◎教皇連続講話「主の祈り」⑫「私たちは皆、赦しが必要な罪人です」

 (2019.4.10 バチカン放送)

 教皇フランシスコは10日、バチカンでの水曜恒例の一般謁見で、「主の祈り」のカテケーシス(教会の教えの解説)を続けられ、今回は「私たちの罪をお赦しください。私たちも人を赦します」の箇所を考察された。

 「主の祈り」は、「私たちの日ごとの糧を今日も お与えください」と願った後、自分たちと他者との関係に入る。教皇は「私たちの罪をお赦しください。私たちも人を赦します」という祈りは、「私たちが日ごとのパンを必要とするように、赦しをも毎日必要としていることを表しています」とされたうえで、「何よりも神に自分の罪を許していただくことを願う。これがキリスト者の祈りの一番の真理なのです」と強調された。

 「たとえ完璧な人や、決して道を踏み外さない聖人であっても、常に御父の子として、すべてを神に負っています。キリスト者の一番危険な態度は『おごり』です」とされ、さらに「罪には、明らかに目に見える罪もあれば、自分では気づかないような偽善的な罪もある。おごった心は、宗教的生活をおくる人をもむしばみます。この罪は、兄弟愛を分裂させ、自分を『他人より優れた、神に近い者』と思わせてしまいます」と注意される一方、「私たちは神の御前で皆、罪人です」強調。ヨハネの第一の手紙の「自分に罪が無いと言うなら、自らを欺いており、真理は私たちの内にありません」(1章8節)という言葉を引用された。

 そして、「私たちは、命、父と母、友情、自然など、自分の人生に多くを与えられた、神に負う存在であり、人生とは『一つの恵み、神が何もないところから引き出された奇跡』であることを思い出さなくてはなりません」と説かれ、「私たちが神に負う者であるのは、自分の力だけでは、愛することもできないからです。人は自分の光だけで輝くことができず、神の光、恵みを受けて輝きます。あなたが愛することができるのは、あなたのそばにいる『誰か』が、あなたを愛に目覚めさせたからです」「私たちは愛されたから、愛し、赦されたから、赦すのです。太陽の光に照らされたことのない人がいるなら、その人は冬の地面のように凍ってしまうでしょう」と話された。

 最後に「神が私たちを愛されたようには、誰も神を愛することはできません」「この不均衡を理解するには、あなたを十字架の前に置くことで十分です。イエスは私たちを愛され、私たちを第一に愛されます」と述べられ、「イエスの十字架を前に、私たちを最初に愛され、常に愛される神の神秘を観想するように」と促された。

(編集「カトリック・あい」)

 

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2019年4月11日