・バチカンでカンタラメッサ枢機卿の待降節講話第二回「永遠の命を信じることは友愛の世界の助け」

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 また、枢機卿は、キリスト教徒にとって、永遠の命を信じることは、正確な事実を基にしており、それは、キリストの復活と彼の約束。「イエスは言われました。『私の父の家には住まいがたくさんある。もしなければ、私はそういっておいたであろう。あなたがたのために場所を用意しに行くのだ』(ヨハネ福音書14章2~4節参照)と。このことは、復活されたイエスと共に生き、『三位一体の命の豊かさと喜び』の中でイエスの人生を分かち合うことを意味します」と説いた。

 続いて枢機卿は、死後の命を信じることが、19世紀にある考え方の台頭によって衰えてしまったことを取り上げた。それは、「神における個々人の生存を、人間という種と未来の将来における生存に置き換える」考え方であり、 「『永遠』」という言葉は、疑いの目をもって見られただけでなく、次第に、忘れられ、沈黙させられていきました」。

*世俗化が「永遠の命」を衰退させた

 「世俗化はこの衰退のプロセスを完成させ、『神の王国とカエサルの王国の分離』、そして『宗教と信仰に敵対する社会的態度のすべて』をもたらし、キェルケゴール(注:19世紀のデンマークの哲学者で実存主義の創始者)の言葉のように『来世は冗談に変えられた』のです」と語った。

 さらに枢機卿は「永遠の視野の崩壊は、キリスト教の信仰に、火に砂をかけるのと同じ効果がある。窒息させてしまうのです。聖パウロは『(死者が復活しないとしたら)食べたり飲んだりしよう。どうせ明日は死ぬのだから(ということになります)』(コリントの信徒への手紙1/15章32節参照)と語ることで、この”永遠の消滅”がもたらす結果について警告しています」とした。

 そして、「『永遠』に生きたいという自然のままの欲求は、『良く』生きたいー必要なら他人を犠牲にしても、愉快に生きたい―という欲求、あるいは熱狂になります。永遠の視野の崩壊とともに、人間的な苦しみは大いに馬鹿げているように見え、治療薬はありません」と警告した。

*永遠の命と福音宣教

 枢機卿は、永遠の命を信じることは、福音宣教を可能なものにする条件の一つであり、そのことはパウロの言葉ー「キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であり、あなた方の信仰も無駄になります」(コリントの信徒への手紙1/15章14節)が説明している、としたうえで、「永遠の命を宣言することに、私たちは自分の信仰だけでなく、人の心の奥深くにある渇望との密接な関係を活用することができる… 改めて永遠を信じることは、私たちを自由にし、過ぎ去るものに執着しないように助けてくれるのです」と説いた。

*来世に備える

 最後に枢機卿は、死後の命を信じ直す必要を示すために、たとえを用いながら語った。「立ち退き命令を受けた人が、引っ越し先の家ではなく、立ち退く家の改修に持っている資金のすべてを費やすのは、愚かなこと。それと同じように、この世を去るように定められている私たちにとって、死後の自分に繋がる良い仕事を怠り、この世の家を飾り立てることだけを考えるのも、愚かなことです」と言明した。そして「永遠、という概念の衰退は、、神を信じる人々に影響を与える。人生の苦しみや試練に勇気を持って立ち向かう能力を低下させるのです」と付け加えた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

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2020年12月12日