・「宗教改革500年にあたって-ルターの信仰義認論- 」棟居 洋氏

1 ルターの信仰義認論とは

   「人は信仰によってのみ神から義(正しい)と認められる」、言い換えると「神の前で罪人である人間が義と認められるのは、信仰のみによる、行いによるのではない」という教理。これは換言すれば、人間は誰も神の前で罪人であり、その罪責を償わなければならないが、それができないので、罪がないキリストが罪人である人間に代わって十字架に架かられ、罪を贖って(apolýō)くださったという、その事実を受け入れる信仰によって神との間に正しい関係が結ばれるという教理である。

 これをルターは、「教会が立ちもし倒れもする(教理上の)条項」と言った。この教理上の理解は、実はすでにパウロにおいて確立していた。ローマの信徒への手紙第3章20~22節「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じるすべての者に与えられる神の義です(前田護郎訳『新約聖書』では、ギリシア語原文dia pisteōs Iēsou Chritou eis pantas に忠実に「すなわち、イエス・キリストのまことによる神の義で、信ずる者すべてのためのものです」と訳されている-棟居注)」とある通りである。したがってルターがこの認識に達したことを「福音の再発見」とも表現される。

2 この認識に至った経緯

 修道士としてのルターの生き方は、当時の神学の潮流の一つ、ガブリエル・ビールの唯名論の影響を強く受けていた。13世紀以来の神学の主流であったトマス主義の実在論では、「普遍」を問題とし、その「存在と本質」を問うたのに対し、ビールの唯名論では、「個体」を問題とし、その「意志と能力」を問うというように捉えられた。

 すなわち、実在論は人間を問題とする場合、個々の個体については何も問わない。人間総体について「そもそも人間とは?」という問い方をし、その存在と本質は何かを問う。これに対して唯名論は、人間総体などは単に「名ばかり(唯名)」で実在せず、実在するのは個々の個体であるとし、そのうえで、個体を捉えるために、その意志 と能力とは何かと問うのである。

 この唯名論は、救われるためには、神の前に立つ個体が、意志と能力の限りを 尽くして善い行いに努め、義なる神に受け入れられるレベルにまで到達すべきであるという救済論にもつながった。この唯名論の影響を受け、ルターは修道士に求められる「完徳」に至るためのお勤めに模範生的に励んだ。しかし励めば励むほど、そういう努力に対する懐疑心に悩まされ、深い心の葛藤に追い込まれていった。

 そのルターに転機が訪れた。ヴィッテンベルク大学聖書教授として行った第1回詩編講義(1513年冬学期~1514年冬学期)、それに続くローマ書講義(1515年夏と冬学期)の準備中、修道院の自室におけるいわゆる「塔の体験」によって信仰義認論という新しい認識を持つに至った。それまでのルターは、神の義とは、罪人を裁く義(能動的義justitia activa)であると思っていた。

 ところが「塔の体験」においてルターが改めて気づいたことは、神の義は罪びとに贈り物として与えられる義(受動的義justitia passiva)だということである。この義は、人間の外からextra nos 来る。詩編第31編2節の「主よ、御もとに身を寄せます。とこしえに恥に落とすことなく、あなたの義によって私を解放してください(in justitia tua libera me [『新共同訳聖書』では、「恵の御業によってわたしを助けてください」と訳されている-棟居注])」という言葉、さらに第71編1~2節にも繰り返し出てくるこの言葉、さらに特にローマ書第1章16~17節の「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです」という言葉の意味を問いつつ黙想している間に今言った認識に到達した。

 ちなみに、ここで言われる「信仰」とは、ギリシア語でpistisといい、人が予め持っている信仰(「鰯の頭も信心から」の信心)ではなく、神の信仰=神の真実(それは聖書に啓示されている)のことである。したがって、聖書の言葉が語られる時、それを聞く者のうちに信仰が起こされるのである。ローマの信徒への手紙第10章17節に「実に、信仰は 聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」とある通りである。

 その時、大切なことはみ言葉が語られる時、聞く者のなかに聖霊が働き、あたかもこだまのようにみ言葉に対する応答(共鳴)として信仰が生ずる、あるいはキリストとの出会いが起こるということである。ルターも「聖霊はみ言葉とともに働く」と言っているのは、み言葉と聖霊と信仰の緊密な関りを説いているのである。ルードルフ・ボーレンというドイツの神学者は、こうした事情を「聖霊による神律的相互作用」と呼んでいる。

 

3 信仰義認論vs.行為義認論

   当時のローマ・カトリック教会の贖宥制度は、行為義認論の上に成り立っていた。つまり善い行い(悔い改め、徹夜の祈り、断食、施し、巡礼、十字軍への参加等)により罪の償いを果たす、言い換えれば、義と認められるとされていた。

 ルターによる「宗教改革」の直接のきっかけになった具体例を示せば、1515年教皇レオ10世がサンピエトロ大聖堂の改築の資金を得るため、マインツ大司教アルブレヒト・フォン・ブランデンブルクに彼の領内における贖宥状販売を許可した。これは、贖宥状を買えば、それは善い行いをしたと同然で、自らの救いも確保できるし、すでに死んで煉獄で苦しんでいる者の魂も、即座に天国に行くことができるという触れ込みで販売されたので、そうであるとすれば、救いにはキリストの十字架による贖罪が必ずしも必要なくなることになる。つまり人間は自力(金)で罪の償いを果たすことができ、キリスト抜きで救いを獲得できることになる。これに対して、すでに信仰義認の認識に達していたルターが疑問を抱いたのは当然のことである。彼は、1517年10月31日付でマインツの大司教アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク宛に手紙を出して、それに添付する形で95箇条の論題(表題:贖宥の効力を明らかにするための討論)を提示したところから「宗教改革」が始まった。

 

補足説明:行為義認論の説く「義」は、歴史を遡ればアリストテレスの正義論における正義、つまり「分配的正義」「応報的正義」である。その原則は「各自に相応しいものを帰せよ」ということ、つまり正しい人間には報償を与え、不正な人間には罰を与えるということである。それは、キリストの十字架による贖罪を信じる信仰義認の捉え方とまったく違う捉え方であった。なぜなら、キリストの十字架による贖罪という捉え方は「罪人(正しくない者)に一方的に(無条件に)義をプレゼントすること」、人間の側には義とされる根拠はまったくなく、神からいただく外ない、つまり「恵みによる義認」以外にないということを意味しているからである。

4 ルターの信仰義認論の現代における意義

1) 現代的表現で言うと、罪とはどういう事態か

 聖書で言う罪とは、本来「的外れ」という意味。神を侮り、背を向けること。罪は「~に対して罪を犯す」と表現されるように、いつも誰かに対する罪として、関係性の中で捉えられている。ルターは罪のことを「自分自身へのねじ曲がりincurvatus in se ipsum」と表現した。これは、人間は本来神と世界に対して開かれた関係を持つ存在であるのに、そこから逸脱した人間の非本来的なあり方を示す、優れた表現である。言い換えると、人間の自己中心性、あるいはエゴイズムを意味する表現であるとも言える。

 人間は、本来神の似姿に創造された、神に向い合い神に対して開かれた存在、神に問われ答える、逆に神に問い神の答えを受ける人格的な関係を持つ存在であるにもかかわらず、やがて自分の自由意志によって神の御心に背き、神から身を隠し、神に対して自らを閉ざす者となった。この人間が抱える根源的な矛盾、これは、本来の自分とは違う自分になるという意味でアイデンティティの喪失、あるいは自己疎外とも言えるが、そうした事態を罪と言うことができる。

 ついでに言えば、アイデンティティの喪失、あるいは自己疎外に陥った者は、自分を愛することができない。そうなると、まして他者を愛することもできなくなる。したがって罪とは、愛の喪失という事態に陥ることでもある。

2) 現代的表現で言うと、義認とはどういう事態か

   義認とはどういう事態かを明らかにするために、現代の日常用語の中から「愛」「承認ないし評価」「赦し」「自由」という4つの表現をもって言い換え説くことができるが、ここでは、「承認ないし評価」という表現から、説明に取り組みたい。

 人間は、上述したように、他者との関係の中で生きていて、つねに自分の存在、また正しさを認めてもらうことを求めている。したがって他者から認められないと生きていけない(少なくとも生き生きと生きられない)。ある高名な評論家が彼をたえず支えていた妻の死後、間もなく自殺したことは、一つの例である。

 他者の最高のもの、つまり絶対他者は神である。一人の人間が周りの誰にも認められず、自分の居場所を見失って孤独の中にあっても、その絶対他者である神によって正しいと認められ、保証され、その祝福の中で生かされていることを知るとき、その人間は、どんな場所でも自分の居場所になり、なお生きることができる。誰にも認められないように思える時でも、神によって正しいと認められているならば、これほど確かなことはないはずだからである。

 このように、自分の存在、人格、生の最終的保証を与えられることが、義認ということである。その義認がキリストの十字架の出来事によって起こったというのが、聖書が言う福音である。

   『リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーのことば』(ライナー・アンゼン編 加藤常昭訳 日本基督教団出版局刊 1996年) の一節「人間は、取り替えることのできない、ただ一度の人生を生きる、しかも、親しく神から呼び招かれている者である。そのことが、人間を人格ある者(神と向き合った者=神の前に居場所を持つ者-棟居注)とする。その尊厳は犯しがたい(なぜならキリストが自らの命を投げ出して保証したものであるから-棟居注)。その尊厳は、その人生の成功・不成功によらず、他人の評価によっても左右されることなく、その人に備わって(与えられて-棟居注)いるものである。」これも人格の尊厳が神によって保証されていることを語っている言葉である。

3) 現代は業績(成果)至上主義、効率第一主義の時代である

   現代社会は、業績至上主義、効率第一主義の競争社会である。ここにテクノロジーの問題も絡む。テクノロジーが生み出す様々なメカやツールを駆使して何事にも短時間で業績を上げないと認められない社会であるから、業績を上げるための激しい競争が生じている。これはまさに行為義認の原則が支配する時代である。

 現代では、効率的に業績を上げ認められた成功者は、評判も上がり社会的地位も上昇していって「勝ち組」として称賛される。他方、なかなか業績を上げられず、認められない失敗者は、無視され、社会的地位が上がらない(相対的に下がる)「負け組」と侮られる。したがって負け組にならないため、誰もが業績を上げるために頑張る。その結果、抑圧的な力が社会全体に働く。労働者は雇用者から限界を超えた労働を強いられ、労働は苦役となる(創世記3・17)。過労死の問題に現れているように、業績優先で人間の命も粗末にされる。他方、健常者に比べ業績を上げにくい障碍者に対する偏見・差別が助長され、社会的格差も、増大する。

 また、多くの負け組に属する者、社会的弱者が自分の価値を見失い、生きる意味を見失い、先行きの希望を見失う。精神的に障害を抱える者も多くなる。

   もちろん、業績(成果)を上げること自体は悪ではない。ただその成果は何のための成果かということと、その成果を自分の利益だけにではなく社会、特に社会から疎外された人々の利益に還元するかどうかが問題なのである。これは、栄光の教育理念でもある、Man for  others , with others に通ずる。

 この根拠は、まさにすべての人の人格の基礎には、キリストの十字架の出来事による神の義認があるからである。極言すれば、あのヒトラーのためにもキリストは十字架に架かられた。言い換えると、キリストの十字架ゆえにすべての人間は神の愛の中に入れられている。

 この信仰義認の原点に立てば、異質な者同士の共生・連帯への道も開かれる。なぜなら、すべての人間はキリストの十字架ゆえに神の愛の中に入れられているならば、人間的にどんな違いがあっても共生・連帯が可能であるはずだからである。また、争い合っている敵同士も、争いを止め、平和に向けた対話の席につくことが可能なはずだからである。

 ただ現実には、そのような信仰義認の原点に立った人間理解を受け入れるか受け入れないかの違いが残されているにすぎない。ここにキリスト者-カトリック、プロテスタントの違いを問わず-の宣教の使命が示されている。

                 棟居 洋(栄光カトリックOB会会員)(2017520  カトリック大船教会にて)

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2017年5月21日