・「交わり、参加し、宣教する神の民となるように」菊地大司教が”シノドスの道”の歩み開始のミサ


(2021.10.17 菊地大司教の「司教の日記」より)

 10月17日、教皇様は世界中のすべての教区で、2023年秋のシノドスに向けた歩みを始めるように、と指示をされました。東京教区では、カテドラルである関口教会の午前10時のミサを、大司教司式ミサとして、シノドス開始のミサとしました。

Synodsoct17c 神の民としてともに歩みこの道程は、教会のあり方を見つめ直し、新たなあり方を模索する道ですから、教会にとっての回心の道でもあります。

 関口教会のミサでは、本来は聖堂の外でシノドスの祈りを唱え、回心を象徴して灌水した後に、皆で入堂する予定でしたが、あいにくの雨模様となり、皆さんには席に着いたままで、侍者と司祭団が大扉から入道しながら灌水して始めることといたしました。

 シノドス事務局が準備した文書には、今回のシノドスの目的がこう記されています。

 「次の基本となる質問が私たちを促し、導いてくれます。今日、さまざまなレベル(地方レベルから全世界レベルまで)で行われているこの「共に旅をする」ことは、教会がゆだねられた使命に従って福音を宣べ伝えることを可能にするでしょうか。また、シノドス的な教会として成長するために、聖霊はどのような段階を踏むようにわたしたちを招いているでしょうか」

 この準備文書に記されている10の「探求すべきテーマ」については、今後順に説明してまいりますし、教区のホームページの特設コーナーでは、今週以降、順次、共通理解のためのビデオを公開します。一緒に歩みましょう。

 以下、本日のミサの説教の原稿です。

【年間第29主日B 東京カテドラル聖マリア大聖堂 2021年10月17日】

 教皇様は、2023年秋に世界代表司教会議(シノドス)を開催することを決定され、そのテーマを、「ともに歩む教会のため-交わり、参加、そして宣教-」と定められました。

 その上で教皇様は、教会全体にとって、シノドスがまさしくその意味するところである「共に歩む」プロセスの具現化となることを望まれて、これまでとは異なるシノドスのあり方を定められました。それは、シノドスがローマで行われる2023年の司教たちによる会議だけに終わらず、世界中すべての教区のすべての人と歩みを共にするプロセスとなることであります。

 これまでは、テーマに基づいた準備文書がバチカンの事務局で作成され、それに対して各国の司教団が回答を送り、さらにその回答に基づいて具体的な討議資料が作成されて本番の会議に臨むというプロセスでした。これでは確かに、司教たちの考えは集約されますが、教会全体の識別を反映しているとは言い難い。

 そこで今回は、2021年10月からシノドスの歩みを始めることになり、まず最初の半年ほどで各教区での振り返りと識別が行われ、そこからアジアやアフリカなどの地域別に繋がり、あらゆる声に耳を傾けた上でのローマでの会議という、2年間にわたるプロセスが開始されることになりました。

 すでに先週、教皇様は、今回のシノドスのプロセスの開始を、ローマから告知されていますが、世界中の教区は10月17日の主日を持って、それぞれの教区におSynodsoct17dけるシノドスの歩みを始めるようにと指示をされています。東京教区では本日のこのミサを持って、また各小教区で同様の意向で捧げられているミサを持って、シノドスの歩みを開始いたします。

 9月の初めにローマ教区の信徒代表たちとお会いになった教皇様は、その席で、「教会が『リーダーたちとその配下の者たち』とか、『教える者と教わる者とから成り立っている』という凝り固まった分断のイメージから離れることには、なかなか手強い抵抗があるが、そういう時、神が立場を全くひっくり返すのを好まれることを、忘れている」と指摘されています。

 これまでのやり方に固執することなく、勇気を持って新しいあり方を模索することは、教皇フランシスコが教会にしばしば求められる道です。

 2015年にシノドス創設50周年の式典が行われた時、教皇様はこう述べておられます。

 「まさに『シノドス性』の歩みとは、神が第三千年期の教会に期待しておられる歩みなのです。ある意味、主がわたしたちに求めておられることは、すべて『シノドス』(共に歩む)という言葉の中に既に含まれています。信徒と司牧者とローマの司教が共に歩むこと、それを言葉で言うのは簡単ですが、実行に移すことは、それほど容易ではありません」

 第二バチカン公会議の教会憲章は、教会が個人の信心の積み重ねと言うよりも、全体として一つの神の民であることを強調しました。教会憲章には、「しかし神は、人々を個別的に、まったく相互の関わりなしに聖化し救うのではなく、彼らを、真理に基づいて神を認め忠実に神に仕える一つの民として確立することを望んだ」(「教会憲章」9項)と記されています。

 さらに教会憲章は、洗礼によって一つの民に結び合わされた私たちは、「ある人々はキリストの御心によって他の人々のための教師、神秘の分配者、牧者として立てられているが、キリストのからだの建設に関する、すべての信者に共通の尊厳と働きについては、真実に平等」(「教会憲章」32項)であると記しています。

 共に旅を続ける神の民にあって、私たち一人ひとりには固有の役割が与えられています。共同体の交わりの中で、一人ひとりがその役割を十全に果たすとき、神の民全体はこの世にあって、福音を証しする存在となり得ます。

 私たちの信仰は、神の民という共同体の信仰です。一つのキリストの体に結ばれた、共同体の信仰です。私たちの信仰は、その共同体における「交わり」のうちにある信仰です。

 「交わり」とは、「共有する」ことだったり、「分かち合う」ことだったり、「あずかる」ことを意味しています。パウロのコリントの教会への手紙に、「私たちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。私たちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか」と記されていました。その「あずかる」が、すなわち「交わり」のことです。私たちの信仰は、キリストの体である共同体を通じて、キリストの体にあずかり、命を分かち合い、愛を共有する交わりの中で、生きている信仰です。

 信仰の共同体の中に生じる「交わり」は、父と子と聖霊の交わりの神の姿を反映しています。「交わり」は、私たちの共同体で行われる典礼や祈りによって生み出され、豊かにされていきます。

 交わりによって深められた私たちの信仰は、私たち一人ひとりを共同体のうちにあって、ふさわしい役割を果たすように、と招きます。交わりは参加を生み出します。一人ひとりが共同体の交わりにあって、与えられた賜物にふさわしい働きを十全に果たしていくとき、神の民は福音を証しする宣教する共同体となっていきます。ここにシノドスのテーマである「共に歩む教会のため-交わり、参加、そして宣教-」の意味があります。

 今回のシノドスの歩みを通じて私たちは、共同体における信仰の感覚を通して、「神の民である」という自覚を深めるように招かれています。社会の現実、特に今般のパンデミックによる痛みへの共感を持つように招かれています。社会にあって、今を一生懸命に生きている人たち、すなわち貧しい人々との対話や連帯へと招かれています。命を生きる道や文化の多様性を尊重するように招かれています。信仰において、互いに裁くものではなく、許し合うように、と招かれています。

 シノドスの準備文書の冒頭にこう記されています。

 「共に旅をし、これまでの旅をともに振り返ることで、教会はその経験を通して、どのようなプロセスが、交わりを生き、参加を実現し、宣教に自らを開くのに役立つかを学ぶことができるのです」

 東京教区では、折しも宣教司牧方針を、今回と同様に多くの方の意見に耳を傾けながら定めたところです。残念ながら、発表した直後から感染症の状況に翻弄されており、宣教司牧方針を公表したものの、深めることが一切、できずにおりました。

 今回のシノドスの歩みは、そういった状況にある東京教区にとっては、ふさわしい呼びかけとなりました。シノドスの歩みをともにすることで、私たちは「今の東京教区の現実の中で、神の民であるとは、どういう意味があるのか」を理解し、深めようとしています。

 そのプロセスの中で、交わりを深め、共に参加し、福音を告げる共同体へと豊かになる道を模索していきます。そのことはちょうど、東京教区の宣教司牧方針の三つの柱、すなわち、「宣教する共同体」「交わりの共同体」「すべての命を大切にする共同体」の実現と直接につながっています。

 本日からシノドスの道を共に歩み、共に振り返り、共に理解を深め、共に祈りながら、私たちが交わり、参加し、宣教する神の民となるように、教区の宣教司牧方針を深めながら、旅路へと招かれる主の声に耳を傾けてまいりましょう。

(編集「カトリック・あい」=漢字の表記は原則として当用漢字表記に準じています)

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2021年10月17日