・「ザアカイに対するイエスの慈しみの眼差しを私たちも」菊地大司教年間第31主日メッセージ

2022年10月29日 (土)週刊大司教第100回

 現在、タイのバンコクで、アジア司教協議会連盟FABCの総会に参加中です。FABCについては、次週月曜以降、帰国してから報告します。

 「週刊大司教」は、今回の配信で100回目となりました。これまで毎回、千を越えるアクセスを頂いています。多くの皆様のご視聴に、そして祈りの時を共にしてくださっていることに、心から感謝申しあげます。

 新型コロナ感染症の暗闇の中で、ミサの非公開が続いていた期間は、関口教会から会衆を入れない形でのミサの配信を行いました。その後、制限を設けての公開ミサ再開後にあっては、教会まで出かけることが困難な方も大勢おられることから、「週刊大司教」という形で主日のメッセージの配信を行い、同時に霊的聖体拝領の機会としてきました。「週刊大司教」の第1回目は、2020年11月7日土曜日、翌日の年間第32主日のメッセージから始まりました。

 いつまで続けるかは当初からの課題でしたが、視聴回数が1000回を切ったら中断することにしていましたが、ありがたいことに、これまで一度も1000回を切ったことがありません。

 完全ではありませんが、完全ではないですが、教会活動も以前のような形に徐々に戻りつつあります。そこで100回をもって全ての配信を終了することも考えましたが、高齢や病気などで教会においでになれない方々からの要望も多数いただき、今後は次のようにさせていただくことにしました。

 現在の形の「週刊大司教」は、今回をもって終了としますが、今後、形を変えて、もう少し短い形で、主日の福音とメッセージを続けていくことにいたします。名称は従来のまま「週刊大司教」としつつ、全体の構成を変えて配信いたします。

 私自身の準備の負担や都合もありますが、ビデオを作成してくださっている教区本部広報職員の負担も大きいため、全体として短い内容となりますが、ご理解いただきますようお願いします。101回目以降は、「福音朗読とメッセージ」「主の祈りと祝福」という構成になります。

 すでにお知らせしているように、現在、アジア司教協議会連盟の総会で、私も10月末までタイのバンコクに滞在いたしますので、次の撮影と編集が次週、11月5日の配信までに間に合いません。このため、11月5日はお休みさせていただき、11月12日土曜日午後6時から、少しばかり装いを変えた「週刊大司教」を配信を再開いたします。

 今後も、祈りの時をご一緒いただけたら、幸いです。

 以下、29日午後6時配信の年間第31主日メッセージです。

【年間第31主日C(ビデオ配信メッセージ)2022年10月30日】

 ルカ福音はザアカイの話を記しています。先週に引き続き、徴税人が主役です。

 教皇様は2016年10月30日のお告げの祈りで、この話を取り上げ、次のように述べておられます。

 「人々はザアカイのことを、隣人のお金を使って金持ちになった悪党と見なしていました。もしイエスが『搾取者、裏切者、降りてきなさい。こちらに来て、話をつけよう』と言ったなら、人々は喝采したに違いありません」

 しかしイエスの言葉と行いは、罪人を糾弾するものではありませんでした。「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」というイエスの言葉は、罪人との積極的な関りを求め、周りの人を驚かせるに充分でした。そもそもザアカイ自身がその言葉に驚き、信じられなかったことだと思います。

 教皇様はそのイエスの言葉と行いを「神は過去の過ちにとらわれるのではなく、未来の善を見据えます。イエスはあきらめて心を閉ざすのではなく、つねに心を開き、新しい生活空間を絶えず切り開いてくださいます… イエスは(ザアカイの)その傷ついた心を見て、そこに行かれます」と指摘されました。

 私たちは、簡単に他者を裁く存在です。あたかも自分により正義があるかのような勘違いをしながら、幾たび、人を裁いてきたことでしょう。とりわけこの二年以上、新型コロナ感染の暗闇の中で疑心暗鬼にとらわれた私たちは、不安のあまり、寛容さを失い、簡単に他者を裁いて自らの心の安定を取り戻そうとしています。

 他人を裁くときに、私たちの口からでる裁きの言葉は、私たちの心の反映です。裁く心に、果たして愛は宿っているでしょうか。そのようなとき、私たちはイエスがザアカイにとった態度、すなわち断罪という「過去の過ちにとらわれるのではなく、未来の善を見据え」た行動を自分のものとしたいと思います。「自分の計る量りで計り返される」のだということを、私たちは心に留めておかなくてはなりません。

 1987年に開催された第一回福音宣教推進全国会議(NICE1)の答申を受けた司教団の回答である「共に喜びをもって生きよう」には、「社会の中に存在する私たちの教会が、社会とともに歩み、人々と苦しみを分かち合っていく共同体となる」ための一つの道として、「裁く共同体ではなく、特に弱い立場に置かれている人々を温かく受け入れる共同体に成長したい」と記されています。あれから35年が経過した今、教会共同体はどう変化してきたでしょうか。

 教皇様は同じことを呼びかけるために、しばしば「連帯」という言葉を使われます。私たちの共同体には、連帯のうちに支え合う心があるでしょうか。それとも自分の立場を主張して、他者を裁き、排除する共同体でしょうか。

 昨年2月10日の一般謁見で、祈りについて教えた教皇様は、こう述べています。

 「祈りは、相手が過ちや罪を犯しても、その人を愛する助けとなります。どんな場合にも、人の行いより、その人自身の方がはるかに大切です。そしてイエスはこの世を裁くのではなく、救ってくださいました。・・・イエスはわたしたちを救うために来られました。心を開きましょう。人をゆるし、弁護し、理解しましょう。そうすれば、あなたもイエスのように人に近づき、憐み深く、優しくなることができます」。

 今、この社会にあっては、イエスの慈しみの眼差しを具体化することが必要です。

(編集「カトリック・あい」)

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2022年10月29日