♰「回心の一つ一つが新たな未来への道を教えてくれる」-四旬節の最後の主日に

(2019.4.7 VaticanNews Christopher Wells)

 四旬節第五主日の7日、教皇フランシスコは正午の祈りの中で、この日のミサで朗読されたヨハネ福音書の箇所-姦通の現場を捕らえられた女性へのイエスの慈しみ深い対応-(8章1-11節参照)を取り上げられた。

 教皇は、この箇所は二つの対立する姿勢を示しており、それは「律法学者たちとファリサイ派の人々のそれと、イエスのそれです」とされ、前者は姦通の現場で捕まえた女性を裁こうとした。それはまさに「彼らが、律法とその忠実な適用の守護者であると自認していたからです」。しかし、イエスは彼女をあえて助けようとしたが、「それは、赦すことで取り戻し、和解することで新たにされる神の慈しみを具体的にあらわされているからです」と説明された。

 そして、福音書のこの箇所は、次のことを明確に語っているーそれは、律法学者たちとファリサイ派の人々が女性をイエスの所に連れてきたのは、まさに彼を試して、訴える口実を得ることが狙いだった、ということだ。もし、イエスが「この女性は石打ちの刑に処すべきでない」と言えば、律法に「不従順な態度をとった」として訴えることができ、「石打ちの刑に処すべきだ」と言えば、ユダヤ人に死刑執行を認めないローマ総督に訴えることができる。

 教皇は「イエスに議論を仕掛けてきた者たちは偏狭な律法主義に捕らわれていました… そして、神の子を自分たちの見方と罪の宣告に囲い込もうとしました」とされ、だが、イエスがこの世にお生まれになったのは「裁きをし、罪の宣告をするためではなく、人々を救い、新たな命を与える」ことだった、と語られた。イエスが「あなた方の中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言われた時、彼らの良心に訴え、自分たちも罪人だということを思い起こさせたのだ。

 「この場面は、私たち一人一人にも、自分は罪人だということを改めて思い起こすように求めているのです」と語り、私たちに「誹謗と断罪の石、時たま他人に投げつける陰口の石、を手放すように」と求められ、さらに、私たちがそのような石を人に投げる時、聖書に登場する律法学者やファリサイ派の人のようになるのだ、と警告された。

 教皇はまた、彼女を石打ちにしようとした人々がすっかりいなくなった後で、その女性とイエスー「みじめな女性と慈しみにあふれた方」だけが残った、と、聖アウグスティヌスの言葉を引用し、「神は『罪人の死をお望みではなく、回心して生きることを望まれる』からです」と強調された。

 ただ、教皇は、イエスは彼女を去らせる時に「素晴らしい言葉を彼女にかけています-「『行きなさい。これからは、もう罪を犯してはいけない』」とされたうえで、イエスは、その慈しみにあふれた振る舞いによって、女性に「新たな道」をお開きになった-それは、これからは罪を犯さないという約束を守ることを彼女に求める道、と指摘され、「これは、私たち全員に適用される勧めです… 四旬節に当たって、私たちは、自分が罪人だと認めるように、そして神に赦しをお願いするように、求められています」と語られた。

 最後に、この赦しは、私たちが自分の物語を新たに始めるのを助けてくれる、それは「回心の一つ一つが新たな未来、新たな人生、素晴らしい人生、罪から解放された人生、心豊かな人生への道を教えてくれるからです」と、説教を締めくくられた。

 

 

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2019年4月8日