Sr岡のマリアの風⑫ 独り言…神学校の授業を終えて…

 2017年度の神学校での授業(マリア論)を終えて、ほっとしているのと同時に、主が望んでいることに、誠実に、単純に―自分の名誉とか利益とかを求めず―答えただろうかと、自問しているところだ。主イエスの母、マリアについて話すときは、いつも、そうだ。ある意味、自分自身の信仰と向き合うところから始まる。「あなた方のうちで一番の者になりたい者は、みなの僕(しもべ)となりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人の贖いとして、自分の命を与えるためである」(マコ10・44-45)というキリストの言葉を、わたしたちは何度聞いたことか、そして、何度口にしたことか―そして、それを何度、相手に(自分にではなく)要求したことか!-。でも、人間の本性―nature-は、弱い。それは、神学的理論というより、わたしたち自身が、経験をもって知っている。

 「学ぶ」という作業は、ひたすら忍耐を要求する。すぐに結果が出ない場合は、なおさらだ。「スピード・ラーニング」が魅力的なのは、わたしたちが、出来るだけ簡単に、手っ取り早く、知識を身につけたいからだ。パソコンやインターネットによって、以前、図書館に行き、本を捜し、頁をめくり、書き写し…と、ひじょうに時間のかかった一連の作業によるリサーチが、あっと言う間に出来るようになった。20年前、ローマで勉強していたとき、何かと「日本の人口は?国土の面積は?キリスト教徒の数は?…」と聞かれ、数字に弱いわたしは、手帳に書き留めて持ち歩いていたものだ。それが今は、インターネットで調べればすぐに答えが出てくる。

 そのような「学び方」に慣れている若い世代に、まず、「学ぶ」ことを教える。それは、「仕える」ことだと思っている。自分の満足を求めるのではなく、相手の善のために仕える。そして、その「善」は、たぶん、後になって分かる。

 マリア論の授業や講話を100人が聞いて、その中の1~2人が興味をもち、そこからさらに、生涯をかけてこの学問分野を深めたいと願ってくれればいい、と思っている。神学のどの分野でもそうであるように、マリア論も、それほど奥が深く、人生全部をかけても、知り尽くすことはないからだ。

 神学校で教え始めて、今年で11年目。マリア論を学んだ神学生たちのうち、何人くらいが、「面白い学問だ、もっと知りたい」と思っただろうか。時々、教え子が「ヘルプ・メール」をくれる。司牧の現場などで、マリアに関することで、どのように対応したらよいのか分からない時に。そういう時は、何を差し置いても、出来るだけ丁寧に返事を書くように心がけている。それが、わたしの「つとめ・仕えること」だと思うから。わたしの恩師、サルバトーレ・ペレッラ教授(神父)は、ひじょうに忙しい人であるが、わたしがマリア論に関して質問メールを出せば、ほとんど必ず、返事メールが来る。「神学者のつとめは、教会に奉仕すること。つねに、教会に忠実であるように」とは、ペレッラ教授が繰り返しわたしに叩き込んでくれたことだ。「わたしが…」ではなく、「教会」、「神の民」に仕えること。教会が、この世での、キリストの救いの「現場」となるように。

 毎年、神学校での短い講義のために、わたしなりに全力をかける。将来の司祭たちを通して、教会に仕えたい、という、わたしなりの理解だ。

 「仕える」こと、完全に他者のために尽くすことは、難しい。でも、それこそ、主イエス・キリストがわたしのために、わたしたちのためにしてくださったことだ。母マリアは、わが子の、その心を、自分の心としていった。「わたしは主のはしためです」と潔く宣言するマリアが、わたしは、本当に好きだ。この学問を学ぶことが出来たことに感謝しつつ…。

(岡立子・おかりつこ・けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

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2017年6月26日 | カテゴリー :