・Sr.石野の思い出あれこれ ㉑ローマの修道院生活の日々…シスターたちの無事を祈る

 一日の日課はきちんと決まっていて、鐘が時を告げてくれる。だから、だらだらと過ごす時間はない。それでも、昼食後には午睡の時間、夕食後にはリクレーションの時間と、緊張から解放されてリラックスする時間があった。

 夜のリクレーションは楽しかった。冬はサロンで、夏は屋上で皆で円陣をつくって簡単なお縫物をしながら、一日を振り返っていろいろ話しあったり、小話や
笑い話が得手な人たちが毎晩いくつかをご披露してみなを笑いに誘ったりした。

 どんなに楽しく笑い興じていても、就寝の鐘が鳴るとピタッとやめて大沈黙に入る。40人くらいの志願者が(準修練期の私たちは人数が少なかったので、大部分の時間を志願者といっしょに過ごしていた)わいわいがやがや騒いでいるのに、鐘の合図とともに沈黙に入るのは、実に気持ちがよいものだった。

 志願者の寝室は大きな部屋で、一人一人のベッドがカーテンで仕切られていた。当番の志願者がマリア像の前で「イエズスの御母聖マリア、われらを聖ならしめたまえ」と、大きな声で100回唱えるうちに、ほかの志願者たちは皆、ベッドに入っていなければならない。唱え終わると電気は消され深い、深い沈黙。

 昼食の後は午睡をする代わりによく散歩にも行った。ローマは古代キリスト教に関係のある名所旧跡が豊かだ。修道院を出て西の方に15分も歩くと、ローマにある四大聖堂の一つで、聖パウロの遺体が保存されているといわれる聖パウロ大聖堂がある。また反対方向におしゃべりをしながらゆっくり歩いても25分くらい行くと、静かな森の中に有名なトゥレフォンターネがある。

 聖パウロが斬首されて殉教した場所といわれている。トゥレフォンターネとはイタリア語で三つの泉という意味。古くからの言い伝えによると、斬首されたパウロの頭は三回、地面にバウンドした、そして、その場所から泉が湧き出た。それで、この地のことをトゥレフォンターネと呼ぶとのこと。

 今は、泉は大理石で覆われていて、見ることはできない。覆っている大理石に、聖パウロの頭の彫像が刻まれている。

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 多くの楽しい思い出を私の心に刻んでくれた懐かしいローマの修道院も、今は新型コロナウイルスの脅威にさらされている。ローマからの便りによると、シスターたちは全員無事、もっぱら修道院の中に閉じこもっているとのこと。一日も早い終息を心から祈るばかりです。

( 石野澪子=いしの・みおこ=聖パウロ女子修道会修道女)

2020年3月30日 | カテゴリー :

・Sr.石野の思い出あれこれ ⑳ローマでの修道女生活、まずイタリア語の勉強

 ローマでの生活も軌道に乗りつつあった。高い天井、広い廊下、ゆとりのあるスペースの建物での生活は、気持ちまでゆったりさせてくれる。

 日課は、日本のそれとあまり変わらなかった。朝5時半に、起床の鐘が鳴る。眠い目をこすりながらベッドから降り、洗面と身支度を済ませて、きちんと2列に並んで聖堂に行く。

 聖堂で、朝の祈りとミサ。(その頃のミサは、今のように司祭と会衆が対面で行うのではなくて、司祭は壁に向かってミサを立て、会衆は司祭の背中を見ながらミサ中にロザリオを声に出してとなえる、という、実にちぐはぐなものだった)。その後、30分の黙想。そして朝食。食事が済むと、食堂や寝室の掃除。8時半に鐘が鳴って、それぞれ割り当てられた仕事に就く。

 聖パウロ女子修道会は、「良い出版物によって福音を宣教する」ことを目的として創立された。しかし、会憲には、「時のしるしに絶えず注意し、『進歩が提供し、時代の必要と状況が要求する、より迅速で効果的な手段を、宣教のために取り入れる積極的な姿勢をもとう』」とある。

 この文言を忠実に生きた修道会は今、「良い書物」というよりは、マス・メディアとか、社会的コミュニケーションの手段によって福音を宣教するようになっている。

 私がローマに着いた頃の使徒職は、まだ出版と、始まったばかりの映画だけだった。だから主な仕事は、本の編集や校正、印刷、製本などで、幾人ものシスターがそれらの仕事にあたっていた。また、お台所やお洗濯など、いわゆる”家事”に携わる人もいた。皆、上長から振り当てられた仕事に就く。直接印刷や製本に関係のない仕事も「使徒職」と呼んで、使徒的精神で行うように、と教えられていた。

 著作や編集関係の仕事をしているシスターたちの部屋に行くと「絶対沈黙」が支配し、皆、本や原稿と取り組んでいる。その一方で、印刷や製本の仕事場では印刷機がまわる大きな音や、タイプライターの植字の音が聞こえ、その中でシスターたちが大きな声でロザリオを唱えながら作業をしていた。

 私たち日本人に与えられたのは、イタリア語の勉強。一人のイタリア人シスターが先生で、A,B,Cから教えてくれる。イタリア語は男性形と女性形があり、動詞は時相や人称、法によって一つの動詞が48にも変化する。

 複雑なイタリア語を学ぶのは、きつかった。でも楽しい挑戦でもあった。話すからには間違えのないように、正しいイタリア語を話したい、と望んでいた私は間違えるのが怖さに、初めのうちはなかなか話せなかった。

( 石野澪子=いしの・みおこ=聖パウロ女子修道会修道女)

2020年2月29日 | カテゴリー :

Sr.石野の思い出あれこれ ⑲ローマ生活、ワイン、干鱈、チーズ除けば順調な滑り出し

 ローマでの私の生活がスタートした。

 まだ修練期に入ったわけではないし、それほど厳しい規則にしばられることもなければ、緊張があるわけでもない。むしろ遠来の客に接するかのように、みなが親切に扱ってくれた。

 日本を発つ前に父から「イタリアも戦争に負けた国だから、何かと不自由なことがあるかもしれないが、決して不満を持ったり不平を言ってはいけない」と注意されていたので、その言葉を肝に銘じて毎日の生活を始めた。しかし、少しの不自由も不満もなかった。言葉(イタリア語)以外は。言葉では大いに不自由を感じた。

 しかし、それは敗戦とは少しの関係もないことだった。それと時間割の、主だった時を告げる鐘の音は日本とまったく同じなので、これまた不自由なし。建物が大きいのでいくつかある階段を間違って昇ったり、廊下の右に曲がるところを左に折れたり、その反対だったりと、小さな困難はあったが、ほんとに小さくて、問題ともいえなかった。

 身に着けるものや、ちょっとした日用品は日本から持って行ったし、必要なものがあれば、ローマの修道院から支給された。食事も十分で、どちらかというと洋食に向いている私には、少しの不満もなかった。

 ただしワインを除けば、の話である。イタリアでは昼食にも夕食にも必ずワインが出る。水のかわりにワインを飲む。数滴口にしただけで顔が真っ赤になり、心臓がどきどきしてくる私はワインを飲めなかった。それなのに皆から勧められる。これには閉口した。

 それともう一つ・・・アメリカから寄贈される干鱈が頻繁に食卓に出ることも。これは戦争と関係がある。物資が不足していたイタリアには、アメリカからいろいろの物が送られてきた。その中にたくさんの干鱈があって、たびたび食卓にのぼった

 でも一番つらかったのはチ―ズ。日本でしていたようにこまかく切って水で飲み込むわけにもいかないし、顔で笑って心で泣きながら、さも、おいしいものを食べるかのように見せかけて水で飲み込む。これは私にとって修練期に入る前の大きな試練の一つだった。

 そのうちにチーズも私の喉をスムースに通るようになった。修院の中を案内してくれていたシスターが、「ここがお風呂よ」と言って開けたドアの向こうには浴槽はなく、シャワーだけ。はじめはちょっと戸惑った。でも何も問わずに、「ハイ」と返事した。

 当時は目上にも規則にも従順、ひたすら従順。疑問をもつこと自体悪いことのように教えられていた。こうして、私のローマ生活もかなり順調に滑り出した。

( 石野澪子=いしの・みおこ=聖パウロ女子修道会修道女)

2020年1月30日 | カテゴリー :

・Sr.石野の思い出あれこれ ⑱ローマに着いた!歓迎のシスターたちの勢いに圧倒される

 新年あけましてめでとうございます。

 昨年は教皇フランシスコをお迎えして、喜びと幸せ、希望と感謝にあふれるはじけるような笑顔に接することができました。新しく始まるこの一年が皆様にとって喜びと幸せ 希望と感謝に満ちた一年でありますよう、心よりお祈り申し上げます。 石野澪子

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 飛行機がガタンと音を立ててチャンピーノ空港に着陸した瞬間、乗客の間から割れるような拍手が起きた。おそらくイタリア人が無事故国に帰ったのを喜ぶ印だったのだろう

 ローマの夏は暑かった。飛行機のタラップを降りて地上に立つと、長い制服の裾の方から生ぬるい空気が洋服の中を上の方に上ってくるのが感じられた。ローマ、ローマに着いたのだ。そう思うと、感激で胸がいっぱいになった。修道院からの迎えの車で左右に緑が広がる閑静な道をおよそ20分走って修道院に着いた。

 広いお庭、石造りで四階建ての大きな修道院。完成すればサンタ・マリア・マジョーレに次いで、ローマで二番目に大きなマリア聖堂になるという建築中の大きな聖堂など私たちの想像をはるかに越える規模の大きいものばかりだった。自動車から降りると、鐘がカンカン鳴っているのが聞こえた。右からも左からもたくさんのシスターたちが、階段をばたばたと駆け降りてきて私たちを迎えてくれた。その勢いのよさにも驚いた。

 彼女たちにしてみれば初めて見る日本人。どんな人たち?そんな好奇心もあったのだろう。「私たちと同じじゃない、」「私たちと少しも変わらない」などと口にする人もいた。どんな人を想像していたのだろう。私たちが着ている制服は彼女たちのと同じ。違うのは、日本人は一般に背が低く、鼻も低くて、目が、イタリア人に言わせると「細くてアーモンドのような形をしている」くらいだった。

 私たちのイタリア語はおぼつかなかったし、シスターたちの熱気に圧倒されたが、たくさんのシスターたちに囲まれて温かく迎えられている空気が伝わってきて嬉しかった。イタリア人たちは挨拶するときに互いに抱き合って抱擁する。ましてや太平洋を渡って日本からはるばるやってきた私たちを抱きしめて接吻したかっただろう。

 でも、おそらく日本の上長から日本では接吻をしないので気を付けるようにとのお達しがあったに違いない、シスターたちは自制しているようだった。これはイタリア人にとっては大きな、大きな”犠牲”であったに違いない。イタリアの生活に少し慣れたころ、人を迎えたり、送ったりするときは愛情の表現として、互いに抱擁しあうのが慣例、ということを知ったので、私たちを迎えた時の彼女たちの気持ちをおもんばかって気の毒に思った。

( 石野澪子=いしの・みおこ=聖パウロ女子修道会修道女)

2019年12月31日 | カテゴリー :

・Sr.石野の思い出あれこれ⑤洗礼の喜びと感動…そして修道院に惹かれていく

 洗礼は言葉で表現できない喜びと深い感動を私の心に刻んだ。

 教会が教える通り、全く新しい人になった気持がした。修道院でのお友達もたくさん増えた。中にはシスターになることを希望して修道院に入る人もいた。その都度修道会のことが話題に上る。わたしはそのような話は極力避けた。

 当時は「格子無き牢獄」とまで呼ばれた厳しい規則と禁欲に彩られた生活。しかも一回入ったら生涯出ることはできない。そのような生活に魅力を感じるどころか嫌気さえ感じていた。

 そんなある日、中央線のA駅の北側に新しい修道院が開設された、イタリア人のシスタ-が幾人かいらして云々ということを聴いた。よく調べてみると A 駅の南側にあるわが家から歩いて40分。交通網が今ほど発達していなかった当時30分、40分、50分くらい歩くのは当たり前のことだった。

 ある日、学校の帰りに興味本位でその修道院を訪れてみた。二階建ての日本家屋。玄関のチャイムを押すと出てきてわたしを迎え入れてくれたのはイタリア人のシスター。笑顔で挨拶はしたものの、その先が続かない。

 アメリカ経由で日本にいらしたというシスターは片言の英語を操り、わたしも学校で学んだ片言の英語をしゃべった。二人は知っている英語の単語を並べ、分からなくなると二人の間に置いた大きな英和-和英辞典の単語を探して指さす。「イエス、イエス」二人の会話はこうして成立した。

 けっこう意志の疎通が図れ、私はいつも満足して、その修道院を後にした。そして、近いという地理的条件もあって、この修道院にも時々訪れるようになった。

 シスターのやさしさ、とんちんかんな英語、意味が通じないで時々首を傾げ、辞書を何ページも繰りながら適当と思われる単語を探しあてる面白さ、そして通じて理解しあえた時の喜びと笑い。そんなこともこの修道院を訪ねる魅力の一つだった。

 何回も通っているうち、ある日、シスターがわたしに、「シスターになりたいですか?」と、単刀直入に尋ねていらしてわたしを驚かせた。即座に「 no!」と答えたわたしに、シスターはあれやこれやと、シスターの素晴らしさを説明してくる。

 シスター?修道生活?どう見たってわたしなんかにふさわしくない。そう思っているわたしにはそんな話は面白くなかった。かえってうるさく感じられた。

 でも一方好奇心が首を持ち上げ初めているのも感じていた。全く知らない世界のこと、夢にも考えたことのない生活のことを、シスターにしてみれば最低の英語と最高の熱意をもってわたしに告げようとしているのだ。その熱意には心動かされた。そして…「わたしがシスターになったら、もし修道院に入ったら」と、いつか知らないうちに、心の片隅で思うようになっていた。

 またあの話が出たら嫌やだからと、しばらく修道院を訪問するのを避けていたが、どうしても目に見えない引力がわたしを修道院の方に引き寄せるので、また通うようになった。

 辞書を使っての単語並べの英語も結構進歩した。勘違いしたり失敗したり、それでも真面目に修道生活についてなど話せるようにまでになった。

(続く)

( 石野澪子=いしの・みおこ=聖パウロ女子修道会修道女、元バチカン放送日本語課記者兼アナウンサー)

2018年11月28日 | カテゴリー :

・Sr.石野の思い出あれこれ③初めて修道院の門をくぐったころ-洗礼を受けるか迷う

 今から60年以上も前、初めて修道院の門をくぐったころの前々回の話に戻る。

 修道院に行くのに遠慮する必要はない、と分かったわたしは、それからたびたび足を運んだ。お玄関を入っても緊張しなくなった。受付のシスターにご挨拶をして、いつもお話を聴く部屋に通った。

 どんなときにもやさしく、笑顔で迎えてくださるシスターがわたしは大好きだった。修道院の雰囲気にも環境にも慣れ、「公共要理」とやらのお勉強も順調に進んでいた。今までキリスト教のキの字も知らなかったわたしの頭の中に毎日毎日新しいことが飛び込んでくる。すべてが新しく、新鮮だった。でも理解に苦しんだこともたくさんあった。

 そんな私の心を察したのか、シスターが言われた「これは奥義です。人間の知恵で理解することはできません。ただ信じるのです。信じればよいのです」。

 素直にシスターの言葉に従った。でも、復活の話になった時は、そう単純に信じられなかった。亡くなった人が生き返るなんて・・・ある日、信じられない苦しみを胸に、暗くなりかけた道を「どうしたらよいのだろう」と考えながら一人で歩いていた。

 その時、ふと、面白い解決策が頭に浮かんだ。

 シスターはスペインの外交官の娘、毎週修道院に通って来られる神父様はウイーン出身のピアニスト。あの方たちがすべてを捨て、いのちをかけて信じていることがもし本当なら、たとえ、わたしが疑ったとしても、真理は真理として動くことなく存在する。疑うわたしが愚かなのだー未熟で単純な”解決策”だけど、それで納得がいって、心が軽くなるのを感じ、足取り軽く家路を急いだ。

 その頃、修道院には若い女性がたくさん通っていた。公共要理のお勉強が主だった。勉強がひと通り終え、受洗を希望する人が次々と洗礼を受けていた。

 わたしの勉強も終わりに近づいたある日、シスターがおっしゃった。「次に洗礼を受けるグループには石野さんも入れましょうね」。

 わたしはぎょっとした。洗礼のことは一応考えてはいたけれど、まだまだと思っていたし、未だ決心がつきかねていた。洗礼を受けたら一生涯クリスチャンでいなければならない。毎日曜日に教会に行かなければいけない。他にも、カトリックになれば、いろいろ守る掟がある。そんなこと絶対に出来ない、と考えていた。家は、特に父は熱心な仏教徒、死ぬまであるお寺の会計監査役をしていた。そんな両親がわたしの洗礼を許してくれるはずがない。それ以上に、わたしの気持ちがまだ固まっていなかった。

 あまりにも急なシスターの言葉に「洗礼を受けることは、母が赦してくれないと思います」と答えて、一応妥当な返事をしたつもりでいた。ところが、シスターは「洗礼を授けるのは、あなたのお母様ではありません。神様です」と返してこられた。

 これには二の句が継げなかった。シスターはわたしも洗礼を受けることを考えていらっしゃるのか、と思うと憂鬱になった。どうしよう。それでも修道院に通うのを控えることは出来ず、それまで通り、週に二回、ときには三回通った。

( 石野澪子=いしの・みおこ=聖パウロ女子修道会修道女、元バチカン放送日本語課記者兼アナウンサー)

 

2018年9月28日 | カテゴリー :

・Sr.石野の思い出あれこれ②ベトナム人シスターと日本にいた弟2人のこと

 ローマにベルギー系の女子修道会が経営するレストランがある。ウエートレスは皆シスター。シスターと言っても修道服を着ているわけではなく、思い思いの服装で働いている。

 常時3、4人のシスターがいるが、その中にベトナム人のシスターがいた。ベトナムで修道院に入り、ベルギーに勉強に行ったが、ベトナム戦争が勃発して祖国に帰れず、そのままベルギーに残った、と言っていた。

 ある日、そのシスターから「弟がフィリピンのマニラから日本に行ったのを知ったが、居所が分からず連絡の取りようがない、何とかしてもらえないか」と相談を受けた。

 突然のことで、どうしてよいか分からなかった。でも考えた。ベトナム人のボートピープルなら皆、同じ所にいるだろう、日本のカトリック教会はその人たちのお世話をしているはずだ、と。

 そこで東京の大司教様に手紙を出した。すぐに返事をいただいた。ベトナム人の係をしているシスターを紹介して下さった。早速そのシスターに連絡を入れた。

 ベトナム人の弟さん二人は倉敷に住んでいて繊維工場で働いていることが分かった。姉のシスターの心は燃えた。すぐにも倉敷に飛んで行きたい-そう思ったのは当然だが、彼女は心臓を患っていたため、飛行機での長旅は出来ない。せめて電話でも話せたら、と言うことで、そちらを試してみた。

 ある日、ローマから、彼らが働いているという工場に電話を入れてみた。返事が返ってきた。10年以上も会っていない姉弟は、多くのことは語らなかった。流した涙が多くを語っていた。

 声を聴き、言葉を交わした姉と弟は「会って直接話したい」という強い望みにかられた。難民として日本に入国したベトナム人が日本を出ることは難しい。そんなことは分かっていた。それでも何とかならないものか。彼らのその強い思いがまた、わたしの心を動かした。

 ちょうどローマ駐在の日本大使館に勤務していた日本公使と親交があったので、事情を話してみた。彼はすぐ動いてくれた。そして日本の外務省から2人のベトナム人に3週間の日本外滞在の許可を取ってくれた。こうして2人の弟は姉を訪ねてローマに来ることになった。

 2人がローマに着いたとき、空港まで迎えに出た姉は、弟をすぐに見分けることが出来なかったとか。翌日二人は姉に連れられてバチカン放送局にわたしを訪ねてくれた。二人並んで直立不動で「シスターは僕たちの命の恩人です」としっかりした日本語で言って最敬礼をした。

 小さな船に70人で乗り込み、波にもまれ、食べ物もなくなり、恐ろしい日々を過ごしていた。立派な船が何隻も近くを通って行った。いくら助けを求めても救ってもらえなかっ た・・・。「そんな中で日本の船が僕たちを助けて、マニラに連れて行ってくれた。『日本人はいい人たちだ』。そう思って日本に行くことを決めた 日本に行ったことを後悔していません」と話してくれた。

 一週間ほどローマに滞在して、彼らはまた日本に向けて出発した。その後、弟たちはベトナムの女性と結婚し、子供にも恵まれた。結婚式に招待されたが、行けなかった。その後も何回か文通したが、やがて音沙汰も絶えてしまい、今はどこでどうしているか分からない。ひたすら幸せを祈るばかりだ。

( 石野澪子=いしの・みおこ=聖パウロ女子修道会修道女、元バチカン放送日本語課記者兼アナウンサー)

2018年8月27日 | カテゴリー :

・Sr石野の思い出あれこれ①焼け野原の東京-修道院の門を初めてくぐった時のこと

 わたしが修道院の門を初めてくぐったのは、今から60年以上も前のことである。戦争で東京も廃墟と化し、通っていた学校も講堂を残して全焼した。だから授業も午前と午後に分かれて二部授業が行われていた。なにをするでもなく時間を持て余していた。

 そんなある日、「公共要理の勉強に行かないか」と、一人の学友から誘われた。「勉強」と聞いたわたしはとびついた。公共要理と言う言葉をまだ知らなかったから、代数や幾何学、国語などが学べると思ったのだ。放課後、行く先も知らずその友の後について歩いた。そして目的地に着いた。

 近くまで戦火に見舞われているのに、立派な門構えの家が建っている。門の中に入ったわたしは度肝を抜かれた。青々と茂った大きな木々、話すのも控えたいような沈黙と静寂。修道院と聞いてわたしは緊張していた。恐ろしく緊張していた。

 玄関までの砂利道を黙って歩いた。玄関を入り、シスターがいらっしゃるまで、ここに座って待つようにと勧められた椅子にも座らず直立不動でシスターをお待ちするほど程緊張していた。やがて美しい外人のシスターがにこにこしながら出ていらして挨拶し、会話が始まった。

 わたしは緊張のあまり、シスターが何語を話していらっしゃるのか分からなかった。外国語と思いこんでいた。気持ちを落ち着け注意して聞いて、日本語だと分かった。

 戦争に負けて街全体が焼け野原になった東京に、こんな清らかですがすがしい感じのするところがあったのか。大発見したわたしは、心が洗われたような思いで、また訪れることを約束して修道院を後にし、言葉に出せない深い幸せ感に包まれて家路に向かった。

 その夜、わたしの心は満たされていた。何で?と聞かれても分からない。お布団に入っても眠れない。人生で初めて足を踏み入れた修道院で見たこと、聞いたこと、感じたことすべてがわたしの頭の中で走馬灯のように映し出され、心が平和と喜びに溢れた。

 翌日、学校に行った。数人の友に、前日経験したことを語った。みな興味を示した。大好きだった代数や幾何学が学べなくてもよい、早口だけど日本語で話してくださる外人のシスターのやさしい笑顔に触れながら過ごす時間は、戦争や戦災で傷つき、これからの人生に対する夢も希望も見つけることの出来ない殺伐とした心を癒し、満たしてくれた。わたしは大きな宝を見つけたような思いで前日の出来事をあれやこれやと語った。

 そして放課後、前日行ったところに自然に足が向いてしまうのを止めることは出来なかった。叱られるのを覚悟で、2・3人の友を連れて修道院を訪れた。前日シスターのやさしい笑顔に癒されたわたしは、その日はそれほど緊張していなかった。ただ二日も続けて来ることにお小言をいただくことだけは覚悟していた。

 ところが・・・わたしたちをご覧になったシスターは両手を広げて歓待して下さった。緊張は一気に消え、嬉しさと喜びが込み上げてきた。そして、早口ではあったけれど、話される日本語はよく理解できた。「またお待ちしています」。

 内容はよく分からなかったけれど、キリスト教について話してくださったシスターのやさしい心に触れて、その日も修道院を後にした。その日も前日のように、言葉に表すことが出来ない喜びと幸せ感に、心は満たされていた。

( 石野澪子=いしの・みおこ=聖パウロ女子修道会修道女、元バチカン放送日本語課記者兼アナウンサー)

2018年7月29日 | カテゴリー :

・Sr.石野のバチカン放送今昔 ㉔結びに代えて

 これまで二年ほど、コラム「バチカン放送・今昔」を担当させていただきました。お読みくださったみなさまに心より御礼を申し上げます。少ない字数の中で、思ったことを十分表現できず、舌足らず文章になったこともあり、読んでいらしてご理解に苦しまれたところもおありになったのではないかと思っております。どうかその点ご容赦ください。

 バチカンでの働きは、ずいぶん昔のことなのに、時間の隔たりを少しも感じないで、つい最近の出来事のように、いろいろの場面を思い出しながら、一コマ一コマを楽しく書かせていただきました。

 バチカン放送に勤務当初は、放送局があまりののんびりムードに、「放送は秒刻み」という日本の常識にとらわれていた私は驚きました。「何とか、日本の通念を貫こう」と頑張りましたが、緊張と疲労が募るばかりでした。

 「朱に染まれば赤くなれ」。いつか知らないうちに、というよりは自覚してだんだんと、日本的繊細さを失い、イタリア色に染まりながら、それでも楽しく仕事をしていました。そのうち放送局も少しずつ改革が行われ、だいぶ日本の放送感覚に近いものに変わってきました。

 現在は、バチカンの広報関係は、放送、新聞、テレビ、広報室などが一本化されたと聞いています。どのようになったのか、詳細は分かりませんが、永遠の都ローマの中心にあるバチカンにも改革・変革の波は押し寄せてきているようです。たとえどんなに変化しようとも、教皇様に直接お仕えできたバチカン放送での思い出は、私の心の中で、一生涯生き続けることでしょう。

( 石野澪子=いしの・みおこ=聖パウロ女子修道会修道女、元バチカン放送日本語課記者兼アナウンサー)

 *「カトリック・あい」よりお知らせ‥Sr石野のコラムは「Sr.石野のあれこれ思い出」という新たなタイトルで8月以降も随時継続させていただきます。お楽しみに)

2018年6月27日 | カテゴリー :

・Sr.石野のバチカン放送今昔 ㉓教皇も‥老いや病いも人間の自然な姿‥慰められた若者たち

 58歳の若さで教皇に選ばれ、平和の使者として世界中を飛び回ったヨハネ・パウロ二世。狙撃事件の後も回復されると以前と同じように精力的に働かれた しかし彼も老いと病いに勝つことはできなかった。

 1990年頃からパーキンソンに襲われ、体力が衰え初めた。神経が麻痺して、左手はいつも震えている。お話をされてもろれつが回らず、何を言っておられるか分からない。TVでアップされた教皇のお口元からは唾が流れ、お召し物が汚れるのが見えた。それでも教皇は活動のペースを落とすことをなさらなかった。

 そんな教皇の痛々しいお姿を見て、関係者の間に、教皇の引退説が燃え上がった。 教会法は教皇の辞任を認めている-「教皇の辞任は、本人の自由意志で判断がなされ、かつ正しく表明されなければ、有効とはならない。ただし何人による受理も必要としない」(教会法332 条2項)。

 だが、教皇は引退の意志のないことをはっきりと口にされた -「私はキリストの代理者です。キリストは十字架にかけられたとき、そこから降りましたか・・・降りてその苦しみから逃れようとなさいましたか? 降りませんでした。私もキリストと同じようにします」と、「最後までキリストの後に続く」という決意を表明された。

 杖にすがり、足を引きずりながら歩まれる教皇。最後はご自分の足で歩くこともままならず、車椅子で。それでも人々の前にお姿を現わされた。そして、ある時言われた-「 老いや病いは恥ずべきものではありません。人間の自然な姿です。私は自分の苦しむ姿を人々に見てもらうことにより、苦悩を味わっている多くの人に連帯を示したいのです」と。 公けの儀式の最中に、もがくようなお姿で、痛みに耐えておられる時もあった。

 そのような姿をお見せになり、亡くなられた時、「最後のご挨拶をしたい」とバチカンを訪れた人の数はざっと500万人。中でも若者たちの姿が目立った。「ヨハネ・パウロ二世といると私たちは幸せなの」-彼らの言葉が、すべてを語ったように思われた。

( 石野澪子=いしの・みおこ=聖パウロ女子修道会修道女、元バチカン放送日本語課記者兼アナウンサー)

2018年5月26日 | カテゴリー :