・「『祈りと償いの日』を誰が”風化”させているのか」に共感の声相次ぐ

(2023.3,9 カトリックあい)

 3月10日の「性虐待被害者のための祈りと償いの日」を前に、「カトリック・あい」は「『祈りと償いの日』を誰が”風化”させているのか」と題する評論を掲載し、日本の司教たちの多くが聖職者による性的虐待問題への取り組みに消極的で、『祈りと償いの日』への参加を小教区や信徒たちへの呼び掛けることもほとんどしていない”無関心の文化”に警鐘を鳴らしました。

 この評論は掲載開始からわずか3日で既に50件近い閲覧をいただいており、読者の皆様のご関心の高さを示しています。共感の声も、一般信徒、司祭の方々から寄せられていますので、投稿してくださった方が特定されることでご迷惑をおかけしないように、ポイントだけご紹介します。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

保身、自己防衛に走るのは人間の性(さが)であり、なかなかそれを捨てることは難しいのですが、「他者への愛」のかけらもないと受け取れる聖職者が、信徒から訴えられ、そればかりが裁判所から損害賠償命令を出されても回心なさらないのは、嘆かわしい限りです。

性的虐待の問題についてバチカンからは教令や指針の改訂版が2021年、22年に出されていますが、いまだに日本語訳がない。やる気のなさを感じています。教令や指針を学ぶ以前に、翻訳すらしようとしない司教団とは何なのでしょうか。聖職者による性的虐待への対応、姿勢は、まったく旧態依然と言うほかありません。

・やたらと「正義だ」「平和だ」と言いたがる司教さんたちがやっていることに、「正義」も「平和」も感じられない… というのは、まったくもっておかしな話です。これだから日本の教会は常識を持つ多くの日本人から信用されない。信者も増えるわけがない、と思っています。

・率直に申し上げて、聖職者で、信者に対する虐待行為について真剣に考えている方は、少なくとも私の周りにはおられません。聖職者の性的虐待の問題が報道されても、知っていても反応する信者もない…おかしな話です。当然、私たちの教区では「性虐待被害者のための祈りと償いの日」に具体的な予定はなく、小教区への「祈りと償い」の呼びかけもありません。

・聖職者主義がまかり通り、神父さま大好き信者が教会で幅を利かしている限り、流れは変わらない。性的虐待を批判するどころか女性信者側から司祭の手や体を触ったりすることが平気でなされ、司祭の中には「性的虐待は、相手の同意もあるのだから」と平然とおっしゃる方もいます。

・結局、司祭、司教は守られているのです。皆が批判的なまなざしを向けない限り、司教団、司祭団は、何もしないでしょう。このような体質を根本的に改めない限り、教皇フランシスコが”シノドスの道”で繰り返し呼び掛けられている―「神の民」すべてが互いに耳を傾け合い、共に歩む教会―にはなり得ません。

このエントリーをはてなブックマークに追加
2023年3月9日