・”Synodality”-歓迎すべき概念、達成は困難 -教会学者が過去の経験から語る(LaCroix)

(2021.5.27 La Croix   George Wilson S.J.  United States)

 教皇フランシスコが提起された「synodalityの旅」が議論を呼んでいるが、多くの教区や修道会の顧問などを務めていた頃の自分の記憶を思い起こし、この議論に何か貢献できることはないか考えてみた。

 まず、「synodality」という言葉。この言葉が、カトリック教会で特定の意味として使われ始めたのは、最近のことだ。
第二バチカン公会議 (1962 ~ 65年) 直後の数年間、私たちは、教会での責任分担を促進するための組織的な集まりーシノドス(世界代表司教会議)、協議会、委員会などーについて話しをした。このような生きている人間の集まりに対して、「synodality」は、集まりを選択することに開かれた姿勢、あるいは方向付けを意味しようとしているように思われる。教皇は、幅広い信徒たちが教会活動への発言権と責任を持つ教会を望まれているのだ。

*「synod」とは?

 「synod」は、一般的に、教区、あるいはごくまれに国全体の聖職者、そしておそらくは信徒も含めた集まりを指すが、新語(synodality)を創造された教皇は、もっと幅広い意味に使っておられるのだろう。

  教区の司祭の集まりは、小教区評議会やカトリック系の大学や病院の理事会と同様に、「synodal」の性格を持っている。突き詰めて言えば、「synodality」は、対等な立場の人が集まって、他ではできないような宗教的目的の達成に関与することを意味する。それは聖霊によって導かれているとしても、あくまでの人間的な事業だ。

 このことは、ほとんど自明であるように思われるかもしれない。だが、これまでの経験が示しているのは、実際の人間の意思疎通というものが、この問題についての意見のやり取りで、あまりにもしばしば、単に当たり前のように見なされている、ということだ。

 「synod」と言うと、通常、人々はすぐにその仕組みの問題―誰がメンバーになるのか、どのような権限を持つのか、誰が会議の方針を決めるのか、誰に発言権や投票権があるのかーに飛びつくものだ。

 もちろん、その取り組みを成功させようとすれば、そのような問題を解決する必要があるだろう。だが、組織や運営をどうするかに全神経を集中させることは、様々な神学的、文化的世界観(当然ながら、人柄や偏見、あらゆる種類の癖も含む)を持った人々を集めることで引き起こされる人間的現実―そして、落とし穴―を避けて通ることになり得る。

 ということで、私は組織や運営の規範に関する議論を他の方々にお任せしたい。この論考では、人間の対人関係の原動力について中心的に取り上げたい。組織構造は変わることがあるが、人間の本質には変わりがないからだ。

*期待感の役割

 協議会、委員会、あるいはシノドス、といったsynodalな仕組みの告知は、第一に期待感を高めることを意味する。そのような組織体の創設を宣言すると、必然的にそれぞれの共同体が共有する魂を変えられてしまう。

 これは私たちの生活に、どのような影響が与えようとするのか? 何を予測できるのか? 何を期待できるのか?

 引き起こされる期待がどのようなものであるかは、直近のー生き生きとした記憶に残る、責任を分かち合おうとする過去の試みも含めてー状況による。そうした試みが成功していた場合、新たな取り組みは、信頼を基礎にして成立する。

 だが、これまでの取り組みが成果を生まなかったことが実証されたケースもある。おそらく、司教や主任司祭、あるいは”最高経営責任者”が、教会の組織体の声を聴かないように協議事項を調整したか、それとも、リーダーたちが、到達した結論を実行することに失敗したのだろう。どちらにしても、新しい呼びかけに対する圧倒的な反応は、不信、そうでなければ露骨な嘲りにもなるだろう。

 リーダーたちが、過去に真摯に耳を傾け、最後までやり遂げることで信頼を獲得していなかったなら、今なされている努力は、初めから運命が決まっている、ということだろう。

 「期待」は人間的な力の一形態だ。期待が明確に示され、満たされるなら、その共同体はより大きな満足と自尊心を得るだろう。だが、最初から曖昧であったり、対立したりしていたら、その結果は、共同体の分断、あるいは明らかな分極化をもたらすことになる。そして、それが明確に示されたにもかかわらず、満たされなければ、「幅広い責任の分担」への共同体の期待感は、大きくしぼむだろう。”内輪”の取り組みが、それとも非公式な“内部”と”外部”の取り組みか?

 「synodal」な組織体は通常、内部の様々な層の人々―様々な役職者、元役員、主要な共同体メンバー、他の組織で才能を発揮した人々などーで構成される。それはそれで良いことだ。

 だが、組織体が動き始めたら、理論的にはメンバー各人に同等の発言の機会が与えられねばならない。この原則は、メンバーがもともと選ばれた判断基準に関係なく適用される。意思決定の過程で、あるメンバーが話をし、他のメンバーは黙らされるようなことが明るみに出れば、 synodal の平等性に対する理に適った期待は壊されてしまう。

 嘆かわしいことだが、このような組織体で、相対立する意見が聴取される以前に、ある非公式な集団が結論を固めてしまうことがあったようだ。教会の最高位にある組織体も、”八百長”に免疫があるわけではない。

 Synodalの組織体は、個々の共同体にとって真に重要な課題―ビジョンと果たすべき使命の明確化、目標の設定、優先順位の割り当て、人的・財政的資源の開発と配分―に対処するためのものだろう。

 そのような課題についての、自由で開かれた話し合いこそが、成功したsynodの”品質証明”なのだ。それには、制度のリーダーたちに挑戦するような結論への道を組織体が見つけるのを容認するような、内面的に自由なリーダーたちが必要だ。

*Synodalの組織体に影響を与える人間的現実

 私たちに助言を求めたある修道会は、民主的気風を誇りにし、意思決定に対する個々人の関与をとても重視していた。私は、その修道会の連絡役とのやり取りを通して、ある興味深い実態を知った。

 その管区参事会は、何十年も毎年繰り返し選ばれる年長のメンバーで構成されることが慣習化していた。そうした中で、まだ若い司祭だった連絡役がメンバーに選ばれたのだが、会合ではメンバーの勤続期間で席が決められており、彼は、年長者の一人で彼の指導役をしていた司祭の隣に座らせられた。

 ある朝、何かの事について投票を求められた(どのような事なのか、ここでは重要ではない)。指導役が「この件に関して私たちは自由だ」とささやくので、どういう意味か尋ねると、「私たちは好きなように投票できるのだよ」と言われた。

 それを聞いて、どのように投票するか判断に迷ったが、それも、年長者の一人が前の方からメンバーたちに合図を出し、案件ごとにどう投票すべきかを指示していたことを知るまでのことだったーまるで野球の試合で監督が「盗塁しろ」「守備を固めろ」と指示するようなものだ。最初から最後まで、すべて不正に操作されていたのだ。

*「Synodality 」の実践 ―もうひとつの世界

 ある新任司教は、トップダウン方式で教区に関するすべてを事細かに管理していた前任者とは大きく異なる宗教的信条の持ち主のようだった。その教区の司祭たちは、新司教がどのような管理の仕方をするのか、どんなビジョンを持っているのか、注目した。

 彼の初仕事は5日間の司祭総会の招集だった。私たちが企画と進行を依頼されたその総会で、彼が最初にしたのは、司祭たちに自分たちの「ビジョン」は何か尋ねることだった。長年にわたって前司教の方針に完全に従ってきた司祭たちは、どのように答えたものか、途方に暮れた。自分たちに付与された力をどのように使えばいいのか分からなかったのだ。

 新司教が彼らに自分の意見を語らせるのに総会の最終日まで待たねばならなかったが、総会の最後に、教会への責任を信徒たちにも分担してもらう聖職者、信徒を代表する組織ー司牧評議会ーの設置を全会一致で決議することができた。

 司教は、すぐに司牧評議会の設立に着手し、私たちに協力を求め、それが一段落すると、この未知の集団を結束力と信頼感のある組織にするために評議員の研修をするよう求められた。何回かの研修会を経て、新司教への信頼度がかなり高まったところで、評議員の信徒の一人が司教にこう質問したー「司牧評議会を作ってくださった私たちへの信頼に感謝しますが、あなたは私たちの決定に拒否権をお持ちになるおつもりですか」。

 司教は迷うことなく答えたー「バチカンに聞けば、私に拒否権がある、という答えが返ってくるでしょう。しかし私は、皆さんが支持することのできる答えを必ず見つけることができると信じています。『拒否権』という言葉は二度と聞きたくありません」と。

 彼は、運営上の構造や期待値を明確にすることが重要であることをしっかりと把握していた。だが、最終的に重要なのは、組織の意思決定を特徴づける人間性と敬意の程度だ。司牧評議会の一期目の4年、互いの信頼に基づいた自由な対話を通じて、意見の相違を乗り越え、運営が続けられた。

 このようにして生み出された自由は、評議員たちが任期を終えようとした時に発揮された。

 誰もが抱く懸念は、誰が自分たちの後に続くのか、自分たちがいなくなった後、これまでに築かれた業績はどのように維持されるのかーだろう。米国では、このような組織を継続する場合、評議員の一部を留任させ、残りのメンバーは退任し、後任を選ぶのが一般的だ。

 様々な選択肢について議論を重ねる中で、ある評議員はこう言った。「私たち全員が退任して、司教に全く新しい評議会を作ってもらったらどうでしょう」。たちまち、他の評議員から異論が出されたー「これまでに達成したことをすべて無駄にするのですか。すべての仕事を危険にさらすのですか。ばかばかしい!!」。評議会は、互いの信頼の中で、解散に抵抗するほどにまで成長していたのだ。

 それで、評議会は数週間かけて、今後の選択肢について議論を深めていった。ある時、評議員の誰かがこう言ったー「私たちは、評議会発足当初はまったく知られない存在でしたが、司教が私たちと世話人たちに信頼を寄せてくださったので、ここまで成長できました。そのような私たちの業績は否定されねばならないようなものでしょうか」。ー評議会の存続が決められ、いくつかの小さな改善策が決められた後、評議員全員が任期満了をもって退任し、新しい評議員が選ばれた。

 私たちは新旧の評議員の意見交換の場を設けた。その終わりに、退任する評議員の一人が次のように語ったー「私は、このような全面的な交替には全く反対でした。しかし、新評議員のような素晴らしく、献身的な人たちに出会って、私たちの最終決断は聖霊の導きによるものだ、と確信しました」。

*Synodalityに抵抗する諸形態

 Synodalityがそれほど魅力的であるなら、どうして以前にはなかったのだろうか?進歩的な信徒が「権力に固執する聖職者が、真のsynodalityへの動きを妨げている」と非難するのはよくあることだ。それを裏付ける十分な証拠も、確かにある。

 だが、私の経験から言えば、そうした評価を無条件に受け入れることは安易に過ぎる。シノドスが成功するのに必要な主体性と責任感を完全に受け入れる用意が、信徒たちに十分に出来ているわけではない。

 一例を挙げよう。私たちが某司教の教区評議会の設立と研修を助けた際に、最良の方法を用いて、評議員に相応しい人を見つけたが、それからしばらく経った時のことだ。

 その司教はあるデリケートな問題―小教区の祝祭におけるアルコールの提供―をどう扱えばいいのか、評議会に判断を求めた。一年以上にわたって賛否を議論し、さまざまな選択肢を検討した結果、決断を下す準備ができた。私は評議員一人ひとりに、どのように考えているかを尋ねた。そのうちのある評議員が「私はただ、司教の望み通りにしたいだけだ…」と言い出し、他の評議員たちをすっかり失望させたー「私たちは何のために評議員になったのだろう。彼は今まで何を考えていたのか」と。だが、この哀れな男性に公平を期すなら、「何十年も前から先祖代々受け継がれてきた思考方法から、そうした発言に至ったに過ぎない」と言わねばならない。

*文化的な変容

 これは確かに極端な例だが、このような従属的な行動様式は、深刻に受け止めねばならないほど頻繁に起きている。

 教皇がsynodalityの呼び掛けをもって実際になさっていることは、”伝統的”な教会文化ー何が最善か知っているのは聖職者で、信徒は「祈り、償い、従う」だけでいい、という文化ーそのものの根本的な否定だ。だが、そうした文化の役割や台本は、非常に長い間、教会内部で効力を持ち続け、”集団の魂”の中に生きているため、単に仕組みを作るだけでは、その力に打ち勝つことはないだろう。

 自分自身を益するような行為をしないように求められているのは、聖職者だけではない。信徒も、洗礼によって与えられた力を生かさねばならない。問題は、「異なる召命によって生み出された区別は、洗礼に由来する基本的な平等を打ち消すことを認めるのか」に尽きる。

 Synodalな組織体とは、それをどのように呼ぼうと、生きている巡礼者たちの集まり、全員が平等で、互いに信頼と尊敬をもって結ばれた集まりであり、時のしるしを読み取り、今この時に、主が教会に何を求められているかを探し求める組織体だ。その活動をまとめるために組織体が採用する方法は、参加者の連帯を高める限りにおいて価値をもつ。

*ジョージ・ウィルソンはイエズス会の司祭で教会論の研究者。現在は引退して米ボルチモアに在住。著書に「Clericalism:The Death of Priesthood 」(Liturgical Press, 2008)がある。

(翻訳「カトリック・あい」ガブリエル・タン)

*Synodalityをあえて英語表記のままにしたのは・・・教皇フランシスコが就任当初から重要課題とされてきた「synodality)」の言葉通りの意味は「共に歩む」。日本語では「共働性」「協働性」あるいは「共同制」などとも訳されるが、教会内部でも定訳がないため、この評論では、あえて原文の英語表記のままとした。教皇がこの言葉に込められた意味は「教皇を頭とする司教団がキリストから与えられた権威をもって、神の意志を識別し、聖霊の声を聴きつつ、世界の全ての聖職者、信徒とともに進める、新しいアプローチや教義の転換をも導く可能性に開かれた、対話、洞察、協働のプロセス」と解釈できるのではないかと思われる。今後も頻繁に使われる言葉なので、適訳があれば、提示くださるよう、皆さんにお願いしたい。(「カトリック・あい」南條俊二)

(注:LA CROIX internationalは、1883年に創刊された世界的に権威のある独立系のカトリック日刊紙LA CROIXのオンライン版。急激に変化する世界と教会の動きを適切な報道と解説で追い続けていることに定評があります。「カトリック・あい」は翻訳・転載の許可を得て、逐次、掲載していきます。原文はhttps://international.la-croix.comでご覧になれます。

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2021年6月10日