危機に曝されている「いのち」についての考察・森一弘司教  

真生会館・連続講座「現代社会におけるいのち価値・蝕まれるいのち、輝くいのち」基調講演

今、私たちのいのちは危険に曝されています。国や民族間の対立、紛争に伴う武力衝突、経済発展による地球地温暖化などの環境破壊、予期せぬ通り魔や交通事故、社会の片隅に追いやられている貧困者、障害者、高齢者、そして、管理・競争社会となっている職場や学校の現実を見ると、人々はストレスやプレッシャーで精神的にも身体的にも追い詰められ、もがき、怒り、苦しんでいます。いのちに鈍感なこのような社会のシステムの中で、どのように現実に向き合い、対応していったらよいのでしょうか。

Ⅰ.「いのち」には「設計者」がいる

「息をしている、息を引き取る」に見られるように「息」が「いのち」を与える原動力となっています。古代の人々は、「いのち」は、人間を越えた大いなる存在の「息」によって与えられるもの、という直観と素朴な畏敬の念を持っていたようです。しかし、合理的、実証的に物事を考える現代では、そのような「いのち」への畏敬の念が失われてしまいました。

「生きているもの」の本質的な特長は、成長し、増殖し、「オンリーワンの存在」だということです。人間には60兆個の細胞があります。各細胞の核の中にある「DNA」を伸ばすと、全部で1200億キロメートルの長さになるそうですが、その「DNA」にはきちんと配列された遺伝子情報が刻まれています。

進化論は150年前の遺伝子学がまだ知られていない時代のものですが、遺伝子の複雑さ、精密さがわかるようになった現代では「偶然では説明できない」「何らかの知性が働いていなければ、理屈に合わない」「設計者がいるに違いない」と、進化論に否定的な流れが生物学者の間に生まれています。キリスト教的観点に立つと、それは「神」であり、いのちは「神からの賜物」ということになります。

Ⅱ.「いのち」を脅かすもの

「生きているもの」は、能力の有無、健康状態、性別、出自、国籍、民族などに無関係にオンリーワンの存在で、絶対的な尊厳としての価値がありますが、それにもかかわらず、「いのち」はさまざまな要因から脅かされています。

・エゴイズムは、自分の欲望の実現を最優先します。その結果、強盗、親殺し、子殺しなどの悲惨な事件が起こりました。人間にとって最も危険な存在が人間ともいえます。

・利害が対立する国家・民族間では、互いに傷つけ殺めても裁かれず、正当化されます。そこには「初めに国ありき、民族ありき」という価値観が根底にあります。武力衝突、空爆、テロは、日常生活を破壊し、いのちを奪い、多くの難民を生みました。国家や民族が最強の加害者です。

・「初めに経済、利益、物質的豊かさありき」の資本主義のシステムの論理は、人間を企業という組織に役立つ存在かどうかで判断します。プレッシャーとストレスで心が窒息しそうな状況に追い込まれ、くたくたになった多くのサラリーマンは、帰宅しても家族と向き合う心の余裕がなく、人間関係が希薄になり、徐々に孤独に蝕まれるようになります。資本主義の論理は、豊かな生活をもたらしましたが、人間として生きることの真の豊かさや喜びを奪うようになりました。

・宗教団体は、それぞれが掲げる教義によって、人を差別し断罪を許す論理があります。カトリック教会も例外ではなく、教義に反する人を裁き、断罪する冷たさがあります。「教会は、道徳に関する教義を気に病むべきではなく、傷を負った人々に気を配る野戦病院のようでなければならない」、「同性愛の人には、教会は赦しを乞わねばならない」という教皇フランシスコの言葉の根底には、「人間の尊さは教義の枠を越えるものだ」との確信があります。

Ⅲ.受け皿によって生じるいのちの危機

聖書に「地面に落ちた種」のたとえ話があります。種である「いのち」の成長もその受け皿によって大きく影響を受けます。

・道端に落ちた種:環境破壊された社会、爆撃の絶えない地域、暴力を振るう家族は、「道端」に例えられるでしょう。水俣病、福島の原発事故、チェルノブイリ原子力発電所事故による放射能汚染により自然環境が破壊されました。紛争や爆撃、テロが頻繁に起こる地域に住む人々は、「いのちの危険」と隣り合わせの日々を過ごし、移住せざるを得なくなり、難民が増加しています。また、親が暴力を振るったり、性的虐待をするなどの家庭に育った子供は、絶えず緊張し、親に怯えながら生活しなければなりません。深い心の傷と不安を抱え、遅かれ早かれ心は壊れてしまいます。信頼感を育てることができず、社会生活に適合できない子供も少なくありません。

・石だらけの所に落ちた種:親と子の生活がバラバラで、孤食を強いられる子供は、石だらけの所に落ちた種のようなものです。食卓は食べることはもちろんですが、笑顔、優しさを通して自分とは違う人間を受け入れるという気づかいや配慮を学ぶ場でもあります。栄養も偏りがちな孤食は、体調のみならず精神的にも不安定になり、キレやすい性格になりがちです。根の浅い人間関係では現実の厳しさに対応できず、逃げ腰、ネットにはまる、家に閉じこもるなど、自分だけの世界にこもりがちです。

・茨の間に落ちた種:茨は私たちの欲望、欲求に例えることができます。茨は人間としての根源的な欲求を覆い、人を窒息させます。また、事業欲、名誉心などの欲望・欲求がかなえられても、根源的な欲求が満たされない限り、不安、虚しさ、空虚感に襲われ、心の底からの幸せ感に浸ることはできません。

Ⅳ.人間としての根源的な飢え渇きに応える神

私たちは身体と心からなる存在です。オンリーワンの存在である「この私」が求める根源的な飢え渇きとは何でしょうか。具体的には、「柔らかで棘のないあたたかな心に包まれたい」「誰かにかけがいのない存在として肯定されたい」「人に尽くして、人を幸せにしたい、」などがあります。しかし、この世界の中でこれらを満たしてくれるものを探し求めるには限界があり、完全に満たされることはありません。なぜなら、裏切り、津波のように人間のみならず自然さえ常に不安定だからです。心の深いところにある孤独感は消えず、自分一人で自らを支えて行かなければならないという現実があります。

宗教は、そうした根源的な飢え渇きに応える役割を果たしてくれます。聖書は、キリストが人間の根源的な飢え渇きに応える方である、と教えています。キリストこそ、柔らかい棘のないあたたかな心の持ち主で、かけがえのない一人ひとりの歩みに寄り添い、支えようとする存在です。この「私」の根源的な飢え渇きに応えてくれる究極の存在は、「神」ということになります。神に結ばれ、包まれるとき、飢え渇きは満たされ、生きて行くことの意味を見いだすことができるでしょう。

パウロは次のようにキリストに支えられて生きる喜びを証言しています。

「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。飢えか。裸か。危険か。剣か。・・・わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマの信徒への手紙8章35節から39節)

(2016年10月15日 真生会館にて、文責・田中典子)

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2016年10月29日