・(論考)現在の世界的な危機の中で、神は「沈黙」しているのか (La Civiltà Cattolica)

(2023.4.19 La Civiltà Cattolica Joseph Lobo, SJ)

(このエッセイの狙い)

 原理主義の台頭、欺瞞的なポピュリズム、悪意に満ちた多数派主義、暴力的な右翼政治とその愛国主義的政策、大衆の極度の貧困、人々の強制退去、戦争によって解き放たれた悲惨さなど、多くの人々が私たちの今の時代に起きていることに圧倒されている。

 そして、新型コロナの世界的大感染、搾取された人々の”骨格”の上に帝国を築く”全能”の企業、拡大する生態学的災害…。

 何よりも、人々はしばしば知覚し、人を恐ろしい死に至らしめる神の「沈黙」に呆然とし、預言者ハバククの次のような叫びを現代の人間の苦悩の叫びに重ね合わせる。

 「主よ、いつまで助けを求めて叫べばよいのですか。あなたは耳を傾けてくださらない… なぜ黙ったおられるのですか。悪しき者が自分より正しい者を呑み込んでいるのに」 (旧約聖書ハバクク書1章2節、13節)。 これが何を意味するのか疑問に思う。

 以下の記事で、三つの極の間を無益に往復する典型的で伝統的な神学の問題に厳密に対処するつもりはない―三つの極とは① 神は善だが、全能ではない。 したがって、悪が存在する② 神は全能だが、善ではない。 したがって、悪が存在する③ 客観的な悪は存在しない。 それは善の剥奪であるか、主観的な認識のみだ―である。

 さらに第四の立場は、「悪と苦しみを引き起こす人間の自由の悪用を神が許す」というものです。申命記 11章13-17節 などのテキストに基づいて、「悪と苦しみを人間の不従順に対する神の報復行為」として解釈する 5 番目の位置さえありうる。

 だが、ヨハネ 福音書9章2-3 節(「弟子たちがイエスに尋ねた…『この人が生まれつき目が見えないのは誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか』。イエスはお応えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである』」)は、そのような解釈に断固として反論している。 これらすべてを念頭に置いて、私は、私たちの時代に感じられた「神の沈黙」について考察し、それについて推測するのではなく、それに対応するための実りある方法を提案しようと思う。

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2023年4月20日