(評論)3月10日「性虐待被害者のための祈りと償いの日」を誰が”風化”させているのか

 日本のカトリック教会にとって、3月10日は7回目となる「性虐待被害者のための祈りと償いの日」だ。以下のようなことを書くのは、信徒としての本意ではないし、まことに辛く、悲しい思いだが、聖職者から性的虐待を受け、いまも苦しんでいる方々が癒され、そして、日本の教会が信頼を取り戻し、司祭も信徒も互いに率直に耳を傾け合い、心から、主の愛の光に向かって”シノドスの道”を共に歩むことができるよう願い、あえて筆を執った。

(「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

*「性的虐待被害者のために祈り、赦しを求めるだけなく、具体的行動が必要」と教皇は訴えるが

 

 教皇フランシスコは3月の祈りの意向を、「虐待の犠牲者のために」とされ、ビデオメッセージで「性的虐待被害者のために祈り、赦しを求めるだけでは十分ではない。教会は虐待の犠牲者を第一に考え、隠蔽を避けねばならない」と強調。被害者の痛みと心理的トラウマは「彼らが受けたひどい行為が償われ、二度と繰り返されないために具体的な行動がとられた場合にのみ、癒されるのです… 教会は、犠牲者の声を聞き、心理的に支え、保護するための安全な場所を提供しなければなりません」と訴えておられる。だが、残念ながら、日本の司教たちはこのメッセージを”わがこと”として受け止めているとは思われない。

 

*「祈りと償い」どころか「無視と忘却」に陥りつつある

 「カトリック・あい」は昨年3月の評論で「『性虐待被害者のための祈りと償いの日』を『祈り』で済ませてはならない」とのタイトルで、日本の教会、なかんずく司教団に真剣かつ誠意ある取り組みを求めた。だが、現状を見ると、司教協議会会長のこの日に向けた「2023年『性虐待被害者のための祈りと償いの日』にあたっての呼びかけ」が2月17日に早々と出されたものの、それ以外には、主な教区のホームページを見ても、公式の関連行事予定は皆無。大半の教区レベルでは、「祈りと償い」どころか、「無視と忘却」になってしまった、と言わざるを得ない。

 カトリック教会の聖職者による性被害を訴える国内の信徒たちが長崎市で集会を開き、被害の掘り起こしや当事者間の連携を目指して「カトリック神父による性暴力被害者の会」を発足させたのは2020年6月のことだった。だが、新型コロナの大感染が長期化する中で活動が停滞したまま。それが、司教たちに”安心感”を与えているのだろうか。

 

 

*ほとんどの教区が「祈りと償い」の具体的予定なし

 

 東京教区は、菊地大司教が自身のホームページ「週刊大司教」で「10日金曜日、またはその直後の日曜日に、教皇様の意向にあわせてミサを捧げます。私も関口教会の主日ミサを司式します」としている。

 だが、日本でただ一人の枢機卿が教区長を務める大阪教区のホームページは、「性虐待、性暴力、ハラスメント防止決意表明」という3年前、2020年3月19日の前田・教区長(枢機卿)のメッセージを掲載しているだけだ。

 長崎教区は、司教協議会会長メッセージを”他人事”のようにホームページに載せているのみ。仙台教区のホームページには関連行事予定はなく、司教協議会会長メッセージすら掲載されていない。

 

 

*裁判所から損害賠償命令を受けた長崎教区、和解協議が進まない仙台教区は…

 長崎教区では、昨年2月、「2018年に司祭からわいせつ行為を受けたことで発症したPTSD(心的外傷後ストレス障害)を、高見大司教(当時)の不用意な発言でさらに悪化させ、精神的な苦痛を受けた」とする原告の訴えが認められ、長崎地方裁判所から2月賠償を命じられている。これに教区としてどのように対応したのか、被害者に謝罪し、精神的なケアをしたのか、などの説明は、教区報にも教区ホームページにもいまだにされていない。

 さらに、この被害女性のケアや教区の2億5000万円にのぼる巨額損失発生問題などの対応に当たっていた教区事務局の元職員が昨年4月、「複数の司祭からパワハラを受け、PTSDを発症した」として損害賠償を求める訴えを同じく長崎地方裁判所に起こしている。

 仙台教区では、2020年9月、教区司祭から性的虐待を受けた女性が、仙台地方裁判所に、加害者司祭(当時)を「被害者原告に対する性的虐待の直接的な加害者」、司教(当時)を「加害者を指導・監督すべき仙台教区裁治権者としての注意義務違反、原告被害者への不適切な発言および対応による二次被害の加害者」、カトリック仙台教区を「信徒への安全配慮義務違反、本件事案の調査義務違反、被害事実の隠蔽、加害者への適切な処分ならびに被害者への適切な対応についての不作為があった」として、三者に損賠賠償を求める民事訴訟を起こし、その後の和解の話し合いに進展が見られない。

 原告の女性は以前から、被害について教区に訴えており、2016年7月に教区が設置した第三者委員会がその年の10月に「性的虐待行為があった可能性が高い」と判断する報告書を出していたが、教区は事実上、この問題を放置してきた。

 「カトリックあい」は昨年3月27日付けの評論で、「3月19日、仙台教区では、2020年3月に平賀司教が引退して以来、約2年の間空席となって教区長・司教ポストにエドガル・ガクタン司教が就任した。長崎教区長には、一足先に、中村倫明・新大司教が補佐司教から昇格している。新たにリーダーとなった方々には、速やかに、被害者(教区側に言わせれば、「と称している人」=これは長崎地裁が長崎教区に出した賠償命令の根拠となった高見・大司教=当時=の言葉でもあるが)の立場に立った、公正かつ”心”のある判断による和解の実現で”模範”を示し、仙台教区はもとより、長崎問題なども合わせて、損なわれた日本の教会の信用を回復するために、具体的な努力を始めることが期待される」と願った。だが、その期待は現時点で見る限り、まったく現実のものとなっていない。

 

*長崎からわざわざ「被害者の集い」に出向き、”謝罪”し、性的虐待に立ち向かう、と約束したが

 「カトリック神父による性暴力被害者の会」発足の中心になった竹中勝美氏は、自身が幼少期に某修道会司祭から受けた性的虐待被害について、約20年前から修道会や司教団の担当者に調査と結果公表、責任の明確化を訴えてきたが、いっこうに進展がなく、2019年4月に東京で開かれた「虐待被害者の集い」でも、同様の訴えをした。

 この集いには、招待も受けていないカトリック司教協議会会長で高見・大司教(当時)がはるばる長崎からやって来て、「私たちが十分なことをできず、苦しい思いをさせていることを本当に申し訳ないと思っている」と竹中氏に謝罪、「世界で起きている様々な性的虐待に教会は立ち向かっていかねばならない。世論を高め、専門的な知識を結集して、改善に取り組みたい」と約束していた。その後、高見大司教も司教団も目立った動きを見せず、それが被害者の会発足の要因となったのだが、歩いても行ける長崎での発足総会に高見大司教が姿を見せることはなかった。

 その長崎教区では、被害者の会発足の半年前、2019年11月の教皇フランシスコ来日の直前に、時事通信が「長崎県のカトリック信徒の女性が、司祭にわいせつな行為をされ、長崎教区に訴えた… 教区は司祭の職務を停止したが、信徒たちには『病気療養中』とだけ説明。女性は心身性ストレス障害(PTSD)で長期入院を余儀なくされた… この問題への見解、対応もいまだに公にされていない」と報じた。教皇離日後の同年11月27日になって会見した長崎教区は「大変深刻に受け止めている」とし、警察の捜査の推移も見ながら、状況に応じて発表や会見をする予定、と説明。2019年8月に、長崎教区が女性に謝罪し慰謝料を払うことで女性との間で示談がいったん成立していた。

 

*「不起訴」で態度を翻し、不用意な言動で被害者のPTSDを悪化させ、損害賠償訴訟に追い込んだ…

 

 ところが、問題の司祭が強制わいせつ容疑で2020年2月に長崎地検へ書類送検された後、2020年4月、理由が明らかにされないまま、不起訴処分となったのを機に、それを逆手に取るかのように、高見大司教が、ある会議の席で、被害女性について「『被害者』と言えば『加害が成立した』との誤解を招くので、『被害を受けたと思っている人』など別の表現が望ましい」などと、「不起訴」を「無罪」と錯覚したような発言。

 この発言が載った会議議事録を見せられた女性が改めてショックを受けて、PTSD(心的外傷後ストレス障害)を悪化させ、長崎教区を相手取って損害賠償を求める裁判を起こしたが、口頭弁論に立った高見大司教は、「言葉足らずで勘違いをさせた。『被害者が被害を受けたと思い込んでいる』という意味ではない。加害行為が存在しなかったとは考えていない」と、原告の”勘違い”で片付けるような”釈明”にとどまり、謝罪や賠償に応じる姿勢は見せていなかった。長崎地方裁判所は、判決で「大司教の発言は『性被害自体が存在しなかった』などという旨の言動であり、2次被害を受けないようにする注意義務に違反する行為だ。女性の受けた精神的苦痛は多大だ」とし、長崎教区に賠償金の支払いを命じた。

 この際、「カトリック・あい」は、「民事裁判とは言え、カトリック教会の高位聖職者が、司祭の性的虐待行為に関連する裁判で明確に責任に問われたのは、わが国では初めてであり、教会に対する信頼は揺らぎかねない」と警告したが、その後、長崎教区ホームページや教区報を見る限り、信頼回復の具体的な努力も、原告被害者に対する損害賠償金の支払いも、謝罪も、教会への復帰の支援などについても、いっさい報じられていない。

 

*日本の教会の3月の祈りの意向は「無関心からの解放」というが、説得力なし

 「カトリック・あい」が掲載中の3月の日本の教会の祈りの意向は、「性虐待被害者のために… 無関心から解放され、被害を受けられた人たちが神のいつくしみの手による癒やしに包まれますように」となっている。だが、教会のリーダー、なかんずく被害の訴えを起こされ、賠償命令まで受けている教区の司教が。このような「無関心」の状態では、全く説得力がない。

 司教協議会会長の呼び掛けでは、「率先して命を守り、人間の尊厳を守るはずの聖職者や霊的な指導者が、命に対する暴力を働き、人間の尊厳をないがしろにする行為を働いた事例が、近年相次いで報告されています。『性虐待』という人間の尊厳を辱め、蹂躙する聖職者や霊的指導者の行為によって深く傷つけられた方々が、長い時間の苦しみと葛藤を経て、ようやくその心の思いを吐露された結果である、と思います。そのように長期にわたる深い苦しみを生み出した聖職者や霊的指導者の行為を、心から謝罪いたします」としている。

 司教協議会会長がこのように言われても、当事者たる教区司教や関係の司祭たち、あるいは一般信徒が横を向いていては、謝罪の心は被害者には伝わらない。

 また呼び掛けでは、「日本の司教団は、2002年以来、ガイドラインの制定や、「子どもと女性の権利擁護のためのデスク」の設置など、対応にあたってきました。2021年2月の司教総会で「未成年者と弱い立場におかれている成人の保護のためのガイドライン」を決議し、教会に求められている命を守るための行動に積極的に取り組む体制を整えてきました。昨年には、「子どもと女性の権利擁護のためのデスク」が啓発活動にさらに取り組むよう、司教協議会会長直属の部門としてガイドライン運用促進部門を別途設置し、責任をもって対応する態勢を整えつつあります」とある。

 だが、このような「ルールや体制の整備」がどのように具体的に効果を上げ、何件の相談があり、どのように対応したのか、解決したのか、解決できていないのか、その原因はどこにあるのか、など中身の説明が全くない。世間一般では当たり前のようになりつつある「説明責任」も教会には通用しないようだ。

 

*「ガイドラインの遵守状況を確認し、監査結果を公表」はされていない

 「2002年以来、ガイドライン制定」とあるが、長崎、仙台両教区に代表されるような対応を見ると、ガイドラインが守られているとは思えない。さらに、 2021年2月の司教協議会総会で承認されたという現在のガイドラインには「日本カトリック司教協議会は、各教区における本ガイドラインの遵守状況を確認し、監査結果を公表する」とあるが、具体的に、何を、誰が、どの組織が監査するのか、どのような頻度でするのか、結果の公表はどうするのか、指摘された問題への対応はどこがするのか、問題の責任者の処遇はどうするのか、など肝心の点がすべて不明。遵守状況を確認、監査結果が公表されたことも、今もって、ない。

 司教協議会は昨年1月13日に開いた定例常任司教委員会で「聖職者による性虐待問題に取り組むための体制について 子どもと女性の権利擁護のためのデスクからの提案である『未成年者と弱い立場におかれている成人 を保護するためのガイドライン』推進のために司教協議会会長を責任者として修道会・宣教会との連携、神学校での養成、司祭生涯養成、教区間などの横断的なつながりを推進する組織を作ることを承認し、今後組織体制を整えていくことを申し合わせた」とあった。これが、今回の会長メッセージにある「司教協議会会長直属の部門としてガイドライン運用促進部門を別途設置…」と思われるが、”承認”から一年たっても、まだこの段階なのだ。

 

*「子どもと女性の権利擁護のためのデスク」のホームページは…事実上の白紙

 また、子どもと女性の権利擁護のためのデスク」は各教区に置かれたはずだが、その担当者の女性がパワハラで職場を去り、裁判を起こさざるを得ない状況にある長崎教区の場合、ホームページのどこを探しても、そのデスクは見つからない。以前、長崎教区の関係者から、「加害者を守るための部署になっている」との声を聞いたことがあるが、このような状態では、たとえ被害者が訴えようにも、訴えられまい。

 それどころか、肝心の司教協議会の「子どもと女性の権利擁護のためのデスク」(責任司教 松浦悟郎 司教、担当司教 森山信三 司教)のページを見ると、今回の「祈りと償いの日」の各教区の行事予定などは一切なく、関連冊子…申し込み方法・社会福音化推進部 … 関連のお知らせ…性虐待被害者のための祈りと償いの日(四旬節第2金曜日)(2017/03/02)『聖職者による子どもへの性虐待に対応するためのマニュアル』(2013/07/24)と5年以上前の情報のみ。それでも、と©子どもと女性の権利擁護のためのデスクHP を開いたら、[ご不便をおかけしております。現在、こちらのサイトはメンテナンス中です。ご理解のほど、宜しくお願いいたします」と白紙の状態。「啓発活動にさらに取り組む」どころではない。

 

 

*2年前に不完全な”アンケート結果”は公表、だがフォローアップもない

 欧米の教会では、相次いで聖職者による性的虐待のニュースが続いており、米国では性的虐待被害者の損害賠償請求訴訟がカリフォルニア州などで相次ぎ、多額の負担に耐えかねて破産を申し立てる教区が続出している。

 欧州の教会では、フランス、ドイツ、ポルトガル、ベルギー、アイルランドなどで、政府の委員会や、外部の専門家に委嘱した独立委員会による厳格かつ詳細な調査が行われ、フランスで過去半世紀に推定33万人の未成年者が聖職者などの性的虐待の犠牲になっていることが明らかになるなど、深刻な実態が明らかにされ、取り組みが遅れているイタリアやスペインでも、関係者の強い要請で独立委員会の設置などが進んでいる。

 だが、日本では、このような実態把握の取り組みは、司教協議会が2020年4月に「聖職者による未成年者への性虐待の対応に関するアンケート」を1年がかりでまとめ、公表したのみ。

 しかも、その内容を見ると、全国16の教区、40の男子修道会・宣教会、55の女子修道会・宣教会から得た回答では、1950年代から2010年代に「聖職者より性虐待を受けた」とされる訴えはわずかに16件、加害聖職者は、教区司祭7名、修道会・宣教会司祭8名、他1名は不明。

 加害を認めた者が4件、否認が5件、不明が7件。加害聖職者の措置(事件発覚時)は、職務停止は2件に過ぎず、退会も1件のみ。異動で済ましたものが8件(国内外含)、ほか5件は不明という内容。強制調査権も何もない、ただ各教区から報告を受動的に受け取る”アンケート“の限界を露呈した形となった。

 発表文では「本調査の目的は、日本の教会が未成年者への性虐待に関する対応についての実態を把握し、今後の対策を検討すること」としているものの、「教会という密接な関わりをもつ共同体の中での犯罪は、被害者が声を上げるのが難しく、「今回調査においての該当件数も、言葉にできた勇気ある被害者の数であり… 性虐待・性暴力全体の被害者の実数は把握しきれない」「事実確認の段階で被疑者が否認や黙秘をしている場合は、教区司教や頂上による謝罪で終わるなど、消極的な対応事例も少なくない」と言い訳のような表現が目立つ。

 「本調査によって訴えが上がってこなかった教区・修道会・宣教会においても、『被害がない』という短絡的な捉え方をするべきではない。被害者が安心して声を上げられる環境かどうかを見直し、教会全体として、性虐待・性暴力根絶に向けた、たゆまぬ努力が必要である」と述べていたが、具体的にどのような行程表を作り、形だけでない内実を伴った取り組みをしようとしているのか、各教区に何を期待するのか、明確な説明は、2年たった現在に至るまで皆無である。

 

 

*声を上げにくい日本の教会の”風土”に安住ー具体的行動を!

 被害者が声を上げにくい、まして聖職者、しかも高位聖職者を訴えるなど思いもよらない、という信徒が圧倒的な日本の風土も影響して、表面に出ている虐待案件が数えるほどしかないことに、日本の司教団は”安心”しているのだろうか。以上述べたように、危機感も、取り組みへの真剣さも、ほとんど感じられない。

 司教協議会会長の”呼び掛け”一本で、”不都合な真実”に目を背け、”嵐”が過ぎ去り、”風化”するのを待っている、とは思いたくない。だが、教皇が、全信者が互いの声に耳を傾け、共に歩む教会の実現に向けて始められた”シノドスの道”の歩みに日本の教会が消極的なのは、「不都合な真実が耳に入るのを避けたい」という、およそ教皇の思いとは程遠い、いや正反対の思惑が裏にあるからではないか、とさえ考えざるを得ないと言うほかない。

  司祭不足が深刻さを増している中で、3月21日、東京教区では新司祭が4人誕生する。司教団には、後輩たちの模範となり、希望となるために、教皇の言われる「具体的な行動」を見せてもらいたい。

このエントリーをはてなブックマークに追加
2023年3月6日