「主とその民との間の対話から生まれ出る、くみ尽くすことのできない豊かさを理解するために」(使徒的書簡『あわれみあるかたと、あわれな女』Misericordia et misera 7項)。典礼暦の一つの主日を、特別に、神のみことばに捧げることは、何よりも先ず、教会、そして私たちにも、ご自分のみことばの宝庫を開ける復活の主のジェスチャーを追体験させることを可能にします-私たちが、世において、この汲み尽くせない豊かさを告げる者となることが出来るように-。
私たちはまさに、泉から水を飲む、のどの渇いた者のようです。あなたの言葉は、多くの異なる側面を差し出します。それを研究する人々の観点が多くあるように。主は、ご自分の言葉を、多彩な美しさで色づけました。それを極める人々が、彼らが望むものを観想することが出来るように。主は、ご自分の言葉の中に、すべての宝を隠しました。私たち一人ひとりが、観想しているものの中に、豊かさを見つけるように」(Commenti sul Diatessaron, 1,18)。
各共同体は、この「主日」を、祭日として生きるための方法を見出すようにしてください。ですから、聖体祭儀において、聖なる書を祝聖する(intronizzare()ことは大切でしょう-このようにして、会衆に、神のみことばがもっている規範的価値(il valore normativo)を明白にするために-。この主日に、特別な方法で、その宣言を明らかにすること、また、主のみことばに与えられる奉仕を強調するために説教を適応させることは有益でしょう。
4.イスラエルの民の、バビロン捕囚後の母国への帰還は、律法の書の朗読によって、意味深い方法で印されました。聖書は私たちに、ネヘミヤ記の中で、その時の感動的な描写を差し出しています。民はエルサレムの水の門の前の広場に集まり、律法の書に耳を傾けました。この民は、追放によって離散されていましたが、今、聖書の周りに、あたかも「一人の人(un solo uomo)」のように集まりました(ネヘミヤ記8章 1節)。
説教は、特に、まったく特有な役割を帯びています。なぜなら「秘跡的ともいえる性格(un carattere quasi sacramentale)」をもっているからです(使徒的勧告『福音の喜び』142)。聞いている人に適した簡単な言語で、神の言葉の深みに入らせることは、司祭に、「善の実践へと励ますために主が用いたイメージの美しさ」(同)を発見させることを可能にします。これは、見逃すべきではなく、司牧的機会です!
聖書と、聖体祭儀に、絶え間なくあずかることは、属している人同士が、互いに認め合うことを可能にします。私たちは、キリスト者として、歴史の中を歩む唯一の民です-私たちのただ中にいる、私たちに語りかけ、私たちを養う主の現存に強められて-。聖書に捧げられた日が、「一年に一回(una volta all’anno)」ではなく、一年全体のための機会(una volta per tutto l’anno)となるように。
なぜなら、私たちは、聖書と、信じる者たちの共同体の中で、絶え間なく「み言葉」と「パン」を裂く復活の主と、親しく親密になる、緊急な必要をもっているからです。そのため、私たちは、聖書との持続的な親密さの中に入る必要があります。そうでなければ、心は冷たくなり、目は閉じたままになります-私たちがそうである、無数の無知(盲目)の形によって打たれて(colpiti come siamo da innumerevoli forme di cecità)-。
特に、パウロのテモテへの勧告を呼び起こしながら、『啓示憲章』は強調します:「聖書は、神がわれわれの救いのために聖なる書として書き留められることを欲した真理を堅固に忠実に誤りなく教えるものである」(11項)。聖書は、キリストにおける信仰による救いを考慮して教えているので(テモテへの手紙二3章15節参照)、そこに含まれている諸真理は、私たちの救いに役立ちます。聖書は、歴史書の全集でも記録でもなく、全面的に、人間の総体的救い(la salvezza integrale della persona)に向けられています。
しかし、聖霊はその業を継続します。実際、聖霊の業を、神の霊感を受けた聖書の性格と、そのさまざまな著者にだけ限定するのは少なすぎるでしょう。ゆえに、ご自分の独自のインスピレーションの形を実現し続ける聖霊の業に、信頼することが必要です―教会が聖書を教えるとき、教導職が聖書を公的に解釈するとき(同、10項)、また、一人一人の信者が、それを、自分の霊的規範(la propria norma spirituale)とする時に―。
前者の、書かれた性格は、完全に生ける言葉であるということを何も奪いません(Il carattere scritto della prima nulla toglie al suo essere pienamente parola viva);世代から世代にわたって絶え間なくそれを継承している、教会の生ける伝統も、「信仰の最高の基準」(21項)として、あの聖なる書を所有しています。