・「私たちも『私の愛する子、私の心に適う者』と呼ばれるように」菊地大司教の主の洗礼の主日説教

2021年1月11日 (月) 週刊大司教第十回:主の洗礼の主日

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 主の洗礼の主日をもって、降誕祭は終了となります。1月11日の月曜からは、年間第一週の典礼となり、灰の水曜日まで続きます。(写真は聖地、ヨルダン川の洗礼所。ちなみにこのヨルダン川は国境で、すぐそこの対岸はヨルダン国内です)

 1月8日に緊急事態宣言が政府から再度発出されました。東京大司教区としての対応は、政府の発表(総理会見)の直後に公示

した通りで、その公示文書と現在の対応については、それぞれ東京大司教区のホームページに掲載してありますので、ご一読ください。なおホームページには、その時点での感染症対策についてのまとめを見ていただけるよう、上部にバナーを設けていますので、それをクリックしてご確認ください。


なお
11月に司教団としてのガイドラインを定めていますが、同ガイドラインとは異なる判断をいたしました。ガイドラインには、「これをもとに、教区・地区・小教区の地域性や状況を考慮し、適応させてください。その際、感染症によって医学的な対応が異なることもありえますので、専門家や医療関係者の意見を聞くことをお勧めします」と記されているとおり、そのときの状況や地域の事情に応じてそれぞれの教区が判断することになっています。   ぎりぎりまで政府の宣言に基づく要請内容と自治体の要請内容が把握できなかったため、いくつかのパターンを想定して対応を準備していましたが、最終的に総理の会見を受けて、文書を再度見直し公示としました。

   今回は、政府や自治体からの要請が、夜の飲食店に重点が置かれ、集会などに関しては中止などが含まれず、人数制限と感染症対策の強化となっていましたので、現時点での教会の感染症対策を改めて強化、確認することで、ミサを続ける可能性を残しました。

   ただし、公示文書にも記しましたが、現時点ではカトリック教会でクラスターが発生したり、教会活動を起源として感染が拡大したという報告は届いていませんが、信徒の方が普段の生活の中で感染されたり、また亡くなられた方がいるという報告をいただいています。少しでも不安がある場合は、無理をなさいませんように。なお主日のミサに参加する信徒の義務については、引き続き、東京大司教区のすべての方を対象に免除しています。

   以下、第十回目となる「週刊大司教」のメッセージ原稿です。

【主の洗礼の主日(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第10回 2021年1月10日】

ヨルダン川における洗礼者ヨハネによるイエスの洗礼の出来事は、「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」と言う神ご自身の言葉によって、イエスこそが聖霊の充満であり、神の御旨の実現であることを高らかに宣言しています。

使徒ヨハネは手紙の中で、「神を愛するとは、神の掟を守ることです」と記しています。すなわち、イエスがキリストであると信じるわたしたちは、神を愛する者であり、神を愛する私たちは、神の掟を守ります。神の掟を守ることは、すなわち、神が望んでいるように生きることであり、それは私個人に留まるのではなく、この世界に神の望みが実現すること、福音の教えが実現していること、つまり神の国が到来することに他なりません。

私たちは、個人的に信仰を深めて、自らの内へと籠ってしまうのではなく、神の国が実現するようにと、外に向かって「出向いていく」教会になろうとしています。

教皇フランシスコは、「福音の喜び」に、次のように記しています。

「福音の提言は神との個人的な関係だけで成り立つものではないということも、聖書を読めば明かです。また、私たちの愛の応答を、助けを必要としている人のためのささやかな個人的行為の単なる積み重ねだと理解すべきでもありません。・・・福音の提言とは、神の国、すなわち、世を治める神を愛することを示すことです。神の支配が私たちのもとに及んでいる限り、社会生活はすべての人にとって、兄弟愛、正義、平和、尊厳の場となるでしょう」(使徒的勧告「福音の喜び」180項)。

教皇は、信仰が神の支配の実現へと向かっていなければ、その信仰に基づく良い行いも、「良心の平穏を守るだけの一連の行為、いわゆる「お好みの善行」になっている可能性があります」とまで指摘されています。

私たちが実現したいのは、私たちの人間としての思いや願いではなく、神の思い、神の計画、神の支配であります。

神の計画の実現ということを考えるとき、教皇フランシスコがこの一年を、「聖ヨセフの特別年」と定められたことは興味深いことです。

教皇は、使徒的書簡「パトリス・コルデ」を発表され、2020年12月8日からの一年を特別年とされましたが、その書簡において、「イエスの養父、聖ヨセフの優しさ、従順、受容の心、創造性をもった勇気、労働者としての姿、目立たない生き方に触れ」、ヨセフこそは救い主に「奉仕する愛において完全に自己を捧げた」生き方を通じて、贖いの偉大な計画のための協力者となった指摘しています。(バチカン・ニュース)

内に籠らず、出向いていく教会となろう、と呼びかけるとき、何か偉大なことを成し遂げなくてはならないと意気込んでしまったり、または自分にはそんな才覚はない、と諦めてしまったりすることもあるでしょう。

そんな時に、教皇は、聖ヨセフの生き方に目を向けるように呼びかけます。

偉大なことではなく、神の支配の実現のために、「優しさ、従順、受容の心、創造性を持った勇気」をもって、神の望まれる社会の実現のために、言葉と行いを通じて、神の思いを具体的に示してまいりましょう。今、この状況の下にあって、どういった言葉と行いが、神の思いに適っているのかを、祈りの内に識別いたしましょう。私たちも、ヨルダン川での洗礼の日のように、「私の愛する子、私の心に適う者」と神から呼ばれるように。

(表記は当用漢字表記に統一させていただいています=「カトリック・あい」)

2021年1月12日

・「命を守る福音の光を証しする一年としよう」菊地大司教「主の公現の主日」説教

2021年1月 2日 (土) 週刊大司教第九回:主の公現の主日

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 新しい年が始まって3日となります。どのような新年を迎えておいででしょうか。

 2017年12月16日に東京大司教として着座して以来、東京大司教区における宣教司牧方針を定めようと努めてまいりました。信徒数にしても組織にしても、また内包する修道会の数や諸施設の規模や数にしても、大変大きな教区ですので、そこにはさまざまな課題が存在いたします。東京都と千葉県では、それぞれの都県内でも、地域によって直面する課題は異なります。

 ましてや現在のコロナ禍です。小教区が直面する宣教の現実は異なっていますし、信徒の方々が感じておられる課題にも大きな幅があります。そういった諸点を包括しながら、宣教司牧方針を定めることは、難しい課題でありました。教区の方針が、わたし個人の考えや興味に基づいた方針では意味がありません。

 そこで、多くの方の意見を伺いながら識別を深め、検討を進めることにしたのはご存じの通りです。教会には聖霊が働いていることを信じていますから、ご意見は個人ではなく、教会の共同体で検討していただきました。

 「二人三人が私の名のもとに集まっているところに、私もいる」と言う主の言葉を信じ、共同体にこそ聖霊が豊かに働いていると信じるていますから、共同体での識別の道を歩みたいと考えました。同時に、その頃にちょうど行われた青年のためのシノドスで、教皇様が複数で分かち合いながら共に道を歩んでいくシノドス的方法を強調されたことにも示唆を受けました。

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 さまざまな意見をいただき、それに基づいて識別を深め、最終的に、このたび完成させることが出来、23ページほどの文書となりました。作業は予定よりも時間がかかってしまいました。

 19年の教皇訪日、さらには今年のコロナ禍で、一年ほど予定より遅れてしまいましたが、多くの方のご協力で、やっと形にすることが出来ました。宣教方針は基本的に大枠を示しているだけです。物足りなく感じられるかも知れません。

 大枠ですので、その中で方向性を一つにして、具体的な現場での適応は、それぞれの共同体で、これから話し合っていただきたいと思いますし、また教区のさまざまな組織や委員会で取り上げて深めていく課題も多々あります。

 教区のホームページに掲載してありますので、PDFファイルをダウンロードしてご一読いただけますと幸いです。これから徐々に、具体的な方策を探っていきたいと思います。どうか皆様にあっては、単に協力ではなく、一緒にこの道を歩んでいってくださるようにお願い申し上げます。

以下、新年最初、第九回となる週刊大司教のメッセージ原稿です。

【主の公現の主日(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第9回 2021年1月3日】

 皆様、新しい年の初めにあたり、この一年、神様の祝福が豊かにあるようにお祈りいたします。

 新年、明けましておめでとうございます。

 新しい年が始まりましたが、今年は何となく、いつもとは様子が異なるクリスマスと年末年始になりました。昨年初めから今に至るまで続いている新型コロナ感染症は、その実体についてさまざまな意見が表明されており、教会としても対応に苦慮しています。

 アジアの国々は欧米とは状況が異なっており、感染された方の規模や亡くなられた方の規模が比較的少ないのは事実ですが、その理由は判明しておらず、実際に世界では多くの方が生命の危機に直面しています。国内でも、さまざまな事例が報告され、生命の危機に直面しておられる方も少なくありません。ですから、多くの方が集う教会としては慎重な道を選択し続けざるを得ません。

 昨年一年は、教会においての活動の自粛や、4ヶ月にわたるミサの公開停止など、特に霊的生活において、忍耐を必要とする年となってしまいました。信仰における積み重ねはそれぞれ異なり、今回の事態にあっても一人ひとりの考えには相違があり、ご理解いただくことが難しい制約も多々お願いしたことを大変申し訳なく思っています。同時に、この試練の時にあって、互いへの思いやりの心をもってご協力くださった多くの方々の、寛容と忍耐の心に、感謝いたします。

 占星術の学者たちの言葉を耳にしたとき、ヘロデ王の心は乱れ、不安に駆られたと福音は記しています。ヘロデ王の不安はいったいどこから来るのでしょう。救い主の誕生の告知は、本来であれば喜びを持って迎えられたことでしょう。

 しかし現実に王として人々を支配しているヘロデは、その知らせを喜ぶことは出来なかった。自分をこの世の支配者とするものは、神の支配の実現を前にして、喜びではなく不安しか感じることができません。神の前では、自らの不遜さが暴かれてしまうからです。自分勝手な光を輝かせていることが露呈するからです。

 回勅「ラウダート・シ」に、教皇フランシスコは、次のように記しています。

 「私たちがずうずうしくも神に取って代わり、造られたものとしての限界を認めることを拒むことで、創造主と人類と全被造界の間の調和が乱されました(66)」

 「命にかかわるこれら三つの関わり」が、引き裂かれてしまう状態が罪だと、教皇は指摘します。人間の傲慢な支配に驕り高ぶっている姿が暴かれることで、自らが罪の状態にあることが明らかになってしまいます。そこに不安が生じます。

 占星術の学者たちは、旅路の困難を乗り越え、光に導かれて、救い主のもとにたどり着き、宝物をささげました。闇のなかにあって、輝く光こそが希望を示していることを確信した学者たちは、すべてを神に捧げて神の支配に従うことを表明し、その後も神の導きに従って行動していきます。

 私たちは、今、暗闇の中を彷徨いながら光を求めています。私たちは救い主の光に、謙遜に付き従おうとしているでしょうか。それとも自分勝手な光を輝かせようとしているのでしょうか。私たちが輝かせるのは、自分勝手な光ではなく、主の光です。

 教会は、人となられた「神の言」が暗闇に光として輝くように、その光を暗闇の中で証しする存在でありたいと思います。この光は、生命の希望をもたらす光です。互いに連帯を強め、主イエスの慈しみの心に倣い、互いを思いやり助け合う具体的な言葉と行いが、命を守っていきます。神の支配に身をゆだね、命を守る福音の光を、証しする一年といたしましょう。

2021年1月3日

・「神の言葉は私たちの心に勇気と希望を与えてくれる」菊地大司教の元旦「神の母聖マリアの祭日」ミサ説教

2021年1月 1日 (金) 神の母聖マリア@東京カテドラル

謹賀新年

 いつもとは様相が異なる年末年始となりました。新しい年の初めにあたり、皆様の上にいのちの与え主である御父の豊かな祝福があるように、お祈りいたします。

 昨年末の12月18日には東京教区の名誉大司教である岡田武夫大司教様が帰天され、さらに12月28日には大分教区の浜口末男司教様が帰天されました。司教様方の永遠の安息のためにお祈りください。

 また感染症対策のため大晦日の公共交通機関終夜運転が取りやめになったこともあり、恒例の1月1日深夜ミサは、多くの教会で中止となりました。関口のカテドラルでも、例年は1月1日深夜零時から大司教司式のミサを捧げ、一年の始まりに祈りをささげましたが、今年は1日の午前10時からのみのミサとなりました。これから始まる一年が、どのように展開していくのか予想もつきませんが、少しでも明るい方向へ導かれるように、心から祈っています。2021年のうえに、いつくしみ深い神の祝福と、導きと、守りがありますように。

 以下、本日午前10時からの、神の母聖マリアの祝日ミサの説教原稿です。

【神の母聖マリア(公開配信ミサ) 東京カテドラル聖マリア大聖堂 2021年1月1日午前10時】

 お集まりの皆さん、新年、明けましておめでとうございます

 主イエスの降誕の出来事を喜びのうちに記念するわたしたちは、それから一週間がたったこの日、1月1日に、神の母である聖マリアを記念します。

 闇にさまよう人間を救いの道へと連れ戻そうとされた神の計画は、聖母マリアの「お言葉通りにこの身になりますように」という、神の前でのへりくだりの言葉がなければ実現しませんでした。そしてその言葉こそは、人生をかけた決断であり、神の意志への完全な信頼の表明でもありました。

 神に完全に従うことを決意した聖母マリアの人生は、救い主であるイエスとともに歩んだ人生です。その人生は、シメオンによって預言されたように、「剣で心を刺し貫かれ」た苦しみ、すなわちイエスの十字架での受難に至る、イエスとともに苦しみを耐え忍ぶ人生でもありました。しかしながら、聖母の人生とは、苦しみにだけ彩られた悲しい人生ではありません。

 聖母マリアは、天使ガブリエルが、「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」と告げた言葉を信じることで、その子イエスが人々の希望の光となることを確信していました。

 ですから、天使のお告げの通りの出来事を目の当たりにして興奮する羊飼いたちの道を急ぐ姿と対照的に、聖母マリアはこれからの救いの出来事の実現という時の流れの先を見据えながら、「すべてを心に納めて、思い巡らしていた」と福音に記されているのです。聖母は「時のしるし」を識別し読み解こうと務める教会の、あるべき姿の模範であります。

 2020年という年は、世界中で、希望を見失い、暗闇に彷徨う年でありました。世界で多くのいのちが感染症のために失われ、また感染症対策のために経済状況が悪化したり雇用環境が悪化したりする中で職を失う人も増え、孤立と孤独は深まり、その中でいのちの危機へと追い詰められる人も増えている事例の報道を多々耳にいたします。

 また多くの国では、その国の経済を支えるために招かれた他国からの方々が、雇用状況の悪化の中で職を失い、加えて感染症対策のため母国に帰ることもできずに、生活の危機に直面している事例も耳にします。教会の中にも、そのようにして危機に直面している方々と、それに手を差し伸べる活動に取り組まれている方もおられます。

 教皇ヨハネ23世は、回勅「地上の平和」を、次のような言葉で始めています。
「すべての時代にわたり人々が絶え間なく切望してきた地上の平和は、神の定めた秩序が全面的に尊重されなければ、達成されることも保障されることもありません」

 つまり、神の定めた秩序が実現している世界こそが、平和の実現した世界であると説いています。私たちキリスト者は、福音に忠実に生きようとする限りにおいて、「平和」の実現から目を背けて生きていくことは出来ません。なぜなら「平和」の実現とは、単に戦争がないとか武力紛争がないとか治安が良いとかの問題に留まるのではなく、まさしく神の定めた秩序が実現しているのかどうか、つまり神の望まれる世界が実現しているのかどうかの問題だからです。

 そして、少なくとも今の私たちが生きる世界をみて、神は満足されていないのであれば、そこには「平和」はありません。神が賜物としてわたしたちに与えられたいのち、神が自ら人として受肉することによって高らかに宣言された人間の尊厳。そのいのちが、人間の尊厳が、ないがしろにされている社会に、神の望まれる秩序は成立せず、従って「平和」もあり得ません。

 「お言葉通りにこの身になりますように」と言う聖母の言葉は、まさしく神が定められた秩序が、自らの人生をとおして実現してほしいという願いの表明であり、すなわち聖母の人生は、神の秩序の確立のための人生であり、平和を生み出そうとする人生でありました。聖母は、平和の実現のために働く教会の、あるべき姿の模範であります。

 自らの胎に神を人間として生命を宿らせた聖母マリアを、神は教会の母として与えられます。それによって、神はわたしたちに、生命の尊厳を守りぬく責務の重要性を自覚させようとします。聖母は、いのちを守ろうとする教会の、あるべき姿の模範であります。

 教会は年の初めのこの日を、「世界平和の日」と定め、この世界に神が望まれる秩序が確立され、平和が実現するようにと祈り求めます。

 54回目となる今年、教皇フランシスコはそのテーマを、「平和への道のりとしてのケアの文化」と定められました。
メッセージの中で教皇は、昨年一年の新型コロナ感染症によるいのちの危機への取り組みを振り返り、すべての人の尊厳と善を守り育てる、互いに思い やりいたわる文化、つまりケアの文化を確立することこそが、平和構築にとって最優先の課題であると指摘しています。

 教皇様は、このパンデミックによって、家族や愛する人を亡くした人、さらには仕事を失った人たち、医師、看護師、薬剤師、研究者、ボランティア、チャプレン、病院や保健機関の職員など、いのちを守るために最前線で働き、時には命さえ犠牲にしている人たちへ、特別な感謝の思いを表明されています。そういった思いやりと助け合いの現実が見られるにもかかわらず、「さまざまなかたちのナショナリズム、人種差別、外国人嫌悪、さらには死と破壊をもたらす戦争や紛争が、新たに勢いを増していること」は悲しいことだったと振り返ります。

 教皇様は、霊的・物的ないつくしみの業による助け合いと支え合いは、初代教会からの愛の奉仕の伝統であり、現代社会にあって教会は「ケアの文化」を確立するために、「人間の尊厳と権利の促進」「共通善」「連帯」「被造物の保護」を推進するようにと求めておられます。

 その上で、教皇様は次のように記しておられます。

 「連帯とは、統計上の数字や、酷使され、役立たなくなれば捨てられる道具としてではなく、わたしたち同様、神から等しくいのちの祝宴に招かれている隣人、旅の同伴者として、他の人々を見る助けとなるものです」

 新しい年の初めにあたり、わたしたちはまだ困難な闇の中に取り残されています。徐々に光が見えてきているものの、闇は深く、この一年わたしたちが歩む道には、さまざまな困難が予想されます。困難のなかにあってもなお見いだされる、愛といつくしみの連帯に希望を見いだしましょう。対立や排除のなかにあっても見いだされる、いたわりの心に希望を見いだしましょう。そして見いだした希望を、聖母マリアの模範に倣って心の中で育み、自らの人生での言葉と行いで、あかしし続けてまいりましょう。

 闇に彷徨う民であるわたしたちに、民数記は神からの祝福の言葉を記し、心に勇気と希望を与えてくださいます。

 「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし/あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて/あなたに平安を賜るように。」

2021年1月1日

・「”家族”の中で決して、暴力も排除も分裂も起こらないように」-菊地大司教の「聖家族の主日」説教

2020年12月26日 (土) 週刊大司教第八回:聖家族の主日

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 12月最後の主日、27日は聖家族の主日です。年末年始は、日頃離れて暮らす家族が集まり、あらためて家族の絆を確認する大切な時期でありますが、残念ながら、今の状況では、今年は集まることが難しいと思われます。特に関東圏では毎日報告される検査陽性者数が高止まりしていますし、行政からの呼びかけもありますので、離れて暮らす家族が集まることをあきらめざるを得ない状況かと思います。大変残念です。

 神の御言葉である幼子イエスは、家族のうちに誕生しました。幼子イエスは、聖ヨセフと聖母マリアによって大切に育てられ成長していきました。聖なる家族が救いの歴史において重要な役割を果たしたという事実が、家族という存在の持つ役割の大切さを教えています。

 現代ではさまざまな形態の家族が存在するとは言え、人と人との繋がりの中で、互いに支え合い助け合う連帯の心を育む場として、家族という共同体は重要な意味を持っています。

 なおすでにそのように決定されている小教区も少なくないと思いますが、大晦日の公共交通機関の終夜運転自粛や、外出の自粛要請などに基づき、1月1日深夜零時のミサは中止とされるようご検討ください。東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われる予定でした関口教会の深夜ミサも、中止となりました。大司教司式ミサは、1月1日午前10時のミサとなり、配信されます。

 以下、本日夕方に配信された、週刊大司教第八回のメッセージ原稿です。なお週刊大司教などのメッセージは、東京大司教区のYoutubeアカウントから配信されますので、チャンネル登録をお願いします。聖マリア大聖堂でのミサの配信は、カトリック関口教会のYoutubeアカウントですので、こちらも併せてチャンネル登録をお願いします。Youtubeのチャンネルは、東京教区と関口教会のふたつあります。

【聖家族の主日(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第8回 2020年12月27日】

 神の御言葉は人となられ、私たちのうちに共におられます。

 教皇ヨハネパウロ二世は、回勅「命の福音」で、「神の子が受肉することによって、ある意味で自らをすべての人間と一致させた」と述べ、さらに「この救いの出来事は、・・・神の限りない愛だけではなく、さらには、すべての人格には比類のない価値があることを人類に啓示します」(2)と記しています。受肉の神秘は、神がわたしたちのもとに来られたという事実にとどまらず、その神秘を通じて、「すべての人格には比類のない価値があることを」啓示しているというのです。

 そうであるならば、「ナザレの、人間の家庭へのみことばの受肉」は、救いの神秘において、家庭には聖なる意味と価値があることを明確にします。(教皇フランシスコ「愛のよろこび」65)

 創世記の2章に記されているように、主なる神は、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」(創2:18)と言われ、二人の人を創造されました。それはすなわち、人が独りで生きることが出来ないのだから、互いに助けあって生きていくようにと運命づけられていることを意味しています。人は尊厳あるいのちを家庭の交わりの中で、互いに支え合い、助け合いながら生きていくようにと召されています。

 しかし現実は、そう単純ではありません。昨年11月に、東京ドームでミサを捧げられた教皇フランシスコは、説教で次のように指摘されています。

 「家庭、学校、共同体は、一人ひとりがだれかを支え、助ける場であるべきなのに、利益と効率を追い求める過剰な競争によって、ますます損なわれています。多くの人が、当惑し不安を感じています。過剰な要求や、平和と安定を奪う数々の不安によって打ちのめされているのです」

 その上で教皇は、「孤立し、閉ざされ、息ができずにいる『私』に抗しうるものは、分かち合い、祝い合い、交わる『私たち』、これしかありません』の述べて、孤独の枷を打ち破るようにと招かれました。

 教皇フランシスコは、先日発表された回勅「FRATELLI TUTTI(兄弟の皆さん)」においても、兄弟愛と社会的友愛をキーワードに、同じ一つの家に共に暮らす一つの家族にあって、互いに助け合い支え合うことの重要さを強調されています。婚姻によって成立する家庭を越えて、人類すべてが共通の家でいのちを生きる家族であることを、教皇フランシスコは強調されます。

 とりわけ、この回勅を準備されている時に発生した感染症の大感染による「世界的な危機は、『誰も一人で自分を救えない』こと、そして、『私たち皆が兄弟』として『ただ一つの人類として夢見る』べき時がついにやって来たことを示した」と記しています(バチカンニュースから)

 その上で教皇は、「今日の世界では、『ひとつの人間家族に属している』という感覚は薄れつつあり、『正義と平和のために力を合わせる』という夢は、時代遅れのユートピアのように思われます。 代わりに君臨しているのは、欺瞞的な幻想の背後に隠された、深い幻滅から生まれた『クールで、心地よく、グローバル化された無関心』」(30、カトリックあい試訳)」だと指摘し、「希望、再生に必要なのは、親密さです。出会いの文化です」と呼びかけています。

 ナザレの聖家族に祈りましょう。「イエス、マリア、ヨセフ、あなた方のうちに、まことの愛の輝きを見、信頼を込めてあなた方にゆだねます。ナザレの聖家族よ、家庭の中で決して、暴力も排除も分裂も起こることがありませんように。傷ついた人、つまづいた人が皆、直ちに慰められ、癒されますように。」(「愛のよろこび」から)

2020年12月26日

・菊地大司教の主の降誕、夜半ミサ説教「幼子の命が与える希望を喜びのうちに多くの人へ」

2020年12月25日 (金) 主の降誕、夜半のミサ@東京カテドラル

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 主の降誕のお喜びを申し上げます。

 皆様にはどのような夜をお過ごしになられたでしょうか。通常であれば、12月24日の夜は、大勢の方が教会を訪れてくださいます。関口のカテドラルも、特に夕方5時と7時のミサは、事前に列を作って並ばれる方も多数おられ、聖堂は一杯となってきました。

 ところが今年はコロナ禍です.感染症対策のため、かなり前から、一般の方の参加をお断りし、信徒や求道者の事前登録となりました。なお関口教会のYoutubeチャンネルで配信しておりますので、いつでも見ていただけます。(ミサの中継は関口教会のチャンネルですが、教区からのメッセージや週刊大司教は、東京教区のチャンネルで配信します。東京教区のチャンネルも、あわせてご登録ください。)

 また現時点での東京教区の感染症対策については、常にまとめて掲載していますので、ホームページのこちらをご覧ください。変更があった場合も即座に反映しています。また、現時点では、行政からの緊急事態宣言などがない限り、これまで通りの厳重な感染対策をとったまま、ミサなどの典礼は行っていきますが、現時点では典礼以外の集まりや会議は、自粛をお願いしています。

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 以下、12月24日午後10時から行われた夜半のミサの説教原稿です。(なお配信映像の最初の部分に、カテドラル大聖堂内の気流のシミュレーションを見ていただけます。それによれば、参加者の大きな扉を半開することで、10分程度で聖堂内の空気が外気と入れ替わることが分かります。また三カ所の扉を全開すると、5分程度で外気と入れ替わるようです。)

【主の降誕・夜半のミサ(公開配信ミサ) 2020年12月24 日午後10 時】

 「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の影の地に住むものの上に、光が輝いた」

 お集まりの皆さん、そしてインターネット配信を通じて共に祈りをささげておられる皆さん、主の降誕、おめでとうございます。

 このイザヤの言葉を切実に感じた一年でありました。今年の初めから、世界各地で猛威を振るっている新型コロナウイルス感染症は、未知の感染症であるが故にその実体の解明に時間がかかり、多くの方が感染したり、命を落とされてしまいました。

 日本も欧米と比較すれば人数は少ないとは言え、どのように対処したら良いのかが徐々に分かり始めてきたものの、長期間にわたっていのちの危機という暗闇の中を彷徨っているような気分であります。

 現時点でも病床にある多くの方のためにお祈りいたします。また医療関係者の方々にあっては、その献身的な働きに、心から感謝申し上げます。

 医療関係者や研究者の方々の努力の積み重ねによって、徐々にではありますがその事態が解明されはじめ、暗闇にも光が差してきたように思います。

 私たちは、暗闇の中を明確な方向性を確認できないまま進まなければならないとき、どうしても疑心暗鬼になってしまいます。疑心暗鬼に包み込まれた心は、不安のあまり恐れを生み出します。恐れを振り払うかのようにして、私たちは、暗闇にかすかに差し込む光を求めて、もがき続けてしまいます。

 暗闇には、さまざまな光が差し込んできます。不安と恐れに駆られるとき、じっくりとそれらの光を見極めて、正しい道を識別する作業を待っていることができずに、不安な心を満たしてくれる目の前の光に飛びついてしまうことがあります。確かに今でも何が真実なのかを確実に把握している人はいないでしょうから、安心を求めて飛びついた光が、正しくなかったこともあるでしょう。偽の光に踊らされてしまったこともあるでしょう。浮き足立っているのですから、それは不思議ではありません。

 自分ひとりが浮き足立っているだけならば構わないのですが、不安や恐れは、安心を求めて自分の立ち位置を明確にしようとさせ、ともすれば攻撃的になってしまいます。自分を不安に陥れる存在に対して、攻撃的な姿勢を見せてしまう誘惑があります。

 感染した人への過度な批判や、自分と異なる存在への過度な攻撃。その中で人間関係は崩壊し、孤立と孤独が支配するようになります。

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 教皇フランシスコは、先日発表された回勅「FRATELLI TUTTI(兄弟の皆さん)」においても、兄弟愛と社会的友愛をキーワードに、私たち人類は、同じ一つの家に共に暮らす一つの家族であることを強調されています。

 誰ひとり排除されていい人はいない、忘れられていい人はいない、と繰り返し強調されてきた教皇は、この回勅にあっても、一つの家族の一員として、互いに助け合い、支え合うことの重要さを強調されています。人類すべてが、神から与えられた共通の家で命を生きる家族である、と強調されています。

 昨年11月に東京で、東北の被災者の方々と出会った教皇の、あの言葉を思い起こします。

 「一人で「復興」できる人はどこにもいません。誰も一人では再出発できません。町の復興を助ける人だけでなく、展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会いが不可欠です」

 同じように教皇は、この新しい回勅を準備されている時に発生した感染症のパンデミックによる「世界的な危機は、『誰も一人で自分を救えない』こと、そして、『私たち皆が兄弟』として『ただ一つの人類として夢見る』べき時がついにやって来たことを示した」と、新しい回勅に記しています(バチカンニュースから)

 神が天地を創造された最初の状態にこそ、神が定められた秩序が実現しており、それこそが本当の意味での正義と平和に満ちあふれた状態でありました。しかし人間は与えられた自由意志を乱用し、その世界から逃げだし神から逃れようとすることによって、闇の中をさまようことになりました。

 しかしそれでも自ら創造された人類を愛し続ける神は、闇の中をさまよい続ける民に、自らが道しるべの光となるために、そして神の道に立ち返るよう呼びかけるために、自ら人となって誕生し、人類の歴史に直接介入する道を選ばれました。裏切りに対する神の答えは怒りと裁きではなく、愛と慈しみでありました。死の暗闇ではなく、いのちの希望の光でありました。

 慈しみと愛そのものである神は、自ら出向いていくことで人となり、遠くから照らす光ではなく、人々の中で輝く希望の灯火となろうとされました。愛と慈しみを必要としているところへ、直接出向いて行こうとする行動原理です。この神の行動原理に、私たちも倣って生きたいと思います。

 「出向いていく教会」は、教皇フランシスコが繰り返し強調される教会の姿です。

 教皇は使徒的勧告「愛のよろこび」において、「私たちが呼ばれているのは、良心を育てることであり、それに取って代わろうと思い上がることではありません(37)」と指摘して、「教会が裁きの場となることのないように」と呼びかけます。それは「福音の喜び」における次の言葉に繋がっています。

 「教会は無償のあわれみの場でなければなりません。すべての人が受け入れられ、愛され、赦され、福音に従う良い生活を送るよう励まされる感じられる場でなければならない」(114)

Christmasmidnight20d

 この一年、感染症という見えない脅威を前にして、命の危機という暗闇に取り込まれてきた私たちには、自信を持って歩みを進めるために、光を探し求めてきました。

 その光は、誰かを裁いたり、排除したり、攻撃するための光ではなく、慈しみと愛を持って支え合い、慰め合い、喜びを生み出す光です。その光は私たちを、「展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会い」へと導いてくれる光です。

 この輝く光には、命の希望があります。なぜならばこの輝く光は、命そのものであり、命を賜物として創造された神の愛と慈しみそのものであり、私たちを包み込む神の言葉そのものであります。

 「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の影の地に住むものの上に、光が輝いた」

 飼い葉桶に寝かされた幼子の前に佇み、その小さな命に込められた神の愛と慈しみに感謝いたしましょう。そしてその命が与える希望を私たちも心にいただき、その希望を喜びのうちに、多くの人たちに分け与えてまいりましょう。いま、多くの人たちが不安と疑心暗鬼の暗闇の中で、喜びと希望の光を待ち望んでおられます。

2020年12月25日

・菊地大司教の待降節第四主日説教「神の計らいは暗闇に輝く希望の光」

2020年12月19日 (土)週刊大司教第七回:待降節第四主日

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 待降節も終わりに近づき、主の降誕への準備が進む季節です。上の写真は、東京教区本部入り口の飾りですが、よく見ると、まだ幼子は置かれていません。まだです。

 12月18日の帰天された岡田大司教様の葬儀などについては、こちらの東京教区ホームページをご覧ください。残念ながら、現在の状況のためさまざまな制約があり、いつものような葬儀ができないことが残念です。岡田大司教様の永遠の安息のために、祈りましょう。

 降誕祭が近づいていますが、今一度、教区ホームページに掲載されている現時点での対応を確認ください。ミサ以外の教会の諸活動は、中断してください。状況に応じて、年明けには戻せるように願っています。

 ミサについては、基本的な感染対策をお願いします。なお、東京では大晦日の電車島の終夜運転は中止になっているようです。小教区でその影響がある場合、新年の深夜ミサなどは、主任司祭の判断で、中止とするようにご検討ください。

以下、待降節第四主日のメッセージ配信、週刊大司教の原稿です。

【待降節第四主日(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第7回 2020年12月20日】

 「私は主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように」

 マリアはこの言葉を持って聖母となりました。マリアにとって天使ガブリエルからのお告げは、全く理不尽な内容であったに違いありません。「どうしてそのようなことがあり得ましょうか」という強い否定の言葉に、その困惑の度合いが感じられます。

 しかしマリアは、聖霊の働きを通じた神の不思議な計画についての天使のお告げを受け、「神に出来ないことは、何一つない」と言う言葉に信頼を置き、神の計画にすべてを委ねることを信仰において決意します。

 教皇パウロ六世は使徒的勧告「マリアーリス・クルトゥス」において、「マリアの信仰は、彼女にとって神の母になるための手段であり、道でもあったのです」と指摘しています。その上で教皇は聖アウグスチヌスの言葉を引用して、「信仰に満たされて、胎内にキリストを宿らせるに先立って心にキリストを宿らせたとき、彼女は『私は主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように』と答えた」として、教会がキリストと一致して生きていることへの模範を聖母マリアの信仰が示していると指摘します。

 さらに教皇は、教会は聖母マリアの行動原理に倣って生きていると指摘し、特に典礼において、「神の御言葉を信仰を持って聞き、引き受け、宣べ伝え、尊び、生命の糧として信者に分け与え、さらにまた、御言葉の光に照らされて『時のしるし』を吟味し、歴史における出来事を解釈しつつ生き続けている」と述べています。

 聖母マリアの信仰は、この世界を支配しているのは人間ではなくて、世界を創造された神であるという、神の前にへりくだる明確な態度と確信に基づいています。この世界は、創造主である神によって支配され、神はその計らいをもって私たちを導かれる。そのように信じて生きる行動の原理を、聖母マリアの人生は私たちに模範として示しています。

 「神に出来ないことは何一つない」という信仰における確信は、自らの人生をあきらめることではなく、神の計画を実現するために貢献するのだという前向きな希望を生み出すものです。

 教皇フランシスコは11月29日のお告げの祈りで、「待降節は、絶え間なき希望への呼びかけです。・・・神は、いつも人類の歴史の中に現存されます。神は、私たちを支え助けるために、私たちの傍らを歩まれる、「私たちと共におられる神です」。主は、私たちを決して見放しません。生活の中で、私たちが日ごとの歩みの意味を発見できるよう、私たちと共に歩んでくださいます。嵐の最中には、いつも私たちに手を差し伸べ、危険から救ってくださいます」と励ましの言葉を述べられました。

 神の計らいに信頼し、その中にこそ希望が生まれると信じている私たちは、この一年、神のご計画はどこにあるのだろうかと識別を重ねています。命の危機という困難な状況の中で、また暗闇に彷徨う旅路の中で、教会は「時のしるし」を識別しようと、努力を重ねています。

 聖母マリアが信仰においてその心にキリストを宿らせたように、私たちも信仰に生きる教会にキリストが宿られていることを信じています。また、聖母マリアがその胎にイエスを宿したように、教会も、主ご自身が「世の終わりまでいつもあなた方と共にいる」と言われた約束を信じ、教会にキリストが共におられ、歩みを共にしておられることを信じています。神の計らいは暗闇に輝く希望の光です。主は共におられます。

(菊地功=きくち・いさお=東京大司教)(表記は当用漢字に統一させていただきました=「カトリック・あい」)

2020年12月19日

・バチカンでカンタラメッサ枢機卿の待降節講話第三回「御言葉を見出す謙虚さは貧しい人の中に」

Advent preaching by Card. Raniero Cantalamessa on 1Nov. 18, 202. Advent preaching by Card. Raniero Cantalamessa on 1Nov. 18, 202.   (Vatican Media)

(2020.12.18  Vatican News)

   教皇付きの説教者、ラニエロ・カンタラメッサ枢機卿が18日、待降節黙想のための第三回講話を、教皇フランシスコとバチカンの幹部たちを、「世界の貧しい人々と苦しみ-謙虚さーの中に、主の御言葉を見出す必要性」をテーマに行った。

 枢機卿はまず、「神は愛であり、それゆえ謙遜。クリスマスは神の謙遜さの饗宴です。なぜなら、神はご自身を謙虚にされ、私たちの間に住まわれ、貧しい人々、謙虚な人々、そして世界の苦しみをご自分で担われたからです」としたうえで、「クリスマスを心から、真に祝うためには、『私たちの間に住まわれることで、貧しい人々、謙虚な人々、そして苦しみをご自分で担われた神』を認識する謙遜さが必要です」と語った。

 そして、「主は私たちの間に御自身の住まいを作られました。つまり、受肉によって不可逆的な行動を達成されたのです。人の子は地上においでになり、神は、消え去ることはない。エマヌエル-私たちと共におられる神-は、友として、そして悪の勢力に対抗する同盟者として、人の側におられるのです」と強調した。

 

*謙遜の欠如は、神が人となられたことを信じることの障害

 また、枢機卿は、「キリストの人における神性と人間性の完全な結合は、考えられるあらゆる新しさの中で最大のもの」とする一方で、「私たちの中には、御言葉が私たちの間に住まわれたという、矛盾した、あってはならないことを受け入れることができない人がいます。神は人と交わり合うことがない、と考えるからです」と述べた。

 そして、「神が人となられたことを信じることの障害となるのは、謙虚さが欠けていること」とし、聖アウグスチヌスも「謙虚になれず、私は神ご自身の謙虚さを理解できなかった」と自己の体験として、それを認めている、と述べ、「これこそが、現在の無神論の究極のルーツなのです」と指摘した。

 

*神の謙虚さ

 さらに、枢機卿は、「自分を誇示するのに、ほとんど力はいりませんが、身を引いて自分を目立たなくするには、もっと沢山の力が必要です… これは神がご自分を目立たなくする計り知れない力でなさること。ご自身を空にされ、奴隷の姿で、謙虚にされ、死、十字架での死に至るまで従順になられました」とし、「このように、『神は愛である』と『神は謙虚である』という主張は、コインの表と裏のようなもの。それは、愛ゆえに自分を小さくし、他の人々を表に出るようにする。その意味で、神だけが、本当に謙虚なのです」と言明。「御言葉が肉となり、私たちの間に住まわれる、という受肉の神秘の核心は、『神が私たちと共に永遠におられること』であり、それは不可逆的です」と強調した。

 

*教会の貧しさ

 洗礼者ヨハネが(注:ユダヤ人たちが遣わした祭司やレビ人に対して)イエスについて語り、「あなたがたの中に、あなた方の知らない方が立っておられる」(ヨハネ福音書1章27節)と述べた時、彼らは、長い間到来を待っていたメシアが、住んでいた村のことも含めてすべて分かっている、とても謙虚で、ごく普通の男だ、ということを信じることができなかった。

 洗礼者ヨハネがこう話した当時、「信じることへの障害となったのは、罪人であることを除けば自分たちと同じ、イエスの身体」だったが、今日、主たる障害となるのは「イエスの神秘体である教会-罪にあることを含めた人を除いたようなもの-です」と指摘。「今日、神は、彼の教会の貧しさと悲惨さ、そして私たち自身の生活の貧しさと悲惨さの中に、認識される必要があります。これは、現在の貧困の問題と、キリスト教徒がその問題にどのように対応するかに、特別な光を当てます」と枢機卿は述べた。

*「貧困の秘跡」

 これについて、枢機卿は、第二バチカン公会議に一般信徒を代表するオブザーバーとして参加したジャン・ギトン(1901~99)(注:フランス人哲学者、アカデミー・フランセーズ会員)が著書に書いている「公会議に出席した司教たちが、貧困の秘跡-苦しんでいる人々の下にキリストがおられること-を再発見した」という言葉を引用した。

 イエスは、「これは私の体である」(マタイ福音書26章26節)と言われた時、聖体を制定された。枢機卿は、「同じように、イエスが『あなたが、私の兄弟姉妹の中で最も小さな者のためにしたことは、私にしたことだ』と言われた時、貧しい人々、謙虚な人々、苦しむ人々をお引き受けになる『貧困の秘跡』を制定されたのです」と語った。

 さらに、第二バチカン公会議で聖ヨハネ23世教皇が創出された「貧しい人々の教会」の概念は、「教会そのものの中にいる貧しい人々だけでなく、洗礼を受けているかいないかに関係なく、世界のすべての貧しい人々を包含している」と指摘。

 「宿に泊まろうとしたマリアとヨセフに居場所がなかったように、今日も、世界中の”宿”に貧しい人々の居場所がありません。でも、歴史は、神がどの側におられ、教会がどの側にいるべきかを示しています。貧しい人の所に出向くことは、神の謙虚さに倣うことです。それは、愛ゆえに人を小さくし、下にいる人たちを引き上げます」と締めくくった。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2020年12月19日

・菊地大司教の待降節第三主日説教「私たちには、イエスを証しし、光に従って進む道を整える使命がある」

2020年12月12日 (土) 週刊大司教第六回:待降節第三主日

Img_20201212_093144 待降節第三主日は、喜びの主日と呼ばれ、バラ色の祭服を使うことが出来ます。典礼は主の降誕への準備とシフトし、喜びのうちに主の降誕への備えを始める時期となります。

 ところで教皇様は12月8日、聖ヨセフがカトリック教会の保護者として宣言されてから150年となることを記念して、来年の12月8日までを『ヨセフ年」と定めることを宣言されました。

 詳細については、教皇様の文書などが翻訳された後にお知らせいたしますが、まずは中央協のホームページの短い解説をご覧ください。こちらのリンクです。私を含め世界中の司教は誰も事前に知らされていなかったので、当日以降のニュースで知ることとなり(今現在も、公示の文書などは手元に届いていません)、詳細が分からずにあたふたとしておりますが、分かり次第お知らせするようにいたします。

 以下、待降節第三主日の「週刊大司教」第六回の、メッセージ原稿です。なお配信ビデオでは、前回より、霊的聖体拝領の時間を設けております。ビデオを途中で止めて、お祈りをしてから続けていただくことも出来ます。それぞれのお祈りにご活用ください。

 なお、「週刊大司教」をはじめとして東京教区からのメッセージは、Youtubeの「カトリック東京大司教区」というチャンネルで公開しています。ミサの配信については、カトリック関口教会のYoutubeチャンネルを利用しております。両方のチャンネルを登録していただけると幸いです。

 

【待降節第三主日(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第6回 2020年12月13日】

新型コロナウイルス感染症は、なかなか収束に向かわず、それどころか、待降節が後半に入り、主の降誕を待ち望む準備の時に入ったこの時期、さらに勢いが増しています。

世界各地で多くの人が、いのちの危機に直面し、病床での日々を過ごしておられます。病床にある方々のために心からお祈り申し上げると共に、命を守るために日夜取り組んでおられる医療関係者の皆様に、感謝申し上げます。

徐々にではあるものの、この感染症に対処する道筋が見えてきたとは言え、やはり、暗闇の中に取り残され不安の中をさまよっている、といった感覚から、まだまだ抜け出すことが出来ません。今年の待降節は、そんな暗闇の中にさまよいながら、主の降誕に向けた霊的準備を進めなければなりません。

クリスマスのお祝いと言えば、日本では12月24日の「クリスマスイヴ」にお祝いするのが定番となっています。集まることが難しい今年、例年のような盛り上がりが各地で見られるかどうかは予測が難しいのですが、教会も24日の夜のミサでは、多くの人を迎えて祈りの時を過ごしてきました。

クリスマスイブですから、そのお祝いは日が暮れてからの、夜のお祝いです。ご存じのように実際のクリスマスは12月25日ですが、24日の晩のお祝いも、あながち誤りではありません。ユダヤの暦が日没を新しい一日の始まりとしていることをさておいても、そもそもクリスマスのお祝いは夜のお祝いであります。

イエスの誕生は夜の闇を背景として、聖書に描かれています。草原に野宿する羊飼いたちは、闇の中、輝いた星の光に導かれてイエスの誕生した場所へ到達します。そこでは夜の闇を打ち払うかのように、高らかに賛美を歌う天使たちの光が輝き照らします。

暗闇に輝く光。希望を失い、不安の中を歩む民を照らす、命の希望の光。その暗闇に輝く光のイメージこそが、誕生した幼子の持つ意味をわたしたちに明確に示します。

神の1人子であるイエスは、常にわたしたちと共におられる神、インマヌエルであります。その共におられるイエスは、神の「言葉」そのものであります。人となられた神の言葉は、闇の中を歩む民を照らす希望の光です。生きる希望を生み出す存在です。

その光は、神の慈しみそのものでもあります。私たちを神の慈しみをもって包み込み、進むべき道を明確に示し、その道を確信と希望を持って歩むことができるように、歩みを共にされる光。それが誕生した幼子、主イエスであります。

福音は、洗礼者ヨハネが、その光の先駆者として、光を証しするために使わされた、と記します。「主の道をまっすぐにせよ」と荒れ野で叫ぶ声であると記します。

コロナ禍にあって社会全体が闇の中に捨て置かれているように感じる今だからこそ、洗礼者ヨハネの存在が必要です。暗闇にあって輝く命の光を証しし、進むべき道を指し示す声となる先駆者ヨハネが必要です。

現代社会にあって、私たちキリスト者は、命の光、希望の光であるイエスを証しし、明確に示し、光に従って進むべき道を整える使命があります。光そのものである神の言葉を、告げ知らせる使命があります。私たちは、イエスがその言葉と行いをもって示された神の愛と慈しみと命の希望を、私たち自身の言葉と行いで証ししていきたいと思います。

 (菊地功=きくち・いさお=東京大司教)(表記は当用漢字表記に統一させていただきました=「カトリック・あい」)

2020年12月12日

・バチカンでカンタラメッサ枢機卿の待降節講話第二回「永遠の命を信じることは友愛の世界の助け」

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 また、枢機卿は、キリスト教徒にとって、永遠の命を信じることは、正確な事実を基にしており、それは、キリストの復活と彼の約束。「イエスは言われました。『私の父の家には住まいがたくさんある。もしなければ、私はそういっておいたであろう。あなたがたのために場所を用意しに行くのだ』(ヨハネ福音書14章2~4節参照)と。このことは、復活されたイエスと共に生き、『三位一体の命の豊かさと喜び』の中でイエスの人生を分かち合うことを意味します」と説いた。

 続いて枢機卿は、死後の命を信じることが、19世紀にある考え方の台頭によって衰えてしまったことを取り上げた。それは、「神における個々人の生存を、人間という種と未来の将来における生存に置き換える」考え方であり、 「『永遠』」という言葉は、疑いの目をもって見られただけでなく、次第に、忘れられ、沈黙させられていきました」。

*世俗化が「永遠の命」を衰退させた

 「世俗化はこの衰退のプロセスを完成させ、『神の王国とカエサルの王国の分離』、そして『宗教と信仰に敵対する社会的態度のすべて』をもたらし、キェルケゴール(注:19世紀のデンマークの哲学者で実存主義の創始者)の言葉のように『来世は冗談に変えられた』のです」と語った。

 さらに枢機卿は「永遠の視野の崩壊は、キリスト教の信仰に、火に砂をかけるのと同じ効果がある。窒息させてしまうのです。聖パウロは『(死者が復活しないとしたら)食べたり飲んだりしよう。どうせ明日は死ぬのだから(ということになります)』(コリントの信徒への手紙1/15章32節参照)と語ることで、この”永遠の消滅”がもたらす結果について警告しています」とした。

 そして、「『永遠』に生きたいという自然のままの欲求は、『良く』生きたいー必要なら他人を犠牲にしても、愉快に生きたい―という欲求、あるいは熱狂になります。永遠の視野の崩壊とともに、人間的な苦しみは大いに馬鹿げているように見え、治療薬はありません」と警告した。

*永遠の命と福音宣教

 枢機卿は、永遠の命を信じることは、福音宣教を可能なものにする条件の一つであり、そのことはパウロの言葉ー「キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であり、あなた方の信仰も無駄になります」(コリントの信徒への手紙1/15章14節)が説明している、としたうえで、「永遠の命を宣言することに、私たちは自分の信仰だけでなく、人の心の奥深くにある渇望との密接な関係を活用することができる… 改めて永遠を信じることは、私たちを自由にし、過ぎ去るものに執着しないように助けてくれるのです」と説いた。

*来世に備える

 最後に枢機卿は、死後の命を信じ直す必要を示すために、たとえを用いながら語った。「立ち退き命令を受けた人が、引っ越し先の家ではなく、立ち退く家の改修に持っている資金のすべてを費やすのは、愚かなこと。それと同じように、この世を去るように定められている私たちにとって、死後の自分に繋がる良い仕事を怠り、この世の家を飾り立てることだけを考えるのも、愚かなことです」と言明した。そして「永遠、という概念の衰退は、、神を信じる人々に影響を与える。人生の苦しみや試練に勇気を持って立ち向かう能力を低下させるのです」と付け加えた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2020年12月12日

・菊地大司教の待降節第二主日説教「一人でも多くの司祭をー宣教地・召命促進の日に」

(2020.12.5 週刊大司教第五回)

 待降節第二主日となりました。第五回めとなる「週刊大司教」をお届けします。

 今年のクリスマスのミサについてどうなるのか心配される声が多数届いております。私たちの信仰にとって聖体祭儀は不可欠であり、復活祭を祝うことが出来なかったこの年にあっては、信仰生活において重要な主の降誕の聖体祭儀に共に与ることは、重要です。

 ミサの公開を中止するような事態が発生しないようにできる限りの対応をしたいと思いますので、先日、東京大司教の対応を一部変更いたしました。また状況に応じて対応の細部は変更しますので、それについては現時点での対応が分かるように、東京大司教区のホームページにクリックして見ていただけるバナーを用意しました。

 今回の変更では、「ミサ以外については、小教区運営に関する最低限不可欠な会議を除き、教会におけるすべての会議、会合、集い、勉強会などを、当面の間、中止またはオンラインとしてください」としております。

 現在のところ、小教区における感染やクラスターなどの報告はありませんが、信徒の方が、教会以外の場で感染したと言う報告は、当初よりいくつか受けておりました。それがこの数日の間、これも教会を原因とする感染ではありませんが、信徒の方が社会の中で感染したという報告が増加いたしました。そのため、今回の変更の対応をさせていただきました。

 手指の消毒、マスクの着用、互いの距離など、基本的な感染対策をしっかりと守っていただくことで、例えばミサにおいては、マスクを着用し聖歌を歌わずに距離を置いて着席することで、これまでも感染が防止できていると思われます。基本的な対策を守れば、ミサに関しては、不必要なまでに恐れることはありません。

 ですからクリスマスのミサを行うことが出来るように、当分の間、会話や密接した接触の可能性のある会議などを自粛していただくようにお願いしております。

 なお状況によりますが、「当面の間」とは、「12月中」を考えております。また小教区によって地域の状況が異なりますから、現場における最終的な判断の権限は、主任司祭にあります。

 皆様には、再び我慢を強いてしまう待降節となりましたが、どうかご理解の上、ご協力をお願いいたします。以下、本日公開しました、待降節第二主日の週刊大司教メッセージ原稿です。なお今回から、主の祈りの後に霊的聖体拝領の祈りを画面に表示させています。

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【待降節第二主日(ビデオ配信メッセージ) 週刊大司教第5回 2020年12月6日】

 私たちが生きている今のこの世界には、「主の道を備え、その道筋をまっすぐにせよ」と声をあげる存在が必要です。神の招きに応え、その使命に徹底的に生きる存在が必要です。 教皇フランシスコは、使徒的勧告「喜びに喜べ」の冒頭で、「(主が)私たちに望んでおられるのは聖なる者となることであり、平凡で風味に乏しい、曖昧なものに留まることではありません」と記され、神からの招きである聖性の道を徹底的に生き抜こうとする存在が不可欠であることを指摘され ています(1)。

 もちろん教皇は、「聖性の道への招きは、特別な人だけへの呼びかけではなくすべてのキリスト者に向けられた呼びかけであること」を強調されますが、同時に「教会が必要とするのは・・・まことの命を伝えることに燃えて献身する、熱い宣教者だ(138)」と記され、司祭や修道者の聖性の模範が信徒に先立つものとして重要であることも指摘されています。

 教会は、聖性の道を歩む模範となる司祭や修道者を必要としています。洗礼者ヨハネのように、勇気を持って先頭に立ち、信仰における正論を声を上げて証しする存在を必要としています。

 教会は、12月の第一主日を教皇庁宣教援助事業・使徒聖ペトロ会が呼びかける「宣教地召命促進の日」と定めています。今年はこの待降節第二主日、全世界のカトリック教会は、宣教地における司祭や修道者の召命に思いを馳せ、加えてその養成者を思い起こし、共に祈りをささげます。また宣教地における教会が豊かに成長する道に心をよせ、司祭職や奉献生活者を目指して養成を受けている神学生や修練者を支援するために献金を捧げます。

 宣教地ということでは、日本の教会もアジアの他の多くの教会と同様、その国にあっては少数派ですから、宣教地の召命促進の祈りには、当然日本における召命促進も含まれております。

 司祭は、どこからか自然に誕生して、小教区共同体に与えられる存在ではありません。教会は会社のような組織ではありませんから、毎年のように募集をして、司祭を雇用するようなところではありません。司祭は、自分たちの教会共同体から生み出され、育てられ、歩みを共にする存在です。

 主イエスは、突然、大人としてこの世界に出現したのではなく、聖書に記されているとおり、幼子として聖家族のうちに誕生し、その聖家族の絆のうちに育まれ、成長していきました。共にいる神がそのようにして私たちと関わるのですから、洗礼者ヨハネのように、勇気を持って先頭に立ち、信仰における正論を声を上げて証しする存在、すなわち司祭も、同じように家族の絆、教会共同体のうちに誕生し、育まれ、成長する存在であります。

 第二バチカン公会議の「司祭の養成に関する教令」は、「召命を育てる義務は、キリスト教共同体全体にある。この共同体は特にキリスト教的生活を十全に生きることによってその義務を果たさなければならない(2)」と記しています。

 私たちは、日本において、そして世界各地において、「主の道を備え、その道筋をまっすぐにせよ」と勇気を持って率先しながら正しい声をあげる存在、すなわち司祭が一人でも多く誕生するように、粘り強い祈りと犠牲をささげる心、そして私たち自身の信仰の養成を深めることによって、貢献していきたいと思います。(菊地功=きくち・いさお=東京大司教)

2020年12月5日

・バチカンでカンタラメッサ枢機卿の待降節・講話第一回「死は永遠の命への架け橋」

Pope Francis and the Roman Curia listen to Cardinal Cantalamessa's first Advent sermonPope Francis and the Roman Curia listen to Cardinal Cantalamessa’s first Advent sermon  (Vatican Media)

(2020.12.4 Vatican News Devin Watkins)

  教皇付き説教師のラニエロ・カンタラメッサ枢機卿が4日、教皇フランシスコとバチカンの幹部職員を前に、待降節の第一回講話を行い、その中で、永遠の命の渡り廊下である死の意味を観想した。

 枢機卿はまず、詩編のモーセの詩、「日々を数えるすべを教え、知恵ある心を私たちに与えてください」(90章12節)を、この日の講話の中心に据えたい、とした。

 そのうえで、第一次世界大戦中にイタリアの詩人が書いた詩の一部、「私たちは秋の木の葉のよう」を取り上げ、これは現在の新型コロナウイルス大感染の最中にある私たちにも当てはまり、今のウイルスによる世界の惨状が、今回の待降節講話の狙いを、人間の命のはかなさに直面しての信仰を確かめることに集中させること、と述べた。

*人生のための教訓

 「死は、2つの異なる仕方で語ることができます。救いをもたらすキリストに照らして、あるいは、知恵に照らして」とし、「いずれも人間に教える何かを持っています。前者ーケリュグマ(原始キリスト教会の宣教者が宣教する福音の内容を意味するが、宣教・説教の行為そのものをも意味する=「岩波・キリスト教辞典」)ーは、死が存在の終わりを表現する壁ではなく、「永遠の命への架け橋」であることを示し、後者ー知性あるいは知恵に焦点を当てた視点)ーは、死についての人類の経験から良い人生を送るための教訓を引き出すことを可能にします」と語った。

*私たち自身の死を思い起こす

 続いて枢機卿は、トラピストの修道士の不朽の格言「Memento mori(死を想 え)」あるいは「自分が死ぬことを忘れるな」を取り上げ、また、旧約聖書の知恵の書は、福音書と同様、教会の伝統の中で、特に初代教会の”砂漠の教父たち”によって取り上げられた、人の死をテーマとする観想に沢山の材料を提供してくれる、とし、さらに「 Imitation of Christ(キリストにならう)」(注)には、次のような警告も書かれている、と述べたー「朝になれば、夕べは来ないと考えなさい。夕べになれば、あくる朝があると思ってはならない」(バルバロ訳=ドン・ボスコ社)。

 そのうえで、枢機卿は「私たちに求められているのは、陰鬱な気持ちで身をすくめるのではなく、私たちの死ぬべき定めが「永遠の命の確信」に導くことをよく考えることです」と述べた。

(「カトリック・あい」注)=中世の神秘思想家トマス・ア・ケンピス1379年(1380年) – 1471年ーが著した信心書。西欧では、聖書に次いで最も読まれた本とも言われる。

 

*新型コロナ大感染が教えること

 さらに、枢機卿は、コロナ禍の中でいくつかの講座を開いている「the school of Sister Death」で学ぶことを、参加者たちに勧めた。そして、「現在の新型コロナ大感染は、将来の計画と決定について、人の意思によるところが、いかにわずかしかないことを、私たちに教えました…」とし、「死は、人々の間に存在する違いや不正の形をすべて消し去ります。また、私たちがよく生きるように励ましますー物事に執着しないように、”地上での生活”だけに心を向けないように」と語った。

*永遠の死への恐怖

 また枢機卿は「死は何世紀も前にヨーロッパを福音化する上で重要な役割を果たしており、いま再び、福音化するのに役立つ可能性があります」と指摘。現代のある心理学者は「死の拒絶または否定が、すべての人間の行動の根源であると考えています」と付け加えた。

 そして、イエスが「死の恐怖のために、一生涯,奴隷となっていた人々を解放される」(べブライ人への手紙2章15節)ために来られたのだから、「目標は単に人間の死への恐怖から立ち直ることではなく、解放されるために、イエスは、身体的な死以外を知らない人々に、永遠の死の恐怖を私たちに教えるために来られたのです」と説いた。

 

*聖体に私たちの人生を捧げる

 最後に枢機卿は、イエスご自身が最後の晩餐で聖体祭儀を定められたことで、ご自身の死を先取りされたことを思い起こし、「聖体祭儀へ参加することが、私たちが『自分自身の死を祝い、日々、御父にそれを捧げる』ことになります」と述べた。そして、「愛ゆえに私たちにご自身を与えられた創造主に対して、愛ゆえに私たち自身を捧げることよりも大きなことがあるでしょうか」と問いかけた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2020年12月4日

・「困難の中にあっても、未来の光へ地道な努力を積み重ねたい」-菊地大司教の待降節第一主日の講話

2020年11月28日 (土) 週刊大司教第四回:待降節第一主日

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 待降節が始まりました。主の再臨を待ち望む私たちの信仰をあらためて見つめ直し、また御言葉が人となられた受肉の神秘を祝い感謝するための心の準備をする季節です。

 ここ数日、東京をはじめ各地では、新型コロナウイルスの検査陽性者が増大しています。第三波が到来しているという指摘も耳にいたします。教会のさまざまな活動における感染対策を、あらためて確認いたしましょう。

 長期の対応ですので、慣れてしまって危機感を失っている可能性があります。まだ収束していないどころか、あらためて拡大していると思われます。週明けには多少の活動制限について注意喚起を発出する予定で調整中です。基本の手洗い・消毒、マスクの着用を忘れず、適切な距離を保ちながら、密集・密接で大きな声を出すことを避け、換気に留意する。こういった基本を忘れることのないように心掛けましょう。

 本日28日には、バチカンにおいて枢機卿会が開催され、13名の新しい枢機卿が親任されます。アジアからはフィリピン中部カピス教区のホセ・アドビンクラ大司教とブルネイ使徒座代理区長のコルネリウス・シム司教が含まれています。残念ながら、アジアからのお二人は、旅行制限のためバチカンに赴くことが出来ず、後日、教皇大使からビレッタや指輪を授与される予定となっていますが、新しい枢機卿様方のためにお祈りください。

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 特にブルネイのシム枢機卿は、全国で43万ほどの人口の中で信徒総数が2万人弱。教区(使徒座代理区)には司祭が3名(総数です)しかいないという厳しい状況の中で、司牧活動を続けてこられた方です。ブルネイの教会のためにもお祈りください。

 以下、本日の週刊大司教でのメッセージの原稿です。

【待降節第一主日(週刊大司教メッセージ)2020年11月29日】

 誰ひとりとして、この世界で永遠に生き続ける者はいない。それを私たちは知っています。さまざまな人生を、さまざまな時間のスパンの中で生きていくとしても、すべての人に必ず終わりがやってくる。ただ、その終わりのときは遙か彼方だと思い込んでいるにすぎません。

 同時に、自分に与えられた時間には限りがあることを知っているからこそ、自分が生きている間には困難が起こらないようにと、問題を先送りすることもしばしばあります。とりわけ問題の解決に乗り出したときの負のインパクトが大きければ大きいほど、解決を先延ばしにしようとします。

 まるで時間が困難を解決してくれるのだと言わんばかりに、問題への取り組みを先送りして、今のこの刹那を安楽に暮らそうと考える誘惑があります。確かに、以前は治療が困難であった難病にも、時間の経過と共に新しい薬品や治療法が開発され、過去には不治の病であったものが、今や治癒可能となった例も少なくありません。

 現在の新型コロナ感染症にしても、時間が経過すれば、何らかの解決法が見いだされると信じています、実際には何の根拠もありません。仮にそうであったとしても、それは単に無為に過ごした時間の積み重ねが問題を解決するのではなく、その間に注ぎ込まれた多くの専門家の地道な研究や努力の積み重ねの結果であります。普段からの地道な積み重ねがないところには、いくら時間を費やしたとしても、新たな変革は訪れません。未来の光のためには、困難な中にあっても常に地道な努力の積み重ねを怠ってはなりません。

 教皇フランシスコは回勅「ラウダート・シ」において、「もはや、世代間の連帯から離れて持続可能な発展を語ることは出来ません」と指摘されました。(159)

 教皇はより良い世界を実現するためには、刹那的な自己中心の考え方だけではなく、共通善に基づいて、将来世代への責任も視野に入れよと説いて、次のように指摘されます。

 「私たちがいただいたこの世界は後続世代にも属するものゆえに、世代間の連帯は、任意の選択ではなく、むしろ正義の根本問題なのです。」(159)

 その上で教皇は「私たちは、後続する世代の人々に、いま成長しつつある子どもたちに、どのような世界を残そうとするのでしょうか… どのような世界を後世に残したいかと自問するとき、私たちはまず、その世界がどちらに向かい、どのような意味を帯び、どんな価値があるものなのかを考えなければならない」と指摘されています。(160)

 私たちには、どのような世界を後世に残していくのか、という先送りすることのできない課題があります。その課題は、この世界で生きる意味を改めて問い直す、言うならば結構、しんどい挑戦、すなわち「生き方の見直し」という問いかけに対面することを求めています。

 教皇は現在の新型コロナウイルスの世界的大感染の状況の中で、未来を見据えて連帯するようにと、こう呼びかけられます。

 「現代における連帯は、コロナ大感染終息後の世界に向けて、また、私たちの人間関係や社会の病の癒しに向けて辿るべき道です。それ以外に道はありません。連帯の道を辿るか、事態を悪化させるか、どちらかです(9月2日の一般謁見)」

 「目を覚ましていなさい」と言う主の呼びかけは、単に覚醒していること自体を指すのではなく、未来を見据えて、今を生きる私たちが、将来世代との連帯の中で、被造物の管理を任された僕としての責任ある行動をとるように求めています。現実社会において世界的な連帯は、まだ夢物語であります。地道に、連帯の必要性を呼びかけ、また自分自身らも行動し続けたいと思います。

2020年11月28日

・「教皇の言葉に応え、”東京教区版カリタス”を作る」ー菊地大司教、教皇訪日一周年感謝ミサで

(2020.11.25 菊地大司教の日記)

教皇訪日一周年感謝ミサ@東京カテドラル

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 教皇フランシスコの訪日から、一年となりました。ちょうど一年前のこの日、11月25日は、教皇フランシスコが東京で一日を過ごされていました。前日の日曜日、王であるキリストの主日は、長崎と広島を訪問。25日の月曜日は、朝から東北の被災者との集い、皇居で天皇陛下と会談、その後東京カテドラルを訪問し青年との集い。午後からは東京ドームでミサを捧げた後、首相官邸で首相と会談後に政府や外交団にスピーチ。内容の濃い一日でした。

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 訪日から一年となったこの時期、残念ながら新型コロナウイルス感染症のため、行事を行うことが難しくなりました。司教団も来月12月の初めにシンポジウムなどを計画していましたが、コロナ禍で断念。

 それでも、教皇がカテドラルを訪れてくださったことを記念し感謝することは大切ですし、またそこで語られた言葉に、あらためて耳を傾け学ぶことも大切ですから、まさしく東京カテドラルを訪問くださったその日に、ミサを捧げることにしました。

 通常、韓人教会の週日ミサが行われる水曜の午前10時ですが、関口教会と韓人教会の合同行事として、韓人教会の高神父、関口教会の天本神父、ホルヘ神父が共同司式され、イエスのカリタス会のシスター方が聖歌を歌ってくださいました。ありがとうございます。また当初はスタッフの手配の関係で配信は難しいと思っておりましたが、忙しいところ駆けつけてくださったボランティア(留学先の某国の時間でオンライン授業を終えたばかりの大学生)のおかげで、配信も出来ました。感謝です。

 なお司教団としては、12月9日の夕方に、イグナチオ教会で感謝ミサを捧げる予定です(入場制限あり、配信あり)。

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 教皇が地方の教会を訪れると言うことは滅多にないことですから、教皇の司牧訪問を契機として新しい挑戦を始めたり、記念の何かを建設したりするものだと思います。残念ながら、訪問直後からコロナ禍に突入し、すべてが自粛ムードとなってしまったこともあり、新しく何かを始める状況ではありません。それでも教皇の言葉に刺激を受けて、東京大司教区でも前向きに進み続けたいと思います。今日のミサの説教の終わりで、少しだけそのことに触れさせていただきました。

 以下、本日のミサの説教原稿です。

教皇訪日一周年記念ミサ 東京カテドラル聖マリア大聖堂 2020年11月25日

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 一年前の今日、教皇フランシスコをこのカテドラルにお迎えしました。

 一年前のあの日、この大聖堂は興奮のるつぼと化していました。そんな中で、入堂された教皇は静かに左手へと進まれ、マリア祭壇の前で御聖体に静かに祈りをささげました。そして祭壇中央へ向かう際には、一番前に陣取った難民青年たちと親しく言葉を交わし、セルフィーで写真まで撮られました。そして待ち受けた聖堂一杯の青年たちに、力強く語りかけられました。

 一年前のあの日、この聖堂で語られた教皇の言葉は、アドリブに満ちていて、滞在中一番長いスピーチとなりました。その興奮は、その後に何か新しいことが生まれるのではないかという期待を生み出すものでありました。この聖堂で、青年たちにみなぎる、エネルギーを感じました。

ところが、その後にどうなったのかは、皆さんよくご存じの通りであります。年が明けてすぐ、世界は新型コロナウィルスの感染症に襲われることになり、今に至るまで続いているいのちの危機が始まってしまいました。

人類の歴史に必ずや残るであろうこのコロナ禍は、未知の感染症であるが故に、そのはじめから今に至るまで、わたしたちを不安の暗闇の中へと引きずり込み、その出口が見えないまま、わたしたちは闇の中を光を求めて彷徨い続けています。

 教会もその荒波の中で、対応を迫られました。なんと言っても、密接・密集・密閉を避けるようにと呼びかけられているのに、教会はその三つの密のオンパレードですし、ましてや一緒になって大きな声で聖歌を歌ったりいたします。

 「いのちを守るための行動を」などという呼びかけが、当たり前のように、行政のリーダーたちの口から発せられています。そういえば、一年前の教皇訪日のテーマは、「すべてのいのちを守るため」でありました。「いのちを守る」は、今や教会の専売特許ではなくなりました。違いがあるとすれば、わたしたちは「すべての」と加えることによって、教皇フランシスコが常に示してきた、誰ひとり排除されない世界、忘れられて良い人は誰ひとりいないという姿勢を明確にしているところでしょうか。

  一年前のあの日、教皇はこの聖堂で、集まった青年たちにこう語りかけられました。
「夢を見ない若者がいます。夢を見ない若者は悲惨です。夢を見るための時間も、神が入る余地もなく、ワクワクする余裕もない人は、そうして、豊かな人生が味わえなくなるのです。笑うこと、楽しむことを忘れた人たちがいます。すごいと思ったり、驚いたりする感性を失った人たちがいます。ゾンビのように心の鼓動が止まってしまった人たちです」

 コロナ禍の闇の中を彷徨っているわたしたちは、不安にとりつかれています。世界は、対立と分断、差別と排除、孤立と孤独を深めています。まさしく「すべてのいのちを守るため」に、わたしたちは行動しなければならないと感じさせられます。

 この社会を目の当たりにして教皇は、神のいつくしみを優先させ、差別と排除に対して明確に対峙する姿勢を示してこられました。とりわけ教会が、神のいつくしみを具体的に示す場となるようにと呼びかけてこられました。

 一年前のあの日、この聖堂に集まった青年たちを前にして、「夢を見ない若者」の話をした教皇は、その理由をこう指摘されました。

 「なぜでしょうか。他者との人生を喜べないからです。聞いてください。あなたたちは幸せになります。ほかの人といのちを祝う力を保ち続けるならば、あなたたちは豊かになります。世界には、物質的には豊かでありながらも、孤独に支配されて生きている人がなんと多いことでしょう。わたしは、繁栄した、しかし顔の見えないことがほとんどな社会の中で、老いも若きも、多くの人が味わっている孤独のことを思います」

 同じ日の午後、東京ドームのミサの説教では、次のように述べておられます。

 「ここ日本は、経済的には高度に発展した社会です。今朝の青年との集いで、社会的に孤立している人が少なくないこと、いのちの意味が分からず、自分の存在の意味を見いだせず、社会の隅にいる人が、決して少なくないことに気づかされました」

 同じ日の朝、東北の被災者との集いでも、「一人で「復興」できる人はどこにもいません。だれも一人では再出発できません。町の復興を助ける人だけでなく、展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会いが不可欠です」と述べ、人間関係の崩壊が社会における孤立や孤独を生み出し、ひいては神からの賜物であるいのちを危機にさらしているのだと指摘されていました。

 教皇フランシスコの語られる「出向いていく教会」は、神の言葉が人となられてわたしたちのうちにおいでになったという救いの業の行動原理に倣う、教会のあるべき姿を表しています。

 教皇は青年たちに、こう呼びかけました。

 「次の問いを問うことを習慣としてください。『何のために生きているかではなく、だれのために生きているのか。だれと、人生を共有しているのか』と。」

 教皇訪問を受けて新しく出発しようとしていた日本の教会は、いまアイデンティティの危機に直面しています。なにぶんこれまでは、日曜日にできる限りたくさんの人が教会に集まってくれるようにと働きかけてきたのです。少しでもミサに参加する人が増えることが、宣教の成功の一つの指標だったのです。言うならば、わたしたちは、日曜日に教会に集まることで、教会共同体となっていたと思い込んでいたのでした。

 それが物理的にIchinenh集まることが難しくなった今、わたしたちは教会共同体というのはいったい何のことだろうかと自問させられています。集まらなくても繋がっている共同体というのは、いったい何のことなのだろうと考えさせられています。わたしたちは何のためにこの社会に存在しているのかを、あらためて見つめ直させられています。

 わたしたちは昨年の教皇の呼びかけを思い起こし、「何のために生きているかではなく、誰のために生きているのか。誰と人生を共有しているのか」を、あらためて見つめ直してみたいと思います。

 ちょうど、教皇訪日の前から、東京教区の宣教司牧方針の見直しの作業を進めておりました。訪日の準備と、その後のコロナ禍で、策定作業は遅れておりましたが、まもなく文書をお示しできるところまでこぎ着けました。あまり難しいことや、事細かな指針を作成することは辞めました。大枠を示すための、短くて分かりやすいものを提示したいと思います。

 その中で、昨年の訪日で残された教皇様の呼びかけを具体化するために、特に一つのことを実現したいと考えています。それは、教区の中でのさまざまな社会への奉仕活動、愛の活動がありますが、それらを一つに集約する組織を作りたいと思います。名称はどうなるか分かりませんし、まだ模索中ですが、いわゆる教区のカリタスであります。現在、社会奉仕活動においてもっとも活躍しているCTIC・カトリック東京国際センターを核にして、社会活動を集結する組織を実現することで、教皇の残された言葉に応えていきたいと思います。

2020年11月28日

・「コロナ後の世界をより良くできる否か、ヒントは新回勅に-チェルニー国務省次官講演

Cardinal Michael CzernyCardinal Michael Czerny 

 そして、前向きの対応を考える際、教皇が新回勅「Fratelli Tutti(兄弟の皆さん)」で述べておられるように、全ての人と国が「兄弟愛と社会的友愛」に立脚する必要を説いた。

 半ば逆説的に、人々には「移住しない権利」がある、と強調。それは、自分の国、故郷にいて自己実現ができること、新たな機会やよい未来を夢見るために、飢餓や戦乱、住環境の悪化などの苦しみから逃れるために国や故郷を出ることを強制されない権利だ、と語った。また、そうした人々が直面している多くの障害ー彼ら移民・難民を排除し、壁を作って追い込み、キリスト教の精神に反する外国人排除の姿勢をとる国粋主義や大衆迎合主義の政権から始まる障害ーを非難した。

 最後に枢機卿は若者たちの果たすべき役割に触れ、「友愛、連帯、そして無償の文化を創造する上での決定的な役割は、若者によって担われるもの」とし、「歴史、高齢者、そして創造に敬意を払い、世代間の社会的対話と連帯に取り組むことは、よりよい社会のための基盤となる価値を生む。常に移民・難民の人々に開かれた心をもって前に進むことにもなります」と強調した。

 そして「新型コロナ大感染は、私たち皆を危機に陥れましたが、教皇がおっしゃっているように、現在の危機が終わった後の人間は、それ以前と同じではありません。危機の経験をもとにして、私たちが以前より良くなるのか、悪くなるのか、それは私たちの選択にかかっているのです」と締めくくった。

 

2020年11月28日

・「キリストが求める生き方を自らの生き方に」菊地大司教の”王であるキリストの主日”説教

2020年11月21日 (土) 週刊大司教第三回:王であるキリスト

 年間最後の主日となりました。王であるキリストの主日です。

 この数日、東京都では新型コロナ感染症の検査陽性者が500名を超えることが続いており、週明けにはさらに増加することも懸念されています。また重症となられた方も30名を超えることが続いております。統計を見ますと、やはり高齢の方に重篤化する方が多いようです。東京大司教区にあっては、主日のミサに与る義務は引き続き免除されておりますので、健康に不安のある方はご自宅でお祈りください。

 私のメッセージを提供しております「週刊大司教」はミサではありませんが、その主日の福音を朗読し、説教を聞いていただき、主の祈りを一緒に唱えます。ミサに参加することが出来ない場合には、このビデオをご利用いただいて、霊的聖体拝領の一助としていただくことも出来ます。

 映像の停止などを自由に出来る方は、例えば、冒頭の集会祈願後に映像を一時停止し、第一朗読と第二朗読をご自分で聖書と典礼などから朗読され、その後映像を再開して福音朗読を聞き、私のメッセージ後の主の祈りが終わったら、再び映像を一時停止して、例えば下記のような祈りを唱えて、霊的聖体拝領とすることも出来ます。しばらくの沈黙の後に、あらためて映像を再開し、祝福とするような方法でご活用いただければと思います。

『聖なる父よ、あなたが私の心に住まわせられた聖なるみ名のゆえに、また、御子イエスによって示された知識と信仰と不滅のゆえに、あなたに感謝します。とこしえにあなたに栄光がありますように。

全能の神よ、あなたはみ名のためにすべてをつくり、また人々があなたに感謝するため、御子によって霊的な食べ物と永遠のいのちを与えられました。力あるあなたに何にもまして感謝します。

とこしえにあなたに栄光がありますように。アーメン」(カルメル会『祈りの友』より)

 または、次の聖アルフォンソ・リゴリの祈り。ほかにもたくさんの祈りがあります。

私のイエスよ、
最も祝福された秘跡のうちに、あなたがおられることを信じています。
私はあなたを何よりも愛し、私の魂にお迎えしたいと望んでいます。
今は秘跡によってあなたを受けることができませんから、せめて霊的に私の心に来て下さい。
私はすでにあなたが私の心におられるようにあなたを抱きしめ、私のすべてをあなたと結びつけます。
私があなたから離れることを、お許しにならないでください。アーメン。

 また聖体拝領などについて、2月27日に記した「司教の日記」(こちらのリンクです)もご一読ください。

・・・・・・・・・・・・・・・ 以下、本日配信の週刊大司教第三回のメッセージ原稿です。

 王であるキリスト(メッセージビデオ)2020年11月22日

 典礼の暦がまた新たな一年を始めようとしています。王であるキリストの主日は、典礼の暦では年間の最後の主日です。2020年は、時間が本当にあっという間に過ぎ去っていきました。一年前、私たちは教皇フランシスコが日本に滞在されているただ中で、王であるキリストの主日を祝いました。

 あの時、教皇訪日という高揚した気持ちの中にあった私たちは、これから何か新しいことが始まるのではないかという、漠然としてはいたものの、前向きの興奮に捕らえられていたように思います。それが年が明けるとすぐにコロナ禍が世界を襲いました。今度は、命が危機にさらされるのではないかという、やはり漠然としてはいたものの、後ろ向きな興奮の中で、この一年を過ごしてきました。残念ながら、その後ろ向きの状態から抜け出す道筋は不確かです。

 この一年、特に病床にあった方々のために改めて祈ります。また献身的に命を守るために取り組まれている医療関係者の皆様に、改めて感謝申し上げます。

 感染症のもたらす困難と命の危機に直面して、私たちは再び、人間の知恵と知識、そして科学や技術の力は、世界の中では本当に小さく弱いものであることを思い知らされています。世界を支配するのはその創造主である全能の神であることを、改めて心で感じ取っています。私たちは、創造主である神に命をいただき、生かされている者です。ですから、この世で賜物である命を生きる上で、世界を支配する王であるキリストが私たちに求める生き方に、改めて目を向け、それを自らの生き方としたいと思います。

 教皇フランシスコは先週の日曜日を、貧しい人のための世界祈願日と定め、シラ書七章三十二節からとった「貧しい人に援助の手を差し伸べよ」と言う言葉をテーマにしたメッセージを発表されています。その中で教皇はこう指摘されています。

 「弱い立場に置かれている人を支え、傷ついた人をいやし、苦しみを和らげ、尊厳を奪われた人にそれを取り戻す、そうした寛大さは、人間らしく充実した人生に欠かせない条件です。貧しい人とその多種多様なニーズに目を向けるという選択は、時間の有無や個人の損得、あるいは血の通わない司牧や形だけの社会的事業には左右されません。自分をいつ も優先する自己陶酔的な傾きによって、神の恵みの力を抑えつけることはできないのです」

 教皇フランシスコは、教会は慈しみを提供する最前線の野戦病院であれ、と繰り返し述べられ、貧しい人、弱い立場に置かれた人たちへの心配りが教会にとっての重要な使命であると常日頃から指摘されています。

 まさしく福音にあるとおり、「私の兄弟であるこの最も小さな者の1人にしたのは、私にしてくれたことなのである」と言う主イエスの言葉を、常に心に刻み、それに忠実に生きようとする姿勢であります。

 教皇は、「自分を優先する自己陶酔的な傾き」が、神の慈しみが豊かに働こうとするのを妨げるのだと指摘されています。その上で教皇は、「祈りに費やす時間は、困窮する隣人をなおざりにする言い訳には決してなりえません。正しくはその逆です。貧しい人への奉仕が伴って初めて、私たちに主の恵みが注がれ、祈りが聞き入れられるのです」とまで言われます。

 私たちはこの世界において、神の豊かな憐れみが力強く働こうとする時に、その道具として憐れみと慈しみを具体化する者とならなければなりません。私たちの世界を支配するのは、悪の力ではなく、慈しみそのものである神の御言葉、主イエス・キリストです。

2020年11月21日