(2022.1.15 La Croix Robert Mickens |バチカン市国)
最近行われたバチカンの幹部人事は、1580年代にさかのぼるその官僚機構の習性を変えることがいかに難しいかを浮き彫りにしている。
*助祭、司祭、司教、大司教、そして枢機卿ー聖職者には厳密な階級がある
ジャコモ・モランディ大司教とは誰だ?世界中のほとんどのカトリック教徒が彼の名前を聞いたことがなかっただろう。もっとも、彼が大司教だから、ある程度は重要な人物であり、カトリック教会の階層社会のかなり上位になるに違いない、という推測は成り立つ。階層の観点から教会を見るのは、好むと好まざるとに関わらず、私たちのカトリックのDNAに組み込まれているのだ。
聖職者には厳密な階級があり、教会の”はしごの段”が何を意味するか私たちは知っている。たとえば、すべてのカトリック教徒は、彼らの教区司祭が助祭よりも大きな権威を持っていることを知っている。
司牧者が「モンシニョール」であるならば、この名誉称号を与えられるために”何か重要なこと”をしたに違いない、と受け止める。(教皇フランシスコは2013年9月に、司祭を「名誉高位聖職者」として「モンシニョール」と尊称することを暫定的に差し止めた。尊称要請の承認はバチカン国務省が行っている。第二バチカン公会議以来、尊称認可は激減したものの、ここ数年は復活している)。
そして、「司教」がいる。司教が教区の司祭の上に立ち、上司であることをカトリック教徒に伝える必要はない。「大司教」はどうか?カトリック教徒は、彼らが単なる司教よりも一段高いことを知っている。この地位の男性(数は少ない)は、(通常は)大司教区を監督し、司教より大きな責任を負っているからだ。 聖職者の最上位の階層は「枢機卿」だ。教皇を除けば、彼らはカトリック教会の階層のcreme de la creme (最高の中の最高)だ。ほとんどすべてのカトリック教徒はこれを当然のことと考えている。
*古典的な”バチカン様式”による”降格人事”
元の質問に戻ろうージャコモ・モランディ大司教とは誰か?彼は、移動発表の直前まで教理省の次官だった。教皇フランシスコは、2015年にこのイタリア人神学者をバチカンの主要官庁に呼び入れ、2年後、次官に昇進させ、大司教にした。だが、今月10日、教皇は彼をイタリアのレッジョ・エミリア教区の長に任命したことが発表された。
イタリア北部の人口50万人の教区長への任命は、バチカンの専門家や教皇庁で働くほとんどの人々から”降格人事”と受け止められた。結局のところ、教皇は、彼を「大司教区」ではなく、ただの「教区」に大司教を送り込んだのだ。教皇が彼に、大司教という”個人的な称号”を保持させたのは、ある種の”慰め報償”と、見なされた。
一部のバチカン関係者は、この人事を、昨年2月に厳しい言葉で書かれた、同性カップルに対す教会での祝福を禁じる文書を起草する際に、前次官が果たした役割に対する”懲罰人事”だと推測している。文書の中で、多くの人々(教皇フランシスを含む)を怒らせたのは、神は「罪を祝福しないし、祝福できない」という一節だった。この文書には、教理省長官のルイス・ラダリア枢機卿がモランディ次官・大司教と共に署名し、教皇が公表を許可した。
しかし、教皇の側近によると、教皇は、この文書を少なくとも注意深くは読んでおられなかった。そして、教皇は、公表された文書が引き起こした極端に否定的な反応を快く思わず、バチカンから、その文書の”著者”を追放することを決めた、と関係者の間で推測されている。
それが、この事件の顛末。1588年に教皇シクストゥス5世がこの中央官僚機構を設立して以来、ローマ教皇庁で物事が行われてきた手法に、今回のやり方が適合している、という、ただそれだけの理由で、妥当なやり方なのだ。
ともあれ、このようなやり方は、教皇フランシスコが9年前に就任して以来手を付けようとされてきた(第二バチカン公会議の理念に沿った)教会改革のビジョンとは、まったく軌を一にしていない。
*「司教職」の使用と乱用
その1つは、彼が教皇に就任して以来、これまで続けてきた聖職者のキャリア主義だ。それは教皇だけができること(あるいは少なくとも教皇の証人が必要なこと)に基づいている。それには、称号の付与、監督権の授与、後継者を選出する枢機卿の任命が含まれ、明らかに、すべての官僚機構、組織、および労働文化において、報酬/資格制度が機能している。それは、働いている人の業績と貢献を認識し、仕事への意欲を持たせるためだ。
ローマ教皇庁のシステムの問題は、歴代の教皇が何世紀にもわたって、”最も切望される賞として司教制度をぶら下げてきたことにある。彼らはローマで机の仕事をしている男性に司教の職を与えることによって「司教職」を乱用した。
私の友人は「米軍の将軍の数よりも、バチカンの司教の数の方が多い」と皮肉を込めて言うのが好きだが、信徒(教区)を持たない司教は、部隊を持たない将軍とは非常に異なる。そして、そのことは、第二バチカン公会議が修正しようとした「教会のトリエント・モデル」の最悪の側面に根ざした、非常に議論の余地のある教会論によって擁護されている。モランディ大司教の「単なる教区」の長への通常の任命を「降格」と見なすことができるのは、いまだに存在する、そのモデルにおいてだ。
教皇フランシスコは、これまでの在任中に20人近くのバチカン当局者を「名誉ある」司教に任命した。そして神学的に、秘跡的に、モランディの新しいポストは”ステップアップ”であり、”ステップダウン”ではない。
彼はこれまで、ただの「名誉ある」大司教だった。それは教会的な領域(すなわち、教区または大司教区)に対する法的、司牧的な責任がなかったからだ。その彼が、今度は、レッジョ・エミリアの教区長として、彼は教区の信徒たちの羊飼い、キリストの牧者となったのだ。それはバチカンで机の上の仕事をしている”名誉”ある大司教が享受していない権威だ。
残念ながら、この最新のバチカン人事は、教皇フランシスコが聖職者のキャリア主義を非難しているにもかかわらず、最も決定的なステップの1つを踏むことができなかった、あるいは、踏みたくなかった、という新たな事態である。
教皇は昨年10月、聖ペテロ大聖堂でアンドレ・フェラダ・モレイラ大司教の任命式を行った。この 52歳のチリ人の話はモランディ大司教の話と似ている。教皇は2018年にフェラーダ神父をローマに招き入れ、聖職者省の職に就け、昨年9月に次官に任命し、同時にティバーニアの名誉大司教にした。また、信徒を持たない司教…その任命はローマ教皇庁内の聖職者のキャリア主義の習性を変える努力を進めることに、何も寄与しない。