☩「洗礼は私たちを神の子にする」主の洗礼の主日・正午の祈りで

 

2024年1月7日

☩「子供たちが式の主人公」教皇、システィナ礼拝堂で幼児16人に洗礼・主の洗礼の祝日に

(2024.1.7 Vatican News   Francesca Merlo)
 主の洗礼の祝日の7日、教皇フランシスコはシスティーナ礼拝堂でのミサの中で、16人の幼児に洗礼を授け、新しい信仰生活に迎え入れられた。All About Easter and it's Symbolism - Indoindians.com
 ミサ中の説教で教皇は、幼児たちへの主からの信仰の賜物を祝福され、「彼らは信仰の受け取り方を証しするので、この儀式の主人公でもあります」と語られた。
 教皇が話されている間、幼児たちは皆静かにしていたが、「一人が最初の音を出すだけで、”コンサート“”が始まります。子供たちが泣いても、泣かせたままにしてください!」、さらに「お腹が空いたら食べさせてください… 子供たちは信仰の賜物を受け取る準備をし、この祝日を取り仕切るのです」と説かれた。
 そして、教皇は、「これから洗礼を受ける子供たちを、私たちにとっての信仰の模範とさせてください。私たちの信仰を無邪気、かつ広い心で受け入れる方法を示してくれますように」と祈られた。
 洗礼の儀式に移り、教皇は、幼児たち一人ひとりに洗礼を授け、信仰に迎え入れられた。そして、幼児たちに付き添った代父母と両親に向かって、「信仰を助ける手立てとして、彼らの成長に寄り添ってください」と願われた。
 また、家族に対し、洗礼の日を彼らのもう一つの「誕生日」とするよう促され、「 この日は信仰が受け入れられた日であり、祝うべき日であり、子供たちにそのことを教える必要があります」と説かれた。
 式典では、父親たちに一人ずつろうそくが渡され、火がつけられたが、 教皇は「この蝋燭を家に持ち帰ってください… これは決して消えてはいけないキリスト教の光を表しています」とされ、試練の時には、家族皆がろうそくに目を向けるように、と呼び掛けられた。
 そして最後に、イタリア語の「きよしこの夜」の歌詞と音楽に合わせて、両親と代父母がロザリオを受け取り、教皇と短い言葉を交わし、教皇は子供たち一人一人を祝福しながら回って祝賀会を締めくくられた。

 

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2024年1月7日

☩「東方三博士のように、天を見上げ、歩み、礼拝しよう」ー主の公現ミサで

(2024.1.6 バチカン放送)

 教皇フランシスコは6日朝、聖ペトロ大聖堂で「主の公現」の祭日ミサを捧げられた。

「主の公現」の祭日とは、ベツレヘムで生まれた幼子イエスのもとに東方三博士が訪問した出来事や、ヨルダン川におけるイエスの洗礼、カナの婚礼でのイエスの最初の奇跡など、キリストが公に人々の前に姿を現され、キリストを通し、神の栄光がすべての人に現れたことを記念する日。1月6日に祝われるが、日本の教会では2日から8日の間の主日に記念されることになっており、今年は7日だ。

ミサ中の説教で教皇は、「お生まれになったばかりの王」を探しに旅に出る東方三博士の姿について、「神を求めて歩む民、遠くから神のもとへと近づいていく人々の巡礼をイメージさせるもの」と話された。

そして、旅する博士たちの姿、態度から、「天を見つめる眼差し」「大地を歩む足」「礼拝のうちにひれ伏す心」の3つを指摘。

「天を見つめる眼差し」について、「彼らは自分の世界や、地上的な考えだけに閉じこもることなく、顔を上げ、自分たちの人生の意味を照らす光、天から来る救いを待ち望み、空に一つの星が現れるのを見ると、星々の間で最も明るく輝くその星に惹かれるままに歩んでいきました」と語られた。

また、東方三博士はそれだけでなく、「大地を歩む足」を持っていた、とされ、「輝く星は、彼らに地上の道を低く歩ませ、飼い葉桶の中の幼子の前で身をかがめさせました。それは、無限に大きい神が、幼子の小ささの中にご自身を現されたからです」と説かれた。

そして、信仰の賜物は、「天を見上げさせるだけでなく、福音の証し人として、私たちにこの世の道を歩かせ、兄弟たちと出会わせます」と語られた。

さらに、博士たちには「礼拝のうちにひれ伏す心」がそなわっており、ベツレヘムに着いて、幼子イエスを見ると「ひれ伏して拝んだ」( マタイ福音書2章11節)。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として捧げた。

教皇は、「黄金は『王』を、乳香は『神』を、没薬は『死』を象徴するもの」とされ、「私たちに仕えるために来られた王、人となられ、私たちへの愛のために亡くなられた神-これらの神秘を前に、私たちは心を低くし、礼拝するためにひざまずくように、勧められています」と強調された。

説教の最後に教皇は「東方の三博士のように、眼差しを天に上げ、主を探すために歩み、心を低くして拝みましょう」と信者たちを促され、「神を探す勇気」「この世を忍耐強く歩む勇気」「すべての人を照らす神を見つめ礼拝する勇気」を私たちにくださるよう、主に祈られた。

(編集「カトリック・あい」)

2024年1月7日

☩「賢者たちは、幼子イエスの中に神の謙虚さを驚きをもって見ることを教えてくれる」主の公現の正午の祈りで

(2024.1.6 Vatican News  Lisa Zengarini)

     教皇フランシスコは6日、主の公現の祝日の正午の祈りに先立つ説教で、黄金、乳香、没薬の贈り物を持ってベツレヘムの「飼い葉桶」に到着した賢者たちがしたように、幼子イエスに目を向け、その謙虚さを驚きをもって見つめるように、また、 子どもたちの目を通して世界の問題を見るように勧められた。

 説教で教皇は、まず、東方の三博士が星の出現に疑問を抱いた後、イエスを捜し出して贈り物を捧げるためにベツレヘムに向けて出発した場面に注意を向けられた。

 そして、「三人は、王族や貴族ではなく貧しい家族として生まれた赤子を捜し出し、神の臨在をその赤子の中に認めました。その経験は私たちにとっても重要です」と指摘。

 「彼らは、幼子イエスの中に神が人間として造られたことを理解しました。このことは、彼らと同じように、私たちも神の謙虚さに驚くように、誘っているのです」とされ、「イエスを黙想し、御前に留まり、聖体の中でイエスを礼拝することは、時間を無駄にするのではなく、時間に意味を与えることなのです」と強調された。

 そして、「 それは、心に栄養を与える沈黙の単純さの中で、人生の流れを再発見することなのです。私たちも御子の前に留まりましょう。 ベビーベッドの前で、いったん動きを止めましょう」と促された。

 教皇はさらに、「子供たちも、信頼、即時性、驚き、健全な好奇心、自発的に泣いたり笑ったり、夢を見る能力をもって、イエスについて私たちに語っています」と語られ、子供たちに耳を傾け、子供たちから学ぶよう勧められた。

 続けて、「幼子イエスの前に子供たちと一緒に立つことで、私たちは驚かされることを学び、賢者のように、もっと単純でより良い再出発ができます。そして、私たちは世界の問題に対して新しく創造的な見方をする方法を知ることになるでしょう」 と説かれた。

 また教皇は、次のように自問することを信者たちに勧められた-「最近、動くのを止めて礼拝をしたことがあるか?」「ベビーベッドの前で祈りながら、静かにイエスのために小さなスペースを作ったことがあるか?」「子どもたちのために時間を費やし、話したり、一緒に遊んだりしただろうか?」、さらに、「子どもたちの目を通して世界の問題を見ることができるでしょうか?」と。

 説教の最後に、教皇は、神の母マリアが「幼子イエスとすべての子供たち、特に戦争と不正義によって重荷を負っている子供たちに対する私たちの愛を、さらに深めてくだるように」と祈られた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2024年1月6日

☩「イランの爆破テロの犠牲者たちのために、そして世界の平和のために祈ろう」主の公現・正午の祈りで

Pope Francis during the Angelus on the Solemnity of the Epiphany(Vatican Media)

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2024年1月6日

◎教皇連続講話「悪徳と美徳」②神の恵みは私たちの霊的闘いの勝利を助けてくださる

Pope Francis at the weekly General Audience(Vatican Media)

 教皇はまた、「すべての罪から解放されているイエスでさえも、ご自分を洗礼のために差し出され、 洗礼を受けられた後、荒れ野に向かわれ、サタンの誘惑を受けられました。私たちが常に直面する準備をせねばならないことを経験されたのです」と指摘された。

 「人生は、課題、試練、岐路、相反するビジョン、隠れた誘惑、相反する声で構成されています」と語られた教皇は、信者たちに、「対立する両極端-憎しみと慈善の行い、 悲しみと聖霊の真の喜び、 かたくなな心と慈悲の心-の間で、日々”綱渡り”をするように」と促された。

 講話の最後に教皇は、「悪徳と美徳を振り返ることで、私たちは、善と悪の輪郭が曖昧なままの虚無的な文化を克服できます」とされ、「悪徳と美徳について考えることは、『人間は、他の生き物とは異なり、いつでも自分自身を超越し、神に対して心を開き、聖性へ向かって歩むことができる存在なのだ』ということを思い出させてくれます」と付け加えられた。

 そして、「霊的な闘いは、私たちを鎖に繋ぐ『悪徳』を、注意深く見つめ、神の恵みと共に私たちの中で開花し、私たちの人生に聖霊の春をもたらす『美徳』に向かって歩むように、私たちを導くのです」と締めくくられた。 

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2024年1月3日

☩ 教皇、世界中の戦争の犠牲者、能登半島地震の被災者と羽田航空機事故犠牲者のために祈られる

(2024.1.3  バチカン放送=Vatican Newsをもとに、1.4に更新)

     教皇フランシスコは3日の年初の一般謁見で、能登半島地震の被災者への寄り添いを新たに表明するとともに、羽田空港での航空機事故の犠牲者のために祈られた。

 謁見参加者への挨拶の中で、教皇は、戦争の犠牲になっているパレスチナ、イスラエル、ウクライナの人々、そして迫害されているロヒンギアの人々のために祈られた。そして、「日本で起きた(能登半島を中心とし、1日夕から続いている)地震に見舞われたすべての方々に、精神的寄り添いを新たにしたいと思います」と述べらてるとともに、2日夕に羽田空港で起きた旅客機と海上保安庁機の衝突炎上事故にも言及され、特に亡くなった方々を心に留められた。

 また、教皇は、この地震と航空機事故の犠牲者の遺族、被災者たちの救助、支援にあたる人々のためにも祈られた。

 教皇はこれらの言葉をイタリア語で述べられ、次いで関係者が同文を英語で読み上げた。

 教皇は前日2日に、バチカンのピエトロ・パロリン国務長官を通して、日本の教会関係者に電報を送られ、能登半島地震の犠牲者へ哀悼の意を表明されるとともに、すべての被災者に連帯を示されている。

(編集「カトリック・あい」)
2024年1月3日

☩「新しい年を神の母に託そう」2024年1月1日「神の母聖マリア」の祝日ミサで

(2024.1.1 バチカン放送)

 教皇フランシスコが2024年の1月1日、聖ペトロ大聖堂で「神の母聖マリア」の祭日のミサを捧げられた。

 ミサ中の説教で教皇は、エフェソ(エフェソス)公会議(431年)の時、人々が「神の聖なる母」の名を喜びをもって唱えたように、新年を神の母聖マリアに捧げ、祈りながら迎えることは素晴らしいこと、と話された。

 教皇は「『神の母』という言葉は、『母の腕に抱かれた御子イエスが、私たち人類と永久に結ばれた』という喜びにあふれた確信を表すものです」とされ、「『神の母』は、主と私たちの永遠の契約を短い言葉で宣言するものであり、それは『信仰の教義』であると同時に『希望の教義』でもあります」と説かれた。

 また、「教会の持つ女性的な性格を再発見する上でも、教会はマリアを必要としています」と指摘。「女性、おとめ、母であるマリアは、女性の役割に光を当て、世話と、配慮、忍耐、勇気といった母性的な側面を持つ司牧を通して教会を生かすための、完全な模範です」と語られた。

 そして、「世界もまた、平和を見出すために、暴力と憎しみの連鎖から抜け出すために、人間的な眼差しを取り戻すために、母たち、女性たちを見つめなければなりません」と強調。「すべての社会は、女性の賜物を受け入れながら、女性を尊重し、守り、価値を見出す必要がある。女性を傷つける者は、女性から生まれた神を冒涜することになると知るべきです」と話された。

 最後に、「新年を神の母に託しつつ、私たちの人生を奉献しましょう」と呼びかけられた教皇は、「この一年が主の慰めと、神の母聖マリアの優しさにあふれるものとなる」ように祈られた。

(編集「カトリック・あい」)

 

(2024.1.1  Vatican News Thaddeus Jones)

(以下、翻訳中)
In his homily at the New Year’s Day Mass celebrating the Solemnity of Mary, Mother of God, Pope Francis calls on us to “entrust this coming year to the Mother of God” and consecrate our lives to her. With her “tender love…she will lead us to Jesus.” On this day the Church also marks the World Day of Peace.

Presiding over the morning Mass in Saint Peter’s Basilica on New Year’s Day, Pope Francis spoke about this day when we celebrate in a special way the Holy Mother of God, “a simple phrase that confesses the Lord’s eternal covenant with us.” January 1st marks the Solemnity of the Blessed Virgin Mary, the Mother of God, and also the day the Church marks the World Day of Peace.

The fullness of time

The Pope illustrated the meaning of the expression “the fullness of time” we read in the Scriptures and how “divine grace spills over” when “God becomes man” through Mary, “the means chosen by God, the culmination of that long line of individuals and generations that ‘drop by drop’ prepared for the Lord’s coming into the world.”

“The Mother, then, stands at the very heart of the mystery of time. It pleased God to turn history around through her, the woman. With that one word, “woman”, the Scripture brings us back to the beginning, to Genesis, and makes us realize that the Mother and Child mark a new creation, a new beginning. Thus, at the beginning of the time of salvation, there is the Mother of God, our Holy Mother.”

Dogma of hope

The words “Mother of God,” the Pope explained, “express the joyful certainty that the Lord, a tiny Child in his Mamma’s arms, has united himself forever to our humanity, to the point that it is no longer only ours, but his as well,”  the Lord’s eternal covenant with us.

“Mother of God: a dogma of faith, but also a “dogma of hope”; God in man, and man in God, forever. Holy Mother of God.”

At the same time,  the Pope emphasized that we should remember that “the motherhood of Mary is the path leading us to the paternal tenderness of God, the closest, most direct and easiest of paths.”

Maternal care and courage

The Church also needs to rediscover in Mary, Virgin and Mother, how to be “generative” with pastoral ministry distinguished by “concern and care, patience and maternal courage,” said the Pope. And the world could also look to mothers and women for ways to find peace and “see things with genuinely human eyes and hearts.”

“Every society needs to accept the gift that is woman, every woman: to respect, defend and esteem women, in the knowledge that whosoever harms a single woman profanes God, who was “born of a woman”.”

Grace overflows

The Pope then spoke about how Mary plays “a decisive role” also in each of our lives, as “no one knows better than a Mother the stages of growth and the urgent needs of her children.”

“Mary knows our needs; she intercedes to make grace overflow in our lives and to guide them to authentic fulfilment.”

The Pope said we can “seek refuge” in Mary, especially in times of loneliness, when dealing with our shortcomings, “whenever we are no longer able to untie the knots in our lives.” And may we turn to Mary for help in becoming “artisans of unity” in our times “bereft of peace” so that we can do so “with her maternal creativity and concern for her children.”

Entrusting the year to the Mother of God

In conclusion, the Pope said in his homily interspersed with quotes from Paul VI, Thomas of Celano, Martin Luther and the Dogmatic Constitution on the Church Lumen Gentium, that we should entrust the New Year to the Mother of God, consecrating our lives to her, as “she will lead us to Jesus, who is himself ‘the fullness of time,’ of every time, of our own time.”

“May this year be filled with the consolation of the Lord! May this year be filled with the tender maternal love of Mary, the Holy Mother of God. And now let us all proclaim together, three times: Holy Mother of God! Holy Mother of God! Holy Mother of God!”

2024年1月1日

☩「愛は平和への道を開く、人々を窒息させることは決してない」新年1月1日、「神の母聖マリア」の祝日、「世界平和の日」に

2023.12.31 Angelus

 

2024年1月1日

☩「聖母から感謝と希望を学び、2024年を聖年に先立つ『祈りに捧げる年に』しよう」教皇、2023年締めくくる夕べの祈りで

(2023.12.31 バチカン放送)

   2023年を締めくくる12月31日夜、教皇フランシスコは翌日1月1日に祝われる「神の母聖マリア」の祭日の第一晩課(前晩の祈り)を、バチカンの聖ペトロ大聖堂で捧げられた。

 夕べの祈りでは、過ぎた一年を神に感謝し、賛歌「テ・デウム」が歌われ、聖体降福式が行われ、教皇は「感謝」と「希望」をテーマに説教をされ、「世俗的で一時的な、単なる満足や楽観ではない、神と兄弟姉妹との関係」に根差した真の「感謝」や「希望」を持つ必要を強調。これらを聖母から学ぶよう勧められた。

 説教で教皇は、生まれたばかりの幼子イエスを見つめる聖母マリアの心の中の感謝がいかに大きなものであったかを考えるよう、信者たちに促し、「神秘を見つめる態度、賜物に対する観想が、感謝の心を押し広げます」とされ、「愛と感謝に満ちた聖母は、信頼と希望にも満ちていました」と指摘され、「マリアの希望とは、楽観主義ではなく、ご自分の約束に忠実な神への信仰でした」と語られた。

 そして、マリアと同じように、キリスト者とは「希望の巡礼者」であり、「これは2025年の聖年のテーマにもなっています」と強調。「ローマはこの聖年に向けた『希望の都市』となるように準備しているでしょうか」と問いかけられ、「ローマが、住む人、訪れる人にとって希望のしるし」となることができるように、それぞれの立場から努力することを願われた。

 聖年に先立つ2024年を「『祈り』に捧げる年」として示された教皇は、「聖母の学び舎に身を寄せ、イエスに心の眼差しを向けながら、毎日の様々な状況を感謝と希望をもって生きることを学びましょう」と呼びかけられた。

(編集「カトリック・あい」)

2024年1月1日

☩「紛争の当事者たち、良心の声に耳を傾けるように」教皇、2023年最後の正午の祈りで

Destruction in Rafah, southern Gaza Strip after an Israeli bombingDestruction in Rafah, southern Gaza Strip after an Israeli bombing  (AFP or licensors)

(2023.12.31 Vatican News By Linda Bordoni)

  教皇フランシスコは2023年最後の12月31日の正午の祈りの説教で、この年に世界中で暴力と戦争によって打ち砕かれた何千もの命のために祈り、これらに「関与」している人々に良心の声に耳を傾けるよう呼び掛けられた。

 説教で教皇はまず、「年の終わりに、私たちは勇気を持ってこう自問しましょう。『武力紛争によってどれだけの命が砕かれたのか?』『どれだけの人が亡くなったのか?』そして、『どれだけの破壊が、どれだけの苦しみが、どれだけの貧困が起きているのか!』」と語られた。

 そして、世界中の武力紛争に関わっている人々に「良心の声に耳を傾ける」よう呼び掛け、 「紛争に関わる人々が良心の声に耳を傾けますように!」 と祈られた。

 教皇の説教は、暴力、死、破壊、強制退去によって荒廃した一年についての悲しい反省に続いて行われ、特に、クリスマスイブに集団暴力で140人以上が死亡、さらに多くの負傷者が出たナイジェリアのプラトー州での悲しいクリスマスを思い起された。

  「残念なことに、ナイジェリアのクリスマスのお祝いはプラトー州で深刻な暴力事件が発生し、多くの犠牲者が出ました。 私は彼らとその家族のために祈ります:神がナイジェリアをこれらの恐怖から救ってくださいますように」と祈られた。

 また、12月26日に西アフリカ・リベリアの首都モンロビア近郊で燃料を満載したタンクローリーが爆発、炎上した事故にも触れ、亡くなった52人、そして多くの負傷者のためにも祈られた。

 ウクライナ、聖地、スーダンなどでは、31日も戦闘が続き、多くの死傷者が出ているが、「苦難を負わされ続けているウクライナ、パレスチナ、イスラエル、スーダンの人たち、その他多くの人々」のために祈るよう、世界の信者たちに求められ、また、 「忘れてはならないのは、”殉教”しているミャンマー・ロヒンギャの人たちです」とも指摘された。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2024年1月1日

◎教皇連続講話・新「悪徳と美徳」①悪の誘惑から、心をしっかりと守る

(2023.12.27 Vatican News) 

 教皇フランシスコは27日、水曜恒例の一般謁見で、新たに「悪徳と美徳(Vices and Virtues)」をテーマにした連続講話を始められた。初回は「心をしっかりと守る(safeguarding the heart)」ことの重要性を取り上げ、聖書と霊的生活の先達たちがどのようにして悪を根源から拒絶するよう私たちを促しているかを説かれた。

 

*人間の心にとって最も危険な”落とし穴”は

 講話で教皇はまず、旧約聖書の創世記を取り上げ、エデンの園のアダムとエバの物語で悪魔と誘惑の力がどのように描かれているかに注目された。

 教皇は、「蛇は、物陰に隠れた、ゆっくりとした動きの生き物であり、誘惑と罪の危険を表しています。アダムとエバに語りかけ、『神は本当に、園のどの木からも(実を)取って食べてはいけない、と言ったのか』(創世記3章1節)と、神の意図と配慮についてのうわさ話や疑惑を、彼らの心に植え付けようとします」とされた。

 そのうえで、「蛇が言ったことは偽りです。神は特定の木、すなわち善悪の知識の木の果実以外の、園のすべての果実を男と女に与えられた。神が善悪の知識の木の果実を取って食べることを禁じたのは、しばしば誤って解釈されているように、人に理性を使うことを禁じられたのではなく、知恵の限界を示されようとしたのです」と語られ、さらに「『善悪の支配者になりたい』という誘惑は、今日でも問題となっており、人間の心にとって、最も危険な”落とし穴”です。 こうした罪に煽り立てられることが、主への私たちの親密さと、私たちの人生に対する主の愛ある計画への従順を脅かす可能性があります」と警告された。

 

*悪は巧みに、私たちを誘惑の罠にかける

 また教皇は「アダムとエバの物語は、彼らが『神に対する疑いを心に植え付けた蛇の誘惑に抵抗できず、それに陥り、エデンでの調和のとれた生活の崩壊につながったこと』を示しています…  悪は、騒々しい、(目立つような形で)人間の生活に入り込むのではなく、ゆっくりと巧みに、思考を通して疑いを育て、最終的にはその誘惑の罠に、はめてしまうのです」と注意された。

*悪魔の誘惑に心の扉を閉じよう

 教皇はさらに「悪魔は、私たちに悪をなすよう誘惑し、狡猾さと抜け目のなさで私たちを神から引き離そうとします。ですから、私たちは決して悪魔と対話をしてはなりません」と強調。 「イエスは、決して悪魔と対話をされなかった。悪魔を追い出されました。砂漠で悪魔の誘惑に遭われましたが、対話はせず、ただ聖書の言葉、神の言葉で応えられたのです。 誘惑に直面したとき、私たちは誘惑への扉を閉ざします。対話はありえません。自分の心をしっかりと守らねばなりません」と説かれた。

 

*心の宝物を守る知恵を学べるように

 講話の最後に、教皇は、私たちも聖徒たちの模範に倣い、自分の心をしっかりの守るよう勧められ、 「常にそばにおられる主の助けによって、私たちの心の宝物を守る知恵である行為を学べるようにしてくださる恵みをいただけますように」と祈られた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 バチカン公式発表の英語版全文は以下の通り。

Cycle of Catechesis. Vices and Virtues. 1. Introduction: safeguarding the heart

Dear brothers and sisters, good morning!

Today I would like to introduce a cycle of catechesis – a new cycle – on the theme of vices and virtues. And we can start right from the beginning of the Bible, where the Book of Genesis, through the account of the progenitors, presents the dynamic of evil and temptation. Let’s consider the earthly Paradise. In the idyllic picture represented by the garden of Eden, a character appears who will be the symbol of temptation: the serpent, this character who seduces. The snake is an insidious animal: it moves slowly, slithering along the ground, and sometimes you do not even notice its presence – it is silent – because it manages to camouflage itself well in its environment, and above all, this is dangerous.

When it begins to converse with Adam and Eve, it shows that it is also a refined dialectician. It begins as one does with wicked gossip, with a malicious question. He says, “Did God say, ‘You shall not eat of any tree of the garden?’” (Gen 3:1). The phrase is false: in reality, God offered man and woman all the fruits of the garden, apart from those of a specific tree: the tree of knowledge of good and evil. This prohibition is not intended to forbid man the use of reason, as is sometimes misinterpreted, but is a measure of wisdom. As if to say: recognize your limit, do not feel you are the master of everything, because pride is the beginning of all evil. And so, the story tells us that God establishes the progenitors as lords and guardians of creation, but wants to preserve them from the presumption of omnipotence, of making themselves masters of good and evil, which is a temptation – a bad temptation, even now. This is the most dangerous pitfall for the human heart.

As we know, Adam and Eve do not manage to resist the temptation of the serpent. The idea of a God who is not so good, who wanted to keep them in subjection, who wanted to keep them in his submission, insinuated itself into their minds: hence the collapse of everything.

With these accounts, the Bible explains to us that evil does not begin in man in a clamorous way, when an act is already manifest, but the evil begins much earlier, when one begins to fantasize about it, to nurse it in the imagination, thoughts, and ends up being ensnared by its enticements. The murder of Able did not begin with a thrown stone, but with the grudge that Cain wickedly held, turning it into a monster within him. In this case too, God’s recommendations are worthless.

 One must never dialogue, brothers and sisters, with the devil. Never! You should never argue. Jesus never dialogued with the devil; He cast him out. And when in the wilderness, [with] the temptations, He did not respond with dialogue; He simply responded with the words of Holy Scripture, with the Word of God. Be careful: the devil is a seducer. Never dialogue with him, because he is smarter than all of us and he will make us pay for it. When temptation comes, never dialogue. Close the door, close the window, close your heart. And so, we defend ourselves against this seduction, because the devil is astute, intelligent. He tried to tempt Jesus with quotes from the Bible! He was a great theologian there. With the devil you do not dialogue. Do you understand this? Be careful. We must not converse with the devil, and we must not entertain ourselves with temptation. There is no dialogue. Temptation comes, we close the door. We guard our heart.

And that is why we do not converse with the devil. This is the recommendation – guard the heart – that we find in various fathers, saints: guard the heart. Guard the heart. And we must ask for this grace of learning to guard the heart. It is a form of wisdom, how to guard the heart. May the Lord help us [in] this work. But he who guards his heart, guards a treasure. Brothers and sisters, let us learn to guard the heart. Thank you.

2023年12月27日

☩「 殉教者の犠牲の種は、迫害する者の胸に植え付けられ、必ず実を結ぶ」聖ステファノ祝日に

教皇フランシスコ 2023年12月26日 聖ステファノ祝日のお告げの祈り教皇フランシスコ 2023年12月26日 聖ステファノ祝日のお告げの祈り  (AFP or licensors)

(2023.12.26 バチカン放送)

 主の降誕の祭日に続く聖ステファノの祝日の26日、教皇フランシスコは正午の祈りを聖ペトロ広場に集まった信者たちと共に唱えられた。

 祈りの前の説教で、教皇は聖ステファノの信仰の証しを「使徒言行録」を通して振り返りながら、彼の殉教がもたらしたものについて考察された。教皇の説教の要旨は次のとおり。

**********

 今日、降誕祭の翌日、私たちは最初の殉教者、聖ステファノの祝日を記念します。

 使徒言行録( 6-7章参照)は、ステファノ殉教について記しています。彼は評判の良い人で、食事の世話や、日々の分配を行なっていたことが分かります。まさにこの寛大な誠実さゆえに、彼は自分にとって最も大切なもの-イエスにおける信仰を、証しせずにはいられなかったのです。

 これが、彼の敵の激しい怒りを招き、彼らは冷酷にもステファノを石打ちで殺しました。この出来事は、キリスト教徒に対する熱心な迫害者であった一人の若者、サウロの前で起きました。サウロはこの石打ち執行のいわば”保証人”としてそこにいたのです(使徒言行録 7章58節参照)。

 サウロとステファノ、迫害者と迫害を受ける者が対峙するこの場面について考えてみましょう。二人の間には、取り除けない壁があるように思われます。その壁は、若きファリサイ派の原理主義-死刑宣告を受けた者にぶつけられた石-のように硬いものでしたが、その外見の向こうに、二人を結ぶ、もっと強い「何か」がありました。主は、ステファノの証しを通して、サウロの知らぬ間に、彼の心の中に、「偉大な使徒パウロ」へと変える回心を、すでに準備しておられたのでした。

 ステファノの奉仕、祈り、宣言した信仰、そして特に死の間際に示した赦し。これらは決して無駄ではありませんでした。彼の犠牲は一粒の種を蒔き、石とは反対の方向に飛び、迫害している者の胸に密かに植え付けられたのです。

 それから2000年が経った今日も、迫害は続いています。イエスを証しするために苦しみ、死んでいく人たちがいます。このような兄弟姉妹たちもまた、敗者のように見えるかも知れません。でも、実はそうではないことが、今日、分かるでしょう。今も昔も、彼らの犠牲の種、死んだかと思われたその種は、実を結びます。神は、人の心を変え、救うために( 使徒言行録18章9-10節参照)、殉教者たちを通して奇跡を行い続けるからです。

 ここで自分に問い掛けましょう-「今日も、世界の様々な場所で信仰のゆえに苦しみ、死んでいく人々のために、関心を持ち、祈っているだろうか」「自分も言動一致と、柔和さと、信頼をもって、福音を証しようとしているだろうか」「善の種は、すぐにその結果を見ることができなくても必ず実を結ぶ、と信じているだろうか」。

 殉教者の元后マリアよ、私たちがイエスを証しできるようにお助けください。

(編集「カトリック・あい」)

2023年12月27日

☩「主の降誕が私たちの世界に平和をもたらし、悲しみを喜びに変えるように」教皇が”Urbi et Orbi”、クリスマス・メッセージ

(2023.12.25 Vatican News  Thaddeus Jones)

 教皇フランシスコは主の降誕の大祝日25日の正午に恒例の”Urbi et Orbi”(ローマ市と全世界へ)の祝福とクリスマス・メッセージを発表された。その中で教皇は、「幼子イエスが、私たち一人ひとりへの神のやさしい愛をどのようにして明らかにされ、私たちの心を慰め、希望を新たにし、平和を、喜びをもたらされるか」について語られ、世界の指導者、世界の人々に対して、世界平和を祈り、暴力を止め、苦しむ人々を救うよう、あらゆる努力をするように呼びかけられた。

 教皇はまず、聖ペトロ大聖堂の「祝福のロッジア」と呼ばれる2階中央のバルコニー窓から、広場に集まった人々に主のご降誕の祝いの挨拶をされ、”Urbi et Orbi”祝福とともに、全世界に向けたクリスマス・メッセージを発表された。

 メッセージで教皇はまず、「私たちは、『悲しみと沈黙』に特徴づけられた今、この時期に、イエスがお生まれになったベツレヘムに瞳を注いでいます… 『今日、ダビデの町に、あなた方のために救い主がお生まれになった』という天使の宣言は、私たちに大きな希望を与えてくれます。『主が、私たちのためにお生まれになった、父の永遠の御言葉、限りなく偉大な神が、私たちの中に住まわれた』からです」と語られた。

 そして、「私たちが祝う『大いなる喜びの善き知らせ』は、予想もしないような贈り物の確かな約束-主の誕生が、神のやさしい愛とイエスが私たちに神の子供になる力を与えてくださる、という約束… 心を慰め、希望を新たにし、平和をもたらす喜び、聖霊の喜び、神の愛する息子たち、娘たちとなることから生まれる喜びです」と説かれた。

 教皇はイエスがお生まれになったベツレヘムに注意を向けられ、「今日、深い闇に覆われたベツレヘムに、消えることのない炎が灯りました、神の光が暗闇に打ち勝つのです」と強調。「この恵みの賜物を喜びましょう! … 喜びなさい。すべての希望を捨てたあなた方。神はあなたに手を差し伸べらてくださいます。 神はあなた方をなじることはされず、恐怖から解放され、重荷から解放されます。神にとって、あなたがたが他の何よりも価値あることを示すために、『小さな赤ちゃんの手』を差し伸べられるのです 」と励まされた。

 また、ガザで、ウクライナで、そのほか世界の多くの地域で、罪のない多くの人々が殺され続けている現状を振り返られ、「罪のない人々、今日の『小さなイエス』である人々、母親の胎内における、絶望の中で希望を求める放浪の旅における、戦争で破壊された幼少期を過ごす中における、犠牲者たち」を思い起こされた。

  そのうえで教皇は、「 あらゆる戦争は、勝者のない敗北、許しがたい愚かさを示すもの。私たちは平和に『イエス』、戦争に『ノー』と言わなければなりません」と訴えられ、 また、人間の弱さから戦争に利用される兵器にも「ノー」を求め、「武器の生産、販売、国を越えた取り引きが増加を続けている。国家財政が武器に費やされることで、人々のパンが犠牲されれば、平和の実現はさらに困難になります」と指摘。

 一般に知らされないことの多い「戦争の操り人形を動かすことで生まれる利益」は、明るみに出さなければならない、とされ、「国家が国家に対して剣を振りかざすことのない日のために、神の助けによって、私たちがあらゆる努力をすることができますように」と祈られた。

 そして、今、平和が遠のいている世界中の地域を見つめ、まず、イスラエルとパレスチナの人々の生活を破壊している戦争の終結を祈られた。ガザの人々とその地域全体、特にキリスト教徒コミュニティに慰めの言葉を捧げ、「10月7日の忌まわしい攻撃の犠牲者たちのために心を痛めています」とされ、今も(ハマスに)人質として取られている人々の解放を改めて訴えられた。

 また、「罪のない民間人の犠牲者の恐ろしい結果をもたらす軍事作戦の終結」を嘆願され、「ガザ地区への人道支援の提供への扉を開くことで、現在の絶望的な人道問題の解決」を求められた。そして、一刻も早く暴力を終結させ、強い政治的意志と国際的な支援による誠実で「粘り強い対話」が「パレスチナ問題」の解決につながることへの期待を表明された。

 さらに、教皇は、平和と安定の実現に苦労している他の国々の名前を挙げられた-内戦で荒廃したシリア、イエメン、苦境にあるレバノンに言及し、すべての国民に幸福への祈りを誓われた。ウクライナの平和を懇願し、ウクライナの国民すべてが「神の愛の具体的な現実を感じられるように、世界の人々の精神的、人間的な支えを感じることができるように」祈られた。

 対立するアルメニアとアゼルバイジャンに決定的な平和がもたされるように、特に人道支援と宗教的伝統と礼拝の場を尊重しながら難民の故郷への帰還を祈られた。また、サヘル地域、アフリカの角、スーダン、カメルーン、コンゴ民主共和国、南スーダンの人々のためにも祈られた。これらの地域はいずれも緊張が高まっているが、「善意と懸命の努力によって平和は可能」とされた。また、緊張が続く朝鮮半島についても、「恒久的な平和の条件を作り出すことができる対話と和解」を通じて、南北の「兄弟の絆」が強化されるようにと祈られた。

 アメリカ大陸に目を向けられた教皇は、社会的・政治的紛争の解決、貧困の軽減、人々の移住を強いている問題への共通の取り組みを祈られ、 「声なき人々、特に食料と水の不足に苦しむ子供たち、失業者、移住を強いられ命の危険にさらされている人々、しばしば悪徳人身売買業者の餌食となっている人々のことを、私たちが忘れることのないように」と願われた。

 メッセージの最後に、教皇は、一年後の2025年に聖年が予定されていることを挙げ、「私たちは、『恵みと希望の季節』を迎えることになりますが、その前に、『戦争や紛争を拒否する方向への心の転換』を通じた準備が必要です」と述られた。

 そして、 「イザヤの預言の言葉のとおり、『抑圧されている者に良いたよりをもたらし、心の傷ついた者を縛り、捕虜に自由を宣言し、捕虜に解放を与える』という主の呼びかけに、私たちが喜んで応えられますように」と願われ、 「イエス様をお迎えしましょう! 救い主、平和の君であられる方に心を開いていきましょう!」と呼び掛けられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

*注*”Urbi et Orbi”は、もともと「帝都ローマと属領へ」という意味で、ローマ帝国時代に皇帝の勅令や布告の冒頭の定型として使われたのが起源。現在は、教皇が「ローマ市と全世界へ」という意味で年に二回、「主の復活」と「主の降誕」の二つの大祝日に、教皇によって、聖ペトロ広場に集まった信者たちはじめ世界に向けた祝福とメッセージになっている。

(2023.12.25 バチカン放送(日本語課))

 教皇フランシスコによる2023年度のクリスマス・メッセージは次のとおり。

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 親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 主のご降誕のお喜びを申し上げます。

 世界中のキリスト者の眼差しと思いは、ベツレヘムへと向かいます。この日々、悲しみと沈黙に覆われたその場所で、世紀にわたり待ち望まれた知らせが響き渡りました。「あなたがたのために救い主がお生まれになった」(ルカ福音書2章11節)。

 ベツレヘムの空の天使たちのこの言葉は、私たちにも向けられています。主が私たちのためにお生まれになったことを知り、私たちは信頼と希望で満たされます。無限の神なる御父の永遠の言(ことば)は、私たちの間に宿られました。肉となって、「私たちの間に宿り」(ヨハネ福音書1章14節)に来られました。それは歴史の流れを変える知らせです。

 ベツレヘムの知らせは、「大きな喜び」(ルカ2章10節)の知らせです。それはどのような喜びでしょうか。この世のつかのまの幸福でも、気晴らしの楽しさでもない、私たちを「高める」、「大いなる」喜びです。事実、今日、私たち人類は、自分たちの限界を抱えつつも、天国のために生まれているという、途方もない希望を確信しています。そうです、私たちの兄弟、イエスは、ご自身の御父を私たちの御父とするために来られました。か弱い幼子は、神の優しさを私たちに示されます。それだけではありません。御父の独り子であるイエスは、私たちに「神の子となる資格」(ヨハネ1章12節)を与えられるのです。これこそ、心を元気づけ、希望を新たにし、平安をもたらす喜びです。それは、聖霊の喜び、愛された子であることの喜びです。

 兄弟姉妹の皆さん、今日、ベツレヘムにおいて、地上の闇の間に、消すことのできない炎が灯りました。今日、この世の闇に、「すべての人を照らす」(ヨハネ1章9節)神の光が打ち勝ちます。兄弟姉妹の皆さん、この恵みを大いに喜びましょう。自信も確信も失った人よ、喜んでください。あなたは独りではないからです。キリストはあなたのためにお生まれになりました。希望を捨てた人よ、喜んでください。神が手を差し伸べてくださるからです。神はあなたを非難せず、あなたを恐れから解放し、苦労を和らげるために、幼子イエスの手を差し出してくださいます。そして、神の御目にあなたが他の何よりも大切であることを示してくださいます。心に平安を見出せない人よ、喜んでください。あなたのために、イザヤの古い預言が実現したからです。「1人のみどりごが私たちのために生まれた。1人の男の子が私たちに与えられた… その名は「…平和の君と呼ばれる」(イザヤ書9章5節)。彼によって「平和には終わりがない」(同9章6節)。

 聖書では、平和の君に「この世の支配者」(ヨハネ12章31節)が対抗し、死の種をまくことで、「命を愛される主」(知恵の書11章26節)に逆らいます。救い主の降誕後、ベツレヘムで幼子の殉教が起きるのを、私たちは見ました。母親の胎内で、希望を求める絶望した人々の旅路の中で、幼児期を戦争で引き裂かれた多くの子どもたちの生活の中で、この世でいったいどれだけの無辜の人々が虐殺されていることでしょうか。彼らは今日の幼子イエスです。

 平和の君に「イエス」と言うことは、戦争に、すなわちあらゆる戦争、戦争の論理そのもの、目的地なき旅、勝者なき敗北、弁解できない狂気に「ノー」と言うことです。しかし、戦争に「ノー」と言うためには、武器に「ノー」と言わねばなりません。なぜなら、定まらない傷ついた心を持った人間が、死の道具を手にすれば、いずれはそれを使うだろうからです。また、武器の製造、売買、取引が増えるなら、どうやって平和を語ることができるでしょうか。

 今日、ヘロデ王の時代のように、神の光に逆らう悪の計略が、偽善と隠蔽の陰で動いています。どれほどの武力による虐殺が、多くの人が知らぬ間に行われていることでしょうか。人々は武器ではなく、パンを求めています。日々の生活の維持に苦労し、平和を願っています。しかし、人々は軍備にどれだけの公的な資金が費やされているかを知りません。本来それを知るべきなのです。戦争の糸をあやつる利害や儲けが人々の知るところとなるように、それについて語り、記すべきなのです。

 「平和の君」を預言したイザヤはこう記しました。「国は国に向かって剣を上げず」、人は「もはや戦うことを学ばず」、むしろ、「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」(イザヤ2,4)日がいつか来ると。神の助けのもと、その日が近づくように努力しましょう。その日が、イスラエルとパレスチナに近づきますように。そこでは、戦争が人々の生活を揺るがしています。

 私は、これらすべての人を、特にガザのキリスト教共同体と、小教区、聖地全体を抱擁したいと思います。10月7日のいまわしい攻撃の犠牲者に対する悲しみを心に抱きつつ、未だ人質として囚われている人々の解放を改めて呼びかけたいと思います。無実の民間人の犠牲という恐ろしい結果をもたらす軍事作戦を終わらせ、支援物資の到着に道を開き、絶望的な人道状況が和らげられることを心から願います。暴力と憎しみをあおり続けることをやめ、強い政治的意志と国際共同体の支持に支えられた、当事者間の誠実で忍耐強い対話を通して、パレスチナ問題の解決に着手せねばなりません。兄弟姉妹の皆さん、パレスチナとイスラエルの平和のために祈りましょう。

 私の思いは、苦しむシリアの人々、そして今も苦しみの中にあるイエメンの人々に向かいます。愛するレバノン国民を思い、一刻も早く政治と社会の安定が取り戻されることを祈ります。

 幼子イエスを見つめながら、ウクライナのために平和を祈ります。ウクライナの苦しむ人々への私たちの精神的・人間的寄り添いを新たにし、私たち一人ひとりの支えを通して、人々が神の愛を具体的に感じ取ることができますように。

 アルメニアとアゼルバイジャンの最終的な和平の日が近づきますように。人道的取り組みの継続、避難民の合法で安全な帰還、諸宗教と各共同体の信仰の場の相互尊重が促進されますように。

 サヘル地域、アフリカの角、スーダン、カメルーン、コンゴ民主共和国、南スーダンに混乱をもたらす緊張と紛争を忘れないようにしましょう。

 朝鮮半島で、恒久平和の条件を生み出す対話と和解のプロセスが開かれ、兄弟的な絆を強める日が近づきますように。

 つつましい幼子となられた神の御子が、アメリカ大陸の政治当局とすべての善意の人々を励ましますように。彼らが人間の尊厳を傷つける貧困と闘い、不平等を取り除き、痛ましい移民現象に対応するために、社会的・政治的対立を克服し、ふさわしい解決を見出すことができますように。

 幼子イエスは、馬小屋の飼い葉桶から、私たちに声なき者の声となるようにと頼みます。水とパンがないために亡くなった罪なき人々の声、仕事が見つからない人たち、失業者たちの声、より良い未来を求め、過酷な旅と、恥知らずな人身取引が横行する中で、命を危険にさらしながら祖国を後にする人々の声となることを、私たちに願っています。

 兄弟姉妹の皆さん、一年後に開幕する、恵みと希望の時、聖年が近づいています。この準備期間が、戦争に「ノー」と言い、平和に「イエス」と言うための、また、イザヤが預言するように、「苦しむ人に良い知らせを伝えさせるため…。心の打ち砕かれた人を包み  捕らわれ人に自由を  つながれている人に解放を告げるために」(イザヤ書61章1節)私たちを呼ばれる主の招きに、喜びをもって答えるための回心の機会となりますように。

 これらの言葉は、今日、ベツレヘムでお生まれになったイエス( ルカ4章18節参照)において成就しました。救い主、平和の君であるイエスをお迎えし、心を開きましょう。

(編集「カトリック・あい」=聖書の日本語訳は「聖書協会・共同訳」を使用)

 

 

2023年12月25日

☩「争いで狂った世の中、それでも主の愛の力を信じる」教皇、主の降誕夜半ミサで

(2023.12.24 バチカン放送)

 教皇フランシスコは24日、バチカンの聖ペトロ大聖堂で、主の降誕の夜半ミサを捧げられ、説教で、ベツレヘムでの主の降誕の場面を思い起こしつつ、今日の聖地の情勢を思い、平和の君、イエスへの祈りを新たにされた。Christmas Mass during the Night in Saint Peter's Basilica

 説教の中で教皇は、まず、福音書にイエスの降誕がローマ皇帝アウグストゥスの勅令による「全領土の住民の登録」(ルカ2章1節参照)という出来事を背景に記されていることに注意を向けられ、「福音書は、この住民登録について軽く触れるだけで済ませず、詳しく記述することで、『皇帝が世界の住民を数えている間に、神が目立たずに、この世に入って来られた』という対比を浮かび上がらせています」と指摘。

 「『この世の王』が歴史に名をはせようとしている時、『歴史の王』は小さき者の道を選びました… 権力者たちが誰も幼子イエスの存在に気づかず、気づいたのは社会の片隅に生きる数人の羊飼いたちだけだったのです」説かれた。

 そして、「今夜、私たちの心はベツレヘムにあります。そこでは、平和の君が戦争の論理によって拒絶され続け、今日もまた飛び交う武器の轟音が、御子に、この世で宿をとることを妨げています」( ルカ2章7節参照)と、聖地の現状に目を注がれ、「遠く離れた、厳格で力ある神、ご自分の民を優先する神、という世俗的なイメージが私たちの中に根付いていますが、主はそういう方ではありません。全地の住民登録が行われる中で、すべての人のためにお生まれになったのです」と強調された。

 教皇はさらに、「神が私たち人間の状態の中に深く入り込まれたのは、私たちを何よりも大切に思うほど愛されるからです。住民登録が行われている間に歴史を変えた神にとって、『あなたは数字で表される存在ではない、一つの顔を持った存在である。あなたの名前は神の御心に刻まれている』のです」とされた。

 そして、「キリストが私たちを見つめられるのは”数字”ではなく”顔”。それなのに、多くの物事に囲まれ、常に忙しく、他者に無関心な世界の、この狂った競争の中で、誰が神を見つめるでしょう。人々が住民登録に夢中になって、行ったり来たりし、宿をいっぱいにしていた時、イエスの近くにいたのは、マリアとヨセフ 、羊飼いや東方の博士たちの数人でした。私たちも彼らから学び、イエスに心を向け、眼差しを注ぎましょう。彼らは”語る”のではなく、”礼拝”していたのです」と説かれた。

 最後に、「この夜、愛が歴史を変えます。主よ、この世の力とはあまりにも異なる、あなたの愛の力を信じます」と語られた教皇は、「マリアとヨセフ、羊飼いや東方三博士たちと、あなたを囲み、拝みます。あなたによって、あなたと似たものとなり、あなたの御顔の美しさを世に証しできますように」との祈りで説教を締めくくられた。

(編集「カトリック・あい」)

2023年12月25日