・「神からの愛を実践を通して証しする」菊地大司教の四旬節第四主日の説教

2021年3月13日 (土) 週刊大司教第十九回:四旬節第四主日

21march11a 四旬節第四主日となりました。(写真は3月11日のミサから)

 本来の行事予定では、3月14日には教区一粒会(いちりゅうかい)の総会が予定されていました。残念ながら、現在の状況の中で、大勢の方を集めての総会は難しいと判断しましたので、今年の総会は行われません。

 一粒会は、召命のために祈り、献金する、神学生養成を援助する会です。教区の信者(信徒、修道者、司祭)すべてが会員です。一粒会について、教区のホームページから転載します。

 「1938年に東京大司教に任命された土井辰雄師の司教叙階式に参列した信徒たちの数人が、司祭召命と養成のために「何かをしなくては」と思い立ったのが一粒会発足のきっかけとなりました。

 その頃、軍国主義の高まりによって外国人宣教師たちに対する迫害や追放など、教会にもさまざまな圧迫があり司祭召命に危機感を抱く信徒が少なからずいたのでした。

 当時の一粒会の規則は、司祭召命のために毎日「主祷文(主の祈り)」を一回唱え、祈りのあとに1銭(1円の百分の一)を献金するというものでした。一粒会という名称は「小さな粒を毎日一粒ずつ貯えていく実行、しかも行いを長続きさせるということを考慮に入れての命名」だったそうです。

 戦中・戦後、途絶えていた一粒会の活動は1955年頃に復活し、現在に至っています。東京教区の「一粒会」の会員は教区民全員です。会長は菊地功大司教です。神学生養成のために皆さまの心のこもったお祈りと献金のご協力をお願いします」

 と言うわけで、献金については個人の献金も受け付けています。送金先については、教区のホームページのこちらのリンクをご覧ください。振込先口座だけではなく、毎日唱えていただける召命のための祈りも記載されています。

 召命は神からの呼びかけですが、呼びかけに応えるためにきっかけと勇気が必要です。多くの方に、主は声をかけておられます。呼ばれた者が勇気を持ってそれに応え、一歩を踏み出すことが出来るように、皆様のお祈りと、声がけをお願いいたします。司祭・修道者としてふさわしいと思われる青年男女に、是非声をかけ励ましてください。

 教皇様は3月11日に、駐日教皇庁大使を任命されました。前任のチェノットゥ大司教が昨年9月に帰天されてから、空位となっていました。新しい大使は、イタリア出身のレオ・ボッカルディ大司教(His Excellency Monsignor Leo Boccardi) で、現在は駐イラン大使を務めておられます。これまでの経歴の中には、イランの大使、スーダンとエリトリアの大使もありますが、3月11日という日に日本の大使に任命された方が、以前には「教皇庁国務省外務局で働き、国連の国際原子力機関(IAEA)や欧州安保協力機構(OSCE)、包括的核実験禁止条約準備委員会(CTBTO)への聖座代表」を務めていたというのは、少なからず、広島や長崎を訪れた教皇フランシスコのご意向があるように感じます。来日が待たれるところです。

 教皇様は、3月13日で、教皇に選出されて8年となります。先代のベネディクト16世の退位を受け、2013年3月13日の枢機卿会にて教皇に選出されました。現在84歳の教皇フランシスコのために、お祈りください。

 以下、本日公開の週刊大司教第十九回目のメッセージ原稿です。

【四旬節第四主日B(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第19回 2021年3月14日】

 「独り子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」

 ファリサイ派の議員であり、指導者でもあったニコデモとイエスとの対話を、ヨハネ福音は描いています。そこでは、永遠の命を得るために必要なことはイエスを信じることであって、救いは神からの恵みとして与えられることが強調されています。

 パウロはエフェソの教会への手紙で「あなた方が救われたのは恵みによる」と記して、私たちの救いは、自ら創造された命を愛してやまない神からの、一方的な恵みによっていることを明確にします。

 ヨハネは「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と記し、その独り子が、信じる者皆の救いのために「上げられねばならない」と語るイエスの言葉を記して、十字架上でのイエスの受難と死が「神の愛に基づく徹底的な自己譲与の業」であることを明確にします。同時にそれは、十字架が神のあふれんばかりの愛の、目に見える証しであること、しかも具体的な行いによる愛の証しであることを明らかにしています。さらに、神の愛は、裁きではなく救いをもたらすことも明示されています。

 神は愛する民を闇の中の苦しみに放置することなく、光へと導こうとされます。それは神が自ら創造された命を愛してやまないからであり、神はなんとしてでもすべての命を救いへと招き入れようと、手を尽くされています。

 神の豊かな愛に包まれて救いへと導かれているのですから、神を信じる私たちは、その愛を、一人でも多くの人へと伝え、一人でも多くの人がその愛に包まれて、光を見出して生きることができるように、愛の実践を通じた証しの業に務めなくてはなりません。

 そもそも私たちは、「自分の性格が優しいから」とか、そういった個人的な理由で愛の業に励むのではありません。私たちは、神の愛に包まれて生かされているからこそ、その恵みとして与えられている愛を実践することで、一人でも多くの人に証しをしたいのです。愛に包まれていることを感じる時、私たちは理念としてではなく、実感として人類愛を語ることができます。教皇フランシスコは、今年の四旬節メッセージで、「多様な社会の中で共通して愛を語るために、人類愛から始めることの重要性」に触れ、次のように記しています。

 「人類愛から始めるなら、誰もがそこに招かれている、と感じられる、愛の文明に向けて進むことができます。愛は、そのすべてに及ぶダイナミズムをもって、新しい世界を築くことができます。愛とは、何も生み出さない感情ではなく、すべての人にとって有効な発展の道を得る最高の方法だからです」(『Fratelli tutti』183)。

 3月11日で、東日本大震災が発生して10年となりました。改めて亡くなられた多くの方々の永遠の安息を祈ります。日本の教会はこの10年、まさしく私たちを包み込む神の愛の証しとして、東北の被災地で復興支援活動に携わってきました。10年の節目に、教会全体としての活動は終わりを迎えますが、当然、東北各地には教会共同体があり、この10年の活動の実りも残されています。これからも、仙台教区の教会共同体と共に、東北各地の皆様と歩みを共にしながら、一人でも多くの人が、神の愛に包まれていることを実感できるよう、努めていきたいと思います。

 多くの人が、希望と愛を必要としています。闇に輝く光を必要としています。

(編集「カトリック・あい」)

2021年3月13日

・カンタラメッサ枢機卿の四旬節説教③「キリストの神性について」

Cardinal Cantalamessa preaches the third sermon for Lent 2021Cardinal Cantalamessa preaches the third sermon for Lent 2021  (ANSA)

(2021.3.12  Vatican News staff reporter)

 ラニエロ・カンタラメッサ枢機卿の四旬節説教の3回目が12日、バチカンで、「イエス・キリストの神性」をテーマに行われた。

 この説教で枢機卿はまず、「今回の四旬節の一連の説教を、『あたかも、キリストが存在しなかった』ように教会について話す傾向に対応する形で進めてきました」と前置き。

 そのうえで、その対応の仕方は、「通常のやり方、つまり、世界とメディアが自分たちの過ちを認識するように努めるのではなく、私たちのキリストに対する信仰を新たにし、強めることによって、対応しようとするものでした」と語った。

*キリストの神性の教義

 そして、先の説教で取り上げた「キリストの人間性」に関する教えに続いて、「キリストの神性の教義」についてのの考察に入った。

 「キリストの神聖の教義」は初期教会において宣言され、第一ニケア公会議(325年に小アジアの町二ケア現在のトルコ共和国ブルサ県イズニク)で開かれたキリスト教史における最初の全教会規模の会議)で確認された。宗教改革の時代も、この教義はそのまま維持され、ある意味でその中心的な役割が強化された。

 しかし、「プロテスタントの指導者たちの重点は、個々人のためのキリストの慈善に置かれ、それが、キリストについての『客観的で教義的な真理』と『主観的で親しみのある知識』を区別する道を拓いてしまった… その後、啓蒙・理性主義が、道徳的な教師としてのキリストを強調し、キリストの神性の否定につながりました」と枢機卿は語った。

*「私は誰だと言うのか?」

 さらに枢機卿は、「イエスの関心は、自分について世界がどう考えているかではなく、弟子たちがどのように見ているか、にある」とし、「福音書で、イエスは弟子こう尋ねます-『ところで、あなたがたは、私を誰だと言うのか』と。これがまさに、この瞑想の中で、私たちが答えようとしている問いなのです」と述べた。

  そして、「福音書のすべてのページから、キリストの『神の超越』が、滲み出ています… ヨハネの福音書には、イエスの神性は『主要な目的… あらゆるものを含む主題』とある」とし、ヨハネの福音書の中でイエスの「私はある(EGO EIMI)」(8章 24, 28, 58 節と13章19節)という言葉を聞いた時に、深く感動した自分の体験を語った。「それは、信仰からくる単純明快な感動で、それ以外のものではありませんでしたが、それが去った後も、消えることのないしるしを私の心に残しました」。

 

*「イエスの神性」の確信を取り戻す

 枢機卿は、「キリストの神性についての奥深い体験が今、これまで以上に必要とされています」と強調。「それは、イエスは神であるという客観的な真理が、いかにしてこの教えについての主観的、実用的な見方を強化するものであるかを、知るのに役立ちます。信仰は、心の中から始めねばなりません。それが公言される前においてさえも、です」と説いた。

 さらに「キリストの神性は”最も高い峰”であり、信仰の”エベレスト”。そして今日、私たちは、キリストの神性の確信を取り戻し、ニケア信条を導き出した”信仰の噴出”を再現するための条件を作り直さねばなりません」とし、「今日、キリストの人間性を疑う人は誰もいません。信じる者とそうでない者を分けるのは、イエスも神だ、ということを信じるか否かです。キリスト教の信仰は、キリストの神性にある」と語った。

 

*人生の意味

 説教の終わりに、枢機卿は、この教義を信じることの主観的な利点についての現代の懸念に再び目を向け、次のように締めくくった。

 「現代人は、それとは反対のことを主張をしているにもかかわらず、人生の意味を問い続けています-新型コロナが世界的な大感染を続けている今、この問いかけは、さらに顕著になっている… キリストの神性を信じることで、『人生には意味がない』とする現代の誘惑に抵抗することができる… キリストが『真の神』であるからこそ、『永遠の命』であり、永遠の命を与えてくれるのです」。

(四旬節2021年の第3説教の全文は、カンタラメッサ枢機卿のウェブサイトhttp://www.cantalamessa.org/?p=3928&lang=enで読むことができます)

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2021年3月13日

・「自身の生きる姿勢を見直し、東北の被災地の上に神の豊かな祝福と守りを祈り続けよう」菊地大司教の震災10年ミサ

2021年3月11日 (木)東日本大震災発生から10年。祈ります。

 2011年3月11日に、東日本大震災が発生して10年となりました。

 大震災によって亡くなられた方々、またその後の過酷な生活の中で亡くなられた方々、あわせれば二万人近くになります。亡くなられた方々の永遠の安息をお祈りいたします。また今でも行方が分からない方や、避難生活を続けられる方も多数おられ、一日も早く、希望が回復するように、心からお祈りいたします。

 命の希望を掲げる教会はこの10年間、東北の地に生きる存在として、その役割を果たそうと務めてきました。特に東北の沿岸部に9カ所設けられたボランティアの活動拠点は、その基礎となる地元の教会と共に、地域の方々と一緒に時を過ごす中で、求められている希望は具体的に何であるのかを模索しようとしてきました。

 そのために日本の教会は、10年間と期間を定めて、全国の教会を上げての復興支援活動を行ってきました。この3月末で、ひとまずこの全国を上げての活動は、一旦終了となります。同時に、教会はそもそも地元に根付いてある存在ですし、教会は普遍教会として一つの体ですから、これからも、東北各地の教会を通じて、教会としての支援の歩みは続けられます。

 10年の節目ということもあり、当初は仙台に司教団も集まり、ミサを捧げる予定でおりましたが、新型コロナ感染症の影響のため、それぞれの教区で祈りをささげることに変更となりました。東京教区でも、午後2時半から、東京教区ボランティアセンター(CTVC)が中心となって、祈りのひとときを持ち、ミサを捧げました。

 私自身が責任者を拝命しておりました司教団の復興支援室も、3月末で閉鎖となります。大阪教区の神田神父、濱口氏との三名で、さまざまな調整作業にあたってきましたが、これも、特別な儀式的なことは一切なく終わりを迎えることになりました。仙台教区のサポートセンターも同様です。さらには東京教区のCTVCも、同様に3月末で活動を終えます。

 活動終了にあたり、まず司教団の復興支援活動に関しては、活動評価作業を実施しており、7月頃にはまとまる予定です。仙台サポートセンターからは、この10年の活動を振り返る130ページもの記録集が発行されました。CTVCも記録を発行しています。この10年間の活動は、教会の宝として残されています。宝を隠してしまうことなく、今後の教会のあり方に、行かしていきたいと思います。

 東京教区のCTVCの活動は、今後計画されている社会系活動を統合した教区カリタス組織に受け継がれていきますし、同時に、この10年のかかわりを通じて育まれた東北の方々との歩みは、特にカリタス南相馬とのかかわりなどを通じて、これからも続いていきます。

 これまで10年の活動に関わってくださった多くの皆様に、心から感謝申し上げます。教会が本物の希望の光となって、闇の中でも道をしっかりと照らす存在となることができるように、これからも務めたいと思います。

 以下、本日、東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われた、「「思い続ける3.11」オンライン 東日本大震災 犠牲者・被災者・避難者のために祈るつどい」のミサ説教原稿です。

(東日本大震災10年 思い続ける 3.11 ミサ 東京カテドラル聖マリア大聖堂 2021年3月11日)

 あの日から10年という時間が経過しました。人生の中で、あの日あの時間にどこで何をしていたのか、明確に記憶している出来事はそう多くはありません。10年前のあの日あのとき、私は秋田から新潟へ帰る羽越線の電車の中にいました。山形県の鶴岡駅手前で立ち往生した電車の中で、携帯も通じなくなり、繰り返す余震に揺られながら、まだそのときは東北各地の被害の大きさは、想像もできていませんでした。

 未曾有の大災害が、東北の太平洋沿岸部を中心に東日本を襲ってから10年です。あらためてこの10年の間に亡くなられた2万人近い方々の永遠の安息をお祈りいたします。消防庁の統計によれば、2020年3月の段階で2500名を越える方の安否が不明であり、また復興庁によれば同年10月現在で、4万人を超える方が避難生活を続けておられます。心からお見舞い申し上げます。

 これまでの経験したこともない規模の災害です。私たちの想像を遙かに超える被害に呆然とする中、世界中の方々から支援をしていただきました。震災の翌日から、カリタスジャパンには世界中からの問い合わせと支援の申し出が相次ぎました。結果として国内は言うに及ばず、世界各地から多くの支援がよせられました。この10年間のカトリック教会の復興支援活動を支えてくださったのは、世界中の兄弟姉妹の皆様が、被災地への思いを寄せてくださるあかしとしての支援のおかげです。

 また多くの方がボランティアに駆けつけてくださいました。この10年の東北各地の復興に寄り添い歩みを共にするボランティアの活動は、世界に広がる連帯の絆を生み出し、その後、今に至るまで毎年頻発している各地の大規模災害にあって、その支援活動に繋がっています。私たちはこの10年の時の流れの中で、互いに支え合うことの大切さを、心で実感し、学びました。

 日本のカトリック教会は、災害発生直後の3月16日に、仙台において復興支援のためのセンターを立ち上げました。被災地はそのほとんどが仙台教区の管轄地域と重なっていましたので、仙台教区を中心として、復興支援活動を行ってきました。その後3月の末には司教たちが集まり、全国16の教区が一丸となって力を結集し、10年間にわたり復興支援活動を行うことを決めました。私たちはこれを「オールジャパン」などと呼んできました。

 沿岸部を中心に被災地にはボランティアベースがいくつか設けられ、この10年の間、教会内外、そして国内外から、ボランティアベースに多くの方が駆けつけ、また中にはリピーターとして何度も足を運び、復興を目指して歩み続ける被災地の方々と、その歩みをともにする活動に参加してくださいました。東京教区でも、CTVCを中心として、そのほかにも多くの信徒の方の団体が結成され、今に至るまでの息の長い支援活動を続けてきました。参加してくださった多くのボランティアの皆様に、心から感謝申し上げます。

 いったいこの10年の体験は、教会にとって、どういう意味を持っていたのでしょうか。

 先ほど朗読されたエレミヤ書には、神が幾たびも幾たびも、さまざまな方法でご自分の民に語りかけられ、しかしながら、民が耳を傾けようとしないことが記されていました。

 耳を傾けようとせず、自分たちの思いのままに生きようとする民に、それでも神は辛抱強く語りかけられます。回心することなく耳を傾けない民を前にして、神が最終的に決断されたのは、罰することではなく、自ら人となり、直接語りかけ、さらにはその罪の贖いのために、十字架上で自らをいけにえとして献げることでありました。

 なぜなら、神は、慈しみにあふれた神だからです。忍耐にあふれる神だからです。ご自分の賜物として創造し与えられた命を、徹底的に愛される神だからです。

 災害がどうして起こるのかその理由は誰にも分かりません。しかし私たちは、災害そのものではなく、その後に起こったさまざまな体験を通じて、神からの語りかけを学ぶことができます。

 私はこの10年間の歩みを通じて、とりわけ「人は何のために生きるのか」という問いかけへの神からの答えを体験してきた、と感じています。

 それは、2019年11月に日本を訪れた教皇フランシスコの言葉からも耳にすることが出来ました。教皇は、東京での被災者との集いで、次のように述べておられます。

 「食料、衣服、安全な場所といった必需品がなければ、尊厳ある生活を送ることはできません。生活再建を果たすには最低限必要なものがあり、そのために地域コミュニティの支援と援助を受ける必要があるのです。一人で『復興』できる人は、どこにもいません。誰も一人では再出発できません。町の復興を助ける人だけでなく、展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会いが不可欠です」

 私たちは、互いに助け合うために、支え合って命を生かすために、展望と希望を生み出すために、命を生きていることを、この10年間の歩みを通じて、神は私たちに語りかけ続けています。

 カトリック教会は、災害の前から地元に根付いて共に生きてきた存在であり、これからも地元と共に歩み続ける存在です。ですから、私たちの歩みは、「どこからかやってきて去って行く一時的な救援活動」に留まらず、東北のそれぞれの地で、地域共同体の皆さんと将来にわたって歩みをともにする中で、命の希望の光を生み出すことを目指す活動です。

 仙台教区は、復興支援の先頭に立つ時、「新しい創造」をモットーとして掲げ、過去に戻る道ではなく、希望を持って前進を続ける道を選びました。ですから教会の復興支援活動は、10年という節目を持って終わってしまうわけではありません。普遍教会は、仙台教区の小教区共同体として存在を続け、私たちはその教会共同体を通じて、これからも展望と希望を回復する道を歩み続けます。

 教皇は、東北の被災地の方々との集いにおいて、「日本だけでなく世界中の多くの人が…祈りと物資や財政援助で、被災者を支えてくれました。そのような行動は、時間が経てばなくなったり、最初の衝撃が薄れれば衰えていったりするものであってはなりません。むしろ、長く継続させなければなりません」とも指摘されています。

 旧約の時代にそうであったように、神は辛抱強く語りかけられます。語り続けます。私たちが耳を傾ける時を忍耐強く待っておられます。

 私たちは、互いに助け合い、支え合って命を生かし、展望と希望を生み出す世界を生み出しているでしょうか。誰ひとり排除することなく、すべての命が守られ、人間の尊厳が尊重され、闇に取り残されることのない社会を実現しているでしょうか。教会はその中にあって、暗闇に輝く光となっているでしょうか。

 この10年の歩みを振り返りながら、改めて、私たち自身の生きる姿勢を見直してみましょう。そして改めて、東北の被災地の上に、神様の豊かな祝福と守りがあるように、祈り続けましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2021年3月11日

・カンタラメッサ枢機卿の四旬節説教②「イエスは聖なる方、私たちを聖なる者にしてくださる」

Cardinal Cantalamessa preaches a Lenten sermon (file photo)Cardinal Cantalamessa preaches a Lenten sermon (file photo)  (ANSA)

 教皇の説教師、ラニエロ・カンタラメッサ枢機卿による四旬節説教の2回目が5日、バチカンで行われ、「すべての人間にとって完璧な模範としてのイエスの人間性」がテーマに取り上げられた。

 枢機卿はまず、教皇フランシスコが教会にとっての4つの座標として「信仰」「聖体」「ミサ典礼」そして「祈り」を指摘された、とし、その指針をもとに、イエスを「これまで以上に真に私たちの人生の主」にするのを助けることに焦点を当てて考察した。

*イエス・キリストは真の神であり真の人間

 枢機卿は瞑想の基礎として、カルケドン公会議*で確認された教義-キリストは完全な神性と完全な人間性を備えているーを思い起こした。(注:カルケドン公会議=西暦451年秋にカルケドン(現在のトルコ・イスタンブール市のカドゥキョイ地区)で行われた公会議で、キリストに神性と人性の両方があることを確認した。)

 この基本理念から、枢機卿はイエスの完全な人間性に注目。「カルケドン公会議は、イエスが真の人間であるという教義を擁護し、この真理が確保されていることで、イエスが『新しい』人間ー他のすべての人は、その方の似姿ーであるという、福音書の見方に、私たちは重きを置くことができるのです」と語った。

*イエスの神聖さ

 イエスの完全で真の人間であることを確認することは絶対に必要だが、聖書はイエスの神聖さも強調している、としたうえで、枢機卿はこう述べたー「福音書は、その人生のすべての時を生き抜いたイエスの神聖さを示しています… 山上説教でなさった『至福の教え』…はイエスが人々のために描いた美しい計画であるだけでなく、弟子たちに示された、ご自身の、人生そのもの、そして経験なのです」。

*神聖さは賜物

 そして、「だが、これは私たちにとって何を意味するのでしょうか」と枢機卿は問いかけ、「イエスを『聖なるかた』とお呼びするように、私たちも『聖なる者』と呼ばれるかというと、それほどではないでしょうが、イエスは私たちに、神聖であることを無料で伝え、認め、与えてくださるのです、イエスは聖なるかたであり、私たちを聖なる者にしてくださいます。イエスは神の子であり、私たちを神の子どもたちにしてくださいます」と強調。

 さらに、「私たちはこの賜物を、何よりも信仰を通して、いただけます。キリストが私たちのために勝ち取ってくださったものを、私たちは信仰を通して、自分のものにするのです」とし、 「私たちは、イエスに倣って、人生にそれを当てはめ、『古い自分』を脱ぎ、『キリスト』を身に着けるように、呼ばれているのです」と説いた。

 また枢機卿は、「キリストに倣う義務について聞く機会は、他にもたくさんあります」と述べ、「一つの小さな実践的な決意」で説教をこう締めくくったー 「いかなる決定をする、あるいは答えを出す場合もその前に、できるだけ頻繁に自分自身に問いかけてみましょう-『この場合、イエスに喜ばれることは何だろうか』。そして、その決定、答えをただちに行うことです」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2021年3月7日

・菊地大司教の四旬節第三主日、「性虐待被害者のための祈りと償いの主日」の説教

2021年3月 6日 (土) 週刊大司教第十八回:四旬節第三主日

 残念ながら、緊急事態宣言は二週間ほどの延長となりました。このままですと、なんとか聖週間は典礼が行えるだろうと想定しています。すでにお知らせしていますし、同様のお知らせは8日の月曜日小教区に送付しますが、現在の感染症対策をこのまま継続します。

 また聖週間の典礼については、すでに教区の典礼担当者(4月以降の教区典礼委員会)から、主任司祭宛にガイドラインを送付しています。基本的にそれぞれの小教区における典礼の最終責任者は主任司祭ですので、主任司祭の指示に従うようにお願いしたいのですが、行列の中止や洗足式の中止、また歌唱部分の変更など、いつもとは異なる聖週間の典礼となります。ご協力をお願いいたします。

 教皇様は昨日3月5日から8日まで、教皇として初めてとなるイラクの司牧訪問中です。教皇様のため、またイラクの方々のためにお祈りください。

 以下、本日夕方公開した、週刊大司教のメッセージ原稿です。

 

【四旬節第三主日(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第18回 2021年3月7日 性虐待被害者のための祈りと償いの主日】

「命は神の賜物」であると、私たちは信じています。神から与えられた命の尊厳を守ることは、私たちの務めです。残念ながら、その務めの模範たるべき聖職者が、とりわけ性虐待という命の尊厳を辱め、蹂躙する行為におよんだ事例が、世界各地で、過去長年にさかのぼって報告されています。

 また私たち司教をはじめとした教会の責任者が、事実を隠蔽した事例も、各地で明らかになっています。日本の教会も例外ではありません。

 被害者が未成年や子どもであった場合、その事実を公けにできるまでには、深い苦しみと大きな葛藤があり、充分な時間が必要です。何十年も経ってから、その事実を公けにされた方も少なくありません。そのような深い苦しみと大きな葛藤を長年にわたって強いたにもかかわらず、教会の対応が全く十分とは言えないことを含め、被害を受けられた多くの皆様に、心からお詫びいたします。

 教皇フランシスコは、教会全体がこの問題を直視し、その罪を認め、ゆるしを願い、また被害にあった方々の尊厳の回復のために尽くすよう求め、特別な祈りの日を設けるようにと指示されました。日本では、「性虐待被害者のための祈りと償いの日」を、四旬節・第二金曜日と定めました。今年は、去る3月5日です。東京教区では、今日7日の主日にも祈りを捧げています。

 出エジプト記はモーセに与えられた神の十戒を記していましたが、教皇ヨハネパウロ二世の回勅「命の福音」にはこう記されています。

 「『殺してはならない』という掟は断固とした否定の形式をとります。これは決して越えることのできない極限を示します。しかし、この掟は暗黙のうちに、命に対して絶対的な敬意を払うべき積極的な態度を助長します。命を守り育てる方向へ、また、与え、受け、奉仕する愛の道に沿って前進する方向へと導くのです(54)」

 今回の感染症に直面する中で、教会が選択した「公けの活動の停止」という行動は、後ろ向きな逃げるための選択ではなく、命を守るための積極的な選択でした。それはカテキズムにも記されているとおり、まさしく「殺してはならない」という掟が、他者を命の危機にさらすことも禁じているからであり、それはすなわち、「隣人を自分のように愛せよ」という掟を守るためでもあります。

 人間の尊厳をないがしろにしたり、隣人愛に基づかない行動をとることは、神の掟に反することでもあります。命を賜物として大切にしなければならないと説く私たちは、その尊厳を、命の始めから終わりまで守り抜き、尊重し、育んでいく道を歩みたいと思います。

 教皇フランシスコは、今年の四旬節メッセージにこう記しておられます。

 「愛は、他の人がよい方向に向かうのを見て、喜びます。誰かが孤独、病気、住む場所の無い状態、侮辱、貧困などによって苦悩していれば、愛も苦しむからです。愛は心の躍動であり、それが私たちを自らの外へと出向かせ、分かち合いと交わりの絆を築くのです」

 イエスは神殿が、その本来の目的と異なるあり方をしていることに怒りを表されました。神が与えてくださった命が、神が望まれる生き方をすることができるように、その尊厳が守られるように、愛に満ちあふれた存在であるように、努めていきたいと思います。

2021年3月6日

・「信仰は、常なる挑戦へ旅立つことを求める」菊地大司教の四旬節第二主日説教

2021年2月27日 (土) 週刊大司教第十七回:四旬節第二主日

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 東京は坂が多いところだと、つくづく思います。アップダウンが結構激しい。東京カテドラルのある関口も丘の上ですから、例えば地下鉄の駅を出てからカテドラルに向かうと、有楽町線の江戸川橋駅でも護国寺駅でも、どちらから来ても、だらだらと長い坂を上ることになります。

 今朝ほど所用で、後楽園にある文京区役所へ。天気も良かったので、関口から音羽通りの「谷」へ歩いて下り、大塚警察からお茶の水女子大学の横の「丘」を登り、茗荷谷の駅まで20分ほどの散歩。そこから丸ノ内線の地下鉄で後楽園駅まで。この区間は、地下鉄とはいえ、見事に地上の鉄道です。

 後楽園駅は地下二階で文京区役所とつながっています。到着したときはそれほど感じなかったものの、所要を済ませて帰り道。地下二階の連絡通路から後楽園駅に入り、ホームに向けて、ひたすら上る。写真の通り、丸ノ内線のホームは隣の文京区役所の地上二階あたりです (文京シビックホールと隣接のビルが区役所)。

 「地下鉄」の改札を入ってから、なんとなく常識的に下へ降りる階段を探してしまいますが、ホームへは上りの階段。連絡通路からは四階分を上ります。鉄道はなるべく高低差を設けないで進みますから、それだけこのあたりの地形がアップダウンしているわけで、茗荷谷から後楽園に向けて、かなりの谷になっているんですね。東京は、坂が多い町です。

 さて、緊急事態宣言は、東京都と千葉県ではまだ解除になりません。したがって、現在の教会活動における感染症対策は、現状の通り継続します。それぞれの時点での東京教区の対応は、一覧を教区ホームペ

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ージに掲載しています。教区ホームページの一番上に、常に現時点での対応へのリンクのバナーが掲示されています。こちらのリンクをご覧ください

  コロナ禍になって以来、オンラインでの会議が当たり前になりました。Zoomなんて手段、一年前までは名前も知りませんでした。日本の司教協議会関連の会議も、このところオンラインですが、海外との会議もオンラインになりました。3月7日に解除になることを期待しつつ、解除された場合には、その時点での新たな対応について、別途お知らせいたします。

 国内も海外も、実際に移動しなくて済むのは良いのですが、海外の場合は参加者の時差があり、どこの時間に合わせて行うかが、今度は難しい調整になります。また物理的に移動する必要がないので、立て続けにさまざまな会議が続いてみたりして、自分の事務室の机の前に、朝から晩まで張り付いている羽目になることもしばしばです。

 オンラインで会議が淡々と進行するのは良いのですが、そして時間の節約にもなっていますが、やはり実際に会って話をすること、休憩時間に一緒にお茶をいただくことの大切さを感じています。そんな休憩のときに、それまで懸案となっていた事案が思いのほか解決したりすることを、これまで何度も体験してきたので、やはりオンラインだけですべてはすませられない、とも感じています。写真は、数日前のFABC(アジア司教協議会連盟)のオンライン会議参加者の一部です。

 

 以下、本日夕方公開の週刊大司教第17回目のメッセージ原稿です。

【四旬節第二主日B(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第17回 2021年2月28日】

 イエスは常に歩み続けます。権威をもって教え、人知をはるかに超える奇跡を行い、多くの人から賞賛を受けていても、その賞賛の場に留まることなく、さらに多くの人に神の福音を宣べ伝えるために、旅を続ける方です。

 本日のマルコ福音は、旅路を歩むイエスが、三人の弟子たちの前で、光り輝く姿に変容した出来事を伝えています。神の栄光を目の当たりにしたペトロは、驚きのあまり何を言っているのか分からないままに、そこに仮小屋を建てることを提案した、と福音は伝えます。

 ペトロは、その輝かしい神の栄光の場に留まり続けることを望みました。しかしイエスは歩み続けます。福音はモーセとエリヤが共に現れたと記します。律法と預言書、すなわち旧約聖書は、神とイスラエルの民との契約であり、信仰と生活の規範でありました。そこに神の声が響いて、「これは私の愛する子。これに聞け」と告げた、と記されています。イエスこそが旧約を凌駕する新しい契約であることを、神ご自身が明確にされました。

 創世記は、神からの試練の内にあるアブラハムの姿を記します。イサクを献げるように、という、神からのいわば無理な要求です。アブラハムは、今の安定に留まることなく、神に従って前進することを選びます。アブラハムの人生は、安定に留まらず、常に挑戦しながら旅を続ける人生でした。その生き方を、神は高く評価しました。

 信仰は、常なる挑戦へと旅立つことを、私たちに求めます。この世でその挑戦が完成することはないでしょう。しかしそれは、ただ闇雲に前進する旅ではなく、「これは私の愛する子。これに聞け」と神ご自身が宣言された主イエスの言葉に導かれながら歩む旅路です。

 四旬節にあたり、教皇フランシスコはメッセージを発表されています。今年のテーマは、マタイ福音書20章18節からとられた「今、私たちはエルサレムへ上っていく」とされています。

 教皇は、歩み続ける姿勢を今、見直すように、と呼びかけ、こう記されます。

 「四旬節は信じる時、つまり神を私たちの人生に迎え入れ、私たちと一緒に『住んで』いただく時です。・・・四旬節の間、私たちは『人を辱めたり、悲しませたり、怒らせたり、軽蔑したりする言葉ではなく、力を与え、慰め、励まし、勇気づける言葉を使うよう』、いっそう気をつけなければなりません」。

 そのうえで教皇は「愛は、一人ひとりを気遣い、思いやりながら、キリストの足取りをたどって生きることであり、私たちの信仰と希望の至高の表現です」と指摘されます。

 四旬節に信仰を見直すように、私たちは求められています。原点に立ち返ることが求められています。イエスと歩みを共にしているのか、その言葉に耳を傾け、共に旅路を歩んでいるのか、見直すことが求められています。

 今年は、1981年の2月23日から26日にかけて、教皇ヨハネ・パウロ二世が教皇として初めて日本を訪問されてから、40年になります。広島や長崎で平和を求める姿勢を力強く表明された教皇は、東京のミサでも、平和を語りました。

 「平和は人間の心の貴重な宝です。平和は正義の実りです。平和はまた愛の実りです。・・・キリストが私たちに人々との平和を保つ力を与えてくださいますように」。

 イエスに倣って、愛の実りである平和を実現することができるように、主とともに挑戦し続ける旅路を歩みましょう。

(表記は当用漢字表にならって修正してあります「カトリック・あい」)

2021年2月27日

・カンタラメッサ枢機卿の四旬節説教①「”悔い改め”とは、神の国に入るために跳躍すること」

四旬節の説教を行うカンタラメッサ枢機卿 2021年2月26日四旬節の説教を行うカンタラメッサ枢機卿 2021年2月26日 

  バチカンで四旬節の説教の第一回目が、2月26日、教皇付説教師ラニエーロ・カンタラメッサ枢機卿によって行われた。

 この説教は、高位聖職者や教皇庁の関係者を対象に、例年、四旬節第一主日後から聖週間前までの毎週金曜日に、バチカン宮殿のレデンプトリス・マーテル礼拝堂で行われているが、今年は新型コロナウイルス感染予防のため、パウロ6世ホールの一角で行われることになった。

 26日の説教は、マルコ福音書の「悔い改めて福音を信じなさい」をテーマに行われ、新約聖書における「悔い改め」の意味を、三つの状況から考察。冒頭で枢機卿は、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ福音書1章15節)という、今日も私たちの心に響くイエスの呼びかけを観想するよう招いた。

 枢機卿は「イエス以前、『悔い改める』とは、『後に戻る』、つまり『道をはずれた者が、律法と神の契約に再び入る』ことを意味していましたが、イエスの到来によって、意味が変わりました」。

 イエスが「時は満ち、神の国は近づいた」と語られた時、「『悔い改める』とは、後ろに、すなわち古い契約と律法の順守に戻ることではなく、『神の国に入るために跳躍する』、そして『神が、王としての自由な意思によって人々に無償で与える救いを、しっかりつかみ取る』ことを意味するようになったのです」と語った。

 さらに、「『悔い改めて福音を信じる』とは、連続する二つの行為ではなく、同じ本質を持つ一つの行為であり、『悔い改めよ』とは『信じなさい』と同じ意味なのです」と説いた。

 続いて、枢機卿は、マタイ福音書の次のような箇所を取り上げた。

 「その時、弟子たちがイエスのところに来て『天の国では、一体誰がいちばん偉いのでしょうか』と言った。そこでイエスは一人の子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、言われた。『よく言っておく。心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない』」(18章1-3節)

 そして、「ここでイエスが説かれた『心を入れ替える』とは、『後戻りし、さらに、子供の状態に戻ることを意味しています」、さらに「『天の国で誰がいちばん偉いか』とイエスに尋ねた弟子たちの最大の関心が、天の国ではなく、そこで自分が占める位置、すなわち自分自身にあることを露呈していました」と述べた。

 イエスはこうした弟子たちの思いを一瞬にしてくつがえし、それでは天国に入れないと諭すが、「イエスが説たれた『心を入れ替える』とは、『自分中心から、キリスト中心へ、完全に方向転換する』ことを意味していたのです」とし、「私たちにとっても、『子どもに帰る』とは、召命を受けた時、イエスとの出会いを体験した時に、私たちが『神だけですべて足りる』と言っていた頃に、戻ることを意味するのです」と語った。

 さらに、枢機卿は、もう一つの悔い改めへの招きの例として、ヨハネの黙示録からラオディキアにある教会に宛てた手紙を引用した。

 「私はあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。…熱くも冷たくもなく、生温いので、私はあなたを口から吐き出そう…熱心であれ。そして悔い改めよ」(3章 15-16節, 19節参照)

 そして、「この非常に厳しい手紙は、凡庸でなまぬるい信仰から、熱い精神への回心を呼びかけています」と指摘。これに関連して、聖人たちの回心の物語の中で思い起こされるのは、アビラの聖テレジアは「自叙伝」だが、「その本の中で彼女は、神とこの世の間でどっちつかずになっていた時の、引き裂かれた魂の状態を振り返っている。『自分が満たされない真の原因がどこにあるのか』を分析し見つめるその態度は、私たちの良心の糾明に役立ちます」と勧めた。

 この信仰のなまぬるさに対し、聖霊の働きかけによって精神を燃え立たせるように、と説いて、信者を励ます聖パウロの次のような言葉を挙げた。

 「怠らず、励み、霊に燃えて、主に仕えなさい」(ローマの信徒への手紙12章11節)

 「肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬほかはありません。しかし、霊によって体の行いを殺すなら、あなたがたは生きます」(同8章13節)

 このように、「せっかくの苦行も、聖霊の強い促しが無ければ、無駄な努力に終わってしまいます… 聖霊は、”回心の褒美”として私たちに与えられるのではなく、私たちが回心できるように、与えられるのです」と強調した。

 また、枢機卿は、「聖パウロは『酒に酔ってはなりません。それは身を持ち崩す元です。むしろ、霊に満たされ、互いに詩編と賛歌と霊の歌を唱え、主に向かって心から歌い、また賛美しなさい』(エフェソの信徒への手紙5章18-19節)とも言っています。『酒による物理的な酔い』と対比される『霊的な酔い』というこのテーマについて、多くの教父たちも書き残しています」とし、例として、エルサレムの聖チリロの言葉を紹介したー「聖霊降臨で、聖霊に満たされほかの国々の言葉で話している一同を見た人々が、『あの人たちは新しいぶどう酒に酔っているのだ』と思ったのは当然だ… 彼らはこの『新しいぶどう酒』を、単に普通のぶどう酒と間違えただけで、実際は『キリストという真のぶどうの木から絞った新しいぶどう酒』だったのだ」。

 続けて枢機卿は、「ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって洗礼を受ける」(使徒言行録1章 5節)とイエスが弟子たちに語られたが、「昔も今も、無数のキリスト者たちが、黙想や集いや読書などを通して、聖霊との強烈な出会いを体験し、聖霊による多くの恵みと、新たな塗油を受けています」とし、聖霊を求めるには、「聖霊よ、おいでください」と、ただ一回、心を込めて言うことが大切であり、その際、「自分の望むようにではなく、聖霊が望まれるとおりに私たちが働けるように、心を広げておく必要があります」と勧めたた。

 説教の最後の枢機卿は、「カナの婚礼で御子の奇跡を得た時と同じ恵みに私たちも与り、私たちの生温い水を、熱い刷新のぶどう酒に変えていただけるように」と神の母マリアの取りつぎを祈った。

(編集「カトリック・あい」=文中の聖書の引用は「聖書協会・共同訳」を使用)

2021年2月27日

・「信望愛に信頼を置き、勇気を持って福音を告げよう」菊地大司教の四旬節第一主日説教

週刊大司教第十六回:四旬節第一主日

 2月17日は灰の水曜日でしたから、四旬節が始まりました。第一主日のメッセージです。

 四旬節には、祈り、節制、愛の業が勧められています。その三つを具体的に行動で表すのが、四旬節愛の献金です。カリタスジャパンが毎年とりまとめていますが、これは通常のカリタスがお願いする募金とは異なり、「祈り、節制、愛の業」を具体的に生きる行為であることを心にとめてください。四旬節献金は、世界各地で必要とされている方々の命を守り育むための活動に活用されていきます。教皇様のメッセージと併せて、詳細はこちらのカリタスジャパンのホームページをご覧ください

 なお、教皇庁典礼秘跡省から、昨年に引き続き、聖週間の典礼について指示が送付されてきました。すでに東京教区の典礼担当でまとめた内容と同じでしたので、小教区の主任司祭にはガイドラインを配布してあります。昨年は聖週間の典礼は非公開でした。今年は、現状であれば、感染対策の上で入場制限を行って典礼を行うことは可能であろうと判断しています。もちろん、状況が悪化した場合は別途、判断いたします。

 行政の緊急事態宣言が解除となった時点で、改めてその時点以降の感染対策についてお知らせしますが、聖週間の典礼は、バチカンの指示に準拠して、かなり例年とは異なる形になります。特に行列を行う場面はすべて中止となり、また洗足式なども行いません。またやはり全員での一斉の歌唱は難しいと思いますが、聖歌隊など少人数での歌唱が可能となる状況であるように期待しています。

 2月28日の日曜日には、ヨハネパウロ二世の訪日40年の記念ミサを、ポーランド大使館の主催で、カテドラルで行う予定でした。残念ながら、これもまた延期となりました。40年前、わたし自身はまだ神言修道会の修練士(ノビス)でしたが、東京カテドラルで行われた聖職者の集いに、他の修練士と一緒に参加することができました。その時点では、まさかその同じ教皇様に、20数年後に新潟の司教に任命されるとは思ってもみませんでした。今のように携帯電話などない時代でしたので、集会後の大混乱の中で、一緒にマイクロバスで名古屋から来ていた修道会の仲間と落ち合うのに、難儀したことを記憶しています。 聖ヨハネパウロ二世の訪日については、中央協議会のこちらをご覧ください。また同じ中央協のページで、当時の写真はこちらです

 なお、東京教区の人事異動の第一次を発表してあります。今年は、これまでも感染症の状況のため、小教区活動がほとんど滞っている現状を考慮して、教区に関しては、通常の御復活での人事異動を最低限といたしました。今後、状況に応じて9月頃にもう一度小規模な人事異動を考えております。ただし教区内で働かれる修道会関係では動きがありますので、これも随時、公示いたします。

以下、本日夕方公開の、週刊大司教のメッセージ原稿です。

【四旬節第一主日(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第16回 2021年2月21日】

 イエスは聖霊によって、荒れ野へと送り出されました。普通に生活を営むことが難しい場であるからこその荒れ野です。そこには命を危機に陥れる、ありとあらゆる困難が待ち構えていると、容易に想像できるにもかかわらず、イエスは聖霊の導きに身を委ねました。

 イエスは40日にわたって荒れ野に留まり、サタンの誘惑を受けられました。逃げ出すこともできたのかも知れません。しかし聖霊の導きに信頼するイエスは、御父への信頼のうちに希望を見い出していました。

 イエスは荒れ野での試練の間、人の命を脅かす危険に取り囲まれていながら、天使たちに仕えられていた、と記されています。すなわち、神の愛に基づく配慮に包み込まれることによって、命の危険から守られていました。

 福音を宣べ伝えるための「時」が満ちるのを待ち続けたイエスは、信仰の内に真理を受け入れ、神の導きに身を委ね、その導きの内に希望を見い出し、それが故に神の愛に包まれていました。荒れ野での40日間の試練は、身体的な困難を乗り越えただけではなく、また心の誘惑に打ち勝っただけではなく、神に対する信仰、希望、愛を確認し、それを確信し、それによって力を得た体験です。信仰、希望、愛に確信を見い出した時、イエスは福音を宣べ伝えるためのふさわしい「時」を見い出しました。

 この一年、私たちは命の危機に直面する中で、信仰の危機にも直面しています。今この時点でも、命を守るために取り組んでおられる医療関係者の皆さんに感謝し、また病床にある多くの方のためにお祈りいたします。私たちの信仰生活の頂点には、感謝の祭儀があります。

 「聖体の集会においてキリストの体によって養われた者は、この最も神聖な神秘が適切に示し、見事に実現する神の民の一致を具体的に表す」と、第二バチカン公会議の教会憲章に記されていますから、ミサに与ることと、聖体を拝領することは、私たちの信仰生活にとって、欠くべからざる重要なことであります。共に集う共同体のない信仰は、考えられません。

 今、集うことや共に聖体祭儀に与ることが難しい状態にあります。自分自身の感染を避け、また隣人の命を守るための選択ですが、共同体を解散したわけではありません。互いの信仰の絆が消え去ることはありません。困難な試練の時にあっても、聖霊の正しい導きを共に識別し、それに信頼し、その正しい導きに身を委ねましょう。さまざまな甘言を弄する誘惑に惑わされないようにしましょう。聖霊の導きの内に、命の希望を見いだしましょう。互いの信仰の絆の内に、御父の愛を見いだしましょう。信仰、希望、愛に信頼を置き、勇気を持って福音を告げてまいりましょう。

 四旬節の始まりに当たり、教会は第一主日に洗礼志願式を行うように勧めています。それは、キリスト者として生きることを望み、そのための学びと祈りの時を過ごしてきた方々が、洗礼への最後の準備をするために最もふさわしいのが、四旬節だからです。

 四旬節に私たちは信仰の根本に立ち返り、何を信じているのか、どうして信じているのか、信じているのであればどのように生きるのか、を見つめ直すよう招かれています。

 したがって、洗礼を望まれる方々が信仰における決断を下そうと最終的な準備をする時、教会共同体も洗礼志願者と一緒になって信仰を振り返る道を歩むことは、私たちの教会が徹頭徹尾「共同体」であることを考えた時、ふさわしいことです。それぞれの教会共同体で洗礼の準備をされている洗礼志願者の方々のために、特に祈りをささげましょう。

2021年2月20日

・「祈りと節制と愛の業で、信仰を見つめ直そう」四旬節の始めにあたって・菊地大司教

(2021.2.16 東京大司教区)

  カトリック東京大司教区の皆様   四旬節のはじめにあたり

 一年前、私たちは先行きの見えない状況の中で四旬節を迎えました。その日から私たちは、命を守るため、とりわけ隣人のいのちを危険に直面させることのないようにと、さまざまな制約の下で教会活動を続けてきました。

 暗闇の中を不安のうちにさまようわたしたちは、お互いを思いやり支え合うことの大切さを痛感させられています。

 一年が経過し、再び灰の水曜日を迎えました。四旬節が始まります。

 四旬節を始めるにあたり、預言者ヨエルは「あなたたちの神、主に立ち帰れ」と呼びかけます。四旬節は、まさしく、私たちの信仰の原点を見つめ直す時です。信仰生活に諸々の困難を感じるいまですが、信仰の原点への立ち返りを忘れてはなりません。

 私たちが立ち帰るのは、「憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに富」んでいる主であると、ヨエルは記しています。信仰に生きている私たちは、主に倣って、憐れみ深いものでありたい、と思います。忍耐強い者でありたいと思います。慈しみに富んだ者でありたいと思います。

 私たちの信仰は、いま、危機に直面しています。集まることが難しい中、これまで当然であった教会生活は、様変わりしました。その中で、一人ひとりがどのようにして信仰を守り、実践し、育んでいくのかが問われています。

 もちろん典礼や活動に制限があるからといって、教会共同体が崩壊してしまったわけではありません。「私たちは信仰によって互いに結ばれている共同体なのだ」という意識を、この危機に直面する中で、改めて心に留めていただければと思います。

 祈りの内に結ばれて、キリストの体を共に作り上げる兄弟姉妹として信仰の内に連帯しながら、この暗闇の中で、命の源であるキリストの光を輝かせましょう。弟子たちを派遣する主が約束されたように、主は世の終わりまで、いつも共にいてくださいます。(マタイ福音書28章20節)

 教会の伝統は私たちに、四旬節において「祈りと節制と愛の業」という三点をもって、信仰を見つめ直すように求めています。四旬節の献金は、通常のミサ献金とは異なり、節制の実りとして献げる犠牲であり、教会の愛の業への参加に他なりません。この四十日の間、犠牲の心をもって献金にご協力ください。

 また聖書にあるとおり、「正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたら」すと私たちは信じています(ヤコブの手紙5章16節)。私たちは祈りを止めることはありません。

 感染に対応する様々な手段を講じる中には、私たちの霊的な戦いをも含めていなければ、この世界に私たちが教会として存在する意味がありません。ですから、祈り続けましょう。

 特に今年の四旬節にあたっては、長年支え合ってきたミャンマーの教会の友人たちを思い起こし、ミャンマーの平和と安定のために、祈りを献げるようお願いいたします。

 また四旬節は、洗礼志願者と歩みを共にする時でもあります。共に信仰の原点を見つめ直しながら、困難のなかにも互いを励まし、信仰の道を力強く歩み続けましょう。

2021年2月17日 灰の水曜日 カトリック東京大司教区 大司教 菊地功

2021年2月17日

・「賜物である命が、御心のままに」菊地大司教の年間第六主日説教

2021年2月13日 (土) 週刊大司教第15回:年間第六主日

 日本のカトリック司教団は、一年に三回、総会を開催しています。そのうち、12月に開催される臨時総会は一日だけで、基本的には翌年の予算の承認を目的としていますが、それ以外の二回は、月曜から金曜までの日程を組んであり、さまざまな議題が話し合われます。現在は2月を定例、7月を臨時と呼んでいます。司教団と言えば、何か年中集まっていろいろと話し合っているように思われているのかも知れませんが、全員が集まって議論するのは年にこの三回だけです。「司教団」の名前で発表するメッセージなどは、すべての司教の賛同が必要ですから、つまりはこういった年に三回の総会の機会にしか決議されません。

 今年は2月15日からの5日間、定例司教総会が開催されます。司教たちの集まりの上に、聖霊の働きをお祈り下さい。なお今年の総会は、現状に鑑み、オンラインで行われることになりました。

 なお、2月17日は灰の水曜日で、四旬節が始まります。例年の通り、カリタスジャパンによって教皇メッセージを含めたカレンダーや、四旬節愛の献金の封筒などが準備されています。

 灰の水曜日は、関口教会のミサが朝7時、午前10時、午後7時と三回行われますが、夕方午後7時のミサは大司教司式ミサといたします。また灰の水曜日は、大斎と小斎の日です。大斎と小斎の解説については、こちらのリンクを。そこに記されているとおり、大斎に関しては、「満18歳以上満60歳未満の信者が守ります」と定められたいます。

以下、週刊大司教第十五回のメッセージ原稿です。

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【年間第六主日B(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第15回 2021年2月14日】

 マルコ福音は、重い皮膚病を患っている人の、イエスによる奇跡的な治癒の物語を記しています。

 主イエスによる病者の癒しは、もちろん、奇跡的な病気の治癒という側面も重要ですし、その出来事が神の栄光を現していることを、忘れてはなりません。しかし、同時に、さまざまな苦しみから救い出された人の立場になってみれば、それは人と人との繋がりから排除されてしまった命を、癒し、慰め、絆を回復し、生きる希望を生み出した業であります。

 孤独の中に取り残され孤立し、暗闇の中で不安におののく命に、歩むべき道を見いだす光を照らし、その命の尊厳を回復する業であります。パウロはコリントの教会への手紙で、「何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」と勧めていますが、イエスによる病気の癒しという業こそ、その業の偉大さの故に、そして神が与えられた最高の賜物である命の尊厳を明らかにしているが故に、まさしく「神の栄光を現す業」といえるでしょう。

 本日の朗読にある創世記は、命という賜物を最初に与えられた二人の人間の関係性について語っていますが、その前提は同じ創世記2章18節に記されている「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」という創造主の言葉であります。

 すなわち創造主から与えられた命は、互いに支え合い、助け合って生きることこそが、本来のあり方であります。命は関係を絶たれて孤立のうちに忘れ去られるべき存在ではないが故に、失われた関係性を回復し、排除された者を本来の命のあり方へと引き戻すことが、命の与え主である神が病の癒しを通じてなさったことでありました。

 ちょうど数日前、2月11日は世界病者の日でありました。この日は、1858年に、フランスのルルドで、聖母マリアがベルナデッタに現れた奇跡的出来事を記念する日でもあります。聖母はご自分を、無原罪の聖母であると示され、聖母の指示でベルナデッタが洞窟の土を掘り、湧き出した水は、その後、70を超える奇跡的な病気の治癒をもたらし、現在も豊かに湧き出しています。

 湧き出る水は、ルルドの地で、また世界各地で病気の治癒の奇跡を起こすことがありますが、それ以上に、病気によって希望を失った多くの人たちに、命を生きる希望と勇気を生み出す源となっています。その希望と勇気は、この世の命を生きる力ともなり、また同時に、永遠の命の約束の内に、命の与え主である神との繋がりを再確認させる招きともなっています。

 教皇聖ヨハネパウロ2世が、1993年に2月11日を世界病者の日と定められました。教皇は、病気で苦しんでいる人たちのために祈りをささげるように招くと共に、医療を通じて社会に貢献しようとする多くの医療関係者や病院スタッフ、介護の職員など、命を守るために尽くす方々の働きに感謝し、彼らのためにも祈る日とすることを呼びかけました。

 特に今年は、感染症が続いている中で、それに起因する不安のために、感染者や医療関係者への差別的言動が見られるとも聞いています。命を守る立場からは、決してあってはならないことです。

 私たちは、日頃から主の祈りの中で、「御心が天に行われるように、地にも行われますように」と唱えています。福音でイエスを前にした病人が、「御心ならば」と治癒を願ったように、私たちも、心と体を束縛し、ふさわしい関係性を断ち切ろうとする鎖から解放してくださるように、願いたいと思います。賜物である命が、御心のままに生かされますように。

(注:「私」「命」などの表記は当用漢字表記に倣いました。これは「書き言葉」の場合、読みやすく、本来の意味がより良く伝わる、との判断からです。御理解をお願いします「カトリック・あい」)

2021年2月13日

・「必死に福音を生き、証しし、伝えよう」-菊地大司教の年間第五主日説教

2021年2月 6日 (土) 週刊大司教第十四回:年間第五主日

Honjo2001m_20210206163401 あっという間に今年も2月となりました。東京教区の管轄する東京都と千葉県に発出されていた緊急事態宣言は、3月7日まで延長となりました。

 報道によれば『首相は衆参両院の議院運営委員会で、延長に関し「全国の新規感染者数は減少傾向にあるが、今後もこの傾向を継続させ、入院者数や重症者数を減少させる必要がある」と説明』したとのことです。(東京新聞2月2日)

 確かに毎日報道される新規の感染者数は減少していますが、この数週間、亡くなられる方、特に高齢の方が増えているのが気になります。教会はこれまで通り、できる限りの感染対策を続けますし、対策に困難がある場合は、それぞれの小教区の判断でミサの公開を中止にします。

 2月の初めは、大切な祝日が続きました。

 2日は主イエス誕生40日目に神殿に奉献されたことを記念する「主の奉献」の祝日です。福音朗読にはシメオン讃歌が記されていますが、この中に「異邦人を照らすまことの光」と幼子がいったい誰なのかを明確に示す言葉あります。

 このことから伝統的に、この祝日にはロウソクの祝別が行われてきました。またキャンドルサービスの原型ともいわれるロウソク行列が行われる伝統のある国もあります。典礼書の規範版には祝福とロウソク行列の式文が掲載されていますが、翻訳されていないため行われることが少ないのですが、新しい翻訳が出来るときには含まれている予定です。

 その翌日3日は聖ブラジオの祝日ですが、この日に伝統的に喉の祝福をする国もあります。ちょうど冬で風邪がはやる時期でもあるので、日本でもやってみたらどうだろうと思います。

  女子パウロ会のホームページに聖人カレンダーがあり、簡略な聖人伝が記されていますが、そこには聖ブラジオの逸話が次のように記されています。

 「あるとき、幼い息子を持つ母親が現れ、子どもの喉に引っかかった魚の骨を取り除いてくれるように、ブラジオに願った。ブラジオの祈りによって、子どもは咳をし、喉から骨が出てきた」

 ただし、現在この日は日本では、福者ユスト高山右近の記念日となりました。そして5日は日本26聖人の記念日です。1597年2月5日に、長崎の西坂で殉教した26名の聖人は、迫害のなかにあっても勇気を持って信仰を守りました。現代に生きる私たちに、信仰に生きるとはどういうことなのかを、問いかけています。

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 例年であれば、その日に近い日曜日は、本所教会で殉教祭が行われ、私も出かけていってミサを捧げるのですが、残念ながら今年はこの状況で、中止となりました。上の写真は昨年の26聖人殉教祭で撮影した、本所教会です。左の写真は、ローマ郊外、チビタベッキアにある日本26聖人記念聖堂。壁画は長谷川路可によるものです。

 

以下、本日夕方に配信した週刊大司教十四回目のメッセージ原稿です。

[年間第五主日B(ビデオ配信メッセージ) 週刊大司教第14回】 2021年2月7日

 「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、私は宣教する。そのために私は出てきたのである」(マルコ福音書1章38節)

 先週のマルコの福音は、神の真理に裏打ちされた権威ある言葉を語るイエスを伝えていました。今週のマルコの福音はその続きです。先週と同じようにイエスは「悪霊にものを言うことをお許しにならなかった」(1章34節)と記されていますから、権威を持って言葉を語り、人々が驚くような業を行っています。弟子となったシモンのしゅうとめの熱を去らせたことを皮切りに、多くの病人や悪霊に取りつかれた人を癒していった(1章23-34節参照)と記されています。

 マルコの福音がこの話を通じて描こうとするイエスの姿は何でしょうか。もちろん先週と同様、権威あるイエスの姿であるとも言えますが、それ以上に、イエスの愛といつくしみをこの行いは象徴しています。マルコ福音書が「病人や悪霊に取りつかれた者」と記す人たちは、さまざまな困難を抱え、人生を、命を生きることに希望を見いだすことが出来ずにいる人たちです。神の愛と慈しみそのものであるイエスは、そういった人々を目の前にしたとき、放置しておくことは出来なかった。命をより良く生きることを阻んでいる悪に捕らわれている人たちを、解放しました。

 イエスは真理に裏付けられた権威ある言葉を語る強い存在であると同時に、あふれんばかりの神の愛と慈しみを体現する存在でもあることを、マルコ福音は伝えています。

 パウロはコリントの教会への手紙で、「弱い人には、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に、すべてのものとなりました。ともかく、何人かでも救うためです」(コリントの信徒への手紙1・9章22節)と記し、「福音のために、私はすべてのことをしています」(同23節)と宣言しています。

 イエスや、それに倣うパウロの姿勢は、高いところから教え導くのではなく、困難を抱え希望を失っている人たちのところへ出向いていき、なんとしてでも神の救いの希望に与ることができるようにと手を差し伸べる姿勢です。教皇フランシスコは、そのことを、「出向いていく教会」という言葉で表しています。だからこそイエスは、一つの所に留まって、褒め称えられるのではなく、一人でも多くの人に生きる希望を生み出すために、村々を巡って「出向いていく」のです。

 教皇フランシスコは使徒的勧告「愛の喜び」にこう記しています。

 「大切に思っている人それぞれを、神のまなざしをもって、じっくりと見つめ、その人の中におられるキリストに気づくことは、深い霊的体験です。・・・イエスは模範でした。誰かが話そうとして近づくと、イエスはその人にまなざしを据え、愛をもってじっとご覧になったのです。イエスの前で、ないがしろにされている、と感じる人はいません」(323項)

 昨年来、感染症の困難の中で、さまざまな側面での生きづらさを抱えておられる方が少なくありません。病気だけでなく、経済や職業や法的身分など、さまざまな側面で困難を抱え、人生を、命を生きることに希望を見いだすことが出来ずにいる方、不安の内に生きておられる方がおられます。

 私たちは、イエスのまなざしで「じっくりと見つめ、その人の中におられるキリストに気づく」者でありたいと思います。命の希望を生み出すため、一人でも多くの人に救いをもたらすため、「福音のために、私は全てのことをしています」と宣言したパウロに倣って、私たちも必死になって福音に生き、福音を証しし、福音を伝えてまいりましょう。

(編集「カトリック・あい」=文章の読みやすさ、分かりやすさのために、聖書の引用は日本語訳で原典の表現にもっとも近く、現代日本語としてもすぐれている「聖書協会・共同訳」に、表記は原則として、当用漢字表記にさせていただきました)

 

2021年2月6日

・コロナ感染で最貧国に長期的な経済的打撃も-直ちに行動を起こすことが世界全体の利益(世銀)

(2021.2.4 世界銀行東京事務所ニュース)

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新型コロナウイルス感染症危機が始まったとき、IDA支援対象国は既に膨大な債務に苦しんでいた。そうした国々は、2021年末までに資金ニーズが平均を上回るとみられるため、いくつかの厳しい選択を迫られている。 © Mohammad Al-Arief/World Bank
新型コロナウイルス感染症危機が始まったとき、IDA支援対象国は既に膨大な債務に苦しんでいた。そうした国々は、2021年末までに資金ニーズが平均を上回るとみられるため、いくつかの厳しい選択を迫られている。 © Mohammad Al-Arief/World Bank

西尾 昭彦・世界銀行副総裁=開発金融担当)

 新型コロナウイルス感染症危機が始まって1年が経ち、世界の最貧国74カ国の大半は、世界各地でみられる差し迫った感染爆発はとりあえず回避できているようです。世界銀行のグループ機関である国際開発協会(IDA)の支援適格国において、1月時点での感染率は10万人当たり32人と、新興国・途上国全体の平均の5%にとどまっています。

*最貧困国に対する新型コロナウイルスの本当の影響

 ただし、この数字は誤解を招きかねません。こうした国々では検査能力に制約があるため、流行の本当の規模を明らかにできていない可能性があるからです。

 また、 新型コロナウイルス感染症が経済にもたらす打撃は、IDA設立以降の60年間に各国が直面してきたどんな事態よりも深刻であり、今回の危機からは短期間にも容易にも抜け出すことができないという点も、やはり重要なポイントです。 

 今回の危機は実際に経済崩壊の引き金となりました。2020年の国民一人当たりGDPは3.5%減少し、貧困削減の4年分の成果を帳消しにしてしまいました。現在の国民一人当たり所得は、IDA支援対象国の5カ国に1カ国で10年前を下回る水準となっています。

 中でも、脆弱・紛争国や小国がこうむっている打撃ははるかに深刻です。我々の最新の試算によると、IDA支援対象国では、今回の危機により新たに5,500万人~6,300万人が2021年末までに極度の貧困状態に陥ると予測されています。

*債務負担が大きいための困難な選択

 新型コロナウイルス感染症危機が始まったとき、IDA支援対象国は既に膨大な債務に苦しんでいましたが、危機により一部の国では債務過剰のリスクが高まりました。歳入が激減したことに加え、政府が実施した財政支援策に費用がかかったため、国の抱える債務は対GDP比8%から62%にまで大きく膨らみました。サブサハラ・アフリカ地域では対GDP比で70%にまで達しています。

 国際通貨基金(IMF)によると、IDA支援対象国の外部資金ニーズは2021年末までに過去5年間の平均を670億ドル以上も上回ると予測されています。これは決して小さな金額ではありません。各国が財政面でできる限りの余力を必要とする中ではなおさらです。

 このように資金ニーズが膨大であるため、IDA支援対象国は困難な選択を迫られることになります。つまり、債務危機のリスクを冒すことになっても、脆弱層の支援と息の長い回復促進のために必要な資金を投じるべきか、それとも、人命や社会の安定という甚大な犠牲を払うことになっても、今は動きを起こさず、ただ出費を控えるべきか、のいずれを選ぶかです。

 どの国も、そうしたジレンマに陥ることがあってはなりません。そこで世界銀行は、最貧国・最脆弱国を対象にきわめて譲許性の高い条件にて、または贈与として、財政支援の拡大に力を注いできました。

 IDAは、各国が急速に高まる危機に対応できるよう、グラントや無利子または低利子での融資500~550億ドルなど、かつてないレベルの支援を提供しています。いずれも、2021年6月までの15カ月間に全体として最大で1,600億ドルを支援する世界銀行グループのパッケージの一環です。

*新型コロナウイルス感染症は既に、疑いようもなく根深く広範で同時多発的なショックとなっている

 今ようやく視野に入りつつある経済の回復ですが、実はあまり心強いものではありません。今後何年にもわたり、経済成長が基準を下回りそうなのです。世界銀行の報告書「世界経済見通し」最新版の分析では、IDA支援対象国の今年の成長率はわずか2.6%にとどまるとされています

 しかもこれは、ワクチンが普及し、外需が持ち直し、世界的に観光と出張が回復すると仮定した上での数値です。今回の危機がなかった場合と比べると、今年末までのGDPは依然として約7%低いでしょう。

 景気後退はまず間違いなく、大きな傷跡を残すことになります。景気後退を経験した国では、後退後5年間の長期的な成長見通しが平均1.5%ポイント下落する傾向にあります。景気後退が、投資フローを抑え、サプライチェーンに混乱を生じさせ、健康や暮らしに悪影響を及ぼし、人的資本をむしばみ、人々を再び極度の貧困状態へと陥らせるからです。

 とは言え、新型コロナウイルス感染症危機は、これまでとは異なるカテゴリーに属しています。第二次世界大戦以降、世界経済にこれほど広範で根深い影響をもたらした危機はありません。感染症流行に伴う高い失業率、学校閉鎖、保健状態の悪化からは、女性や子供をはじめとする脆弱層が特に大きな影響をこうむっています

 可能な限りの国が昨年、過去に例のない財政刺激策を講じたことは驚くに足りませんが、それができなかった多くの最貧国のためには、IDAこそがライフラインです。このように前代未聞の危機に直面する今、こうした国々のために追加の資金を動員する必要があります。

*IDA対象国を支援することは世界全体を支援すること

 70年近く前、世界のリーダーには、世界の先進国と途上国の間には「切っても切れない」相互依存のつながりがあることを認識するだけの洞察力がありました。それから10年以内に、この認識がIDAの設立へとつながりました。そして世界は2019年には、人類の歴史始まって以来初めて、極度の貧困撲滅が視野に入るところまで来ていました。

 新型コロナウイルス感染症の終息後には、世界規模の相互依存を最大限生かすことが特に重要になるでしょう。最貧困国にも繁栄を実現することにより、それ以外の国における永続的繁栄を確保できるようになります。 

 各国が苦労の末に達成した成果を維持し、貧困削減を左右する上で極めて重要なこれからの道のりにおいて経済への長期的打撃を回避できるよう、IDAの支援に必要な資源を今後も確保する必要があります。今こそ、行動を起こすことが求められています。

2021年2月5日

・「子どもたちを育む大人が、神の力に満ちた言葉を語り、行えるように」菊地大司教の第四主日説教

2021年1月30日 (土) 週刊大司教第十三回:年間第四主日

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 本日のメッセージでも触れていますが、1月最後の主日は、「世界子ども助け合いの日」とされています。(写真は、ダンスで賛美を表現するガーナの子どもたち。2010年)

 この日は、「子どもたちが使徒職に目覚め、思いやりのある人間に成長することを願って制定されました。この日はまず第一に、子どもたちが自分たちの幸せだけでなく世界中の子どもたちの幸せを願い、そのために祈り、犠牲や献金をささげます。毎日のおやつや買いたいものなどを我慢してためた子どもたち自身のお小遣いの中から献金することが勧められています。

 日本では、各教会だけでなく、カトリック系の幼稚園や保育園の大勢の子どもたちがこの日の献金に協力しています」と、中央協議会のホームページに説明されています。現在、日本の教会の担当責任者は教皇庁宣教事業の日本の責任者である立川教会の門間神父様です。

 この日の献金は、全世界からローマの福音宣教省に集められ、世界各地の子どもたちのために活用されています。門間神父様によれば、昨年のこの献金日に、日本の教会の「皆さまから寄せられた献金総額は4754万1928円でした。今年は、ブルンジ、ガーナ、ザンビア、ナイジェリア、リベリア、タンザニア、バングラディッシュ、インドの各国に合計4374万2881円を援助」したということです。

 今年のテーマは、「あかしする子どもたち」とされています。ポスターや趣旨など、詳細は、こちらの中央協議会のホームページをご覧ください。

 以下、30日土曜日の夕方に公開した、週刊大司教第十三回目のメッセージ原稿です。

 

【年間第四主日B(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第13回 2021年1月31日】

 インターネットが普及した現代社会で、私たちはあふれかえる言葉の中で生きています。感染症対策のために直接出会う機会が減少しているとはいえ、インターネットが直接語り合うにしても、文字でコミュニケーションを図るにしても、多種多様な手段を提供しています。

 毎日浪費されるようにあふれかえる言葉には、心の叫びの言葉もあれば、何気なく発信される薄っぺらな言葉もあります。真実を語る言葉もあれば、でたらめな言葉もあります。命を生かす言葉もあれば、命を奪う言葉もあります。希望を生み出す言葉もあれば、闇に引きずり込む言葉もあります。

 言葉は、それが前向きであろうと後ろ向きであろうと、ひとたび発信されてしまうと、他者に対してなんらかの影響を及ぼす力を秘めています。

 2018年の世界広報の日メッセージでしたが、教皇フランシスコはフェイクニュースのもたらす影響について指摘をされました。その中で、「フェイクニュースは、不寛容で過敏な姿勢の表れであり、それによって広まるのは傲慢さと憎しみだけです。これこそが嘘が最終的に行き着く先です」と述べ、さまざまな局面で顔を覗かせるフェイクニュースの危険性に警鐘を鳴らされました。

 私たちが社会全体に対して広く自由に発信をする手段を持たなかった、かつての時代にあっても、いわゆる「うわさ話」が社会生活に大きな影響を及ぼしたり、命に関わる結果を生み出した事例がありました。今や誰でもいつでも、世界中に対して自らの言葉を発信できる時代となり、時に、何気なく発信した言葉ですら、後ろ向きな結果を生み出すこともあり得ます。

 私たちが発する言葉には、私たち自身の存在がその背後に隠されています。私たちが発する言葉は、私たちの存在そのものの反映です。私たちの発する言葉は、私たちの心を写す鏡です。

 教皇は同じメッセージで、フェイクニュースは「ソーシャル・メディアの特徴である分かち合いの精神のためではなく、人間の心にいとも簡単にわき上がる、飽くことを知らない欲望に訴えかけ… その渇きは結局、私たちを欺きという何よりも悲惨なもの、すなわち心の自由を盗み取るために嘘から嘘へと渡り歩く悪魔の業の犠牲者にします」と述べておられます

 イエスの言葉には力がありました。それはイエスこそが、「真理」だからであります。だから人々は「権威ある新しい教え」とイエスの言葉を評したのです。申命記は、神の命じていない言葉を語る預言者は死に値すると、モーセに語らせます。真理を身に帯びていない者の言葉だからです。

 私たちも力ある言葉を語りたいと思います。自分勝手な思いや欲望を満たす言葉ではなく、命を奪う言葉ではなく、闇をもたらす言葉ではなく、裁き排除する言葉ではなく、それよりも神の真理に基づいた言葉、いのちを生かす言葉、希望を生み出す言葉、慈しみに満ちあふれた言葉、いたわり支え合う言葉、すなわち神の力に満ちた言葉を語りたいと思います。

 1月の最終主日は「世界こども助け合いの日」と定められています。「子どもたちが使徒職に目覚め、思いやりのある人間に成長することを願って制定」され、「子どもたちが自分たちの幸せだけでなく世界中の子どもたちの幸せを願い、そのために祈り、犠牲や献金を」ささげる日となっています。

 あふれる言葉の洪水の中で生きている子どもたちが、神の真理に裏付けされた言葉に触れ、その言葉を心に刻み、語り、実行していきますように。子どもたちを育む大人が、神の力に満ちた言葉を語り、行うことが出来ますように。

(「菊地司教の日記」より・編集「カトリック・あい」)

2021年1月30日

・「神の言葉を聴き、心に刻もう」菊地大司教の神のことばの主日説教

2021年1月23日 (土)週間大司教第十二回:年間第三主日神のことばの主日

 今日公開のメッセージの中でも触れていますが、年間第三の主日は「神のことばの主日」とされています。この主日は、教皇フランシスコによって制定され、昨年から始まりました。(写真は、喜びの内に福音書を迎えるガーナの子どもたち。2010年アクラで)

 神のことばの主日制定の使徒的書簡「アペルイット・イリス」は、中央協議会のこちらから読むことが出来ます。

 この書簡の中で教皇は、神のことばの主日を定めて、「神のことばを祝い、学び、広めることにささげることを宣言」されました。その上で教皇は、この主日がちょうどキリスト教一致祈祷週間と重なることも念頭に、次のように記しています。

 「私たちがユダヤ教を信じる人々との絆を深め、キリスト者の一致のために祈るように励まされる、その時期にふさわしいものとなることでしょう。これは、ただ時期が偶然重なるということ以上の意味をもっています。『神のことばの主日』を祝うことには、エキュメニカルな価値があります。聖書はそれを聴く人々に向かって、真の、そして堅固な一致への道筋を指し示すからです」

 聖書を通じて尊場に触れることの大切さを強調する教皇は、「主は自らの花嫁に生きたことばを絶えず語り続け、花嫁である教会は愛のうちに、また信仰の証しのうちに成長することができます」と、この書簡の中で指摘されています。この主日が、聖書を通じてさらに神の言葉に触れる契機となれば、と思います。

 ところで、今年は2月17日が灰の水曜日となり、間もなく四旬節が始まります。昨年は灰の水曜日の翌日から、ミサの公開を中止しました。今年がどうなるのかは、今の時点では想定できませんが、現時点では、これまで同様の感染症対策を施した上で、それぞれの小教区の事情が許し、対応が充分に出来る場合には、四旬節の典礼を行う予定でおります。

 なお灰の水曜日に関して、聖座から、今般の自体への対応の指示が来ていますので、それに基づいて、詳細を教区典礼担当者から神父様方にはすでに通知をいたしました。

 主な注意点は、できる限り沈黙を守るため、灰をかける時の言葉ー「回心して福音を信じなさい」または「あなたはちりであり、ちりに帰って行くのです」を、全員に対して一度だけ唱え、個別には唱えないこととと、灰で額に直接触れながら十字のしるしをすることはせず、かけるだけにすることなどです。

 また昨年は受難の主日の典礼ができていませんので、祝福された枝をお持ちでない方も大勢おられることと思います。仮に小教区で昨年の枝を充分に集めることが出来ない場合には、今年に限って、そのほかの枝を利用して灰を作ることも認めています。

 以下、1月23日土曜日夜公開の、週刊大司教第十二回のメッセージ原稿です。

【年間第三主日B神のことばの主日(ビデオ配信メッセージ)】週刊大司教第12回2021年1月24日

 「イエスはガリラヤへ行き、神の福音をのべ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」

 マルコ福音書はその冒頭で、洗礼者ヨハネの出現を伝え、さらにイエスの洗礼について述べた後、荒れ野における四十日の試練に簡潔に触れています。そしてその直後に「ヨハネが捕らえられた後」として、イエスが神の福音を宣べ伝えたと記します。本日の福音朗読です。すなわち、「神の言」の受肉であるイエスは、その本性からして福音そのものであり、存在すること自体が神の福音のあかしでありますから、当然、福音を宣べ伝えることがイエスの公生活を根底から支える礎であると明確に示しています。

 さらにマルコ福音書は続けて、イエスがガリラヤ湖のほとりでシモンとアンデレを弟子として召し出された話を記します。すなわち、福音を宣べ伝える業を、イエスはその最初から共同体の交わりの中で行ったのだと記すことで、福音宣教は教会にとって本質的な働きであり、なおかつ共同体の業であることを明示しています。

 「私に付いて来なさい。人間を捕る漁師にしよう」と言われて弟子を召し出される主は、その「人を捕る漁」なるものを、突拍子もない驚愕的な業を持ってするのではなく、地道だけれど徹底した福音の証しによって行うのだということを、マルコ福音書は、すべてを捨てて主イエスの働きに身を投じる弟子の姿を記すことで明らかにします。私たちの信仰は、神の言葉の存在とその宣言抜きには考えられない信仰です。

 教皇フランシスコは2019年9月に、使徒的書簡「アペルイット・イリス」を発表され、年間第三主日を、「神のことばの主日」と定められました。今年は1月24日が「神のことばの主日」であります。

 教会は、聖書と共に、使徒たちから伝えられた「信仰の遺産」である生きている聖伝も大切にしています。カテキズムは、「どちらも、『世の終わりまで、いつも』弟子たちと共にとどまることを約束されたキリストの神秘を、教会の中に現存させ、実らせるもの」だと指摘しています(80)。

 それを前提として教皇は、「神の言葉」の重要さを指摘する聖ヒエロニムスの言葉、「聖書についての無知はキリストについての無知である」(聖ヒエロニムス『イザヤ書注解』)を引用します。その上で教皇は、「聖書のただ一部だけではなく、その全体がキリストについて語っているのです。聖書から離れてしまうと、キリストの死と復活を正しく理解することができません」と指摘します。

 第二バチカン公会議の啓示憲章も、「教会は、主の御身体そのものと同じように聖書を常に崇め敬ってき〔まし〕た。なぜなら、教会は何よりもまず聖なる典礼において、絶えずキリストの身体と同時に神の言葉の食卓から、命のパンを受け取り、信者たちに差し出してきたからで〔す〕」(『啓示憲章』 21)と記して、神の言葉に親しむことは、聖体の秘跡にあずかることに匹敵するのだ、と指摘しています。

 私たちはシモンとアンデレのように、今日、「私に付いて来なさい。人間を捕る漁師にしよう」と召し出されています。それぞれの生きる場で、神の言葉を証しして生きるように、招かれています。その招きに答えるために、私たちは、日頃から、また典礼祭儀において、神の言葉に耳を傾け、慣れ親しみ、自らの心に、それを刻み込んでおきたいと思います。

2021年1月23日

・「静かに心を開き、神の声に耳を傾ける時をもとう」菊地大司教の年間第二主日説教

2021年1月16日 (土) 週刊大司教第十一回:年間第二主日

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 降誕節が終わり、典礼の暦は「年間」が始まっています。今年は1月17日の日曜が、年間第二主日となります。(写真は、1月15日が祝日であった神言修道会の創立者聖アーノルド・ヤンセンが眠るオランダのシュタイルにある記念聖堂で捧げたミサの様子です)

 緊急事態宣言が発出されていますので、健康に不安のある場合は、無理することなく行動くださるようにお願いします。また、自分が感染しないだけではなく、他者を危険にさらすようなことのないように、慎重な行動をいたしましょう。

 通常の教会の活動が難しい状況にありますが、できないから駄目だ、と後ろ向きになることなく、この状況の中で、どのようにしたら信仰をより良く生きることが出来るのか、霊的絆を保つために何が出来るのか、互いに知恵を絞ってみましょう。

 なお1月18日から25日までは「キリスト教一致祈祷週間」とされています。今年のテーマは、「私の愛にとどまりなさい。そうすれば、あなたがたは豊かに実を結ぶ。」(ヨハネ福音書15章5-9節)とされています。歴史ある祈りの週間ですが、今年はコロナ禍のために、祈祷集会を実際に開催することが難しいと思われます。この一週間の間、異なる派に分かれているキリストの弟子たちが、思いを一つにして、神の福音を告げていくことができるように、お祈りください。詳しくは、中央協議会のホームページへ

 以下、土曜日夕方に公開した「週刊大司教」第十一回目のメッセージ原稿です。ご家庭でお祈りされる場合には、霊的聖体拝領の一助としてご利用ください。

【年間第二主日B(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第11回 2021年1月17日】

 「来なさい。そうすれば分かる」

 この一言を信じて、ヨハネの二人の弟子はイエスに付いて行きました。その晩、イエスとどのようなやりとりがあったのかは記されていませんが、少なくとも翌日、自分の兄弟の人生を変えるような決断を促すほどの、大きな出会いとなりました。

 私たちは、どちらかといえば、論理的に納得したいと思っています。子どもの頃には口論になると、負けたくない一心で『証拠を見せろ』と言ってみたり、大人になった今はSNSが発達して誰でも情報を発信する洪水の中で、『エビデンスを示せ』と迫ってみたりします。いくつになっても、信じるためには納得できるだけの証拠が欲しいのです。私たちは本性的に疑り深いのだろう、と思います。

 サムエル記は、少年サムエルがたびたび神からの呼びかけを受けた話を記し、それに対して祭司エリが、「どうぞお話しください。しもべは聞いております」と答えるように勧めた話を記します。祭司エリは、決して声の主に、「お前は誰なのか、証拠を見せろ」と迫ることではなく、耳を傾けその語る言葉に心を開くようにと諭します。その時、初めて神の声が心の耳に到達します。

 イエスに付いて行ったヨハネの二人の弟子も、納得できる証拠を求めるのではなく、イエスの存在と語る言葉を心に感じたことで、イエスがメシアであることを確信しました。福音には「どこにイエスが泊まっておられるかを見た」と記され、また「イエスのもとに泊まった」と記されていますが、イエスが何者かを知るために議論をした、とは記されていません。それは「どうぞお話しください。しもべは聞いております」という態度に通じるものです。

 私たちは言葉があふれかえっている世界に生きています。インターネットの時代ですから、そのように取り囲まれざるを得ません。その中で、静かに心を開き、神の声に耳を傾ける時をもつことは、大切なひとときであると思います。

 教会は、1月18日から25日までを、キリスト教一致祈祷週間と定めています。この日付となったのは、こういった一致祈祷が最初に提起された1908年に、当時ペトロの使徒座が祝われていた1月18日からパウロの回心の25日までという、キリスト教の発祥に深く関わる聖ペトロと聖パウロ、二人の偉大な聖人を象徴として、キリスト者の一致を祈り求めるためであった、と伝えられています。なお現在の典礼暦では、ペトロの使徒座は2月22日に移動しています。

 毎年、一致祈祷週間のためのテーマが教皇庁キリスト教一致推進評議会と世界教会協議会(WCC)によって選ばれ、手引きの小冊子が発行されています。今年のテーマはヨハネ福音から「私の愛にとどまりなさい。そうすれば、あなた方は豊かに実を結ぶ」とされています。

 今年の小冊子はテーマを解説し、「霊性と連帯は分かち難くつながっています。キリストにつながっていれば、不正義と抑圧の構造に対抗するための、人類家族の兄弟姉妹であることを真に自覚するための、さらには、すべての被造物と敬意を持って交わる、という新しい生き方を生み出すための、力と知恵を受けることが出来ます」と記しています。

 私たちは霊的な祈りにおける連帯の内に、互いに心を静かにし、神の声に耳を傾けたいと思います。「どうぞお話しください。しもべは聞いております」という姿勢で、互いの連帯を深め、御父からの力と知恵をいただき、信仰において強められましょう。

(漢字表記は当用漢字に従い、又引用された聖書の言葉は「聖書協会・共同訳」にさせていただきました=「カトリック・あい」)

2021年1月16日