・「出会いの中で分かち合い、奉仕する者に」菊地大司教の「王であるキリストの主日」メッセージ

2022年11月19日 (土)週刊大司教第百二回:王であるキリストの主日


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 典礼暦では年間の最後の主日である「王であるキリストの主日」となりました。次の日曜日からは待降節となります。(写真は田園調布教会)

 今年の待降節から、ミサの式文の翻訳が変更となります。これについて少しだけ記しますが、「これまで使われてきたカトリック聖歌集や典礼聖歌集が廃止になるのでは」と言う噂が流れているようです。

 廃止にはなりません。歌唱する際には、これまで通りカトリック聖歌集や典礼聖歌集を使い続けてください。ミサ曲(キリエなど)に関しても、従来の歌詞のままで使い続けることができます。

 これは現行の典礼聖歌集にあっても、451番に高田三郎先生の「やまとのささげ歌」が収録されている事と同様の考えで、「やまとのささげ歌」は、カトリック聖歌集の51番に第一ミサとして掲載されていたものです。

 カトリック聖歌集は、1966年に神言会のローテル神父様や当時は南山大学教授であられた山本直忠先生、そしてその後典礼聖歌をリードされた高田三郎先生たちが中心となって公教聖歌集を改訂し、発行したものですが、ちょうどその作業中に第二バチカン公会議の典礼改革があり、それにあわせた曲作りは、その後に典礼聖歌として始まりました。典礼聖歌自体も現在のような一冊になるまでには長い時間を要しましたし、それとても完結しているわけではありません。そもそもいくつかの聖歌の番号が典礼聖歌集で欠番となっているのは、将来への布石のはずでした。せっかく作曲された作品ですから、頻度の問題はさておいて、歌い続けることには問題はありません。

 翻訳にしても作曲にしても、時間のかかる作業ですから、その作業の最中に、典礼それ自体が変更になったりすると、対応は大変です。今回の翻訳がそうでした。現行のミサ典書が発行された直後から、それは暫定訳で翻訳されていない箇所が多々あったこともあり、翻訳の見直し作業が進められていました。

 しかしそれが完成する前に、ローマ典礼の規範版そのものが2000年に第3版として改訂され、翻訳作業はそこからすべて見直しとなりました。新たに始められた現在の翻訳作業は、20年でよくここまで到達した、と思います。作業にあたってくださっている典礼委員会の関係者の皆さんに、心から敬意を表して、来週から使わさせていただきます。

 なお、王であるキリストの主日は、世界青年の日でもあります。第37回目となる今年の世界青年の日の教皇メッセージ。今年のテーマはルカ福音書から取られ、マリアは出掛けて、急いで……行った」 となっています。

 さらに明日は、東京教区にとっては姉妹教会であるミャンマーの方々のために祈り献金をささげる「ミャンマーデー」です。まだ不安定な状況が続いているミャンマーです。様々な理由、特に非常に政治的な理由から身柄を拘束されていた多くの人たちが、数日前に大量に釈放されましたが、全体としての状況は変わらず、軍事政権による圧政が続いています。ミャンマーの平和のためにお祈りください。東京教区のホームページもご覧ください。

 以下、19日午後6時配信の、週刊大司教第102回、王であるキリストの主日のメッセージ原稿です。

【王であるキリストの主日C 週刊大司教第102回 2022年11月20日】

 「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで,選ばれたものなら、自分を救うがよい」

 このイエスをあざける議員たちの言葉こそが、「王であるキリストとはいったい何者」であるのかを,明確に示しています。

 全世界の王である神は、自分自身の誉れのために、自分自身の欲望を満たすために、皆に仕えられる存在ではなく、自らがいのちをあたえた全ての人を救うために、自分を犠牲にする王であることを、議員たちは図らずも証してしまっています。

 加えて、議員たちは、自らの願望を神に投影して、その願いを満たさないものを神と認めない、という本末転倒の過ちを犯してしまいます。神はご自分からその姿を示すものであって、人間の願望を満たすための存在ではありません。

 時として私たち自身も同じような思い違いをしてしまいます。自分が願っていることが適わないときに、神の存在を疑ってみたり、さらには神をののしってみたり、自分自身の願望をかなえるために、神を利用しようとしたりするのが、私たちです。時に自らの願望を神に投影しようとしたりします。いったい、神と私たちのどちらが「世界を支配する者」なのでしょうか。

 思い違いをしている私たちを目の前にしても,神は常にご自分のありのままであり続けられます。口を閉ざして、嘲りに耐え、命を賭してまで、仕えるものであろうとされます。世界を支配する王であるキリストは、私たちがその模範に倣い、常に仕えるものであろうとすることを求めておられます。自分の願望や欲望を満たすためではなく、他者の命を生かすために行動することを求めておられます。

 「王であるキリスト」の主日は,「世界青年の日」と定められています。教皇様は来年リスボンで開催される世界青年大会を視野に、青年たちに教会と共に歩み続けるよう、呼びかけられます。

 今年のメッセージのテーマは、ルカ福音書からとられた、「マリアは出かけて、急いで・・・行った」とされています。教皇様はメッセージで、「マリアが急いで出かけたように、神から特別の恵みを受けた人はそれを分かち合うために急いで出かけるのです。それは自分の必要よりも他者の必要を優先することができる人の急ぎです。…マリアは出会いと分かち合いと奉仕から生まれる純粋なつながりを見出すために出かけたのです」と述べておられます。

 私たちも、出会いの中で分かち合い助け合って共に歩み続ける者でありましょう。

(菊地功=きくち・いさお=東京大司教)

(編集「カトリック・あい」)

2022年11月19日

・「『時のしるし』を、福音の光のもとに読み解こうとしているか」菊地大司教の年間第33主日メッセージ

2022年11月12日 (土)週刊大司教第101 回:年間第33主日2022_11_06_001

 典礼の暦も終わりに近づきました。年間第三十三主日は「貧しい人のための世界祈願日」と定められています。(写真は府中墓地で)

 本日から装いを新たにした「週刊大司教」の配信を始めました。今日が101回目となります。基本は主日の福音の朗読と、メッセージ、そして祝福です。メッセージを少し短くしました。

 時に大きく増減を繰り返していますが、徐々に感染症の状況も改善し、またこの状況とどのように適応していくのかが分かってきましたので、教会の活動も再開されつつあります。そこで新しい週刊大司教では、霊的聖体拝領の祈りを入れていません。

 しかし、様々な事情から出掛けることが困難な方は多く折られると思いますので、そのように事情があるときには、この「週刊大司教」とともに、それぞれご自分で霊的聖体拝領のお祈りを唱えるようにしていただければ、と思います。もちろんそれがミサの代わりというのではなく、それぞれの霊的成長に資するものですので、困難なご事情のある方にあっては、折を見て司祭に相談され、御司祭や聖体奉仕者が聖体を持って訪問されるようにされてください。

 以下、12日午後6時配信の、週刊大司教第101回目のメッセージ原稿です。

【年間第33主日C 2022年11月13日】

 典礼の暦は終わりに近づき、毎年この時期の福音は、世の終わりについて語り始めます。

 そうなると、一体のその終わりはいつ来るのかが気になってしかたがありません。例えば今回の感染症の世界的大流行の中で、二年ほども混乱が続き、命が危機に直面すると、「それこそが世の終わりのしるしだ」と考える人が出てきたり、世紀末のように区切れの良い時期が近づくと、「世の終わりが近い」と考える人も出現します。歴史はそれを繰り返してきました。

 しかしイエスは、そういった「諸々の不安を醸し出す出来事に振り回されないように」と忠告します。なぜなら、時の終わりは神の領域であって、人間の領域の出来事ではないからです。

 その代わりに、イエスは「しるし」を読み取ることを求めます。マタイ福音書16章には、もっとはっきりと、こう記されています。

 「あなたがたは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には『朝焼けでどんよりしているから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時のしるしは見ることができないのか」(2‐3節)

 ヨハネ二十三世が、1961年の降誕祭に「フマーネ・サルティス」をもって第二バチカン公会議の開催を告示された時、そこには「時のしるし」を読み解くことの重要性が記されていました。そこで第二バチカン公会議は「時のしるし」を読み解き、行動することを柱の一つに据えました。公会議を締めくくる「現代世界憲章」は「現代の人々の喜びと希望、苦悩と不安、特に貧しい人々とすべて苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、苦悩と不安でもある」と指摘した後に、社会の現実の中で、真理をあかし、世を救い、キリストの業を続けるために、教会は「常に時のしるしについて吟味し、福音の光のもとに、それを解明する義務を課されている(4項)」と記しています。

 「時のしるし」を福音の光に照らされて読み解くのは、私たちの務めです。

 教会は年間第33主日を、貧しい人々のための世界祈願日と定めています。教皇様の今年のメッセージは「イエス・キリストはあなたがたのために貧しくなられた」をテーマとし、特に感染症や戦争によって貧困が深まっている世界にあって、教会は義務だからではなく、イエスに倣って生きる者だから当然として、困窮する人々との連帯のうちに支え合って生きることの重要性を強調されています。

 私たちの心の目は、「時のしるし」を、福音の光のもとに読み解こうとしているでしょうか。

(菊地功=きくち・いさお=東京大司教)

 

(編集「カトリック・あい」)=漢字表記は当用漢字表による。聖書の引用は「聖書協会・共同訳」に改めました)

2022年11月12日

・「ザアカイに対するイエスの慈しみの眼差しを私たちも」菊地大司教年間第31主日メッセージ

2022年10月29日 (土)週刊大司教第100回

 現在、タイのバンコクで、アジア司教協議会連盟FABCの総会に参加中です。FABCについては、次週月曜以降、帰国してから報告します。

 「週刊大司教」は、今回の配信で100回目となりました。これまで毎回、千を越えるアクセスを頂いています。多くの皆様のご視聴に、そして祈りの時を共にしてくださっていることに、心から感謝申しあげます。

 新型コロナ感染症の暗闇の中で、ミサの非公開が続いていた期間は、関口教会から会衆を入れない形でのミサの配信を行いました。その後、制限を設けての公開ミサ再開後にあっては、教会まで出かけることが困難な方も大勢おられることから、「週刊大司教」という形で主日のメッセージの配信を行い、同時に霊的聖体拝領の機会としてきました。「週刊大司教」の第1回目は、2020年11月7日土曜日、翌日の年間第32主日のメッセージから始まりました。

 いつまで続けるかは当初からの課題でしたが、視聴回数が1000回を切ったら中断することにしていましたが、ありがたいことに、これまで一度も1000回を切ったことがありません。

 完全ではありませんが、完全ではないですが、教会活動も以前のような形に徐々に戻りつつあります。そこで100回をもって全ての配信を終了することも考えましたが、高齢や病気などで教会においでになれない方々からの要望も多数いただき、今後は次のようにさせていただくことにしました。

 現在の形の「週刊大司教」は、今回をもって終了としますが、今後、形を変えて、もう少し短い形で、主日の福音とメッセージを続けていくことにいたします。名称は従来のまま「週刊大司教」としつつ、全体の構成を変えて配信いたします。

 私自身の準備の負担や都合もありますが、ビデオを作成してくださっている教区本部広報職員の負担も大きいため、全体として短い内容となりますが、ご理解いただきますようお願いします。101回目以降は、「福音朗読とメッセージ」「主の祈りと祝福」という構成になります。

 すでにお知らせしているように、現在、アジア司教協議会連盟の総会で、私も10月末までタイのバンコクに滞在いたしますので、次の撮影と編集が次週、11月5日の配信までに間に合いません。このため、11月5日はお休みさせていただき、11月12日土曜日午後6時から、少しばかり装いを変えた「週刊大司教」を配信を再開いたします。

 今後も、祈りの時をご一緒いただけたら、幸いです。

 以下、29日午後6時配信の年間第31主日メッセージです。

【年間第31主日C(ビデオ配信メッセージ)2022年10月30日】

 ルカ福音はザアカイの話を記しています。先週に引き続き、徴税人が主役です。

 教皇様は2016年10月30日のお告げの祈りで、この話を取り上げ、次のように述べておられます。

 「人々はザアカイのことを、隣人のお金を使って金持ちになった悪党と見なしていました。もしイエスが『搾取者、裏切者、降りてきなさい。こちらに来て、話をつけよう』と言ったなら、人々は喝采したに違いありません」

 しかしイエスの言葉と行いは、罪人を糾弾するものではありませんでした。「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」というイエスの言葉は、罪人との積極的な関りを求め、周りの人を驚かせるに充分でした。そもそもザアカイ自身がその言葉に驚き、信じられなかったことだと思います。

 教皇様はそのイエスの言葉と行いを「神は過去の過ちにとらわれるのではなく、未来の善を見据えます。イエスはあきらめて心を閉ざすのではなく、つねに心を開き、新しい生活空間を絶えず切り開いてくださいます… イエスは(ザアカイの)その傷ついた心を見て、そこに行かれます」と指摘されました。

 私たちは、簡単に他者を裁く存在です。あたかも自分により正義があるかのような勘違いをしながら、幾たび、人を裁いてきたことでしょう。とりわけこの二年以上、新型コロナ感染の暗闇の中で疑心暗鬼にとらわれた私たちは、不安のあまり、寛容さを失い、簡単に他者を裁いて自らの心の安定を取り戻そうとしています。

 他人を裁くときに、私たちの口からでる裁きの言葉は、私たちの心の反映です。裁く心に、果たして愛は宿っているでしょうか。そのようなとき、私たちはイエスがザアカイにとった態度、すなわち断罪という「過去の過ちにとらわれるのではなく、未来の善を見据え」た行動を自分のものとしたいと思います。「自分の計る量りで計り返される」のだということを、私たちは心に留めておかなくてはなりません。

 1987年に開催された第一回福音宣教推進全国会議(NICE1)の答申を受けた司教団の回答である「共に喜びをもって生きよう」には、「社会の中に存在する私たちの教会が、社会とともに歩み、人々と苦しみを分かち合っていく共同体となる」ための一つの道として、「裁く共同体ではなく、特に弱い立場に置かれている人々を温かく受け入れる共同体に成長したい」と記されています。あれから35年が経過した今、教会共同体はどう変化してきたでしょうか。

 教皇様は同じことを呼びかけるために、しばしば「連帯」という言葉を使われます。私たちの共同体には、連帯のうちに支え合う心があるでしょうか。それとも自分の立場を主張して、他者を裁き、排除する共同体でしょうか。

 昨年2月10日の一般謁見で、祈りについて教えた教皇様は、こう述べています。

 「祈りは、相手が過ちや罪を犯しても、その人を愛する助けとなります。どんな場合にも、人の行いより、その人自身の方がはるかに大切です。そしてイエスはこの世を裁くのではなく、救ってくださいました。・・・イエスはわたしたちを救うために来られました。心を開きましょう。人をゆるし、弁護し、理解しましょう。そうすれば、あなたもイエスのように人に近づき、憐み深く、優しくなることができます」。

 今、この社会にあっては、イエスの慈しみの眼差しを具体化することが必要です。

(編集「カトリック・あい」)

2022年10月29日

・年間第30主日の菊地大司教メッセージ「世界宣教の日にー私たちには、すべての人に福音を伝える使命がある」

2022年10月22日 (土)週刊大司教第99回

 今、バンコクにてアジア司教協議会連盟FABCの総会に出席中です。23日の主日は「世界宣教の日」です。教皇様のメッセージについて,今週の週刊大司教でも触れましたが、メッセージ「あなたがたは私の証人となる」の邦訳はこちらのリンクの中央協議会のサイトにあります。

 以下本日午後6時配信、週刊大司教第99回、年間第30主日メッセージ原稿です。

【年間第30主日C年(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第99回 2022年10月23日】

 本日読まれたルカ福音は、「神様、罪人の私を憐れんでください」と、「目を上げることもなく、胸を打った徴税人の方が、自らの正しい行いを誇るファリサイ派の人よりも、神の目には正しい人だ」とされた話を記しています。

 当時の徴税人は「様々な不正に手を染めていた」とも言われ、多くの人の目には「正しい人」とは映らなかったことでしょうし、ファリサイ派の人は掟を忠実に守っていることから、多くの人から「正しい人」と見なされていたことでしょう。謙遜と傲慢。この二人の根本的な違いは何でしょうか。

 ファリサイ派の人の目は、自分に向けられています。「私が何をしたのか。私はどういう人間なのか…」。彼が語るのは、自分のことばかりで、自分の世界に閉じこもっている人です。それに対して徴税人は、その目を神に向けています。「自分がどういう人間なのか」というような判断をせず、すべて神に委ねています。つまり二人の違いは、「自らの存在を神に委ねているのか、委ねていないのか」にあります。

 パウロはテモテへの手紙に「私自身は、すでにいけにえとして献げられており」と記します。回心後のパウロは、人生の中でどれほど偉大なことを成し遂げたか分からないほどです。しかし彼にとっては、「自分のためではなく、すべてを神に委ねた結果」に過ぎません。

 すべてを神に委ねた者の祈りを神は聞き入れる、と、シラ書も記しています。神にすべてを委ねた人のことを「御旨に従って主に仕える人」とシラ書は記します。

 私たちには、単に「謙遜になること」だけを求められているのではありません。謙遜さは、神にすべてを委ねた結果です。求められているのは、神にすべてを委ねることであり、だからこそ御旨に従って主に従うことであり、自分自身をいけにえとして献げることであります。

 自分のためではなく、神が救いたいと望んでおられるすべての命に福音が届けられるように、神に身を委ね、すべてを尽くして福音を証しする者、となりたいと思います。

 教会は本日を「世界宣教の日」と定めています。

 教皇様は、世界宣教の日のメッセージのテーマを「あなたがたは私の証人となる」(使徒言行録1章8節)とされ、改めて、「キリストの弟子たちの共同体である教会には、キリストを証しし、世界を福音化する以外の使命はありません。教会のアイデンティティは『福音を説く』ということなのです」と強調。そのうえで、「宣教は、個別にではなく、教会共同体との交わりをもって、己の発意でではなく、共同で行うものです」とも記し、教会全体が福音宣教の使命を担っていることを思い起こさせておられます。

 さらに教皇様は「キリストの宣教者が遣わされるのは、自分のことを伝えるためでもなければ、己の説得力や管理の腕前を見せつけるためでもありません。この人たちは、最初の使徒たちのように、言葉と行いによってキリストを示し、喜びと率直さをもって、その福音をすべての人に告げるという、崇高な栄誉にあずかっているのです」とも記しておられます。

 教会には教皇庁宣教事業(Pontifical Mission Societies)があり、「ミッシオ」(Missio)とも呼ばれています。教皇様の管轄と調整の下で、全世界の宣教の促進に向けられたカトリック教会の世界的ネットワークであり、宣教地における活動を支援し続けています。世界宣教の日に当たり、自らの宣教者としての使命を思い起こし、教会共同体の宣教の業のためにも祈りましょう。

(編集「カトリック・あい」=文字として読みやすくするため、表記を一般に使われている当用漢字表記とし、句読点も付け直しました)

2022年10月22日

・「ロザリオの月ー暗闇から抜け出す光を求め、執拗に祈り続けよう」-菊地大司教の年間第29主日

2022年10月15日 (土)週刊大司教98回

2022_10_01_0021 現在、バンコクで開催されているアジア司教協議会連盟の総会に出席中です。総会に関しては、別途記事を掲載します。

 以下、本日午後6時配信の週刊大司教第98回、年間第29主日メッセージ原稿です。

【年間第29主日C(ビデオ配信メッセージ)2022年10月16日】

 10月はロザリオの月です。教皇レオ13世によって、10月は聖母マリアにささげられた「ロザリオの月」と定められました。

 そもそも10月7日のロザリオの聖母の記念日は、1571年のレパントの海戦でのオスマン・トルコ軍に対する勝利が「ロザリオの祈りによってもたらされた」とされていることに因んで定められています。歴史的背景が変わった現代社会にあっても、ロザリオは信仰を守り深めるための、ある意味、霊的な戦いの道具でもあります。

 教皇パウロ六世が1969年に発表された使徒的勧告「レクレンス・メンシス・オクトーベル」は、冒頭で、「諸民族の心と精神の和解によって最後には真の平和が世界に輝くよう、幸いなるおとめマリアの助けを願うために、十月にロザリオを唱えることを強く勧めます」と記しています。

 この勧告の中で教皇パウロ六世は、「神は私たちの心に、平和への熱い望みを与えてくださいました。神は私たちを、平和に向けて働くよう駆り立てます… 私たちが平和の賜物を求めてささげる祈りは、平和の構築に何物にも代えがたく貢献します… キリストの母であるマリア、福音書が「神から恵みをいただいた方」であると教えているマリアの比類ない執りなしに愛を込めて頼る以外に、私たちに何ができるでしょう」と記し、「執りなしの祈り」としてのロザリオの重要性を強調しています

 ロザリオの祈りは、聖母マリアと共にキリストを観想する祈りです。ルカ福音には、「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」と記されています。教皇ヨハネパウロ二世は「おとめマリアのロザリオ」に、「キリスト者の共同体は、ロザリオを唱えることによって、マリアの思い出と感想のまなざしに心をあわせる」と記します(11)。

わたしたちはロザリオの祈りを通じて、聖母マリアとともにキリストを思い起こし、聖母マリアからキリストを学び、聖母マリアとともにキリストの姿に似たものとなります。加えてわたしたちは、聖母マリアとともにキリストに願い求め、聖母マリアとともに、福音を告げしらせるものとなります。

 私たちの願い求める平和は、神の支配が確立され、その秩序が取り戻された状態です。長引くコロナ禍の中で「命の危機」という暗闇に取り残されている私たちは、さらに加えて、ウクライナやミャンマーをはじめ世界各地で続いている「命を危機にさらす暴力の支配」に立ち向かわなくてはなりません。そのためにも主イエスに最も近い存在である聖母の執りなしを強く求め続けたい、と思います。

 ルカ福音は、「気を落とさずに絶えず祈らなければならないこと」を教えるために、イエスが裁判官相手に正義の行使を求め続ける一人のやもめの話を記しています。その執拗な要求に、裁判官が降参してしまった様を記したあとに、「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、いつまでも放っておかれることがあろうか」というイエスの言葉が記されています。

 そうであるなら、私たちは暗闇から抜け出すための光を求めて、執拗に祈り続けましょう。

 この困難な状況に立ち向かう今だからこそ、神の母であり、教会の母であり、そして私たちの母である聖母マリアの取り次ぎによって、世界に、そして私たちの心と体に、神の秩序が確立し、平和が取り戻されるよう、共にいてくださる主イエスと歩みを共にしながら、命の与え主である御父に、徹底的に祈り続けましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2022年10月15日

・「アジアの民として共に歩み続けよう」ー菊地大司教、12日からのアジア司教協議会連盟創立50年記念総会を前に

2022年10月 8日 (土) 菊地大司教の週刊大司教第97回

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 10月12日から30日まで、タイのバンコクで、アジア司教協議会連盟(FABC)の総会が開催されます。2年前に創立50年を迎えている連盟ですが、記念の総会がコロナ禍で延期されており、やっと開催になりました。

 通常の総会では、それぞれの司教協議会から会長ともう一人程度の参加ですが、今回は50年の節目と言うこともあり、過去を振り返って将来への歩みを定めるために、多くの司教が参加します。日本からも6名の参加が予定されています。

 なお、FABCについて、カトリック新聞に書いた記事が、中央協のホームページにも転載されていますので、こちらのリンクからどうぞ。また英語ですが、FABCのホームページはこちらのリンクです。さらに今回の50周年総会のためのホームページはこちらです。

 総会の成功のために、参加する司教たちのために、お祈りいただけましたら幸いです。

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 ケルン教区からの訪問団は、すべての日程をこなして、10月5日に帰国されました。2024年にケルン教区と東京教区のパートナーシップ関係が70年となることから、これからの2年間ほどで、将来に向けたパートナーシップのあり方についての方向性を定め、それについてのメッセージを作成しようという話になりました。

 単に、援助金がドイツから日本に来たと言うだけではない、もう少し幅の広い交流、特に青年たちの交流などと、これまで以上に一緒になってのミャンマー支援などの強化を、ケルンの方々は考えておられるようです。今後、互いにチームを定めて、検討を深めたい、と考えています。(写真は、調布カルメル会修道院を訪れたケルンの訪問団)

以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第97回、年間第28主日のメッセージ原稿です。

【年間第28主日C(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第97回 2022年10月9日】

 ルカ福音は、重い皮膚病を患っていた十人の人が、イエスによって癒やされた話を記しています。十人はイエスの勧めに従って祭司のところへ行く途中で癒やされますが、その中の一人だけがイエスのもとに戻ってきます。イエスに感謝するために戻ってきたのは、ユダヤ人から見れば神への信仰に忠実ではないと見なされていたサマリア人だけでありました。

 それに対してルカ福音が記すイエスの言葉は、「神を賛美するために戻ってきた者は、他にいないのか」であって、受けた恵みに対して、神のもとに立ち返り、神を賛美するというその行為にこそ救いがあることを、「あなたの信仰が、あなたを救った」という言葉が示唆します。

 すなわち、「人間が抱える様々な困難が解決され、幸せが確立すること」に救いがあるのではなく、「受けた恵みを自覚しながら、感謝のうちに神と共にあること」にこそ救いがあるのだ、とイエスの言葉は教えています。

 神に感謝をささげ、神と共にいることによって良しと見なされたのは、「正統な信仰を守っている」と自負するユダヤ人ではなかった、という話は、「信仰を守る」とはどういうことなのかを、考えさせます。それは、信仰者の立ち位置が、「自分自身のところにある」のか、「神のところにある」のかの違いです。自分の幸せを優先する利己的な心を強く持つとき、私たちは神のもとには立っていません。そこに救いはあるでしょうか。

 パウロはテモテへの手紙に、「キリストと共に死んだのなら、キリスト共に生きるようになる。耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。」と記しています。ここでも「救い」とは、「自分自身の人間的な困難の解決にある」のではなく、「キリストと共にいることにある」と、パウロは指摘します。その上でパウロは、自分自身の苦しみは、他の人々が、「キリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るため」に耐え忍んでいるのだ、と強調します。パウロの立ち位置は自分ではなく神のもとにあり、だからこそパウロはイエスに倣って、他者の救いのために命を燃やし続けるのです。

 アジア各地の司教協議会の連盟組織であるFABC(アジア司教協議会連盟)の創立50年を記念して開催される総会が、10月12日から30日まで、バンコクで開催されます。日本を含めアジア各国から司教の代表が集まります。どうか会議の成功のために、お祈りください。

 FABCは、1970年に教皇パウロ六世がマニラを訪問された際に集まったアジアの司教たちの合意に基づいて誕生しました。第二バチカン公会議の教会憲章で示された司教の団体性や協働性と翻訳される「コレジアリタス」を具体化し、アジアにおける教会の存在を更に福音に沿って具体化するための組織として誕生しました。

 FABCはこの50年間、アジア全域において、三位一体の神をあかしし、イエスの福音を告げしらせるために、牧者である司教たちの交わりを通じて、福音宣教への共通理解を深めてきました。中でも、FABCは三つの対話、すなわち、「人々(特に貧しい人々)との対話」「諸宗教との対話」「多様な文化との対話」が、アジアでの宣教において共通する重要課題である、と指摘を続けてきました。今回の総会のテーマも、「アジアの民として、共に歩み続けよう」とされ、対話と連帯のうちに福音を具体的に生きる道を模索しようとしています。

 教皇ヨハネパウロ二世は、使徒的勧告「アジアの教会」に、「(アジアの様々な)宗教的価値は、イエス・キリストにおいて成就されることを待っているのです」(6)と記しています。私たちは、神のもとにしっかりと立ち位置を定め、すべての人の救いのために努力を続けたい、と思います。

(編集「カトリック・あい」)

2022年10月10日

・「共通善を目指し、生き方を見つめ直す回心が必要」ー菊地大司教、「すべての命を守る月間」の終わりに

2022年10月 1日 (土)週刊大司教第96回:年間第27主日

2022_09_21_00rca_0073 早いもので、今年もすでに終盤です。10月となりました。

 10月はロザリオの月です。教皇レオ13世によって、10月は聖母マリアにささげられた「ロザリオの月」と定められました。10月7日のロザリオの聖母の記念日は、1571年のレパントの海戦でのオスマン・トルコ軍に対する勝利が、ロザリオの祈りによってもたらされたとされていることに因んで定められています。

 歴史的背景が変わった現代社会にあっても、ロザリオは信仰を守り深めるための、ある意味、霊的な戦いの道具でもあります。現代社会にあっては、特に神の秩序の実現である平和の確立を願う私たちの思いを、ロザリオの祈りを通じて御父に届けたいと思います。一人でも、いつでも、またグループでも、10月にはロザリオの祈りを通じて聖母に取り次ぎを願うことを、心に留めましょう。

 ケルン教区の代表団が東京教区に滞在中です。長年にわたる両教区の「パートナーシップ」ですが、今回の訪問で、「パートナーシップ」という名称のふさわしいだけの関係が構築されているか、見直しをしたい、との提案が、代表団の担当者から表明されています。

 もちろんケルン教区という巨大な教区と、東京教区とでは、資金力は言うにおよばず、人的可能性でも大きな差がありますので、同じようなことはできませんが、単に「資金提供を受けてきた」という関係以上の絆を、どのように築き上げることができるのか、考えてみたいと思います。もちろん、両者で協力してきたミャンマーへの支援は、特に今のような状況下にあって、しっかりと継続していきたいと思います。

 以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第96回、年間第27主日メッセージ原稿です。

【年間第27主日C(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第96回 2022年10月2日】

 9月の初めからこの一か月、私たちは教皇フランシスコの回勅「ラウダート・シ」の精神に倣って、「すべての命を守る月間」を過ごしています。10月4日をもって今年の月間は終了します。「ラウダート・シ」に倣うということは、ともすれば、環境問題などの特定の課題に取り組むための啓発活動と考えられる嫌いがありますが、それ以上に、教皇フランシスコが呼びかけるように、これは回心への招きであり、「自然界を通して神の存在を感受するエコロジカルな霊性」の実践への招きです(今年の被造物を大切にする世界祈願日メッセージ)。

 教皇様は今年のメッセージにこう記しておられます。

 「私たちの過剰な消費主義の支配に、大地はうめき声を上げ、虐待と破壊に終止符を打つよう、私たちに懇願しています。ですから、叫びを上げているのはすべての被造物です。創造のわざにおいて、キリスト中心の対局にある『専制君主的な人間中心主義』に翻弄されることで、無数の種は死に絶え、それらによる神を讃える賛歌は永遠に失われてしまうのです」

 ルカ福音は、「務めに対して忠実で謙遜な僕」について語るイエスの言葉を記しています。なすべき務めを、すべて果たした時に、「私どもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」と言うことこそが、忠実な僕のあるべき姿だ、と語るイエスは、これを通じて、「私たちがそれぞれの与えられた召し出しに忠実に生きることが、信仰生活において重要」であることを示唆します。

 「ラウダート・シ」において教皇フランシスコは、「神との関り、隣人との関り、大地との関りによって、人間の生が成り立っている」と記しています(66項)。その上で、「私たちは、ずうずうしくも神に取って代わり、造られたものとしての限界を認めることを拒むことで、創造主と人類と全被造界の間の調和を乱しました」と指摘されました。私たちは与えられたそれぞれの召し出しに忠実に生きる謙遜な僕になっているでしょうか。

 教皇様はさらに、「私たちが神にかたどって創造され大地への支配権を与えられたことが『他の被造物への専横な抑圧的支配を正当化する』との見方は、断固、退けなければなりません」と記されます。私たちには、「被造界を破壊する横暴な支配者」ではなく、「被造界を世話し、保護し、見守り、保存する善き管理者」として、与えられた務めを忠実に、謙遜に果たすことが求められています。

 私たちは、「話せず、語れず、声を届けられない」被造物、特に貧しい人々の叫びに、耳を傾けるよう招かれています。教皇は今年のメッセージに「気候危機にさらされることで貧しい人々は、ますます激化し頻発する干ばつ、洪水、ハリケーン、熱波の、最も深刻な影響を受けています。さらに、先住民族の兄弟姉妹が叫びを上げています。収奪的な経済的利益追求の結果、彼らの祖先の土地は四方八方から侵略され荒廃し、『天へと向かう嘆きの叫び』を上げています」と記し、社会の中心部から忘れ去られた人たちの声に耳を傾けることの重要性を強調されています。

 私たちの周囲には、どのような声が響いているでしょうか。社会や多数の人々の圧力によって、押し潰されてしまっている声はないでしょうか。「より豊かに、より容易に自己完成ができる」ように、共通善の実現を目指して、生き方を見つめ直す回心が必要です(「現代世界憲章」26項)

2022年10月1日

・「移民・難民の人々に心の扉を開こう」菊地大司教、「世界難民移住移動者の日」に

2022年9月24日 (土) 週刊大司教第95回:年間第26主日

 9月最後の主日は、世界難民移住移動者の日と定められています。中央協議会のホームページには、次のように記されています。

 「世界難民移住移動者の日は、各小教区とカトリック施設が、国籍を超えた神の国を求めて、真の信仰共同体を築き、全世界の人々と「共に生きる」決意を新たにする日です。日本の教会でこの分野の活動を受け持つ日本カトリック難民移住移動者委員会は、日本と全世界にある協力グループとともに、活動の推進、連絡、協力、支援、情報の交流等を行っています。そのために祈りと献金がささげられます」

 教皇様はこの日にあたりメッセージを発表されています。今年のテーマは、「移民や難民と共に未来を作る」とされています。

 メッセージの中で、教皇様は次のように呼びかけておられます。

「誰一人、排除されるべきではありません。神の計画は本質的にすべてを包み込むもので、実存的周縁部の住人を中心に据えるのです。その中には、多くの移民や難民、避難民、人身取引の犠牲者が含まれます。神の国の建設はこの人たちと共に行うものです。この人たちなしでは、神が望むみ国には、ならないからです。最も立場の弱い人たちを含めることは、完全に神の国の市民権を得るための必要条件です」

 その上で、教皇様は次のように呼びかけて、祈りと共にメッセージを締めくくっておられます。

 「親愛なる兄弟姉妹の皆さん、とくに若者の皆さん。もし天の父と協力して未来を築きたいのであれば、それを、難民や移民の兄弟姉妹とともに行いましょう。今日築きましょう。未来は今日から、そして私たち一人ひとりから始まるからです」

 現在のウクライナの情勢を見るにつけ、難民は遠い世界の出来事ではなくて、世界に生きるすべての人の現実です。そして様々な理由から移動し移住する多くの方も、一人ひとりが神から愛される命をいただいた大切な存在です。すべての命が守られるように祈るためにも、現実に起こっていることを、まず知ることから始めましょう。

 日本の司教団も、個別の委員会の課題としてではなく、司教全員の総意として、今ひとつの問題について政府にお願いをしています。多くの課題が存在する中で、小さな一つの課題ですが、いのちを守るための大切な課題の一つだと考えています。こちらのリンクです。司教全員のメッセージビデオもありますので、一度ご覧いただければ幸いです。(写真はウガンダ北部にあった国内避難民キャンプで=2005年)

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 以下、24日午後6時配信の、週刊大司教第95回、年間第26主日メッセージ原稿です。

【年間第26主日C 2022年9月25日】

 「現在の世界情勢は、不安定や危機感を与え、それが集団的利己主義の温床となります」

 2015年に発表された教皇フランシスコの回勅「ラウダート・シ」の205項に、こう記されています。そしてまさしくのこ数年間、感染症による先の見えない不安感は、世界中を「集団的利己主義」の渦に巻き込みました。

 教皇は続けて、こう記します。「人は、自己中心的に、また自己完結的になる時、貪欲さを募らせます。心が空虚であればあるほど、購買と所有と消費の対象を必要とします… こうした地平においては、共通善に対する真正な感覚もなくなります」

 ルカ福音が記す金持ちとラザロの話には、まさしく世界が自分を中心にして回っているかのように考え振る舞う金持ちの姿が描かれています。利己主義に捕らえられた心には、助けを求めている人の存在する場所すらありません。死後の苦しみの中で神の裁きに直面する時でさえ、金持ちの心は自分のことしか考えず、それを象徴するように、この期におよんでもラザロを自分の目的のために利用しようとします。

 2016年5月18日の一般謁見で、教皇様はこの話を取り上げ、こう述べておられます。

 「ラザロは、あらゆる時代の貧しい人々の叫びを表わすと同時に、莫大な富と資源がごく少数の人の手に握られている世界の矛盾をも示す良い例です」。

 その上で教皇様は、「神の私たちに対する憐みは、私たちの隣人に対する憐みと結びついています。それが欠けていたり、私たちの心の中に無ければ、神は私たちの心に入ることはできません。もし、自分の心の扉を貧しい人々に向けて押し開かなければ、扉は閉ざされたままです。神への扉も閉ざされたままです。それは恐ろしいことです」と指摘されます。心の扉を開いて、出向いていく教会であることが、集団的利己主義から脱却する道であることが示唆されています。

 教皇様が指摘されるように、世界における貧富の格差の問題は「先進諸国や社会の富裕層では、浪費と廃棄の習慣がこれまでにないレベルに達しており、そうした消費レベルの維持は不可能であることを私たちは皆知って」いるにもかかわらず、全く解決されていません。扉は閉ざされたままです。

 9月の最後の主日は「世界難民移住移動者の日」です。教皇様は今年のテーマを「移民や難民と共に未来を作る」とされました。教皇様は今年のメッセージの終わりにイザヤ書を引いて、「新しいエルサレムの住人は、都の門をつねに大きく開いておき、異邦人が贈り物を携えて入ってこられるようにする」と記しています。私たちは、扉を開くことを心に留めましょう。

 この一か月、10月4日まで、私たちは回勅「ラウダート・シ」の精神に倣って「すべての命を守る月間」を過ごしています。「ラウダート・シ」に倣う、ということは、ともすれば、環境問題などの特定の課題に取り組むための啓発活動と考えられる嫌いがありますが、教皇フランシスコの呼びかけは個別の課題をはるかに超え、私たちの存在の有り様全体にに対して、回心を呼びかけています。

 私たちは扉を閉ざして籠もってしまうのではなく、「扉を開いて外へ出向いて行き、共通善の実現のために汗を流す教会」でありたいと思います。

(編集「カトリック・あい」=文章として読みやすく、意味が分かりやすくするために、原則として「当用漢字表記」にしました)

2022年9月24日

・「神の愛と慈しみから誰ひとり排除されない世界へ」菊地大司教・年間第25主日

2022年9月17日 (土)週刊大司教第94回:年間第25主日

 9月も半ばを過ぎました。

 教皇様は、先日カザフスタンに出かけられ、無事にローマに戻られました。

 教皇様は、同国首都ヌルスルタンで、諸宗教のリーダーを招き、9月14日から2日間の日程で開かれた「第7回世界伝統宗教指導者会議」に出席され、バチカンニュースによれば、共同宣言を受けてのスピーチで、「今回の共同宣言にある『過激主義、原理主義、テロリズム、その他、憎悪・暴力・戦争をあおるすべてのもの・動機・目的は、真の宗教精神と一切の関係がないものであり、断固として退けられるものである』という言葉を繰り返された」と報道されています。真の宗教精神が今、問われています。

 なおカザフスタンを含む中央アジア諸国の司教団は、つい先日から一つの司教協議会を構成しており、アジア司教協議会連盟(FABC)のメンバーとして、アジアの教会の一員です。『アジア』の多様性を物語る地域の一つでもあります。

 9月17日午後2時から、麹町教会でイエズス会の司祭叙階式が執り行われ、二人の司祭が誕生しました。ヨアキム・グェン・ミン・トァン神父様、ペトロ・カニジオ越智直樹神父様。叙階おめでとうございます。

 また、9月18日日曜日には、高円寺教会で新しい信徒会館と司祭館の祝別式、並びに堅信式が行われます。高円寺教会の司祭館は数年前に火事で失われ、その後コロナ禍で再建が遅れていましたが、完成しました。また、明日以降に報告します。

 以下、本日午後6時に配信した、週刊大司教第94回、年間第25主日のメッセージ原稿です。

【年間第25主日C(ビデオ配信メッセージ)2022年9月18日】

 パウロはテモテへの手紙に、「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」と記し、自ら創造されたすべての命を包み込もうとする、神の愛と慈しみを語ります。

 ルカ福音は、「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である」というイエスの言葉を記します。

 私たちは、「神の愛と慈しみから誰ひとり忘れ去られることなく、また誰ひとり排除されることのない世界」を実現することを目指しています。神の愛はすべての人に向けられているにもかかわらず、それを妨害しようとするのは、私たちの不忠実さであります。私たちは「神の愛と慈しみの前に立ちはだかる様々な障壁を取り除く」という大きな目的を達成するために、目の前の小さな事への取り組みを忠実に果たしていかねばなりません。

 教会は、9月1日から10月4日までを「被造物の季節」と定め、総合的エコロジーの観点から、「日々の生活の中で小さな行動を忠実に積み重ね、私たちに神から与えられた共通の家を大切にする」という目標を達成するための啓発の時としています。

 日本の教会も、2019年の教皇訪日のメッセージに触発されて、同じ期間を「すべての命を守る月間」と定め、神からの呼びかけに忠実であるように、と啓発活動を行っています。今年の7月の司教総会では、この取り組みを更に強化するために、司教協議会に「ラウダート・シ・デスク」を設置することも決めています。

 2020年初め頃から世界中を巻き込んでいる感染症による命の危機は、目に見えない小さなウイルスによってもたらされました。私たちは、人間の知恵と知識に限界があることを思い知らされています。しかし往々にして、私たちはその限界を忘れ、あたかも人類がこの世界の支配者であるかのように振るまい続けてきました。その結果が、教皇様が指摘されるように、共通の家である地球の破壊です。

 教皇フランシスコは回勅「ラウダート・シ ー共に暮らす家を大切に」を発表され、すべての被造物は互いにすべてつながっているがために、互いの調和のうちに生きていく道を探ることの重要性を強調されました。これを教皇様は「総合的エコロジー」という言葉で表されます。その意味は「さまざまなことが、本質においてそれぞれつながり合い、影響し合っている」ことです。そこから教皇様は「環境問題は孤立した分野ではなく、社会の問題、人間の問題、そして根本的に神との関わりの中にある」と指摘されます。

 その上で教皇様は、「この世界で私たちは何のために生きるのか、私たちはなぜここにいるのか、わたしたちの働きとあらゆる取り組みの目標はいかなるものか、私たちは地球から何を望まれているのか」という問いかけに、忠実に答える姿勢を求めます。

 教会は今、シノドスの道を歩み続けています。神の民として、共に歩もうとしています。私たちはそれぞれの生きている現実の中で、小さな事に忠実に取り組む姿勢を忘れることなく、神が与えてくださった大地の叫びと、社会から忘れられ排除されている人たちの叫びに耳を傾け、それを神の視点で識別し、具体的な行動を積み重ねていきたいと思います。

 教皇フランシスコが東京ドームミサで呼びかけたように、「キリスト者の共同体として、私たちは、すべての命を守り、知恵と勇気をもって証し」する忠実な僕でありたいと思います。

(編集「カトリック・あい」)

2022年9月17日

・「私たちの立ち位置は『常識』か『神の心理』か」菊地大司教の年間第24主日メッセージ

週刊大司教第93回:年間第24主日 

2019_06_img_0249 教区カテキスタの養成講座の、今年度のコースが終わりを迎え、10日午後、最終回の講話(私が担当)、修了式と任命・派遣のミサがカテドラルで行われました。これについては、別途また別の記事でお知らせします。新しくカテキスタとして任命された方々には、今後の活躍を期待します。共に歩む教会共同体を、一緒に育てて参りましょう。(写真はアシジの聖フランシスコ大聖堂)

 毎年9月14日と15日には、秋田の聖体奉仕会修道院で、聖母マリアと共に祈る秋田の聖母の日が、2014年から行われてきました。残念ながら、コロナ禍のために中止となってきました。今年こそは再開できるかと期待して、いつもの信徒による旅行社パラダイスさんと巡礼を組もうと企画していましたが、今年も中止となってしまいました。

 「もう一年だけの辛抱」であることを祈ります。来年こそは。祈りの雰囲気に満ちあふれた秋田の地で、聖母を通じて主イエスへと導かれるために、共にロザリオの祈りを捧げることができる日の再開を,祈り続けます。聖体奉仕会では、今年の秋田の聖母の日のために、20分程度のメッセージビデオを用意しているようです。14日には公開の予定と聞いていますので、またお知らせします。

 9月10日は、日本205福者殉教者の記念日です。そしてこの日は「元和の大殉教」の日でもあります。今年でちょうど400年となり、長崎教区では祈念の祈りがささげられています。長崎教区のお知らせには、次のように記されています。

「毎年9月10日は日本205福者殉教者の記念日です。1622(元和8)年9月10日に長崎西坂の丘にて55名(うち52名は福者)が火刑・斬首され、『元和の大殉教』と呼ばれています。今年で400年目を迎えます。長崎の地は日本二十六聖人の殉教をはじめ、多くのキリシタンが殉教した土地です。彼らはその信仰をなによりの宝とし、死を前に恨み言ではなく、神への賛美と感謝のうちに、命の限り神の愛を人々に証ししました」

 改めて、日本の殉教者の信仰における勇気に倣い、私たちも現代社会にあって福音を証しする信仰を持つことができるよう、その取り次ぎを祈りましょう。

 以下、本日午後時配信、週刊大司教第93回、年間第24主日メッセージ原稿です。

【年間第24主日C(ビデオ配信メッセージ)2022年9月11日】

 出エジプト記は、モーセが不在の間、不信に陥ったイスラエルの民が、金の雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげた様を記しています。民のこの行動は神の怒りを招きますが、モーセはなんとか神の怒りをなだめようと努めます。出エジプトの出来事を体験したイスラエルの民でさえ、先行きの不安に駆られ不信感が増大したときに、自分の心を落ち着けてくれる存在に頼ってしまう。人間の心の弱さを象徴する話です。

 私たちは、基本的に変革よりも安定を望みます。自分の心を落ち着けてくれる道を求めようとします。その思いが募るとき、結果として手に入れるのは、自分の願いを満たしてくれる答えであり、往々にしてその答えは、真理とはほど遠い道であることが、この物語から示唆されます。

 真理の道は神が用意された道であるにもかかわらず、不安や不信、または利己的な思いは、真理の道から私たちの目をそらせ、自分が思い描いた欺瞞の道へと誘います。そこに神の命はありません。

 教皇フランシスコは、使徒的勧告「福音の喜び」の中で、「出向いていく」教会であることを求めながら、教会共同体が福音宣教のために「司牧的な回心が要請する構造改革」に取り組むように求めています(27項)。その上で、「宣教を中心とした司牧では、『いつもこうしてきた』という安易な司牧基準を捨てなければなりません(33項)」と記し、自分たちが経験に基づいて思い描いている理想に固執することなく、「常に聖霊の働きに心を開き真理の道を識別し続けるように」と求めています。

 ルカ福音は、99匹の羊を野原に残してでさえも、見失った一匹を探しに出かける「善い牧者」の姿を記しています。

 このたとえ話の導入では、やはり過去のしがらみや倫理的基準に捕らわれたファリサイ派や律法学者が、罪人と食事を共にするイエスを批判する姿が記されています。自分たちの安全地帯に留まろうとする選択は、真理からはほど遠いことが示唆されています。

 そしてイエスは、「1対99の比較」という選択肢を持ち出し、「1を諦めても99を確保する」という常識的な判断ではなく、「神の判断は、一人も失われることなくすべての命を徹底的に愛し守り救うのだ」という、神の真理の道を明確に示します。「常識」と「神の真理」。私たちの立ち位置は、どちら側にあるのでしょうか。

 2016年5月4日の一般謁見で、教皇様は「私たちは皆、見失った小羊を肩に担いだ良い羊飼いの姿をよく知っています。その姿は、罪人に対するイエスの心配りと、誰かが居なくなっても決して諦めずに探してくださる神の慈しみを常に表わしています」と述べています。

その上で、「だれも何も救いのみ旨から神を引き離すことはできません。神は現代の使い捨て文化とは無関係です。まったく関係ありません。神はだれも見捨てません。神は皆を一人ひとり愛し、探しておられます。神は『人を見捨てる』という言葉を知りません。なぜなら、神は完全な愛であり、完全な慈しみだからです」と指摘されています。

 更に教皇様は「自分が『正しい』と思い込み、自分自身の中に、自分の小さな共同体の中に、そして小教区の中に閉じ籠ってはなりません。それは、他者との出会いへと私たちを導く『宣教への熱意』が欠けているときに起こります」とも指摘されます。

 「常識」と「神の真理」。私たちの立ち位置は、どちら側にあるのでしょうか。

(編集「かとりっく・あい」)

2022年9月10日

・「神の愛を証しするため、どのような十字架を背負うのか」菊地大司教、被造物を大切にする世界祈願日に

2022年9月 3日 (土)「週刊大司教」第92回:年間第23主日

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 9月の最初の主日は、被造物を大切にする世界祈願日です。

 9月1日から、アシジの聖フランシスコの祝日である10月4日までは、「被造物の季節」と定められており、カトリック教会だけでなくキリスト教諸教派と共に、わたしたちが「ともに暮らす家」のために祈り、またそれを守るための啓発と行動を呼びかけています。このエキュメニカルな活動に参加するよう教皇庁総合人間開発省が毎年呼びかけを行っていますが、日本の教会は、2019年の教皇訪日に触発されて、この期間を「すべての命を守るための月間」と命名し、さまざまな取り組みを行ってきました。

 今年も教皇様のメッセージが発表されています。こちらのリンクです。今年の「被造物の季節」のテーマは「被造物の声に耳を傾ける」で、詩編19編2節~5節から取られています。

 東京教区のホームページでも特設コーナーを開設しました。こちらのリンクです

 またカリタスジャパンでも、特設コーナーを設けています。こちらのリンクです。特にカリタスジャパンのコーナーでは、この期間、毎日の黙想と行動の指針のための言葉が準備されていますから、是非とも毎日の異なる呼びかけに耳を傾けていただければと思います。

 この期間のために準備されている「すべての命を守るためのキリスト者の祈り」は、こちらのリンクからPDFでカード印刷ができるようになっていますが、全文を以下に引用します。

 宇宙万物の造り主である神よ、あなたはお造りになったすべてのものを ご自分の優しさで包んでくださいます。

 私たちが傷つけてしまった地球と、この世界で見捨てられ、忘れ去られた人々の叫びに 気づくことができるよう、一人ひとりの心を照らしてください。

 無関心を遠ざけ、貧しい人や弱い人を支え、ともに暮らす家である地球を大切にできるよう、私たちの役割を示してください。

 すべての命を守るため、よりよい未来を開くために、聖霊の力と光で私たちをとらえ、あなたの愛の道具として遣わしてください。

 すべての被造物とともに あなたを賛美することができますように。

 私たちの主イエス・キリストによって。 アーメン。 (2020年5月8日 日本カトリック司教協議会認可)

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 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第92回、年間第二十三主日のメッセージ原稿です。

【年間第23主日C(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第92回 2022年9月4日】

 ルカ福音は、イエスの弟子となる条件として、「自分の十字架を背負って付いてくる者」であれと記します。同時に、「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎む」ことを不可欠であるとも記します。一体これは何を意味しているのでしょうか。

 一つのヒントは、パウロのフィレモンへの手紙に記されています。この短い書簡で、パウロはコロサイの裕福な信徒であるフィレモンに、彼の元から逃げてきて、その後洗礼を受けた奴隷であったオネシモを、一人のキリスト者としての兄弟として送り返すことを記しています。当時の常識の枠組みの中で、自分の奴隷であった人物を兄弟として受け入れるフィレモンの行動は、他の人たちにとって、この世の常識をはるかに超える大きな意味を持つ愛の証しの行動となったことでしょう。

 パウロは第一コリントの1章17節で十字架の意味を、神ご自身によるすべてを賭した愛のあかしの目に見える行いそのものであると記します。この世の知恵に頼って愛をあかしするのではなく、全身全霊を賭して神の愛を証ししたイエス。それこそが十字架の持つ意味であることをパウロは強調します。

 したがって、このルカ福音における十字架も、単に苦行をしろといっているのではありません。この世で生きていくために大切だと思っていること、すなわち人間の知恵が作り上げた常識に捕らわれるのではなく、そこから離れ、自らの全身全霊を賭して、神の愛をあかしするための行動にでるようにと、イエスは弟子に求めておられます。

 その一つの道として、神が私たち人類に管理を任されているすべての被造物を守る行動が、過去の強欲な搾取に別れを告げて、神の愛に生きる具体的なあかしになるとして、教皇様は9月1日を被造物を大切にする世界祈願日と定められました。日本の教会では、9月の最初の主日に祝います。教皇フランシスコは、回勅「ラウダート・シ」を発表され、教会がエコロジーの課題に真摯に取り組むことの大切さを強調されました。

 教皇様が強調されるエコロジーへの配慮とは、単に「気候変動に対処しよう」とか、「温暖化を食い止めよう」とかいう、単独の課題にとどまってはいません。「ラウダート・シ」の副題として示されているように、課題は「ともに暮らす家を大切に」することであり、究極的には、「この世界で私たちは何のために生きるのか、私たちはなぜここにいるのか、私たちの働きとあらゆる取り組みの目標はいかなるものか、私たちは地球から何を望まれているのか、といった問い」(160)に真摯に向き合い、社会全体の進む道を見つめ直す、回心が求められています。

 教会は、アシジのフランシスコの祝日である10月4日までを「被造物の季節」としており、日本の教会もこの期間に様々な啓発活動を行います。教皇様が定めた今年のテーマは、詩篇19編から取られた「被造物の声に耳を傾ける」とされ、メッセージが発表されています。

 その中で教皇様は、「被造物が上げる苦い叫びは、母なる大地の叫びであり、生態系から消えゆく多くの生物の叫び、また、気候危機の影響を最も強く受けている貧しい人々の叫び、先祖からの土地を経済的利益のために搾取される先住民たちの叫び、そして地球のエコシステムの崩壊を食い止めるために可能な限りの努力を望む若者たちの叫びでもある」と記し、そのためには個人的な回心にとどまらず、共同体の回心が必要だと指摘されています。

 神の愛を証しするために、いまどのような十字架を背負って歩もうとしているでしょうか。

2022年9月3日

・「すべての人が等しく神の国に招き入れられるように」菊地大司教の年間第22主日メッセージ

2022年8月27日 (土)週刊大司教第91回:年間第22主日

 8月も間もなく終わりに近づきました。毎日不安定な天気ですが、今年は残暑は長く続くでしょうか。

 現在の感染状況はピークを越えたようにも思われますが、毎回「波」が押し寄せる度に新たな指摘が専門家からはあり、なかなか気が抜けない時間が続いています。これだけ多くの人が気をつけていても検査陽性になったり発症したりしていますので、教区内の司祭の感染も広がり、いくつかの小教区では、そのためにミサができなくなっているところもあります。

 できる限りお手伝いできる司祭を探してはいますが、それもなかなか難しい状況が続いています。いましばらくは、皆様ご理解のうえ、なんとか乗り越える努力を継続するようお願いいたします。

 全国に目を向けると、私自身も5月末に感染しましたが、札幌、さいたま、名古屋の司教様方が検査陽性になった、との報告を受けています。幸いなことに症状は軽いと聞いています。このような状況の中ではできることは限られていますので、教区としては、基本を忠実に守って、教会活動を慎重に継続する道を選択しています。どうかこれまで続けてきた基本的な感染対策を今一度心に留め、教会の活動を続けてくださるようにお願いいたします。

 以下、本日午後6時配信の週刊大司教第91回、年間第22主日メッセージの原稿です。

【年間第22主日C(ビデオ配信メッセージ)2022年8月28日】

 「人間は、『余すことなく自分自身を与えない限り』、自己実現も成長もなく、充足も得られないように造られています」(回勅「兄弟の皆さん」87項)ー教皇フランシスコは、このように語られています。その上で教皇は、「命があるのは、絆、交わり、兄弟愛のあるところです… 自分は自分にのみ帰属し、孤島のように生きているのだ、とうぬぼれるなら、そこに命はありません。そうした姿勢には、死がはびこっています」と述べておられます。

 ルカ福音は、「婚宴に招待されたら、上席についてはならない」というイエスの教えを記しています。人間関係において謙遜さが重要だ、とするこの話がここで終わっていたら、”マナーを教える話”に留まったのかも知れません。しかしこのあとにルカ福音は、「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい」と記しています。

 宴席に招かれる人と招かれない人の対比は、ここで意図的に持ち出されているとしか思えません。それはこの話が、処世術やマナーを語っているのではなく、「『神の国に招かれる』とは一体どういう意味であるのか」を説き明かしているからに他なりません。

 すなわち、上席に着こうとする人が象徴するのは、神の国に招かれるのは、「自分が勝ち得た権利の行使」ではなく、徹頭徹尾、「神からの恵み」でしかあり得ない事実であります。そして、すべての命を神が愛おしく思われているからこそ、その招きからは、誰ひとりとして忘れ去られることはないと、その続きの話が示唆します。

 その中にあって、天の国で豊かに報いを受けるためには、この社会の現実の中で、余すことなく自分自身を与え、互いの絆、交わり、兄弟愛を深めなくてはならないことが示され、それに対してあたかも自分が勝ち得た権利の行使のように高慢に振る舞い、隣人への視点を失ったところには命がないことが示されています。

 現代社会の現実は、排除と排斥に軸足を置き、持てる者と持たない者との格差が広がり続け、持たない者はその存在さえ忘れ去られた、と教皇フランシスコはたびたび指摘してきました。

 第二バチカン公会議の現代世界憲章は「地上の富は万人のためにある」という原則を示します(69 項)。そこにはこう記されています。

 「神は、地とそこにあるあらゆる物を、すべての人、すべての民の使用に供したのであり、したがって造られた富は、愛を伴う正義に導かれて、公正にすべての人に行き渡るはずのものである。・・・それゆえ人間は、富の使用に際して、自分が正当に所有している富も単に自分のものとしてだけでなく、共同のもの、すなわち『富が自分だけでなく他人にも役立ちうる』という意味において共同のものである、と考えなければならない」

 教皇フランシスコはこれを受けて、「兄弟の皆さん」にこう記しておられます。

 「人は皆、同じ尊厳をもって、この地球に生まれ・・・肌の色、宗教、能力、出生地、居住地、そのほか多くのことの違いを、重視したり、皆の権利を損なって一部の人の特権を正当化することに利用してはなりません(118 項)」。

 神ご自身がそうされるのですから、私たちも主の僕として、誰も忘れることなく、すべての人を等しく神の国に招き入れるよう努めましょう。

2022年8月27日

・「私たち一人一人が”福音宣教者”だ」FABC50周年総会を前にー年間第21日主日の菊地大司教メッセージ

2022年8月20日 (土) 週刊大司教第90回:年間第21主日

Fabc-general-conference-logo 8月も後半に入り、多少の涼しさを感じるようになってきました。

 東京都内の感染状況は厳しいままで、この数日は、司祭の中にも検査陽性となり、軽症ですが発症された方も少なくありません。現在、教区として主日にミサに与る義務は免除していませんが、これは条件がついているので、健康について心配がある場合は「免除」と考えてください。

 アジア各地の司教協議会の連盟組織であるFABC(アジア司教協議会連盟)は、1970年に教皇パウロ六世がマニラを訪問された際に集まった司教たちの話し合いで、誕生した組織です。司教協議会が各教区の上部組織ではないように、この連盟も各司教協議会の上部組織ではありませんが、第二バチカン公会議の教会憲章で示された司教の「団体性」や「協働性」と翻訳される「コレジアリタス」を具体化し、アジアの教会の意味を更に具体化するための組織として誕生しました。

 2020年がその50周年でした。2020年には50周年を記念する総会が予定されていましたが、コロナ禍のため開催が延期となり、結局今年の10月に、FABC50と銘打って、記念の総会がバンコクで開催されることになりました。FABC50のホームページがありますので、参照ください。(上がFABC50のロゴです)テーマが、「アジアの民として、ともに歩み続けよう」となっています。

 今回の総会のための祈りやテーマソングが準備されていますが、10月に間に合うように、祈りに関しては翻訳を進めています。

 この総会を始めるにあたり、現在のシノドスの歩みに触発され、実行委員会は、10月の総会本番に先立って、総会開始のための典礼を、来る8月22日月曜日に行うことになりました。バンコクで行われ、教皇様からのメッセージを含め、様々な方のメッセージと、テーマソングの披露など、ネットで中継される予定です。22日月曜日の日本時間午後1時開始です。この行事中継のYoutubeリンクはこちらです。またはFacebookのリンクはこちらです。ご覧いただければ幸いです。

 なお私はこのFABCの事務局長を務めていますので10月の会議には参加しますが、現在の感染症の状況などに鑑み、8月22日の開始のための典礼は、現地ではなくオンラインで参加します。

 以下、本日午後6時配信の週刊大司教第90回、年間第21主日のメッセージ原稿です。

【年間第21主日C(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第90回 2022年8月21日】

 パウロ6世が第二バチカン公会議閉幕から10年となる1975年、大聖年に発表された使徒的勧告「福音宣教」は、現代社会にあって福音に生き、福音を証ししようとする私たちにとって、今でも重要な道しるべとなっています。

 教会が福音を告げ知らせる必要性を、教皇パウロ6世は、「教会も目の前に、福音を必要とし、それを受ける権利を持っている無数の人々を見ています。なぜなら、『神は、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられる』からです」(57項)と記しています。

 その上で教皇は、「たとえ私たちが福音を宣べ伝えなくても、人間は神の憐みによって、何らかの方法で救われる可能性があります(80 項)」とまで記しています。

 「キリストの苦しみと死は、いかにキリストの人性が、すべての人の救いを望まれる神の愛の自由で完全な道具であるかを示して」いると、カテキズムの要約に記されています(119項)。

 神はすべての人が救われるのを望まれているのは確実であり、ご自分が賜物として与えられた全ての命を愛おしく思われる神は、その救いが全ての人に及ぶことを望まれています。

 だからといって、私たちがなにもしないで、それどころか自分勝手に生きていたのであれば、果たしてそこに救いはあるのだろうかと、今日のルカ福音は問いかけています。

 イエスは、「救われる者は少ないのでしょうか」という問いに、直接には答えていません。なぜならば、救われるはずの者は、全ての人だからです。しかしその「全て」を、「少ない」者とするのは、神の側ではなくて人間の側の勝手であることを、「狭い戸口から入るように努めなさい」というイエスの言葉が示唆しています。

 それに続く話で常に目覚めて準備をしている必要性が語られていますが、ここで重要なのは、救われるはずの私たちが、いかにしてそれを「少ない者」としないように、常に努力をしているのかどうか、であります。

 先ほどの「福音宣教」におけるパウロ6世の言葉には、続きがあります。

 「しかし、もし私たちが、怠りや恐れ、また恥あるいは間違った説などによって、福音を述べることを怠るならば、果たして私たちは救われるでしょうか(80 項)」

 この世における狭い戸口は、私たちが福音の証し人となることをためらわせるような、様々な誘惑のなせるところであります。福音を告げ知らせることへの怠り、それによってどういう反応があるのか見通せない不安による恐れ、社会全般を支配する価値観の中で、それとは異なる価値観を生きる事への恥ずかしさ、真理とかけ離れた説による誘惑。「こちらにこそ真理がある」「こちらこそ正しい道だ」という主張には、時として私たちを惑わせ、イエスの福音から引き離す誘惑の力が潜んでいます。

 パウロ6世の「福音宣教」の続きには、教皇の願いがこう記されています。

 「願わくば、現代の人々が、悲しみに沈んだ元気のない福音宣教者、忍耐を欠き不安に駆られている福音宣教者からではなく、すでにキリストの喜びを受け取り、その熱意によって生活が明々と輝いている福音宣教者、神の国が宣べ伝えられ、教会が世界のただ中に建設されるために、喜んで命を捧げる福音宣教者から福音を受け取りますように」

 イエスに従うと決めた私たち一人ひとりが、その福音宣教者です。

2022年8月20日

・「世に投じられた聖霊の炎が燃えさかるように」菊地大司教の年間第20主日メッセージ

2022年8月13日 (土) 週刊大司教第89回:年間第20主日

2015_06_02img_8151-2 台風が接近する天候の不安定な週末となりました。東北をはじめ各地で大雨の被害が続出しています。被害に遭われた皆様に心からお見舞い申しあげると共に、この週末もまた充分に気をつけられますように、皆様の安全をお祈りいたします。

 旧統一協会の事が、大きく取り上げられています。日本のカトリック司教協議会は、いわゆる霊感商法の被害などが大きな社会問題となり、またカトリック教会内での混乱も見られた1985年に、「世界基督教統一神霊協会に関する声明」を発表しており、その内容は現在も変わりません。

 この声明では教えが全く異なっていることを指摘し、関連のいかなる運動や会合にも参加しないようにと、カトリックの信者に呼びかけています。また2008年の情報ハンドブックの特集でも、詳しく取り上げていますので、ご一読ください。

 このような状況にあって、私たちの信仰は、神からの賜物である人の命を生かす信仰であって、人の命を見捨てたり、排除したり、暴力的に奪う信仰ではないこと、さらには社会の共通善の実現を目指す信仰であることを、改めて心に留めたいと思います。

 (なお「共通善」とは、第二バチカン公会議の現代世界憲章26項に「集団と個々の成員とが、より豊かに、より容易に自己完成を達成できるような社会生活の諸条件の総体である」と記されています)

 8月14日は年間第20主日、その翌日15日は聖母被昇天の祝日です。聖母被昇天の祝日は、関口教会で午前10時と午後6時のミサがささげられる予定ですが、午後6時、夕方のミサが、大司教司式ミサとなります。

 以下、「週刊大司教」第89回、年間第20主日メッセージ原稿です。

【年間第20主日C(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第89回 2022年8月14日】

 ルカ福音は、「私が来たのは、地上に火を投ずるためである」とイエスが述べた言葉を記しています。しかし同時にイエスは、「自らの十字架での受難と死と復活を経なければ、その火が燃えさかることはない」とも述べています。

 このことから、「地上に投じられる火」は、「聖霊の火」を示唆する言葉であろうと推測されます。もちろん聖霊に導かれて、神の福音が燃えさかる火のように広がっていくことも、示唆しています。

 使徒言行録に記された聖霊降臨の出来事は、騒々しくて落ち着かない出来事でありました。粛々と進むのではなく、周囲の人たちが驚いて見物に来るような、騒々しい出来事です。聖霊の働きがあるところには、騒々しさがあります。なにぶん火が燃えさかるのですから、落ち着いているはずがありません。聖霊が豊かに働くところは、騒々しくて落ち着かないのです。

 ルカ福音は、「対立と分断をもたらす」というイエスの言葉を記します。これこそ落ち着かない言葉です。感染症の不安の中で戦争まで始まり、様々な暴力が支配する社会は、まさしく対立と分断の社会であり、現実は教会が主張し続ける「支え合いと連帯の社会」の対極にあります。一体これがイエスがもたらす現実なのでしょうか。

 もちろんイエスの言葉は、対立や分断を推奨しているわけではありません。イエスの真意は、福音の価値観を前面に掲げ、「聖霊の燃えさかる炎を広げようとするならば、この世を支配する価値観と対立する」という指摘です。

 ヘブライ人への手紙でパウロは、この世の迫害に負けることなく、受難と死を耐え忍んだイエスの模範に倣い、「自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こう」と呼びかけます。

 日本の教会は、8月15日の聖母被昇天の祝日までを平和旬間としています。コロナ禍でまだ制約がありますが、各地で平和を求める行動が繰り広げられています。

 私たちの行動は、この世界に神の秩序を実現させ、福音の価値観を生きる社会を実現し、賜物であるすべて命が、その始めから終わりまで、尊重され、守られる社会を実現しよう、とする行動です。あたかも暴力が支配するかのような現実は、ともすれば同じ暴力に頼って自らを守ることを良しとする方向に、私たちをいざないます。

 激しくそちらへ引き込もうとする潮流の中で、立ち止まって平和を唱えることは、容易なことではありません。まさしく福音の価値観を堅持しようとするとき、そこに社会の主流である価値観との対立が生じかねません。イエスの模範に倣い、忠実に忍耐強く、走り続けたいと思います。

 その聖母被昇天の祝日に朗読されるルカ福音は、聖母讃歌「マグニフィカト」を記しています。

 「身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださった」と歌うことで、聖母は、神が人を量る秤について語ります。その秤は人間の常識が定める価値観によるのではなく、神ご自身の価値観に基づく秤、すなわち、すべての命はご自身がその似姿として創造されたものとして大切なのだ、愛する存在なのだ、という神の愛と慈しみに基づいた秤であります。

 自らの神の母としての選び、それ自体が、人間の常識をはるかに越えた神の価値観に基づいた、すべての命を愛する神の具体的な行動であると、聖母は強調します。

 私たち一人ひとりを、その慈しみを持って導かれる主の愛に信頼し、この世界に投じられた聖霊の炎がさらに燃えさかるように努めて参りましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2022年8月13日

・「常に目を覚まし、平和の確立のために働き続けよう」菊地大司教の年間第19主日メッセージ

2022年8月 6日 (土)週刊大司教第88回:年間第19主日

2016_06_10_img_9955-2_20220804171501 8月に入り、6日から日本の教会は平和旬間を過ごします。5日、広島の世界平和記念聖堂では毎年恒例の平和祈願ミサが捧げられ、私も司教団の一員として参加いたしました。また6日の朝、午前8時15分の原爆投下の時間の黙祷に続いて捧げられたミサにも参加いたしました。いつもであれば、東京も含め全国から多くの方が参加して行われる平和行事ですが、残念ながら、コロナ禍のため、今年も平和公園からカテドラルまでの平和行列などは中止となり、ミサや講演会も参加者を限定してオンライン配信で行われました。

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 東京教区においては、都内の感染者の状況や、司祭が複数名検査陽性や発症していることなどもあり、ミサなどの公開を中止にしている教会も少なくありません。

 関口教会も、主任司祭など複数名の検査陽性のため、7日はミサが非公開ですが、オンライン配信で、大司教司式の平和祈願ミサを行います。

 感染対策がおろそかにならないように、あらためて基本を見直してください。聖堂内でのマスク着用、手指の消毒、十分な換気に気を配り、適度な距離をとることや、帰宅時のうがいなどを忘れないようにいたしましょう。

 またミサでの歌唱は、全員ではなく、聖歌隊や独唱者に任せることを続けます。

 以下、6日午後6時配信の週刊大司教第88回、年間第19主日のメッセージ原稿です。

【年間第19主日C(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第88回 2022年8月7日】

 ルカ福音は、主人の帰りを待つ間、常に目覚めて準備している僕の話を記します。「あなた方も用意していなさい。人の子は思いがけないときに来るからである」

 この朗読箇所の直前には、「自分の持ち物を売り払って施しなさい。すり切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい」と記されています。すなわちイエスが求めているのは、その再臨の時まで「私たちがどのように生きるのか」であって、「常に用意をする」とは、単に準備を整えて控えていることではなくて、「積極的に行動する」ことを意味しています。

 私たちは、天に富を積むために、神の意志をこの世界で実現する行動を積極的に取らなくてはなりません。神の慈しみを具体化したのはイエスご自身ですが、そのイエスに従う者として、イエスの言葉と行いに倣うのであれば、当然、私たちの言葉と行いも、神の慈しみを具体化したものになるはずです。

 神の望まれている世界の実現は、すなわち「神の定めた秩序の具体化」に他なりません。教皇ヨハネ二十三世は「地上の平和」の冒頭に、こう記しています。

 「すべての時代にわたり人々が絶え間なく切望してきた地上の平和は、神の定めた秩序が全面的に尊重されなければ、達成されることも保障されることもありません」(「ヨハネ23世地上の平和1)

 私たちは、神の秩序が確立されるために、常に尽くしていきたいと思います。

 日本の教会は、教皇ヨハネパウロ二世の平和への願いに触発されて、日本訪問の翌年から、8月6日の広島の日に始まり、9日の長崎の日、そして15日の終戦の日にいたる10日間を「平和旬間」と定め、亡くなられた方々の永遠の安息を祈り、戦争の記憶を伝え、平和のために祈る時としてきました。

 私たちが語る平和は、単に戦争や紛争がない状態なのではなく、神が望まれる世界が実現すること、すなわち「神の秩序が支配する世界の実現」です。私たちは日々、主の祈りにおいて、「御国が来ますように」と祈りますが、それこそは神の平和の実現への希求の祈りです。求めて祈るだけではなく、私たちがそのために働かなくてはなりません。その意味で福音宣教は「平和の実現」でもあります。

 教皇ヨハネパウロ二世は、1981年に広島の地から世界に向けてこう語りかけました。

 「戦争は人間の仕業です。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です。この広島の町、この平和記念堂ほど強烈に、この真理を世界に訴えている場所は他にありません」

 その上で、「過去をふり返ることは将来に対する責任を担うことです」と指摘されましたが、今年、国際社会は過去の悲惨な経験を忘れ去り、連帯の必要性をかなぐり捨て、将来への責任を放棄するかのように、暴力的な大国の行動に翻弄されています。

 戦争によって暴力的にいのちを奪われる多くの方の存在を目の当たりにし、起こっている出来事の理不尽さに心が打ちのめされるとき、湧き上がる恐怖と怒りは、思いやりや支え合いを、感情の背後に追いやってしまいます。今世界は、暴力によって平和を獲得することを肯定する感情に、流されています。しかしそれは、真の平和を踏みにじることにしかなりえません

 常に目を覚まして、神の秩序の確立のために、平和の確立のために、働き続けましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2022年8月6日