論考”シノドスの旅”1「 真の協働性を欠いたシノドスにならぬためにー重要な変化が必要」(LaCroix)

 (2021.6.23 La Croix  John O’Loughlin Kennedy | Ireland)

  Synodality(協働制)が教会全体にとっての現実になろうとすれば、これまでの教会の慣行と思考を大きく変える必要がある。

 現在の分裂した教会で、誰もが異論を差しはさむことのないテーマがあるとすれば、それは「ミサに出る信徒の減少、秘跡の衰退の拡大を防がねばならない」ということだろう。.だが、その進め方については、大きな意見の違いがあるー”繁栄”していた過去に戻るのか、未知の未来へ先を行くのか? ”堅い大地”に留まるのか、魚を求めて網を深く降ろすのか?

 聖ジョン・ヘンリー・ニューマン(19世紀の英国の神学者)が、彼の有名な詩であり、祈りでもある聖歌”Lead Kindly Light”の中で、その答えを出しているー「導いてください、優しい光よ。私はそれを見ることを願いません。はるか遠くの光景。私には一歩で十分です」。

 この聖人である詩人は、当然ながら、聖霊が促している自身が認識したものを、どのような犠牲を払っても実行する覚悟が出来ていた。私たちと共にいる、というキリストの約束を暗黙のうちに信頼する覚悟が出来ていた。そしてまた、信徒たちの判断に大きな信頼を置いていたのだ。

 

*神の民

 その後、第二バチカン公会議と国際神学委員会は共に、キリストの約束が神の民に向けられたものであり、「司教を始めとして信徒の果てに至るまで、信者の総体が信仰と道徳の事柄について、あまねく賛同する時、神の民全体の超自然的な信仰の心を通して現れる」(「カトリック教会のカテキズム」92項)ことを確認した。

 その約束が意味する不可謬性のレベルが何であれ、それはまず、何よりも、キリストに従う者たち、一つの体としての神の民、キリストの神秘的な体に関係している。その限界が何であろうと、時間の尺度をどのように引き延ばそうと、キリストの約束は、特定の教会の仕組みを条件としていなかった。いかなる仕組みだろうとそれが存在する以前に、約束は有効だった。実際はその地位に連綿とする”寡頭政治”である君主制的なものに対して適用されたと同じように、いくつかの民主的な特徴を備えた教会に対しても、等しく適用されてきたようだが。

 実際には、”寡頭政治”は、集団思考(集団 で合議を行う場合に不合理あるいは危険な 意思決定が容認されること)の対象となり、拡大した権力の腐敗に苦悩し、自分に判断を任されたなら、神の民よりも、聖霊の促しに遅く対応するかも知れない。

 きわめて明白なのは、教皇フランシスコが「教会のための神の恵みと導きの賜物が、もっぱら最高幹部の集団を通して授けられる」という説を支持していない、ということだ。

 

*教会を構成する「あらゆるレベルの人々」と話し合うこと

 教皇は、カトリック教会が「synodal(協働的な)教会」であることを希望されている。それは、公明正大な話し合いの継続と「教会生活のあらゆるレベルでなされる”聴く”という手続きによって特徴づけられた教会だ。

 教皇が私たちに思い起こさせるのは、「synod」という言葉が、ギリシャ語の「共に歩む」からきている、ということだ。そして、「共に話すこと」、そして「人生の巡礼の旅で他の人々から学ぶことのできるものが持つ大きな価値」を意味する比喩である。

 教皇は、2014年の家庭をテーマとした全世界代表司教会議(シノドス)の前日の聖ペトロ広場での説教で「主は私たちに、他者に心を開くように、と願っておられます」と語られた。教皇は私たちに求めておられるのは、「他者との対話と出会いを拒まず、自分とは違った考え方、異なる立場をとる人々からの意見も含めて、妥当で前向きな意見をすべてを受け入れる」ことだ。

*まず”トップ”が範を示す

 教皇は、次の全世界代表司教会議の定例総会のテーマに「synodality(協働制)」を選ばれた。そして、世界の司教たちと、司祭、修道者、一般信徒たちの間の対話を促進するために、総会の開催を、2年後の2023年10月とされた。そして、すべての司教たちに、各国、各地域で、カトリック生活の「すべてのレベル」において協働性を進展させるように求められた。

 このことは必然的に、「あらゆるレベル」において、下位の聖職者と一般信徒を含み、教会に変革を求めている人々、制度化された利己主義、隠ぺい体質、女性蔑視、混乱状態、権力亡者などに失望して、教会を去った人々を排除するような”フィルター”を取り除くことを意味する。

 

*バチカン内部の”抵抗勢力”

 教皇フランシスコのこうした姿勢に対し、バチカン内部には明らかに抵抗勢力が存在する。”独裁体制”は”言論の自由”を容認できない。教皇ご自身は、聖霊の導きの下で”開かれた議論”の危険を冒す用意ができているが、そうすることは官僚機構の本質に反することになる。

 本物の「synodality(協働制)」は、不可謬性についての誇張された主張と相容れない。そして、「plenitudo potestatis(全権限=教皇のみが行使できるとする、地上における神の権限)」と「ローマの司教に属するとされる普遍的管轄権」と対立する運命にある。

 「意見を異にする人々の声に誠実に耳を傾ける教会会議」を求める教皇の呼びかけが、牽引力を獲得するなら、司教たちができ、言えることに対するバチカンの厳格な管理を弱体化させるだろう。そのことは、すでに司教たちに不快な感情をもたらしているー改革を進めようとする教皇ー恒久的で自己永続的な特質をもつ教会の効果的な統治をもって、嫌われることなしには死を免れないーにどう対応したらいいか、考えをめぐらそうとしている。

 宣教の使命を帯びた司教たちは、バチカンに財政的に依存している。司教たちは一般に、あらゆる種類の許可、名声の下落、神の配慮、そして、野心のために、さらなる昇進のために、バチカンに依存している。彼らは、規則に従わないと、バチカンが自分たちを生かさないようにできる、と分かっている。

 今の体制が良い実をもたらすことはなく、変わらねばならない。信徒たちは、特に、現在の”経営陣”の能力を超えていることが証明された長期的な諸問題について、相談を受ける必要がある。変化を求めて活動する多くの改革派のメンバーは、”門の外でプラカードを掲げて抗議するままにされるのではなく、協議に加わるように招かれるべきだ。創造的に考える自由が増せば、”権威者たち”の描く”理想”を超えた解決策を見つけることができるかも知れない。

 既存の考え方に対する挑戦なしに、進歩はあり得ない。集団の識別力は、集団の不一致から生まれる。

 

*Synodality は”ローマ・カトリック”教徒だけでなく、全てのキリスト教徒を包含せねばならない

 同様に、そして上記に引用した教皇フランシスコの言葉に沿って、教会会議がすべてのレベルを網羅しようとするなら、同じ神秘体の一部であり、一致を切望する非カトリック・キリスト教徒にも全面参加を求めるべきだ。キリスト教会の分裂は目に見える組織レベルのみであり、規律上の、そして二次的な教義上の問題を巡るものに過ぎない。解決は”あらゆるレベル”での対話によってもたらされるのだ。

 私たちキリスト教徒は、同じ聖霊の導きの下で同じ真理を求めており、キリストの約束は弟子となるすべての人に対してなされた。イエスご自身が、教義への忠誠ではなく、他者への愛の観点によってのみ定義された。巡礼の道を歩き、話しをするとき、すべてのキリスト教徒は、他者の経験から学ぶことがあるだろうことをを受け入れるだけの謙虚さが必要だ。

 私たちは、カトリック教会が信仰一致に「抗いがたくコミットしている」と言われる。だが、私たちが自分たちの内輪だけで一致を求め続け、他派のキリスト教徒を会話から締め出せば、それは、時間の経過とともに自分たちの内部分裂が広がるのを確実にするだけだ。”官僚機構”は、司教たちが、あまりにも批判的、創造的、あるいは動揺させるような教区レベル、地域レベルの教会会議での重要な公開討論の行き過ぎをもたらすことのないように、要求している。

 これは、参加者の大多数が既に、確立された体制への忠誠の誓いに縛られている聖職者だ保証することによって、安全で(その行動や発言が)予測可能な信徒を参加者として選ぶように司教たちに強いることによって、なされるのだ。

 教会法では、教会会議について、信徒および叙階されていない神学生や修道士の参加者を参加者総数の3分の1に制限されており、決定に関わる投票においても”安全な過半数”を占めることが保証されている。

 教会会議の参加者は会議に出席することが求められ、継続的に参加する代償として、信仰告白と中世について細部にわたる誓いを宣言することが必要とされる(教会法833項)が、宣誓が自由にされない限り、それは無効にされ、拘束力を持たない可能性がある(1200-01項参照)。

 さらに、非常に多くの提案から管理可能な議題を作成する過程では、早い段階から議論を無害化するために十分な裁量の余地を残し、それが会議の結果を条件付ける。

 筆者の論考の第二部では、英国からの驚くような取り組みをもとに、そうした理論的状況が、実際にいくつかの国でどのように機能しているかを見て行こうと思う。

*John O’Loughlin Kennedyは、引退した経済学者で、社会事業家でもある。 妻と共同で1968年にアイルランドで国際協力組織「Concern」を設立し、後継者に道を譲るまでの10年間、運営、軌道に乗せた。「 Concern」は、人道的危機への対応に加え、世界で最も貧しい24か国で農業開発と教育および医療支援プロジェクトを進めている。最近の著書に「The Curia is the Pope」(Mount SalusPress刊)がある。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

(注:LA CROIX internationalは、1883年に創刊された世界的に権威のある独立系のカトリック日刊紙LA CROIXのオンライン版。急激に変化する世界と教会の動きを適切な報道と解説で追い続けていることに定評があります。「カトリック・あい」は翻訳・転載の許可を得て、逐次、掲載していきます。原文はhttps://international.la-croix.comでご覧になれます。

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2021年6月27日