・「私たちを包み込む神の愛を伝えるのが私たちの務め」四旬節第4主日の菊地大司教

2024年3月 9日 (土) 週刊大司教第159回:四旬節第四主日B

 四旬節も後半です。第四主日となりました。

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 3月7日午後3時から3月8日午後3時まで、潮見のカトリック中央協議会で、日本におけるシノドスの集いを開催いたしました。これは昨年10月に開催されたシノドスの第一会期のまとめ文書を受けて、第二会期である今年の10月に向けて、シノドス事務局から各国の司教団に、それぞれの国でのシノドスの歩みについての報告が求められているために、日本におけるシノドスへの取り組みについて、バチカンのシノドス事務局へ5月頭までに提出する回答書作成の一環として開催されました。

 とはいえ、今回のシノドスは、これまでのシノドスのように、何か議題が定められていて、それについて各国の草の根の意見を聴取して、それをまとめて提出するということは、求められていません。いま求められているのは、実際にシノドスの歩みの中心にある霊における会話を実践し、それを少しでも多くの人に体験していただき、その上で、教会全体の識別の方法として定着させる試みをすることです。

 ですので、第一会期のまとめ文書に記されている課題について小教区や団体で話し合って、その結果を集約して、日本の報告書を作るということはしていません。まとめ文書に記されている様々な課題は、今後、教会の様々なレベルで霊における会話を継続して、聖霊の導きを識別するための課題であって、今年10月の第二会期で結論を出すための課題ではありません。

 ですから、教区や小教区や様々な団体のレベルで、第一会期のまとめ文書の提示する課題などを題材として霊における会話を実践していただき、その体験を分かち合っていただくのは歓迎です。

 そういった体験の報告がある場合、一ページ程度の文書にまとめて、司教協議会のシノドス担当までご送付ください。第二会期が始まる10月直前までにお寄せいただくと、第二会期で生かすことができるかと思います。このような内容は、今回参加していただいた各教区の方々に、最後にお伝えしました。

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 改めて申し上げますが、現在は、シノドス第一会期のまとめ文書に記された課題への「回答」を求めてはおりません。お願いしているのは、今回日本におけるシノドスの集い参加者を通じて、シノドスの歩み、霊における会話を、各地で実践していただくことです。

 今回の集いには、日本のすべての司教、そして15教区の司祭、奉献生活者、信徒から一名ずつに参加していただき、68名ほどの参加者を6のグループに分けて、実際に霊における会話を二回、体験していただきました。それぞれのプロセスの前には30分ほどのお話と、30分ほどの沈黙の祈りの時間が設けられ、その後、霊における会話に1時間半ほど、そしてそれぞれのグループの発表に30分ほどを要しました。

 今回の集いに限らず、現在、第二会期に向けてシノドスの歩みの実践を深めるために、シノドス特別チームが編成されています。チームメンバーのお働きに感謝します。また参加してくださった皆さまに感謝すると共に、各地でシノドスの歩みを深めていってくださることを期待しています。

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第159回、四旬節第四主日メッセージ原稿です。

【四旬節第四主日B 2024年3月10日】

 ヨハネ福音は、ファリサイ派の議員であり指導者でもあったニコデモと、イエスとの対話を記しています。神がイエスと共におられることを見抜いたニコデモに対して、イエスは、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と語り、永遠の命についての対話を始めます。

 その対話の中で、ご自分の受難、死、復活が救いをもたらすことを告げたイエスのことばが、本日の福音に選ばれています。

 「ひとり子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」

 永遠の命を得るために必要なことはイエスを信じることであって、救いは神からの恵みとして与えられることが強調されています。

 教皇フランシスコは今年の四旬節メッセージに、「出エジプト物語の、とても重要な細部を取り上げたいと思います。神が、見ておられ、心動かされ、解放してくださるのであって、イスラエルの求めによるのではないということです」と記しています。すなわち救いは徹頭徹尾、神からの恵みとして与えられるのであって、何かの報酬でもなければ人類の求めに応じたものでもないこと、つまり主導権は徹底的に神にあることを明確にします。それに応えようとするのかどうか。私たちの決断が求められています。

 パウロもエフェソの教会への手紙で、「あなた方は、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神のたまものです」と記して、わたしたちの救いは、神からの一方的な恵みによっていることを明確にします。

 ヨハネは「神は、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。ひとり子を信じるものが一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と記し、十字架におけるイエスの受難と死が、神の愛に基づく徹底的な自己譲与の業であることを明確にします。十字架は神ご自身による、人類に対する愛の目に見える証しの具体的な業であります。私たちはその徹底的な神の愛に包まれて、生かされていることを心に留めたいと思います。

福 音はイエスが、「真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために」と語る言葉を記します。すなわち、神の豊かな愛に包まれて救いへと導かれている私たちには、その愛を一人でも多くの人に明らかにする務めがあります。一人でも多くの人がその愛に包まれて、共に光を証しするものとなるように、私たちは愛の実践を通じた具体的な証しの業に務めなければなりません。

 そもそも私たちは、自分の性格が優しいからとか、そういった個人的な理由で愛の業に励むのではありません。私たちは、神の愛に包まれて生かされているからこそ、その恵みとして与えられている愛を実践することで、一人でも多くの人に証しをしたいのです。

 3月11日は東日本大震災が発生して13年の追悼の日です。改めて亡くなられた多くの方々の永遠の安息を祈ります。これからも、東北各地の皆様と歩みを共にしながら、一人でも多くの人が、神の愛に包まれていることを実感できるよう、証しの業を続けたいと思います。

 またこの節目の機会に、この一月の能登半島における災害で亡くなられた方々も心に留め、復興のための歩みを共にする決意を新たにしたいと思います。

 神の愛はすでに私たちを包み込んでいます。それを伝えるのは私たちの務めです。

(編集「カトリック・あい」)

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2024年3月9日