありません。惨めな塵に過ぎない私たちが、神に愛されていることを知るための時なのです」と強調。「四旬節とは恵みの時、私たちに注がれる神の愛の眼差しを受け入れ、生き方を変える時」と述べられた。

 さらに、「私たちは、灰から命へと歩むために、この世にいます。それゆえ、希望を燃やしてしまうことがないように、神が私たちに与えてくださったしるしを、灰に帰することがないように、決してあきらめてはなりません」とされ、「世の中が悪い方に向かい、恐怖が広がり、多くの悪意があり、社会が非キリスト教化しつつある時、『どうして信頼できるでしょうか』とあなたは言うかもしれません。『神は、私たちの塵を栄光に変えることがおできになる』とあなたは信じないのですか」と問いかけられた。

 説教に次いで行われた「灰の式」で、教皇は、聖サビーナ教会を名義教会とするジョセフ・トムコ枢機卿から、頭に灰を受けられ、トムコ枢機卿そして他の参加者らの額に、灰で十字のしるしを与えられた。

(編集「カトリック・あい」)

2020年2月28日

♰ 「テレビを消し、ケータイを切り、『祈り』で神と対話し、荒れ野に花を開こう」灰の水曜日に

 カトリック教会の典礼暦は26日、「灰の水曜日」を迎え、教皇フランシスコは水曜恒例の一般謁見のカテケーシス(教会の教えの解説)で、この日から始まる「四旬節」の意味について話された。

 「四旬節」は、「灰の水曜日」から「聖土曜日」(復活祭の前日の土曜日)までの主日(日曜日)を除いた40日間を指す。教皇は「キリスト教信仰と一年の典礼の中心である復活祭へと向かう「四旬節」の歩みは、公生活前に荒れ野で40日間の祈りと断食の日々を過ごしたイエスに従うもの」とされ、キリスト者にとっての、「荒れ野」が示す精神的意味を説明された。

 自分が荒れ野にいると想像するよう招かれた教皇は、「そこで最初に感じるのは、『大いなる沈黙』ではないでしょうか… 荒れ野は、私たちを取り囲む騒音から離れ、沈黙の中で、『風のように吹き、心に触れる神の御言葉』を聴く、まさに『御言葉の場所』です」と語られた。

 そして、「聖書で、主は、荒れ野でご自身の民に話しかけることを好まれます… 神がモーセに十戒を託されたのも、荒れ野においてでした」とされ、「荒れ野で人は神に近づき、神の愛を再び見出します。毎日、人里離れた所に退き、祈っておられたイエス(ルカ福音書5章16節)は、沈黙のうちに私たちに語りかける御父を、どのように探し求めたらよいか、を教えています」と説かれた。

 さらに、四旬節は「テレビを消し、聖書を開く時。携帯電話を切り、私たちを福音につなぐ時です… 無駄な話、意味のないおしゃべり、うわさ話、陰口を止める時です」「神と対話するためには祈りが不可欠であり、主との沈黙の対話は、私たちに再び命を与えるものです」と祈りの重要性を示された。

 教皇はまた、荒れ野は「多くの無用な物事から解放され、本当に大切なものに立ち返る『本質の場所』」とし、「イエスは私たちに断食の模範を示されたましたが、断食は無駄や贅沢を捨て、本質的で簡素な生活の美しさを求めさせるものです」 と説かれた。

 さらに、教皇は、荒れ野は「孤独の場所」である、とされ、「今日も私たちの周りには多くの荒れ野があります… 貧しい人やお年寄りなど、疎外され見捨てられた多くの人々がいます。荒れ野は無言のうちに、助けを求めるこれらの人々へと私たちを導く。四旬節の歩みは最も弱い立場の人々に向かう愛の歩みとなるのです」と強調。

 このようにして教皇は、祈り・断食・いつくしみの業を「四旬節の荒れ野の道」として示され、「『見よ、私は新しいことを行う… 私は荒れ野に道を….置く』(参照:イザヤ書43章19節)と神が約束された通り、荒れ野には、私たちを『死から命』へ導く道が開かれます… イエスと共に荒れ野に入り、命を新たにする神の愛の力、過ぎ越しを体験しながら、そこから出ましょう。荒れ野のイエスに従いましょう。イエスによって私たちの荒れ野は花開かれるのです」と呼びかけられた。

(編集「カトリック・あい」)

 

2020年2月27日