年間第13主日です。
6月29日は聖ペトロ聖パウロの祝日でしたが、毎年、この日に一番近い6月最後の月曜日には、東京カテドラルにおいて司祭の月例集会の代わりに両聖人の記念日のミサが捧げられてきました。これは、1938年に司教叙階された土井枢機卿様から、白柳枢機卿様、そして2017年に引退された岡田大司教様に至るまで、実に80年近くも、東京の三代の教区司教の霊名が「ペトロ」であったことから、自然と「大司教の霊名のお祝い」になっていたようです。ところが私の霊名が「タルチシオ」で、「ペトロ」ではなかったものですから、この方程式が崩壊しました。
そこにコロナもありましたので、いろいろと考え直し、この日は「聖職者の集い」として、「主に叙階の節目の年を記念している司祭のお祝いのミサ」とすることにしました。今年も、司祭叙階ダイアモンド(60年)、金祝(50年)、銀祝(25年)をお祝いする東京で働いておられる司祭をお招きし、教皇大使も参加する中、感謝ミサを捧げました。今年お祝いを迎えられた方々については、次の教区ニュースをご覧ください。
その次の火曜日に私はマニラへ飛び、金曜日まで、マニラに本拠地を置く「ラジオ・ベリタス・アジア」の会議に参加してきました。現在私が事務局長を務めるFABC(アジア司教協議会連盟)が設置し、フィリピンの司教団に運営を委託している大切な事業です。かつては特に中国に向けて短波の放送をすることに一番の力点がありましたが、時代が変わり、インターネットです。数年前に短波の事業は終了し、インターネットを通じた放送へと大きく舵を切りました。
二日間の会議の終わり、29日の夕方6時から、マニラのカテドラルで、教皇様のための日のミサに参加させていただきました。
毎年、聖ペトロ聖パウロの祝日に、教皇様のためにミサを捧げられており、この日は教皇大使のチャールズ・ブラウン大司教が司式、マニラ大司教のアドヴィンクラ枢機卿様が臨席の形で、ミサが捧げられました。こちらのリンクに、当日のビデオがあります。ミサは英語です。音楽がすごかった。
以下、1日午後6時配信の年間第13主日のメッセージ原稿です。
【年間第13主日A 2023年7月2日】
マタイ福音は、「自分の十字架を担って私に従わない者は、私にふさわしくない」という主イエスの言葉を記しています。「自分の十字架」とは、いったい、何でしょうか。苦行を耐え忍ぶことでしょうか。それとも、人生の諸々の苦難を背負ってしまうことでしょうか。
私たちにとって、十字架とはいったい何でしょう。マタイ福音に記されたこの言葉は、「主にふさわしいものとなるため」の条件である十字架です。それは前向きな行動を促す言葉です。
パウロはローマの教会への手紙に、「私たちは洗礼によってキリストとともに葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられように、私たちも。新しい命に生きるためなのです」と記しています。主御自身の死と復活をもたらしたその中心には「十字架」が存在します。すなわち、私たちは「十字架」を通して主の死にあずかり、主と共に、新しい命を慈しみに生きるものとされます。十字架は、すべての人を救いへと招こうとされる、主の愛といつくしみを具体的にあかしする、栄光と希望を指し示す存在です。
コリントの信徒への第一の手紙、一章十七節に、パウロはこう記します。
「キリストが私を遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです」
もちろん、救いのために洗礼が必要であることは否定できませんが、「その前提としてまず大切なことがある。それはイエス・キリストの福音を告げることなのだ」と、パウロは宣言しています。
加えてパウロは、「しかも」と続け「福音を言葉の知恵に頼って告げていたのでは、キリストの十字架がむなしいものとなる」と言うのです。ここで初めて、パウロが語る「十字架」の意が明らかになります。神ご自身による、具体的で目に見える愛の証しが「十字架」です。十字架は、人間の救いのために、神ご自身がその愛と慈しみをもって具体的に行動した「愛の証し」そのものです。
十字架は、重荷や苦しみではなく、積極的な愛の行動の象徴です。私たちが神からよし、とされるのは、神の愛と慈しみをいただいて、自らそれを積極的に証しする行動を選択したときです。十字架を証しするものとなりましょう。愛と慈しみを具体的な行動で証しし、すべての人に神の栄光と希望を伝えていきましょう。