(読者投稿)”シノドスの道”から外れ、信徒への思いやりと愛の無い”合併劇”

 大阪、高松の教区合併についての、コラム筆者の方の考えに賛同します。

 両教区の担当者たちが「合併」あるいは「吸収合併」でないことを強調するのは、宗教法人法との絡みがあるのではないでしょうか。今回の「合併」を文部科学省にどのように報告する(した)のか分かりませんが、「吸収合併」であれば、細かな規定に縛られて手続きが厄介なのでしょう。法律の専門家ではないので確信を持って言うことはできませんが。

 また、「吸収合併」だとすれば、吸収される高松教区に対して、丁寧な説明が必要となります。それを避けるために「統合」としたのかも知れません。

 これまでの経緯と今後の方針について、両教区の信徒たちには、何の具体的な説明もなされていないようです。私は二つの教区以外の教区の信徒ですが、高松 大阪両教区の信者の皆さんには、今回のバチカンの発表は、青天の霹靂だったのではないでしょうか。

 一切情報を開示せず、結論だけを事務的に公表するやり方は、「全体主義国家」「独裁組織」がすることでしょう。今日の民主的社会では通用しないはずです。「教会には民主主義は当てはまらない」と言うのは責任逃れの便法として使わているにすぎません。

 私の所属する教区では、6年前に教区の合併に関するアンケートを司祭を対象に取っています。しかし、アンケートを取ったこと自体、アンケート集計の結果は信者には一切知らされていません。「信者には関係ないことだ。口を出すな」が、教区の責任者の意識の根底にあるのでしょう。「トップが決めたことに従順に従うのが信徒のつとめ」と言ってはばからない姿勢―教皇フランシスコが最も嫌っておられる「聖職者中心主義」からきているようです。

 日本の多くの教区で、小教区で、教皇フランシスコが主導されている”シノドスの道”や共に歩む教会の建設について語られることは、ほとんどありません。今年の10月と来年の10月、二期にわたる世界代表司教会議(シノドス)総会が終わって文書が出てきたら、対応を考えよう、ということなのでしょう。教皇が常々言っておられる「共に歩む教会、シノダル(共働的)な教会」の意味が全く理解されていません。

 今回の大阪、高松教区の「合併劇」に関する、関係教区の責任ある立場の方々のおかしな対応は、教皇が主導される”シノドスの道”からまったく外れた「信徒への思いやりと愛のない合併劇」。それに尽きると思います。

(日本の南に住む一信徒より)

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2023年9月1日