(評論)「言い訳をし、抽象的で役に立たない言葉の後ろに隠れているのか」と自問すべきは…「性虐待被害者のための祈りと償いの日」に

(2024.2.28 「カトリック・あい」)

 

 

*司教協議会会長は”長文“の「呼びかけ」を出しているが

 

 3月1日は「性虐待被害者のための祈りと償いの日」だ。いっこうに収まりを見せない聖職者による性的虐待に心を痛める教皇フランシスコが全世界の司教団に呼びかけて始まった。

 日本の司教団は、「四旬節第2金曜日」をこの日と定め、2017年3月から始め、今回は8回目となる。日本司協議会会長の菊地・東京大司教は2月16日付けの中央協議会ホームページに約1600字の”長文“の「2024年『性虐待被害者のための祈りと償いの日』にあたっての呼びかけ」を掲載している。また日本の教会の祈りの意向として3月を「性虐待被害者のために」とし、「聖職者によって心と体に深い傷を負った方々が、慈しみみ深い神の癒しによって慰められますように」と祈るよう勧めている。

 

 

*全15教区のうち1日が「祈りと償いの日」であることも「呼びかけ」の転載もしない教区が5つ、行事があるのは1教区だけ

 

 だが、肝心の各教区の対応はどうかというと、お寒い限りだ。会長メッセージは、司教団として合意の上で出されたのだろうか。

 日本に15ある教区のホームページを2月28日現在で見ると、行事予定も、司教協議会会長の呼びかけも何も載せていない教区が長崎、名古屋、福岡、那覇の5つ。3月1日が「祈りと償いの日」であることのみを載せているのが東京、鹿児島の二つ、司教協議会会長の呼びかけだけを載せているのが、さいたま、京都、大分の三つ。

 最大の信者数を抱える東京は、教区長の司教協議会会長が、中央協議会のホームページに「呼びかけ」を載せているから、それで事足れり、と判断したのか、教区のホームページには教区民あての、祈りと償いの日への参加呼びかけや、具体的な指針など皆無。教区としての行事予定も見られず、小教区レベルの取り組みもない。

 教区内の全小教区に対して、具体的な祈りと償いの指針を示し、それぞれで実施するよう求めているのが、札幌、横浜、新潟、仙台、広島の5つ。教区としての行事を予定しているのは大阪・高松教区たった一つに過ぎない。

*札幌教区の昨秋のアンケートで「『祈りと償いの日』を知らない」が7割、「そのためのミサや祈りに参加していない」が9割近い

 このような実態を、信者レベルで裏付けるデータが、札幌教区の教区報1月号に掲載された「祈りと償いの日」を前にした信者アンケートの結果概要でも明らかになっている。それによると、「祈りと償いの日を知らない」との答えが全回答の68%を占め、「ミサや祈りに参加しているか」の問いには「参加していない」「教会でそのようなことをしていない」との答えが合わせて86%に上っていることが分かった。性的なものも含めたいじめや”ハラスメント“が「ある」との答えも41%と、「ない」の35%を上回っている。

 

 

*「具体的に誰に対して、何を謝罪しているのか分からない、司教団のトップが謝って済むことか」の声も

 

 菊地会長の「呼びかけ」は、「教会にあって、率先して人間の尊厳を守り、共同体の一致を促進するべき聖職者や霊的な指導者が、命に対する暴力を働き、人間の尊厳をないがしろにする行為を働いた事例が、近年相次いで報告されています。そういった言動を通じて、共同体の一致を破壊するばかりか、性虐待という人間の尊厳を辱め蹂躙する行為によって、多くの方を深く傷つけた聖職者や霊的な指導者が存在することは事実です。長い時間を経て、ようやくその心の傷や苦しみを吐露された方々もおられます。なかには、あたかも被害を受けられた方に責任があるかのような言動で、さらなる被害の拡大を生じた事例もしばしば見受けられます」と述べている。

 そのうえで、「このように長期にわたる深い苦しみを生み出した聖職者や霊的指導者の行為を、心から謝罪いたします。また被害を受けられた方に責任があるかのような言動を通じて、人間の尊厳をおとしめた行為を、心から謝罪します」とし、長文の終わりにも「改めて、無関心や隠蔽も含め、教会の罪を心から謝罪いたします」としているが、教区レベルの対応が上記のようなありさまでは、説得力を欠く。

  この「呼びかけ」を読んだある西日本の女性信者は「誰に対してどのようなことについて、謝っておられるのか分からない。肝心の問題教区の司教がそっぽを向き、司教団のトップが代表して謝れば済むことなのでしょうか。抽象的で、心もこもっていない第三者のようです」という感想を「カトリック・あい」に寄せている。

 

*取り組みを始めて22年、“体制作り”以外に、何をしてきたのか

 

 また「呼びかけ」は、日本の司教団が2002年以来、ガイドラインの制定や、「子どもと女性の権利擁護のためのデスク」の設置など、対応にあたってきた・・・「子どもと女性の権利擁護のためのデスク」を通じて啓発活動を深めると共に、ガイドライン運用促進部門を別途設置し、それぞれの教区や修道会が、自らの聖職者や霊的な指導者の言動に責任をもって対応する態勢を整えつつあります」というが、体制着手から22年もかけて、どのような実績をあげたのだろうか。

 

 

*裁判に持ち込まざるを得なかった被害女性たちに心から耳を傾けたことがあるのか

 

 長崎教区、仙台教区では聖職者による性的虐待被害に遭った女性たちが、教区がまともに対応しないことから、裁判所に訴え、前者は長崎地方裁判所から教区、加害者に損害賠償命令が出され、後者は仙台地方裁判所の和解勧告を受け、教区側の消極姿勢で1年以上の”協議”を経て解決金の支払いとなったが、両教区とも、被害者たちに公の場で謝罪し、心身のケアに努め、教会に改めて迎え入れ、再発防止を約束した、という話は聞かない。それどころか、仙台教区の場合、被害者に対して「賠償金目当てだったんだろう」という心無い声をあびせさられ、教会に足を踏み入れることもできない状態、と聞く。

 「よびかけ」が、成果をする「子どもと女性の権利擁護のためのデスク」についても、それに欠かすことのできない信頼を失墜する出来事が相次いでいる。長崎教区では窓口の担当職員が複数の司祭のパワハラでPTSDを発症、休職に追い込まれ、窓口は一時、閉鎖となり、東京教区のように担当司祭が、理由も公開されないまま、人事異動期でもないのに突然、解任、「休養」扱いとなり、それから数か月たった今も、何の説明もされていない。

 長崎教区の元職員は、長崎地裁に教区を相手取って損害賠償を求める訴えを起こし、現在裁判が続いているといわれるが、原告、被告共に情報開示を避けている。東京大司教と新潟司教と二人の高位聖職者を出している神言会の司祭が,告解に来た女性に繰り返し性的暴行を働いたケースは、同会日本管区本部が訴えを受け付けないどころか、その人物の所在さえ明らかにしないことから、被害者の女性が東京地裁に訴えている。3月11日に二回目の審理が予定されているが、初回の審理には、被告の神言会の責任者も代理人弁護士も出廷せず、書類提出だけで済ませているが、どこまでこのような誠意のない姿勢を続けるつもりなのか不明だ。

 

 

*シノドス総会第一会期の総括文書や著名な専門家は「司教とは別に司法的任務を担う機関の設置検討」

 

 このような日本の教会の現状から見えてくるのは、こうした高位聖職者の行為をいたずらに非難しても、教会の信頼を崩すような事態をなくすことができないのではないか、ということだ。

 参考になるのは、昨年10月にバチカンで開かれた、シノダリティ(共働性)に関する世界代表司教会議(シノドス)総会第一会期の総括報告書の「12:教会の交わりにおける司教」の【なお検討を要すること】だ。

 そこでは、「i) シノドス的教会にとって不可欠なのは、未成年者や弱い立場の人々の保護を目的とする手続における透明性と尊重の文化を確立することです。虐待防止に特化した組織をさらに発展させることが必要」とし、「虐待の取り扱いというデリケートな問題は、多くの司教を、『父としての役割と裁判官としての役割を両立させなければならない』という困難な立場に置きます。司法的任務を、教会法により規定される他の機関に委ねることの妥当性を検討すべきです」としている。

 バチカンの未成年者保護委員会委員として発足当初から聖職者による性的虐待問題に取り組み、現在はローマのグレゴリアン大学人類究所長を務める世界的に著名な性的虐待問題の専門家、ハンス・ゾルナー神父(イエズス会士)もLaCroixとの2月23日付けのインタビューでこう語っている。

 「(司教たちの中には)『虐待の問題は自分たちには関係ない』と言う人がおり、 その一方で、(バチカンで聖職者の性的虐待問題を担当する)教理省は、世界中から”事件簿”を受け取っている、と述べている… こうした認識の問題を超えて、司教たちは『自分が司祭の父親であり、裁判官でもなければならない』ということで困難に直面しています。その問題を乗り越える唯一の方法は、虐待問題が発生した場合に対処するための明確な手順を各教区で確立すること。 これには、事件簿の管理あるいは調査を、独立した第三者に委任することも含まれることも考えられる」。

 

 

*教皇が聖職者に求める「被害者の声に耳を傾ける積極的かつ敬意を持った心の広さ」、そして具体的な行動

 

 聖職者による性的虐待が後を絶たないことに心を痛める教皇フランシスコは、昨年11月にフランス・ナント教区の聖職者による虐待被害者のグループと会見された際、聖職者による性的虐待の被害者たちが「家族とともに何が真実で善であるかを追求してきた場で、最大の悪に苦しんでいる」とされ、「『被害者や生存者の声に耳を傾ける』という積極的かつ敬意を持った心の広さが、受け手にあれば、虐待に対する”沈黙”は打ち破ることができるのです」と語られた。

 そして今年2月11日の 第32回世界病者の日の正午の祈りに先立つ説教では、この日のマルコ福音書にあるように「イエスのなさり方は、言葉を少なく、具体的に行動することです」と説かれ、最後に、「人々の話に耳を傾け、彼らの求めに応えられるようにしているか?」、それとも「言い訳をし、抽象的で役に立たない言葉の後ろに隠れているのか?」を自問するよう勧められた。

 

 「性虐待被害者のための祈りと償いの日」を前に、このような自問こそ、日本の高位聖職者たちが率先して行うべきことではないか。そのうえで、具体的行動で、全信者に対して範を示すことを、心から求めたい。

(「カトリック・あい」代表・南條俊二)

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2024年2月28日