「家庭における愛の喜び-教皇フランシスコの思い」
・・使徒的勧告 「 Amoris Laetitia (家庭のおける)愛の喜び」 から何を学び、生かすか
はじめに
・講座の狙いは、日本の信徒にほとんど届いていない、教皇が最重要課題の一つとしている「家庭をめぐる問題と対応」についての、教皇の努力、メッセージを受け止め、考え、自分たちの置かれた場で何ができるか、具体的に少しでも新しい試みを始めていく、すでにしているならそれを育てていく、きっかけになること。
・勧告自体は、二度にわたるシノドス、合計で20日以上もかけた議論、それをもとに半年かけて教皇がまとめた、公式英語訳でA4の紙に小さい字で印刷しても75ページあり、1時間ではとても全部を説明できない。
・これを機会に関心をお持ちになり、中央協議会が早く日本語訳を完成、出版してくれれば、それに越したことはないが、いつまで待てばいいか分からない、とすれば、英語版、イタリア語版、フランス語版などすでに入手可能なものを、直接、お読みになる、あるいは小生が進めている日本語訳(一部抄訳)などを使って、一人で、グループでお読みいただければ幸い。
①Amoris Laetitia が出されるまでの経過
・新聞・テレビを見ても、家庭に関する事件、問題が報道されない日はない。地域社会、教会共同体でも、高齢化の進展、一人暮らしの増加、子育て、若者教育の問題など、家庭をめぐる問題に日々身近に接している。内容、程度は違うが、全世界共通の深刻な問題である。
→4月に読売新聞で連載された[孤絶・家族内事件]第2部「親の苦悩」 を「カトリック・あい」に掲載、現在でも閲覧件数でトップクラス。一日で10件近くなる日も。
・2013年春に教皇に就任したフランシスコは、家庭に関わる問題への対応をカトリック教会にとっての最重要課題として取り上げ、「家庭」をテーマに2014年秋、2015年秋と二度にわたる全世界司教会議(シノドス)を招集し、全世界の教区、修道会、教育機関など諸団体から集めた意見・報告・提案をもとに議論を重ね、それをもとに2016年3月に使徒的勧告「Amoris Laetitia(家庭のおける)愛の喜び」を発表された。
・教皇は就任した年の11月に使徒的勧告「Evangelii gaudium(福音の喜び)」(2014年6月に日本語訳が中央協議会から刊行)、さらに2015年5月24日に環境回勅「Laudato Si‐ともに暮らす家を大切に」を出した。(2013年6月29日に出た回勅 「信仰の光」は前任者、ベネディクト十六世が草稿をまとめ、フランシスコが引き継いだ。就任から3か月。本人の思いは十分反映されていない)
・そして、二つ目の使徒的勧告「Amoris Laetitia」は、「Evangelii gaudium」を教会、信徒としての基本的な在り方について勧告した「総論」とすれば、その延長上に「家庭」に関する現実を見据えた「各論」「現状分析と実践」の勧告、と言える。
②Amoris Laetitia とりまとめの過程のユニークさと教皇の思い
・ この使徒的勧告を発出するにあたって、教皇は二度のシノドスをもったが、それだけでなく、最初のシノドス前に、世界の司教に、シノドスの準備のための質問状を送り、小教区や修道会、関係機関の声を吸い上げる形で、教区の現状、問題、対応、提案などを事務局に送るよう要請→回答を取り入れた準備書面をまとめて→一回目のシノドスを開き→その結果を書面にして、世界の司教に伝達、教会、信徒に伝え→それに対する意見、提案を求め→それをもとに二回目のシノドスの準備書面をまとめ→二回目のシノドスを開き、できるだけ多くの司教が発言し、議論を徹底するよう分科会方式など運営に工夫し、→その結果を最終文書として、世界の司教に伝達→反応などを踏まえて、教皇が使徒的勧告にまとめた。
・これまでの回勅、使徒的勧告などに見られなかった緻密な準備、末端の信徒、小教区までいきわたるような“双方向”の作業がされた。ここにも、教皇の「家庭」についての強い思い、全世界の教会、信徒とともに取り組みたい、という願いを知ることができる。
③Amoris Laetitia 勧告の序章で、教皇本人が語る勧告の意義と読み方・・
(勧告の意義)
・家庭生活における『愛のよろこび』の体験は教会の喜びでもあります。結婚の制度・慣習に多くの危機の兆候が出ているにもかかわらず、結婚して、家庭を持ちたい、という願望は、特に若者たちの間でなお強く・・それに応えるものとして、キリスト教徒の家庭生活に関する意思表明は、実に“よき知らせ”なのです。
・この勧告は、2016年が『いつくしみの特別聖年』であることで、とくに時宜を得たものになりました。それは「勧告が、キリスト教徒の家庭に対して、結婚と家庭生活という贈り物を大切にし、寛大さ、献身、貞節、忍耐の徳で強められる愛の中で、保ち続けるように勧めるもの」であり、「不完全で、平和とよろこびを欠いた家庭生活のどの場においても、いつくしみと親密さのしるしとなるよう、一人一人を励まそうとするもの」だからです。
(勧告の流れ)
第一章で、聖書に霊感を受けて 最初の章を始め、適切な基調を定めます。
第二章で、現実にしっかりと根を下ろした姿勢を維持するため、家庭の実際の状況を考察 し
第三章で、結婚と家庭に関する教会の教えの本質的な側面 を思い起こし、
愛に捧げられた二つの中心的な章(第四、第五章)への地ならし をします
第六章)で神の計画に合わせた健全で実り多い家庭の形成に私たちを導くことのできる司牧的取り組み方 に焦点を当てます
第七章を子供たちの養育 に充て、
第八章で、慈しみへの招きと主の期待に及ばない状況について司牧上の識別 を提示します。(勧告の読み方の勧め)
・2年にわたるシノドスの過程の豊かな実りを受け、勧告は多岐にわたる様々な問題を取り扱うため、ある程度の長文 となることが避けられず、勧告全文の速読はお勧めしません。
・家庭をもつ方々自身、家庭生活に関わる使徒職 に携わる方々にとって、各章を忍耐強く、注意深く読む、あるいは、それぞれの立場で特に必要と判断される内容を注意を払って読む のがいいでしょう。
・例えば、結婚したカップルは、第4章と第5章 にもっと関心を持つでしょうし、司牧者の関心は第6章 、そして誰もが第8章から課題を提示 されていると感じるに違いありません。
・私の希望は、すべての方が、勧告を読んで、家庭生活を愛し、育むように呼ばれていると感じること 。「家庭はやっかいな問題ではない。家庭は第一の、随一の絶好の機会」だからです。
序章 ・・上記に・・本文は9つの章で構成。
第1章「みことばの光に照らされて」
:神のみことばは、「抽象的な文章の羅列」ではなく、「家族に歩むべき道を指し示す、旅の友」 である。また、三位一体の神は愛の共同体であり、「家庭はその反映でなくてはならない」。
第2章「現実と家庭の挑戦」 (公式英語訳を翻訳すると「家庭の現実」)
:教皇は「家庭の善は、世界と教会の未来を左右するもの」であるとし、「家庭の具体的な現実に関心を払うことの重要性」を説いている。そして、今日の家庭が抱える問題として、「行き過ぎた個人主義」や、「仮の姿」を選ぶ風潮などを挙げ、こうした傾向の中で、家庭という存在が、「必要な時や便利な時だけ頼る、単なる“仮の場所”となることを懸念している。
教皇は、キリスト者の結婚と家族を守るための責任ある心広い努力を呼びかけ、「教義・生命倫理・道徳の面しか語られず、抽象的で、理想化された結婚に対する考え方」を自から反省 し、「人々に幸福への道を示すことができるような、前向きで受容性のある司牧」を訴えている。
そして、教会が家庭のために関心を持つべき課題として、産児制限、信仰生活の弱体化、住居問題、未成年への虐待、移民問題、キリスト教徒や少数民族・宗教への迫害、障害者、高齢者、貧困、事実婚や同性婚、女性への暴力、ジェンダー思想の問題 などを挙げている。
第3章「イエスに向かう眼差し:家庭の召命」
:「結婚と家庭に対する教会の教え」の概要を改めて提示。神の恵みとしての男女間の結婚、その不解消性は束縛ではなく「賜物」、「真の愛の源泉である三位一体の神を映し出すもの」と説いている。結婚は「召命」であり、「秘跡」である、とし、同棲する信者、民法上のみの結婚をした信者、離婚して再婚した信者、困難な状況に置かれた家族、傷ついた家族への、教会の司牧的配慮 を呼びかけている。
すべてのケースにおいて、当事者たちの責任の重さがいつも同じではないことを考慮し、司牧者は、愛と真理のために状況をじっくり判断することが求められる、と指摘。は教会の教えをはっきり明示する一方で、様々な状況の複雑さや一人ひとりの苦しみを考慮することの必要性 を強調。
また、教皇は子どもを授かることのできない夫婦も、人間的・キリスト教的に完全に満たされた夫婦生活をおくることができるとし、子はあくまでも神の賜物であり、子を持つのが当然ということではない 。また、一つの命が別の人間の立場から支配されてはならないと、受胎から自然な死までの命の大切さ を説いている。
第4章「結婚における愛」 (同「結婚生活における愛を考える」)
:結婚における愛について、「相手のためを思う心」、「相互性、優しさ、安定などを、秘跡による特別な不解消性の中に融合した最も大きな友情」と表現。結婚は「神の賜物を段階的に受け入れ完成させていくためのダイナミックなプロセス」 と述べている。
教皇は、結婚を避けようとする最近の若者の風潮に対して、「結婚を人生の重荷や到達不可能な理想として恐れてはなりません。『絶えざる成長の歩み』として捉えるように」 と励ましている。
第5章「愛は豊かになる」 (同「愛は実り多い」)
:家庭における命の受け入れをテーマに取り上げ、「すべての子どもは神の御心の中にある」と述べて、「受胎した瞬間からの命の尊重」を説くとともに、「子どもたちの持つ尊厳と権利の尊重」 を強調している。子どもにとって「母と父を持つという自然の権利は、統合的で調和の取れた成長に必要」としている。
また、「母性は必ずしも生物学的な親だけに限られたものではない」とし、家族の無い子どもに家族を与える「養子制度」を容易にするための法整備の必要 に言及すると共に、こうしたことが中絶や子どもの遺棄の防止にもつながることを期待している。
第6章「いくつかの司牧的展望」 (同「結婚と離婚についての司牧的観点」)
:シノドスの結果に答える「新しい司牧の道」を一般論として示し、これに沿って、「それぞれの教会共同体が、教会の教えと地域の必要に照らした『「より実践的で効果ある提案」を練る必要がある」 と強調。2014年、2015年の2回のシノドスで言及された司牧上の配慮が必要な課題を列挙した。
まず、「キリスト者の家族」は常に「家庭司牧の主体であり、単なる目的ではない」と前置して、「司祭・助祭・修道者・カテキスタなど家庭司牧に関わる者の育成」 が強く求められており、彼らには教義において堅固であるだけでなく、物事を見る能力が必要 、と指摘。教会の様々な召命を生かすために、女性の存在の重要性 も強調。
「婚約者」たちの歩み を、結婚前だけではなく、早い時期から導き、結婚の秘跡の価値と豊か
さを発見できるよう助けねばならない。「結婚して間もない夫婦」に対しても、日々の歩みにおいて、忍耐や理解、寛大さと共に成長できるよう導かねばならず、「信仰」を励ます必要。
「様々な家庭の危機」 については、「すべての危機には良い知らせが隠されているが、それを知るためには心の耳を澄ますことが必要」とし、「家庭の危機が、赦し赦されることを通して、愛を強め成熟させる機会となることを願う」と。
「離婚」 は、「一つの悪であり、その増加は憂慮すべきもの」としたうえで、家族に求められて
いるのは、「愛を強め、傷を癒し、離婚という現代の悲劇が広がることを防ぎ、子どもたちがこの状況の人質となることを避けること」と強調している。一方で、離婚が危機-暴力や、横暴、搾取など-を前に、究極の解決策として、人道的に必要とされる場合もある ことを考慮すべき。
「離婚して再婚した人」と「離婚して新しい関係にある人々」 については、特に「配偶者を不当に選ばされた人々への特別な判断と配慮の必要」を示している。「離婚したがその後、結婚していない人」 については、「支える糧」として聖体に積極的に近づくよう促すと共に、離婚して再婚した人々に対して、「教会から破門されたかのように感じさせてはならず、教会の一員として迎え、注意深い判断と大きな尊重をもって、見守る必要がある」としている。
「カトリック信者と他のキリスト教教会の信者との結婚」「カトリック信者と他の宗教の信者との結婚」「カトリック信者と無宗教者との結婚」 にも特別な配慮が必要であり、これらの結婚を、「エキュメニカルまたは諸宗教対話の機会、また福音を証しする機会」とするよう促している。
「同性愛者」 については「不当な差別をせず、すべての人の尊厳を重んじる教会」の立場を明記。ただし、「同性愛者のカップルを、神の計画に従った結婚と家庭と同等に見なすことはできない」としている。
第7章「子どもの教育の強化」 (同「より良い子供の養育に向けて」)
:子どもに十分な教育を与えることは、両親にとって「重大な義務」であり、「最優先の権利」 であるとしたうえで、教育とは「強制的に、すべてをコントロールすること」ではなく、「責任ある自由 を育て、人生の岐路に立った時、良識と知性をもって判断できるように、人間として成長 させること」と強調。道徳教育を中心に、教育において配慮すべき点を指摘している。
第8章「弱さを見守り、判断し、補う」 (同「結婚生活の弱さに寄り添い、識別し、包み込む」)
:「秘跡としての結婚の教義」と「弱さを見守り、判断し、補う必要」 の双方をめぐる考察。
秘跡としての結婚は「キリストと教会の一致の反映であり、それは男女間の自由と忠実に基づく特別な一致」としたうえで、「教会の仕事はしばしば野戦病院の仕事に似ている。多くの信者たちの弱さをいつくしみをもって見守り、判断し、補う必要 がある」と述べている。
こうしたことから、司牧者には「キリスト教的結婚を進めること」と「そうでない多くの人々の状況を司牧的に判断すること」の両方が必要。教会の道は常にイエスの道、すなわち「いつくしみと融合」 にあり、そこでは「誰もが永久に罪に定められることはなく、神のいつくしみは、誠実な心をもってそれを求めるすべての人に及ぶ」とし、したがって、「離婚して民法上の再婚をした人々についても、個々の複雑な状況を認識することが必要」 であり、その状況は「人によって非常に異なるため、厳しすぎる定義で分類したり決め付けたりすることはできない」 と注意を促している。(注・このあたりの解釈をめぐって、欧米の関係者、進歩派と保守派の間で、離婚・再婚者への聖体拝領を認めるか否かの意見対立が起きている)
皆を受容するという意味で、2015年のシノドスでも意見されたように、典礼・司牧・教育などの場における排他的な対応を深く反省し、克服する必要がある、とする 一方で、「シノドスやこの使徒的勧告から、すべてのケースに適用できるような新しい教会法的規則が生まれることを期待してはならない 」と注意し、「責任をとるレベルは、すべてのケースで同じではない(注・つまり、画一的な対応、判断はできない)。特別なケースに出会った場合には、責任ある個人的・司牧的判断を勇気をもって行うこと」。(注・教区レベル、あるいは小教区レベルの責任者に判断をゆだねることを示唆 する内容となっている)。
誰をも裁かず、罪に定めず、排除せず、いつくしみの中に生きることを強調し、「教会は関所ではなく、生活の労苦を背負うすべての人々が安らぐ父の家 」と念を押している。
第9章「夫婦と家族の霊性」 (同「結婚生活の霊性」)
:信仰を表現し強める手段として、家庭の中で祈りを実践するよう促し、「キリストは、たとえ
辛い日々においても、家庭生活を一致させ、光で照らし、十字架の神秘によって困難と苦しみを愛の捧げ物に変えてくださいます」と強調。「どのような家庭も、いつも完璧で型どおりのものではありません」としつつ、「家庭とは『愛する能力を段階的に発展させていく場』です」と述べ、「家庭よ、歩みましょう、歩み続けましょう」「希望を失ってはなりません」と呼びかけ。
⑤勧告を日々の暮らし、教会活動、社会活動にどう生かすか
・勧告には、世界中の様々な家庭の問題を、教皇が、司教たちが、どのように受け止め、世界の教会が、司祭が、信徒がどのように考え、対応していく必要があるか、が広範に、深く書かれている。今、日本の教会が最優先で取り組まねばならないことを改めて考え、具体的行動をとる手がかり となるものだ。
・教皇は、勧告の序章で、次のように語られているのは、参考になる。
「家庭をテーマとした二度のシノドスでの議論を通じて「家庭生活をめぐる問題の多様さ、複雑さが明らかになり、教義上、道義上、霊性上、司牧上の数々の課題について、幅広い議論を続ける必要 があることが認識されました。『時は空間に勝る』(「福音の喜び」222項)のですから、教義上、道義上、あるいは司牧上の議論のすべてを、教導職(教皇と司教たち)が介入して解決する必要はない 、ということを明確にしておきます。教会の教えと実行の一致は確かに必要ですが・・・それぞれの国、地域は、それぞれがもつ文化、伝統や求められるものの影響を受ける形で、解決策を立てることができる のです。私の希望は、すべての方が、勧告を読んで、「家庭生活を愛し、育むように呼ばれている」と感じること 。なぜなら、家庭はやっかいな問題ではない。家庭は第一の、随一の絶好の機会だから」。
・勧告を日々の暮らし、教会活動、社会活動に生かすためには、 まず、各自が自分で勧告の内容を理解 する必要がある。教皇が言われているように、「家庭をめぐる問題の多様さ、複雑さを認識し、教会としてそれに応えたい、という思い」から、従来のこの種の回勅、勧告に比べて分かりやすい内容になってはいるものの、かなり長文で、しかも慎重に、できれば全文を時間をかけて、やむを得ない場合は、教皇の序章での助言をもとに、先のに概要をもとに、関心のある章から読むのがいい だろう。
・勧告の全文を知ろうとする際の最大の問題は公式の日本語訳が15か月もたって未だに出てこないこと。イタリア語、英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、ポルトガル語、ポーランド語、ロシア語、アラビア語、中国語(北京語と台湾語)版は、勧告発表とほぼ同時に、バチカンから出され、それ以外は、各国の教会に自国語への翻訳が任された。
全文の和訳が中央協議会から出されるのが待たれているが、いつ出されるのか不明。今できることは、極めて不完全ではあるが、このような場を設けていただいて、できる限りの説明をお聞きいただくこと。英語の公式文書はバチカンのホームページa から引き出すことができるので、それをお読みいただくこと。それと、小生が「カトリック・あい」bに序章から翻訳出来次第掲載している私訳 (現在4章まで。分量が極めて多く、特殊用語の翻訳に時間を要すること、全文直訳ではかえって理解しにくい部分があること、などから、一部に抄訳も含んでいる)をご覧になること、だ。個別に翻訳されているケースも章によってはあるが。
・勧告に込められた教皇のメッセージを理解し、指針として、それぞれの教会、地域社会、日本、世界においてどのような働きができるか、個別の事情、環境に応じて考え、できることから実行していきたい。
・インターネットで読むには・
・英語の指導書、参考書(アマゾンで入手可能)
「The Joy of Love-Group Reading Guide to Pope Francis’s Amoris Laetitia」(Twenty-third Publications) 「Accompanying,Discerning,Integrating-a handbook for the pastoral care of the family addording Amoris Laetitia」(Emmaus Road)
ご参考
・・来年の若者シノドスへ→「Amores」に続く、延長上にある使徒的勧告第三弾につながる見通し ・・
若者と召命をめぐる来年のシノドスに向けた準備書面発表 2017.1.13 バチカン放送
シノドス事務局(事務局長、ロレンツォ・バルディッセーリ枢機卿)が、来年開催される若者と召命をめぐるシノドスに向けて、準備書面を発表。2018年10月に、「若者たち、信仰と召命の判断」をテーマに、世界代表司教会議(シノドス)第15回通常総会がバチカンで開かれる。若者たちが自分の人生の召命を知り、それに精一杯応えることができるよう導くため、若者たちにより効果的な方法で福音を伝えるための、最良の方法を見出すことを目標としているが、。インターネットなどを通して、会議の主人公となる、若者自身に参加してもらうことも計画されている。→6月14日から、シノドス準備事務局が若者を主たる対象として、シノドス準備の特設サイトhttp://youth.synod2018.va を開設。日本の司教協議会も6月下旬に、シノドス事務局に提出する回答書作成のための意見などを7月末までに提出するよう全国の小教区などに通知した。
準備書面は、各国の司教団をはじめ、教皇庁各組織、修道会総長連盟など教会関係者に広く提示し、16歳から29歳の若者の社会文化的な状況についての情報を収集し、その様々な背景を理解し、シノドスに生かすために作られた。内容は主に「現実を知り見つめる」「召命と識別の重要性」「教会における司牧活動」の3つに分かれ、次のようなタイトルから構成される。
序章・イエスに愛された弟子のように
第1章 今日の世界における若者たち 1.急速に変化する世界 2.新しい世代 3.若者と選択
第2章 信仰・判断・召命 1.信仰と召命 2.判断の賜物 3.召命とミッションの道のり 4.指導
第3章 司牧活動 1.若者と歩む 2.主役となるもの 3.場所 4.手段 5.ナザレのマリア
文書は現在のところ5カ国語(イタリア語・英語・フランス語・ドイツ語・スペイン語)。シノドス事務局関係者は、次回のシノドスが、若者たちが福音の光のもとに人生の選択ができるよう、どのように見守るべきかを考えるだけでなく、若者たちの望みや計画や夢、それを実現するために出会う困難などに耳を傾けていく機会となることを期待している。
小教区や青年の集まりなどで意見、提言をまとめて、日本の中央協議会事務局(締め切りが7月末だが)、あるいは英文に訳したものを直接、11月末までにバチカンのシノドス準備事務局へインターネットで送ることをお勧めしたい。
(2017.7.1 カトリック船橋学習センター・ガリラヤでの社会講座で)
1 ルターの信仰義認論とは
「人は信仰によってのみ神から義(正しい)と認められる」、言い換えると「神の前で罪人である人間が義と認められるのは、信仰のみによる、行いによるのではない」という教理。これは換言すれば、人間は誰も神の前で罪人であり、その罪責を償わなければならないが、それができないので、罪がないキリストが罪人である人間に代わって十字架に架かられ、罪を贖って(apolýō)くださったという、その事実を受け入れる信仰によって神との間に正しい関係が結ばれるという教理である。
これをルターは、「教会が立ちもし倒れもする(教理上の)条項」と言った。この教理上の理解は、実はすでにパウロにおいて確立していた。ローマの信徒への手紙第3章20~22節「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じるすべての者に与えられる神の義です (前田護郎訳『新約聖書』では、ギリシア語原文dia pisteōs Iēsou Chritou eis pantas に忠実に「すなわち、イエス・キリストのまことによる神の義で、信ずる者すべてのためのものです」と訳されている-棟居注)」とある通りである。したがってルターがこの認識に達したことを「福音の再発見」とも表現される。
2 この認識に至った経緯
修道士としてのルターの生き方は、当時の神学の潮流の一つ、ガブリエル・ビールの唯名論の影響を強く受けていた。13世紀以来の神学の主流であったトマス主義の実在論では、「普遍」を問題とし、その「存在と本質」を問うたのに対し、ビールの唯名論では、「個体」を問題とし、その「意志と能力」を問うというように捉えられた。
すなわち、実在論は人間を問題とする場合、個々の個体については何も問わない。人間総体について「そもそも人間とは?」という問い方をし、その存在と本質は何かを問う。これに対して唯名論は、人間総体などは単に「名ばかり(唯名)」で実在せず、実在するのは個々の個体であるとし、そのうえで、個体を捉えるために、その意志 と能力とは何かと問うのである。
この唯名論は、救われるためには、神の前に立つ個体が、意志と能力の限りを 尽くして善い行いに努め、義なる神に受け入れられるレベルにまで到達すべきであるという救済論にもつながった。この唯名論の影響を受け、ルターは修道士に求められる「完徳」に至るためのお勤めに模範生的に励んだ。しかし励めば励むほど、そういう努力に対する懐疑心に悩まされ、深い心の葛藤に追い込まれていった。
そのルターに転機が訪れた。ヴィッテンベルク大学聖書教授として行った第1回詩編講義(1513年冬学期~1514年冬学期)、それに続くローマ書講義(1515年夏と冬学期)の準備中、修道院の自室におけるいわゆる「塔の体験」によって信仰義認論という新しい認識を持つに至った。それまでのルターは、神の義とは、罪人を裁く義(能動的義justitia activa)であると思っていた。
ところが「塔の体験」においてルターが改めて気づいたことは、神の義は罪びとに贈り物として与えられる義(受動的義justitia passiva)だということである。この義は、人間の外からextra nos 来る。詩編第31編2節の「主よ、御もとに身を寄せます。とこしえに恥に落とすことなく、あなたの義によって私を解放してください(in justitia tua libera me [『新共同訳聖書』では、「恵の御業によってわたしを助けてください」と訳されている-棟居注])」という言葉、さらに第71編1~2節にも繰り返し出てくるこの言葉、さらに特にローマ書第1章16~17節の「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです」という言葉の意味を問いつつ黙想している間に今言った認識に到達した。
ちなみに、ここで言われる「信仰」とは、ギリシア語でpistisといい、人が予め持っている信仰(「鰯の頭も信心から」の信心)ではなく、神の信仰=神の真実(それは聖書に啓示されている)のことである。したがって、聖書の言葉が語られる時、それを聞く者のうちに信仰が起こされるのである。ローマの信徒への手紙第10章17節に「実に、信仰は 聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」とある通りである。
その時、大切なことはみ言葉が語られる時、聞く者のなかに聖霊が働き、あたかもこだまのようにみ言葉に対する応答(共鳴)として信仰が生ずる、あるいはキリストとの出会いが起こるということである。ルターも「聖霊はみ言葉とともに働く」と言っているのは、み言葉と聖霊と信仰の緊密な関りを説いているのである。ルードルフ・ボーレンというドイツの神学者は、こうした事情を「聖霊による神律的相互作用」と呼んでいる。
3 信仰義認論 vs. 行為義認論
当時のローマ・カトリック教会の贖宥制度は、行為義認論の上に成り立っていた。つまり善い行い(悔い改め、徹夜の祈り、断食、施し、巡礼、十字軍への参加等)により罪の償いを果たす、言い換えれば、義と認められるとされていた。
ルターによる「宗教改革」の直接のきっかけになった具体例を示せば、1515年教皇レオ10世がサンピエトロ大聖堂の改築の資金を得るため、マインツ大司教アルブレヒト・フォン・ブランデンブルクに彼の領内における贖宥状販売を許可した。これは、贖宥状を買えば、それは善い行いをしたと同然で、自らの救いも確保できるし、すでに死んで煉獄で苦しんでいる者の魂も、即座に天国に行くことができるという触れ込みで販売されたので、そうであるとすれば、救いにはキリストの十字架による贖罪が必ずしも必要なくなることになる。つまり人間は自力(金)で罪の償いを果たすことができ、キリスト抜きで救いを獲得できることになる。これに対して、すでに信仰義認の認識に達していたルターが疑問を抱いたのは当然のことである。彼は、1517年10月31日付でマインツの大司教アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク宛に手紙を出して、それに添付する形で95箇条の論題(表題:贖宥の効力を明らかにするための討論)を提示したところから「宗教改革」が始まった。
補足説明: 行為義認論の説く「義」は、歴史を遡ればアリストテレスの正義論における正義、つまり「分配的正義」「応報的正義」である。その原則は「各自に相応しいものを帰せよ」ということ、つまり正しい人間には報償を与え、不正な人間には罰を与えるということである。それは、キリストの十字架による贖罪を信じる信仰義認の捉え方とまったく違う捉え方であった。なぜなら、キリストの十字架による贖罪という捉え方は「罪人(正しくない者)に一方的に(無条件に)義をプレゼントすること」、人間の側には義とされる根拠はまったくなく、神からいただく外ない、つまり「恵みによる義認」以外にないということを意味しているからである。
4 ルターの信仰義認論の現代における意義
1) 現代的表現で言うと、罪とはどういう事態か
聖書で言う罪とは、本来「的外れ」という意味。神を侮り、背を向けること。罪は「~に対して罪を犯す」と表現されるように、いつも誰かに対する罪として、関係性の中で捉えられている。ルターは罪のことを「自分自身へのねじ曲がりincurvatus in se ipsum」と表現した。これは、人間は本来神と世界に対して開かれた関係を持つ存在であるのに、そこから逸脱した人間の非本来的なあり方を示す、優れた表現である。言い換えると、人間の自己中心性、あるいはエゴイズムを意味する表現であるとも言える。
人間は、本来神の似姿に創造された、神に向い合い神に対して開かれた存在、神に問われ答える、逆に神に問い神の答えを受ける人格的な関係を持つ存在であるにもかかわらず、やがて自分の自由意志によって神の御心に背き、神から身を隠し、神に対して自らを閉ざす者となった。この人間が抱える根源的な矛盾、これは、本来の自分とは違う自分になるという意味でアイデンティティの喪失、あるいは自己疎外とも言えるが、そうした事態を罪と言うことができる。
ついでに言えば、アイデンティティの喪失、あるいは自己疎外に陥った者は、自分を愛することができない。そうなると、まして他者を愛することもできなくなる。したがって罪とは、愛の喪失という事態に陥ることでもある。
2) 現代的表現で言うと、義認とはどういう事態か
義認とはどういう事態かを明らかにするために、現代の日常用語の中から「愛」「承認ないし評価」「赦し」「自由」という4つの表現をもって言い換え説くことができるが、ここでは、「承認ないし評価」という表現から、説明に取り組みたい。
人間は、上述したように、他者との関係の中で生きていて、つねに自分の存在、また正しさを認めてもらうことを求めている。したがって他者から認められないと生きていけない(少なくとも生き生きと生きられない)。ある高名な評論家が彼をたえず支えていた妻の死後、間もなく自殺したことは、一つの例である。
他者の最高のもの、つまり絶対他者は神である。一人の人間が周りの誰にも認められず、自分の居場所を見失って孤独の中にあっても、その絶対他者である神によって正しいと認められ、保証され、その祝福の中で生かされていることを知るとき、その人間は、どんな場所でも自分の居場所になり、なお生きることができる。誰にも認められないように思える時でも、神によって正しいと認められているならば、これほど確かなことはないはずだからである。
このように、自分の存在、人格、生の最終的保証を与えられることが、義認ということである。その義認がキリストの十字架の出来事によって起こったというのが、聖書が言う福音である。
『リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーのことば』(ライナー・アンゼン編 加藤常昭訳 日本基督教団出版局刊 1996年) の一節「人間は、取り替えることのできない、ただ一度の人生を生きる、しかも、親しく神から呼び招かれている者である。そのことが、人間を人格ある者(神と向き合った者=神の前に居場所を持つ者-棟居注)とする。その尊厳は犯しがたい(なぜならキリストが自らの命を投げ出して保証したものであるから-棟居注)。その尊厳は、その人生の成功・不成功によらず、他人の評価によっても左右されることなく、その人に備わって(与えられて-棟居注)いるものである。」これも人格の尊厳が神によって保証されていることを語っている言葉である。
3) 現代は業績(成果)至上主義、効率第一主義の時代である
現代社会は、業績至上主義、効率第一主義の競争社会である。ここにテクノロジーの問題も絡む。テクノロジーが生み出す様々なメカやツールを駆使して何事にも短時間で業績を上げないと認められない社会であるから、業績を上げるための激しい競争が生じている。これはまさに行為義認の原則が支配する時代である。
現代では、効率的に業績を上げ認められた成功者は、評判も上がり社会的地位も上昇していって「勝ち組」として称賛される。他方、なかなか業績を上げられず、認められない失敗者は、無視され、社会的地位が上がらない(相対的に下がる)「負け組」と侮られる。したがって負け組にならないため、誰もが業績を上げるために頑張る。その結果、抑圧的な力が社会全体に働く。労働者は雇用者から限界を超えた労働を強いられ、労働は苦役となる(創世記3・17)。過労死の問題に現れているように、業績優先で人間の命も粗末にされる。他方、健常者に比べ業績を上げにくい障碍者に対する偏見・差別が助長され、社会的格差も、増大する。
また、多くの負け組に属する者、社会的弱者が自分の価値を見失い、生きる意味を見失い、先行きの希望を見失う。精神的に障害を抱える者も多くなる。
もちろん、業績(成果)を上げること自体は悪ではない。ただその成果は何のための成果かということと、その成果を自分の利益だけにではなく社会、特に社会から疎外された人々の利益に還元するかどうかが問題なのである。これは、栄光の教育理念でもある、Man for others , with others に通ずる。
この根拠は、まさにすべての人の人格の基礎には、キリストの十字架の出来事による神の義認があるからである。極言すれば、あのヒトラーのためにもキリストは十字架に架かられた。言い換えると、キリストの十字架ゆえにすべての人間は神の愛の中に入れられている。
この信仰義認の原点に立てば、異質な者同士の共生・連帯への道も開かれる。なぜなら、すべての人間はキリストの十字架ゆえに神の愛の中に入れられているならば、人間的にどんな違いがあっても共生・連帯が可能であるはずだからである。また、争い合っている敵同士も、争いを止め、平和に向けた対話の席につくことが可能なはずだからである。
ただ現実には、そのような信仰義認の原点に立った人間理解を受け入れるか受け入れないかの違いが残されているにすぎない。ここにキリスト者-カトリック、プロテスタントの違いを問わず-の宣教の使命が示されている。
棟居 洋(栄光カトリックOB会会員)( 2017 ・ 5 ・ 20 カトリック大船教会にて)
1.教会の現状に対する教皇の認識は
教皇フランシスコが教会の現状をどうご覧になっているかを知るため、教皇に就任されて初めてお出しになった使徒的勧告「福音の喜び」(2013年11月24日)の49項を読んでみましょう。
「(前略)私は、出て行ったことで事故に遭い、傷を負い、汚れた教会のほうが好きです。閉じこもり、自分の安全地帯にしがみつく気楽さゆえに病んだ教会よりも好きです。中心であろうと心配ばかりしている教会、強迫観念や手順に縛られ、閉じたまま死んでしまう教会は望みません。(中略)過ちを恐れるのではなく、偽りの安心を与える構造、冷酷な裁判官であることを強いる規則、そして安心できる習慣に閉じこもったままでいること、それらを恐れ、その恐れに促されて行動したいと思います」(カトリック中央協議会訳)
以上でお分かりになる通り、神の憐れみについての理解を深めて、「教会そのものを変えましょう」という呼びかけをなさっているところに、教皇フランシスコの特徴があります。これまでの教皇は、人の生き方、社会の問題には言及しても、教会そのものの改革については直接言及してきませんでした。現教皇は、人々に「悔い改めなさい」と呼びかけるよりも、教会そのものに対して「改めなさい」と呼びかけているのです。
使徒的勧告「福音の喜び」では、まず、「あわれみの神」」を強調したうえで、教会の現状をどのように見、どうあるべきかを語っているのです。
もし、皆さんが、主任司祭たちに面と向かって、「安全地帯にしがみつき・・中心であろうと心配ばかり‥強迫観念や手順に縛られている・・そういう今の教会を変えなければならない・・」などと言ったら、皆が皆そうではないでしょうが、「もうここに来るな」と怒る司祭がいるかもしれません。一般の信徒が語っても、おそらく受け止めてもらえなかったでしょう。教会についてこれほど辛辣な言葉を口にした教皇は、これまでおりませんでしたね。
日本の教会は第二バチカン公会議の結果を受けて、1986年に第一回福音宣教推進全国会議を開きましたが、「カトリック信者としての私たち自身の生活と信仰の遊離、教会の日本社会からの遊離」などを共通の認識として明確にしたものの、教皇フランシスコの言葉ほど明確な表現ではありませんでした。教皇のこのような認識に共感する人は、「よくぞ言ってくださった」と感じる人は、今の日本の教会の信者の中でも少なくなくはないのではないでしょうか。
そうした現教皇の呼びかけの背景に何があるのか、考えてみたいと思います。
「自分の安全地帯にしがみつく」「偽りの安心を与える構造」
「福音の喜び」の上記の箇所にある「自分の安全地帯にしがみつく」「偽りの安心」という指摘の背景にあるのは、「秘跡中心主義」です。16世紀の宗教改革の先頭に立ったマルチン・ルターは、「信仰のみ」「聖書のみ」「恵みのみ」の三原則野畑を掲げて、権力におぼれ、堕落した教会に立ち向かいました。これに対して、時の教皇、パウルス三世がトレント公会議を招集し、宗教改革 に対するカトリック教会の姿勢を明確にしましたが、その柱になったのは、「秘跡」「教義」「掟」でした。
日本にカトリック宣教師によって伝えられたキリスト教は、まさに欧州でそのようなことを背景にしたものでした。秘跡、教義、掟を中心にしたキリスト教でした。
許しの秘蹟を求め続ける、遠藤周作の「沈黙」で象徴的に描かれているキチジローの姿の中には、秘跡中心に教会理解があります。秘跡―ミサや赦しの秘跡にあずかってさえいれば、救われるというというメンタリティが深くしみ込んだのが、この時代だったのです。秘跡中心主義は、隠れキリシタンの時代にも受け継がれていたのです。
「ミサに出て、赦しの秘跡を受けて、亡くなる前に病者の秘跡を受けていれば、救いは保障される」、そうした秘跡を中心とした信仰生活が、宗教改革を契機に起こったプロテスタントとの対立で強調されるようになり、「ミサに出て、黙想会などにも参加したりして教会につながっていれば、安全である」という安易な考え方が、教会全体に染みこんでしまったのです。それが、現代の教会にも受け継がれて、そこから払拭できないでいるのです。
「世俗社会から信徒を護る城塞」
教会は世俗社会から信徒を護る城塞であると言う認識が深まるのは、18世紀以降です。
教会は、近代社会の土台となる「自由主義、合理主義、科学技術中心の発展、労働者階級の誕生、資本主義」が芽生えてきたとき、その意味を理解できず、『自由、平等主義、合理主義』を、カトリック教会の信仰に逆らう危険な毒としてとられ、弾圧する側に立って、教会を近代主義から信者を守る『城塞』と位置づけたのです。 信者たちには、たとえ理解できなくても教会の教えを信じ、聖職者たちに従うことを、求め指導したのです。結果として、信者たちの思考停止を生んでしまったのです・
それが、信仰の日々の生活からの遊離、教会の現実社会からの遊離を助長してしまい、また、それが、一般の人々には敷居の高い、近付きがたい教会を生んでしまったのです。
「中心であろうと心配ばかりしている教会」
こうした教会の葉池にあるものは、中世期に確立した教会像です。
中世期、教教皇は宗教と政治を合わせた絶対的な権力者、王の中の王と理解されるようになり、教皇をはじめとする司教、司祭たちは、地上におけるキリストの代理者として認識されるようになります。
聖職者は、地上におけるキリストの代理者としての理解は、時代を超えて受け継がれてきており、今もって善良な信者たちの心には染みついてしまっているように思えます。
近代主義が台頭してきた18世紀以降、ヨーロッパ全体に大きな影響力を及ぼしてしまう近代主義と向き合うため、っかとリック教会は、教皇をピラミッドの頂点とした強固な「中央集権主義体制」が確立したのです。その中心的な人物が、ピオ9世でした。1869年に第一バチカン公会議を招集し、教皇の不可謬権を宣言し、司教は教皇に、司祭は司教に、そして信徒は司祭に従順、という〝ヒエラルヒー″が完成します。教会の統治は聖職者に委ねる、という「聖職者主義」が確立します。
よく「教会には民主主義がない」という声を聞きますが、司法、行政、立法の三権分離は、教会の構造にはまだ確立していないのです。教会は、中心でなければならないという観念がまだまだ染みついてしまっているのです
このように教皇フランシスコは司教として現実の社会の現場で活動されて、色々な問題にぶつかってきた経験から、痛切に感じたことを表に出し、「秘跡に頼り、権威主義に頼ってきた教会を内側から変えなければならない」という呼びかけをされたのです。
2.教皇フランシスコの目指す教会は
まず「出て行く教会」です。教会の外に出て、人と向き合い、人それぞれの人生とまじりあうことをイメージされているのだと思います。
教皇は、ブエノスアイレス司教となって、市内のスラムに入り、住民一人ひとりと言葉を交わし、親しく付き合われました。教皇になられた直後のインタビューで「教会は〝野戦病院″であるべきだ」「扉を開いて歓迎し、受け入れるばかりでなく、新たな道を見出す教会になろう・・信仰を捨てた人や関心のない人たちのために」と語られたのも、その延長上にあります。また、別の雑誌のインタビューで、「私は『神』を信じていますが、『カトリックの神』ではありません・・・おられるのは『神』だけ、イエス・キリスト、人間の姿を借りてこの世に現れた『神』です」と語りました。教皇が見ている眼は、神が人を見ている眼なのです。
もう一度、使徒的勧告「福音の喜び」に戻りましょう。「宣教を中心にした司牧では、『いつもこうしてきた』という安易な司牧基準を捨てなければなりません。皆さんぜひ、自分の共同体の目標や構造、宣教の様式や方法を見直すというこの課題に対して、大胆、かつ創造的であってください」(33項)と教皇は、強く呼びかけられています。
第二バチカン公会議を受けて日本の教会が開いた1986年の第一回福音宣教推進全国会議も、どこか遠いところで作られた信仰様式に無理やり私たちの生活に合わせるのではなく、現実の生活と日本社会の中で生きる、ということで捉えなおすように、教会を転換していくべきだ、というのが、司教たちの考えでした。
それから30年経って、教皇フランシスコが、別の言葉でもっとはっきりと語られたのです。このような認識を共有したうえで、前を向いた改革を進めていく。それが、私たちに求められていることではないでしょうか。
(2017.3.11真生会館講座「信仰生活を深め生きる」シリーズより)
精神科医として、心を病んだ子供たちを多く診ていますが、特に摂食障害-母と娘の葛藤の結果-が多い。私個人も母との関係で悩み続けてきました。田舎で教師をしていた母は、私を妊娠して、夫の実家(母の実家には継母がいるなど、問題があったので)で舅、姑と同居することになったのですが、とくに姑からいじめられ、生まれた私が女の子だったことで、余計に肩身の狭い思いをした。それで、私を、田舎ではステータスとみなされる「医者」にして、見返そうとしたのです。私自身は物書きになりたい、というのが本心でしたが、母から愛されたい、愛情を失いたくない、という思いから本心を抑えて頑張り、大学の医学部に入って、医者になりましたが、いつも「これは自分の人生じゃない」というこだわりを抱き続けたのです。
このように、母親の欲望、父親の欲望を押し付けられながら、それを受け止めようとするあまり、生きるのがしんどくなっている、という子供たちが最近、とくに増えています。先日、研修医と医学部学生の男3人が集団で女性を酔わせて、強姦したというとんでもない犯罪事件がありましたが、いずれの親も開業医でした。もちろん悪いのは3人ですが、おそらく親たちが後を継がせようと、本人の気持ちも考えずに医者にしようとした、それが、犯罪の遠因になっているのではないか。私の周囲の人たちをみてもそう思うのです。
これは極端な例としても、親の押し付けは、様々な問題を引き起こしています。「期待」という名の下に、将来の進路を押し付け、受験を押し付け、職業を押し付ける。「愛情」の名の下に、子供を支配しようとする。いい大学に入れて、いい会社にいれて・・。10年ほど前に奈良県の進学校に入った医者の子供が、自宅に放火して、継母と弟妹を焼き殺すという悲惨な事件がありました。父親は、息子を国立大学の医学部に入れて、医者にしたいと思い、学校や塾の成績が悪いと頭ごなしに叱りつけていたそうです。
その結果がこのような事件になってしまったわけですが、女の子の場合に多いのは、拒食症です。親が自分の果たせなかった夢を子供に託し、子供は親に気に入られたい、と必死に「いい子」を演じようとして、「過剰適応」してしまい、疲れ果ててしまう。大人になると、相手は親から周囲の人、上司などになる。先日、東大を卒業して一流会社に入った女性が入社一年で自殺されましたが、母子家庭で母親の期待を一身に受け、それに応えたい、と無理をした。そんなに辛い、耐えられない、というのなら、辞めればよかったのに、と思う方もいるかも知れませんが、「いい会社に入った」と喜んでいる母親を悲しませたくない、と頑張りすぎたのでしょう。「いい子」が「過剰適応」したあげくに、「燃え尽き」てしまう。
このような患者さんを私も多く診てきました。結論は「あまり『いい人』になるのはよくない」ということです。頑張りが積もり積もって切れてしまうと、逆効果になる。苦痛、怒りはため込まずに、小出しにしたほうがいい。「嫌われる勇気」という本が売れていましたが、「嫌われたくない」と無理をする人が、とくに若い人の間で増えています。「過剰適応」して、しんどくなって、医者のところに来るのです。
家族の間でもそうですが、精神的な葛藤、怒りや敵意が生じるのは当たり前です。お互いの距離が近いほど、恨みや憎しみが強くなることがある、ということを認識する必要があります。殺人事件に占める親族殺人の割合が半分以上になっている。「愛」で結ばれていることが望ましいのだけれども、互いの敵意、憎悪が強まって、心理的に追い詰められることもある、と知ってもらいたいのです。
そうした精神的な葛藤の背後に、「支配」がある。親が子を「支配」したい、夫が妻を「支配」したい、あるいは妻が夫を「支配」したい・・。その動機としては、「物的、精神的な利得」「自己愛」「支配の連鎖」がありますが、支配する、あるいは支配される当人がそれを自覚せず、体調不良、吐き気、めまいなどの症状が出て、医者の診断を受けて分かることが多い。
こういう例もあります。定年後の嘱託勤務で単身赴任するようになった夫をもつ奥様が「毎週末に夫が帰宅する前日になると、動悸が激しくなり、吐き気を催すようになる」と相談に来られました。お聞きすると、ご主人は帰宅するたびに、家じゅうを掃除し、靴のおき方も含めて全部整頓しなおす。そして、「お前の掃除、整頓の仕方はなっていない」と怒鳴り散らす。奥様は自己否定されたように感じ、落ち込んでしまう、ということでした。ご主人はきっと勤務先で、もと部下だった上司に屈辱感を味わわされたりして、その憤懣のはけ口を奥様に求めたのかもしれません。
親による子の「支配」に話を戻すと、当事者が気が付かないうちに、深刻な事態になっているケースが少なくありません。背景に、まず、少子化がある。一人の子供に目が行き過ぎる、期待を集中させてしまう。それと、「自己実現」をあきらめきれない親が増えていることがあります。昔は、皆、生きることに、食べることに精いっぱいで、子供に何になってほしい、何にならせたい、というようのことを考える余裕はなかったが、いまその余裕がある、と言う事情もある。「ステージママ」も含めて、子供の思い、希望と関係なく、自分の思いを押し付け、自己実現の欲求を満たそうとする親が増えています。
では、どのような親が危ないのか。まず、夫婦の間に問題を抱えている親。次に、代々続く医者の家など、支配の連鎖を抱えている親。それと、希望していた職業に就けなかったなど、自己実現ができていない親-です。不登校、拒食症、果ては追い詰められて命を落とすような事態にならないように、親の思い、夢を子に押し付けることが、子にとって幸せなのか、親は問い直す必要があります。しかし三つのうち、一番悪いのは、夫婦の間で「敵対的」になることです。私がよく受ける相談に「主人の暴言に耐えられない。離婚して、解放されたいが、専業主婦で1人では生きていけない」というのがある。また「一人になると子供も育てられないし」と子供に転嫁することもあります。
親子で「敵対的」な関係になるのは、母と娘が多い、と言われます。こういう例があります。看護師をしていた娘さんが人間関係などに悩んだ挙句、仕事を辞めて無職になり、住む実家に戻って、母の介護をするようになった。だが、母は「お前は仕事もせずに私の年金で食べている。働き口を見つけて来な」とののしられ、杖を振り回される。心の救いを求めて近くのキリスト教会に行き、本を借りて読んでいたが、母が「こんな本を読んで」と怒って破り捨ててしまい、自分が全否定されたようですごいショックを受けた、というのです。「そのままでは、大変なことになりかねません。お母さんを施設に入れるか、ご自分が生活保護をもらって家をでたら」とアドバイスしたのですが、結局、「母を捨てられない」と、そのままの生活を続けておられるようです。
このように、母と娘の関係が「介護」をきっかけに深刻になるケースが増えているようです。政府は財政事情の悪化から、施設介護を在宅介護にシフトさせていますが、負担が家族、とくに女性にかかることになる。それで、「夫が死んだら、舅や姑など夫の家族の介護などしたくない」ということで、「姻族関係終了届」を出す、いわゆる「死後離婚」をする女性が増えているのも、それと関係があるのでしょう。在宅介護はものすごい危険を含んでいるのです。介護殺人が二週間に一回の割で起きていますのも、在宅介護中心主義と関係があると思います。憲法改正で、「家族の助け合い」条項を入れようとする動きがあるようですが、一見、美しい言葉のようですが、家族に負担を強い、敵対的関係にある家族を介護殺人に追いやる危険もあることを認識する必要があるのではないでしょうか。
おわりに、このような家族をめぐって起きている問題と向き合う際に、気を付けるべき点を列挙します。
①まず、「問題に気づく、自覚する」ことです。さきほども申し上げましたが、気がつかずに、事態を深刻にしていることが多いのです。うすうす感じても、「自分は親に、夫に敵意も、憎しみも持っていないのだ」と思い込もうとする傾向もある。体がSOSを発したら、あるいはそうなる前に、自分はどうなのか、親の期待と自分のやりたいことは違っていないか、など、自分自身を見つめなおすことが必要です。
②「相手(親や夫、妻)を他の人と替えることはできない」と割り切ること。とくに歳を取ってから生き方を変えるのは難しい。「あきらめる」ことも時には必要です。
③「離れる」ことも悪くない。無理をしてそれまでの関係を続けようとすると、自分自身も、相手も罪悪感が募ってやりきれなくなる。施設に入ってもらう、あるいは介護サービスを受けて、その間は外出して気分転換を図るようにする。
④「少し距離」を置いてみる。食事を別々にする。家の中でも、できるだけ顔を合わせない。夫が定年になっても、できるだけ外にでてもらう。趣味を広げる、などです。
⑤「各々が豊かな人間関係を作る」こと。相手や子供にあまり期待をかけすぎないようにし、それぞれがそれぞれの人間関係を広げていく。これが一番、前向きで必要な対応かも知れません。
(片田珠美=かただ・たまみ=精神科医、京都大学非常勤講師、臨床経験にもとづき、犯罪や心の病の構造を分析している。著書に「一億総うつ社会」(ちくま新書)、「他人を攻撃せずにはいられない人」(PHP新書)など。
(真生会館・講座シリーズ「現代社会に生きる」の2月25日「家族とどう向き合うか」より・文責=南條俊二)
現代世界では、社会から疎外されている人、助けを求めている人のことを配慮しなけらばならない、と言われ、人と人、国と国などの障壁をなくし、オープンな世界にしなけらばならない、と言われながら、出来ないのが現実です。私たちが目指すべき核となるのは「平和」。教皇フランシスコは、先月の恒例の駐バチカン外交団に対する年頭あいさつでも、平和の実現に積極的に努力するように求め、単に政府レベルにとどまらず、個々人と社会が一致協力することの必要性を説かれました。
カトリック教会の現在の平和への取り組みは、教皇 ヨハネ23世 が1963年 4月に発せられた 回勅「パーチェム・イン・テリス(地上の平和)」に始まりました(「カトリック・あい」注・ カトリック 信者だけでなく、「すべての善意の人びと」に宛てて教皇が発した初の回勅であり、人間個人が有する生存、尊厳、自由、教育といった権利を列挙するとともに、核兵器や軍拡競争を終わらせるための取り組みについて言及した)。これは、教会の教義であるにとどまらず、国際社会が取り組むべき優先課題なのです。言うまでもなく、カトリック教会の平和のビジョンは国際社会が額面通り共有できるものではありません。必要とされるのは、個人、国家、宗教などのそれぞれのレベルで分離・対立の原因となっているものを除くことなのです。
平和への努力は、まず、人間関係の基本に戻るところから始める必要があります。国々のリーダーは、人間の基本的権利を守り、育てるという基盤に立脚し、政治的、法制度的手段を使って平和実現に努めなばなりませんが、「平和の文化」との関係を無視してはなりません。世界で起きている紛争の現実を直視すべきだし、あらゆる手を尽くして、それでもやむを得ない場合には、正当な武力の行使を否定することはできませんが、事の本質を見失うことがあってはなりません。
戦時下では戦時国際法に基ずく行動が求められ、捕虜の虐待などは認められないにもかかわらず、基本的人権を無視する行為が起きている。現在の〝戦争″は在来型の内戦や国家間の紛争だけでなく、テロやさまざまな形で起きています。人々の間に恐怖や疑惑を高め、力を合わせる動きを壊してしまう。若者も、高齢者も、悲嘆の中で命を落としている。国家間の対話だけでは解決できません。
教皇フランシスコは2015年秋の国連総会での演説で「特定の明白な自然倫理制限の認識がなければ、また必要不可欠な人間発達の要件の迅速な実行がなされなければ、『戦争の惨害から将来の世代を救済』し『社会進歩と生活基準を向上する』という理想は、達成できないか、さらに悪い状態となります。そしてあらゆる乱用や破壊の言い訳をすることになり、あるいは人々にとって無縁の特異な基準やライフスタイルを押し付けることでイデオロギーの植民地化をし、最終的には責任を負えない状況に陥ります。戦争は全ての権利を否定し環境を無残に破壊します。全ての人間が進歩していくには、国家や人間同士の戦争を避けるため、たゆまぬ努力をする必要があります」と話されました。
そして、この目標を達成するためには「国際連合憲章の章でも提示されている通り、真の基本的な法規定で構成されてる協議された法の支配を確実にし、交渉、仲裁や調停を精力的に行なうことが必要です。・・国際連合憲章が、偽りの意図を覆い隠すことなく正義の義務的基準点として、尊敬され、透明性と誠実性を持って、下心なしで適用されたときに、平和的結果が得られるでしょう」と強調されました。
この時の「国連持続可能な開発サミット 」で採択された 「我々の世界を変革する:持続可能な開発のための2030アジェンダ」では、「 平和と安全」の項で、「持続可能な開発は、平和と安全なくしては実現できない。・・新アジェンダは、司法への 平等なアクセスを提供し、(発展の権利を含む)人権の尊重、効果的な法の支配及び全ての レベルでのグッド・ガバナンス並びに透明、効果的かつ責任ある制度に基礎をおいた平和 で、公正かつ、包摂的な社会を構築する必要性を認める。・・我々は、平和構築及び国家建設において・・紛争の解決又は予防、及び紛争後の国々の支援のため の努力を倍加しなければならない。経済的・社会的発展及び環境の面でも悪影響 を及ぼし続けている植民地下及び外国占領下にある人民の自決の権利の完全な実現への障 害を除去するために、国際法に合致する更なる効果的な手段と行動を求める」としています。
そして「文化」の項で、「我々は、文化間の理解、寛容、相互尊重、グローバル・シチズンシップとし ての倫理、共同の責任を促進することを約束する。我々は、世界の自然と文化の多様性を 認め、すべての文化・文明は持続可能な開発に貢献するばかりでなく、重要な成功への鍵 であると認識する」と「平和の文化」の重要性を強調しています。真の「平和の文化」はすべての人が関与したうえでの成果でなければなりません。
教皇フランシスコは先の駐バチカン外交団へのあいさつで、平和実現のために大胆さと構想力の必要を力説されました。困難な障害はあっても、平和の文化を国際社会、地域社会、そして個々人の関係の中で育てることが今、最も必要とされているのです。
質疑
(「カトリック・あい」南條)「今、世界中で深刻な議論を呼んでいます。それは就任したばかりの米国のトランプ大統領の言動、とくに先週署名した大統領令で、中東・アフリカのイスラム7か国からの入国を差し止めたことです。教皇フランシスコの2月の祈りの意向は、弱いもの、助けを求める者を慈しみをもって受け入れる、というものであり、教皇が、トランプ大統領の就任時に送ったメッセージでも弱い者たちへの配慮を強く求めていた。それに全く反するものです。ここ数日の動きとして、米国や英国などの司教団が、入国差し止めの措置を撤回するよう求める声明を出していますが、バチカンも具体的な意思表明をすべき時ではありませんか」
外務長官「私たちは幅広い視野で対応する必要があります。また、特定の政策が今とられていても、変わっていくこともある。拙速な判断はしたくありません。今起きていることに、色々の人が意見を表明する権利はありますが、バチカンとしては、動きを見ながら、色々な人の声を聴いているところなのです。国際社会の原理原則に従う必要がありますし、個別の件に触れるのは差し控えたい」
(2017.2.2 日本・バチカン外交関係樹立75周年記念・上智大学主催特別講演会で) 要約文責・「カトリック・あい」南條俊二
この数ヶ月の間、カリタスアジアやカリタスジャパンでは、「戦略計画の策定」という作業を続けています。
「戦略計画」というと何か軍事用語みたいで響きが悪いのですが、元々の英語の単語を日本語に訳そうとするとこうなってしまうので仕方がないのです。要は、過去の振り返りに基づいてよりふさわしい将来への道筋を明らかにする作業です。戦略計画を策定した後に、それに基づいて中期的な活動計画を定めていきます。それによって、過去の失敗を繰り返さずに、さらにより良い活動が出来るようにするというものです。ビジネスの世界では普通に行われているようでもありますが、NGOなどの世界でも広く取り入れられてきました。
その作業の中で、一番最初にしなければならないのが、SWOT分析。それは計画を策定する組織における「S(強み)、W(弱み)、O(機会)、T(脅威)」を見つけ出し、そこから、組織の目的を効率よく達成するためには何が欠けているのか、より目的に近づくための優先事項は何なのかを明確にしていこうとする作業です。
教会も、御言葉を一人でも多くの人に告げ知らせることを使命として与えられた組織体であります。ですからそこには、同じように、「S(強み)、W(弱み)、O(機会)、T(脅威)」が存在し、それを分析することで、より良くその使命を果たすことが出来るようになるのではないかと思いました。
いまわたしたちが生きているこの地域での教会の福音宣教の現実を考えるとき、わたしたちにとっての「強み」、「弱み」、「機会」そして「脅威」は何でしょうか。主の降誕を祝うこの日にあたり、その出来事に思いをはせながら、思いつくことを掲げてみたいと思います。
先ほど朗読されたヨハネの福音に、「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」と記されていました。わたしたちが告げ知らせるよう使命を受けている神の御言葉は、人間を照らす光であり、そこにこそ命があるのです。わたしたちは、その命が、神の望まれるあり方でより良く生きられるようにと、この世界の中で神の言葉を告げ知らせていかなくてはならないのです。そういう使命が、教会には与えられています。
そして、教会にはというとき、誰かの組織ではなく、それは、イエス・キリストを信じるすべての人、すなわちわたしたち一人ひとりのことを指しているのです。わたしたち一人ひとりの使命であります。
さて、「強み」から見てみましょう。わたしたちには、かけがえのない「強み」があります。それはすべての創り主であり生命の与え主である神ご自身が、人間に対する愛のあふれとして、人となり、その罪を担い、死と復活を通して自ら示された、神の愛の力の絶対的な強さそのものであります。わたしたちには、自信をもって告げるべきメッセージがあります。自信をもって倣うべき、人生の生き方の最高の模範があります。
その夜、聖母マリアには神の言葉である御子が人として宿られている。ですからこの聖なる家族は、神ご自身を運ぶ家族であります。新しい生命の誕生を待ち望む人間の愛が、その家族を満たしています。人間の愛を通じて、神の絶対的な愛を多くの人に運んでいこう、もたらそうとする聖なる家族は、わたしたち信仰者にとって最大の強みは何であるのかを教えています。何も恐れるものがない、神の愛のあふれである御子イエスの存在そのものであります。
では、「弱み」は何でしょう。聖なる家族は、ナザレからベトレヘムまで長い旅を続けてきました。その夜、宿を求めてベトレヘムの町をさまよった聖なる家族を、多くの人々は拒絶します。神の愛そのものである言葉は、人として誕生したその瞬間から、多くの人に拒絶される存在だったのです。
わたしたちの住む日本において、キリスト者は徹底的に少数派です。そのために、わたしたちが信仰において当たり前だと思っていることは、日本社会全体の常識とはかけ離れているのかもしれません。あまりにも小さな集まりであるがために、勇気をもって福音をあかしすることを躊躇している現実が、わたしたちの弱みかもしれません。その夜の聖なる家族のように、わたしたちは、誰かに受け入れてもらえる場を求めて、闇の中をさまよっているのかもしれません。
「機会」とは何でしょう。聖家族は最終的に、彼らを受け入れてくれる人々に出会います。それは立派な宿屋ではなかったものの、少なくとも幼子を守るに十分な飼い葉桶であり、また誕生を祝うために集まった町の多くの人々なのではなく、野宿する羊飼いたちでありました。その出会いによって、場所を提供してくれた人たちに、そして羊飼いたちに、その人々の内に神を迎え入れる機会が与えられました。
そうすると、わたしたちの社会の様々な動きの中で示される、神の愛に基づいた奉仕の可能性は、わたしたちにとって大きな「機会」ではないでしょうか。
いま多くの人が迎え入れられることなく、拒絶されています。教皇様の繰り返されるシリアでの和平への呼びかけと、難民受け入れの呼びかけにもかかわらず、未だに和平は実現せず、難民の人たちへの受け入れは困難を極めています。それははるかヨーロッパだけでの問題ではなく、教皇様がしばしば指摘されるように、全世界で、「無関心と排除」の態度として拡がっています。日本も例外ではありません。
漠然としたテロなどへの恐怖感をはじめ、治安維持への不安感は、何となくわたしたちを疑心暗鬼の暗闇に引きずり込み、「排除」する姿勢へと導きます。目に見えるところで、分かっている範囲で、わたしたちは安心をしたいのです。異質なものを、普通と異なる存在を、社会は、いやわたしたち教会は、排除しようとしていないでしょうか。教皇の呼びかけるように、すべてを受け入れるいつくしみの共同体であるでしょうか。排除しないまでも、そういった異なる存在に目をつむる、「無関心」な共同体になっていないでしょうか。主ご自身を迎え入れる「機会」は、常にわたしたちの目の前にあるのです。もしかしたらわたしたちは、宿を求めてたたずむ聖なる家族の面前で、冷たく扉を閉めているのかもしれません。
最後に「脅威」。主の降誕にあって最大の脅威は、その存在を否定しようとするヘロデの存在であったかもしれません。神の愛の充満である生命、神の御言葉そのものである幼子への攻撃です。
あらためて繰り返すまでもなく、いま日本を含め世界の至る所で、生命は危機にさらされています。守られるべき生命と存在を無視される生命との格差が広がっています。まず第一に考えられるべきは生命の尊厳であるにもかかわらず、そうではない価値観が優先されています。これほどの「脅威」はありません。どのようなレベルにおいても、どのような形であっても、人間の生命は、神の似姿である限り尊厳があり、守られなくてはなりません。
主の降誕にあたり、あらためてわたしたちが、御言葉を告げる使命を勇気を持って生きることが出来るように、祈りましょう。
(2016年12月25日 新潟教会の主の降誕(日中)ミサで)
水俣病をテーマにした数々の文学作品を世に出してこられた石牟礼道子さんに興味を持ったのは、著作「苦海浄土」(講談社文庫)を読んだのが始まりでした。天草弁を交えて、人間の命の本質的なものを、ご自身の体験に基づいて書いておられます。私は、この本を読んで、人の命、アニマ(たましい)に触れた思いがしたのです。
石牟礼さんは熊本県天草郡河浦町(現・天草市)で生まれ、水俣実務学校卒業後、代用教員、主婦を経て、詩歌を中心に文学活動を開始。チッソ水俣工場が排出した有機水銀による水俣病発生を機に、患者さんに寄り添って、供護しながら文学活動を続けてこられました。「苦海浄土」は、彼女が患者たちとともにチッソと政府に責任を認めさせる運動をしている時に、書かれたものです。
「光に誘われて、天草の空があり、海があり、夕方になると雲の上から光の柱があって、その下では海の受胎が始まるような。子供の頃はそのような光景にみとれていました」(「言葉果つるところ―鶴見和子・対話まんだら 石牟礼道子の巻」=藤原書店)。これが、石牟礼さんの原体験である「アニマ」です。アニマは普通、「たましい」と訳されていますが、ここでは広い意味での「いのち」と言えばいいでしょう。それが、今は、「水銀」の下に隠されてしまっている。アニマの世界では、人も狐も魚も樹木も皆が命の交流をしている。そのいのちが、いつの間にか人間中心、巨大科学の時代になり、アニマがずたずたに引き裂かれてしまった。それが「近代」という時代の根源的現象なのです。
そのひとつの象徴が水俣病事件、彼女にとって、「根源からの世界の成り立ちを、丸ごと失う・・自分が生きていた、という意味が失われる・・前世から受け継がれてきた人間の思い・・その道をも全部失う出来事」(「形見の声─母層としての風土」 =筑摩書房)だったのです。患者さんたちに寄り添い、「アニマ」を取り戻そうとする彼女の戦いは、チッソ本社前での謝罪を求める座り込みなどを通じて、しかし、主力は政治闘争ではなく、文学を通して行われました。そして多くの文学作品を世に出されています。
水俣病闘争(石牟礼さんは、この言葉よりも、島原の乱に重ねて「水俣の乱」という表現を使います)は終わったが、「アニマ」を取り戻す闘争の時代は終わったのか。石牟礼さんはこう答え、問いかけています。 水俣病の患者さんたちの『他人を責めるのは、何よりつらい、他人を憎むことには、もう耐えられない』という声を聞いていると、「近代という奪魂装置に閉じ込められた人間を救いたい、という身悶えを感じます・・水俣病だけじゃない、何かまだ、隠れているたくさんの体験があるんじゃないか、という気がします。そういう暗部に目を向け、耳を澄ます政治家がいるんでしょうか」。
学問の世界でも、「一番進んだ、人間をみる深さというのか、一人一人の一番ゆたかな深部に降り立って、それをぞっくり抱えてくるような学問があるはずだ。・・そんな学問はないのか」(同上)。
現在も、東日本大震災の後遺症に悩み、福島原発事故で町を追われ、家を追われ、苦しんでいる多くの人がいる。そして、暴力は世界規模で尽きることがない。そのような現状を目の当たりにして、無力感を覚えることもしばしばです。
東日本大震災が起きた翌月、2011年4月に石牟礼さんが書いておられます。「現世はいよいよ地獄とやいわむ虚無とやいわむ。ただ滅亡の世迫るをまつのみか」。それでも、希望を捨てない。「ここにおいてわれらなお、地上にひらく一輪の花の力を念じて合掌」と。地上に開く一輪の花―はかない命ではあるけれども、種を残し、命をつないでいく。そこにすべての自然の命が掛かっている。それを明示することが、人間が生きるということ・・なのだ。 それを石牟礼さんは私たちに示してくれているのです。
(2016.12.5 東京・信濃町「真生会館」連続講座「現代人の生き方・社会を考える」・・まとめ文責・南條俊二)
*講演を聴いて*
石牟礼さんが、そして宮本教授が語られた巨大科学がもたらした病弊が世界を蝕み続けている中で、今、さらに巨大な病弊が生まれている。「インターネット革命」という病弊だ。巨大科学と同じように、うまく使いこなすことができれば、地球をかつてないほど素晴らしいものにできる可能性を持つ。しかし、努力せずに楽しみたい、たやすく儲けたい・・と安易に傾く人間の弱さが、「人離れ」、「自然離れ」を加速しているのが現実だ。インターネット革命、スマホ革命の中で、お二人が指摘する問題はさらに深刻に、これからの日本社会の主役となるはずの若者たちの間に急速に浸透している。
象徴的な出来事は、2016年に発生した「ポケモンGO」現象だ。数年前に導入され、爆発的に普及したスマートフォン。現実と仮想現実の区別を無くし、周囲の人も、自然もお構いなし。ひとりひとりは孤独だが、仮想現実の社会にのめり込めば、孤独でないという錯覚に浸れる・・。そうした傾向を加速する形で生まれたポケモンGO。ポケモンが出やすいという情報を聞きつけて、大勢が鳥取砂丘に押し寄せたり、熱中して周囲が見えなくなり、プラットホームから落ちたり、車の運転をしながら”ポケモン”探しに気を取られ通行人をひき殺してしまったり、という事故まで起きている。
そうでなくても、電車に乗ってもスマホの漫画やゲーム、買い物やレストラン情報、などに没頭して周囲を意識しない、お年寄りや体が不自由な人が乗ってきても、優先席に座って、譲ろうとしない若者(最近は中年層まで年齢が広がっている)、構内放送での再三の注意を無視し、混雑する駅構内であたりかまわず、スマホに熱中し、電車内でスマホを握り締めたまま眠りこける、いい年をした男女・・。
そのような環境の中で、生身の人と付き合うのが苦手な若者が増える一方、弱い者、”群れ”ることを嫌う者を集団でいじめ、死に至らしめることに罪の意識もない、自分の子供を物のように捨ててしまう若い親・・。ここ数年で起き、加速しているこうした現象を深刻に受け止め、家庭、学校、地域社会から、こうした人離れの加速、「アニマ」の喪失を食い止める努力を、それぞれの立場から始めるべきではなかろうか。 そして、そこにこそ、日本の教会の、信徒一人一人の果たすべき使命があるのではないか。(カトリック・あい 南條俊二)
(参考記事)「スマホ断ち」に高校生「新鮮」「二度とイヤ」(2017.1.12 読売新聞)
奈良県内の高校生が昨年11月、一斉に挑戦した「スマホリデー」の結果がまとまった。高校生自らが問題意識を持ち、当事者の視点から呼びかけた全国初の試みを、生徒一人ひとりはどう受け止めたのか。賛否両論、様々な生の声が聞こえてきた。 「新鮮だった」「スマホの大切さが分かった」「使わないようにするのは難しい」――。スマホリデー直後に実施されたアンケートの自由記述欄には、特別な一日を過ごした率直な感想がつづられていた。
「友達と話す機会が増えた」「時間の使い方について考えさせられた」と満足する声と、「つらかった」「二度とやりたくない」と苦労をうかがわせる声が入り交じる結果に。試みたものの「気付いたらスマホを触っていて驚いた」という人や、「次はもっとちゃんとしたい」「来年は頑張ります」と、早くも次回へ意気込む人もみられた。中でも目立ったのは取り組み自体を評価する声。「人に言われてするのではなく、自分でするのがいい」「定期的に行うと良いと思う」などが寄せられた。
◇
実施前に行ったアンケートでは、96%がスマホを使っていると回答。使用時間は1~3時間が41%と最多だった一方、「5時間以上」「ほとんどずっと」と答えた生徒も23%に上り、4人に1人は〈スマホ依存〉に近い状態 だった。実際に当日を、「スマホ等を使わずに過ごせたか」という問いに、「はい」と答えたのは24%にとどまったが、「スマホリデーを意識できたか」に対しては48%が「はい」と回答。完全なスマホ断ちは難しい現実の中、半数の生徒がスマホとの関わり方を再考する一日となったようだ。
◇
スマホリデーを企画した県高校生徒会連絡会の役員たちは終了後、「スマホ会議」を開き、周囲の変化を報告し合った。「『できるわけない』という反発もあって不安だったが、当日は友達と話している人がいつもより多くてほっとした」「ツイッターの更新頻度が減ったり、学校にスマホを持ってこなくなったりした友人もいて、当日以降の波及効果が大きかった」。それぞれが見聞きした変化は多種多様だったが、結論は「みんな、何かを感じてはくれた」。確かな手応えが残った。
◇
「スマホがなくてもいいな(117)」の語呂合わせで11月7日に決まったスマホリデー。奈良高(奈良市)のある教室では、この言葉を黒板の片隅に書き込んで、当日を迎えた。翌日の11月8日、黒板の文字は「いいな(117)」から「いいや(118)」に書き換えられていた。その後も語呂合わせを更新しながら、取り組みに共鳴した生徒の間でスマホリデーは、数日間続いたという。初めてのスマホリデーが高校生に引き起こした、戸惑いと発見。スマホ会議委員長の御所実業高3年(18)は、「来年度以降も継続してもらい、いつかカレンダーに載る日が来ればうれしい」と、後輩たちに希望を託した。(大橋彩華)
◆スマホリデー=11月7日をスマートフォン(スマホ)の休日(ホリデー)とし、スマホや携帯電話を丸一日使わない取り組み。生徒会長らでつくる県高校生徒会連絡会が中心となって企画した。県内全64校中42校が参加、約3200人が実施後のアンケートに回答した。
カリタスなどの仕事の関係で、これまでに世界43か国ほどを訪れました。その中で、私の人生に大きな影響を与えているのがアフリカのルワンダです。ルワンダでは、1994年に大虐殺がおき、たくさんの孤児が残されました。そうした子供たちを引き取って育てるプログラムをカリタス・ジャパンが支援しており、私も1995年3月から5月にかけて、彼らの難民キャンプのある隣国ザイール(現在のコンゴ民主共和国)に滞在し、支援活動に参加しました。
現地に来て1か月ほどたった、4月の聖週間に恐怖の体験をしたのです。午後10時ごろ、カリタス・ジャパンのメンバー4人と9000人収容のキャンプにいたところ、武装集団に襲われたのです。彼らは自動小銃だけでなく、ロケットランチャーなど重火器も使って、薬品倉庫などを吹き飛ばし、30数人が死亡、200人が負傷するという大惨事になりました。国連の陣地からははるかに離れた国境地帯だったので、救援も朝にならないと来てくれません。どうしてこんなことが・・。
辛い生活を強いられている子供たちも、ほかの多くの人たちも、なんの関係もない政治や経済の紛争に巻き込まれ、さらに大きな苦しみを受ける・・その理不尽さに無性に腹が立ちました。今でもその惨事が私のトラウマになって、担当教区である長岡の花火大会などで、大きな打ち上げ花火の音がすると、あの時の光景が思い浮かんで辛くなります。そして、その経験が、日本はもちろん、世界中の理不尽な動きの犠牲になっている子供たちや一般の人々のためになりたい、という現在の私の生き方につながっています。
その後も、アジア、アフリカを中心にさまざまな国に出かけました。そのいつくかの体験をお話すると・・
■ケニアでは、ナイロビのキベラのスラム、グアダルペ宣教会が担当する小教区を訪問しました。ぼろ布でできたサッカーボール蹴って生き生きとしている子供たちを見て、貧しさの中で生き抜く強さを感じました。
■カカオの生産地であるガーナには8年間滞在。22カ所の教会を毎日巡回しました。受洗者は年間100人以上います。滞在した教区には5000人の信徒がいましたが、車は1台。多くの人々が車を利用し、ボランティアのカテキスタが病者訪問をしていました。そのカテキスタの息子さんが今司祭として名古屋で活動されており、めぐり合わせを感じます。ここでも、宗教の対立から内戦がありましたが、宗教の異なる女性たちが集まって再建に力を合わせるのを見て感動しました。
■スリランカの津波被害者を訪問しました。キリンの「午後の紅茶」の看板を見ましたが、紅茶を生産する労働者の労働条件はとても厳しく、日本人が何気なく飲んでいる飲み物にはこのような現地の人々の苦労があることを痛感しました。
■バングラデッシュの先住民は本来は自分たちの土地であるはずのものが、不法滞在として扱われていいます。彼らの子供たちのために寄宿舎を作り、通学させ、教育の支援をしています。息子の将来に明るさを感じている父親の思いが顔に感じられました。
このように私が訪問したり、活動した国々も、世界の国々の数からいえば、ほんのわずか。世界で日々起きていることを報道などで聞くにつけて、いかに現実を知らないのか、私自身も思い知らされます。教皇フランシスコもたびたびおっしゃっていますが、自分の身の回り、そして世界の現実に無関心であってはなりません。いろいろなところで知らないことが起きているのを、知ることがとても大事なのです。命が失われるような惨事でなくても、水を例に取っても、日本ではおいしい水がどこにでも手に入るのに、ウガンダの難民キャンプでは多くの人々に、たったひとつの井戸で苦労して水を確保しようとしていました。
そういう痛みを心にとめて、一人ひとりが置かれた環境、条件のもとで、紛争、難民、格差、環境などの問題の解決に少しでも役に立つ行動ができたら、と改めて思いますし、これから司祭になろうとしている皆さんにも肝に銘じていただきたいのです。
教皇フランシスコは、2013年ランペドゥーザ島訪問の際に次のように述べられました。「居心地の良さを求める文化は、私たちを自分のことばかり考えるようにして、他の人々の叫びに対して鈍感になり、見栄えは良いが空しいシャボン玉の中で生きるようにしてしまった。これが、私たちに、はかなく空しい夢を与え、そのため私たちは他者へ関心を抱かなくなった。まさしく、これが私たちを無関心のグローバル化へと導いている。このグローバル化した世界で、私たちは無関心のグローバル化に落ち込んでしまった」。
教会には、「一人ひとりが集まって作る神の民」という強みがあります。教会内の活動だけでなく、教会外の活動も、それぞれの能力や意思に応じて、神の民の働きの一部として周りの人々と関わっていくことで、「見栄えは良いが空しいシャボン玉の中」から抜け出ることができる重要な働きになる、と思います。
(2016年11月23日 東京カトリック神学院ザビエル祭にて)(きくち・いさお カリタス・ジャパン責任司教、カリタス・アジア地区代表、カトリック中央協議会HIV/AIDSデスク担当)
(まとめ・田中典子、南條俊二)
(写真は「カトリック・あい」が検索した当時のルワンダでの虐殺の映像です。菊地司教が体験されたザイールの難民キャンプとは異なります)
高校で「政治経済」「現代社会」、中学で「公民」を教えて半世紀の間、生徒たちの心に残る授業をしたい、と努めてきた。私は学校における教育の目的は、子供たち自身の人生・社会・世界に対する関心と興味を育てることにある、と考えている。そして、「神によってつくられた、かけがえのない人間」を大切にし、平和な社会を作ることに、寄与できるように・・。
子供たちが自分と環境の関係を理解し、社会・世界に主体的に関わることで、「人間」としての尊厳・価値を自覚できるように、その条件としての人間・社会・世界に対する関心と興味をできるだけ大きく、深く、育てることこそ、教育の本質的目的であり、子供たちの教育に関わる大人の使命だと思っている。授業は、子供たちを様々な世界へ導き出すこと、授業そのものが世界への導入でなければならない。そうした原点に立って、自分の授業を創ってきた。生徒は、その授業に参加し、学ぶ意味をさまざまな形で見出し、豊かな感性で授業を評価してくれた。
「いつも『公民』の時間になると、先生は今日は何をやるんだろう、とワクワクする」「先生が決めた大きなテーマの中で、(教科書はあまり使わず)新聞とかビデオを見ながら授業をする。・・学校にいると、すごく狭い世界と価値観で、きつきつの正方形の部屋にいるみたい・・『政経』の時間だけは、部屋の壁がバタッと開いて、本当に大きい『世界』を見せてくれる・・いろんな世界、人生をのぞき見して、自分の人生を振り返る・・」「自分を見直すいいチャンスになった。先生の授業の時だけはちゃんと生きてる気がして・・感情も豊かになった」「人間としての生き方を『公民』『政経』の授業を通して学んだ。・・自分の中に芽生えた人間としての心を決して忘れない」など・・。
だが、学校教育全体としてみた場合の現実はどうか。今の社会は「役に立つこと」が重んじられ、学校に「社会的評価」を第一とする誘惑にひかれている。私が卒業したカトリックの中高一貫校も、東大合格率で評価される。お世話になった元校長も、そうした現状をみて「こんな学校を作りたくはなかった」と言われたのを聞いたことがある。有名大学に何人合格するか、でしか評価されない学校とは何なのだろうか。しかも中高一貫学校に入学してくるのは有名な進学塾に通った子供たちばかり。学校によっては過労死寸前で受験に臨むケースもある。このような現状は何とか食い止めないと思う。難しいができることを考えたい。
質疑
Q カトリック校の場合、カトリック校を支える聖職者の教員もここ半世紀で激減しており、司祭がいなくなってしまった学校もある。このため個別校の経営もむつかしくなり、複数の中高一貫校の経営を大学を運営する学校法人に統合する事態にもなっている。こうした現状を見ると、カトリック学校の存在意義は何なのか、現状を踏まえてどのように対応すべきか、など、関係者皆で真剣に考え、対応する時期に来ていると思う。
A1 意識のある教員が個別に努力をすることがまず求められるが・・全体の取り組みとなると容易でない。
A2 私もカトリック中高一貫校の元教員で、「宗教」の科目を担当していた。中心となるはずの司祭がどんどんいなくなり、そうした事態に対応すべく、いろいろな悩みを抱える先生たちがネットワークを作って授業に生かせるように勉強を重ねてきた。その成果をもとに、「カトリック校の教員養成塾」を作ろう、と呼びかけを行い、関東近県の40人が集まって、活動を始めている。このような試みも対応の一つだと思う。
(2016.11.3 栄光同窓カトリックの会主催講演会「カトリック学校教員としての歩みを振り返って」) (まとめ・文責=南條俊二)
真生会館・連続講座「現代社会におけるいのち価値・蝕まれるいのち、輝くいのち」基調講演
今、私たちのいのちは危険に曝されています。国や民族間の対立、紛争に伴う武力衝突、経済発展による地球地温暖化などの環境破壊、予期せぬ通り魔や交通事故、社会の片隅に追いやられている貧困者、障害者、高齢者、そして、管理・競争社会となっている職場や学校の現実を見ると、人々はストレスやプレッシャーで精神的にも身体的にも追い詰められ、もがき、怒り、苦しんでいます。いのちに鈍感なこのような社会のシステムの中で、どのように現実に向き合い、対応していったらよいのでしょうか。
Ⅰ.「いのち」には「設計者」がいる
「息をしている、息を引き取る」に見られるように「息」が「いのち」を与える原動力となっています。古代の人々は、「いのち」は、人間を越えた大いなる存在の「息」によって与えられるもの、という直観と素朴な畏敬の念を持っていたようです。しかし、合理的、実証的に物事を考える現代では、そのような「いのち」への畏敬の念が失われてしまいました。
「生きているもの」の本質的な特長は、成長し、増殖し、「オンリーワンの存在」だということです。人間には60兆個の細胞があります。各細胞の核の中にある「DNA」を伸ばすと、全部で1200億キロメートルの長さになるそうですが、その「DNA」にはきちんと配列された遺伝子情報が刻まれています。
進化論は150年前の遺伝子学がまだ知られていない時代のものですが、遺伝子の複雑さ、精密さがわかるようになった現代では「偶然では説明できない」「何らかの知性が働いていなければ、理屈に合わない」「設計者がいるに違いない」と、進化論に否定的な流れが生物学者の間に生まれています。キリスト教的観点に立つと、それは「神」であり、いのちは「神からの賜物」ということになります。
Ⅱ.「いのち」を脅かすもの
「生きているもの」は、能力の有無、健康状態、性別、出自、国籍、民族などに無関係にオンリーワンの存在で、絶対的な尊厳としての価値がありますが、それにもかかわらず、「いのち」はさまざまな要因から脅かされています。
・エゴイズムは、自分の欲望の実現を最優先します。その結果、強盗、親殺し、子殺しなどの悲惨な事件が起こりました。人間にとって最も危険な存在が人間ともいえます。
・利害が対立する国家・民族間では、互いに傷つけ殺めても裁かれず、正当化されます。そこには「初めに国ありき、民族ありき」という価値観が根底にあります。武力衝突、空爆、テロは、日常生活を破壊し、いのちを奪い、多くの難民を生みました。国家や民族が最強の加害者です。
・「初めに経済、利益、物質的豊かさありき」の資本主義のシステムの論理は、人間を企業という組織に役立つ存在かどうかで判断します。プレッシャーとストレスで心が窒息しそうな状況に追い込まれ、くたくたになった多くのサラリーマンは、帰宅しても家族と向き合う心の余裕がなく、人間関係が希薄になり、徐々に孤独に蝕まれるようになります。資本主義の論理は、豊かな生活をもたらしましたが、人間として生きることの真の豊かさや喜びを奪うようになりました。
・宗教団体は、それぞれが掲げる教義によって、人を差別し断罪を許す論理があります。カトリック教会も例外ではなく、教義に反する人を裁き、断罪する冷たさがあります。「教会は、道徳に関する教義を気に病むべきではなく、傷を負った人々に気を配る野戦病院のようでなければならない」、「同性愛の人には、教会は赦しを乞わねばならない」という教皇フランシスコの言葉の根底には、「人間の尊さは教義の枠を越えるものだ」との確信があります。
Ⅲ.受け皿によって生じるいのちの危機
聖書に「地面に落ちた種」のたとえ話があります。種である「いのち」の成長もその受け皿によって大きく影響を受けます。
・道端に落ちた種:環境破壊された社会、爆撃の絶えない地域、暴力を振るう家族は、「道端」に例えられるでしょう。水俣病、福島の原発事故、チェルノブイリ原子力発電所事故による放射能汚染により自然環境が破壊されました。紛争や爆撃、テロが頻繁に起こる地域に住む人々は、「いのちの危険」と隣り合わせの日々を過ごし、移住せざるを得なくなり、難民が増加しています。また、親が暴力を振るったり、性的虐待をするなどの家庭に育った子供は、絶えず緊張し、親に怯えながら生活しなければなりません。深い心の傷と不安を抱え、遅かれ早かれ心は壊れてしまいます。信頼感を育てることができず、社会生活に適合できない子供も少なくありません。
・石だらけの所に落ちた種:親と子の生活がバラバラで、孤食を強いられる子供は、石だらけの所に落ちた種のようなものです。食卓は食べることはもちろんですが、笑顔、優しさを通して自分とは違う人間を受け入れるという気づかいや配慮を学ぶ場でもあります。栄養も偏りがちな孤食は、体調のみならず精神的にも不安定になり、キレやすい性格になりがちです。根の浅い人間関係では現実の厳しさに対応できず、逃げ腰、ネットにはまる、家に閉じこもるなど、自分だけの世界にこもりがちです。
・茨の間に落ちた種:茨は私たちの欲望、欲求に例えることができます。茨は人間としての根源的な欲求を覆い、人を窒息させます。また、事業欲、名誉心などの欲望・欲求がかなえられても、根源的な欲求が満たされない限り、不安、虚しさ、空虚感に襲われ、心の底からの幸せ感に浸ることはできません。
Ⅳ.人間としての根源的な飢え渇きに応える神
私たちは身体と心からなる存在です。オンリーワンの存在である「この私」が求める根源的な飢え渇きとは何でしょうか。具体的には、「柔らかで棘のないあたたかな心に包まれたい」「誰かにかけがいのない存在として肯定されたい」「人に尽くして、人を幸せにしたい、」などがあります。しかし、この世界の中でこれらを満たしてくれるものを探し求めるには限界があり、完全に満たされることはありません。なぜなら、裏切り、津波のように人間のみならず自然さえ常に不安定だからです。心の深いところにある孤独感は消えず、自分一人で自らを支えて行かなければならないという現実があります。
宗教は、そうした根源的な飢え渇きに応える役割を果たしてくれます。聖書は、キリストが人間の根源的な飢え渇きに応える方である、と教えています。キリストこそ、柔らかい棘のないあたたかな心の持ち主で、かけがえのない一人ひとりの歩みに寄り添い、支えようとする存在です。この「私」の根源的な飢え渇きに応えてくれる究極の存在は、「神」ということになります。神に結ばれ、包まれるとき、飢え渇きは満たされ、生きて行くことの意味を見いだすことができるでしょう。
パウロは次のようにキリストに支えられて生きる喜びを証言しています。
「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。飢えか。裸か。危険か。剣か。・・・わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマの信徒への手紙8章35節から39節)
(2016年10月15日 真生会館にて、文責・田中典子)
(写真は上智大学ソフィア会提供)
2年前、やはりこの会議場で、「教皇フランシスコ」でとう変わるのか、という大きなテーマでお話をさせてもらいました。
突然、引退したベネディクト16世の後任に、教皇フランシスコが電撃的に選ばれた直後でした。なぜバチカンとはあまり縁のない方が選ばれたのか。時代が大きく変化して、カトリック教会、とくにバチカンの改革が求められていたからでした。
教皇就任から3年たって、まず驚くのは、毎日曜日、教皇がなさるアンジェラスの祈りにサンピエトロ広場で集まる人々の数が、教皇就任時とかわらない、ということです。バチカンの大聖堂前のこの広場は、立ったままなら5万人は収容できるという広さですが、それが今でも、世界中からやってきた人々で一杯になるのです。教皇の個人的な人気が今も続いているのです。
このように熱狂的な人気が長く持続するリーダーは、世界広しといえども、他にはいないのではないでしょうか。
先ほど申し上げましたが、カトリック教会は大きく変わってきています。私が上智大学で学んだ三十数年前は、「欧米の教会」「欧米のカトリック大学」だったのですが、今は違う。世界のカトリック教会の信徒の45パーセントが中南米の信徒で占められるようになっている。先日、仕事で中南米を回ったのですが、教会、信徒の勢いが違うのです。若くて、元気がいい。小教区が中心になっており、聖職者に頼らず、信徒が教会を引っ張っている。
ヨゼフ・ピタウ先生が学長をされた教皇庁立グレゴリアン大学は、1551年にイエズス会の創立者イグナチオ・ロヨラ によって司祭養成のために設立された歴史のある大学です。ついこの間までは欧米の学生が大半を占めていましたが、今は2600人の学生中、イタリア人の割合は4分の1です。
(写真は「ピタウ先生を語る会」提供)
20年前、1992年に学長になられたピタウ先生は、これからの教会は信徒の時代、聖職者が動かすヨーロッパのやり方では対応できない、とお考えになり、受け入れる学生を国際性豊かなものになるよう腐心されたのです。その結果、アジア、アフリカ、中南米の学生が大きく増えている。東欧も含めて、貧しい国々からの学生が多く、欧米など豊かな国では神学を学びたい、司祭・修道者になりたい、という若者が減っているのを実感しています。
ローマで長く暮らしてきて、世界各国を回り、たまに日本に帰ってくると、「テロもなく、安全で、何て平和ないい国だ」と痛感しますが、このような環境の中でぬくぬくとしていると、司祭職に一生を賭けようとする若者が出るのは難しそうです。貧しい国、困窮している国に出かけていく、それが無理なら何らかの形で、そういう国の人々とつながり、現実を体験していく努力が必要だ、とつくづく思います。
教皇フランシスコの人気持続のもとになっている新しさは、貧しい人たちの教会、平和のために働く教会、弱い人たちに寄り添う教会に変えていかなければならない、という強い使命感にある。そして、社会の底辺まで届くメッセージを発し続けている。それが、世界の若者の心をつかんでいるのです。
その具体的な現れが環境教書であり、貧しい人たちに開かれた教会、平和のために働く教会とするための教会改革、バチカン改革なのです。時代のしるし、変化を敏感に識別し、それをもとにタイムリーに、柔軟かつ大胆に行動に移している。
時のしるしを的確につかむ分析力、柔軟かつ大胆さは、ピタウ先生の特質でもありました。半世紀前の世界的な大学紛争の波に上智大学も襲われた時、理事長を努められていた先生は、全共闘学生の暴力をあくまで否定する原則を堅持する一方で、多くの学生たちに対して、柔軟かつ対話する姿勢を貫き、紛争を収拾するのに大きく貢献されました。
グレゴリアン大学学長、その後の教皇庁教育次官としてカトリック教会のとくに教育分野で大きな貢献をされましたが、2014年12月にお亡くなりになった時、イタリアの多くの新聞が彼の死を伝えた。彼は日本を離れたあと、24年間ローマにいたのですが、日本での活躍が主として取り上げられ、「ピタウ師は日本に派遣された、本当の宣教師だった」と称えました。
ピタウ先生は、その笑顔と気さくさで、ローマでも人気がありました。ですから、学長、さらに教育次官・大司教になっても、皆が「パードレ・ピタウ(ピタウ神父さん)」という呼び方を続けたのです。私が、法学部を卒業して翌日にイエズス会に入ったのですが、「こういう神父になりたい。だからイエズス会に入りたい」と思ったのは、当時学長だったピタウ先生と接することができたからでした。
現在の世界は「リーダー不在の世界」と言われます。多くの国のカトリック教会、日本の教会も例外ではない、との声も聞かれます。ピタウ先生には、教会のリーダーとして求められる信仰と制度の両立を教育の現場で貫く力がありました。
別の言い方をすれば、リーダーに必要なのは、まずコミュニケーション能力。語学力と言ってもいいでしょう。そして、伝える中身を持ち、相手の心に響くもの、残るものがなければならない。だぶりますが、相手に伝えたい、という強い思いが必要です。この三つの能力を、ピタウ先生はフルに発揮されました。先生がお亡くなりになったとき、教皇フランシスコが弔電を送られ、先生を「神に対する模範的な奉仕者」と讃えられました。
多くの聖職者が、そのような存在になるよう求められているし、私自身も一歩でも近づくように日々努めなければならない、と心を引き締める毎日です。
(2016.8.30 上智大学2号館・国際会議場で。ピタウ先生を語る会・上智新聞インテル会共催)(文責・南條)
〈キリ ストは、私たちの罪を贖うために来られたのか-「初めに人ありき・・愛ありき」では〉
・初めに、「キリストは私たちの罪を贖うために来られたのか。”罪“という枠組みだけでは説明しきれないのではないか」「キリストの十字架の道行-ユダの裏切りに始まって、十字架上に死に至る-には”罪の贖い“よりも、もっと豊かなメッセージが込められているのではないか」という二つの問いを投げかけたいと思います。
・それは、「初めに神ありき」ではなく、「初めに人ありき・・愛ありき」・・人間の絶対的な尊さ、かけがえのなさ・・「小さな者のひとりでも、滅びることは、天の父のみ心ではない」(マタイ18・14)ではありませんか。ひとりひとりの人間のかけがえのなさを訴えた宗教家はキリストのほか、誰もいないのです。
〈人類の歴史を振り返る〉
・ひとりひとりの人間のかけがえのなさ、尊厳を初めて人の意識の上に載せたのは、18世紀のフランス革命でした 。しかし、「自由・平等・友愛」は第二次大戦前、ナチ台頭の中で「友愛」が「祖国」に変わり、戦後また「友愛」にもどるなど、時代とともに揺れ動き、しかも、普遍性を欠いていました。言語、文化、歴史、風習、民族などの枠の中にとどまり、国家利益を優先する「国家主義」が誕生し、アジア、アフリカを侵略・支配する「植民地主義」、第一次大戦を招来してしまった。それが第二次大戦後のアジア、中近東、アフリカでの独立戦争、内戦、民族紛争に繋がっているのです。
・第二次大戦後、植民地主義、二度に渡る大戦がもたらした悲劇への反省から、国際連合が出来、「世界人権宣言」 が発せられました。人間の尊厳、かけがえのなさに普遍性をもたらそうとするものでした。「人種、言語、宗教、政治上の意見などによるあらゆる差別を廃し、人権を確立することが恒久平和につながる」という信念からまとめられたのですが、これは、キリストの心を現代において文章化したものとも言えるでしょう。そうした流れの中で、そうした時代を背景にして、日本国憲法も生まれたのでした。
・しかし、その後の世界の現実を見ると、地域紛争、内戦、テロで多くの犠牲者が出、難民の発生が跡を絶たず、多くの人々が飢え続け、前途を悲観するなどして自殺する人が高水準を続けるなど、人間の尊厳が踏みにじられ続けています。
〈悲惨な状態が続くのは・・〉
・このような悲惨な状態が続いている原因として、「近代国家に潜む凶暴性-“初めに国ありき”の発想」「資本主義システムに潜む猛毒-“初めに金ありき”の発想」が考えられるでしょう。
・「近代国家に潜む凶暴性-“初めに国ありき”の発想」 は、基本的人権に軸を置いたはずの欧米型民主主義にも、民族のアイデンティティに軸足を置いたアジア型国家主義などにもみられます。前者では国民多数から選ばれた国家運営が少数者の排除、対外侵略があり、後者では個人の権利の抑制、排外的な行動があります。
・「資本主義システムに潜む猛毒-“初めに金ありき”の発想」 は、資本家、経営者の利潤追求、労働の商品化が進み、弱肉強食の競争の論理が幅を利かし、人間疎外、偏差値教育に代表される学校教育の歪み、家庭の空洞化、地域共同体の消滅、精神を病む人の増加、環境汚染につながっています。それが現代の私たちの世界の姿なのです。
〈聖書が投げかけるメッセージ〉
・そのような世界に生きる私たちに、キリストの十字架の道行が訴えかけるメッセージとして、マタイ福音書からは「ひとりひとりの人間の尊さを訴え、欲望にまみれたこの世界に愛を吹き込むキリスト」 、ルカ福音書からは「もろく、弱く、支えを見出すことができない人間を、絶対に見捨てないキリスト」の姿 が浮かび上がってきます。
・マタイ福音書 は、キリストの優しさには、まったく関心がなく、この世界の残酷さを強調しています。
ユダは、キリストを祭司長たちに引渡しの相談に行き、「いくらくれますか」と言って銀貨30枚を約束させ、大祭司の手下が耳を切り落とされた時にキリストは「剣を取る者は皆、剣で滅びる」と断罪し、ペトロが繰り返しキリストを否定することで人間の自己保身の醜さを際立たせ、自殺したユダから祭司長たちが銀貨を取り戻すことで、彼らの腹黒さを印象づけ、「この人の血について、私には責任がない」とのピラトの言葉に群衆は「その血の責任は我々と子孫にある」と叫び、総督の兵士たちはキリストの着ているものを剥ぎ取り・・茨の冠をかぶせ・・侮辱し、一緒に十字架につけられた強盗たちは彼をののしり、最後に「なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫んでキリストは絶命する・・。
このようにして、キリストが向き合った世界の現実―体制・伝統を固持しようとする権力者、自己保身に走る弟子、信念に欠ける政治家、扇動され理性を失った群衆、囚人をなぶりものにする残虐な兵士たち、十字架上のキリストを嘲笑する人々―を描き、キリストの孤独を浮かび上がらせています。絶対孤独の中で息を引き取ったキリスト。その直後の百人隊長の「本当にこの人は神の子だった」という証言。
あらゆるこの世の残酷さを一身に受けながら、孤独の中で愛を貫くキリスト(「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい・・」)、愛を冷やさないキリスト(「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」) がメッセージとなっているのです。
・ルカ福音書 では、キリストは、自分を裏切るユダをとがめず(「あなたは立ち直ったら、兄弟たちをちからづけてやりなさい」)、大祭司たちの手下の切り落とされた耳の傷をいやし、自分に付き従った婦人たちを思いやり(「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな」)、処刑者たちのために「父よ、彼らをお赦しください・・」と願い、十字架にかけられた犯罪人に「あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる」と語り、最後に「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」と息を引き取ります。
こうしたことから見えてくるのは、「罪のあがない」ではなく、「人の罪深さ、過ちを、包み込む」キリスト、人間の営みに対する底知れない優しさ、理解。過ちや弱さをとがめず、「心配するな」と。そして、神は人を裁かない、突き放すことはない。弱さを理解し、生きる希望、喜びを与えるキリスト。
人間ひとりひとりは、公共善よりも、社会の秩序よりも、宗教的な定めよりも人と人の血のつなが
りよりも、尊い存在だ②小さな者のひとりでも滅びることは、天の父のみ心ではない、というのが神の心だ③人間一人ひとりの自由、主体性を尊重し、力(武力)による問題解決を拒否する④人間の弱さ、罪深さを、脆さを理解し、責めず、包み込みながら、寄り添い、待つ。それがメッセージなのです。
・このように、マタイ、ルカ両福音書のある意味で対極的とも言える表現を通して、現代社会を生きる私たちは、キリストの十字架の道行に込められた豊かなメッセージを受け取れるのではないでしょうか。(2016.7.10 真生会館主催 四谷ニコラ・バレにて) (文責・南條)
・日本では「家族の重要性」が高まっている。統計数理研究所の調査によれば、「あなたにとって一番大切と思うものは何か」の問いに「家族」と答えた比率は、1958年に15%弱だったのが、2013年には50%近くに達している。その一方で、家族を形成する困難もまた高まっている。教皇ヨハネ・パウロ二世はFamiliarisConsortioで、今日の世界の家族には「否定的な面」があると述べたが、日本も例外ではない。
・こうした中で、若者の家族形成は困難さを増している。結婚しない若者が増え、若い夫婦のもつ子供の数が減っている。国勢調査によれば、25歳から29歳の男性の未婚率は1950年に34.3%だったのが、1970年に46.5%、2010年には71.8%まで高まっている。30歳から34歳も、8.0%、11.7%、47.3%と、三十代半ばになっても男性の半分が未婚。女性は少し低いが、三十代なかばで未婚率は34.3%といずれも急激に上昇している。また、20歳から34歳までの未婚男性が親と同居する比率は1980年に32.9%だったが、2010年には49.4%と半分にまで増えている。
・少子化も急激に進展しており、日本の合計特殊出生率は1947年に5%近くだったのが、1977年の2.14%以後、人口を現在の水準に維持できるギリギリの2%を割り込み、2012年に1.46%まで落ちている。国立社会保障・人口問題研究所の調査では、夫婦がもうける子供の数は、最近三十年ほどは2人台をなんと開示してきたものの、2010年には1.96人と2人を割り込んだ。本当はもっと子供をもうけたいが、できない理由として、「子育てや教育にお金がかかりすぎる」の回答が62.1%と圧倒的だ。低収入の男性に未婚率が高い、という結果が、就業構造基本調査から出ているのもこれと関連がある。
・若者だけではない。中高年者の家族形成の困難さも増している。50歳を超えても未婚の割合は男性で1970年の1.7%から2010年に20.2%に急騰。女性も3.3%から10.7%に大きく増えている。中高年男女の一人暮らしの割合も急激に高まっており、国勢調査によれば、男性の50歳から54歳が1980年に3.9%だったのが2010年には15.2%、75歳から79歳が4.8%から10.3%に増え、女性は50歳から54歳が6.2%が7.9%と緩い伸びだが、60代後半から顕著な伸びを示し、75歳から79歳では10.7%から24.3%と30年で倍以上に増えている。また離婚後再婚しない中高年男女の割合も1990年以降、急激に上昇しており、50代の男性の6.3%、女性の9.2%にのぼる。
・こうしたこともあって、ひとり暮らしの高齢者も大幅に増えており、国勢調査では、65歳以上の単独世帯の比率は1980年に10.7%だったのが2010年には24.2%と2倍以上。彼らの社会的孤立も顕著で、内閣府の2011年調査による「困ったときに頼れる人がいない」割合は、20%に達する。また国民生活基礎調査によると、未婚の子供と同居している高齢者の割合は、1980年の16.5%から2013年に25.1%まで増えていることも最近の特徴だ。
・このように、現在の日本では、「家族を形成すること」は当たり前でなくなっている。家族への期待は大きいにもかかわらず、このような事態になっている要因に、社会経済的な環境変化があり、人口の減少や未婚率の上昇、ひとり暮らし高齢者の増加など、否定的な結果をもたらしている。こうした状況を改善していくためには、家族形成・維持のための政策支援、地域社会などさまざまなコミュニティによる支援、新しい連携の構築が必要だし、それ以前に弱体化が進むコミュニティの再構築が求められる。(2016.7.1 上智大学主催シンポジウム「家族の未来を考える」より(文責・南條)
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