・教皇説教師の待降節黙想会講話⓵「私たちが神の子であることは」

Cardinal Raniero CantalamessaCardinal Raniero Cantalamessa

(2021.12.3 Vatican News  Tiziana Campisi)

 3日、バチカンで教皇フランシスコなど教皇庁幹部が参加する待降節黙想会の第一回が開かれ、教皇付き説教者のカンタラメッサ枢機卿が黙想指導の講話を行なった。

 黙想会講話が3回行われる予定だが、「教会生活、キリスト教生活の内面の素晴らしさ、そしてその素晴らしさを生かすキリスト教徒の責任を改めて認識すること」の焦点を当てることを目指している。

*教会が、一般社会と何ら変わらない場になっている

 今回の講話で枢機卿はまず、教会が「醜聞、論争、人と人のぶつかり合い、うわさ話、あるいはせいぜいのところが社会的分野での善意ー要するに、歴史の中で教会以外で起きているすべてのことと、何ら変わることにない場」となり、あたかもキリストがおられないようにふるまう危険に直面している、と警告。「教会に宿っている神秘を見失わないために、教会の内側から光を当てて、見ること」を勧めた。

 そのうえで、枢機卿はこの日の講話のテーマとして、聖パウロのガラテヤの信徒への手紙、「時が満ちると、神は、その御子を…お遣わしになりました」で始まる箇所(4章4-7節)を挙げた。

*父である神

 そして、この言葉は、キリスト教の神秘全体を要約したもの、「あなたがたが子であるゆえに、神は…御子の霊を、私たちの心に送ってくださったのです。ですから、あなたは…子です。子であれば、神による相続人でもあるのです」とパウロは語っており、「父である神が、このイエスについてのパウロの説教の中心にある」と強調。

 「旧約聖書においてさえ、神が『父』とみられているとすれば、福音の新しさは、神はイスラエルの民の父であるだけでなく、義人であろうと罪人であろうと、人類すべての父である、としていること」と枢機卿は述べ、「神は、相手が一人だけであるかのように、全人類1人ひとりを心に掛けておられる。一人ひとりが求めていることを、考えていることを、頭の髪の毛の一本一本まで、知っておられます」。

 「要するに、イエスが教えておられるのは、『神は、創造され、ご自分の民を世話する限りにおいて、比喩的、道義的な意味で【父】であるだけでなく、第一の、至高の真の、血のつながりのある父、時が始まる前にもうけた真の、血のつながりのある子の父だ』ということ。そして、私たち人も、イエスのおかげで、単なる比喩的ではない、真の意味での、神の子となることができるのです」と述べた。

 また枢機卿は、「キリストの死と復活の過ぎ越しの神秘、つまり、洗礼でキリストが私たちに働き、与えられた贖罪のおかげで、聖パウロが語っているように、私たちはキリストにおいて子となった。キリストが多くの兄弟の中で最初に生まれた者となられたからです」と語った。

*私たちと神の関係を”養子縁組”で例えるのは不十分

 続けて枢機卿は、「聖パウロは、養子縁組の例えを使って、神がキリストを通して人との間に打ち立てた絆を、私たちに理解させようとしますが、そのような比喩は、神秘の豊かさを表現するのに十分ではありません」と述べた。

 「なぜなら、人間的な養子縁組はそれ自体が法律で定義されたものであり、養子縁組された子が、血液やDNAを共有せずに、自分を養子にする人の名、市民権、住居を引き継ぐということであるとすれば、私たちにとって、神との関係はそのようなものではないからです」とし、「神は、私たちに名だけでなく、ご自分の命、DNAであるご自分の霊を引き継がれる。洗礼を通して、神の命が、私たちの中に注がれるのです」と言明。

 続けて、「聖ヨハネは、真の、ふさわしい世代について、神からの誕生について語ります。私たちはなぜ、聖霊から生まれたのか、私たちはなぜ、上から生まれたのか」。「私にとって、教皇が今年9月8日の一般謁見での講話で語られたことは重要です。教皇はこう言われました-『私たちキリスト教徒は、神の子であるという現実を当然のことと考えていますが、私たちは、神の子となった洗礼を受けた時のことを、いつも感謝を込めて思い起こすのがいいでしょう。神からいただいた素晴らしい贈り物を強く認識しながら生きるために』と」。そして、教皇の言葉を思い起こしつつ、次のように語った。

 「注意してください。私たちには、致命的な危険がある。それは、『宇宙の創造主、全能、永遠の、命の与え主である神』の子に他ならないことを含めて、私たちの信仰がもつ最も崇高な賜物を、当然のことと見なすことです。聖ヨハネパウロ2世は、亡くなる直前にお書きになった聖体に関する書簡の中で、キリスト教徒が再発見すべき「聖体の驚き」について語っておられますが、同じことー信仰から驚きに移行することーは、神の子であることついても言えます」。

 

*信仰の驚き

 さらに、洗礼の秘跡について、「神の分かち合い、あるいは洗礼の恵みは、多様で非常に豊かですー神の子とされ、罪が赦され、聖霊が宿り、信仰、希望、慈愛という聖書に基づく美徳が魂に注ぎこまれます。人の貢献は、本質的に信仰で成り立っていますが、神の賜物を前にした、驚きで目を見張る、畏怖が必要です。神の賜物は、信じられたいくつもの真理ー十字架の真理の苦さを含む真理ーの味をゆっくりと自分のものにすること。つまり、『信じられた真理』は『活きた現実』にならねばならないのです」と述べた。

 そして、信仰から、私たちが神の子であることを知るという驚きへの飛躍は、どうすればできるでしょうか。この問いへの最初の答えはこれですー神の言葉。(同じように欠かすことのできない手段に聖霊-がありますが、次の瞑想のためにとっておきます)。教皇・聖グレゴリオは、神の言葉を、火打ち石、つまり、火花を起こし、灯火に火をつけるために使われた石、に例えています。火打ち石で行うことを神の言葉で行う必要がある、と言っています。火打石を火花が出るまで繰り返し叩くように、神の言葉をじっくりと味わい、繰り返し、大きな声を出しても繰り返す、のです」と強調した。

 

*人間愛:私たち皆が兄弟姉妹

 枢機卿はまた、私たちが神の子であること、キリスト教徒としての尊厳をしっかりと認識できるように祈ることを、人々に勧めた。「そうすることは、神の息子、娘である他の人々の尊厳と、全人類に対する神の父性を認識することにも、つながります」と述べ、「私たちキリスト教徒にとって、人間愛は、神がすべて者の父であり、私たち皆が神の息子、娘であり、皆が兄弟姉妹であるということの、究極的な元になるもの。これ以上の強い絆はあり得ない。そして私たちキリスト教徒にとって、普遍的な兄弟愛を促進すること以上に、差し迫った課題はあり得ません」と語った。

 最後に枢機卿は、「普遍的な兄弟愛を養うことはまた、私たちの兄弟との対立に神を引き込ないようにすることを意味します。自分に正しく相手に悪いことを望まず、互いに慈しみを持って接すること。それが、聖霊の命を、あらゆる形の共同生活を生きるために欠かすことのできないことです。家族のため、すべての人、教皇庁を含むす宗教的な共同体のために」と語り、「聖書が、私たちが神の子であることの真の意味を発見するのを助けてくれる」ことへの希望を述べることで講話を締めくくった。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

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2021年12月13日