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・駒野大使の「ペルシャ大詩人のうた」⑧詩的創作で生み出した「美しい娘」「葡萄酒」とは
ハーフェズの詩的創造力の源泉として、神の愛を求める修業と並んで、ハーフェズの世の欺瞞と不正に対する怒りを指摘したが、その関連で、前回のコラムでは、次の詩句を紹介した。
「美しき娘よ 公正の酒壺から葡萄酒を小さな杯に分けてくれ乞食(真摯に道に励む者、正直者)が 世界をひっくり返さないように」を少し説明しておこう。
ハーフェズが、その詩的創作で生み出した工夫が「美しい娘」と「葡萄酒」である。いずれも神への愛の魅力と成就の困難さ(美女との恋愛)、および神への愛の陶酔(葡萄酒)の象徴として登場する。ここでいう公正の壺とは、時の権力者が、徴税逃れのごまかしを抑えるために、規定量の葡萄酒が入る壺を作り、その量に応じて課税するために用いたものである。
引用の詩句では、不正や欺瞞が取り締まられ、正義が実現されるよう訴えるとともに、同時に自らの神への愛の成就とその愉悦を、美女からの葡萄酒に仮託して懇願している。正義が実現されなければ社会は混乱を増さざるを得ず、また葡萄酒(神への愛の成就から得られる愉悦)が得られなければ、道の修行者(ハーフェズ)は苦しみ、のたうち回ることになる、と述べている。
ハーフェズの詩的生き様の背景にあるその宗教観・人生観を今一度見ていこう。ハーフェズが実践したイスラーム神秘主義の世界では、神の唯一性の帰結として、神以外のすべての存在はうつろう現象である。神との一体を求める修業、すなわち神を愛しぬくことは自己を滅却することであり、その神を捉える主体は心である。
2回目のコラムで取り上げた、「長い間こころは 世界を見透かす杯を 我々に求めた自ら持てるものを よそ者に求めたもの皆が生み出される根源の宝を 海(道)にさまよった者に求めた」を思い出してほしい。
改めてこの詩句を解釈すれば、次のようになる。
「こころ」は、ここでは自分と解すればよい。「我々」は自分の頭(知識)と考えればわかりやすい。「世界を見透かす杯」とは、すなわち神であり、「杯を得る」とは神への愛を成就することである。神のために自己のすべてを葬り去ることである(自己滅却)。それによりすべてを見通せるようになる。「自ら持てる者」とは、神を捉えることのできる主体すなわち自分の心であり、「よそ者」とは、自分の頭(知識)である。「もの皆が生み出される根源の宝」とは、万物の創造主である神のこと、それを求めるのに、「道にさまよった者」、すなわち、自身の頭や知識に頼った。
そんなことで、神への愛が成就されることはない。「よそ者」あるいは「さまよった者」とは、知識であり教科書である。また物知り顔の導師もいる。「心」に捉えられるべき神は、知識によっては得られないことを、ハーフェズは繰り返し歌っている。教科書を読んで実現できることではない。教科書的な知識はかえって邪魔になる。自ら実践し体得しなければならないからである。それは有害ですらある。「心よ 知識の害毒によって一生が失われた100ある素地も生かされなかった」のである。
「我が知識の書すべてを 葡萄酒で洗い流そう 宇宙は我が知ったかぶりに 復讐するものだ」。ここで葡萄酒というのは 神の愛に酔うこと、一心不乱に神への愛に邁進することであるが、葡萄酒ついては、別に改めて述べる。
(ペルシャ詩の翻訳はいずれも筆者)(駒野欽一=国際大学特任教授、元イラン大使)
・Sr.石野のバチカン放送今昔 ㉑歴史的イベントの教皇・日本語ミサ、だが実況中継できず
東京の後楽園で捧げられた野外ミサには4万人が参加した。参加を希望しながらも、人員超過で中には入れず、後楽園の外でミサに与った人も少なくなかった。主式はもちろん教皇様。ミサは日本語で行われた。教皇は一回も間違わず、流暢な日本語で、ミサを進められた。公共放送のNHKは、特殊の宗教行事の放送が禁じられている。
だから、このミサは日本では公に放送されなかった。わたしたちバチカン放送関係者はNHKのご好意で、モニターによって、ミサの全部をフォローすることが出来た。教皇のミサのためには、ラテン語の公式ミサ典礼書と同じように赤い布で覆われた固い表紙が着いているきれいなミサ典書が数冊準備された。
中は、ラテン語とローマ字の日本語が対訳になっている。ミサが終わるまで、そのミサ典礼書は一般公開されなかった。ミサが終わってからわたしたちはそれを一緒にいたNHKの放送関係者に披露した。厚くはないけれど立派なものだった。
わたしたちが日本についてから、何くれと心にかけて世話をしてくれていたNHKの海外部長さんは、それをじっと見ていらしたが、しばらくして口を開いた。
「ミサはカトリックの宗教行事であることは確かだ。だから放送は出来なかった。だが2000年の歴史の中でローマ教皇が、日本で日本語のミサを捧げるというのは歴史始まって以来、初めてのこと。これを、宗教行事としてではなく、歴史的イベントとして申請すれば、放送の許可が出たかもしれない」と感慨深そうに言われた。-そうだったのか。気が付くのが遅すぎた。
( 石野澪子=いしの・みおこ=聖パウロ女子修道会修道女、元バチカン放送日本語課記者兼アナウンサー)
・Sr.岡のマリアの風 ㉖聖週間-パパ・フランシスコと共に
Aさん、メールをありがとうございます。パパ・フランシスコが、今、若者に求めていることは、本当の意味での「若者」たちに訴えていることですね。
パパは、「生き延びる」ことだけを考えて、現状に対して「あきらめ」、「無関心」、「怠惰な」態度を取っている人は、たとえ年齢が若くても、年寄りであり、いつでも、どこからでも、どんな状況からも、また新たに、人々の善のために、自分のエゴから出て行く人は、たとえ高齢であっても「若者」だ、と言っていますね。
無関心、あきらめ、自分さえよければいい、という心が、人を、霊的「年寄り」にし、もはや、その人は、「枯れて行く」しか道がない、と。
日々、わたしの心に、ズ~ン、ドシ~ン、とくる言葉です。つねに目覚めていること。それは、わたしたちの力では不可能です。
何でもうまくいっている時はいいけれど、人から理解されない、物事が思ったとおりに行かない時、「目覚めていること」-自分の良心に対して-は、自分の力では、不可能ではないとしたら、かなり、難しい。
ましてわたしたちは、今(聖週間)、人目には、「ヒーロー(英雄)」からは、遠くかけ離れた、「みじめで、貧しい」主に、沈黙のうちに従うよう、招かれています。
イエスに、もっとも近くから従った弟子の一人、ペトロは、「先生」-イエス-を、三度、「知らない」と言います。
わたしたちは、「え~、ペトロ、何で~?」と口に出して言った後、気が付きます。イエスが、誰であるか、分からなくなったペトロ、それは実に、「わたしたち」の姿である、と。
もし、「先生」‐イエス-が、たとえ捕らえられたとしても、「勇ましく」、「弱い」先生を守るのが、自分の務めだと思っていたペトロは、先生を助けるために、戦ったかもしれません。
でも、今、目の前にいるのは、不正に訴えられ、しかも、弟子の一人から裏切られたにも関わらず、抵抗しようともせず、一言も語らず、不条理な嫉妬と憎しみに燃えた人々に、捕らえられ、引きずられて行くに任せている、一人の「みじめな人間まるで、世の悪に対して戦わず、敗北を認めたかのような、「弱い先生」。
ペトロは、「そんな人は知らない」と言います。それは、ある意味で、ペトロの本心だったでしょう。力強いわざと言葉をもって、悪魔を追い出し、病人を癒し、祭司長たちを論破した、偉大な先生、使徒たちの「誇り」であった、イエス。この「格好いい」先生に、ペトロは、命をかけて従う、と宣言しました。
でも、今、ペトロが目の前で「見て」いるのは、そんな先生ではない。ペトロが 思い描いていた メシア・救い主の姿ではない。だから、ペトロは混乱し、「そんな人は知らない」と、宣言します。そして、鶏が鳴く…
ヨセフ・ラッツィンガーは書いています。
(最高法院で、大祭司とそこに集まった評議員たちは)、イエスを愚弄し、打ちすえることによって、神のしもべとしてのイエスの受けるべき定めを言葉どおりに満たしたということに、気が付いていませんでした。
屈辱と栄光は神秘的な形で互いに繋がっています。正に、打ちすえられた者として、イエスは人の子なのであり、雲に乗って神のもとから現れ、人の子の国、神に由来する人間性の国を打ち立てるのです。マタイによれば、イエスは衝撃的な逆説によって、「今から、あなたたちは、人の子が…見るであろう」(マタい福音書26章 64節)と言ったのです。「今から」、新しいことが始まるのです。
歴史を通してずっと、人々は損なわれたイエスの顔を見上げ、まさにそこに神の栄光を認めて来たのです。その同じ時に、ペトロは三度目に、イエスとは何の関係もない、と誓ったのです。「するとすぐ、鶏が再び鳴いた。そして、ペトロは思い出した…」(マタい福音書14章 72節)
鶏の鳴き声は夜の終わりのしるしと見られています。一日が始まるのです。ペトロにとっても、鶏の鳴き声は、彼が沈んでいった魂の夜の終わりを意味していました。鶏の鳴き声によって、否認についてのイエスの言葉が突然、ペトロの頭に蘇ります。そして、恐ろしい現実に立ち会わされます。
ルカはそれに更に付け加えます。この瞬間、刑の宣告を受け、縄目を受けたイエスは、ピラトの法廷に移るために連行されます。イエスとペトロはすれ違います。イエスの眼差しは、裏切りの弟子の視線を通し心の奥にまで達します。
そしてペトロは、「外に出て、激しく泣いた」(ルカ福音書22章 62節)のです。
(『ナザレのイエス』、第二巻、春秋社2013年、21頁)。
わたしたちにとって、わたしにとって、「はい、わたしはここにいます。主よ、あなたのおことばどおり、わたしの身になりますように。あなたのお望みが、このあなたのしもべ(はしため)であるわたしを通して 行われますように」と、日々、言い続けることは、容易いことではありません。特に、何か特別な時ではなく、まさに、日々の、毎日の、「普通」の生活の中で、それを言い続けることは、決して容易いことではありません。
ゲッセマニの園での、イエスが捕らえられる場面は、ペトロにとっては、あまりに「陳腐な」場面だったかもしれません。「あなたはメシアです」と、ペトロに宣言させたのは、父である神の恵みの力でした。その、同じ父である神が、今、ご自分のメシアが、敵どもの手に引かれて行くときに、彼を助けるために、天の大軍を遣わすことも、しない。何か、当たり前のように、悪の力が勝り、無実の善人が、悪人として引かれていく。あまりに「陳腐」な場面ではないか…。
「わたしが」思ったとおりに、物事が進まない、人々が動いてくれない、理解してくれない、ふさわしく評価してくれない… その時こそ、まさに、わたしは、主の「十字架の道行」を、主と共に、主の傍らで共に歩むよう、招かれているのだろう
主の「十字架の道行」を、主の傍らで歩む、とは、主とともに、人々の罵声、嘲りを受け、「十字架から降りて来い、そうしたら信じてやろう」という人々の挑発を受け、同時に、主と共に、「主よ、あなたのみ国においでになるとき、わたしを思い起こしてください」という、泥の中から咲き出る花のような真摯な声を聞き、あがないの十字架のもとで生まれつつある教会の姿-母と愛する弟子-を観想する…ということだろう。
「わたしが」思い描く、メシア・救い主の姿と、父である神の思いの中にある、メシア・救い主の姿の、何と違うことか!
「わたしのメシア像」と、父である神の「メシア像」。その間の、越えることの出来ない淵を埋めたのが、真の神でありながら、わたしたちと「同じ」、真の人であるメシア、イエス・キリストである。
神と人との間に横たわる深淵に、自らを「橋」として、神と人との出会いの「場」として捧げたのが-自分の命を捧げるまでに-、父のみ心に徹底的に従った、子、イエスの姿だ。
わたしたちは、「その」イエスに、従うよう、招かれている。
特に、この聖週間。14名の若者たちによって編纂された、パパ・フランシスコが司式する、今年(2018年)の「十字架の道行」(聖金曜日)のテキスト。神学者でもなく、過去に書かれた著作からでもなく、若者たち-16歳から27歳まで-によって作られた、「十字架の道行」のテキスト。彼らは、共に、四つの福音の「受難物語」を読み、祈り、黙想し、このテキストを作り上げた。
そこには、若者らしい、誤解を恐れない、率直で、ありのままの「出会い」がある。ゴルゴタに向かって歩むイエスとの出会い。そのイエスを取り囲む人々、一人ひとりとの出会い。若者たちは、自分自身を、その場に置き、イエスを「見つめ」、人々を見つめ、イエスと「出会い」、自分自身に出会い、その出会いから生まれる「祈り」を、言葉にした。
今朝、わたしは、若者たちの「十字架の道行」の一つを黙想しながら、ペトロと「出会う」。そして、ペトロを「見つめ」ながら、自分の中の、嘘、偽りを見つめ、イエスと「出会う」。
ペトロは、自分に自信があった時は、イエスを見ていても、イエスに出会っていなかったのだろう。「わたしの」好きなイエスを見ていただけで、父のみ心を行うためだけに生きているイエスに出会っていなかった。
父のみ心の実現のために、死ぬばかりに苦しい思いをしながら、エルサレムに上っていくイエスに従いながら、三年間、イエスの身近にいた弟子たちは、「だれが一番偉いか」と議論をしていた。それが、わたし、わたしたちである。そのことを認めて初めて、わたしは、イエスと「出会う」のだろう。
ペトロは、イエスの眼差しに触れて、「初めて」イエスと「出会い」、自分に「出会い」、「外に出て、激しく泣いた」。ペトロは、このようにして、受難の主の神秘に対して、初めて目が開かれた。
ペトロの涙こそ、わたしたちの涙。赦されても、赦されても、主を否み続けるわたしたちを、それでも、疲れずに赦してくださる主のまなざしに触れた、わたしたちの涙。
わたしは、つねに、「欠けた者」「足りない者」であることを率直に-決して卑屈にではなく-受け入れて初めて、「主よ、あなたのお望みが、わたしの中で行われますように」と真摯に祈ることが出来るのだろう。
聖週間。今は、「恵みの時」。主の「十字架の道行」に従うわたしは、一人ではない。わたしは、共同体の姉妹たちとともに、「欠けた者」同志で、許し合い、いたわり合い、助け合いながら、共に、主イエスの「十字架の道行」に従っていく。
主によって集められた「共同体」-教会-は、「わたし」の思うとおりにはいかない。「わたし」と合う人たちだけではない。「わたし」のリズムと違う。だから、恵みの場。だから、「散らされた神の子らを集めるために来た」キリストの心の、目に見えるしるし。だから…復活の主は、ご自分の「共同体」を通して、はたらく。
ご自分のみ国-赦しといつくしみのみ国-を広めるために。「共同体」は、主の、受難・復活・死の、この世への「目に見える証し」として、招かれている。
受難の主よ、聖週間の日々、あなたの沈黙の中に、深く入らせてください。父である神のみ心が実現するとき。それは、沈黙のとき。わたしたちの日々の騒音を超えた、三位一体の神の懐の中の、深い、沈黙。それは、冷たい沈黙でも、無関心の沈黙でも、あきらめの沈黙でもない。それは、愛するがあまり、いつくしむがあまり、沈黙せずにはいられない、苦しむ我が子を見つめる、母の沈黙。
受難の主よ、あなたの沈黙が、わたしへの、わたしたちへの、計り知れない宇宙のような、深い海のような、あなたの「いつくしみの心」の沈黙であることを、分からせてください。
受難の主よ、わたしたちの石の心、固い心を、あなたの十字架のあがないの死によって、肉の心、あなたの霊によって生かされる心に変えてください。
受難の主よ、弱くみじめなわたしたちを、あわれんでください。あなたは真理そのものです。そしてあなたの真理は、冷酷な裁きではなく、赦すことをあきらめない、赦すことに決して疲れない、父である神の心の真理です。
自分の罪、偽り、過ち、怠りに泣くわたしたちを、かえりみてください。あなたの十字架の傍らに立つ、あなたの母マリアのように、わたしたちも、あなたの恵みによって、闇と絶望の淵にあっても、「はい、わたしはここにいます。主よ、あなたの望みが、わたしの中に行われますように。
わたしは、あなたのみ心だけを望みます、と言い続けることが出来ますように。アーメン。
(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)
・菊地大司教の日記 ⑯聖週間始まる「十字架につけろ」に思う
3月25日 受難の主日@田園調布教会
聖週間が始まりました。洗礼の準備をしておられる方々にとっては、重要な一週間ですし、信仰者にとっては、イエスの死と受難と復活こそが信じる事柄の基本でありますから、クリスマス以上に大切な一週間です。
枝の主日とも呼ばれる受難の主日の今日、田園調布教会に生まれて初めて赴き、ミサを捧げることができました。写真は、フランシスコ会からの借り物です。
そうですこの田園調布教会はフランシスコ会の担当で、昨日と今日、全国のフランシスコ会担当の小教区かた侍者のリーダーたちを集めて、講習会を開催していたのです。30名くらいの侍者が集まり、新潟の高田からも参加者がありました。
ですから今日のミサは、侍者がいっぱい。ミサの最後にはフランシスコ会による侍者の認定証(ちゃんと等級付き)の授与までありました。一番上の等級になると、特製ジャンパーがもらえるのだとか。
で、私はこれに誘われたとき、悩みました。初めての聖週間だからカテドラルの関口教会でミサを司式すべきかとも思いましたが、なんと言っても侍者の集まりです。私の霊名はタルチシオで、この方は初代教会のローマの殉教者ですが、御聖体を守って殺害されたことから、侍者の保護の聖人であります。ですから侍者の集まりと言われると行かないわけにもいかない。というわけで、初めての田園調布教会訪問となりました。
ミサ後には、残った信徒の方々との茶話会もありました。たくさん写真を撮っていただいて、感謝します。
以下本日の説教の原稿です。
その日、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と問いかけるピラトに対して、群衆は「十字架につけろ」と盛んに激しく繰り返し叫んだと、福音には記されていました。
「十字架につけろ」いう短い叫びは、深く考えるまでもなく、なんとなく興奮して集まった人々にはわかりやすいフレーズですから、瞬く間に人々の心をとらえ、大きなうねりとなっていきました。
この大きなうねりを前にしたとき、「落ち着いて考えてみよう」とか「イエスの言うことも聞いてみよう」などという理性的な言葉は力を失います。大きな波に飲み込まれてしまいます。
どんな理性的な言葉も群衆を落ち着かせることはできない、という現実に直面したとき、ピラトは、その大きな波に抵抗することをやめてしまいます。捕らえられていた犯罪者を釈放し、神の子を十字架につけて殺すために渡したのです。
「十字架につけろ」という短い叫びは大きな波となって、集まった人々の興奮を倍増させました。考えてみれば、今日の入堂行列の前の福音朗読にあるように、同じエルサレムの町で同じ時期に起こった出来事ですから、「十字架につけろ」と叫ぶ群衆というのは、その数日前に、イエスを喜びの声を上げて迎えた群衆でもあります。数日前に、イエスを賛美し、喜んでエルサレムに迎え入れたことなど、この大きな波は、人々の記憶からすっかり忘れ去らせてしまいます。
聖書が記している、この「群衆」という存在。それは、自分自身の頭を使って自分としての判断をすることを停止した人々、その集まりを象徴しています。その時々の大きな波に飲み込まれて、喜んでみたり悲しんだり。どちらにしろ、大切なことは興奮していることであって、その興奮を生み出している原因が何であるのか、を考えることはしない。なぜなら手間のかかる面倒なことだからです。
その日、「十字架につけろ」と叫んでいる群衆に、たとえば今の時代のようなテレビのレポーターがそこにいたとして、一人ひとりにインタビューをしたら、どんな答えが返ってくるでしょう。「十字架につけてイエスを殺せなんて、そんな大それたことは言ったつもりはない」とか、「イエスに死んでほしいなんて、実は思ってもいない」などという、無責任な返事があるかも知れません。みんなの興奮に同調して叫んだ言葉への責任など、誰が感じるでしょう。
今の時代、スマホに象徴されるような様々なコミュニケーション手段を、私たちは持っています。それを利用した言葉のやりとりの中で、どうしても気にかかることがいくつかあります。
それは、まず第一に、なるべく「短い言葉」で交わすやりとりであります。なかでも、自分の感情を隠さずに直接表すような、短いけれども激しい言葉が飛び交っている様を、ネット上に目撃することがあります。短い言葉のやりとりが,時として、無責任な言葉の投げつけあいに発展することもよくあることです。長い文章であれば、じっくりと考えなければ意味が通じないので、何回も読み返してみたりする可能性もあるでしょう。しかし短いフレーズは、「十字架につけろ」と同じように、直感的にわかりやすいのです。だから深く考えることもなく、相手に送ってしまう。
短い言葉の投げ合いは,時に人を極端に感情的にさせます。感情的な短い言葉のやりとりは,結局は罵詈雑言の投げつけ合いに発展する可能性を秘めています。短い言葉の投げつけあいで興奮してしまっているやりとりを見るときに、イエスを「十字架につけろ」と叫んで盛り上がっている現代の「群衆」の姿をそこに見るような思いがします。短いフレーズの投げつけあいの世界は、興奮という波のうねりは生み出しても、その言葉から広がる背後の広い世界に目を向けさせることはありません。でも人間は、その広い世界で生きているのです。
教皇様は、本日の世界青年の日にあたり、メッセージを発表されています。今年のテーマは「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた」というルカ福音書の言葉です。
メッセージの中で教皇様は、聖母マリアが天使からお告げを受けたときに、その驚くべき内容に「恐れ」を感じたであろうとして、次のように書いておられます。
「それでは若者の皆さんはどんな恐れを抱いているでしょうか。何が皆さんを心底、悩ませているのでしょうか。多くの皆さんが抱いている「根本的な」恐れは、自分という人間が愛されても、好かれても、受け入れられてもいないのではないかという恐れです。
今日、多くの若者が人為的で実現不可能になりがちな標準に合わせるために、本来の姿とは別の姿にならなければならないと感じています。自分の姿を「画像修正」し続け、仮面と偽りのアイデンティティの後ろに隠れ、まるで自分自身を「偽造(フェイク)」しているかのようです。多くの人が出来るだけ多くの「いいね」を得ようとやっきになっています。自分が不十分であるという心情から、多くの恐れや不安が生じています。」
教皇様は、自分自身の存在に自信がないという恐れの中で、人から好かれたいという願いが、私たちをフェイクな生き方に招き入れていると指摘しています。
私が心配する第二の点はこの教皇様の指摘に関係します。つまり、私たちは本当の人生を生きているのかどうか。フェイクニュースという言葉が有名になりましたが、少し前なら誰も信じなかったような嘘であっても、インターネットでまことしやかに流されるとあっという間に拡散して、群衆は興奮してしまう。中身は、あの人が悪いとか、あれが諸悪の根源だとか、わかりやすい単純な方があっという間に拡散します。まさしく現代の「群衆」による「十字架につけろ」という叫びです。
そもそも私たち自身も、自分を偽ってフェイクな生き方をしていないか。みんなと一緒になって興奮している私は、本当に本物の私なのだろうか。立ち止まって、落ち着いて考えてみる必要があります。
教皇様は、メッセージの中で、実際に人と話をすることの重要さを説いて次のようにアドバイスされています。
「さまざまな選択肢をしっかり見極め選べるよう助けてくれる、同じ信仰をもつ経験豊富な兄弟姉妹に相談するのです。少年サムエルは、主の声を聞いても、すぐにはそのことが分からず、老祭司エリのもとに三度駆け寄りました。エリは最後に、主の呼びかけに対する正しい答えをほのめかします。
「もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。しもべは聞いております』と言いなさい。もし疑いをもったら、教会に頼ることができることを思い出してください」
教皇様は、信仰を同じくする多くの方と、実際にリアルに具体的に関わり、よく言葉を交わすことで、ふさわしい道を見いだすことができると教えられます。
みなさん、受難の主日にあたって、あらためて自分の生き方を見直してみましょう。私はどちら側に立っているのでしょうか。それが興奮の波に巻き込まれ、「十字架につけろ」と叫んでいる「群衆」の側ではないことを祈ります。心落ち着けて、サムエルのように「主よ、お話しください。しもべは聞いております」と答える側に立ち続けることができるように、神様に心を強めていただきましょう。
(菊地功=きくち・いさお=東京大司教)
・Dr.南杏子の「サイレント・ブレス日記」⑱ 転ばぬ先の、その先に…
ギリシャ神話に登場するスフィンクスは、美しい女性の顔と乳房を備えながら、ライオンの体とワシの翼を持つ異形の存在だ。
このスフィンクスが、山路を行く旅人を捕らえて質したという「謎かけ」については良く知られている。「朝は四本足、昼は二本足、夕べは三本足になるものは何か?」という問いである。
スフィンクスの謎かけには、誤った答えを出して食べられてしまう旅人が相次ぐ。そうした中で、ひとりオイディプスが「答えは人間――赤ん坊の時はハイハイの四つ足で進み、成長して二足で歩くようになり、年老いてからは杖をつく」と真理を言い当てたとされている。
ではオイディプスの答えに、「夕べ」の人間が強く抵抗したらどうなるか?
ある事情があって、ステージに立つ必要のある70歳代の女性。足のふらつきや膝の痛みを抱え、さらに筋肉の萎縮や関節の硬化で歩行が著しく困難な状況にある。だが彼女は、「命をかけても自分の足でステージに立ちたい」と涙ながらに言い張り、杖や車椅子の使用を拒否する。その時、彼女からサポートを求められた医師は……。
3月22日発売の「小説現代」4月号(講談社)では、そんなギリギリの状態にある患者と向き合うことになった医師・菜々子の物語「転ばぬ先の、その先に」という小説を書いた。さまざまな困難を抱えながらステージを目指す人たちを、医療の面から支えようとする医師=ステドク=を主人公に据えた連作短編シリーズの第3作だ。
まず、高齢者の転倒については、厳しい現実があることを指摘したい。「転倒は死の前触れ」と指摘する医師は多い。厚生労働省の国民生活基礎調査(2016年)をもとに、40歳以上で介護が必要になった原因を見ると、「骨折・転倒」は、「認知症」「脳血管疾患」「高齢による衰弱(フレイル)」に次ぐ第4位。実に全体の約12%を占める。
しかも年齢層が上がるにつれて、骨折・転倒の割合は増加する傾向が見られる。「全国で毎年7000人以上が転倒や転落が原因で死亡している」とするデータもある転倒で起きる深刻な骨折としては、大腿骨頸部骨折(太ももの骨の股に近い部分の骨折)や脊椎圧迫骨折(背骨がつぶれる)などがある。大腿骨頸部骨折の大半は、屋内で発生している。住み慣れた家の中を歩く際にも要注意だ。
知恵の実を食べることを人間に教えたヘビは、神の怒りを買い、歩くための足を奪われてしまったと旧約聖書にある。皮肉なことにヘビは転倒から「自由」になり、一方の私たちは常に転倒のリスクにさらされる。2014年に設立され、転倒防止に向けた運動プログラムの普及などに力を入れる「日本転倒予防学会」のホームページでも、<2本足で歩行する人間にとって、立った位置からの「転倒」は避けることのできない宿命かもしれません>と記されている。
ならば、「転ばぬ先」にどのような備えをするべきか?
「転びやすい場所を知る」「転倒予防体操を始める」「家の中を整理する」「骨粗鬆症を治療する」「つまずきにくい靴を買う」「杖を使ってみる」――。
幸いなことに、効果が期待できる取り組みはいくつもある。健康寿命を延ばす賢い工夫が数々ある。これを活かさない手はないだろう。なにしろ、はるか昔に<知恵の実>を食べてしまった私たちなのだから。
(みなみきょうこ・医師、作家: クレーム集中病院を舞台に、医療崩壊の危機と医師と患者のあるべき関係をテーマに据えた長編小説『ディア・ペイシェント』=幻冬舎=を1月に刊行。http://www.gentosha.co.jp/book/b11411.html 終末期医療のあり方を問う医療ミステリー『サイレント・ブレス』=幻冬舎=は5刷出来。日本推理作家協会編『ザ・ベストミステリーズ2017』=講談社=に短編「ロングターム・サバイバー」収録)
・Sr.岡のマリアの風 ㉕聖週間の始めに・・黙想と十字架の道行きのために
本部修道院、聖週間の始めに-「賛美の集い」のための覚書―
[祭壇まで行列。各々、四旬節に書いた「手紙」を祭壇前の籠に入れる]
[始めの祈り](祭壇の前で)
主イエスよ、 あなたは、旧約の預言者たちが預言したように、ろばに乗って、ご自分の都、聖なるエルサレムに、王として、メシア・救い主としてお入りになります。
あなたが「王」である、とは、 仕える者であることです。
あなたが「王」である、とは、 わたしたちを、わたしを愛して 命までも捧げることです。
わたしたちの、固く冷たい心が、この聖なる一週間、あなたの一つ一つのしぐさ、言葉、まなざしに触れて、生きた、肉の心に変えられますように。
アーメン
[黙想のために]
今年、2018年は、若者たちについてのシノドス(世界司教会議)が開かれます。パパ・フランシスコは、その前に、若者たち自身による準備の集いを、バチカンで開催しました。
若者たち自身が、自分たちに出来ることを、自分たちの手で、共に行うことによって、教会共同体に新たな力を与えることが出来るように、と。
このパパの思いは、若者たちだけでなく、教会を形づくるすべての信徒、わたしたちにも向けられています。自分たちに出来ることを、自分たちの手で、共に行うことによって、教会共同体を、すこしでも前に進ませることが出来るように。同じ、一つの目的に向かって。「散らされた神の子ら」を集めるために、十字架に「上げられ」、ご自分の命を捧げ尽くした主に従いながら。
教皇は、毎年、ローマのコロセウム(円形競技場)で、十字架の道行を司式します。その時に使うテキストを、パパは、今年、若者たち自身が創るように提案し、それは、16歳から27歳までの14人の若者たち(そのうちの9人は高校生)によって、熱意をもって受け入れられました。
「見ること-出会うこと-祈ること」を鍵として、14人の若者たちは、一つずつの留の黙想を、自分の言葉にしていきました。
わたしたちも、今、自分の心を一番打つ「留」の場面に留まり、聖週間の間、自分の黙想を言葉にして表していけるなら、わたしがイエスとより深く出会う助けになると思います。
*この「十字架の道行」のパンフレット(バチカンHPより)の導入部分を、皆さんと分かち合いたいと思います。[以下、イタリア語より試訳]
今年の「十字架の道行」の儀式の、14留の黙想は、16歳から27歳の間の、14人の若者たちによって作られました ですから、二つの主要な新しさがあります。第一の新しさは、過去の著作から取られたものではないこと、書いた人たちの年齢-若者、青年(彼らの中の9人は、Roma Pilo Albertelliの高校生)に関連して。第二の新しさは、この作業の「合唱性」―たくさんのトーンや響きの異なる声のシンフォニーであること-。そこには、名無しの「若者たち」ではなく、ヴァレリオ、マリア、マルゲリタ、フランチェスコ、キアラ、グレタ…がいます。
彼らは、彼らの年齢に典型的な熱意をもって、若い世代に捧げられた2018年の中で、パパ・フランシスコから提案されたこのチャレンジ(挑戦)を受け入れました。
彼らは机の周りに集まって、四つの福音によるキリストの受難のテキストを読みました。それから、「十字架の道行」の場面の前に自分たちを置き、その場面を「見つめました」。朗読の後、必要な間をとりながら、若者たちの一人ひとりは、どの「場面」が特に心を打ったかを表現しました。このようにして、より単純に自然に、一つひとつの留がふりわけられました。
鍵となる三つの言葉、三つの動詞が、これらのテキストの展開を印しました:先ず、すでにふれたように、見ること、そして、出会うこと、最後に 祈ること若者は、見ることを望みます。世界を見る、すべてを見る。
「聖金曜日」の場面は、その残酷さをもっても強烈です:それを見ることは、反感を引き起こすことも出来るし、または、あわれみ(いつくしみ)、ゆえに、出会いに行くよう促すことも出来ます。まさに、イエスが福音の中で、毎日-そしてこの日、最後の日にも-行ったように。イエスは、ピラトに出会い、ヘロデに
出会い、祭司たち、番人たち、ご自分の母、キレネ人、エルサレムの女性たち、2人の強盗―彼の歩みの最後の同伴者たち-に出会います
若い時、毎日が、誰かに出会う機会となり、一つひとつの出会いは、新しく、驚きに満ちています。もはや誰にも会いたくなくなるとき、人は年を取ります。信頼をもって心を開くことよ、人を閉じ込める恐れが勝つ時、人は年を取ります。変わることの恐れ。なぜなら、出会うことは変わることを求めるから、新しい目をもって、再び歩みを始める準備をすることを求めるから。
最後に、見ることと、出会うことは、祈ることへと促す。なぜなら、見ること、出会うことは、いつくしみ(あわれみ)を生みだすから―たとえ、あわれみに欠けているような世界においても、人々の、無分別な(良識を欠いた)怒り、卑劣な行為、怠慢を放っておくような、今日のような日の中でも-。
もし、イエスに心から従うなら-たとえ、十字架の神秘的な歩みを通してでも-、その時、勇気と信頼が再び生まれます。そして、見た後、出会いに開かれた後、わたしたちは祈る恵みを体験するでしょう。もはや一人だけではなく、共に祈る恵みを。
「道行」の14の留の黙想のために、若者たちが選んだ聖書の箇所は、皆さんに配布したプリントの通りです。[表参照]
第一留:イエスは死を宣告される V:ルカによる福音(23 22 25
第二留:イエス、十字架を負わされる(Maria Tagliaferri e Margherita Di Marco作:マルコによる福音(8 34 35
第三留:イエス、初めて倒れる(Caterina Benincasa作):預言者イザヤの書 53 4
第四留:イエス、母と出会う(Agnese Brunetti作):ルカによる福音(2 34 35
第五留:キレネ人シモンが、イエスを助け、十字架を運ぶ(Chiara Mancini作):ルカによる福音(23 26
第六留:ヴェロニカがイエスのみ顔をぬぐう(Cecilia Nardini作):預言者イザヤの書(53 2 3
第七留:イエス、二度目に倒れる(Francesco Porceddu作):預言者イザヤの書(53 8 10
第八留:イエス、エルサレムの女性たちと出会う(Sofia Russo作):ルカによる福音(23 27 31
第九留:イエス、三度目に倒れる(Chiara Bartolucci作):預言者イザヤの書(53 5 6
第十留:イエス、衣をはぎ取られる(Greta Giglio作):ヨハネによる福音(19 23
第十一留:イエス、十字架にくぎ付けにされる(Greta Sandri作):ルカによる福音(23 33 34
第十二留:イエス、十字架上で息を引き取る(Dante Monda作):ルカによる福音(23 44 47
第十三留:イエス、十字架から降ろされる(Flavia De Angelis作:ヨハネによる福音(19 38 40
第十四留:イエス、墓に置かれる(Marta Croppo作):ヨハネによる福音(19 41 42
今日、ここで、Valerio De Felice作、第一留の黙想を聞きたいと思います。
[試訳]
第一留:イエスは死を宣告される
ルカによる福音(23 22 25
ピラトは、三度彼らに向かって言った、「いったい、この男がどんな悪事を働いたというのか。この男には、死に値する罪は何も認められなかった。だから懲らしめたうえで、この男を釈放することにする」。しかし人々はあくまでイエスを十字架につけるよう主張し、大声で要求した。そして、とうとう彼らの声が勝ち、ピラトは彼らの要求を入れることにした。そして、彼らの要求どおり、暴動と殺人のかどで投獄されていた男を釈放し、イエスを彼らに引き渡し、思うままにさせた。
イエスよ、わたしは、総督の前にいる、あなたを見つめている。総督は、三度、民の要求に反対しようと試み、最後には、民衆を前に-三度、尋ねられ、三度とも、あなたに反対した民衆を前に-、何も選ばないことを選んだ。
民衆、つまり、すべての人々、そしてつまり、誰でもない人々。群衆の中に隠れて、人は、自分の人格(自分自身)を見失い、その他の何千という声の一つになる。最初に、あなたを拒み、そして自分を拒む。自分の責任を、顔のない群衆の、変動する責任の中に分散させながら。
それにもかかわらず、人には責任がある。扇動者たちに迷わされ、人をあざむく、耳をつんざくような声をもって広がる悪に迷わされ、イエスよ、あなたを断罪する人となる。
わたしたちは今日、そのような不正を前に、恐怖を覚え、そこから離れたいと望む。しかし、そのようにしながら、わたしたちは忘れてしまう。わたしが先ず、あなたではなく、バラバを救うことを選んだ、すべての時を。わたしたちの耳が、善の呼びかけに閉ざされていたとき、わたしたちの前の不正を見ないようにしたとき。
この、人でいっぱいの広場の中で、たった一つの心でも、疑いを起こしたなら、たった一つの声でも、悪の何千もの声に反対して上げられたなら、十分だっただろう。人生が、わたしたちを、一つの選択の前に置くたびに、あの広場、あの間違いを思い起こそう。わたしたちの心に疑うことを許し、わたしたちの声に、声を上げるよう命じよう。
主よ、あなたに願います、わたしたちの選択を見守ってください、それを、あなたの「光」で照らしてください、わたしたちの中に、自分を問いただす能力を磨いてください:
「悪」だけが、決して疑いません。地面の中に根を降ろした木は、もし、「悪」によって水をかけられるなら、枯れてしまいます。
でも、あなたはわたしたちの根を、「天」に、そして枝を地上においてくださいます。
あなたを認め、あなたに従うことが出来るように。
「主の祈り
(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)
・菊地大司教の日記 ⑭多摩全生園訪問・カリタスアジア理事会
◎3月18日・秋津教会、多摩全生園訪問

四旬節第五主日、3月18日の日曜日は、秋津教会を訪問し、午前10時のミサを一緒にさせていただきました。この日はミサの中で、教会学校主催で今年度の卒業生(大学生から小学生まで)への祝福の祈りや記念品の贈呈も行われました(。写真上は秋津教会聖堂。下はミサ中の記念品の祝福)
地理の感覚がまだつかめていないので、この日は車のナビゲーションに従って走行。関口の司教館からほぼ1時間15分ほどの距離です。途中までは首都高速を通り、途中から一般道に降りると埼玉県に。自衛隊の朝霞駐屯地などを通過して再び東京都へ舞い戻り清瀬駅前を通過して秋津教会へ。

ここは社会福祉法人慈生会が運営する諸施設に隣接する場所、というか敷地内。教区立のベタニア修道女会がその運営母体となっていますが、ここに、乳児院と児童養護施設、病院と老人ホームが整備されています。乳児院と児童養護施設は先頃新築されたばかりとうかがいました。ミサ後に、シスターの案内をいただき、すべての施設を見学させていただきま した。
秋津教会は、どちらかというと若い層も多い共同体で、この日はミサ後に信徒会館でランチサービスがあり、献金をいただきながら皆でテーブルを囲み、時間も忘れて交流するひとときがありましたが、子どもたちや青年も大勢テーブルを囲み、楽しいひとときでした。
秋津教会の主任司祭は、東京教区の天本神父です。
さてミサが終わり、昼食の交流会のあとに、慈生会の諸施設を見学させていただいた後、車で少し移動して、多摩全生園へ向かいました。
ここは正式名称が、国立療養所多摩全生園。ホームページには園長の石井先生の挨拶が掲載されていますが、そこにこうあります。
「当園は正式名称を国立療養所多磨全生園(こくりつりょうようじょたまぜんしょうえん)といい、全国に13施設ある国立ハンセン病療養所の1つです」
「ハンセン病の患者さんは、これまで、偏見と差別の中で多大の苦痛と苦難を強いられてきました。我が国においては、昭和28年(1953年)制定の「らい予防法」(新法)においても引き続きハンセン病の患者に対する隔離政策がとられ、ようやく「らい予防法の廃止に関する法律」が公布、施行されたのは平成8年(1996年)でありました。
その後、平成13年(2001年)には、ハンセン病国家賠償訴訟に関する熊本地方裁判所の判決を契機として、ハンセン病療養所入所者等の精神的苦痛を慰謝するとともに、ハンセン病の患者であった者等の名誉の回復及び福祉の増進を図り、あわせて、死没者に対する追悼の意を表すため、「ハンセン病療養所入所者等に対する補償金の支給等に関する法律」が公布、施行されました(平成18年〈2006年〉一部改正)。さらに、ハンセン病の患者であった者等の福祉の増進、名誉の回復等のための措置を講ずることにより、ハンセン病問題の解決の促進を図るため、「ハンセン病問題の解決の促進に関する法律」が、平成21年4月に施行されました。引き続き、ハンセン病の患者であった者等に対する偏見と差別のない社会の実現に向けた取り組みが求められています。」
わたしが多摩全生園を訪れるのは、今回が二回目ですが、前回はほぼ40年前。1979年10月頃だったと記憶しています。
その当時わたしはまだ神言修道会の修練士でした。毎年10月に、一ヶ月間の大黙想があり、その指導を上石神井のイエズス会の黙想の家でイエズス会司祭から受けることになっていました。
その年の神言会の修練士は6名。ひとりを除いた5名が、小神学校上がりのまだ20歳そこそこの若造です。一ヶ月の大黙想は、20名ほどのシスターたちと一緒に行われ、ベテランシスターたちの熱心さに比べて、霊的に子どものような私たちは、なんともできの悪い連中だと、指導者からもシスターたちからも見られていたと思います。確かに大変未熟者でした。
そんな大黙想の休日の日曜日、参加者全員でミサに出かけたのが多摩全生園のカトリック教会でした。細かいことはすべて忘れ去ってしまいましたが、鮮明に記憶しているのは、ミサの時に歌われた聖歌です。答唱の歌であったでしょうか、現在の典礼聖歌61番、「神は残された、不思議なわざの記念を」であったと思うのです。
その詩編唱、詩編111です。
「心を尽くして神に感謝しよう。神をたたえる人の集いの中で。神の業は偉大。人はその業を尋ね求めて喜ぶ」
一緒にミサに与っていた全生園の信徒の方が、なかなか出にくい声を思いっきり出しながら、振り絞るように、全身全霊で、言ってみればシャウトするように歌う詩編のこの言葉。
いつも自分たちがミサの時に歌っているのとは、同じ言葉なのに迫力が全く違う。全身全霊を持って神をたたえるとはこういうことなのだ。神の業に包まれて喜びに浸るとはこういうことなのだ。そう心に響いてくる歌声でした。こんな迫力のある聖歌は、それまで一度も聞いたことがなかった。
そこには、歌われている方々の人生のすべてが込められている。命のすべてが込められている。自分もそんな風に、全身全霊を込めて神に向かって叫びたい、と感じさせられる、いわば衝撃的な体験でした。
この日のミサの中で、その思い出を少し話させていただきました。その当時の感動がよみがえって、ちょっと涙ぐんでしまいました。ミサ後の茶話会で、「それはきっとあの人だ」と教えていただきました。当時、高田三郎先生が歌唱指導に訪れて、やはりその全身全霊を込めて歌う声に接し、人生そのものを背負って歌われている方々に指導することはなにもないと言われたというお話もしてくださいました。その通りであったと思います。

多摩全生園の信徒の方々に、感謝します。わたし自身の信仰の道にあって、本当に刺激的で力ある体験をいただきました。今回またこうしてミサのために戻ることができて、そのことにも感謝です。
3月18日 (日)カリタスアジア理事会@東京
カリタスアジアの理事会が、久しぶりに東京で開催されました。
カリタスアジアは、国際カリタスを形成する世界七つの地域の一つで、現在アジアにある23のカリタスが名を連ねています。カリタスジャパンもカリタスアジアの一員として、国際カリタスの連盟を形作っています。現在のカリタスアジアの責任者は、2011年からわたしが務めていて、一期4年で現在二期目。再選は二期までですから、2019年の5月でわたしの役目は終わることになります。
カリタスアジアの事務局はタイの首都バンコクにあり、フィリピン出身の事務局長を始め、タイ、インドネシア、カンボジア出身の職員で、総勢5名がフルタイムで働いています。
カリタスアジアはアジア全体を東、東南、南、中央の四つに分けており、その代表を持って理事会を構成しています。現在は、東がマカオ、東南がミャンマー、南がパキスタン、中央がモンゴルで、英語を公用語にして会議をしています。通常は理事会をバンコクで開催するのですが、今回は私の都合で、久しぶりに東京での開催としてもらいました。前回東京で開催したのは、私がまだ司教になる前に理事を務めていた2002年頃だったと記憶しています。
今回は、3月14日の初日は朝から晩まで理事会の会議を行い、15日は福島へ出かけました。特に今回はローマにある国際カリタスの本部から事務局長のミシェル・ロワ氏が参加してくださったこともあり、ちょうど福島の原発事故から7年目のミサが15日に南相馬の原町教会で行われることでもあり、参加者全員で電車に乗り、上野からいわきを経由して富岡まで行き、そこからはカリタス南相馬の方の案内で被災地視察をしながら、最後は原町でミサに出席。
カリタスアジア理事会メンバーと国際カリタスの事務局長は、事故から七年が経過した今でも避難せざるを得ない人が多くおられる現実や、分断された地域共同体の現状、また復興の進んでいない地域の現状を実際に目にされて、本当に驚いておられました。また国際カリタスのロワ事務局長は、あらためて世界的規模で原子力発電の必要性を見直す道を模索することの重要性を今回の視察で強く感じられ、帰りの道中は脱原発の道を模索することの重要性を強調されていました。
(菊地功=きくち・いさお=東京大司教)
・菊地大司教の日記 ⑬あの日から7年・・一粒会総会
(2018.3.12 司教の日記より)
あの日から7年・・一粒会総会で
東日本大震災発生から7年がたち、昨日は各地で祈りがささげられました。あらためて、大震災で亡くなられた多くの方々の永遠の安息を祈ります。また復興の過程で亡くなられた方々のためにも、心から祈ります。さらには、普通の生活を取り戻すために、日々取り組んでおられる多くの方々のためにも、神様の守りと導きを心から祈ります。
昨日は午前10時から、カテドラルの関口教会で主日ミサを司式させていただき、そのなかで特に祈らせていただきました。なお、午後3時からは神学生の選任式がケルンホールで行われました。東京教区の小田神学生が祭壇奉仕者に、同じく東京教区の宮崎神学生が朗読奉仕者に、さらにレデンプトール会の下瀬神学生が朗読奉仕者に選任されました。この選任式は、東京教区の一粒会総会の前に行われ、総会参加者をはじめ、多くの方が参加し神学生のために祈ってくださいました。写真は、昨日の一粒会総会です。
一粒会は神学生の召命のために祈り、また養成のために献金をしてくださる組織です。神学生が司祭になるには最短でも6年かかります。その間、召命の道を歩んでいくためには、皆様のお祈りによる支えが不可欠です。加えて、具体的には養成の費用(神学院の運営費。授業料など)がかかりますので、そのための資金的面での支援もお願いしております。また東京教区では、すべての信徒の方が自動的に一粒会の会員となっております。どうぞ、将来の教会共同体に奉仕する司祭の誕生のために、お祈りと献金をよろしくお願いいたします。
以下、昨日の10時のミサの説教の原稿です。
東北地方一帯、特に太平洋沿岸において巨大な地震と津波が発生し、日本全国だけにとどまらず世界中に衝撃を与えた2011年3月11日のあの日から、今日でちょうど7年となりました。あらためてこの大災害で亡くなられた多くの方々と、この7年間の復興の過程で亡くなられた方々の永遠の安息を祈りたいと思います。
人生の中で、あの日あのとき、どこで何をしていたのかを明確に記憶している出来事は、それほど多くはありません。多くの方にとって、少なくともわたしは、あの日どこにいたのか、何をしていたのか、明確に記憶に残っています。それほどに、私たちにとって衝撃的な出来事でありました。
7年前に、被災地の復興にこれほどの時間がかかるとは想像すらしておりませんでした。この7年という時間は決して短いものではありません。それにもかかわらず、いまだ報道などで「仮設住宅」にお住まいの方々のお話や、自主避難生活を続ける方々のお話を耳にいたします。その度ごとに、この災害による被害の甚大さをあらためて認識させられます。
政府の復興庁の統計によれば、昨年12月の段階で、8万人近い方々がいまでも避難生活を送られているといいます。被災地の方々が、何か特別なことを求めているというわけではないと思うのです。ただただ、普通の生活を取り戻したい。しかるにこれほど多くの方が、その当たり前の願いを叶えることができずにいるということを、私たちは心にとめなくてはなりません。
カトリック教会は、全国の教会をあげて、被災地復興支援に取り組んできました。オールジャパン体制などと呼んでおります。被災地はほとんどが仙台教区でありますので、仙台を中心に、各協会管区が仙台教区との協力の下、東北の各地に拠点を設けて、ボランティアの派遣などを行ってきました。これを、カリタスジャパンが国際カリタスとの協力の中で、資金的に支えてきました。
被災地の復興には様々な段階がありますが、7年が経過した今、地域共同体の復活のため地元の方々の活動が中心になる中で、カトリック教会の支援活動も、地元の方々を中心とする体制へと変化を続けています。
同時に、教会は震災10年目となる2021年3月までは、このオールジャパン体制での復興支援を継続することも決めております。それは、被災地で取り組まなくてはならないことがまだまだ多くあるということを再認識させられているからです。とりわけ、原子力発電所の事故の影響が残る福島県内では、復興の歩みにはさらなる時間が必要だと感じさせられます。昨年9月に被災地を訪れ、南相馬市などを視察されたバチカン福音宣教省長官のフィローニ枢機卿も、震災発生からこれほどの時間が経過しているにもかかわらず地域共同体が再生できていない現実をあらためて驚きとともに認識され、地域再生のために祈りを捧げるとともに、特に福島の実情を教皇フランシスコに報告されました。これからも被災地の皆さんに心を向け、復興のために祈りのうちに歩みをともにする決意を新たにしたいと思います。
私たちの信仰は、絶望の淵から必ずや新しい希望が生み出されることを教えています。最高の指導者であったイエスが十字架で殺されていったという出来事を体験し、絶望の淵にあった弟子達に、イエスはご自身の復活の栄光を示して、その絶望の暗やみから新しい生命への希望が生まれることを示されました。これこそが私たちの信仰の基本です。
今日の福音でイエスはニコデモに受難と死を通じた救いについて語りながら、「信じるものが皆、人の子によって永遠のいのちを得るためである」と語りかけます。パウロもエフェソの教会への手紙で、人間の自らの力ではなく、神が私たちを愛してくださるからこそ救いが与えられるのだと指摘します。
私たちが何かをして成果を上げたから、そのご褒美として神から愛してもらえるのではなく、神が自らの似姿として創造されたこのいのちを、よいものとしてその始まりから愛し抜かれているからこそ、永遠のいのちへと招いてくださるのだ。それは人間が勝ち取ったものではなく、無償で与えられた神からの賜物であるとこの聖書の箇所は教えています。
私たちの国を襲ったこの大災害に直面し、悲しみの淵に追いやられた多くの被災者の方々と歩みを共にしながら、私たちキリスト者には、希望のともしびを掲げる責務があります。そうでなければ、キリスト者と呼ばれる資格はないではありませんか。私たちを先に愛してくださった神が、自らを犠牲にして新しい生命への希望を与えてくださったのですから、その希望の光を多くの方に分かち合うのは私たちの責務です。とりわけ、困難に直面する多くの方に、光から遠ざけられている多くの人に、出かけていってその光を届けようとするのは、キリスト者の責務です。
私たちが掲げることのできる希望のともしびの一つは、愛の奉仕のうちに助け合う人々の姿であると思います。キリスト者は、その性格が優しいから愛の奉仕を行うのではなく、先に神から愛されたからこそ、その愛を他者に分かち合わざるを得ない。そうせざるを得ないのです。助け合い支え合う姿は、それ自体が神の愛の生きたあかしであります。
私たちの教会共同体が、この社会のただ中にあって、常に希望の光を高く掲げる存在となり得ているか、自らのあり方をも真摯に振り返ってみたいと思います。私たちは、教会として、神が、誰ひとり例外なく、いのちを与えられた存在をすべて愛しているのだ、すべての人によりよく生きてほしいのだ、すべてのいのちの尊厳が護られてほしいのだ、そのように願っているということを、その神のほとばしる人間への愛の思いを、具体的にあかしする存在でありたいのです。そして、神の愛をあかしする教会共同体を作り出すのは、誰かではなく、私たち一人ひとりの責務であることを、この四旬節の信仰の振り返りのうちに、あらためて心に刻みましょう。
(菊地功=きくち・いさお=東京大司教)
・菊地大司教の日記 ⑫主にささげる24時間@東京カテドラル
2018年3月10日
教皇フランシスコは、四旬節第四主日直前の金曜日夜から土曜日夜までの24時間を特別な祈りの時間として定め、2015年以来毎年、「主にささげる24時間」と名付けての取り組みを推奨してこられました。
今年は、3月9日金曜日から10日土曜日まで、「ゆるしはあなたのもとにあり」という詩篇130編4節の言葉をテーマと定め、聖体礼拝とゆるしの秘跡の機会が提供されるようにと四旬節メッセージに記されています。

東京カテドラル関口教会の地下聖堂では、3月10日土曜日の朝7時から行われるミサ後から、夕方午後6時に行われる同教会の主日のミサまでの間、聖体を顕示し、ともに祈る場といたします。
今朝のミサはわたしが司式させていただきました。夕方まで御聖体は顕示されていますので、どうぞお祈りにお立ち寄りください。また、明日、3月11日の10時の関口教会主日ミサは、東日本大震災の復興のための祈りとして、わたしが司式いたします。

以下、今朝のミサの説教です。
私たち信仰者の生きる姿勢は、人間中心ではなく、神中心であります。しかしながら今や現代社会は人間中心になり、人類の知恵と知識と技術を持って世界をコントロールできるのだ、いのちでさえもコントロールできるのだと考えております。人間がすべての王様になったとき、そこに神の存在する場所はなくなってしまいます。
たとえば7年前の大震災のような自然の脅威の前で、なすすべもなくおののくとき、人間は初めて世界をコントロールできるのは自分たちではなく、自分たちを遙かに超える力がそこには働いているのだと悟ります。そして神の存在に目を向けるのですが、残念ながら時間がたつにつれ、再び私たち人間は、神のことなど忘れ去り、人間中心の世界に舞い戻ってしまいます。人間が万能であり、その幸福をのみ追い求める価値観は、徐々に自分さえ良ければという自己中心主義に到達します。
なぜなら、すべての人に同じように幸福を保証することなど人間の力では不可能だと、すぐに気がついてしまうからなのです。それならば、せめて自分だけは、と自己中心に陥るのです。そして教皇様がしばしば指摘されるように、自己中心主義は、他者への無関心を、とりわけ助けを必要とする弱い存在への無関心を生み出します。それはすなわち、愛の欠如でもあります。
教皇様は今年の四旬節メッセージの中で、次のように指摘されます。
「使徒的勧告『福音の喜び』の中で、わたしはこの愛の欠如のもっとも顕著なしるしを描こうとしました。それらは怠惰な利己主義、実りをもたらさない悲観主義、孤立願望、互いに争い続けたいという欲望、表面的なものにしか関心をもたない世間一般の考え方などです。こうして、宣教的な情熱は失われていきます」
人間中心主義に陥るとき、教会では宣教的な情熱すら失われるのだ、と教皇様は指摘されています。
四旬節にあって私たち信仰者は、人間中心ではなく神中心で生きることの重要性を、今一度、思い起こしたいと思います。傷ついた私たちが立ち返るのは人間の知恵や知識や技術ではなく、いやしを与え、傷を包んでくださる主のもとだ、とホセアは預言します。
人間の自己満足である生け贄をささげることや、焼き尽くす捧げ物を差し出すことではなく、愛であり、神を知ることであるとホセアは語り、人間中心ではなく神を中心にして生きるようにと、私たちを促しています。
ルカ福音は、まさしく人間中心の見本であるかのようなファリサイ派の人を登場させます。この人物の正しさは、結局、神のためであるよりも自分の満足のためであることが、その言葉から明らかになります。しかし徴税人は、すべてを投げ出して自らを神の手の中にゆだねるのです。神中心に生きようとする姿勢であります。
四旬節は、私たちがどのような姿勢で生きていくのかを、信仰の目であらためて見つめ直し、その上で神にすべてをゆだねきる決断を改めてするように、と私たちを招いています。そのための特別な時間として教皇様は、四旬節中に主の御前でじっくりと祈り、ゆるしの秘跡を通じてすべてを神にゆだねるように、と四旬節第四主日直前の金曜日夜から土曜日夜までの24時間を特別な祈りの時間として定め、2015年以来毎年、「主にささげる24時間」と名付けての取り組みを推奨してこられました。そして今年は、3月9日金曜日から10日土曜日まで、「ゆるしはあなたのもとにあり」という詩篇130編4節の言葉をテーマと定め、聖体礼拝とゆるしの秘跡の機会が提供されるように、と四旬節メッセージに記されています。
教皇様がテーマとして取り上げられた詩篇130編の冒頭から、少し読んでみましょう。
「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。 主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。 主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐えましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです。 わたしは主に望みをおき/わたしの魂は望みをおき/御言葉を待ち望みます」
両手を大きく広げ、すべてをゆだねるようにと私たちを招いてくださる主の存在を感じさせるような詩編の言葉であります。神の前に素直に頭を垂れ、徴税人のようにすべてを神にゆだねきって、主にそれぞれの叫びを上げましょう。
このミサから、今晩のミサまで一日、この聖堂で主イエスの現存である御聖体を顕示し、その御前で祈りながら、自分が人間中心となっていないか、振り返ってみましょう。御聖体のうちにおられる主イエスに、すべてをゆだねきることができているか、私たちの生き方を振り返ってみましょう。
教会の伝統は私たちに、四旬節において「祈りと節制と愛の業」という三点をもって、信仰を見つめ直すように求めています。この四旬節、どのように信仰生活を過ごしているのか、今日のこの特別な祈りの日を通じて、ゆっくりと黙想いたしましょう。
⇒菊地大司教の「司教の日記」はhttp://bishopkikuchi.cocolog-nifty.com/で、これまでの日記の全文がご覧になれます。
・三輪先生の国際関係論 ㉕大東亜共栄圏の亡霊
歴史をやっていると、過去を美化するか、醜悪化しているかも知れない、という懸念にとらわれることがある。大東亜戦争という先の戦争は、そんな戸惑いを起こさせる研究対象の一つである。
八紘一宇という大義を信じて、戦地に向かった若者は一人や二人ではない。彼らは現地で見た権力の横暴さと、初期の歓迎ムードが反発と抵抗、そしてゲリラへと漸次変化、崩壊していく様に驚愕しただろう。歴史家はこの事実にどう対峙し、どう記述できるだろう。
こんな事を久しぶりに考えさせられたのは、『日本経済新聞』の記事に遭遇したからである。2018年3月6日の社会面にこんな大見出しがあった。
除染作業に技能実習生 ベトナム男性「説明なかった」 専門家「制度の趣旨逸脱」 「知ってたら来なかった」 不安大きく昨年失踪 「日本人と同じ仕事」会社社長
建設現場の仕事かと思い、渡航費に大枚をはたいて来てみれば、汚染表土の撤去作業と分かった。いやなら帰れと社長は言うが、借金の返済は、ベトナムの稼ぎでは10年はかかる。帰るに帰れない・・。
この記事を読んで、私は日本人の良心の事を想った。
大東亜戦争開始の日、藤山愛一郎の警告を新聞の第一面で読んだ。軍事占領したオランダ領インドネシアを、解放せず、もし日本の領土に編入したりするのなら、この戦争の意味はなくなる。道義国家日本の「八紘一宇」という大義は絵に描いた餅に過ぎず、道義的な戦争などと言うものは、現実にはありえないことの、もう一つの実証例を提供したに過ぎないことになる。
私は大東亜戦争の事を「解放と侵略の両義性」においてとらえている。善と悪が表裏をなす典型的な後発植民地帝国国家の必然と考えている。
かつて上智大学の国際関係研究所がメキシコの大学院大学との共同研究会議の成果を川田侃・西川潤編『太平洋地域協力の展望』(早稲田大学出版部、1981)として出版したことがある。私は「『アジア』における日本の位置―東南アジア諸民族の日本人観と『環太平洋連帯構想』に関係して―」と題する論稿を掲載した。
すると本書の巻末に、コメントを寄せたメキシコの国会議員ヘスス・ブェンテ・レイバは最初に、私の論考に触れ、歴史研究の一つの傾向がここに示されている、として、「道義的な諸原則に対して好意的」姿勢を示している具体例である、と述べた。先進富裕ヘゲモニー国家と後発の貧困国家との関係に対して、この姿勢がいみじくも顕現しており、批判であると共に、的確に現実の歴史研究の位相を示している、としていた。
私は上にあげた『日経』の記事を見た時、このコメントの事を思いおこし、忘れていた歴史の亡霊に出会ったような寒気をおぼえたのである。(2018.3.7)
(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所長)
・森司教のことば ⑳人間の良心への呼びかけとしての『ラウダート・シ』ー神の前で問われる人の責任ー
安全神話がどんなに信じられないものであるかは、福島の第一原発の事故から学んだ筈なのに、「安全である」と言う掛け声のもとに大飯原発の再稼働への布石が着々と進められている。経済活動を支えると言う名目であるが、一度事故が起これば、放射能汚染ほど人を不安に陥れ、自然を破壊してしまうものはない。
この地球の秩序と調和の破壊と人々の幸せを奪ってしまうと言うことに関して、私たち人間ほど、罪深い者は他にいない。
創世記の一章の天地創造の物語では、世界は明るい光に包まれ、闇を感じさせるものは何もない。初めにあった闇も深淵も、神の働きとともに消え去っている。一日ごとに「神は良いと思われた」という言葉が繰り返され、その業をすべて完成されたときには、「極めて良かった」と物語は結ばれている。
闇も翳りもない光輝く世界。そんな世界を、神は、「産めよ、増えよ、地に満ちて、地を従わせよ」(創世記1の28)と言って人に委ね、人を祝福する。そこには、人に対する期待と人に幸せになってもらいたいと言う神の思いが込められている。
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しかし、歴史を振り返れば明らかなように、人は、この世界を破壊し、隣人には地獄のような苦しみを与えてその幸せを奪い続けてきてしまってきているのである。
「産めよ、増えよ」という点では、人はかろうじて神の期待に応えてきたと言えるかもしれない。国連の人口白書によれば、世界の総人口は70億人を超え、今後も増加の一途を辿ると予測されている。
しかし、その陰には、幸せを踏み躙られて悲しみの淵に陥れられてしまった無数の人々が存在する。
実に人類が誕生して以来、殺傷事件がなかった日や紛争や戦争が行われなかった年はなく、この世界は、打ち倒されて嘆き悲しむ人々が流した涙と命を奪われた人々が流した血によって覆われてしまっている、と言っても過言ではない。
悲しいことに、それは遠い過去のことではなく、今も繰り返されているのである。ナチスによる600万人以上のユダヤの人々の虐殺は、高々70年前のことであり、70年代にはポルポト派政権による大虐殺、90年代にはルアンダの民族紛争による大虐殺、さらに現代ではミヤンマーでのロヒンギャの人々に対する虐待と続いている。
この後も、人間の心が変わらない限り、この地球の上では、テロ事件や民族紛争が噴出し、多くの人々の幸せへの道が閉ざされていくに違いない。
人に対してだけではない。私たち人間は、この世界の秩序と調和を破壊し続けてきているのである。その破壊は19世紀に入って産業革命以後急速に進み、産業廃棄物や生活廃棄物によって自然環境の汚染は進み、オゾン層の破壊や温暖化現象を招いて、地球そのものが人の生存を危くしてしまう場になってしまったのである。その延長上に原発の問題がある。
それをもたらしたものは、少しでも多くの利益を得たいと言う人間の欲望と少しでも快適な生活をエンジョイしたいと言う人間の願望である。
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私たちキリスト者は、天地創造の初めに光輝く世界を人に委ね、人に幸せになって欲しいと願った神の前に、どのような顔で立つ事が出来るのだろうか。目先に幸せに求めて展開する現代社会にあって、キリスト者としてアイデンテイテイが改めて問われてくるのではなかろうか
現教皇の回勅『ラウダート・シ』は、改めてこの世界に対する人間の責任を問う、重要な回勅である。それは、現代社会の中にあって、あなたは、どのような生活を求めるのか、幸せを奪われていく多くの人々の悲惨な現実に、どのような心で向き合おうとしているのか、私たちの良心への呼びかけになっているのである。
(森一弘=もり・かずひろ=司教・真生会館理事長)
・Sr 阿部のバンコク通信 ⑱各国大使館と赤十字共催のバザーに女子パウロ会も参加!
在タイ各国大使館(大使夫人)と赤十字共催の、51 回目のチャリティバザーが、 バンコク都心のサヤムパラゴン百貨店で開催されました。 2月24-25日、5階の催物会場の全域を使い、 54ヵ国が国旗を掲げ自国特産品を陳列して盛大に行われました。 入口にはお買い物貸し出しバックが、 本当に多勢の人々で賑わい世界村を感じさせる出来事でした。
聖座の秘書官神父様に招かれ、 女子パウロ会も一般市民に向けて展示、宣教の好機を得ました。 前日ヴァティカンの車に付いて搬入、ヴァティカンは6ブース( 内4はカトリック関係の施設等の出展)、 初出場の女子パウロ会は教皇庁の出展する聖品の隣、 同じブースの一部に、 バチカンの旗を掲げ等身大のスイス衛兵をバックに並びました。 隣のブースはブルーノ神父様(ミラノ宣教会) が山岳民の村人と栽培するブルーノ珈琲、 美味しい珈琲の香り漂わせて、 観想会シスター作のクッキーと並べて販売。
24日8時半、開催に先立ちシリントン姫様ご臨席の開幕式。 各国代表は会場口に整列して挨拶に立ち、私たちは展示場で待機。 暫くすると多勢の従者に従われシリントン姫様が、 丁寧に各国の展示場を廻リ始められました。 私は2冊の本を選び胸に抱いて待機。 女子パウロ会の前に差し掛かるお妃様に、 説明しながら差し出しました。
選んだ2冊は『この子を残して』と『風の交響曲』のタイ語出版。 本がお好きな方で、ご自身でもお書きになる方、 直々に受け取って頂いただけでも幸せ、 読んで下さったらと願っています。 タイに来てからずっと願っていた恵みのひとつが叶いました。 Deo Gratias!
(阿部羊子=あべ・ようこ=バンコク在住、聖パウロ女子修道会会員)
・Dr.南杏子の「サイレント・ブレス日記」⑰真夜中の「♯7」

昨年12月、新潟県で新しい電話相談サービスが始まった。
夜間の急な病気やけがに対して、「今すぐに救急車を呼ぶべきか?」「夜のうちに医療機関を受診する必要があるのか、朝になってからでも良いのか?」などについて、専門家のアドバイスを受けることができるサービスだ。
新潟県がスタートさせたのは、総務省消防庁が導入を働きかけている「救急医療電話相談(♯7119)」だ。消防庁はこの短縮ダイヤルを全国共通のサービスにして、不要不急な救急車の利用や医療機関の受診を減らし、医師の負担軽減につなげたい考えだ。ただ、これまでに「♯7119」サービスを実施しているのは、東京都、埼玉県、大阪府、福岡県など大都市圏を抱える7都府県にとどまる。新潟県のサービス開始は、日本海側の自治体としては初めてだ。
では、なぜ新潟県は、このサービスを導入に踏み切ったのか? 「夜間の救急医療電話相談を実施しています」と県民に向けてサービス開始を告知する新潟県のホームページを見ても、具体的な理由は明記されていない。しかし、背景に一つの不幸な事件があるのは明らかだ。
2016年1月、新潟市民病院の女性研修医(当時37歳)が自殺し、翌2017年6月になって労災認定されたというニュースは記憶に新しい。亡くなった女性医師は過労からうつ病を発症していた。彼女の月平均時間外労働(残業)時間は、「過労死ライン」とされる月80時間の2倍を超える約187時間で、最も多い月では251時間に達していたという。市民病院を運営する新潟市は、医師の労働環境の改善を図るために新潟県に協力を要請しており、「♯7119」サービスの開始はそうした事業の一環である――と地元では報道されている。
1月25日に筆者が刊行した医療小説『ディア・ペイシェント』(幻冬舎)でも、日々の診療現場で激しく迷い、揺れ動き、自ら命を絶ってしまう医師の姿を描いた。
多くの方が病院の診察室で向き合うのは、孤高の天才外科医でもない、「神の手」を持つ名医でもない。地味で、普通で、ただ誠実であろうとする医師たちだ。そんな彼らが、心の芯から疲弊し、死を選んでしまうような厳しい現実は、社会の誰をも幸せにするものではない。
新潟市民病院で研修医が自殺したというニュースが報じられたのと同じ昨年のことだ。宅配便ドライバーの長時間労働や残業代の未払いが、同じように大きな社会問題になったことを多くの方が覚えておられるだろう。
そして私たちは、小さな一歩を踏み出した。再配達の時間短縮を認める、宅配ボックスを増やす、運賃の値上げを受け入れる。今まで「当たり前の仕事をしている人たち」と思い込んでいた、大切な荷物を家まで運んでくれる宅配便ドライバーさんたちの存在に心の目を向ける――。社会の空気は、確かに変わり始めた。
同じことが医療の現場でも進んでほしい。真夜中に少し体調を崩したとき、「119」の前に「♯」と「7」を押すだけでもいい。そんなことを感じている。
(みなみきょうこ・医師、作家: クレーム集中病院を舞台に、医療崩壊の危機と医師と患者のあるべき関係をテーマに据えた長編小説『ディア・ペイシェント』=幻冬舎=を1月刊行。http://www.gentosha.co.jp/book/b11411.html 終末期医療のあり方を問う医療ミステリー『サイレント・ブレス』=幻冬舎=は5刷出来。日本推理作家協会編『ザ・ベストミステリーズ2017』=講談社=に短編「ロングターム・サバイバー」収録)
・Sr.石野のバチカン放送今昔 ⑳教皇訪日準備・ビジネスホテルは満員




