・第三主日の23日は教皇フランシスコが定めた「神のみことばの主日」

 (2022.1.21 カトリック・あい)

(2020.1.18 掲載の編集再録)

 教皇が2019年秋、自発教令で年間第3主日を「神のみことばの主日」とされたが、23日はその3回目の記念日となる。 教皇フランシスコは一昨年9月30日、自発教令「Aperuit illis(彼らに開いた)」を公布し、典礼暦の年間第3主日を「神のみことばの主日」と定められた。

 この主日について教皇は「典礼年間の中でも、ユダヤ教との絆を強めると同時に、キリスト者の一致を祈るよう招く時期に位置しています… 聖書はその言葉に耳を傾ける者に、真の堅固な一致に到達するための道を指し示すことから、教会一致を祈る時期に『神のみことばの主日』を祝うことには「エキュメニカルな意義があります」と説明され、「教会共同体が、『神のみことばの主日』を祭日としてふさわしく過ごす方法を見つけ、ミサの中で聖書を聖なるものとして祝うことで、みことばが持つ価値を会衆にはっきりと示すことが重要です」と強調された。

 なお、教令が公布された9月30日は、4大ラテン教父の一人で、「ブルガタ訳」と呼ばれるラテン語訳聖書の翻訳者として知られる聖ヒエロニモ司祭教会博士(347年頃-420年)を記念する日に当たる。聖ヒエロニモは2020年に帰天1600年を迎えるが、その記念日に自発教令を発表された教皇は、「聖書を知らぬことは、キリストを知らぬこと」という同聖人の言葉を引用しつつ、「御言葉に捧げた日曜日が、神の民に聖書に対する宗教的で熱心な親しみを育む」ことを願われた。

 自発教令のタイトル「Aperuit illis(彼らに開いた)」は、復活後のイエスが弟子たちに現れ、昇天の前に、「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いた」というルカ福音書の記述(24章45節)から採られている。

【教皇フランシスコ自発教令『アペルイト・イッリス』(Aperuit illis「彼らに開いた」の意)の全文】(Sr.岡立子による試訳)】
1.「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、言われた」(ルカ福音書24 章45節)。これは、復活の主によって成し遂げられた、昇天前の最後のジェスチャーの一つです。

 主は弟子たちが共に集まっているところに現れ、彼らと共にパンを裂き、彼らの心(精神、頭脳)を聖書の理解へと開きました。おびえ、失望していた彼らに、過越の神秘の意味を明らかにしました:つまり、御父の永遠の計画に従って、イエスは、罪人の回心と赦しを差し出すために、苦しみ、死者の中から復活しなければなりませんでした(ルカ福音書24章46- 47節参照);そして、この救いの「神秘」の証人となる力を与えるであだろう聖霊を約束します。

 復活の主、信じる者たちの共同体、聖書の関係は、私たちのアイデンティティーにとって、非常にに重要です。私たちを導く主がいなければ、聖書の深みを理解することは不可能です。しかしまた、その反対も真実です:聖書がなければ、イエスの使命(ミッション)の出来事と、世における教会の出来事は、不可解なままです。

 正当にも、聖ヒエロニモは書くことができました:「聖書を知らないことは、イエスを知らないことである」(In Is.,Prologo: PL 24,17)。

2.慈しみの特別聖年の終わりに、私は「神のみことばに完全に捧げられた主日」を考えることを願いました。

 「主とその民との間の対話から生まれ出る、くみ尽くすことのできない豊かさを理解するために」(使徒的書簡『あわれみあるかたと、あわれな女』Misericordia et misera 7項)。典礼暦の一つの主日を、特別に、神のみことばに捧げることは、何よりも先ず、教会、そして私たちにも、ご自分のみことばの宝庫を開ける復活の主のジェスチャーを追体験させることを可能にします-私たちが、世において、この汲み尽くせない豊かさを告げる者となることが出来るように-。

 それに関する聖エフレムの教えが思い起こされます:「主よ、誰が、あなたの言葉の中の、たった一つの言葉のすべての豊かさを理解することが出来るでしょうか。私たちが理解出来るものよりも、見逃されるものの方が、はるかに多いのです。

 私たちはまさに、泉から水を飲む、のどの渇いた者のようです。あなたの言葉は、多くの異なる側面を差し出します。それを研究する人々の観点が多くあるように。主は、ご自分の言葉を、多彩な美しさで色づけました。それを極める人々が、彼らが望むものを観想することが出来るように。主は、ご自分の言葉の中に、すべての宝を隠しました。私たち一人ひとりが、観想しているものの中に、豊かさを見つけるように」(Commenti sul Diatessaron, 1,18)。

 ですから、私はこの書簡をもって、神の民の側から届いた、全教会が目的において一致して、「神のみことばの主日」を共に祝うことができるようにという、多くの要求に答えようと思います。キリスト共同体が、その日々の存在における神のみことばの偉大な価値に集中する時を経験するのは、すでに共通の実践になっています。

 さまざまな地方教会において、聖書が、これまで以上に、信徒たちにアクセスしやすくなるように、豊かなイニシアティブがあります-こうして、信徒たちが、このように大きな賜物に感謝し、毎日それを生きることに献身し、一貫性をもってそれを証しするように-。

 第二バチカン公会議は『啓示憲章』(Dei Verbum)をもって、神のみことばの再発見に大きな弾みを与えました。つねに黙想し、生きるに値するこれらのページから、聖書の性質(本質)naturaが明確な方法で浮かび上がります:世代から世代へと継承されること(第二章)、その神的インスピレーション(第三章)-それは旧約と新約聖書を包括します(第四、五章)-、その、教会の生活における重要性(第六章)。

 この教えを促進するため、ベネディクト十六世は、2008年、「教会の生活と使命(ミッション)における神のみことば」というテーマで、司教会議(シノドス)を招集し、その後、わたしたちの共同体にとって不可欠の教えを形成する、使徒的勧告『主のことば』Verbum Dominiを公布しました1。この文書の中で、特別な方法で、神のみことばの遂行的(すいこうてき)特徴(il carattere performativo)ー特に、典礼的行為において、その固有な秘跡的特徴が浮かび上がる時に-が深められました。

 したがって、私たちの民の生活の中で、この、主がご自分の花嫁に、決して疲れることなく向ける生ける神のみことば-愛と信仰の証しにおいて成長するために-との決定的な関係が欠けることがないようにすべきです。

3.ゆえに、年間第三主日が、神のみことばを祝い、黙想し、広めることに捧げられることを制定します。この「神のみことばの主日」は、このようにして、年間の中の適切な時-私たちが、ユダヤ人との絆を強め、キリスト者の一致のために祈るよう招かれている時-に置かれます。

 それは単なる偶然ではありません:「神のみことばの主日」を祝うことは、エキュメニカルな価値を表しています。なぜなら、聖書は、耳を傾ける者たちに、真の一致、堅固
な一致に達するために辿るべき道を示すからです。

 各共同体は、この「主日」を、祭日として生きるための方法を見出すようにしてください。ですから、聖体祭儀において、聖なる書を祝聖する(intronizzare()ことは大切でしょう-このようにして、会衆に、神のみことばがもっている規範的価値(il valore normativo)を明白にするために-。この主日に、特別な方法で、その宣言を明らかにすること、また、主のみことばに与えられる奉仕を強調するために説教を適応させることは有益でしょう。

 司教たちは、この主日に、朗読奉仕者(Lettorato)の儀式を執り行うこと、または、同じような職務を委託することができます-典礼における神のみことばの宣言の重要性を呼び起こすために-。実際、何人かの信徒たちを、適切な準備をもって、みことばの真の告知者となるよう準備することに、あらゆる努力を惜しまないことは本質的です-侍者や、聖体奉仕者のために、すでに一般的に起きているように-。

 同じ尺度で、教区司祭たちは、聖書、またはその一つの書を、全会衆に届けるための形を見出すことが出来るでしょう-日々の生活の中で、継続的に、朗読、聖書を深めること、聖書とともに祈ることの大切さを浮き立たせるために-「霊的読書(レクチオ・ディビナlectio divina)」への特別な言及とともに-。

4.イスラエルの民の、バビロン捕囚後の母国への帰還は、律法の書の朗読によって、意味深い方法で印されました。聖書は私たちに、ネヘミヤ記の中で、その時の感動的な描写を差し出しています。民はエルサレムの水の門の前の広場に集まり、律法の書に耳を傾けました。この民は、追放によって離散されていましたが、今、聖書の周りに、あたかも「一人の人(un solo uomo)」のように集まりました(ネヘミヤ記8章 1節)。

 聖なる書の朗読に、民は「耳を傾け」ました(同3節)-この言葉の中に、経験した出来事の意味を見出す(回復する)ことが出来ると知りながら-。これらの言葉の宣言への反応は、感動と涙でした:「[レビ人たちが]神の律法の書を読み、それを訳し、説明したので、1 Cfr AAS 102 (2010), 692-787. 2 「こうして、みことばの秘跡的性格を、聖別されたパンとぶどう酒の形態のもとでのキリストの現実の現存との類比によって理解することができます。私たちは、祭壇に近づき、聖体の会食にあずかることにより、本当にキリストの体と血にあずかります。典礼において神の言葉が朗読されることにより、キリストご自身が私たちとともにいて、私たちに語りかけ、ご自分の言葉に耳を傾けることを望んでおられることを私たちに悟らせてくれます(『主のことば』56項)。

 「民は朗読されたことを理解した。総督ネヘミヤと、祭司であり律法学者であるエズラと、民に説明したレビ人たちは、民全体に向かって言った、『今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日である。嘆いたり、泣いたりしてはならない』。律法の言葉を聞いて、民はみな泣いていたからである。[…]『悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力である』」(ネヘミヤ記8章8-10節)。

 これらの言葉は、偉大な教えを含んでいます。聖書は、ただ、何人かの財産でも、ましてや、少数の特権的な人々のための全集でもありません。それは、何よりも先ず、このみ言葉を聞き、み言葉の中に自らを認める(自分自身を認識する)ために招集された民に属しています。

 しばしば、聖なる書を独占しようとする傾向が起こります-それを、いくつかのサークル、または、選抜されたグループに追いやりながら-。そうであってはなりません。聖書は、主の民の書です。民は、それを聞くことにおいて、離散や分裂から一致へと通過します。神のみことばは、信徒たちを一つにし(結び付け)、一つの民とします。

5.聞くことから生まれる、この一致において、牧者たちは、第一に、聖書を説明し、すべての人が理解できるようにする、大きな責任をもっています。

 聖書は民の書なので、み言葉の奉仕者となる召命をもっている人々は、それを自分の共同体にアクセス可能にする必要を、強く感じるべきです。

 説教は、特に、まったく特有な役割を帯びています。なぜなら「秘跡的ともいえる性格(un carattere quasi sacramentale)」をもっているからです(使徒的勧告『福音の喜び』142)。聞いている人に適した簡単な言語で、神の言葉の深みに入らせることは、司祭に、「善の実践へと励ますために主が用いたイメージの美しさ」(同)を発見させることを可能にします。これは、見逃すべきではなく、司牧的機会です!

 実際、私たちの信徒たちの多くにとって、これは、神のみ言葉の美しさを捉え、彼らの日常生活に関連しているのを見るための唯一の機会です。ですから、説教の準備のために適切な時間を捧げることが必要です。聖なる朗読への解釈は、即興的には出来ません。

 私たち説教者たちには、学者ぶった説教、または無関係な話しで、過度に広げない務めが求められます。私たちが、聖なる書について黙想し、祈るために留まるとき、聞いている人の心に届くよう、心から語ることが出来ます-把握され実を結ぶ、本質を表現することによって-。

 聖書に時間と祈りをささげることに、決して疲れないようにしましょう。それが、「人間の言葉としてではなく、神の言葉として」受け入れられるために(テサロニケの信徒への手紙一2章13節)。

 カテキスタもまた、信仰において成長することを助けるための彼らの任務のために、聖書との親しさと勉強を通して、自分自身を刷新する緊急性を感じることは良いことです-それは、彼らの言葉を聞く人々と神のみことばとの間の、真の対話を促進することが出来ます-。

6.家の中に閉じこもっていた使徒たちの所に行き、彼らを聖書の知識に開く(ルカ福音書24章 44- 45節参照)前に、復活の主は、エルサレムからエマオへ行く道を歩いている、二人の弟子に現れます(同13-35節参照)。

 福音記者ルカの話は、それが復活と同じ日、つまり日曜日であると記しています。これらの二人の弟子たちは、最近のイエスの受難と死の出来事について話し合っています。彼らの歩みは、イエスの悲劇的な最後への悲しみと失望で印されています。

 彼らはイエスの中に、解放をもたらすメシアを期待していましたが、今、十字架刑のスキャンダルを前にしています。復活の主ご自身が、節度をもって近づいてきて、弟子たちと共に歩き始めました。しかし、彼らはイエスであることに気付きませんでした(同16節参照)。道を歩きながら、主は彼らに問いかけました。彼らに、ご自分の受難と死の意味が分かっていないことを悟らせながら。彼らを「物わかりが悪く、心の鈍い者たち」(同25節)と呼び、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたってご自分について書かれていることを、二人に説明された」(27節)。

 キリストは、最初の聖書解釈者です!旧約聖書が、キリストが実現するだろうことを先取りしていただけでなく、キリストご自分が、その「みことば」に忠実であることを望みました-キリストのうちに完成を見出す、唯一の救いの歴史を明らかにするために-。

7.このように、聖書は聖なる書であるので、キリストについて語り、キリストを、栄光に入るために苦しみを通過しなければならなかった方として告げます(26節参照)。一部だけでなく、聖書全体がキリストについて語っています。

 彼の死と復活は、聖書がなければ解読することは出来ません。そのため、最も古代の信仰宣言は、キリストが「聖書に書いてあったとおりに私たちの罪のために死んでくださり、葬られ、聖書に書いてあったとおりに三日目に復活し、ケファに現れ、次いで十二人に現れた」(コリントの信徒への手紙一15章 3- 5節)と強調しています。

 聖書は、キリストのことを語っているので、キリストの死と復活が神話ではなく、歴史に属していること、また、彼の弟子たちの信仰の中心にあると信じることを可能にします。聖書と、信じる者たちの信仰との間には深い絆があります。信仰は聞くことから来て、聞くことはキリストの言葉に中心を据えているので(ローマの信徒への手紙10章17節参
照)、そこから、信じる者たちが、典礼の行為においても、祈りや個人的黙想においても、主のみ言葉に耳を傾けることを確保しなければならない、という緊急性と重要性が生じます。

8.復活の主の、エマオの弟子たちとの「旅」は、夕食で結ばれます。謎の旅人は、二人が彼に向けた執拗な要求を受け入れました:「一緒にお泊りください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています」(ルカ福音書24章29節)。イエスは、食卓に座り、パンを取り、賛美をささげて(祝福を唱えて)、それを裂いて、彼らに渡しました。この瞬間、彼らの目は開かれ、彼らはイエスであることに気付きました(同31節参照)。

 この場面から、私たちは、聖書と聖体祭儀(Eucaristia)の関係が、どんなに切り離せないものであるかを理解します。第二バチカン公会議は教えています:「教会は、主の御からだそのものと同じように聖書をつねにあがめ敬ってきた。なぜなら、教会は何よりもまず聖なる典礼において、たえずキリストのからだと同時に神のことばの食卓から命のパンを受け取り、信者たちに差し出してきたからである」(『啓示憲章』21項)。

 聖書と、聖体祭儀に、絶え間なくあずかることは、属している人同士が、互いに認め合うことを可能にします。私たちは、キリスト者として、歴史の中を歩む唯一の民です-私たちのただ中にいる、私たちに語りかけ、私たちを養う主の現存に強められて-。聖書に捧げられた日が、「一年に一回(una volta all’anno)」ではなく、一年全体のための機会(una volta per tutto l’anno)となるように。

 なぜなら、私たちは、聖書と、信じる者たちの共同体の中で、絶え間なく「み言葉」と「パン」を裂く復活の主と、親しく親密になる、緊急な必要をもっているからです。そのため、私たちは、聖書との持続的な親密さの中に入る必要があります。そうでなければ、心は冷たくなり、目は閉じたままになります-私たちがそうである、無数の無知(盲目)の形によって打たれて(colpiti come siamo da innumerevoli forme di cecità)-。

 聖書と諸秘跡は、互いに切り離せません。秘跡が、「み言葉」によって導入され、照らされるとき、それらは歩みの目的として現れます-その中で、キリストご自身が、ご自分の救いのわざに気づくよう、頭(知性)と心を開きます-。このコンテクスト(文脈)において、黙示録から来る教えを忘れないことが必要です。そこでは、主が、戸口に立って叩いていることと教えます。もし誰かが、キリストの声を聞いて戸を開くなら、キリストは、共に食事をするためにそこに入ります。

 キリスト・イエスは、聖書を通して私たちの戸を叩いています。もし、私たちが耳を傾けて、頭と心の戸を開くなら、その時、キリストは私たちの生活(人生)の中に入り、私
たちと共に留まります。

9.テモテへの第二の手紙の中で-それは、何らかの方法で、パウロの霊的遺言を形成しています-、聖パウロは、彼の忠実な協力者に、絶え間なく聖書に親しむよう勧告しています。

 使徒は、「聖書はすべて、神の霊感によるもので、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするために有益」であると確信してます。この、パウロのテモテへの勧告は、公会議の『啓示憲章』が、聖書の霊感についての偉大なテーマを取り扱った土台を形成しています-その土台から、特に、聖書の救済的目的(la finalità salvifica)、霊的側面l(a dimensione spirituale)、受肉の原理)(il principio dell’incarnazione)が浮かび上がります-。

 特に、パウロのテモテへの勧告を呼び起こしながら、『啓示憲章』は強調します:「聖書は、神がわれわれの救いのために聖なる書として書き留められることを欲した真理を堅固に忠実に誤りなく教えるものである」(11項)。聖書は、キリストにおける信仰による救いを考慮して教えているので(テモテへの手紙二3章15節参照)、そこに含まれている諸真理は、私たちの救いに役立ちます。聖書は、歴史書の全集でも記録でもなく、全面的に、人間の総体的救い(la salvezza integrale della persona)に向けられています。

 聖書に含まれているさまざまな書の、否定できない歴史的ルーツ(根源)は、この原初の目的を忘れさせるものであってはなりません:私たちの救い。すべては、聖書の本質自身の中に刻み込まれている、この目的に向けられています。聖書は、救いの歴史として成り立っています。その中で、神は語り、行動します-すべての人々に会いに行くために、彼らを悪から、死から救うために-。

 そのような救済的目的に達するために、聖書は、聖霊の働きのもとに、人間のやり方で書かれた人間の(人々の)言葉を、神の「み言葉」に変容させます(『啓示憲章』12参照)。聖書における聖霊の役割は本質的です。聖霊の働きなしには、原理主義的な解釈を容易にしながら、書かれたテキストだけの中に閉じこめられる、警戒すべき危険があります。

 そこから離れる必要があります。聖なるテキストがもっている、インスピレーションを受けた、ダイナミック(動的)、霊的な性格を裏切らないように。使徒が思い起こしているように、「『文字』は人を殺し、『霊』は人を生かす」(コリントの信徒への手紙二3章6節)。ゆえに、聖霊は聖書を、神の生けるみ言葉―ご自分の聖なる民の信仰の中に経験され、継承された―に変えます。

10.聖霊の業は、単に聖書の形成に関するだけではなく、神のみことばを聞くことに身を置く人々の中にも働きます。公会議教父たちの断言は重要です。彼らによると、聖書は「それが書かれたのと同一の霊において読まれかつ解釈されなければならない」(『啓示憲章』12項)。イエス・キリストと共に、神の啓示は、その成就、充満に達しました。

 しかし、聖霊はその業を継続します。実際、聖霊の業を、神の霊感を受けた聖書の性格と、そのさまざまな著者にだけ限定するのは少なすぎるでしょう。ゆえに、ご自分の独自のインスピレーションの形を実現し続ける聖霊の業に、信頼することが必要です―教会が聖書を教えるとき、教導職が聖書を公的に解釈するとき(同、10項)、また、一人一人の信者が、それを、自分の霊的規範(la propria norma spirituale)とする時に―。

 この意味で、私たちはイエスが言った言葉を理解することができます―ご自分のたとえ話の意味を把握したと認めた弟子たちに―:「天の国について学んだ学者はみな、新しいものと古いものを、自分の倉から取り出す、一家の主人に似ている」(マタイ福音書13章 52節)

11.最後に、『啓示憲章』は明確にしています:「かつて永遠なる父のみ言葉が人間の弱さをまとった肉を受け取って人間と同じようなものになったのと同様に、神の言葉は人間の言語で表現されて人間の言葉と同じようにされた」(13項)。それは、神のみことばの受肉が、神のみ言葉と、人間の言語との間の関係に、形と意味を与えた―その歴史的、文化的状態とともに―、と言うようなものです。

 「伝統」-それもまた神のみ言葉です(9項参照)―が形を取ったのは、この出来事においてです。聖書と「伝統」を分離する危険が、しばしばあります―それらが一緒に「啓示」の唯一の源泉であることを理解せずに―。

 前者の、書かれた性格は、完全に生ける言葉であるということを何も奪いません(Il carattere scritto della prima nulla toglie al suo essere pienamente parola viva);世代から世代にわたって絶え間なくそれを継承している、教会の生ける伝統も、「信仰の最高の基準」(21項)として、あの聖なる書を所有しています。

 また、書かれたテキストとなる前に、聖書は口伝で継承され、それを自分たちの歴史、他の多くの民のただ中でのアイデンティティーの原則として認識した民の信仰によって、生き生きと保たれてきました。ゆえに、聖書的信仰は、本にではなく、生けるみ言葉に土台を据えています。

12.聖書は、それをもって書かれたのと同じ霊において読まれる時、常に新しく残ります。旧約聖書は、決して、かつてあった古いことではなく、新約聖書の一部です-なぜなら、それにインスピレーションを与えた唯一の霊によって、すべてが変えられるからです-。

 聖なる書全体は、一つの預言的役割をもっています:それは、将来に関するのではなく、この「み言葉」で養われている人の「今日」に関するものです。イエスご自身、ご自分の任務の始めに明言しています:「この聖書の言葉は、あなた方が耳にしたこの日[今日]、成就した」(ルカ福音書4 章21節)。日々、神のみことばに養われている人は、自分が出会う人々と同時代であるイエスのようになります;過去への不毛なノスタルジー(郷愁)に陥ることも、将来への肉体のない(具体的ではない)ユートピアに陥ることもありません。

 聖書は、その預言的な業を、先ずそれを聞いている人に対して行います。聖書は甘美さと苦さです。預言者エゼキエルが、主から、巻物の書を食べるように招かれたときの言葉が思い起こされます:「それはわたしの口に、蜜のように甘かった」(同3章 3節)。福音作者ヨハネも、パトモスの島で、巻物を食べる、エゼキエルと同じ経験をしますが、さらに詳細を加えます:「口には蜜のように甘かったが、食べてしまうと腹には苦かった」(10章10節)。

 神のみ言葉の甘美さは、私たちの人生において出会う人々を、それに参与させるように私たちを急き立てます―それが含んでいる希望の確信を表すために(ペトロの手紙一3章 15-16節参照)―。他方、苦さは、しばしば私たちにとって、一貫性をもってそれを生きることがどんなに難しいかを実証することから、また、人生に意味を与えるために有効ではないと見なされ、それが拒否されることを体験することから来ます。

 ですから、決して「神のみ言葉」に慣れてしまわないこと、私たちの神との関係、兄弟たちとの関係を、深く見出し、それを生きるために、み言葉で養われることが必要です。

13.聖書から来るさらなる挑戦は、愛の業(la carità)に関することです。神のみ言葉は、ご自分の子らに愛の業において生きるよう求める、御父の慈しみ深い愛を、絶え間なく呼び起こします。

 イエスの生涯は、この神の愛の、完全で満ち溢れる表現でした。イエスは何もご自分の為に取って置かず、ご自身を、制限なく、すべての人々に差し出しました。貧しいラザロのたとえ話の中に、私たちは貴重な示唆を見出します。ラザロと金持ちが死んだ時、金持ちは、貧しい人がアブラハムの懐にいるのを見て、自分の兄弟たちに彼を遣わし、彼らに、隣人への愛に生きるよう忠告するようよう頼みます―彼らが同じ苦悩を味わうことがないように―。

 アブラハムの答えは辛辣です:「彼らにはモーセと預言者たちがいる、彼らの言うことを聞けばよい」(ルカ福音書16章29節)。慈しみを実践するために、聖書に耳を傾けること:これは私たちの人生の前に置かれた、大きな挑戦(課題)です。神のみ言葉は、私たちを、窒息させ、不毛に導く個人主義から脱出させるために、私たちの目を開くことが出来ます。分かち合いと連帯の道を開け放って。

14.イエスと弟子たちの関係の中で、最も意味深いエピソードの一つは「主の変容」の物語です。

 イエスは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネと共に、祈るために山に上ります。福音作者たちは、イエスの顔と衣が輝き、二人の人がイエスと話していたことを思い出させます:モーセとエリヤ、彼らはそれぞれ、律法と預言者、つまり聖書を擬人化しています。このビジョン(幻)へのペトロの反応は、喜ばしい驚きに満ちています:「先生、私たちがここにいるのは、素晴らしいことです。三つの仮の庵を造りましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、一つはエリヤのために」(ルカ福音書9章33節)。その時、雲がその影で彼らを包み、弟子たちは恐れます。

 主の変容は、捕囚からの帰還の後、エズラとネヘミヤが民に聖なる書を読み聞かせた、幕屋祭を思い起こします。同時にそれは、受難のスキャンダルへの準備において、イエスの栄光、主の現存の象徴である弟子たちを覆った雲からも呼び起こされる、神の栄光を先取りします。

 この、主の変容は、聖書の変容に似ています―それは、信じる者たちの生活を養うとき、自身を超越します。『主のことば』が思い起こしているように:「聖書のさまざまな意味の間の関係を再発見するうえで、文字から霊への移行を捉えることが不可欠です。この移行は自動的でも自然なものでもありません。むしろ私たちは文字を乗り越える必要があります」。

 神のみ言葉の受容の歩みにおいて、主から告げられたことが成就すると信じたので、幸いと認められた(ルカ福音書1章45節参照)主の母が、私たちに寄り添います。マリアの幸い(beatitudine)は、イエスが、貧しい人、苦しむ人、柔和な人、平和をもたらす人、迫害されている人々に向かって発した、すべての幸いに先立ちます。なぜなら、それは、他のどんな幸いにも必要な条件だからです。

 貧しい人は、貧しいから幸いなのではありません。その人は、マリアのように、神のみ言葉が成就することを信じる時、幸いになります。そのことを、偉大な弟子であり、聖書の先生、聖アウグスチヌスが思い起こしています:「群衆の中の誰かが、熱意にかられて叫びました:『あなたを宿した胎は、何と幸いなことでしょう』。そしてイエスは言います:『むしろ幸いなのは、神の言葉を聞き、それを守る人々である』。こう言うかのように:あなたが幸いと呼ぶ、私の母も、まさに、神の言葉を守ったから幸いなのです。

 彼女の中に、み言葉が肉(人)となり、私たちの間に住んだからではなく、神のみ言葉そのもの―それを通して彼女は造られ、そして彼女の中で肉(人)となった―を守ったから幸いなのです」(『ヨハネの福音について』10章3節)。

 み言葉ことばに捧げられた主日が、神の民の中で、聖書との、熱心で敬虔な親しさを育てることが出来ますように。すでに、古代において、聖書の作者が教えていたように:「その言葉はあなたのすぐ近くにあり、あなたの口に、あなたの心にあるので、あなたはそれを行うことができる」(申命記30章14節)。

                   ローマ、ラテラノ大聖堂にて、2019年9月30日 聖ヒエロニモ帰天1600周年の始まりに フランシスコ

(聖書の引用の日本語訳は原則として「聖書協会 共同訳」とし、若干の編集を加えてあります「カトリック・あい」)

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2022年1月21日