「聖書が現代世界に投げかけるメッセージは」森一弘司教

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〈キリストは、私たちの罪を贖うために来られたのか-「初めに人ありき・・愛ありき」では〉

・初めに、「キリストは私たちの罪を贖うために来られたのか。”罪“という枠組みだけでは説明しきれないのではないか」「キリストの十字架の道行-ユダの裏切りに始まって、十字架上に死に至る-には”罪の贖い“よりも、もっと豊かなメッセージが込められているのではないか」という二つの問いを投げかけたいと思います。

・それは、「初めに神ありき」ではなく、「初めに人ありき・・愛ありき」・・人間の絶対的な尊さ、かけがえのなさ・・「小さな者のひとりでも、滅びることは、天の父のみ心ではない」(マタイ18・14)ではありませんか。ひとりひとりの人間のかけがえのなさを訴えた宗教家はキリストのほか、誰もいないのです。

〈人類の歴史を振り返る〉

・ひとりひとりの人間のかけがえのなさ、尊厳を初めて人の意識の上に載せたのは、18世紀のフランス革命でした。しかし、「自由・平等・友愛」は第二次大戦前、ナチ台頭の中で「友愛」が「祖国」に変わり、戦後また「友愛」にもどるなど、時代とともに揺れ動き、しかも、普遍性を欠いていました。言語、文化、歴史、風習、民族などの枠の中にとどまり、国家利益を優先する「国家主義」が誕生し、アジア、アフリカを侵略・支配する「植民地主義」、第一次大戦を招来してしまった。それが第二次大戦後のアジア、中近東、アフリカでの独立戦争、内戦、民族紛争に繋がっているのです。

・第二次大戦後、植民地主義、二度に渡る大戦がもたらした悲劇への反省から、国際連合が出来、「世界人権宣言」が発せられました。人間の尊厳、かけがえのなさに普遍性をもたらそうとするものでした。「人種、言語、宗教、政治上の意見などによるあらゆる差別を廃し、人権を確立することが恒久平和につながる」という信念からまとめられたのですが、これは、キリストの心を現代において文章化したものとも言えるでしょう。そうした流れの中で、そうした時代を背景にして、日本国憲法も生まれたのでした。

・しかし、その後の世界の現実を見ると、地域紛争、内戦、テロで多くの犠牲者が出、難民の発生が跡を絶たず、多くの人々が飢え続け、前途を悲観するなどして自殺する人が高水準を続けるなど、人間の尊厳が踏みにじられ続けています。

〈悲惨な状態が続くのは・・〉

・このような悲惨な状態が続いている原因として、「近代国家に潜む凶暴性-“初めに国ありき”の発想」「資本主義システムに潜む猛毒-“初めに金ありき”の発想」が考えられるでしょう。

「近代国家に潜む凶暴性-“初めに国ありき”の発想」は、基本的人権に軸を置いたはずの欧米型民主主義にも、民族のアイデンティティに軸足を置いたアジア型国家主義などにもみられます。前者では国民多数から選ばれた国家運営が少数者の排除、対外侵略があり、後者では個人の権利の抑制、排外的な行動があります。

「資本主義システムに潜む猛毒-“初めに金ありき”の発想」は、資本家、経営者の利潤追求、労働の商品化が進み、弱肉強食の競争の論理が幅を利かし、人間疎外、偏差値教育に代表される学校教育の歪み、家庭の空洞化、地域共同体の消滅、精神を病む人の増加、環境汚染につながっています。それが現代の私たちの世界の姿なのです。

〈聖書が投げかけるメッセージ〉

・そのような世界に生きる私たちに、キリストの十字架の道行が訴えかけるメッセージとして、マタイ福音書からは「ひとりひとりの人間の尊さを訴え、欲望にまみれたこの世界に愛を吹き込むキリスト」ルカ福音書からは「もろく、弱く、支えを見出すことができない人間を、絶対に見捨てないキリスト」の姿が浮かび上がってきます。

マタイ福音書は、キリストの優しさには、まったく関心がなく、この世界の残酷さを強調しています。

ユダは、キリストを祭司長たちに引渡しの相談に行き、「いくらくれますか」と言って銀貨30枚を約束させ、大祭司の手下が耳を切り落とされた時にキリストは「剣を取る者は皆、剣で滅びる」と断罪し、ペトロが繰り返しキリストを否定することで人間の自己保身の醜さを際立たせ、自殺したユダから祭司長たちが銀貨を取り戻すことで、彼らの腹黒さを印象づけ、「この人の血について、私には責任がない」とのピラトの言葉に群衆は「その血の責任は我々と子孫にある」と叫び、総督の兵士たちはキリストの着ているものを剥ぎ取り・・茨の冠をかぶせ・・侮辱し、一緒に十字架につけられた強盗たちは彼をののしり、最後に「なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫んでキリストは絶命する・・。

このようにして、キリストが向き合った世界の現実―体制・伝統を固持しようとする権力者、自己保身に走る弟子、信念に欠ける政治家、扇動され理性を失った群衆、囚人をなぶりものにする残虐な兵士たち、十字架上のキリストを嘲笑する人々―を描き、キリストの孤独を浮かび上がらせています。絶対孤独の中で息を引き取ったキリスト。その直後の百人隊長の「本当にこの人は神の子だった」という証言。

あらゆるこの世の残酷さを一身に受けながら、孤独の中で愛を貫くキリスト(「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい・・」)、愛を冷やさないキリスト(「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」)がメッセージとなっているのです。

ルカ福音書では、キリストは、自分を裏切るユダをとがめず(「あなたは立ち直ったら、兄弟たちをちからづけてやりなさい」)、大祭司たちの手下の切り落とされた耳の傷をいやし、自分に付き従った婦人たちを思いやり(「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな」)、処刑者たちのために「父よ、彼らをお赦しください・・」と願い、十字架にかけられた犯罪人に「あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる」と語り、最後に「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」と息を引き取ります。

こうしたことから見えてくるのは、「罪のあがない」ではなく、「人の罪深さ、過ちを、包み込む」キリスト、人間の営みに対する底知れない優しさ、理解。過ちや弱さをとがめず、「心配するな」と。そして、神は人を裁かない、突き放すことはない。弱さを理解し、生きる希望、喜びを与えるキリスト。

  • 人間ひとりひとりは、公共善よりも、社会の秩序よりも、宗教的な定めよりも人と人の血のつなが

りよりも、尊い存在だ②小さな者のひとりでも滅びることは、天の父のみ心ではない、というのが神の心だ③人間一人ひとりの自由、主体性を尊重し、力(武力)による問題解決を拒否する④人間の弱さ、罪深さを、脆さを理解し、責めず、包み込みながら、寄り添い、待つ。それがメッセージなのです。

・このように、マタイ、ルカ両福音書のある意味で対極的とも言える表現を通して、現代社会を生きる私たちは、キリストの十字架の道行に込められた豊かなメッセージを受け取れるのではないでしょうか。(2016.7.10 真生会館主催 四谷ニコラ・バレにて) (文責・南條)

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2016年8月31日