・「”シノドスの旅”の第一段階は信徒たちの声を聴くことーそれに失敗すると世界代表司教会議も…」(LaCroix)

(2021.6.16 LaCroix United States George Wilson S.J (ecclesiologist)

   「指導力」をテーマにした多くの文献を読むと、「優れた指導者の最初の仕事は『教えること』ではなく『聴くこと』だ」と言うのは、ほとんど陳腐化している。

 同じ言い方が、教会会議やそれに類する活動にも当てはまる。「聴くこと」は”教会用語”では「信徒たちに相談すること」。だから、”シノドスの旅”の企画担当者たちが、来るべき全世界代表司教会議に至るプロセスで第一の目的を「神の民に耳を傾ける」こととしたのは、とても心強い。

 ただし、そのプロセスがうまく進むかどうかは、次の三つの問いにどう答えるか、にかかっている。

 一つ目の問いは、「聴くこと」が何を発見するために立案されるのか。二つ目は、誰の声を聴くのか。そして三つ目に、そのような発見をするために、どのような手順が踏まれるのか。そして、このような問いに答える前にしなければならないのは、「a synod(教会会議)」が何かを、明確にすることだ。

 「教会会議」とは何だろうか? 教皇フランシスコは「共に歩く集合体」という”呪文”を提示されている。確かに、それは魅力的な隠喩だが、「神の民に耳を傾ける」という「シノドスの旅」の第一段階を企画する以前に、この3つの問いについて慎重に検討しないと、「共に歩く」ことは、多くの不和の種が蒔かれるのにつながるような「ほんわかとした気分」に矮小化されてしまう可能性がある。第一段階がどのように企画され、実行されるかで、この大胆な計画全体の成否が決まる。

*「教会会議」の基本的な目的は

 長年、いくつかの教区の司教会議とそれに類する活動の顧問あるいは推進者として関わってきた経験から、私は「教会会議 」を、「周囲の社会との関わりの中で、特定の時期に、イエスの霊の導きのもと、神の民によってなされる『叡智を追求する努力』」だと、私は理解している。

 「教会会議」は教会…神の民の会合だ。叙階され​​た司祭、一般信徒、あるいは誓願した修道者など、教会共同体のさまざまな立場の人々を包含しており、洗礼を受けていることで連帯して会合に臨む。受洗が唯一の”入場券”である。御霊は洗礼を受けた人々の共同体全体に注がれる。だが、すべての参加者の平等な感覚を損なう「教会会議」のいかなる”構造化”も、企てを必ず失敗させる。

 しかし、歴史的に大きく異なった時代から「教会会議」の慣行を見るなら、今日の司祭叙階された参加者は、この会議を一般信徒を教育するもう1つの方法として扱う誘惑にかられ続けるだろう。「教会会議」の目標は「知恵」だ。それは、主が教会に求めていることー単に考えたり話したりするだけでなく、行動を選ぶ方法を見つけることである。「教会会議」は宗教教育のクラスではなく、神学や教会法の大学院セミナーでもない。さまざまな分野の専門家が、集合体の人材として求められるだろうが、彼らの声が一般信徒の声を、減殺したり、取って代わることがあってはならない。

 父と呼ぶ方の慈愛を明示するご自身の福音宣教の使命を果たされたイエスに付き従うためのより良い道を見つける知恵は、教会共同体のこれまでの経験と内部で働いているエネルギーの相互作用から生まれる。知恵は、集合体の経験についての共同の省察から生まれる。

*良い・悪い・苦痛・喜び・成功・失敗・罪、個人と集合体

 教会共同体の日々の活動の中で起こることに、潜在的に無意味なものはない。あまりにもややこしい、苦痛だ、恥だ、不穏当だ、などの理由で、どのような活動も避けたり、除外することは、誤った判断だ。それは、そのような重要な努力の告知で生み出される期待ははなばなしいものになるだろう。当然ながら経験には概念的な知識が含まれるが、概念は、感情、直感、勘、希望、検証されていない仮定、そして私欲の混合物の中に埋め込まれているのが分かるーその一部は認識されているが、多くは共同体の構成員の意識からさえも隠されている。

 要するに、日常の人間の生活の諸々ー御霊の導きの下での意識的な省察以前に、その全体がは主題として示されることはないー理性的以前、おそらく非理性的。リスクは、生の経験が独自の用語で名付けされ、所有される前に概念化し、希望を持って未来と向き合うために必要なエネルギーを減殺することにある。

 

*経験を「つかむ」

 私たち人間は自分の経験を語るように求められた場合、私たちはまず、直喩と暗喩に目を向ける。 私たちは、「まるで…のようだ」 「説明はできないが、感じたのです..」と言う。イメージが先行し、定義と概念化がそれに続く。私たちが一番大事にするのは、談話、物語。だから、師イエスは、たとえ話を使って話された。

 「教会会議」が参加者に最初に尋ねる必要があるのは、「abcについてどう思いますか?」ではなく、「あなたにとって、今日の教会のメンバーであることはどのようなものですか? 話を聞かせてください」である。「abc」について尋ねるのは、「abcが、人々にとって実際に必要な、あるいは話し合いたい課題だ」と想定するところから始まるー共同体の現実が深いところで危機に瀕しているであるような場合に。

 経験を探求することによって「教会会議」を開くことは、その後に続くすべての平等の基盤を整えることに繋がる。叙階者だろうと般信徒だろうと、男だろうと女だろうと、博士号取得者だろうと無学だろうと、皆が、絶えず変化する状況の中で洗礼を受けた者として努力についての物語を持っている。そして、個々の人だけが、それを語り、全身の奉仕に繋げていけるのだ。自からの経験を語ろうとする人たちの弱々しい試みを誹謗するために己の知的成果を使うことは、彼らの持っている特質そのものの否定だ。

*対処方法・いくつかの歴史

 私がこれまで申し上げたことは、信徒たちの話を聴く最初のステップとして重要な意味を持っている。害のない選択のように思われるものは、すべての努力の成功を危うくする可能性がある。伝統的な方法と、それが第2バチカン公会議(1962-65)で採用された時に何が起きたか考えてみよう。

 その「教会会議」のテーマごとの部会における議論と識別のための条件を設定するLineamenta(提題解説)ー類別表ーを作成するために、少数で構成する善意(だが閉鎖的)の集団が英知を結集した。それで何が起きたが?公会議の参加者たちー全員が司教ーがローマに着いた時、何を話し合おうとしているのかを知っていた。Lineamentaの一項目を挙げるだけで、公会議を主宰する人々が推進しようとしている世界観を明らかにするのに十分。彼らは、世界の教区を代表する参加者たちが話し合うべき課題の一つは補佐司教の権限についてのやっかいな案件だ、と判断していた 。

 公会議を準備・運営する四人の枢機卿が密かに反対派を組織しなかったら、提案された図式は、見積もりとして採用され、世界各地から集まった2500人の司教は今日的な意義を全くと言って持たない事柄に焦点を合わせるのを余儀なくされただろう。公会議の集合体がその議題を見つけるために、”革命”が必要だったーそれが聖霊が彼らに立ち向かうように迫っていたことだ。

  もしも、公会議の参加者たちの大きな集合体の経験をまとめていく過程が、参加者の喜び、懸念、希望、そして強い願望を反映する議題を作ることなら、本質的に類別前でなければならない。

 聖霊が強く求めている案件に絞るべき課題リストを参加者に提示することは、”ネズミを生む”ような地震が起きる可能性を減らす。洞察をさらに具体化するために、公会議の第一段階の冒頭の告示で、データを集めるための”探査器”の使用に言及した。そうした器具は、よく作られた諸提案が識別され、議論された後で、合意の程度を調べるのに有効だろう。だが、第一段階でそれを使うことは、新たな命への最善の希望を与える分野を見つけ出す経験をまだ探っている時に、そうした過程が歪められるのを確かなものにしてしまう。

 どのような定量化された調査ーかに洗練された構成であってもーそれを設計する人々の課題を反映する。試されるべき調査項目のまさに枠組みが、言及を避けるであろうものを決定する。

 有名な研究が、問題を思い起こさせる。 1970年代に「ローマクラブ」と呼ばれる未来主義者のグループが、コンピューター・シミュレーションを使って、可能性のある将来予測をしたことがある。数年後、予測が当たっているか評価するために、実際に起きたことについて調べた。彼らの予測は実際のところ、かなりの先見の明があった。予測したことの多くは確かに実現したが、小さな矛盾が1つだけあった。それは、世界を変革する最も強力な運動の1つーフェミニストの覚醒ーの重大さを見逃したことだ。グループは全員が男性だった…。

 

*集合知ーそして預言的な声

 知恵の探求のもう一つの特徴は、知恵の賜物が通常、大きな集合体の中で個々人に均等に散らばらない、という事実だ。知恵の探求に欠かせないのは、「預言に開かれている」ということ。未来を予測する能力ではなく、現実を特定する能力だ。

 一人の個人あるいは小さな集団は、「主流」のはるか下にある強い流れを感じるかも知れない。諸々の現実は非常に苦痛を伴うものであり、おそらく何世紀にもわたって、共通の精神ーありもしない衣服をまとった皇帝たち、群衆の月並みな展望を超越する復活の希望ーの中に埋もれててきた。教称賛に値する福音宣教活動がー周囲を圧するような教会建設の一方でー何世紀にもわたって現地の人々支えてきた土着文化の価値の低下をもたらした、ということを教会が認識するために何世紀もの月日を要した。

 さまざまな危難に立ち向かい、想像もできない種々の成果を熱望して、多種多様な文化で構成される世界的共同体の物語に参加することは、とてつもなく大きな仕事を引き受けることだ。それを実現させるのは聖霊だけだが、その聖霊は、人間の選択を通して働かれる。目ざすべき正しい目標の数々を選ぶことは、一見、退屈に見える最初の一歩を選ぶのと同じように重要だ。私の経験と省察が、大失敗を未然に防ぐことに役立つのを願っている

*George Wilsonはイエズス会士の司祭。ボルチモア(米国)に住む現役を引退した教会学者で、著書に「Clericalism: The Death of Priesthood(Liturgical Press, 2008)」がある。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

(注:LA CROIX internationalは、1883年に創刊された世界的に権威のある独立系のカトリック日刊紙LA CROIXのオンライン版。急激に変化する世界と教会の動きを適切な報道と解説で追い続けていることに定評があります。「カトリック・あい」は翻訳・転載の許可を得て、逐次、掲載していきます。原文はhttps://international.la-croix.comでご覧になれます。

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2021年6月19日