・「ロザリオの月ー暗闇から抜け出す光を求め、執拗に祈り続けよう」-菊地大司教の年間第29主日

2022年10月15日 (土)週刊大司教98回

2022_10_01_0021 現在、バンコクで開催されているアジア司教協議会連盟の総会に出席中です。総会に関しては、別途記事を掲載します。

 以下、本日午後6時配信の週刊大司教第98回、年間第29主日メッセージ原稿です。

【年間第29主日C(ビデオ配信メッセージ)2022年10月16日】

 10月はロザリオの月です。教皇レオ13世によって、10月は聖母マリアにささげられた「ロザリオの月」と定められました。

 そもそも10月7日のロザリオの聖母の記念日は、1571年のレパントの海戦でのオスマン・トルコ軍に対する勝利が「ロザリオの祈りによってもたらされた」とされていることに因んで定められています。歴史的背景が変わった現代社会にあっても、ロザリオは信仰を守り深めるための、ある意味、霊的な戦いの道具でもあります。

 教皇パウロ六世が1969年に発表された使徒的勧告「レクレンス・メンシス・オクトーベル」は、冒頭で、「諸民族の心と精神の和解によって最後には真の平和が世界に輝くよう、幸いなるおとめマリアの助けを願うために、十月にロザリオを唱えることを強く勧めます」と記しています。

 この勧告の中で教皇パウロ六世は、「神は私たちの心に、平和への熱い望みを与えてくださいました。神は私たちを、平和に向けて働くよう駆り立てます… 私たちが平和の賜物を求めてささげる祈りは、平和の構築に何物にも代えがたく貢献します… キリストの母であるマリア、福音書が「神から恵みをいただいた方」であると教えているマリアの比類ない執りなしに愛を込めて頼る以外に、私たちに何ができるでしょう」と記し、「執りなしの祈り」としてのロザリオの重要性を強調しています

 ロザリオの祈りは、聖母マリアと共にキリストを観想する祈りです。ルカ福音には、「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」と記されています。教皇ヨハネパウロ二世は「おとめマリアのロザリオ」に、「キリスト者の共同体は、ロザリオを唱えることによって、マリアの思い出と感想のまなざしに心をあわせる」と記します(11)。

わたしたちはロザリオの祈りを通じて、聖母マリアとともにキリストを思い起こし、聖母マリアからキリストを学び、聖母マリアとともにキリストの姿に似たものとなります。加えてわたしたちは、聖母マリアとともにキリストに願い求め、聖母マリアとともに、福音を告げしらせるものとなります。

 私たちの願い求める平和は、神の支配が確立され、その秩序が取り戻された状態です。長引くコロナ禍の中で「命の危機」という暗闇に取り残されている私たちは、さらに加えて、ウクライナやミャンマーをはじめ世界各地で続いている「命を危機にさらす暴力の支配」に立ち向かわなくてはなりません。そのためにも主イエスに最も近い存在である聖母の執りなしを強く求め続けたい、と思います。

 ルカ福音は、「気を落とさずに絶えず祈らなければならないこと」を教えるために、イエスが裁判官相手に正義の行使を求め続ける一人のやもめの話を記しています。その執拗な要求に、裁判官が降参してしまった様を記したあとに、「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、いつまでも放っておかれることがあろうか」というイエスの言葉が記されています。

 そうであるなら、私たちは暗闇から抜け出すための光を求めて、執拗に祈り続けましょう。

 この困難な状況に立ち向かう今だからこそ、神の母であり、教会の母であり、そして私たちの母である聖母マリアの取り次ぎによって、世界に、そして私たちの心と体に、神の秩序が確立し、平和が取り戻されるよう、共にいてくださる主イエスと歩みを共にしながら、命の与え主である御父に、徹底的に祈り続けましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2022年10月15日

・「アジアの民として共に歩み続けよう」ー菊地大司教、12日からのアジア司教協議会連盟創立50年記念総会を前に

2022年10月 8日 (土) 菊地大司教の週刊大司教第97回

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 10月12日から30日まで、タイのバンコクで、アジア司教協議会連盟(FABC)の総会が開催されます。2年前に創立50年を迎えている連盟ですが、記念の総会がコロナ禍で延期されており、やっと開催になりました。

 通常の総会では、それぞれの司教協議会から会長ともう一人程度の参加ですが、今回は50年の節目と言うこともあり、過去を振り返って将来への歩みを定めるために、多くの司教が参加します。日本からも6名の参加が予定されています。

 なお、FABCについて、カトリック新聞に書いた記事が、中央協のホームページにも転載されていますので、こちらのリンクからどうぞ。また英語ですが、FABCのホームページはこちらのリンクです。さらに今回の50周年総会のためのホームページはこちらです。

 総会の成功のために、参加する司教たちのために、お祈りいただけましたら幸いです。

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 ケルン教区からの訪問団は、すべての日程をこなして、10月5日に帰国されました。2024年にケルン教区と東京教区のパートナーシップ関係が70年となることから、これからの2年間ほどで、将来に向けたパートナーシップのあり方についての方向性を定め、それについてのメッセージを作成しようという話になりました。

 単に、援助金がドイツから日本に来たと言うだけではない、もう少し幅の広い交流、特に青年たちの交流などと、これまで以上に一緒になってのミャンマー支援などの強化を、ケルンの方々は考えておられるようです。今後、互いにチームを定めて、検討を深めたい、と考えています。(写真は、調布カルメル会修道院を訪れたケルンの訪問団)

以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第97回、年間第28主日のメッセージ原稿です。

【年間第28主日C(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第97回 2022年10月9日】

 ルカ福音は、重い皮膚病を患っていた十人の人が、イエスによって癒やされた話を記しています。十人はイエスの勧めに従って祭司のところへ行く途中で癒やされますが、その中の一人だけがイエスのもとに戻ってきます。イエスに感謝するために戻ってきたのは、ユダヤ人から見れば神への信仰に忠実ではないと見なされていたサマリア人だけでありました。

 それに対してルカ福音が記すイエスの言葉は、「神を賛美するために戻ってきた者は、他にいないのか」であって、受けた恵みに対して、神のもとに立ち返り、神を賛美するというその行為にこそ救いがあることを、「あなたの信仰が、あなたを救った」という言葉が示唆します。

 すなわち、「人間が抱える様々な困難が解決され、幸せが確立すること」に救いがあるのではなく、「受けた恵みを自覚しながら、感謝のうちに神と共にあること」にこそ救いがあるのだ、とイエスの言葉は教えています。

 神に感謝をささげ、神と共にいることによって良しと見なされたのは、「正統な信仰を守っている」と自負するユダヤ人ではなかった、という話は、「信仰を守る」とはどういうことなのかを、考えさせます。それは、信仰者の立ち位置が、「自分自身のところにある」のか、「神のところにある」のかの違いです。自分の幸せを優先する利己的な心を強く持つとき、私たちは神のもとには立っていません。そこに救いはあるでしょうか。

 パウロはテモテへの手紙に、「キリストと共に死んだのなら、キリスト共に生きるようになる。耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。」と記しています。ここでも「救い」とは、「自分自身の人間的な困難の解決にある」のではなく、「キリストと共にいることにある」と、パウロは指摘します。その上でパウロは、自分自身の苦しみは、他の人々が、「キリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るため」に耐え忍んでいるのだ、と強調します。パウロの立ち位置は自分ではなく神のもとにあり、だからこそパウロはイエスに倣って、他者の救いのために命を燃やし続けるのです。

 アジア各地の司教協議会の連盟組織であるFABC(アジア司教協議会連盟)の創立50年を記念して開催される総会が、10月12日から30日まで、バンコクで開催されます。日本を含めアジア各国から司教の代表が集まります。どうか会議の成功のために、お祈りください。

 FABCは、1970年に教皇パウロ六世がマニラを訪問された際に集まったアジアの司教たちの合意に基づいて誕生しました。第二バチカン公会議の教会憲章で示された司教の団体性や協働性と翻訳される「コレジアリタス」を具体化し、アジアにおける教会の存在を更に福音に沿って具体化するための組織として誕生しました。

 FABCはこの50年間、アジア全域において、三位一体の神をあかしし、イエスの福音を告げしらせるために、牧者である司教たちの交わりを通じて、福音宣教への共通理解を深めてきました。中でも、FABCは三つの対話、すなわち、「人々(特に貧しい人々)との対話」「諸宗教との対話」「多様な文化との対話」が、アジアでの宣教において共通する重要課題である、と指摘を続けてきました。今回の総会のテーマも、「アジアの民として、共に歩み続けよう」とされ、対話と連帯のうちに福音を具体的に生きる道を模索しようとしています。

 教皇ヨハネパウロ二世は、使徒的勧告「アジアの教会」に、「(アジアの様々な)宗教的価値は、イエス・キリストにおいて成就されることを待っているのです」(6)と記しています。私たちは、神のもとにしっかりと立ち位置を定め、すべての人の救いのために努力を続けたい、と思います。

(編集「カトリック・あい」)

2022年10月10日

・「共通善を目指し、生き方を見つめ直す回心が必要」ー菊地大司教、「すべての命を守る月間」の終わりに

2022年10月 1日 (土)週刊大司教第96回:年間第27主日

2022_09_21_00rca_0073 早いもので、今年もすでに終盤です。10月となりました。

 10月はロザリオの月です。教皇レオ13世によって、10月は聖母マリアにささげられた「ロザリオの月」と定められました。10月7日のロザリオの聖母の記念日は、1571年のレパントの海戦でのオスマン・トルコ軍に対する勝利が、ロザリオの祈りによってもたらされたとされていることに因んで定められています。

 歴史的背景が変わった現代社会にあっても、ロザリオは信仰を守り深めるための、ある意味、霊的な戦いの道具でもあります。現代社会にあっては、特に神の秩序の実現である平和の確立を願う私たちの思いを、ロザリオの祈りを通じて御父に届けたいと思います。一人でも、いつでも、またグループでも、10月にはロザリオの祈りを通じて聖母に取り次ぎを願うことを、心に留めましょう。

 ケルン教区の代表団が東京教区に滞在中です。長年にわたる両教区の「パートナーシップ」ですが、今回の訪問で、「パートナーシップ」という名称のふさわしいだけの関係が構築されているか、見直しをしたい、との提案が、代表団の担当者から表明されています。

 もちろんケルン教区という巨大な教区と、東京教区とでは、資金力は言うにおよばず、人的可能性でも大きな差がありますので、同じようなことはできませんが、単に「資金提供を受けてきた」という関係以上の絆を、どのように築き上げることができるのか、考えてみたいと思います。もちろん、両者で協力してきたミャンマーへの支援は、特に今のような状況下にあって、しっかりと継続していきたいと思います。

 以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第96回、年間第27主日メッセージ原稿です。

【年間第27主日C(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第96回 2022年10月2日】

 9月の初めからこの一か月、私たちは教皇フランシスコの回勅「ラウダート・シ」の精神に倣って、「すべての命を守る月間」を過ごしています。10月4日をもって今年の月間は終了します。「ラウダート・シ」に倣うということは、ともすれば、環境問題などの特定の課題に取り組むための啓発活動と考えられる嫌いがありますが、それ以上に、教皇フランシスコが呼びかけるように、これは回心への招きであり、「自然界を通して神の存在を感受するエコロジカルな霊性」の実践への招きです(今年の被造物を大切にする世界祈願日メッセージ)。

 教皇様は今年のメッセージにこう記しておられます。

 「私たちの過剰な消費主義の支配に、大地はうめき声を上げ、虐待と破壊に終止符を打つよう、私たちに懇願しています。ですから、叫びを上げているのはすべての被造物です。創造のわざにおいて、キリスト中心の対局にある『専制君主的な人間中心主義』に翻弄されることで、無数の種は死に絶え、それらによる神を讃える賛歌は永遠に失われてしまうのです」

 ルカ福音は、「務めに対して忠実で謙遜な僕」について語るイエスの言葉を記しています。なすべき務めを、すべて果たした時に、「私どもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」と言うことこそが、忠実な僕のあるべき姿だ、と語るイエスは、これを通じて、「私たちがそれぞれの与えられた召し出しに忠実に生きることが、信仰生活において重要」であることを示唆します。

 「ラウダート・シ」において教皇フランシスコは、「神との関り、隣人との関り、大地との関りによって、人間の生が成り立っている」と記しています(66項)。その上で、「私たちは、ずうずうしくも神に取って代わり、造られたものとしての限界を認めることを拒むことで、創造主と人類と全被造界の間の調和を乱しました」と指摘されました。私たちは与えられたそれぞれの召し出しに忠実に生きる謙遜な僕になっているでしょうか。

 教皇様はさらに、「私たちが神にかたどって創造され大地への支配権を与えられたことが『他の被造物への専横な抑圧的支配を正当化する』との見方は、断固、退けなければなりません」と記されます。私たちには、「被造界を破壊する横暴な支配者」ではなく、「被造界を世話し、保護し、見守り、保存する善き管理者」として、与えられた務めを忠実に、謙遜に果たすことが求められています。

 私たちは、「話せず、語れず、声を届けられない」被造物、特に貧しい人々の叫びに、耳を傾けるよう招かれています。教皇は今年のメッセージに「気候危機にさらされることで貧しい人々は、ますます激化し頻発する干ばつ、洪水、ハリケーン、熱波の、最も深刻な影響を受けています。さらに、先住民族の兄弟姉妹が叫びを上げています。収奪的な経済的利益追求の結果、彼らの祖先の土地は四方八方から侵略され荒廃し、『天へと向かう嘆きの叫び』を上げています」と記し、社会の中心部から忘れ去られた人たちの声に耳を傾けることの重要性を強調されています。

 私たちの周囲には、どのような声が響いているでしょうか。社会や多数の人々の圧力によって、押し潰されてしまっている声はないでしょうか。「より豊かに、より容易に自己完成ができる」ように、共通善の実現を目指して、生き方を見つめ直す回心が必要です(「現代世界憲章」26項)

2022年10月1日

・「移民・難民の人々に心の扉を開こう」菊地大司教、「世界難民移住移動者の日」に

2022年9月24日 (土) 週刊大司教第95回:年間第26主日

 9月最後の主日は、世界難民移住移動者の日と定められています。中央協議会のホームページには、次のように記されています。

 「世界難民移住移動者の日は、各小教区とカトリック施設が、国籍を超えた神の国を求めて、真の信仰共同体を築き、全世界の人々と「共に生きる」決意を新たにする日です。日本の教会でこの分野の活動を受け持つ日本カトリック難民移住移動者委員会は、日本と全世界にある協力グループとともに、活動の推進、連絡、協力、支援、情報の交流等を行っています。そのために祈りと献金がささげられます」

 教皇様はこの日にあたりメッセージを発表されています。今年のテーマは、「移民や難民と共に未来を作る」とされています。

 メッセージの中で、教皇様は次のように呼びかけておられます。

「誰一人、排除されるべきではありません。神の計画は本質的にすべてを包み込むもので、実存的周縁部の住人を中心に据えるのです。その中には、多くの移民や難民、避難民、人身取引の犠牲者が含まれます。神の国の建設はこの人たちと共に行うものです。この人たちなしでは、神が望むみ国には、ならないからです。最も立場の弱い人たちを含めることは、完全に神の国の市民権を得るための必要条件です」

 その上で、教皇様は次のように呼びかけて、祈りと共にメッセージを締めくくっておられます。

 「親愛なる兄弟姉妹の皆さん、とくに若者の皆さん。もし天の父と協力して未来を築きたいのであれば、それを、難民や移民の兄弟姉妹とともに行いましょう。今日築きましょう。未来は今日から、そして私たち一人ひとりから始まるからです」

 現在のウクライナの情勢を見るにつけ、難民は遠い世界の出来事ではなくて、世界に生きるすべての人の現実です。そして様々な理由から移動し移住する多くの方も、一人ひとりが神から愛される命をいただいた大切な存在です。すべての命が守られるように祈るためにも、現実に起こっていることを、まず知ることから始めましょう。

 日本の司教団も、個別の委員会の課題としてではなく、司教全員の総意として、今ひとつの問題について政府にお願いをしています。多くの課題が存在する中で、小さな一つの課題ですが、いのちを守るための大切な課題の一つだと考えています。こちらのリンクです。司教全員のメッセージビデオもありますので、一度ご覧いただければ幸いです。(写真はウガンダ北部にあった国内避難民キャンプで=2005年)

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 以下、24日午後6時配信の、週刊大司教第95回、年間第26主日メッセージ原稿です。

【年間第26主日C 2022年9月25日】

 「現在の世界情勢は、不安定や危機感を与え、それが集団的利己主義の温床となります」

 2015年に発表された教皇フランシスコの回勅「ラウダート・シ」の205項に、こう記されています。そしてまさしくのこ数年間、感染症による先の見えない不安感は、世界中を「集団的利己主義」の渦に巻き込みました。

 教皇は続けて、こう記します。「人は、自己中心的に、また自己完結的になる時、貪欲さを募らせます。心が空虚であればあるほど、購買と所有と消費の対象を必要とします… こうした地平においては、共通善に対する真正な感覚もなくなります」

 ルカ福音が記す金持ちとラザロの話には、まさしく世界が自分を中心にして回っているかのように考え振る舞う金持ちの姿が描かれています。利己主義に捕らえられた心には、助けを求めている人の存在する場所すらありません。死後の苦しみの中で神の裁きに直面する時でさえ、金持ちの心は自分のことしか考えず、それを象徴するように、この期におよんでもラザロを自分の目的のために利用しようとします。

 2016年5月18日の一般謁見で、教皇様はこの話を取り上げ、こう述べておられます。

 「ラザロは、あらゆる時代の貧しい人々の叫びを表わすと同時に、莫大な富と資源がごく少数の人の手に握られている世界の矛盾をも示す良い例です」。

 その上で教皇様は、「神の私たちに対する憐みは、私たちの隣人に対する憐みと結びついています。それが欠けていたり、私たちの心の中に無ければ、神は私たちの心に入ることはできません。もし、自分の心の扉を貧しい人々に向けて押し開かなければ、扉は閉ざされたままです。神への扉も閉ざされたままです。それは恐ろしいことです」と指摘されます。心の扉を開いて、出向いていく教会であることが、集団的利己主義から脱却する道であることが示唆されています。

 教皇様が指摘されるように、世界における貧富の格差の問題は「先進諸国や社会の富裕層では、浪費と廃棄の習慣がこれまでにないレベルに達しており、そうした消費レベルの維持は不可能であることを私たちは皆知って」いるにもかかわらず、全く解決されていません。扉は閉ざされたままです。

 9月の最後の主日は「世界難民移住移動者の日」です。教皇様は今年のテーマを「移民や難民と共に未来を作る」とされました。教皇様は今年のメッセージの終わりにイザヤ書を引いて、「新しいエルサレムの住人は、都の門をつねに大きく開いておき、異邦人が贈り物を携えて入ってこられるようにする」と記しています。私たちは、扉を開くことを心に留めましょう。

 この一か月、10月4日まで、私たちは回勅「ラウダート・シ」の精神に倣って「すべての命を守る月間」を過ごしています。「ラウダート・シ」に倣う、ということは、ともすれば、環境問題などの特定の課題に取り組むための啓発活動と考えられる嫌いがありますが、教皇フランシスコの呼びかけは個別の課題をはるかに超え、私たちの存在の有り様全体にに対して、回心を呼びかけています。

 私たちは扉を閉ざして籠もってしまうのではなく、「扉を開いて外へ出向いて行き、共通善の実現のために汗を流す教会」でありたいと思います。

(編集「カトリック・あい」=文章として読みやすく、意味が分かりやすくするために、原則として「当用漢字表記」にしました)

2022年9月24日

・「神の愛と慈しみから誰ひとり排除されない世界へ」菊地大司教・年間第25主日

2022年9月17日 (土)週刊大司教第94回:年間第25主日

 9月も半ばを過ぎました。

 教皇様は、先日カザフスタンに出かけられ、無事にローマに戻られました。

 教皇様は、同国首都ヌルスルタンで、諸宗教のリーダーを招き、9月14日から2日間の日程で開かれた「第7回世界伝統宗教指導者会議」に出席され、バチカンニュースによれば、共同宣言を受けてのスピーチで、「今回の共同宣言にある『過激主義、原理主義、テロリズム、その他、憎悪・暴力・戦争をあおるすべてのもの・動機・目的は、真の宗教精神と一切の関係がないものであり、断固として退けられるものである』という言葉を繰り返された」と報道されています。真の宗教精神が今、問われています。

 なおカザフスタンを含む中央アジア諸国の司教団は、つい先日から一つの司教協議会を構成しており、アジア司教協議会連盟(FABC)のメンバーとして、アジアの教会の一員です。『アジア』の多様性を物語る地域の一つでもあります。

 9月17日午後2時から、麹町教会でイエズス会の司祭叙階式が執り行われ、二人の司祭が誕生しました。ヨアキム・グェン・ミン・トァン神父様、ペトロ・カニジオ越智直樹神父様。叙階おめでとうございます。

 また、9月18日日曜日には、高円寺教会で新しい信徒会館と司祭館の祝別式、並びに堅信式が行われます。高円寺教会の司祭館は数年前に火事で失われ、その後コロナ禍で再建が遅れていましたが、完成しました。また、明日以降に報告します。

 以下、本日午後6時に配信した、週刊大司教第94回、年間第25主日のメッセージ原稿です。

【年間第25主日C(ビデオ配信メッセージ)2022年9月18日】

 パウロはテモテへの手紙に、「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」と記し、自ら創造されたすべての命を包み込もうとする、神の愛と慈しみを語ります。

 ルカ福音は、「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である」というイエスの言葉を記します。

 私たちは、「神の愛と慈しみから誰ひとり忘れ去られることなく、また誰ひとり排除されることのない世界」を実現することを目指しています。神の愛はすべての人に向けられているにもかかわらず、それを妨害しようとするのは、私たちの不忠実さであります。私たちは「神の愛と慈しみの前に立ちはだかる様々な障壁を取り除く」という大きな目的を達成するために、目の前の小さな事への取り組みを忠実に果たしていかねばなりません。

 教会は、9月1日から10月4日までを「被造物の季節」と定め、総合的エコロジーの観点から、「日々の生活の中で小さな行動を忠実に積み重ね、私たちに神から与えられた共通の家を大切にする」という目標を達成するための啓発の時としています。

 日本の教会も、2019年の教皇訪日のメッセージに触発されて、同じ期間を「すべての命を守る月間」と定め、神からの呼びかけに忠実であるように、と啓発活動を行っています。今年の7月の司教総会では、この取り組みを更に強化するために、司教協議会に「ラウダート・シ・デスク」を設置することも決めています。

 2020年初め頃から世界中を巻き込んでいる感染症による命の危機は、目に見えない小さなウイルスによってもたらされました。私たちは、人間の知恵と知識に限界があることを思い知らされています。しかし往々にして、私たちはその限界を忘れ、あたかも人類がこの世界の支配者であるかのように振るまい続けてきました。その結果が、教皇様が指摘されるように、共通の家である地球の破壊です。

 教皇フランシスコは回勅「ラウダート・シ ー共に暮らす家を大切に」を発表され、すべての被造物は互いにすべてつながっているがために、互いの調和のうちに生きていく道を探ることの重要性を強調されました。これを教皇様は「総合的エコロジー」という言葉で表されます。その意味は「さまざまなことが、本質においてそれぞれつながり合い、影響し合っている」ことです。そこから教皇様は「環境問題は孤立した分野ではなく、社会の問題、人間の問題、そして根本的に神との関わりの中にある」と指摘されます。

 その上で教皇様は、「この世界で私たちは何のために生きるのか、私たちはなぜここにいるのか、わたしたちの働きとあらゆる取り組みの目標はいかなるものか、私たちは地球から何を望まれているのか」という問いかけに、忠実に答える姿勢を求めます。

 教会は今、シノドスの道を歩み続けています。神の民として、共に歩もうとしています。私たちはそれぞれの生きている現実の中で、小さな事に忠実に取り組む姿勢を忘れることなく、神が与えてくださった大地の叫びと、社会から忘れられ排除されている人たちの叫びに耳を傾け、それを神の視点で識別し、具体的な行動を積み重ねていきたいと思います。

 教皇フランシスコが東京ドームミサで呼びかけたように、「キリスト者の共同体として、私たちは、すべての命を守り、知恵と勇気をもって証し」する忠実な僕でありたいと思います。

(編集「カトリック・あい」)

2022年9月17日

・「私たちの立ち位置は『常識』か『神の心理』か」菊地大司教の年間第24主日メッセージ

週刊大司教第93回:年間第24主日 

2019_06_img_0249 教区カテキスタの養成講座の、今年度のコースが終わりを迎え、10日午後、最終回の講話(私が担当)、修了式と任命・派遣のミサがカテドラルで行われました。これについては、別途また別の記事でお知らせします。新しくカテキスタとして任命された方々には、今後の活躍を期待します。共に歩む教会共同体を、一緒に育てて参りましょう。(写真はアシジの聖フランシスコ大聖堂)

 毎年9月14日と15日には、秋田の聖体奉仕会修道院で、聖母マリアと共に祈る秋田の聖母の日が、2014年から行われてきました。残念ながら、コロナ禍のために中止となってきました。今年こそは再開できるかと期待して、いつもの信徒による旅行社パラダイスさんと巡礼を組もうと企画していましたが、今年も中止となってしまいました。

 「もう一年だけの辛抱」であることを祈ります。来年こそは。祈りの雰囲気に満ちあふれた秋田の地で、聖母を通じて主イエスへと導かれるために、共にロザリオの祈りを捧げることができる日の再開を,祈り続けます。聖体奉仕会では、今年の秋田の聖母の日のために、20分程度のメッセージビデオを用意しているようです。14日には公開の予定と聞いていますので、またお知らせします。

 9月10日は、日本205福者殉教者の記念日です。そしてこの日は「元和の大殉教」の日でもあります。今年でちょうど400年となり、長崎教区では祈念の祈りがささげられています。長崎教区のお知らせには、次のように記されています。

「毎年9月10日は日本205福者殉教者の記念日です。1622(元和8)年9月10日に長崎西坂の丘にて55名(うち52名は福者)が火刑・斬首され、『元和の大殉教』と呼ばれています。今年で400年目を迎えます。長崎の地は日本二十六聖人の殉教をはじめ、多くのキリシタンが殉教した土地です。彼らはその信仰をなによりの宝とし、死を前に恨み言ではなく、神への賛美と感謝のうちに、命の限り神の愛を人々に証ししました」

 改めて、日本の殉教者の信仰における勇気に倣い、私たちも現代社会にあって福音を証しする信仰を持つことができるよう、その取り次ぎを祈りましょう。

 以下、本日午後時配信、週刊大司教第93回、年間第24主日メッセージ原稿です。

【年間第24主日C(ビデオ配信メッセージ)2022年9月11日】

 出エジプト記は、モーセが不在の間、不信に陥ったイスラエルの民が、金の雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげた様を記しています。民のこの行動は神の怒りを招きますが、モーセはなんとか神の怒りをなだめようと努めます。出エジプトの出来事を体験したイスラエルの民でさえ、先行きの不安に駆られ不信感が増大したときに、自分の心を落ち着けてくれる存在に頼ってしまう。人間の心の弱さを象徴する話です。

 私たちは、基本的に変革よりも安定を望みます。自分の心を落ち着けてくれる道を求めようとします。その思いが募るとき、結果として手に入れるのは、自分の願いを満たしてくれる答えであり、往々にしてその答えは、真理とはほど遠い道であることが、この物語から示唆されます。

 真理の道は神が用意された道であるにもかかわらず、不安や不信、または利己的な思いは、真理の道から私たちの目をそらせ、自分が思い描いた欺瞞の道へと誘います。そこに神の命はありません。

 教皇フランシスコは、使徒的勧告「福音の喜び」の中で、「出向いていく」教会であることを求めながら、教会共同体が福音宣教のために「司牧的な回心が要請する構造改革」に取り組むように求めています(27項)。その上で、「宣教を中心とした司牧では、『いつもこうしてきた』という安易な司牧基準を捨てなければなりません(33項)」と記し、自分たちが経験に基づいて思い描いている理想に固執することなく、「常に聖霊の働きに心を開き真理の道を識別し続けるように」と求めています。

 ルカ福音は、99匹の羊を野原に残してでさえも、見失った一匹を探しに出かける「善い牧者」の姿を記しています。

 このたとえ話の導入では、やはり過去のしがらみや倫理的基準に捕らわれたファリサイ派や律法学者が、罪人と食事を共にするイエスを批判する姿が記されています。自分たちの安全地帯に留まろうとする選択は、真理からはほど遠いことが示唆されています。

 そしてイエスは、「1対99の比較」という選択肢を持ち出し、「1を諦めても99を確保する」という常識的な判断ではなく、「神の判断は、一人も失われることなくすべての命を徹底的に愛し守り救うのだ」という、神の真理の道を明確に示します。「常識」と「神の真理」。私たちの立ち位置は、どちら側にあるのでしょうか。

 2016年5月4日の一般謁見で、教皇様は「私たちは皆、見失った小羊を肩に担いだ良い羊飼いの姿をよく知っています。その姿は、罪人に対するイエスの心配りと、誰かが居なくなっても決して諦めずに探してくださる神の慈しみを常に表わしています」と述べています。

その上で、「だれも何も救いのみ旨から神を引き離すことはできません。神は現代の使い捨て文化とは無関係です。まったく関係ありません。神はだれも見捨てません。神は皆を一人ひとり愛し、探しておられます。神は『人を見捨てる』という言葉を知りません。なぜなら、神は完全な愛であり、完全な慈しみだからです」と指摘されています。

 更に教皇様は「自分が『正しい』と思い込み、自分自身の中に、自分の小さな共同体の中に、そして小教区の中に閉じ籠ってはなりません。それは、他者との出会いへと私たちを導く『宣教への熱意』が欠けているときに起こります」とも指摘されます。

 「常識」と「神の真理」。私たちの立ち位置は、どちら側にあるのでしょうか。

(編集「かとりっく・あい」)

2022年9月10日

・「神の愛を証しするため、どのような十字架を背負うのか」菊地大司教、被造物を大切にする世界祈願日に

2022年9月 3日 (土)「週刊大司教」第92回:年間第23主日

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 9月の最初の主日は、被造物を大切にする世界祈願日です。

 9月1日から、アシジの聖フランシスコの祝日である10月4日までは、「被造物の季節」と定められており、カトリック教会だけでなくキリスト教諸教派と共に、わたしたちが「ともに暮らす家」のために祈り、またそれを守るための啓発と行動を呼びかけています。このエキュメニカルな活動に参加するよう教皇庁総合人間開発省が毎年呼びかけを行っていますが、日本の教会は、2019年の教皇訪日に触発されて、この期間を「すべての命を守るための月間」と命名し、さまざまな取り組みを行ってきました。

 今年も教皇様のメッセージが発表されています。こちらのリンクです。今年の「被造物の季節」のテーマは「被造物の声に耳を傾ける」で、詩編19編2節~5節から取られています。

 東京教区のホームページでも特設コーナーを開設しました。こちらのリンクです

 またカリタスジャパンでも、特設コーナーを設けています。こちらのリンクです。特にカリタスジャパンのコーナーでは、この期間、毎日の黙想と行動の指針のための言葉が準備されていますから、是非とも毎日の異なる呼びかけに耳を傾けていただければと思います。

 この期間のために準備されている「すべての命を守るためのキリスト者の祈り」は、こちらのリンクからPDFでカード印刷ができるようになっていますが、全文を以下に引用します。

 宇宙万物の造り主である神よ、あなたはお造りになったすべてのものを ご自分の優しさで包んでくださいます。

 私たちが傷つけてしまった地球と、この世界で見捨てられ、忘れ去られた人々の叫びに 気づくことができるよう、一人ひとりの心を照らしてください。

 無関心を遠ざけ、貧しい人や弱い人を支え、ともに暮らす家である地球を大切にできるよう、私たちの役割を示してください。

 すべての命を守るため、よりよい未来を開くために、聖霊の力と光で私たちをとらえ、あなたの愛の道具として遣わしてください。

 すべての被造物とともに あなたを賛美することができますように。

 私たちの主イエス・キリストによって。 アーメン。 (2020年5月8日 日本カトリック司教協議会認可)

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 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第92回、年間第二十三主日のメッセージ原稿です。

【年間第23主日C(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第92回 2022年9月4日】

 ルカ福音は、イエスの弟子となる条件として、「自分の十字架を背負って付いてくる者」であれと記します。同時に、「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎む」ことを不可欠であるとも記します。一体これは何を意味しているのでしょうか。

 一つのヒントは、パウロのフィレモンへの手紙に記されています。この短い書簡で、パウロはコロサイの裕福な信徒であるフィレモンに、彼の元から逃げてきて、その後洗礼を受けた奴隷であったオネシモを、一人のキリスト者としての兄弟として送り返すことを記しています。当時の常識の枠組みの中で、自分の奴隷であった人物を兄弟として受け入れるフィレモンの行動は、他の人たちにとって、この世の常識をはるかに超える大きな意味を持つ愛の証しの行動となったことでしょう。

 パウロは第一コリントの1章17節で十字架の意味を、神ご自身によるすべてを賭した愛のあかしの目に見える行いそのものであると記します。この世の知恵に頼って愛をあかしするのではなく、全身全霊を賭して神の愛を証ししたイエス。それこそが十字架の持つ意味であることをパウロは強調します。

 したがって、このルカ福音における十字架も、単に苦行をしろといっているのではありません。この世で生きていくために大切だと思っていること、すなわち人間の知恵が作り上げた常識に捕らわれるのではなく、そこから離れ、自らの全身全霊を賭して、神の愛をあかしするための行動にでるようにと、イエスは弟子に求めておられます。

 その一つの道として、神が私たち人類に管理を任されているすべての被造物を守る行動が、過去の強欲な搾取に別れを告げて、神の愛に生きる具体的なあかしになるとして、教皇様は9月1日を被造物を大切にする世界祈願日と定められました。日本の教会では、9月の最初の主日に祝います。教皇フランシスコは、回勅「ラウダート・シ」を発表され、教会がエコロジーの課題に真摯に取り組むことの大切さを強調されました。

 教皇様が強調されるエコロジーへの配慮とは、単に「気候変動に対処しよう」とか、「温暖化を食い止めよう」とかいう、単独の課題にとどまってはいません。「ラウダート・シ」の副題として示されているように、課題は「ともに暮らす家を大切に」することであり、究極的には、「この世界で私たちは何のために生きるのか、私たちはなぜここにいるのか、私たちの働きとあらゆる取り組みの目標はいかなるものか、私たちは地球から何を望まれているのか、といった問い」(160)に真摯に向き合い、社会全体の進む道を見つめ直す、回心が求められています。

 教会は、アシジのフランシスコの祝日である10月4日までを「被造物の季節」としており、日本の教会もこの期間に様々な啓発活動を行います。教皇様が定めた今年のテーマは、詩篇19編から取られた「被造物の声に耳を傾ける」とされ、メッセージが発表されています。

 その中で教皇様は、「被造物が上げる苦い叫びは、母なる大地の叫びであり、生態系から消えゆく多くの生物の叫び、また、気候危機の影響を最も強く受けている貧しい人々の叫び、先祖からの土地を経済的利益のために搾取される先住民たちの叫び、そして地球のエコシステムの崩壊を食い止めるために可能な限りの努力を望む若者たちの叫びでもある」と記し、そのためには個人的な回心にとどまらず、共同体の回心が必要だと指摘されています。

 神の愛を証しするために、いまどのような十字架を背負って歩もうとしているでしょうか。

2022年9月3日

・「すべての人が等しく神の国に招き入れられるように」菊地大司教の年間第22主日メッセージ

2022年8月27日 (土)週刊大司教第91回:年間第22主日

 8月も間もなく終わりに近づきました。毎日不安定な天気ですが、今年は残暑は長く続くでしょうか。

 現在の感染状況はピークを越えたようにも思われますが、毎回「波」が押し寄せる度に新たな指摘が専門家からはあり、なかなか気が抜けない時間が続いています。これだけ多くの人が気をつけていても検査陽性になったり発症したりしていますので、教区内の司祭の感染も広がり、いくつかの小教区では、そのためにミサができなくなっているところもあります。

 できる限りお手伝いできる司祭を探してはいますが、それもなかなか難しい状況が続いています。いましばらくは、皆様ご理解のうえ、なんとか乗り越える努力を継続するようお願いいたします。

 全国に目を向けると、私自身も5月末に感染しましたが、札幌、さいたま、名古屋の司教様方が検査陽性になった、との報告を受けています。幸いなことに症状は軽いと聞いています。このような状況の中ではできることは限られていますので、教区としては、基本を忠実に守って、教会活動を慎重に継続する道を選択しています。どうかこれまで続けてきた基本的な感染対策を今一度心に留め、教会の活動を続けてくださるようにお願いいたします。

 以下、本日午後6時配信の週刊大司教第91回、年間第22主日メッセージの原稿です。

【年間第22主日C(ビデオ配信メッセージ)2022年8月28日】

 「人間は、『余すことなく自分自身を与えない限り』、自己実現も成長もなく、充足も得られないように造られています」(回勅「兄弟の皆さん」87項)ー教皇フランシスコは、このように語られています。その上で教皇は、「命があるのは、絆、交わり、兄弟愛のあるところです… 自分は自分にのみ帰属し、孤島のように生きているのだ、とうぬぼれるなら、そこに命はありません。そうした姿勢には、死がはびこっています」と述べておられます。

 ルカ福音は、「婚宴に招待されたら、上席についてはならない」というイエスの教えを記しています。人間関係において謙遜さが重要だ、とするこの話がここで終わっていたら、”マナーを教える話”に留まったのかも知れません。しかしこのあとにルカ福音は、「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい」と記しています。

 宴席に招かれる人と招かれない人の対比は、ここで意図的に持ち出されているとしか思えません。それはこの話が、処世術やマナーを語っているのではなく、「『神の国に招かれる』とは一体どういう意味であるのか」を説き明かしているからに他なりません。

 すなわち、上席に着こうとする人が象徴するのは、神の国に招かれるのは、「自分が勝ち得た権利の行使」ではなく、徹頭徹尾、「神からの恵み」でしかあり得ない事実であります。そして、すべての命を神が愛おしく思われているからこそ、その招きからは、誰ひとりとして忘れ去られることはないと、その続きの話が示唆します。

 その中にあって、天の国で豊かに報いを受けるためには、この社会の現実の中で、余すことなく自分自身を与え、互いの絆、交わり、兄弟愛を深めなくてはならないことが示され、それに対してあたかも自分が勝ち得た権利の行使のように高慢に振る舞い、隣人への視点を失ったところには命がないことが示されています。

 現代社会の現実は、排除と排斥に軸足を置き、持てる者と持たない者との格差が広がり続け、持たない者はその存在さえ忘れ去られた、と教皇フランシスコはたびたび指摘してきました。

 第二バチカン公会議の現代世界憲章は「地上の富は万人のためにある」という原則を示します(69 項)。そこにはこう記されています。

 「神は、地とそこにあるあらゆる物を、すべての人、すべての民の使用に供したのであり、したがって造られた富は、愛を伴う正義に導かれて、公正にすべての人に行き渡るはずのものである。・・・それゆえ人間は、富の使用に際して、自分が正当に所有している富も単に自分のものとしてだけでなく、共同のもの、すなわち『富が自分だけでなく他人にも役立ちうる』という意味において共同のものである、と考えなければならない」

 教皇フランシスコはこれを受けて、「兄弟の皆さん」にこう記しておられます。

 「人は皆、同じ尊厳をもって、この地球に生まれ・・・肌の色、宗教、能力、出生地、居住地、そのほか多くのことの違いを、重視したり、皆の権利を損なって一部の人の特権を正当化することに利用してはなりません(118 項)」。

 神ご自身がそうされるのですから、私たちも主の僕として、誰も忘れることなく、すべての人を等しく神の国に招き入れるよう努めましょう。

2022年8月27日

・「私たち一人一人が”福音宣教者”だ」FABC50周年総会を前にー年間第21日主日の菊地大司教メッセージ

2022年8月20日 (土) 週刊大司教第90回:年間第21主日

Fabc-general-conference-logo 8月も後半に入り、多少の涼しさを感じるようになってきました。

 東京都内の感染状況は厳しいままで、この数日は、司祭の中にも検査陽性となり、軽症ですが発症された方も少なくありません。現在、教区として主日にミサに与る義務は免除していませんが、これは条件がついているので、健康について心配がある場合は「免除」と考えてください。

 アジア各地の司教協議会の連盟組織であるFABC(アジア司教協議会連盟)は、1970年に教皇パウロ六世がマニラを訪問された際に集まった司教たちの話し合いで、誕生した組織です。司教協議会が各教区の上部組織ではないように、この連盟も各司教協議会の上部組織ではありませんが、第二バチカン公会議の教会憲章で示された司教の「団体性」や「協働性」と翻訳される「コレジアリタス」を具体化し、アジアの教会の意味を更に具体化するための組織として誕生しました。

 2020年がその50周年でした。2020年には50周年を記念する総会が予定されていましたが、コロナ禍のため開催が延期となり、結局今年の10月に、FABC50と銘打って、記念の総会がバンコクで開催されることになりました。FABC50のホームページがありますので、参照ください。(上がFABC50のロゴです)テーマが、「アジアの民として、ともに歩み続けよう」となっています。

 今回の総会のための祈りやテーマソングが準備されていますが、10月に間に合うように、祈りに関しては翻訳を進めています。

 この総会を始めるにあたり、現在のシノドスの歩みに触発され、実行委員会は、10月の総会本番に先立って、総会開始のための典礼を、来る8月22日月曜日に行うことになりました。バンコクで行われ、教皇様からのメッセージを含め、様々な方のメッセージと、テーマソングの披露など、ネットで中継される予定です。22日月曜日の日本時間午後1時開始です。この行事中継のYoutubeリンクはこちらです。またはFacebookのリンクはこちらです。ご覧いただければ幸いです。

 なお私はこのFABCの事務局長を務めていますので10月の会議には参加しますが、現在の感染症の状況などに鑑み、8月22日の開始のための典礼は、現地ではなくオンラインで参加します。

 以下、本日午後6時配信の週刊大司教第90回、年間第21主日のメッセージ原稿です。

【年間第21主日C(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第90回 2022年8月21日】

 パウロ6世が第二バチカン公会議閉幕から10年となる1975年、大聖年に発表された使徒的勧告「福音宣教」は、現代社会にあって福音に生き、福音を証ししようとする私たちにとって、今でも重要な道しるべとなっています。

 教会が福音を告げ知らせる必要性を、教皇パウロ6世は、「教会も目の前に、福音を必要とし、それを受ける権利を持っている無数の人々を見ています。なぜなら、『神は、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられる』からです」(57項)と記しています。

 その上で教皇は、「たとえ私たちが福音を宣べ伝えなくても、人間は神の憐みによって、何らかの方法で救われる可能性があります(80 項)」とまで記しています。

 「キリストの苦しみと死は、いかにキリストの人性が、すべての人の救いを望まれる神の愛の自由で完全な道具であるかを示して」いると、カテキズムの要約に記されています(119項)。

 神はすべての人が救われるのを望まれているのは確実であり、ご自分が賜物として与えられた全ての命を愛おしく思われる神は、その救いが全ての人に及ぶことを望まれています。

 だからといって、私たちがなにもしないで、それどころか自分勝手に生きていたのであれば、果たしてそこに救いはあるのだろうかと、今日のルカ福音は問いかけています。

 イエスは、「救われる者は少ないのでしょうか」という問いに、直接には答えていません。なぜならば、救われるはずの者は、全ての人だからです。しかしその「全て」を、「少ない」者とするのは、神の側ではなくて人間の側の勝手であることを、「狭い戸口から入るように努めなさい」というイエスの言葉が示唆しています。

 それに続く話で常に目覚めて準備をしている必要性が語られていますが、ここで重要なのは、救われるはずの私たちが、いかにしてそれを「少ない者」としないように、常に努力をしているのかどうか、であります。

 先ほどの「福音宣教」におけるパウロ6世の言葉には、続きがあります。

 「しかし、もし私たちが、怠りや恐れ、また恥あるいは間違った説などによって、福音を述べることを怠るならば、果たして私たちは救われるでしょうか(80 項)」

 この世における狭い戸口は、私たちが福音の証し人となることをためらわせるような、様々な誘惑のなせるところであります。福音を告げ知らせることへの怠り、それによってどういう反応があるのか見通せない不安による恐れ、社会全般を支配する価値観の中で、それとは異なる価値観を生きる事への恥ずかしさ、真理とかけ離れた説による誘惑。「こちらにこそ真理がある」「こちらこそ正しい道だ」という主張には、時として私たちを惑わせ、イエスの福音から引き離す誘惑の力が潜んでいます。

 パウロ6世の「福音宣教」の続きには、教皇の願いがこう記されています。

 「願わくば、現代の人々が、悲しみに沈んだ元気のない福音宣教者、忍耐を欠き不安に駆られている福音宣教者からではなく、すでにキリストの喜びを受け取り、その熱意によって生活が明々と輝いている福音宣教者、神の国が宣べ伝えられ、教会が世界のただ中に建設されるために、喜んで命を捧げる福音宣教者から福音を受け取りますように」

 イエスに従うと決めた私たち一人ひとりが、その福音宣教者です。

2022年8月20日

・「世に投じられた聖霊の炎が燃えさかるように」菊地大司教の年間第20主日メッセージ

2022年8月13日 (土) 週刊大司教第89回:年間第20主日

2015_06_02img_8151-2 台風が接近する天候の不安定な週末となりました。東北をはじめ各地で大雨の被害が続出しています。被害に遭われた皆様に心からお見舞い申しあげると共に、この週末もまた充分に気をつけられますように、皆様の安全をお祈りいたします。

 旧統一協会の事が、大きく取り上げられています。日本のカトリック司教協議会は、いわゆる霊感商法の被害などが大きな社会問題となり、またカトリック教会内での混乱も見られた1985年に、「世界基督教統一神霊協会に関する声明」を発表しており、その内容は現在も変わりません。

 この声明では教えが全く異なっていることを指摘し、関連のいかなる運動や会合にも参加しないようにと、カトリックの信者に呼びかけています。また2008年の情報ハンドブックの特集でも、詳しく取り上げていますので、ご一読ください。

 このような状況にあって、私たちの信仰は、神からの賜物である人の命を生かす信仰であって、人の命を見捨てたり、排除したり、暴力的に奪う信仰ではないこと、さらには社会の共通善の実現を目指す信仰であることを、改めて心に留めたいと思います。

 (なお「共通善」とは、第二バチカン公会議の現代世界憲章26項に「集団と個々の成員とが、より豊かに、より容易に自己完成を達成できるような社会生活の諸条件の総体である」と記されています)

 8月14日は年間第20主日、その翌日15日は聖母被昇天の祝日です。聖母被昇天の祝日は、関口教会で午前10時と午後6時のミサがささげられる予定ですが、午後6時、夕方のミサが、大司教司式ミサとなります。

 以下、「週刊大司教」第89回、年間第20主日メッセージ原稿です。

【年間第20主日C(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第89回 2022年8月14日】

 ルカ福音は、「私が来たのは、地上に火を投ずるためである」とイエスが述べた言葉を記しています。しかし同時にイエスは、「自らの十字架での受難と死と復活を経なければ、その火が燃えさかることはない」とも述べています。

 このことから、「地上に投じられる火」は、「聖霊の火」を示唆する言葉であろうと推測されます。もちろん聖霊に導かれて、神の福音が燃えさかる火のように広がっていくことも、示唆しています。

 使徒言行録に記された聖霊降臨の出来事は、騒々しくて落ち着かない出来事でありました。粛々と進むのではなく、周囲の人たちが驚いて見物に来るような、騒々しい出来事です。聖霊の働きがあるところには、騒々しさがあります。なにぶん火が燃えさかるのですから、落ち着いているはずがありません。聖霊が豊かに働くところは、騒々しくて落ち着かないのです。

 ルカ福音は、「対立と分断をもたらす」というイエスの言葉を記します。これこそ落ち着かない言葉です。感染症の不安の中で戦争まで始まり、様々な暴力が支配する社会は、まさしく対立と分断の社会であり、現実は教会が主張し続ける「支え合いと連帯の社会」の対極にあります。一体これがイエスがもたらす現実なのでしょうか。

 もちろんイエスの言葉は、対立や分断を推奨しているわけではありません。イエスの真意は、福音の価値観を前面に掲げ、「聖霊の燃えさかる炎を広げようとするならば、この世を支配する価値観と対立する」という指摘です。

 ヘブライ人への手紙でパウロは、この世の迫害に負けることなく、受難と死を耐え忍んだイエスの模範に倣い、「自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こう」と呼びかけます。

 日本の教会は、8月15日の聖母被昇天の祝日までを平和旬間としています。コロナ禍でまだ制約がありますが、各地で平和を求める行動が繰り広げられています。

 私たちの行動は、この世界に神の秩序を実現させ、福音の価値観を生きる社会を実現し、賜物であるすべて命が、その始めから終わりまで、尊重され、守られる社会を実現しよう、とする行動です。あたかも暴力が支配するかのような現実は、ともすれば同じ暴力に頼って自らを守ることを良しとする方向に、私たちをいざないます。

 激しくそちらへ引き込もうとする潮流の中で、立ち止まって平和を唱えることは、容易なことではありません。まさしく福音の価値観を堅持しようとするとき、そこに社会の主流である価値観との対立が生じかねません。イエスの模範に倣い、忠実に忍耐強く、走り続けたいと思います。

 その聖母被昇天の祝日に朗読されるルカ福音は、聖母讃歌「マグニフィカト」を記しています。

 「身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださった」と歌うことで、聖母は、神が人を量る秤について語ります。その秤は人間の常識が定める価値観によるのではなく、神ご自身の価値観に基づく秤、すなわち、すべての命はご自身がその似姿として創造されたものとして大切なのだ、愛する存在なのだ、という神の愛と慈しみに基づいた秤であります。

 自らの神の母としての選び、それ自体が、人間の常識をはるかに越えた神の価値観に基づいた、すべての命を愛する神の具体的な行動であると、聖母は強調します。

 私たち一人ひとりを、その慈しみを持って導かれる主の愛に信頼し、この世界に投じられた聖霊の炎がさらに燃えさかるように努めて参りましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2022年8月13日

・「常に目を覚まし、平和の確立のために働き続けよう」菊地大司教の年間第19主日メッセージ

2022年8月 6日 (土)週刊大司教第88回:年間第19主日

2016_06_10_img_9955-2_20220804171501 8月に入り、6日から日本の教会は平和旬間を過ごします。5日、広島の世界平和記念聖堂では毎年恒例の平和祈願ミサが捧げられ、私も司教団の一員として参加いたしました。また6日の朝、午前8時15分の原爆投下の時間の黙祷に続いて捧げられたミサにも参加いたしました。いつもであれば、東京も含め全国から多くの方が参加して行われる平和行事ですが、残念ながら、コロナ禍のため、今年も平和公園からカテドラルまでの平和行列などは中止となり、ミサや講演会も参加者を限定してオンライン配信で行われました。

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 東京教区においては、都内の感染者の状況や、司祭が複数名検査陽性や発症していることなどもあり、ミサなどの公開を中止にしている教会も少なくありません。

 関口教会も、主任司祭など複数名の検査陽性のため、7日はミサが非公開ですが、オンライン配信で、大司教司式の平和祈願ミサを行います。

 感染対策がおろそかにならないように、あらためて基本を見直してください。聖堂内でのマスク着用、手指の消毒、十分な換気に気を配り、適度な距離をとることや、帰宅時のうがいなどを忘れないようにいたしましょう。

 またミサでの歌唱は、全員ではなく、聖歌隊や独唱者に任せることを続けます。

 以下、6日午後6時配信の週刊大司教第88回、年間第19主日のメッセージ原稿です。

【年間第19主日C(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第88回 2022年8月7日】

 ルカ福音は、主人の帰りを待つ間、常に目覚めて準備している僕の話を記します。「あなた方も用意していなさい。人の子は思いがけないときに来るからである」

 この朗読箇所の直前には、「自分の持ち物を売り払って施しなさい。すり切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい」と記されています。すなわちイエスが求めているのは、その再臨の時まで「私たちがどのように生きるのか」であって、「常に用意をする」とは、単に準備を整えて控えていることではなくて、「積極的に行動する」ことを意味しています。

 私たちは、天に富を積むために、神の意志をこの世界で実現する行動を積極的に取らなくてはなりません。神の慈しみを具体化したのはイエスご自身ですが、そのイエスに従う者として、イエスの言葉と行いに倣うのであれば、当然、私たちの言葉と行いも、神の慈しみを具体化したものになるはずです。

 神の望まれている世界の実現は、すなわち「神の定めた秩序の具体化」に他なりません。教皇ヨハネ二十三世は「地上の平和」の冒頭に、こう記しています。

 「すべての時代にわたり人々が絶え間なく切望してきた地上の平和は、神の定めた秩序が全面的に尊重されなければ、達成されることも保障されることもありません」(「ヨハネ23世地上の平和1)

 私たちは、神の秩序が確立されるために、常に尽くしていきたいと思います。

 日本の教会は、教皇ヨハネパウロ二世の平和への願いに触発されて、日本訪問の翌年から、8月6日の広島の日に始まり、9日の長崎の日、そして15日の終戦の日にいたる10日間を「平和旬間」と定め、亡くなられた方々の永遠の安息を祈り、戦争の記憶を伝え、平和のために祈る時としてきました。

 私たちが語る平和は、単に戦争や紛争がない状態なのではなく、神が望まれる世界が実現すること、すなわち「神の秩序が支配する世界の実現」です。私たちは日々、主の祈りにおいて、「御国が来ますように」と祈りますが、それこそは神の平和の実現への希求の祈りです。求めて祈るだけではなく、私たちがそのために働かなくてはなりません。その意味で福音宣教は「平和の実現」でもあります。

 教皇ヨハネパウロ二世は、1981年に広島の地から世界に向けてこう語りかけました。

 「戦争は人間の仕業です。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です。この広島の町、この平和記念堂ほど強烈に、この真理を世界に訴えている場所は他にありません」

 その上で、「過去をふり返ることは将来に対する責任を担うことです」と指摘されましたが、今年、国際社会は過去の悲惨な経験を忘れ去り、連帯の必要性をかなぐり捨て、将来への責任を放棄するかのように、暴力的な大国の行動に翻弄されています。

 戦争によって暴力的にいのちを奪われる多くの方の存在を目の当たりにし、起こっている出来事の理不尽さに心が打ちのめされるとき、湧き上がる恐怖と怒りは、思いやりや支え合いを、感情の背後に追いやってしまいます。今世界は、暴力によって平和を獲得することを肯定する感情に、流されています。しかしそれは、真の平和を踏みにじることにしかなりえません

 常に目を覚まして、神の秩序の確立のために、平和の確立のために、働き続けましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2022年8月6日

・「神の定めた時に敏感に心を向け、悟り、従う人生を歩む」菊地大司教の年間第18主日メッセージ

2022年7月30日 (土)週刊大司教第87回:年間第18主日

 あっという間に7月も終わりです。学校も夏休みの真っ最中で、本来であれば、各地の小教区でも、様々な夏の行事が行われたり準備されたりしている時期です。東京では、このところ自治体からの検査陽性者の報告が相次ぎ、教区内の教会でも、様々な要因を勘案して夏恒例の行事を中止としたところも少なくないと報告を受けています。]

  大変残念ですが、一日も早くこの状況から脱することができるように、私たちにできる祈りを続けたいと思います。また教会活動にあっては、手洗い、うがい、換気、マスク、適度な距離といった基本を、忘れないようにいたしましょう。

  感染の拡大が続いている東京教区内では、この数日、いくつかの教会で、司祭の検査陽性が報告されています。また信徒の方々にも、検査で陽性となる方が増えていますし、発症されている方も少なくありません。特に司祭が感染した場合、それぞれの小教区のミサをどのようにするかは、現場の司祭に判断の権限をゆだねていますので、教会からのお知らせなどにご注意ください。

  なお関口教会も、司祭ほかの検査陽性のため、7月31日のミサは中止となっています。その後、8月7日については、平和祈願ミサを非公開配信で行うことができるか、検討中です。

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  教皇様は7月24日から30日まで、カナダを司牧訪問されました。バチカンニュースは今回の訪問について、「今回の訪問は、カナダの政府と、カトリック教会、そして先住民共同体の招きに応えて行われるもの。教皇はこの訪問を通し、カナダのかつての先住民同化政策下、カトリック教会が運営に関わった寄宿学校において先住民の人々が体験した苦しみに耳を傾け、ご自身の寄り添いを直接伝えたいと願われている」と伝えています。

  教皇様はカナダのエドモントン郊外で行われた先住民族の方々との集いで、「多くのキリスト教徒たちが様々な形で、先住民の人々を抑圧した権力者たちの植民地主義的なメンタリティーを支持したこと、中でもカトリック教会や修道会のメンバーが、無関心をも含めた態度をもって、当時の政府による文化の破壊と、寄宿学校制度を頂点とする強制的な同化政策に協力したことに対し赦しを願った」と報道されています。

 教皇様はご自分のツイッターでも、この謝罪ですべてが終わるのではなく、いやしのプロセスの始まりであり、同時に赦しは人間の努力だけではなく神からの恵みを必要とするとも述べておられます。

 以下、本日午後6時配信の週刊大司教第87回、年間第18主日のメッセージ原稿です。

【年間第18主日C(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第87回 2022年7月31日】

 コヘレトの言葉は、「何というむなしさ。すべてはむなしい」と始まります。一体何がむなしいのでしょうか。コヘレトの言葉はそのあとで、「全てに時がある」という有名な一節を記します。この時は時計で計ることのできる時間ではなく、被造物に対して神が定めた時のことを指していますが、その神の定めた時に逆らって生きようとする姿勢やその価値観を、コヘレトの言葉がむなしいのだと指摘しています。

 パウロはコロサイの教会への手紙で、「上にあるものを求めなさい。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい」と述べています。ここにおいても、この世界を支配する人間的な価値観は、脱ぎ捨てるべき古い人の生き方を支配するものであって、造り主の姿に倣う新しい人を支配するものではない事を明示します。

 ルカ福音は、自らのために蓄財しようと、新しく大きな蔵を建てようとしている金持ちのたとえ話を記しています。この世の価値観の典型である自分のための蓄財行為に対して、神が「愚か者よ、今夜お前の命は取り上げられる」と言ったというこのたとえ話は、まさしく、この世の価値観に支配され、徹底的に利己的な動機から行動するものに、その「むなしさ」を突きつけています。

 同時に、この世界を支配しているのは神であって、人間の都合で世界が動くわけではないと言う事実、すなわち、全ては神の時によって定められており、それに逆らうことは全くむなしいとこのたとえ話は教えています。

 貧しい人のために積極的に出向いていく教会であることを求める教皇フランシスコは、回勅「兄弟の皆さん」に次のように記しています。

 「世界はすべての人のために存在しています。人は皆、同じ尊厳を持って、この地球に生まれるからです」(118項)

 その上で教皇様は、「共同体として私たちには、すべての人が尊厳を持って生き、十全な発達のための適切な機会が得られることを保障する責務があるのです」と記します(118項)。

 さらに教皇様は聖ヨハネ・クリゾストモの言葉を引用して、こう記します。

 「自分の財産を貧しい人々に分かち与えないとすれば、それは貧しい人々のものを盗むことになり、彼らの生命を奪うことになります。わたしたちが持っている物はわたしたちのものではなく、貧しい人々の物です」(119項)

 第二バチカン公会議の現代世界憲章には、「人間の価値は、その人が何を持っているかではなく、どのような者であるかによる(35)」という一節があります。私たちは、どのような者であろうとしているのでしょうか。自分自身を世界の中心に据え、自分の計画で人生が動いていると思い込む生き方なのか、それともすべての人の尊厳が守られ、賜物である命が十全な発達の機会を与えられるよう努める生き方なのか。

 教皇様の「福音の喜び」に記された呼びかけに、あらためて耳を傾けたいと思います。

 「出向いていきましょう。すべての人にイエスの命を差し出すために出向いていきましょう。・・・私は出て行ったことで事故に遭い、傷を負い、汚れた教会の方が好きです。閉じこもり、自分の安全地帯にしがみつく気楽さゆえに病んだ教会よりも好きです。(49項)」

 神の定められた時に敏感に心を向け、それを悟り、それに従う人生を歩みましょう。

2022年7月30日

・「『優しさによる革命』が求められている」-年間第17主日・高齢者のための祈願日に、菊池大司教

2022年7月23日 (土)週刊大司教第八十六回:年間第十七主日

 今年の年間第17主日は、メッセージでも触れていますが、7月の第四日曜日ですから、祖父母と高齢者のための世界祈願日と定められています。教皇様が定められ、昨年から始まりました。この祈願日のために、教皇様はメッセージを発表されています。今年のタイトルは、「白髪になってもなお実を結び」です。

 多くの皆様にお祈りいただきましたが、司教総会が火曜日7月19日から金曜日7月22日朝まで開催され、無事に終了しました。お祈りに感謝いたします。22synodsprayer01

 昨日の午後は、シノドス準備文書に記されているように、他のキリスト教諸派の方々から、共に歩む教会の姿勢についての分かち合いをお聞きする設け、麹町教会を会場に、NCC(日本キリスト教協議会)、聖公会、福音ルーテル教会の代表の方々をお招きして、シンポジウムを開催しました。

 興味深い分かち合いのひとときでした。カトリック側からは、司教総会において採択されたばかりの、日本の教会からの報告書を私から、かいつまんで説明させていただきました。

 バチカンのシノドス事務局による準備文書には、「一つの洗礼によって結ばれた、異なる信仰告白をもつキリスト者間の対話は、シノドスの旅において特別な位置を占めています」と、その意義が記されています。

 シンポジウムの終わりには、共に歩む教会の姿を黙想し、聖霊の導きを願いながら、前田枢機卿様の司式で、合同礼拝を行い、私が説教を担当させていただきました。

 東京では感染者数が急増しています。行動制限が行政から発出されるとのニュースも耳にします。現状では、基本的な感染対策である、手指の消毒、うがい、屋内でのマスク着用、充分な換気の確保を徹底し、適度の距離を保っていることで、教会での典礼は可能だと判断していますが、行政が制限などを求めた場合には、適宜対応することにいたします。

 もちろん、それぞれの小教区ので状況の違いや、信徒の皆さんのお考えの違いもあることでしょうから、最終的にはそれぞれの小教区で、基本を守った上で、判断してくださって構いません。

 以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第86回、年間第17主日メッセージ原稿です。

【年間第17主日C(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第86回 2022年7月24日】

 ルカ福音は、「祈りを教えてください」と願う弟子たちに、イエスが、「父よ、御名が崇められますように」と始まる「主の祈り」を教えたことを記しています。

 イエスが示すもっとも基本となる祈りは、「父よ」と始まります。イエスが指し示す御父のイメージは、例えば放蕩息子を迎え入れる父親に象徴されるような、神のいつくしみを具体化した存在です。私たちに語りかける御父は、私たちがその呼びかけに応えるのを待ち続け、私たちが語る言葉に耳を傾けてくださいます。

 「カトリック教会のカテキズム」は、主の祈りを「全福音の要約、最も完全な祈り」とする教父たちの言葉を紹介し、「福音の本質的内容を祈りの形でまとめている」と指摘しています(要約579項)。

 主の祈りは、私たちが神に従ってたどるべき道を明示する祈りです。先に呼びかけてくださった神に対する私たちの答えとして、私たち自身の生きる姿勢を明確にするこの祈りは重要であり、神は、私たちの決意表明に耳を傾けてくださいます。

 私たちの祈りに耳を傾けられる御父の姿勢は、創世記に記されたソドムの町に関するアブラハムと神のやりとりにも、よく表れています。辛抱強く耳を傾けるのは、御父です。

 御父が耳を傾けてくださる存在であるからこそ、イエスは弟子たちに「求めなさい。探しなさい。門を叩きなさい」と諭します。与えられるものは「よいもの」です。「聖霊」です。邪悪な事柄を執拗に求めたからといって、それは聞き入れられません。私たちが執拗に祈り求めるためには、まず、「父よ」と呼びかける、あの福音を凝縮した祈りが必要であり、その祈りのあとに続けて求めることができるのは、善であり、悪ではありません。神の御旨の実現であり、悪の支配ではありません。赦しであって、分断や分裂ではありません。

 教皇フランシスコは、昨年2021年から、7月26日の聖ヨアキムとアンナの記念日に近い主日を「祖父母と高齢者のための世界祈願日」と定められました。今年は7月24日がこの祈願日となります。今年の祈願日のために教皇様はメッセージを用意され、そのテーマを詩編92から取った「白髪になってもなお実を結び」とされています。

 長寿であることは、多くの国で祝福でしたが、日本のように少子高齢化が急激に進むと、そうとばかりも言っていられなくなります。教皇様はご自身の近頃の体調に触れながら、6月15日の一般謁見で、「高齢になると、もう自分の身体のコントロールが効かなくなります。何をして、何をしないかを選択することを学ばなければなりません。身体の活力は私たちを裏切り、見捨てます。たとえ心は望み続けても。そして、人はその願望を静めることを学ばなければなりません」と述べておられます。

 今年のメッセージでは、しかし、「聖書が教えているように、長寿は祝福であり、老人は疎まれる存在ではなく、命を豊かに与えてくださる神の慈しみの生きたしるしです」と指摘されます。

 その上で教皇様は、力が全てを支配することを良しとするかのような、現代社会にあって、高齢者の謙遜さと蓄えた知恵が必要だとして、こう言われます。「私たちが面倒を見てもらう、ということ自体が、共に生きることは可能であるばかりか、必要なことだ、と表明する一つの手段です」。

 教皇様はこれを、「優しさによる革命」と呼ばれています。「力による革命」ではなく、「謙遜さと知恵による革命」です。神の語りかけに積極的に応え、お互いには耳を傾け合いましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2022年7月23日

・「何よりもまず、主の声に耳を傾けよう」菊地大司教の年間第16主日メッセージ

2022年7月16日 (土)週刊大司教第85五回:年間第16主日

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 梅雨が明けたかと思ったら、まるで梅雨のような雨降りの毎日が続いています。

 ウクライナでは戦争が続き、多くの命が暴力的に奪われ、危険にさらされる毎日が終わりません。日本でも、自らの思いを実行するために銃を持って元総理大臣の命を暴力的に奪う事件がありました。

 世界はまるで、命に対する暴力に支配されつつあるかのようです。私たち信仰者は、神からの賜物である命は、その始めから終わりまで、徹底的に守られ、その尊厳が尊重されなくてはならないと、あらためて強調したいと思います。

 今年も8月に入ると平和旬間となります。教区としての呼びかけも別途記しましたので、後ほど紹介しますが、司教協議会会長としても、平和旬間を迎えてのわたしの談話を公表しています。タイトルを教皇様の言葉から、「平和は可能です。平和は義務です」といたしました。こちらのリンクからご覧ください

 ウクライナの戦争が続いているため、世界の関心はそちらに向けられています。これまでも世界では次から次へと悲劇的な出来事が発生し、しばしば世界の関心は移り変わり、忘れられてしまう出来事も少なくありません。

東京教区にとっては、ミャンマーの教会は姉妹教会であり、長年にわたって支援を続けてきましたから、今こそ息の長い平和のための祈りを続けたいと思います。その一環として、7月9日の夜6時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、ミャンマーの平和のための祈りの集いを行いました。府中教会のヴィンセント神父様(ミャンマー出身)と、教区のミャンマー委員会のレオ神父様を中心に、ミャンマー出身の方が集まってくださり、一緒に祈りをささげました。写真はその祈りの集いの様子です。

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東京教区の今年の平和旬間は、わたしたちの兄弟姉妹の苦しみを忘れないという姿勢を明確にするために、あらためてミャンマーの平和のための祈りを中心にした、平和のために祈る時にしたいと思います。

以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第85回、年間第16主日のメッセージ原稿です

年間第16主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第85回
2022年7月17日

 ルカ福音はよく知られているマリアとマルタの態度を対比させた物語を記しています。イエスを迎え入れたとき、マルタは忙しく立ち振る舞い、マリアはイエスの足元で話に聞き入っています。

手伝おうとしないマリアに業を煮やしたマルタが不平を漏らすとき、イエスは「マリアはよい方を選んだ」と断言します。これでは一生懸命になってもてなしをするマルタがかわいそうです。一体イエスの本意はどこにあるのでしょう。

 イエスの本意を知る手がかりは、マルタが「せわしく立ち働いていた」という描写と、イエス自身の「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」と言う言葉にあります。すなわちイエスは、もてなすために働くマルタを否定し、イエスの言葉を聞くことだけに集中するマリアを肯定しているのではなくて、多くのことに思い悩んで心を乱しているのか、神の心だけに集中しているのかの選択を迫っています。

 そもそも話の冒頭で、イエスを迎え入れるのはマルタです。創世記でアブラハムが三人の旅人を無理にでもと迎え入れたように、マルタはイエスを家に迎え入れます。マルタのこの迎え入れる態度がなければ、全ては始まりません。マルタがイエスを迎え入れていなければ、マリアはその足元でイエスの言葉に耳を傾けることもなかったことでしょう。

 マルタのこの行動とアブラハムの行動は、わたしたちに、迎え入れる態度こそが、神との出会いの鍵であることを教えています。

 先日のカトリック新聞で(6月26日号)、麹町教会のウェルカム・テーブルのことが大きく紹介されていました。同様の取り組みをしている教会は他にもあると聞いています。多くの人を迎え入れる行動は、神との出会いの場をもたらします。キリストの弟子である私たちに必要な基本的な生きる姿勢の一つは、この迎え入れる態度であって、それはわたしたちが人なつこくて優しいからではなくて、その態度と行動が、神との出会いの場を生み出すからに他なりません。

 様々なことに心を奪われ、心を乱していたマルタは、思いの外激しい口調で、迎え入れた客であるはずのイエスに不平をぶつけます。そのときマルタの迎え入れる心はどこにあったのでしょうか。肝心のもてなす対象であるイエスに、苦情を言いつける態度は、どう見ても目的を取り違えた態度です。つまり、何のためにもてなしているのかを忘れて、もてなすことそれ自体が重要であるかのように勘違いをしてしまったのです。イエスは、正しくふさわしい目的に、心を集中させるようにと諭します。

 教皇フランシスコは2019年7月21日のお告げの祈りでこの話を取り上げ、次のように述べています。「マリアの姿勢を褒めることで、イエスは、私たち一人ひとりに再びこういっておられるのではないでしょうか。『しなければならないことに翻弄されず、何よりもまず、主の声に耳を傾けなさい。そうすれば、あなたの人生に課されたことを、しっかり果たせるようになります』」。

 私たちはこの世界に神との出会いの場を一つでも多く生み出すために様々なことに挑戦していきます。私たちの弟子としての福音宣教です。多くのことをしていたとしても、その目的は神と共にいることであり、他の人たちを神と共にいる場に招くことです。招く行動それ自体が大切なのではなくて、大切なのは神と共にいる場を生み出すことであります。目的をしっかりと心に留め、そのための手段を神聖化するような間違いを犯さないようにしたいと思います。

2022年7月16日

・「安倍元首相に永遠の安息をーそして神の憐れみの心が支配する社会へ」菊地大司教の年間第15主日

2022年7月 9日 (土)週間大司教第84回:年間第15主日

 2021_07_04_008  安倍元首相が銃撃され亡くなられた,とのニュースを聞き、驚きとともに悲しみが湧き上がっています。安倍元首相の永遠の安息をお祈りいたします。

  命に対する暴力を働くことによって自らの思いを遂げようとすることは、命を創造された神への挑戦です。「神が賜物として命を与えられた」と信じるキリスト者にとって、命はその始めから終わりまでその尊厳と共に守られなくてはならない賜物です。

 今回の暴力的犯罪行為の動機は、これから解明されるのでしょうが、多くの人が自由のうちに命を十全に生きようとするとき、そこに立場の違いや考えの違い、生きる道の違いがあることは当然ですから、その違いを、力を持って、ましてや暴力を持って押さえ込むことは、誰にも許されません。

 暴力が支配する社会ではなく、「互いへの思いやり」や「支え合い」といった神の憐れみの心が支配する社会の実現を目指したいと思います。

 9日午後6時より、東京カテドラル聖マリア大聖堂では、東京教区の姉妹教会であるミャンマーの兄弟姉妹の皆さんと共に、ミャンマーの平和のために祈る集いが開かれます。こちらも配信をされることになっています。

 軍事政権が暴力を持って人々の自由を圧迫し、命の尊厳をないがしろにしているミャンマーの現状に心を馳せ、平和を祈ります。また昨日の安部元総理襲撃という事件がありましたので、全ての暴力を否定し、神の正義が支配する社会の実現のために祈ります。これについては別途また報告します。

 以下、本日午後6時配信の週間大司教第84回、年間第十五主日のメッセージ原稿です。

【年間第15主日C(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第84回】 2022年7月10日

 ルカ福音書は、よく知られた「善きサマリア人」の話を伝えています。

 律法の専門家のイエスに対する問いかけは、「これだけのことをすればこれだけの報いがあるはずだ」という、例えば、「労働の対価として、それに見合った報酬があるべきだ」というような意味合いで、正義の実現として正しい問いかけではあります。

 しかし、神と私との関係の中では、「これだけすれば、これだけ報いがあるはずだ」という論理は通用しません。なぜならば、神を信じるとは、「自分自身を神にゆだね、神が真理そのものであるため、神から啓示されたあらゆる真理に同意しながら、神ご自身に帰依すること」であって、それはつまり、「神からの一方的な働きかけに身を任せること」に他ならないからです。(「カトリック教会のカテキズム」の要約27)。

 神を信じることは、レストランでメニューから選択したら食事が出てくるような類いのことではなくて、神に帰依しているのですから、主体である神が望まれるように生きることであります。人生の様々な出会いの中で、神が私たちに、どのように行動することを望まれるのか、が問題であって、事前に用意されたメニューを選択することでは、決してありません。

 見事な回答をした律法の専門家に対して、イエスは、「よく知っているではないか。それでは、その神の望みを具体的に生きれば良い」と告げます。しかし律法の専門家は、事前に用意されたメニューにこだわります。「隣人の範囲は一体どこまでなのか」と問いかけています。

 善きサマリア人の話は、神が求められている慈しみの思いに心を動かされることなく、自らが事前に選択した道をひたすらに歩む二人の姿と、神の慈しみの心に動かされて、それを具体的に生きようとしたサマリア人の対比を描きます。

 教皇ヨハネパウロ二世は回勅「慈しみ深い神」に、神の慈しみについて記しています。

 「慈しみの本当の本来の意味は、ただ見ていること、どんなに深く同情を込めてであっても… 悪いことを見つめていることではなく… 世界と人間の中に実際にある悪いことから、よいものを見出し、引き出し、促進するとき(6)」に表れます。

 私たちに求められている憐れみ深い行動は、単に私たち自身の優しい性格によっているのではなくて、それは神ご自身の思い、張り裂けんばかりに揺さぶられている神の憐れみの心に、私たちが自分の心を合わせることによって促される行動です。

 神ご自身は、ただ傍観者として憐れみの心を持ってみているのではなく、自ら行動されました。自ら人となり、十字架での受難と死を通じて、ご自分の慈しみを目に見える形で生きられました。そこに、最初から用意されていたメニューはありません。

 慈しみそのものである神は、その愛に基づいて、信じるものが隣人への愛に生きるように促されます。一人ひとりの信仰者が促されると共に、教会は共同体としてその責務を担っています。

 教皇ベネディクト16世は、回勅「神は愛」に、「教会の全ての活動は、人間の完全な善を求める愛を表します。…愛とは、物質的な事柄も含めた、人間の苦しみと必要に応えるために教会が行う奉仕を意味します」と記して、教会全体が組織的に神の愛を具体化する行動を取るように促します。

 私たち一人ひとりの生活での出会いを通じて、また教会の組織を通じて、神の慈しみの心の思いを身に受けて、具体化して参りましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2022年7月10日