・「出会いの中で分かち合い、奉仕する者に」菊地大司教の「王であるキリストの主日」メッセージ

2022年11月19日 (土)週刊大司教第百二回:王であるキリストの主日


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 典礼暦では年間の最後の主日である「王であるキリストの主日」となりました。次の日曜日からは待降節となります。(写真は田園調布教会)

 今年の待降節から、ミサの式文の翻訳が変更となります。これについて少しだけ記しますが、「これまで使われてきたカトリック聖歌集や典礼聖歌集が廃止になるのでは」と言う噂が流れているようです。

 廃止にはなりません。歌唱する際には、これまで通りカトリック聖歌集や典礼聖歌集を使い続けてください。ミサ曲(キリエなど)に関しても、従来の歌詞のままで使い続けることができます。

 これは現行の典礼聖歌集にあっても、451番に高田三郎先生の「やまとのささげ歌」が収録されている事と同様の考えで、「やまとのささげ歌」は、カトリック聖歌集の51番に第一ミサとして掲載されていたものです。

 カトリック聖歌集は、1966年に神言会のローテル神父様や当時は南山大学教授であられた山本直忠先生、そしてその後典礼聖歌をリードされた高田三郎先生たちが中心となって公教聖歌集を改訂し、発行したものですが、ちょうどその作業中に第二バチカン公会議の典礼改革があり、それにあわせた曲作りは、その後に典礼聖歌として始まりました。典礼聖歌自体も現在のような一冊になるまでには長い時間を要しましたし、それとても完結しているわけではありません。そもそもいくつかの聖歌の番号が典礼聖歌集で欠番となっているのは、将来への布石のはずでした。せっかく作曲された作品ですから、頻度の問題はさておいて、歌い続けることには問題はありません。

 翻訳にしても作曲にしても、時間のかかる作業ですから、その作業の最中に、典礼それ自体が変更になったりすると、対応は大変です。今回の翻訳がそうでした。現行のミサ典書が発行された直後から、それは暫定訳で翻訳されていない箇所が多々あったこともあり、翻訳の見直し作業が進められていました。

 しかしそれが完成する前に、ローマ典礼の規範版そのものが2000年に第3版として改訂され、翻訳作業はそこからすべて見直しとなりました。新たに始められた現在の翻訳作業は、20年でよくここまで到達した、と思います。作業にあたってくださっている典礼委員会の関係者の皆さんに、心から敬意を表して、来週から使わさせていただきます。

 なお、王であるキリストの主日は、世界青年の日でもあります。第37回目となる今年の世界青年の日の教皇メッセージ。今年のテーマはルカ福音書から取られ、マリアは出掛けて、急いで……行った」 となっています。

 さらに明日は、東京教区にとっては姉妹教会であるミャンマーの方々のために祈り献金をささげる「ミャンマーデー」です。まだ不安定な状況が続いているミャンマーです。様々な理由、特に非常に政治的な理由から身柄を拘束されていた多くの人たちが、数日前に大量に釈放されましたが、全体としての状況は変わらず、軍事政権による圧政が続いています。ミャンマーの平和のためにお祈りください。東京教区のホームページもご覧ください。

 以下、19日午後6時配信の、週刊大司教第102回、王であるキリストの主日のメッセージ原稿です。

【王であるキリストの主日C 週刊大司教第102回 2022年11月20日】

 「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで,選ばれたものなら、自分を救うがよい」

 このイエスをあざける議員たちの言葉こそが、「王であるキリストとはいったい何者」であるのかを,明確に示しています。

 全世界の王である神は、自分自身の誉れのために、自分自身の欲望を満たすために、皆に仕えられる存在ではなく、自らがいのちをあたえた全ての人を救うために、自分を犠牲にする王であることを、議員たちは図らずも証してしまっています。

 加えて、議員たちは、自らの願望を神に投影して、その願いを満たさないものを神と認めない、という本末転倒の過ちを犯してしまいます。神はご自分からその姿を示すものであって、人間の願望を満たすための存在ではありません。

 時として私たち自身も同じような思い違いをしてしまいます。自分が願っていることが適わないときに、神の存在を疑ってみたり、さらには神をののしってみたり、自分自身の願望をかなえるために、神を利用しようとしたりするのが、私たちです。時に自らの願望を神に投影しようとしたりします。いったい、神と私たちのどちらが「世界を支配する者」なのでしょうか。

 思い違いをしている私たちを目の前にしても,神は常にご自分のありのままであり続けられます。口を閉ざして、嘲りに耐え、命を賭してまで、仕えるものであろうとされます。世界を支配する王であるキリストは、私たちがその模範に倣い、常に仕えるものであろうとすることを求めておられます。自分の願望や欲望を満たすためではなく、他者の命を生かすために行動することを求めておられます。

 「王であるキリスト」の主日は,「世界青年の日」と定められています。教皇様は来年リスボンで開催される世界青年大会を視野に、青年たちに教会と共に歩み続けるよう、呼びかけられます。

 今年のメッセージのテーマは、ルカ福音書からとられた、「マリアは出かけて、急いで・・・行った」とされています。教皇様はメッセージで、「マリアが急いで出かけたように、神から特別の恵みを受けた人はそれを分かち合うために急いで出かけるのです。それは自分の必要よりも他者の必要を優先することができる人の急ぎです。…マリアは出会いと分かち合いと奉仕から生まれる純粋なつながりを見出すために出かけたのです」と述べておられます。

 私たちも、出会いの中で分かち合い助け合って共に歩み続ける者でありましょう。

(菊地功=きくち・いさお=東京大司教)

(編集「カトリック・あい」)

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2022年11月19日