・教皇説教師の待降節黙想会講話⓵「私たちが神の子であることは」

Cardinal Raniero CantalamessaCardinal Raniero Cantalamessa

(2021.12.3 Vatican News  Tiziana Campisi)

 3日、バチカンで教皇フランシスコなど教皇庁幹部が参加する待降節黙想会の第一回が開かれ、教皇付き説教者のカンタラメッサ枢機卿が黙想指導の講話を行なった。

 黙想会講話が3回行われる予定だが、「教会生活、キリスト教生活の内面の素晴らしさ、そしてその素晴らしさを生かすキリスト教徒の責任を改めて認識すること」の焦点を当てることを目指している。

*教会が、一般社会と何ら変わらない場になっている

 今回の講話で枢機卿はまず、教会が「醜聞、論争、人と人のぶつかり合い、うわさ話、あるいはせいぜいのところが社会的分野での善意ー要するに、歴史の中で教会以外で起きているすべてのことと、何ら変わることにない場」となり、あたかもキリストがおられないようにふるまう危険に直面している、と警告。「教会に宿っている神秘を見失わないために、教会の内側から光を当てて、見ること」を勧めた。

 そのうえで、枢機卿はこの日の講話のテーマとして、聖パウロのガラテヤの信徒への手紙、「時が満ちると、神は、その御子を…お遣わしになりました」で始まる箇所(4章4-7節)を挙げた。

*父である神

 そして、この言葉は、キリスト教の神秘全体を要約したもの、「あなたがたが子であるゆえに、神は…御子の霊を、私たちの心に送ってくださったのです。ですから、あなたは…子です。子であれば、神による相続人でもあるのです」とパウロは語っており、「父である神が、このイエスについてのパウロの説教の中心にある」と強調。

 「旧約聖書においてさえ、神が『父』とみられているとすれば、福音の新しさは、神はイスラエルの民の父であるだけでなく、義人であろうと罪人であろうと、人類すべての父である、としていること」と枢機卿は述べ、「神は、相手が一人だけであるかのように、全人類1人ひとりを心に掛けておられる。一人ひとりが求めていることを、考えていることを、頭の髪の毛の一本一本まで、知っておられます」。

 「要するに、イエスが教えておられるのは、『神は、創造され、ご自分の民を世話する限りにおいて、比喩的、道義的な意味で【父】であるだけでなく、第一の、至高の真の、血のつながりのある父、時が始まる前にもうけた真の、血のつながりのある子の父だ』ということ。そして、私たち人も、イエスのおかげで、単なる比喩的ではない、真の意味での、神の子となることができるのです」と述べた。

 また枢機卿は、「キリストの死と復活の過ぎ越しの神秘、つまり、洗礼でキリストが私たちに働き、与えられた贖罪のおかげで、聖パウロが語っているように、私たちはキリストにおいて子となった。キリストが多くの兄弟の中で最初に生まれた者となられたからです」と語った。

*私たちと神の関係を”養子縁組”で例えるのは不十分

 続けて枢機卿は、「聖パウロは、養子縁組の例えを使って、神がキリストを通して人との間に打ち立てた絆を、私たちに理解させようとしますが、そのような比喩は、神秘の豊かさを表現するのに十分ではありません」と述べた。

 「なぜなら、人間的な養子縁組はそれ自体が法律で定義されたものであり、養子縁組された子が、血液やDNAを共有せずに、自分を養子にする人の名、市民権、住居を引き継ぐということであるとすれば、私たちにとって、神との関係はそのようなものではないからです」とし、「神は、私たちに名だけでなく、ご自分の命、DNAであるご自分の霊を引き継がれる。洗礼を通して、神の命が、私たちの中に注がれるのです」と言明。

 続けて、「聖ヨハネは、真の、ふさわしい世代について、神からの誕生について語ります。私たちはなぜ、聖霊から生まれたのか、私たちはなぜ、上から生まれたのか」。「私にとって、教皇が今年9月8日の一般謁見での講話で語られたことは重要です。教皇はこう言われました-『私たちキリスト教徒は、神の子であるという現実を当然のことと考えていますが、私たちは、神の子となった洗礼を受けた時のことを、いつも感謝を込めて思い起こすのがいいでしょう。神からいただいた素晴らしい贈り物を強く認識しながら生きるために』と」。そして、教皇の言葉を思い起こしつつ、次のように語った。

 「注意してください。私たちには、致命的な危険がある。それは、『宇宙の創造主、全能、永遠の、命の与え主である神』の子に他ならないことを含めて、私たちの信仰がもつ最も崇高な賜物を、当然のことと見なすことです。聖ヨハネパウロ2世は、亡くなる直前にお書きになった聖体に関する書簡の中で、キリスト教徒が再発見すべき「聖体の驚き」について語っておられますが、同じことー信仰から驚きに移行することーは、神の子であることついても言えます」。

 

*信仰の驚き

 さらに、洗礼の秘跡について、「神の分かち合い、あるいは洗礼の恵みは、多様で非常に豊かですー神の子とされ、罪が赦され、聖霊が宿り、信仰、希望、慈愛という聖書に基づく美徳が魂に注ぎこまれます。人の貢献は、本質的に信仰で成り立っていますが、神の賜物を前にした、驚きで目を見張る、畏怖が必要です。神の賜物は、信じられたいくつもの真理ー十字架の真理の苦さを含む真理ーの味をゆっくりと自分のものにすること。つまり、『信じられた真理』は『活きた現実』にならねばならないのです」と述べた。

 そして、信仰から、私たちが神の子であることを知るという驚きへの飛躍は、どうすればできるでしょうか。この問いへの最初の答えはこれですー神の言葉。(同じように欠かすことのできない手段に聖霊-がありますが、次の瞑想のためにとっておきます)。教皇・聖グレゴリオは、神の言葉を、火打ち石、つまり、火花を起こし、灯火に火をつけるために使われた石、に例えています。火打ち石で行うことを神の言葉で行う必要がある、と言っています。火打石を火花が出るまで繰り返し叩くように、神の言葉をじっくりと味わい、繰り返し、大きな声を出しても繰り返す、のです」と強調した。

 

*人間愛:私たち皆が兄弟姉妹

 枢機卿はまた、私たちが神の子であること、キリスト教徒としての尊厳をしっかりと認識できるように祈ることを、人々に勧めた。「そうすることは、神の息子、娘である他の人々の尊厳と、全人類に対する神の父性を認識することにも、つながります」と述べ、「私たちキリスト教徒にとって、人間愛は、神がすべて者の父であり、私たち皆が神の息子、娘であり、皆が兄弟姉妹であるということの、究極的な元になるもの。これ以上の強い絆はあり得ない。そして私たちキリスト教徒にとって、普遍的な兄弟愛を促進すること以上に、差し迫った課題はあり得ません」と語った。

 最後に枢機卿は、「普遍的な兄弟愛を養うことはまた、私たちの兄弟との対立に神を引き込ないようにすることを意味します。自分に正しく相手に悪いことを望まず、互いに慈しみを持って接すること。それが、聖霊の命を、あらゆる形の共同生活を生きるために欠かすことのできないことです。家族のため、すべての人、教皇庁を含むす宗教的な共同体のために」と語り、「聖書が、私たちが神の子であることの真の意味を発見するのを助けてくれる」ことへの希望を述べることで講話を締めくくった。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2021年12月13日

・「共に旅する共同体の中で、共に歩む主に導かれて」菊地大司教の待降節第三主日のメッセージ

2021年12月11日 (土)週刊大司教第五十六回:待降節第三主日

Cologne27 待降節も第三主日となりました。伝統的にこの日のミサでは、バラ色(ピンク)の祭服が使われることがあります。喜びを表現するためです。ミサの朗読のテーマも喜びです。

 もっとも一年に二回くらいしか使わないバラ色(ピンク)なので、所有していない教会も多いかと思います。祭服は「紫」かもしれませんが、心は喜びの「ピンク」です。

 先日、松原教会の主任司祭であるエドガル・ガクタン師が、仙台教区司教に任命された件を記しました。12月8日の無原罪の聖母の祭日に、淳心会(無原罪の聖母の御心の会)会員の司教任命が発表されたことは、意味のある事でした。

 特別な理由がない限り、司教叙階式は任命から3か月、着座の場合は任命から2か月で行われますので、来年の3月ころには、仙台で司教叙階式が行われるものと思います。これは仙台教区の正式な発表を待ちたいと思います。

 ところでキリスト教系のニュースなどで、外国人司教は3人目と報道されているようですが、実際にはさいたま教区の山野内司教様は、確か国籍がアルゼンチンですから、4人目となるかと思います。もちろん、一昔前は、太平洋戦争直前まで、すべて外国籍の司教様であったわけですし、外国籍の司教が存在することは、いわゆる日本もそうであるところの宣教地では珍しいことではありません。

 修道会出身の司教も、私を含めてですが、増えました。と同時に、日本の教会を各地で支える存在となっているフィリピン出身の信徒の皆さんのことを思うと、フィリピン出身の司教が初めて日本で誕生したことには、意味があると感じています。ガクタン被選司教様の、これからの活躍に期待しています。

 以下、11日午後6時配信の週刊大司教第56回目のメッセージ原稿です。

【待降節第三主日C(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第56回 2021年12月12日】

 パウロはフィリピの教会への手紙で、主はすぐ近くにおられるのだから「主において常に喜びなさい」と諭します。ゼファニヤの預言も「イスラエルの王なる主はお前の中におられる」と告げて、主が共にいてくださることの喜びを告げます。

 ルカ福音は、救い主を待ち望む民が、力強く真理を証しする荒れ野の声である洗礼者ヨハネに、期待を寄せる姿が記されています。それに対してヨハネは、自らの先駆者としての立場を明らかにし、さらに偉大な方が来られる、という希望を告げます。

 待降節第三主日は、神が共にいてくださることによって生み出される喜びが大きなテーマとなっています。主はどこにおられるのでしょうか。 今年11月14日の貧しい人のための世界祈願日にあたって出されたメッセージで、教皇様は次のように指摘されています。

 「イエスが明かしてくださる神のみ顔は、実は、貧しい人に向けておられる御父のみ顔、貧しい人に寄り添う御父のみ顔なのです。イエスのすべての業が、貧困は運命によるものではなく、私たちの中にイエスがおられることの具体的なしるしだ、ということを示しています」

 その上で教皇様は、私たちは「(貧しい人の)うちにキリストを見い出し、その代弁者となり、さらに彼らの友となって、耳を傾け理解し、彼らを通して神が伝えようと望んでおられる『不思議な知恵』を受け取るよう、招かれているのです」と指摘されています。

 教会は今、シノドスの歩みを共有しています。「シノドス的教会は、福音を告げながら、共に旅をする」神の民です(準備文書)。ひとつの神の民として、共に歩んでいることを自覚しようとする時、私たちは、その神の民とは一体誰なのかを改めて認識するように招かれています。

 シノドスの準備文書には、振り返りの手引きとしての質問がいくつか掲載されていますが、その最初には、こう記されています。

 「教会でも社会でも、私たちは同じ道を並んで進んでいます。皆さんの地方教会で『共に旅をする』のは、誰ですか。『私たちの教会』と言う時、誰が、その一部でしょう。誰が、私たちと共に旅をするように頼んでいるのでしょうか。教会の枠の外にいる人たちも含めて、道行く友は、誰ですか。明示的に、あるいは事実上、どういう人、グループが周縁部に取り残されているのでしょうか」

 そもそも私たちは、「皆で歩みを共にしている」と感じる教会でしょうか。教会は、単なる”秘跡の分配所”ではありません。ともに秘跡にあずかる共同体です。

 「私たちの教会」に、主が現存しておられるでしょうか。私たちは、何によって共同体へと招かれているのでしょうか。近くにおられる主を探し求めましょう。助けを求め、支えを求め、忘れ去られた人のうちに現存される主を探し求めましょう。主の招きに応えて、主の現存を感じる時、私たちは信仰の喜びに満たされます。互いに支え合い連帯するとき、私たちはそこに現存される主によって生かされ、命を生きる希望をいただきます。 教会は生きています。神の民は常に旅を続け、救いの完成の時を目指して歩み続ける民です。共に旅する共同体の中で、共に歩む主に導かれて、霊的に成長してまいりましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2021年12月11日

・教皇説教師の待降節黙想会講話⓶「聖霊の働きとは」


Cardinal Cantalamessa delivers his Advent sermon to the Pope and the CuriaCardinal Cantalamessa delivers his Advent sermon to the Pope and the Curia  (Vatican Media)

 バチカンでの待降節の黙想会が10日、教皇フランシスコと高官たちが参加して開かれ、教皇付き説教師のラニエロ・カンタラメッサ枢機卿の講話をお聴きになった。

 講話のテーマは「時が満ちると、神は、その御子を…お遣わしになりました」(ガラテヤの信徒への手紙4章4節)で、枢機卿は「神の子としての私たちの祈りにおける聖霊の役割」を考察した。

 枢機卿はこの日の講話を、キリストへの信仰の「新鮮さ、熱意、驚き」を再発見する模範として、アベルシウスという名前の古代の司教を取り上げることから始め、「それは、大聖堂のステンドグラスを、通りの側からではなく、内側から見ること」と語った。

 そのうえで、私たちの心を神に上げる聖霊の役割を考察し、「神がおられなければ、私たちは祈ったり、神の子であることに気づくことさえできないでしょう」と述べ、「もし聖霊が、私たちが神の子であることの保証であり、私たちの霊の証人であるなら、私たちが神の子であることを知ることなしに、あるいは確証なしに、”どこか”でそうするもの、ではありえません」とした。

 そして、「そのような確証は、『私たちに敵意を持って、人間の自由を制限するもの』として神のご意思を見ようとする『悪の体制』に打ち勝つ時、にやってきます」と述べて、次のように語った。

 「無意識のうちに、私たちが神の意志を、『私たちを試練に追いやる不快で苦痛を伴うすべてのもの、放棄と犠牲を必要とするすべてのもの、つまり私たちの個人的な自由と成長を抑えるものと見なされるすべてのもの』に結びつけて考えることは、よくあります。私たちは本質的に、神がすべての祝いや喜び、楽しみに反対される、と考える傾向があるが、そう考えた時に、鏡に映る自分は、観念して頭を下げ、『自分にできることは何もない… 分かりました、あなたのみ旨のままに』と歯を食いしばりながらつぶやく、歪んだ姿になっているでしょう」。

 

*「アッバ、父よ!」の呼び掛けに、神は心動かされる

 枢機卿は、このような「歪んだ姿」は「聖霊が私たちに、神の別の顔、福音の中でイエスによって明らかにされた顔を示すことで、癒してくれます」とし、「少しずつ、心の中で花開き、そして、『アッバあ、父よ』という呼び掛けになっていく、子供の感覚です。子供が、奴隷に取って代わり、愛が、恐れに取って代わる。その人は、神に敵対することをやめ、神の味方になるのです」と説いた。

 さらに、私たちが真の召命を実現するのを助けるために、聖霊が恵みによって私たちを鼓舞する祈りについて言及し、祈りは「聖霊の働きが、私たちを神の子と感じさせる奇跡を常に新たにする、特別な場所」であり、この経験は、しばしば人の生活の中で「突然、激しく」なされ、私たちを「圧倒し、沈黙させる神の威厳と次元を超えた感覚」を伴う、として次のように語った。

  「『アッバ、父よ!』という呼び掛けについて話す時、私たちは普通、そのように呼び掛ける私たちにとって、それが何を意味するのか、という観点から考えます。その呼びかけが、聴く神にとって何を意味するのか、神の中で何を生み出すのか、について、ほとんど考えることはありません。神が『お父さん』と呼ばれる喜びについては、誰も考えません。でも、父親なら誰でも、自分の息子や娘がそのように自分を呼ぶのを聞いて、どう感じるか、分かっています。いつもまた、父親になるかのようです。なぜなら、呼び掛けられるたびに、自分が何者であるかを思い出させ、分からせるからです。それはあなたの存在の核心にあるものを呼び起こすのです」。

 そして、「イエスは、神を、『私たちの父』、あるいはアラム語の『アッバ』に近いニュアンスを持つ『Daddy』と呼ぶように教えています」とし、「私たちが神に愛を込めて話す時、自分の祈りの中に特別なものを感じることができない時であっても、神は心動がされます。私たちの祈りが、真に高い愛、深い信仰に達するのは、まさに、私たちが”乾燥状態”にある時なのです」と説いた。

*”シノドスの道”を歩み始めた教会は聖霊に導きを委ねる

 講話の最後に、枢機卿は、教会の指導者たちに対して、それぞれの司牧と計画を聖霊を基礎に置くように強く求め、「時間があれば、聖霊に自分を開き、聖霊がご自身を現わしてくださる時を持ち、自分を聖霊と同調させる必要があります」とした。そして、「教会が、”シノドス”の大事業を開始した今、聖霊に私たちの業を委ね、聖霊が私たちを導いてくださるようにすることが、特別に求められているのです」と強調し、次のように締めくくった。

 「聖霊は、新たな道を開く、ただ一つの存在。過去のことを否定せず、新たなことをなさいます。聖霊は物事を新たにされます!聖霊は、新たな教義、新たな制度は作らず、刷新し、イエスによって定められたものに新たな命を吹き込みます。聖霊なしには、私たちはいつも歴史に後れを取ることになるでしょう」

 

2021年12月11日

・「洗礼者ヨハネとヨセフの生き方に倣う」菊地大司教の待降節第二主日メッセージ

2021年12月 4日 (土)週刊大司教第五十五回:待降節第二主日

Tokyoseminary211203b 待降節第二主日は、宣教地召命促進の日とされています。

 この日について、中央協議会のホームページには、こう記されています。

「キリストを知らない人に救いの福音を伝えることは、キリスト者一人ひとりに課せられた使命であり、神からの呼びかけにこたえること(召命)です。それゆえ、宣教地である日本において、すべての信徒がその使命を果たせるよう、また宣教に従事する司祭・修道者がよりいっそう増えるよう祈ることは、とても大切なことです。この日、わたしたちは、世界中の宣教地における召命促進のために祈り、犠牲をささげます。当日の献金はローマ教皇庁に集められ、全世界の宣教地の司祭養成のための援助金としておくられます」

 世界の一体どこが宣教地であるのかは、難しい問題です。客観的に見れば、すべての人が洗礼を受けているわけではないので、世界中すべての地域が宣教地であることは間違いありません。

 しかしここで宣教地と言われているのは、主に「福音宣教省が管轄している地域」と考えられ、この日の特別献金を集約し配分する担当も、福音宣教省が実務を担当する教皇庁宣教事業・使徒聖ペトロ会とされています。なお日本におけるこの活動の担当者は、東京教区の門間直輝神父様です。中央協議会のホームページに、門間神父様からの呼びかけ文が掲載されています。そして、日本はもちろん福音宣教省の管轄下にあり、宣教地です。

 使徒聖ペトロ会は、宣教地における司祭養成のための支援を目的としていますが、日本の教会はこの会自体の創設に深く関わっています。19世紀後半に、日本での再宣教を進めるにあたり邦人司祭養成が急務であると考えたパリ外国宣教会のアルフォンス・クザン長崎司教が、フランスのジャンヌ・ビガー 女史らに支援を求める手紙を書いたのが1889年6月1日で、これが使徒聖ペトロ会の始まりとされています。

 日本での召命のために、また世界中での召命のために、お祈りとご支援をお願いいたします。

Tokyoseminary211203 教皇大使レオ・ボッカルディ大司教は、12月2日夕方に東京カトリック神学院を訪問され、同神学院の保護の聖人である聖フランシスコ・ザビエルを記念して、神学生たちとミサを捧げました。

 ちょうど神学院の運営にあたる司教委員会が開催されたので、同委員会メンバーの大塚司教、梅村司教、白浜司教、そして私も一緒にミサを捧げました。(写真は、神学院聖堂に向かって建つザビエル像)

大使は神学院へのお土産に、その昔、聖フランシスコ・ザビエルが日本に派遣された時の教皇文書の写しを持参され、そこに「教皇の代理として」という言葉があることから、ミサ後にその写しを見せてくださり、「第一号の日本への大使はザビエルだった」と力説されておられました。大使はその後、神学生の食事に加わり、交流のひとときを過ごしてお帰りになりました。

コロナ禍で、着任以来、まだ日本の教会の訪問ができず、信徒の皆さんとの交流も持てないことを大変残念がっておられます。イタリア出身のボッカルディ大使は、ご自分で作曲したり歌ったりが大好きな方で、教会の皆さんとの交わりを大変楽しみにしておられますので、状況が改善すれば、大使の小教区訪問なども計画できるかと、期待しています。

 以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第五十五回のメッセージ原稿です。

【待降節第二主日C(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第55回 2021年12月5日】

 洗礼者ヨハネの出現を伝えるルカ福音は、イザヤ書を引用しながら、ヨハネの先駆者としての役割を明確にします。福音は、洗礼者ヨハネは「荒れ野で叫ぶもの」と記しますが、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と叫ぶその声が、救い主である主の到来を準備させるためであり、それによって、「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」と記します。

 救いの完成を求めて主の再臨を待ち望む私たちは、現代社会にあって「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と呼びかける声となるよう求められています。

 混沌とした事象が複雑に絡み合う現代社会の現実にあって、主を迎える準備を整えよと叫ぼうとする私たちには、「本当に重要なことを見分けられる」目が必要です。パウロはフィリピの教会への手紙で、そのためには私たちが「知る力と見抜く力とを身につけて」愛を豊かに深めることが必要だ、と指摘します。

 先駆者としての役割を果たすにあたって「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った」ように、私たちも神の言葉によって心が満たされるように聖霊の導きを祈り続けなくてはなりません。

 現代社会にあって「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と叫ぶ役割は、キリストに従うすべての人に求められているとは言え、同時にそのために生涯を捧げる人の存在も不可欠です。

 教会は12月の最初の主日を、宣教地召命促進の日と定めています。

 この日、私たちは、「世界中の宣教地における召命促進のために祈り、犠牲を捧げます」。またこの日の献金は「教皇庁に集められ、全世界の宣教地の司祭養成のための援助金としておくられ」ることになっています。

 もちろん日本は今でもキリスト者が絶対的な少数派である事実から宣教地であることは間違いなく、その意味でも、日本における福音宣教を推進するための働き手の存在は不可欠です。同時に、司祭一人あたりの信徒数から言えば、アジアやアフリカの教会と比較しても、実際には司祭数は多い教会でもあります。

もう30年も前のことになりますが、私自身、アフリカのガーナの小教区で働いていた頃、1人で20を超える教会共同体を担当していました。教会は、司祭を始め福音宣教に生涯を捧げる人を必要としています。荒れ野にあって「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と声を上げる存在が必要です。洗礼者ヨハネのように、「本当に重要なことを見分けられる」目を持ち、勇気を持って困難に立ち向かう存在が必要です。

 この一年を聖家族の長である聖ヨセフの年と定められた教皇様は、今年4月の世界召命祈願日のメッセージで、聖ヨセフの生涯を貫く特徴的な生きる姿勢に触れ、その中で、忠実であることに関して、こう記されています。

 「聖ヨセフの生涯とキリスト者の召命を貫き、日常生活を漠とはしないもの。忠実です。ヨセフは「正しい人」で、日々の労働を黙々と続け、神とその計画に粘り強く従うかたです。特に困難なときには、「あらゆることを考え」ています。熟慮し、熟考し、焦りにとらわれず、性急に結論を出す誘惑に負けず、衝動に流されず、近視眼的な生き方をしません。何事にも根気強く励みます。最高の選びに忠実であり続けることによってのみ、人生は築かれると知っているのです」

 教皇様は「聖ヨセフに倣って生きるよう」にと、この一年を聖ヨセフの年と定められ、間もなく12月8日に特別年は終了します。宣教者の召命を考え祈るこの日、洗礼者聖ヨハネと聖ヨセフという二人の生き方を黙想し、それに倣って、勇気を持ってまた忠実に、福音を告げましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2021年12月4日

・「コロナ禍にあっても『時のしるし』に心の目を開き、前進を続けよう」菊地大司教の待降節第1主日メッセージ

2021年11月27日 (土)大司教第五十四回:待降節第一主日

2016_6_09vaticanimg_9420 典礼の暦は新しくなり、待降節が始まります。主日の朗読の周年は「C」となります。

 ”シノドスの歩み”のためのビデオはご覧いただいていますか。今はまず、皆で意識を共有し、「教会」という存在への共通の理解を持つために、学ぶ時です。もちろん、複数の方で一緒にご覧いただいて、それについていろいろと話し合われても構いません。

 「分かち合い」という言葉は、何か自分の内面のすべてをさらけ出さなくてはならないような響きがあったり、何らかの手法があったりというイメージがありますが、必ずしもそうではありません。

 もちろん聖書のみ言葉に基づいた分かち合いには、それなりの方法があります。例えば、東京教区ホームページに幸田司教様が、「聖書の集い」についてまとめてくださった記事が掲載されています。

 しかしここで触れている「分かち合い」は、学んだことに関してのそれぞれの感想を述べることです。誰かがメモを取ってくだされば、後からまとめて、自分たちの信仰生活の振り返りに役立てることができるでしょうし、”シノドスの歩み”の次の段階に役に立つものとなります。これに関しては、今の段階では、特に何か結果を提出していただくようなことは、お願いしていませんのでご安心ください。

 シノドスの学びのためのビデオは、こちらのリンクの教区ホームページか、youtubeのカトリック東京大司教区のチャンネルでご覧ください。

 なお、今後の「週刊大司教」ですが、12月中の土曜日はすべて配信を続けます。1月1日(土)については、週刊大司教はお休みとします。なおその日は「神の母聖マリア」の祭日ですから、関口教会のyoutubeチャンネルで午前10時から大司教司式ミサの配信があります。

 その後、1月8日(土)からは、「週刊大司教」を配信いたします。また、関口教会のyoutubeチャンネルでは、12月24日午後9時と25日午前10時にも、大司教司式ミサが配信される予定です。

 以下、本日午後6時配信の週刊大司教第54回の、メッセージ原稿です。

【待降節第一主日C(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第54回 2021年11月28日】

 典礼の暦は新しい一年を歩み始め、降誕祭に向けた準備のときである待降節が始まります。待降節の前半は、私たちの救いの完成の時に焦点を当て、後半は救い主の誕生を黙想するように私たちを招きます。

 この二年ほどの間、私たちは感染症によってもたらされた命の危機と社会の混乱のただ中に身を置いてきました。想定外で発生したこの事態を通じて、私たちは神の計画が人知をはるかに超えていることをあらためて思い知らされています。人間が計画したことは、ことごとく立ち往生し、なすすべもなく私たちは立ちすくんでしまいました。

 このような状況の中にいるからこそ、ルカ福音の言葉は、圧倒的な現実性を持って私たちに迫ってきます。「放蕩や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい」と弟子たちに語られる主イエスは、「いつも目を覚まして祈りなさい」と促します。

 パウロはテサロニケの教会への手紙で、「神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを」学んだ人々に、「その歩みを今後もさらに続けてください。わたしたちが主イエスによってどのように命令したか、あなた方はよく知っているはずです」と記しています。

 「目を覚まして祈りなさい」という言葉は、単に覚醒していることを促しているのではなく、祈りのうちに「時のしるし」を読み取り、主が命じられた生き方を続けていくこを求めます。私たちは、ただ座して何かを待っているのではなく、常に前進を続けながら行動的に主の時を待たなくてはなりません。今どのように行動するべきなのか。

 主はそれを、さまざまな「時のしるし」を通じて示されています。今、感染症の状況のなかにあって、私たちはどう生きるべきなのかを考えさせられていますが、まさしくこの状況における「時のしるし」に心の目を開き、「神に喜ばれる」生き方を見出し、前進し続けましょう。

 教会は今、ともに歩む道、シノドスの道を一緒になって歩んでいます。今回のシノドスは、何かを議論して結論を出すこと以上に、教会が共同体であって、ともに支え合いながら道を一緒に歩んでいるのだという事実を、ともに心で感じ、皆の心に刻み込むことが一番の目的です。東京教区では、そのための一助として、現在、毎週のビデオを作成し配信しています。今更何を学ぶのかとお感じになるかも知れませんが、皆の思いを同じくするためにご覧いただければと思います。

 私たちは、感染症の困難の中で、命を守るためには互いに助け合い支え合うことが不可欠であることをあらためて学びました。教会は連帯を呼びかけています。そもそも教会は救いの完成に向けてともに歩む神の民です。一緒になって「時のしるし」を識別し、進むべき道を見いだし、支え合いながら、神の国の完成に向かって歩んでまいります。

 ただ、私たちの歩みは、漠然とした散歩ではありません。私たちは神に喜ばれる生き方をして前進することで、神の福音を社会に向けてあかしする存在となりたいと思います。私たち自身の教会のあり方を振り返ってみましょう。

 教会共同体は、福音を証しする共同体となっていますか。教会共同体は、どのような形で、具体的に福音を証ししようとしていますか。証しするために挑戦したいけれども、それができない原因は何でしょうか。そもそも、「私たちの教会」というときの「私たち」とは、誰のことでしょうか。忘れ去られている人、気がつかれていない人はいないでしょうか。この待降節を、教会の振り返りの時、シノドスの歩みを共にに歩む時、としましょう。

(編集「カトリック・あい」=漢字表記は文字として読みやすいように、当用漢字表記に統一しました)

2021年11月27日

・「助け合いながら、共に歩む」菊地大司教の待降節メッセージ

2021年待降節メッセージー助け合いながら、ともに歩む

 2021年11月27日   カトリック東京大司教区 大司教 菊地功

 「いつも目を覚まして祈りなさい」と呼びかける主は、私たちが、「時のしるし」に心を向けるよう招いておられます。命の危機すら感じさせられた感染症の状況の中で、主の降誕を迎えるために準備をするのは、今年で2回目となりました。全体の状況は明るい兆しも見られるものの、感染の再燃を危惧する声もあり、先行く道筋が完全に見通せるようになったわけではありません。

 私たちはこの2年間、困難な状況の中で互いに支え合い、助け合いながら、共に道を歩むことの大切さを肌で感じました。同時にそういった神の目で見た真の連帯が実現し切れていないことも知っています。私たちのいのちは、「互いに助けるもの」となるように、私たちに与えられています。助け合い、支え合いながら生きることは、私たちがこの命を、よりふさわしく生きていくために欠くことのできない務めです。

 教会は今、2023年秋に向けて、シノドスの歩みを共にしています。教会は、神の民として、互いに支え合い、助け合いながら、共にに歩んでいくことによって成立しているのだ、ということを、実際に体験しようとしています。共に歩むことの大切さは、今の世界の状況の中で私たちが「時のしるし」を読み解くとき、真っ先に気がつく神からの呼びかけです。

 今しばらくは、慎重な行動が必要です。まだ以前のような集まりができませんが、しかし、共にいてくださる神の誕生を前に、より良い準備ができるように、互いに支え合いながら歩み続けましょう。

(編集「カトリック・あい」=漢字の表記は、メッセージの意味が、書き言葉でより良く伝わるように、当用漢字表記に統一してあります)

2021年11月27日

・「教会共同体の交わりは喜びと希望を生み出しているか」王であるキリストの主日の菊地大司教メッセージ

2021年11月20日 (土)週刊大司教第五十三回:王であるキリスト

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 教会の典礼の暦では一年の最後の主日となりました。11月21日は「王であるキリストの主日」です。

 また教皇様は、今年から世界青年の日を、これまでの受難の主日から王であるキリストの主日に移行されました。

 さらに、11月の第三の主日にあたるので、東京教区はこの日が恒例の「ミャンマーデー」となります。先日来繰り返していますが、ミャンマーの安定と平和のために祈りましょう。さらにこれまで同様、ミャンマーの教会を支えるために、特に神学生の養成のために献金をお願いします。

 すでに小教区には公示を発送しましたが、現在、新規の検査陽性者数が激減した状態が続いており、また政府にあっても行動制限のあり方の見直しをするとの報道もあり、教区の感染対策において多少の緩和を決定し、待降節第一主日から実施します。

 主には、これまでミサ中の聖歌歌唱などが全くなくなっていた教会もあるところ、基本的に聖歌を元に戻します。できる限り聖歌隊など一部の方の歌唱を基本としますが、換気が充分で空間があるところでは、皆で一緒に聖歌を歌うことも可能とします。ただしマスクはしっかりと着用ください。

 さらにミサの応唱や祈りを一緒に唱えることを中止していましたが、これを再開し、皆で応えたり祈ったりできることとします。少しの緩和ですが、状況が悪化しない限り継続し、クリスマスに向けて、一緒に心安く祈ることができればと思います。ただし状況はまだ不確定な要素がありますから、これまで通り、感染対策は継続するようにお願いいたします。

 以下、20日午後6時配信の週刊大司教第53回目のメッセージ原稿です。

【王であるキリストB(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第53回 2021年11月21日】

ヨハネ福音は、この世の権威が支配する国家の構造と、神の国、すなわち神の支配が、全く異なる実体であることを語るイエスの姿を記しています。私たちの王であり、すべてを支配する世界の王であるイエスは、今まさにご自分の命を奪おうとするこの世の権力を前にして、毅然とした態度でぶれることなく「真理」を語られます。神の支配は神の秩序の確立であり、真理による支配であり、人間の欲望や知識に基づいたこの世の権力が支配する国家とは異なることを、イエスはピラトに向かって宣言されます。

ヨハネの黙示は、すべての人への愛のために、自らの血をもって、すなわち十字架における死をもって、私たちすべてを罪から解放された方が、その恵みと平和をもってすべてを支配している、と述べ、「罪と苦しみと死に対する勝利」こそが神の支配の実現によって到来するのだと指摘します(カテキズム要約314)。

「キリストのみ国は教会のうちにすでに現存しているとはいえ、まだ、王であるキリストが地上に来臨し、『大いなる力と栄光』とを持って完成されるには至っていません… ですから、キリスト者は、特に感謝の祭儀の中で、キリストの来臨を早めるために、『主よ、来てください』と祈るのです」とカテキズムは記し、旅する教会が世界に対して、「神の支配のあるべき姿を自らの姿を通じて示し続けることの重要性」を説いています(671)。

愚かにも互いの命を奪い合い、利己的な野心や欲望に突き動かされて争いを続ける人間に対して、神はそれでもこの不出来な私たちを闇に捨て置くことなく、愛を注ぎ続け、その愚かな罪のすべてを赦すために自らを十字架のいけにえとしてささげられた。

この世の権力者は、自分ではなく他の誰かの命の犠牲や誰かの苦しみによって、野望を成し遂げようとするのでしょう。しかし真理の王は、自ら進んで苦しみを背負い、自らの言葉と行いで、その愛を証しされる。

神がすべての支配者だと信じる私たちは、神が望まれる世界の構築を目指して行かなくてはなりません。神が望んでおられるのは神の真理が支配する国、すなわち「神の秩序が完全に実現している世界」です。それこそが本当の意味での平和な国であります。

教皇様は今年から、世界青年の日を、これまでの受難の主日から、王であるキリストの主日へ移動されました。教皇様は今年のテーマを、使徒言行録26章16節から取った、「起き上がれ。あなたが見たことの証人として任命する」とされています。

メッセージの中で教皇様は、パウロの回心の話に触れた後で、「洗礼によって新しいいのちに生きることになった私たちに、主は重要で人生を変えるような使命を与えられます。『あなたは私の証し人となる』」と、特に青年たちに呼びかけます。

もちろんこの呼びかけは青年たちだけに向けられたものではなく、すべてのキリスト者に向けられた呼びかけです。この世界を支配する価値観と神の支配は異なると、言葉で言うのは簡単ですが、それでは私たちはその神の支配が実現しているはずの教会で、何を体験しているでしょう。

共同体の交わりは喜びと希望を生み出しているでしょうか。互いの尊敬のうちに対話を生み出しているでしょうか。正義と平和を実現し、助けを求める人に手を差し伸べているでしょうか。共通の家である地球とすべての命を守っているでしょうか。私たちの教会は、キリストは生きていると告げているでしょうか。真摯に振り返ってみましょう。

2021年11月21日

・「助けが必要な人に耳を傾け、駆け付ける教会に」菊地大司教の第33主日メッセージ

2021年11月13日 (土)司教第五十二回:年間第33主日

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 2015年から16年と続いた慈しみの特別聖年の締めくくりにあたり、教皇様は使徒的書簡「あわれみある方と、あわれな女」を発表され、年間第33主日を、「貧しい人のための世界祈願日」と定められました。今年は11月14日がその祈願日となっています。

 教皇様はこの日のためにメッセージを発表されています。本文はこちらの中央協議会のリンク先をご覧ください。

 教皇様はメッセージの中で、マルコ福音書14章7節の「貧しい人々はいつもあなた方と一緒にいる」をテーマとして選び、次のように呼びかけられます。

 「貧しい人は共同体にとって「部外者」ではなく、ともに苦しみを担うべき兄弟姉妹であり、彼らの苦労と疎外感を和らげることで失われた彼らの尊厳は回復され、欠かすことのできない社会包摂が確保されるのです。しかし、慈善行為というものは支援者と受益者を前提としていますが、分かち合うことからは兄弟愛が生まれることは、ご存じのとおりです。施しは散発的なもの、他方、分かち合いは永続的なものです」

 教会の人道支援組織である国際カリタスは、教皇様のこの永続的な「分かち合い」への呼びかけに応え、特に貧困撲滅のために世界各地で取り組んでいます。1951年12月12日にローマで13のカリタスが集まって誕生した国際カリタスは、今年70周年を記念しています。

 現在国際カリタスは世界的な連盟組織として162の各地のカリタスをメンバーとして成り立ち、200を超える国と地域で活動しています。12月13日には、新しい世界的なキャンペーンを開始する準備が進められていますが、特にこの「貧しい人の世界祈願日」から次週の「世界青年の日(王であるキリスト)」までの期間、「祈りから行動へ」と題して、教会全体の貧困撲滅への取り組みを促しています。

 残念ながら日本語訳がなく英語だけですが、興味のある方はこちらの国際カリタスホームページのリンクをご覧ください。本日から来週まで、毎日何らかの行事やリフレクションがビデオで提供されています。また前述の世界的キャンペーンについては、今後、カリタスジャパンから情報が提供されることになります。

 以下、13日午後6時配信の、週刊大司教第52回目のメッセージ原稿です。

 

【年間第33主日B(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第52回 2021年11月14日】

 教会の典礼の暦は終わりに近づいています。そのため、典礼の朗読は、世の終わりを示唆する朗読が選ばれるようになります。

 ダニエルの預言は、救いの日にはさまざまな苦難が伴うが、神の民は大天使ミカエルによって守られるであろうことを記しています。

 マルコ福音は、受難の時が間近に迫る中でイエスが語った言葉を記します。さまざまな苦難に直面するものの、「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない」と記すことで、愛に満ちあふれた神はご自分の民を見捨てることはない、とイエスは確約されます。同時にイエスは、私たちが「時のしるし」をしっかりと識別し、常に備えている者であるように、と呼びかけます。

 ヘブライ人への手紙は、主ご自身が自らをいけにえとされた唯一の献げものを通じて、私たちをあがなってくださった、新しい契約について語ります。赦された私たちは、その愛と慈しみに包まれて、それに応える生き方を選び取らなくてはなりません。契約なのですから、一方的に受けるだけでなく、私たちには果たすべき責任が課せられています。

 常に目覚めて備える私たちは、それでは、どのようにして、自らに課せられた責任を果たしていくのでしょうか。主は、最後の晩餐で聖体の秘跡を制定されて、「私の記念としてこれを行え」と命じられました。私たちには、主ご自身が語り、行われたように、生き、また語ることが求められています。

 2015年から16年と続いた慈しみの特別聖年の締めくくりにあたり、教皇様は使徒的書簡「あわれみある方と、あわれな女」を発表され、年間第33主日を、「貧しい人のための世界祈願日」と定められました。

 主イエスの言葉と行いに倣って生きようとする私たちにとって、貧困にあえぎ、生きることに困難を抱える方々への心配りは、忘れてはならない行動であります。教皇様の書簡にはこう記されています。

 「人工の楽園で安易な幸福を約束する幻想を追い払うためには、私たちには希望と真の喜びの証し人が必要です。多くの人が抱く深い空虚さの感情は、私たちが心に保つ希望と、それが与える喜びによって克服することができます。私たちは、慈しみに触れられることによって心に湧き上がる喜びを認める必要があります(3)」

 神のあふれんばかりの愛と慈しみに包まれていることを自覚するとき、私たちはこの社会にあって、真の希望と喜びを証しする者となることができます。

 教皇様は、「イエスの間近にあることへの願望は、兄弟たちの隣人となることを求めます。なぜなら、具体的な慈しみのしるし以上に御父に喜ばれるものはないからです」と記して、私たちを具体的な愛の行動へと招いておられます。

 教会は今、そのあり方を振り返る回心の道を歩んでいます。シノドスの歩みは、「参加する」、「聴く」、「識別する」ことを、教会に属するすべての人に求めています。とりわけ教会は、人々の声に耳を傾けて「聴く」ように、と神から招かれています。また人は、隣人の声なき声に真摯に耳を傾けなければならないのです。耳を傾け合うところに「交わり」が生まれるからです。

 助けを必要としている人の声に耳を傾け、そのもとへと駆けつける教会でありましょう。

(編集「カトリック・あい」=漢字の表記は当用漢字に統一しました)

2021年11月14日

・「すべてを懸けて神に身を委ね、奉仕する共同体となる道を歩もう」菊地大司教の年間第32主日メッセージ

2021年11月 6日 (土)週刊大司教第五十一回:年間第32主日

 11月の最初の日曜日です。11月は死者の月でもあるので、この日曜に追悼ミサを行う小教区も多いのではないでしょうか。わたしも、現在の状況で合同追悼ミサを行うのが難しいこともあり、11月7日の主日は五日市霊園が隣接するあきる野教会で、主日ミサを捧げさせていただいて、亡くなられた方々の永遠の安息をお祈りさせていただくことにしています。

 11月3日には、午前10時から午後4時まで、zoomを利用して、カリタスジャパンの主催によるオンラインセミナーが行われ、わたしも責任者ですので参加して、最初のあいさつをさせていただきました。カリタスジャパンの活動は、国内外の援助活動と、援助を必要とする状況に関する啓発活動の二本柱がありますが、今回のセミナーは「コロナ禍と私たち」というテーマで、啓発活動を行う部会が中心となって開催されました。画面でざっと見た限り、全国から70名近い方が参加してくださったのではないでしょうか。

2021_11_03cj 教会におけるカリタスの活動は、カリタスジャパンに限定されるわけではなく、ベネディクト16世が指摘する教会の本三つの本質(福音を告げる、礼拝する、愛の奉仕)の一つとして、小教区から始まって教区、そして全国から世界へと、全てのレベルで行われる教会の愛の活動を指しています。その意味では、小教区を構成する一人ひとりの活動がベースとなっているとも言えます。

 今回のセミナーでは、まず午前中を使い、各教区でのコロナの状況での主な取り組みをそれぞれの教区担当者が発表し、午後には、担当司教である成井司教、ノンフィクションライターである飯島裕子さん、大学院生の小林未希さん、大阪教区シナピスのビスカルド篤子さん、麹町教会の吉羽弘明さんが参加してのパネルディスカッションとなりました。それぞれの現場から、貴重なお話を聞くことが出来ました。ありがとうございます。

 教会にはいろいろなレベルでのさまざまな活動があります。それらが連携して行くことが出来れば、さらに大きな力となるでしょうし、何を最優先するべきなのかを明確にする中で、教会内に留まらず、さまざまな団体と連携していくことも、さらに必要となっていくと思われます。

 神から与えられた賜物である命を最優先に守っていき、その尊厳を保つために、努力を続けたいと思います。今日のメッセージで教皇様の言葉にも触れていますが、教皇様は常に挑戦するようにと教会を鼓舞しておられますが、そのときに避けるべきリスクを、シノドスに関連して三つあげられています。その三つのリスクに触れていますので、以下のメッセージをご一読ください。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第五十一回めのメッセージ原稿です。

【年間第32主日B(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第51回 2021年11月7日】

 列王記は、貧しい一人のやもめと預言者エリヤとの出会いを描きます。貧しさと飢えの中でいのちの危機に直面する女性に、エリヤはそれでも施しをするようにと迫ります。しかし、命を賭けたその施しの業、すなわち犠牲の業に、豊かな報いがあったことが記されています。

 マルコ福音は、有り余る中で見せかけばかりに気を取られる律法学者の姿との対比の中で、イエスが、貧しいやもめが「乏しい中から自分の持っているものをすべて」神にささげた行為を評価した話を記しています。「生活費を全部入れたからである」と述べることで、イエスはこの女性の信仰が、まさしく自己犠牲の上に成り立った命懸けの信仰であることを明白にします。

 ヘブライ人への手紙は、私たちの大祭司であるキリストは、この世の聖所に鎮座する存在ではなく、あがないを成し遂げて、御父のもとで執り成してくださっている、と強調します。その上で、人類に対する神の愛は、まさしく命懸けの自己犠牲によって具体的に表された、と指摘します。

 私たちの信仰は、あたかも趣味のように、余裕があるから身に着けるようなものではなくて、命懸けで全てを神に委ねる自己犠牲によって成り立っています。それは主ご自身が、私たちのために、まさしくその命を投げ打って自らを神に委ねたからに他なりません。私たちは、どのような覚悟で、何を犠牲にしてこの信仰を生きているのでしょうか。

 「はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」と、マタイ福音に記されていました。信仰が、余裕があるから身に着けるたしなみではないように、私たちの愛の行動も、余裕があるから行うものではありません。助けを必要としている人たちに、力を尽くして愛を実践する教会共同体でありたいと思います。

 教会は今、シノドスの歩みをともに歩んでいます。聖霊に導かれて、これまでの教会の歩みを振り返り、現代社会にあって教会がどのようにあることを神が望まれているのかを、一緒になって見出していこうとしています。

 シノドス開会ミサを翌日に控えた10月9日に、バチカンで行われたシノドスに向けた集いにおいて、教皇様は、シノドスは司牧的回心のための大きな機会である一方で、いくつかの「リスク」も抱えている、と指摘されました。それは、このシノドスの歩みを中身のない表面上のものにしてしまう「形式主義」、高尚だが概念的で世界の教会の現実から離れた「主知主義」、今までどおりでよいと考え何も変える意志がない「現状維持主義」の三つのリスクであります。

 その上で教皇様は、今回の共に歩む旅路が、無計画にではなく「構造的に」歩む可能性を、また皆が教会を自分の家のように感じ、誰もが参加できる場所となるために「耳を傾ける教会」となる可能性を、さらには兄弟姉妹の希望や困難に耳を傾けることで司牧生活を刷新し、「寄り添う教会」となる可能性を与えている、と指摘されます。私たちの教会はどうでしょう。

 教会のこういった呼びかけに積極的に応えることは、思いの外、面倒ですし、さまざまな犠牲を伴います。できれば誰か余裕のある人に取り組んでほしいものだ、と思われるのかも知れません。

 しかし第二バチカン公会議に始まった教会の回心の道は、まだまだ途上であることを感じさせられる出来事が相次いでいる昨今、教会は自らのあり方を振り返り、神の導きに従う存在とならなくてはなりません。余裕があるからではなくて、すべてを懸けて神に身を委ね、自己犠牲の心を持って互いの命を守り抜き、支え合う、奉仕する共同体となる道を歩みましょう。

 

(表記は当用漢字表記に統一させていただきました「カトリック・あい」)

2021年11月6日

・「聖母に倣い、愛の業に励もう」菊地大司教の年間第31主日メッセージ

2021年10月30日 (土)週刊大司教第50回:年間第31主日

 10月もこの日曜日で終わりとなります。週刊大司教も50回目の節目を迎えることができました。視聴して、共にお祈りくださっている皆様に感謝申し上げます。

 ミサの公開が再開したことで、視聴していただく方も減ると予想していましたが、例えば現時点で、先週の第49回は千人を超える方にご覧いただいています。時には千五百人を超える週もあります。ありがとうございます。皆様の霊的な糧として役に立っているのであれば、それに勝る幸いはありません。

 感染症対策でミサの参加を制限せざるを得ない状況の中で、霊的な助けとなればとの思いで始めた主日福音のメッセージ配信ですが、わたし自身の原稿の準備もそうですし、広報職員も撮影と編集にかなりの時間を費やすことになっていますので、このままいつまでも続けるのは難しいかと感じています。

 一つの目安としては、視聴してくださる方が千人を割り込むことが続いた場合は、その段階で他の形への移行を考えることにしたい、と思います。現時点では11月の「王であるキリスト」までは撮影が済んでいますので、待降節以降については検討中です。

 毎日報告される検査陽性者の数は以前と比較すれば断然に低い数字で推移しています。さまざまな規制も解除されつつあります。同時に、第6波の可能性を指摘する声もあります。

 すでにクリスマスと年末年始についてはお知らせしたところですが、現状の推移を見ながら、医療関係者の意見を伺い、例えば祈りを一緒に唱えることや、聖歌隊による歌唱の制限緩和などを検討しております。ただマスクを着用することや、ある程度の距離を空けて着席することなどは、まだ当分の間、変更することは難しいと思われます。ご協力をお願い申し上げます。

2021_10_17kaminogeb 10月はロザリオの月です。月末になりましたが、改めてロザリオについてメッセージで振り返りました。ロザリオは5月や10月に限定されているわけでもなく、日頃から手軽に唱えることが出来る貴重な祈りです。そして聖母の取り次ぎには、力があります。

 以下、30日午後6時配信の、週刊大司教第50回目のメッセージ原稿です。

【年間第31主日B(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第50回 2021年10月31日】

 申命記は、「聞け、イスラエルよ」で始まる掟の言葉を記しています。旧約の掟の中心となる一節であり、イエスご自身が「第一の掟」として言及していることが、マルコ福音には記されています。

 全身全霊をあげて、唯一の神を愛することを最も大切な掟であるとする主イエスは、同時に、「隣人を自分のように愛しなさい」というレビ記に記された言葉を、それに続く第二の大切な掟であると教えます。

 すなわち、唯一の神を愛することは、その神が創造された賜物であるいのちを生きる自分自身を愛することであり、それは同時に、同じ命を生きている隣人を愛することをも意味するのですから、この三つの愛は、切り離すことはできません。

 ヘブライ人への手紙は、創造主である神ご自身が、私たちへの愛を、自らの命を犠牲にしてまで具体化されたことを記し、「完全な救いのために、永遠に執り成してくださる祭司である主により頼むように」と呼びかけます。

 命の与え主である神を信じる私たちキリスト者は、人間の性格として優しくあるから他者を愛し、助けを求める人に手を差し伸べるのではありません。私したちが信じる神が、まず命を賭して私たちへの愛に生きたからこそ、神から愛されてこの命を与えられ、生かされている私たちは、当然のこととして、隣人を愛するのです。隣人愛は優しさではなく、神から受けた愛の反映です。

 神から私たちが受けている愛を、被造物として最も美しく反映しているのは、私たちの母である聖母マリアであります。教皇レオ13世によって、10月は聖母マリアにささげられた「ロザリオの月」と定められました。10月も終わりを迎えますが、その意味を振り返ってみましょう。

 教皇パウロ六世が1969年に発表された使徒的勧告「レクレンス・メンシス・オクトーベル」は、冒頭で、「諸民族の心と精神の和解によって最後には真の平和が世界に輝くよう、幸いなるおとめマリアの助けを願うために、十月にロザリオを唱えることを強く勧めます」と記しています。

 10月7日のロザリオの聖母の記念日は、1571年のレパントの海戦でのオスマン・トルコ軍に対する勝利が、「ロザリオの祈りによってもたらされた」とされていることにちなんで定められています。歴史的背景が変わった現代社会にあっても、ロザリオは信仰を守り深めるための、ある意味、霊的な戦いの道具でもあります。

 とりわけ昨年から今に至る感染症による困難な状況の中で、私たちを祈りのうちに霊的な絆で結び、さらには聖母の取り次ぎによって、聖母とともにこの困難に立ち向かう霊的な力をいただくためにも、ロザリオは私たちにとって、信仰の危機に立ち向かう武器である、とも言えます。

 教皇パウロ六世は、使徒的勧告「マリアーリス・クルトゥス」で、「(マリアが)信仰と愛徳との両面において、さらにまた、キリストとの完全な一致を保ったという点において、教会の卓越した模範であると仰がれている」(16)と指摘します。

 ロザリオの祈りを唱えることで、私たちを結び合わせているキリストの体における神秘的一致へと導かれ、どこにいても、いつであっても、一人でも、複数でも、ロザリオを唱えることで、私たちは聖母マリアがそうであったように、キリストの体において一致することが出来ます。

 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神を愛する私たちは、聖母に倣って、キリストと一致しながら、命を守る愛の業に励みたいと思います。

 

(編集「カトリック・あい」=表記を当用漢字表記に統一しました)

2021年10月30日

・「希望を生み出す命の言葉を語る者となろう」菊地大司教の年間第30主日のメッセージ

2021年10月23日 (土)週刊大司教第四十九回:年間第30主日

Rozario8 ロザリオの月である10月も後半。と言うことは今年も間もなく終わりに近づき、典礼も徐々に待降節をどことなく意識し始めてきます。

 そろそろ小教区ではクリスマスについて計画する時期です。現時点で感染症の状況は落ち着いており、毎日報告される検査の新規陽性者の人数も、低い数字で留まっています。同時に、今後年末、または年始にかけて、もう一度、いわゆる”第6波”が襲来する、という指摘もあります。

 大変残念ですが、今年のクリスマスも、東京教区では(東京都と千葉県)、昨年と同様に、感染症対策を施し、入場を制限して行わざるを得ません。普段教会に足を運ばれる事のない方が大勢教会を訪れるのがクリスマスですが、大変申し訳ありませんが、教会は今年のクリスマスも感染対策を継続して入場を制限せざるを得ませんので、ご承知起きください。来年こそは、またコロナ禍前のいつものように、大勢の方に自由に足を運んでいただけるようになることを、心から願っています。

 すでにお知らせしているように、シノドスの歩みが教区で始まっています。前記事にもあるように、教区の皆さんに共通理解を持っていただくために、教区担当者の小西神父様がビデオを用意され、これは今後も続いて配信されますので、ご活用ください。

Bangla

 10月の最後から二番目の主日、すなわち今年は10月24日が、世界宣教の日と定められています。この日は、すべてのキリスト者が宣教の心を呼び起こし、世界の福音化のために、霊的物的な援助をすることを目的としています。教皇庁の福音宣教省には世界各地の教会活動を支援する部署が設けられ、世界宣教の日の献金がそのために使われています。それぞれの小教区での献金に、ご協力くださいますようにお願いいたします。(写真は、バングラデシュの先住民族のお父さん。2009年)

 この日のための教皇様のメッセージは、タイトルが「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」(使徒言行録4・20)とされています。教皇様のメッセージの全文は、こちらのリンクから、中央協議会のホームページでご覧ください。

以下、23日夕方6時配信の、週刊大司教第四十九回のメッセージ原稿です。

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【年間第30主日B(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第49回 2021年10月24日】

 マルコ福音は、バルティマイの目が癒やされた奇跡物語を記しています。病気の治癒の奇跡であるこの物語には、実はイエスによる二つの「治す業」が記されています。

 一つは当然、バルティマイの不自由だった目が癒やされ、見えるようになったという「治す業」であります。もう一つは、そこに集まった大勢の群衆の心を、助けを求める人の叫びに無関心な心から、希望を生み出すかかわりの心へと「治す業」であります。

 バルティマイが叫び声を上げたときに、群衆は「叱りつけて黙らせようとした」と福音は記します。すなわち助けを求める人の声を押さえ込み、その存在を見えない者とした行動であります。その群衆は、福音の後半で、バルティマイに対して「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」と、声をかけるようになります。

 助けを求める人の声を押さえ込みその存在を無視しようとした群衆の無関心の心は、励ましを与える配慮に満ちた関わりの心へと変えられ、バルティマイに生きる希望を生み出しました。群衆の心を変えたのは、イエスの一言です。「他の誰でもない。あの男を呼んで来なさい」。すなわち、今、命の与え主である主にとって大切なのは、助けを求めているバルティマイをおいて他にはいない、と群衆に心を向けるようにと語られました。

 マルコ福音のこの奇跡物語は、すべての命を守ろうとする創造主が、私たちに求めている互いの関係性を明確にします。確かに具体的に病気を治すような、慈しみの行為は大切ですが、それは同時に、助けを求めている命が、自ら立ち上がって生きる希望を見い出すために、その存在を認め励ますような関わりをすることも重要である、ということを教えています。

 10月の最後から二番目の主日は、世界宣教の日と定められています。この日は、すべてのキリスト者が宣教の心を呼び起こし、世界の福音化のために、霊的物的な援助をすることを目的としています。教皇庁の福音宣教省には世界各地の教会活動を支援する部署が設けられ、世界宣教の日の献金がそのために使われています。

 今年のテーマは、使徒言行録から、「私たちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」(使徒言行録4章20節)とされており、教皇様はメッセージを発表されています。

 教皇様はメッセージで、「神の愛の力を経験したとき、個人や共同体の生活の中で御父の存在に気づかされたとき、わたしたちは、見たことや聞いたことを告げ、分かち合わずにはいられません」と記し、その上で、「福音宣教の道のりは、『どこにいようとも一人ひとりを呼び出し、友としての対話をしたい』と望んでおられる主を熱心に探し求めることから」始まる、と記しておられます。

 まさしく、群衆の中からバルティマイを見い出し、声をかけ、その行為を通じて多くの人の回心をもたらし、「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」と、命の希望を生み出す言葉をかける人へと変えてくださった主イエスが、私たちに従うべき生き方を示しておられます。

 教皇様は、パンデミックという状況が分断と孤立化を深め、「私たちは落胆し、幻滅し、疲労し、希望を奪う諦めの気持ちに、視野が遮られてしまったのです」と指摘されます。しかし、「希望の言葉は、その言葉に触れるがままでいる人に、あらゆる決定論を打ち破らせ、自由と立ち上がるために必要な勇気を贈ります」とも指摘されます。

 私たちも、希望を生み出す命の言葉を語る者となりましょう。助けを求める人たちに心を向ける者となりましょう。関わりの中で、「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」と声をかける者となりましょう。

(編集「カトリック・あい」=漢字の表記は、当用漢字表記にさせていただいています)

2021年10月23日

・「まず、共通の理解を持つことから始めたい」菊地大司教の年間第29日主日メッセージ

2021年10月16日 (土)週刊大司教第四十八回:年間第29主日

 10月17日は、先頃からお知らせしているように、2023年秋に開催される世界代表シノドスの、それぞれの教区ので「歩み」の始まりです。設問を出して、大きな会議を開いて、結論を議決することは、手間がかかりますが、明白な答えが出て、すっきりします。

 しかし今回、教皇様は、そのような手法ではなくて、皆で一緒に識別をして現状に対する共通理解を持ち、「共に旅する神の民」として歩んでいこう、と呼びかけます。

言葉でそういうのは簡単ですが、これを具体的に実施していくのは難しいことです。大きな会議を開いた方が簡単です。しかし教皇様は「面倒なことをしなければ、現状は変わらない」と言われます。

来年2月末に司教団へ教区としての回答を提出するまで時間が限られているのですが、やり方はそれぞれの教区に任されていますので、東京教区では、まず皆で共通の理解を持つことから始めたいと思います。教区のホームページで順次情報を提供していきますので、どうかご覧ください。

教皇様は、10月9日のシノドス開始を告げる考察の集いで、こう述べておられます。(バチカンニュースから)

「教皇は、シノドスは司牧的回心のための大きな機会を与える一方で、いくつかの『リスク』も抱えている、と指摘。そのリスクとして、シノドスを中身のない表面上のものにしてしまう『形式主義』、高尚だが概念的で世界の教会の現実から離れた『主知主義』、今までどおりでいい、と考え、何も変える意志がない『現状維持主義』の3つに注意するよう促された」

衆議院が解散され選挙が行われます。国政にとって大切な選挙ですから、より良い方向へ進むよう聖霊の導きがあるよう祈りましょう。また今回の選挙で選ばれる方々の上にも、聖霊の祝福と導きがあるように祈りましょう。

特に今はロザリオの月である10月ですので、ロザリオの祈りを通して、私たちの母である聖母マリアの取り次ぎによって、現代世界における神の平和の実現を目指して、私たちが行動する神の知恵を与えられるよう、祈り続けましょう。

以下、16日午後6時配信の、週刊大司教第四十八回目のメッセージ原稿です。

【年間第29主日B(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第48回 2021年10月17日】

神ご自身による苦しみは、命への希望を生み出しました。イザヤは、「自らを償いの捧げ物とした」事を通じて、「子孫が末永く続くのを見る」と記し、さらに「多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った」と記すことで、イエスご自身による受難の道程と、それによってもたらされた栄光への希望を預言します。

ヘブライ人への手紙は、選ばれた民を代表して神の前に立つ存在である大祭司を持ち出し、すでに御父のもとにあられるその大祭司である主イエスが、「あらゆる点において、私たちと同様に試練に遭われ」、人類の罪を背負ってくださったのだから、神と私たちとの結びつきは揺るぎないことを強調します。その上で、私たちの弱さに心を寄せてくださる主イエスの慈しみを記すことで、神の憐れみが豊かに与えられていることを確信するように促します。

マルコ福音は、再び、奉仕するリーダーについて語るイエスの姿を記します。イエスご自身が、「仕えるために来た」と言われたように、そしてまさしくご自身がすべての人の罪を背負って、『すべての人に仕える者』として、その身を『あがないのいけにえ』として捧げてくださったように、私たちも、『君臨する者』ではなく、『互いに仕え合う者』となることが求められています。

教皇様は、2023年秋に世界代表司教会議(シノドス)通常総会を開催することを決定され、そのテーマを、「共に歩む教会のため-交わり、参加、そして宣教-」と定められました。

その上で教皇様は、教会全体にとって、シノドスがまさしくその意味するところである「共に歩む」プロセスであることを望まれて、ローマでの2023年の会議だけでなく、世界中すべての教区を巻き込んで、2021年10月から始められるように、と指示をされました。

すでに先週、教皇様は、今回のシノドスのプロセスの開始を、ローマから告知されていますが、世界中の教区は10月17日の主日をもって、それぞれのシノドスのプロセスを始めるように、と指示されています。

9月の初めにローマ教区の信徒代表たちとお会いになった教皇様は、その席で、「教会が『リーダーたちとその配下の者たち』とか、『教える者と教わる者とから成り立っている』とかいう、凝り固まった分断のイメージから離れることには、なかなか手強い抵抗がありますが、そういう時、神が立場を全くひっくり返すのを好まれる、ということを忘れている」と指摘されています。

2015年にシノドス創設50周年の式典が行われた時、教皇様はこう述べておられます。

「まさに『シノドス性』の歩みとは、神が第三千年期の教会に期待しておられる歩みなのです。ある意味、主が私たちに求めておられるのは、すべて『シノドス』(ともに歩む)という言葉の中に、既に含まれています。『信徒と司牧者とローマの司教がともに歩むこと』、それを言葉で言うのは簡単ですが、実行に移すのは、それほど容易ではありません」

教皇様は、例えば、教会がこの世の団体のように、『民主的に運営される仲良しの共同体』であろうとはされていません。そうではなくて、『地上を旅する神の民として、司教も司祭も修道者も信徒も共に手を携えて、互いに奉仕し合い、互いに支え合い、歩みを共にする共同体』となることです。

『交わり』の共同体は、『福音を生きる』共同体です。『参加」する共同体は、『責任を共有』する共同体です。『宣教』する共同体は、『福音を証し』する共同体です。神ご自身が人となり、へりくだりのうちに私たちと歩まれたように、私たちも互いに仕え合う者として歩みましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2021年10月16日

・「シノドスの歩みが始まる今こそ、知恵と賢明さを」菊地大司教の年間第28主日メッセージ

2021年10月 9日 (土)週刊大司教第四十七回:年間第28主日

Rozario21a 10月10日は年間第28主日です。週刊大司教も、本日の配信で第47回目となりました。ご視聴いただいている皆様に感謝申し上げるとともに、現在の状況の中でまだまだ教会に出かけることに困難がある方々に、週刊大司教をお勧めいただければと思います。

 パソコンからだけでなくスマートフォンからもYoutubeでビデオをご覧いただくことができますし、過去の動画もそのまま保存してあります。ご活用ください。

 教皇様は9日と10日の典礼をもって、シノドスの歩みを開始されます。シノドスの歩みは世界のすべての教区を巻き込んで始まり、2023年秋にローマで開催される世界代表司教会議まで継続します。各教区では来週、10月17日に教区での歩みを始めるようにと指示されています。

 現在の状況ですから、特別な典礼儀式は行いませんが、カテドラルの関口教会で、10月17日の午前10時のミサを大司教司式ミサとして、これを持ってシノドスの歩みを開始といたします。

 今回のシノドスは、設問に対する回答を見いだすための会議ではなくて、神の民としての教会が、聖霊に導かれてともに歩む方向性を識別するために、できる限り多くの人の声に耳を傾けたいという教皇様の願いを実行に移すプロセスです。

 すでにバチカンの事務局からは、このプロセスを始めるために各教区に対して10の設問が送られてきています。これらについては、この数日中に、これからどのように取り組むのかを含めて、お知らせをいたしますが、バチカンの事務局もこの10の設問への正解を求めているのではなく、それに基づいて各自が、また教区内のさまざまなレベルの共同体が、振り返り、深め、道を見いだす時をともにすることを求められています。

 従って、教区として何か会議を行ったり、または宣教司牧方針の時のように10の設問への回答を募集するような形ではなく、教皇様が望まれている教会のあり方について、ともに理解を深める時を、まず持ちたい、と考えています。そのために、シノドスが目指すところなどを解説する連続ビデオを作成して、教区のホームページで公開する準備をしています。

 シノドスについての情報は、随時、教区ホームページに特設ページを設け掲載していきますので、どうぞご活用くだ】さい。

 以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第47回目のメッセージ原稿です。

【年間第28主日B(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第47回 2021年10月10日】

 「善い先生」と呼びかけ、イエスのもとにひざまずいた人物は、忠実に掟を守る正しい生き方をする人だったのでしょう。マルコ福音は、イエスから基本となる掟を教示されたこの人が、「そういうことはみな、子どもの時から守ってきました」と応えた様を記し、彼の正しさを強調します。イエスもその事実自体を否定はせず、しかしそこには欠けていることがあると指摘しています。

 この正しい人に欠けていたのは、一体何だったのでしょうか。イエスは、二つのことを問いかけ、求められます。まず第一に、たくさんの財産を持っていたこの人に、すべてを売り払い、貧しい人たちに施しをすることを求め、さらに加えて第二に、「わたしに従いなさい」と、イエスとともに歩むことを求めます。そしてこの二つこそ、掟を守る正しいこの人に欠けている事柄であります。

 すなわち、第一に彼の正しさは、神の掟を忠実に守っているところにあるのですが、そもそも掟は何のために守るのか。掟とは、神が求められるいのちの生き方に、わたしたちが忠実であるために与えられた道しるべです。掟は、それを守ることを目的として与えられているのではなく、守ることによって具体的にどのような生き方が実現するのかが問題です。

 仮に掟を完璧に守っているのであれば、それを実際の行動として具体的に生きているのかどうかが問われることになります。イエスがここで指摘する、「貧しい人々に施す」行為は、神の求める生き方であり、具体的には助けを必要としている人、一人ひとりのうちにおられる神を見いだし、ともに歩もうとする愛の具現化です。神に喜ばれるその生き方は、天に宝を積むことでもあります。

 さらにイエスは、神に従うという決断が欠けていることを指摘します。掟を守ることが神が求める生き方をすることであるならば、それはすなわち、全身全霊を持って神に従う決断をすることへとつながります。中途半端な信仰ではなく、すべてを賭けた決断をイエスは求めます。

 知恵の書は、どのような財宝よりも優れている知恵について語ります。知恵と賢明さは、私たちを神の求める生き方へと導く手立てであり、加えて知恵は「すべての善」とともにあると知恵の書は記します。神に従うという徹底的な決断をするためには、善とともにある知恵と賢明さが必要です。

 ヘブライ人の手紙も、同様に、生きている「神の言葉」は、「心の思いや考えを見分けることが出来」る力があると記します。私たちの善に従う決断のために必要なのは、神の知恵、そして賢明さ、それをもたらす神の言葉であって、この世の成功や富ではありません。

 ところで2023年秋に開催される世界代表司教会議(シノドス)は、世界中の教区に属するすべての人をともに、本日その歩みを始めます。それぞれの教区での歩みは来週から始まりますが、教皇様は10月9日と10日に、シノドスのプロセス開始を告げられます。

 テーマは、「共に歩む教会のため―交わり、参加、そして宣教」と定められています。前回の通常シノドス閉幕にあたり、教皇様は、「傾聴というこの基本的な手立てを通して、私たちは現実を解釈し、現代のしるしを把握しようとしました。そして、み言葉と聖霊の光のもとに、「共同体としての識別」が行われました」と述べておられます。

 今こそ私たちに、教会全体に、知恵と賢明さが必要です。生きている神の言葉に促されて、教会共同体の識別が賢明に行われるように祈るとともに、神の呼びかけに全身全霊を持って徹底的に従うことができるように、知恵と賢明さと信仰における勇気を願いましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2021年10月9日

・ロザリオの月の初めにー「聖母マリアの取り次ぎにより、神の平和が取り戻されるように」ー菊地大司教の年間第27主日メッセージ

2021年10月 2日 (土) 週刊大司教第46回:年間第27主日

Kojimachibvm 時間は本当に飛ぶように過ぎ去ってしまいます。とりわけ、現在のように不確定要素のただ中で翻弄され、対応に追われるとき、心はどうしても落ち着きを失い、気がつくと、あっという間に時間だけが過ぎていたと言うことなのでしょうか。10月となり、今年も年末に向けての3ヶ月となりました。

 10月はロザリオの月です。(聖母子像の写真は麹町教会)

 教皇レオ13世によって、10月は聖母マリアにささげられた「ロザリオの月」と定められました。そもそも10月7日のロザリオの聖母の記念日は、1571年のレパントの海戦でのオスマン・トルコ軍に対する勝利が、ロザリオの祈りによってもたらされたとされていることに因んで定められています。歴史的背景が変わった現代社会にあっても、ロザリオは信仰を守り深めるための、ある意味、霊的な戦いの道具でもあります。

 教皇パウロ六世が1969年に発表された使徒的勧告「レクレンス・メンシス・オクトーベル」は、冒頭で、「諸民族の心と精神の和解によって最後には真の平和が世界に輝くよう、幸いなるおとめマリアの助けを願うために、十月にロザリオを唱えることを強く勧めます」と記しています。

 この困難な状況に立ち向かう今だからこそ、神の母であり、教会の母であり、そして私たちの母である聖母マリアの取り次ぎによって、世界に、そして私たちの心と体に、神の平和が取り戻されるよう、共にいてくださる主イエスと歩みをともにしながら、命の与え主である御父に祈り続けましょう。

 東京教区では、すでに教区ホームページなどで公示したように、10月1日から、感染対策を取りながら教会活動を再開しています。今後状況がどのように変化するのかまだ見通せませんが、互いの命を守るための積極的な愛の行動として、感染対策にご協力ください。

 なお昨日付で人事の公示をいたしましたが、これまで10年以上にわたって東京教区の司牧のために貢献してくださった李 宗安師(現青梅・あきる野教会主任司祭)は、李神父様の所属するソウル教区と東京教区との契約が満了し、10月末をもって帰国されることになりました。

 ソウル教区からは、すでに後任の神父様が任命され、派遣の手続きが進んでいますが、残念ながら現在の感染症の状況で日本政府から宗教ヴィザが発給されず、入国できずに待機されている状態です。李神父様のこれまでの東京での司牧に対する貢献に感謝するとともに、帰国されてからのソウル教区でのご活躍をお祈りいたします。(なお、フランス語共同体の新しい担当司祭もフランス司教団から任命されていますが、同様の理由で、入国できず、待機中です)

 以下、2日午後6時公開の、週刊大司教第46回のメッセージ原稿です。

【年間第27主日B(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第46回 2021年10月3日】

 創世記は、冒頭で神による天地創造の業を記していますが、二章においては創造物語の視点を変え、人が賜物である命を与えられた理由を記しています。

 二人の人が創造された理由がそこに記されているように、私たちは互いに「彼に合う助ける者」となるように、その命を与えられている。そう記す創世記は、私たちが互いに助け合い、支え合うことこそが、命を生きる本質である、と強調します。

 マルコ福音も、ファリサイ派の人たちとイエスの、離縁に関する議論について記しながら、二人の人が一体となることの根本にある、命に与えられた使命、すなわち、互いに助け合い、支え合うことこそが私たちが命を生きる意味であることを明確にします。

 ヘブライ人への手紙は、救いの創始者、すなわち、天地を形作られた神ご自身が、数々の苦しみを通じて完全な者となったことで、「多くの子らを栄光へと導いた」と記します。

 教皇ベネディクト16世は回勅『希望による救い』の中で、「人間は単なる経済条件の生産物ではありません。有利な経済条件を作り出すことによって、外部から人間を救うことはできないのです(21)」と指摘します。その上で教皇は、「人とともに、人のために苦しむこと。真理と正義のために苦しむこと。愛ゆえに、真の意味で愛する人となるために苦しむこと。これこそが人間であることの根本的な構成要素です。このことを放棄するなら、人は自分自身を滅ぼす(39)」と述べています。

 教会が常に顕彰してやまない殉教者たちは、その人生における苦しみを通じて、まさしく「人間であることの根本的な構成要素」を明確に表現した存在です。殉教者たちは信仰を生き抜くことで苦しみ抜きながらも、賜物としていのちを与えられた人間の生きる意味を明確にした存在です。主ご自身が苦しみを通じて多くの人を救いへと導いたように、苦しみを通じて人間の本質を明確に示した殉教者たちは、その命は、自分のためではなく、互いに助け合うため、支え合うためにこそ与えられていることをはっきりと示されました。

 私たちには、苦しみのうちにあっても連帯のうちに、互いの命を支え合って生きることが求められています。

 教皇フランシスコは、一般謁見を昨年9月2日に一時中断後再開した時、こう話されました。

 「新型コロナ大感染は、私たちが頼り合っていることを浮き彫りにしました。私たちは皆、良くも悪くも、互いに結びついています。この危機から、以前よりよい状態で脱するためには、共に協力しなければなりません。独力ではなく、協力するのです。独りでは決してできないからです。一緒に協力するか、さもなければ、何も出来ないかです。私たち全員が、連帯のうちに共に行動しなければなりません」

 感染症の状況の中で、私たちは命の危機を肌で感じました。この不安と苦しみの中にあって、私たちの心はどうしても自分の方へと向かってしまいます。自分の命を守ろうとして、利己的になってしまいます。分断と分裂、そして孤立と孤独は、この数年、世界各地で社会の課題となって顕在化してきましたが、このパンデミックによって、さらに明確な社会の課題として、いや、命の危機をもたらす要因として、私たちの目前に立ちはだかっています。私たちは、互いに助け合う者として命を与えられていることを思い起こし、殉教者の勇気に倣い、命を生きる本当の意味を、広く証しし、伝えてまいりましょう。

 

(菊地大司教「司教の日記」より=「カトリック・あい」編集)

 

2021年10月2日

・「弱い立場にいる人たちへの慈しみに徹底的に生きる」菊地大司教の年間第26主日・世界難民の日説教

年間第26主日:世界難民移住移動者の日(配信ミサ)

Rwanda95c 週刊大司教でも触れていますが、9月最後の主日は、世界難民移住移動者の日と定められています。本来であれば、教会の大切な活動である難民や移住者への支えの活動のために、全世界の教会は献金をする日となっているのですが、残念ながら今年はミサの非公開の時期と重なってしまいました。様々な事由から困難な旅路につき、今、その途上にある人たちのために、お祈りくださいますようにお願いします。

 教会は従前から、旅路にある人への配慮の必要性を強調してきましたし、特にその命を危機にさらすようなことのないように、特段の配慮をするように教えてきました。また教会のそういった配慮を具体的に表現するため、国際カリタスを通じた全世界での難民支援活動を行い、また教皇庁の人間開発促進の部署に難民セクションを設けて、教皇様が直接関与する形で、支援活動を強めてきました。

 移動の途上にあって命を落とされる事案は、増えることはあっても減少してはいません。教皇様が就任直後にアピールをされた、アフリカから地中海へ乗り出して命を落とされる多くの人の存在を始め、アフリカや中東、そしてアジアでも、紛争地域にあっていのちの危機に直面する多くの人たちは後を絶ちません。さらには経済的困難から移住することを選択し、新たな居住地で命の危機に直面する方もおられます。

 日本でもそういった残念な例がありますが、公的な保護が十分ではなく逆にその尊厳を奪われて、中には命を落とす方もおられるような事案があることも事実です。人間のいのちの尊厳を奪い去る暴言や暴行は、誰であっても、とりわけ保護する立場にある公的機関である場合にはなおさら、それを正当化することは、命が神からの賜物であると主張する限り、できることではありません。互いに支え合い助け合うという、賜物である命に与えられた私たちの存在の意味を、今一度、心に刻みたいと思います。

以下、26日午前10時から、カトリック関口教会のYoutubeアカウントから配信された主日ミサの、説教原稿です。

【年間第26主日B(配信ミサ)東京カテドラル聖マリア大聖堂 2021年9月26日】

9月最後の主日は、世界難民移住移動者の日と定められています。

旧約聖書のレビ記19章34節にはこう記されています。「あなたがたのもとにとどまっている寄留者は、あなたがたにとってはイスラエル人と同じである。彼を自分のように愛しなさい。あなたがたもエジプトの地では寄留者であった。私は主、あなたがたの神である」。

教会にとって、移住者への司牧的配慮は、その形態や理由の如何を問わず、長年にわたって優先課題とされています。それは旧約時代から続く、寄留者への配慮の定めに基づいています。

現在は人間開発促進の部署として統合されましたが、かつて浜尾枢機卿様が議長を務めておられた教皇庁の移住移動者評議会が2004年に発表した文書、「移住者へのキリストの愛」には、御父によるこの命令を前提としながら、次のように記されています。

「移住者を思うとき、教会は『私が旅をしていたときに宿を貸してくれた』と、語られたキリストをいつも観想します。したがって、移住の問題は、信じる者の愛と信仰へのチャレンジでもあります」(12)

その上で同文書は、「今日の移住現象は重要な『時のしるし』であり、また、人類を刷新し、平和の福音を宣言する私たちの働きのうちに見いだされ、役立てられる者とするためのチャレンジです」(14)と記し、難民、移住、移動者への関わりは、単に教会の慈善事業なのではなく、信仰を生きる上で欠かすことのできない回心への呼びかけであることを明確にします。

教皇フランシスコは、今年の世界難民移住移動者の日にあたってメッセージを発表され、テーマを「さらに広がる“私たち”へと向かって」とされました。

教皇様は、「私たち」という言葉を、「あの人たち」という言葉への対比として使っておられます。つまり、難民や移住者の抱える困難は、自分とは関係のない他人である「あの人たち」の問題なのではなく、「私たち」の問題であることに思いを馳せ、「私たち」と言う言葉の包摂する範囲を、自分の知り合いの者たちに限定するのではなく、さらに広げて、困難に直面するすべての人へと広げていくように、と呼びかけておられます。

同時に教皇様は、この手を差し伸べる業を、単なる慈善の業とは見なしておられません。教皇庁の人間開発促進の部署には難民セクションがあり、その難民セクションの関係者は直接、教皇様に報告をするように、と定められております。その関係者によると、難民や移住者の課題への取り組みについて報告をするとき、教皇様は会話の中でしばしば、「私の家は、あなたの家だ」というフレーズを口にされると言います。

「私の家は、あなたの家」という言葉は、「困難を抱える人を私のところへ迎え入れる優しさ」に満ちあふれた言葉として響きます。しかしそれは単に、自らの家に困窮する人を迎え入れなさい、という慈善行為の勧めに留まってはいません。

教皇様は、「私の家」という言葉で、「自分自身が、その家における責任をもった居住者であること」を表明するとともに、迎え入れた「あなた」も、「私」と同じように「この家」の責任ある居住者となることを意味しておられます。つまり、援助の手を差し伸べ、迎え入れた人は、単なる「私の家のゲストで」はない、ということであります。迎え入れた人は、その時から、私と同じ責任ある居住者、であることを意味します。もちろん教皇様は「私の家」という言葉で、「国家」を意味しておられます。

教皇様はメッセージで、「神が望まれたその“私たち”は、崩壊してばらばらになり、傷つき損なわれています」と指摘されます。その上で教皇様は、「内向きで攻撃的なナショナリズムや過激な個人主義は、世の中でも教会内でも、その“私たち”をばらばらにしたり分裂させたりします。そして最も大きな犠牲を払わされるのは、すぐに“あの人たち”となりうる人たち、すなわち、『外国人、移住者、疎外された人、つまり実存的な周縁部に住まう人たち』です」と記され、共に「共通の家」に住まう兄弟姉妹とともに、「家族」を修復するように、と呼びかけておられます。

民数記は、モーセ以外の70人の長老にも、聖霊の導きがある場合に限って、預言を語る力が授けられたことを記します。「モーセにだけ与えられていた特権」を奪われた、という思いが、モーセに長年仕えるヨシュアにはあったのでしょう。「やめさせるべきです」と進言するヨシュアに対して、モーセは、「主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になれば良いと切望しているのだ」と述べて、「大切なのは、神の民すべてが与えられた役割を忠実に果たして、互いに支え合いながら共に共同体を育てていくことだ」と指摘します。

使徒ヤコブは、「この世の富は、永遠の命を保証するものではないこと」を明確に指摘し、さらには「その富を蓄えるために犠牲となった多くの人の苦しみが、終わりの日には裁きとなって自分に返ってくること」を指摘します。

さらに使徒ヤコブは、「畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています」と記し、弱い立場に置かれた人たちへの正義にそむく行いをとがめています。まさしく多くの移住者が、とりわけ法的に弱い立場にある人たちが、人間の尊厳をないがしろにされ、排除される事例は、現代社会でもしばしば聞かれます。

マルコ福音は、「神の国に入る者となるためには、中途半端ではなく、徹底的に福音に生きる必要があること」を、イエスが厳しい口調で語っている様を記します。同時にイエスは、その厳しさは「自分自身に向かう厳しさであって、他人を裁く厳しさではないこと」を明確にします。弟子たちは、自分たちの仲間でないものを裁こうとしますが、イエスは「私に逆らわない者は、私の味方」と述べ、「弱い立場にいる人への慈しみに、徹底的に生きることこそが、救いにとって第一に必要であること」を示します。

賜物である命をいただいた私たちは、国籍や文化の違いを乗り越えて、神から愛される兄弟姉妹として生かされています。私たちがするべき事は、その命がすべて一つの体につながれ、永遠の命を受けるように、慈しみの手を差し伸べて助け合うことであります。異なる存在を排除して、命を危機に直面させることではありません。

福音に徹底的に従おうとする私たちは、社会にあって弱い立場にいる多くの人たちへの慈しみに徹底的に生きる者でありたいと思います。助けを求める人たちに対して、「あの人たち」と見なして背を向けるのではなく、同じ命を賜物として与えられている「私たち」として、創造主である神の懐にともに抱かれ、互いに支え合い助け合いながら、それぞれの役割を果たしていく者となりましょう。

(編集「カトリック・あい」=聖書の引用は、原文に近く、現代日本語としても適切な「聖書協会・共同訳」にしてあります)

2021年9月26日