♰「”道”を踏み外させようとする沢山のメッセージに警戒を怠るな」-四旬節の最初の主日に

 

(2020.3.1 VaticanNews Linda Bordoni)

   教皇フランシスは、四旬節の最初の日曜日となった1日の正午の祈りの中の説教で、ミサで朗読されたマタイ福音書4章の「悪魔から試みを受けるイエス」の箇所を取り上げ、「神の道とは別の道を歩ませようとする試みがどのようなものであるか」について考察された。

 説教で教皇は「さまざまな所から私たちの所に寄せられるメッセージ」が、私たちを試み、罪を犯すことの陶酔」に誘うことに、用心し、警戒するように、信徒たちを促した。

 この日の福音朗読の初めの、「イエスがヨルダン川で洗礼を受けた後、悪魔から試みを受けるため、霊に導かれて荒れ野に行かれた」の場面を観想された。

 そして、イエスが40日の断食によって、天の王国を宣言する使命を果たすための準備をされたことを、思い起こされ、「この断食の終わりに、試みる者-悪魔-が近づいて来て、イエスを3度、試みました」とされた。

 

*悪魔の3つの試み

 悪魔の最初の試みは、イエスが空腹を覚えられたことから生まれ、悪魔は彼に、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」ともちかける。「しかし、これに対するイエスの答えははっきりしています-『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる』です」。

 悪魔の二度目の試みについて、教皇は「少し抜け目ないものでした… 聖書を引用することで、神を試すように、彼を誘ったのです」とされ、「しかし、この試みに対してさえも、イエスは困惑することはありません。なぜなら、神を信じる者は、神を試みに遭わせず、神の善なるものに自身を委ねるからです」と説かれた。

 そして最後、三度目の試みで、「悪魔の本当の動機が明らかになります… 天の王国の到来は、自己の敗北の始まりを意味するので、悪しき者は、『政治的な救世主』という見方をイエスに示すことで、その使命の達成から、彼を逸らそうとします」。だが、イエスは「権力と人間的な栄誉を崇拝することを拒否し、最終的に”試みる者”を退け、悪魔に『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある-と言われたのです」と教皇は語られた。

*悪魔とは決して対話をしない

 最後に教皇は、イエスが悪魔との対話をどのようにして、始めようとされないのか、について考察された。

 「イエスは、ご自身の言葉ではなく、神の言葉をもって、悪魔に応えました」とし、信徒たちに「いつも用心し、注意深くし、イエスと同じようにすること」を強く求められた。

*サタンは人々の生活に押し入ってくる

  また教皇は、「今日も、サタンは人々の生活に押し入り、人の心をそそる提案をして誘惑します… サタンは私たちの良心を手なずけようと、自分の声と他の沢山の声を混ぜ合わせます」と述べ、「罪を犯す陶酔を体験させようと、私たちに寄せられる沢山のメッセージ」に注意するよう、信徒たちに求めた。

 そして、「イエスの荒れ野での体験は、私たちに、そうした試みは『神の道と別の道を歩ませようとする誘惑である』と教えてくれます… 別の道とは、私たちに『自分のことは自分で足りる、人生それ自体が目的だ、とする気持ちをもつこと』でしょう… ですが、これはすべて、錯覚です。私たちが神と距離を置けば置くほど、大きな存在の問題に直面した時に、無防備で無力だ、と感じることに、たちまち気が付くのです」。

 教皇は説教の締めくくりに、「蛇の頭を押しつぶした」イエスの母、聖母マリアが、この四旬節の間、私たちを助けてくださるように、と祈られた-「試みに遭う時、油断することのないように、この世のどのような偶像にも身を任すことのないように、そして悪との闘いでイエスに付き従うように」。「そうすることで、私たちも、イエスとともに、勝利を手にするでしょう」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二=聖書の引用箇所の日本語訳は「聖書協会 共同訳」を使用)

 

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2020年3月2日