・「人間の尊厳をないがしろにする行為は神の掟に反する」-菊地大司教「性虐待被害者のための祈りと償いの日」に

2024年3月 2日 (土)週刊大司教第158回:四旬節第三主日B

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 四旬節も第三主日となりました。

 教皇様の呼びかけに従って、各国の司教協議会は、「性虐待被害者のための祈りと償いの日」を定めて、被害を受けられた方々に謝罪し、歩みを共にする祈りの日を設けています。日本では四旬節第二金曜日をその日に定めており、今年は3月1日の金曜日です。また金曜日だけでなく、その次の日曜日、すなわち四旬節第三主日には、教皇様の意向に合わせて祈ることを勧めています。

 四旬節第三主日は、教皇様のこの意向を持って、私も東京カテドラルでのミサを司式させていただいています。

 以下、2日午後6時配信の四旬節第三主日のメッセージ原稿です。

【四旬節第三主日B 2024年3月3日】

 「苦痛と無力感を伴う根深い傷を、ほかでもなく被害者に、しかし、そればかりか、家族と共同体全体に負わせる犯罪です。起きてしまったことに鑑みれば、謝罪と、与えた被害を償う努力が十分になることなど決してありません… このような事態が二度と繰り返されないようにするだけでなく、その隠蔽や存続の余地を与えない文化を作り出す努力をするほかありません」

 教皇フランシスコの言葉です。2018年に発表された「神の民にあてた手紙」に、このように記されていました。この言葉を、日本の教会も共有し、心に刻みます。

 教会は、「神との親密な交わりと全人類一致のしるし、道具」(『教会憲章』1項)となるよう呼ばれた召命を受け、その実現のために挑戦し続ける道を共に歩んでいます。

 残念ながら、その教会がその旅を続ける現代社会は、命に対する暴力が荒れ狂う世界であって、その現実の中で、賜物である命を最優先に守り抜き、人間の尊厳を尊重し、さらに全体として一致することは容易なことではありません。しかしながら教会は、その厳しい道を挑戦しながら歩むことをやめることはできません。なぜならば、教会にとって、「イエスを宣べ伝える」とは、「命を宣べ伝えること」にほかならないからです(ヨハネパウロ2世「いのちの福音」80項)。

 その教会にあって、聖職者や霊的な指導者が命に対する暴力を働き、人間の尊厳をないがしろにする行為を働いた事例が存在しています。共同体の一致を破壊し、「性虐待」という人間の尊厳を辱め蹂躙する行為によって、多くの方を深く傷つけた聖職者や霊的な指導者が存在します。長い時間を経て、ようやくその心の傷や苦しみを吐露された方々もおられます。なかには、あたかも被害を受けられた方に責任があるかのような言動で、さらなる被害の拡大を生じた事例もしばしば見受けられます。人間の尊厳を貶めるこういった聖職者の行為を心から謝罪します。責任は加害者にあるのは当然です。

 教皇フランシスコの指示によって、日本の教会では四旬節第二金曜日を「性虐待被害者のための祈りと償いの日」と定めており、今年は3月1日がその日にあたります。東京教区では、今日の主日にも祈りを捧げています。

 出エジプト記はモーセに与えられた神の十戒を記していましたが、教皇ヨハネパウロ二世の回勅「命の福音」にはこう記されています。

 「『殺してはならない』という掟は、断固とした否定の形式をとります。これは決して越えることのできない極限を示します。しかし、この掟ては暗黙のうちに、命に対して絶対的な敬意を払うべき積極的な態度を助長します。命を守り育てる方向へ、また、与え、受け、奉仕する愛の道に沿って前進する方向へと導くのです」(54項)

 人間の尊厳をないがしろにしたり、隣人愛に基づかない行動をとることは、神の掟に反することでもあります。命を賜物として大切にしなければならないと説く私たちは、その尊厳を命の始めから終わりまで守り抜き、尊重し、育んでいく道を歩みたいと思います。

(編集「カトリック・あい」=表記を原則として、社会一般に使われている当用漢字に直しました。筆者の真意ができる限り伝わるように、との思いからです。中でも「命」という漢字は、「天に願い、いただくもの」という意味を込めた象形文字がもとになっており、その活字自体に深い意味が込められています。〝教会用語”になっているような「命」「私」などのひらがな表記は、新旧約聖書の「新共同訳」に倣ったのかもしれませんが、菊地大司教が副理事長を務めておられる「日本聖書協会」がカトリック、プロテスタントの専門家が協力して10年かけて原点から翻訳し、現代の日本語を基本にまとめあげた「聖書協会・共同訳」では、これらは漢字表記になっています。ご覧ください)

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2024年3月2日